忍者ブログ
選択したカテゴリの記事一覧

奥州藤原氏と平泉 1

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一

かつて、奥州には黄金と螺鈿(らでん)に彩られた華麗な仏教都市があった。その名を平泉と云う。奥州藤原4代の統治の下、繁栄を極め、最盛期には人口10万人を数えたとされ、当時、京都と並ぶ日本最大の都市であった。文化面においても京都に勝るとも劣らないものがあり、公家ですら、遠いみちのくの都に思いを馳せるほどであった。この平泉繁栄の礎を築いたのが、奥州藤原氏初代、清衡である。清衡は、永保3年(1083年)から始まる奥州の大乱、後三年の役を経て勢力を伸ばし、やがて、津軽の外ヶ浜から白河関に至るまでの地に、広大な独立王国を築き上げた。更に清衡は北方の豊かな産物を朝廷に送り届けて、その地位を認めさせ、名実ともに奥州の統治者であることを内外に知らしめた。清衡は朝廷に協調しつつも、その介入を許さない体制を取った。


清衡は、最北の外ヶ浜から最南の白河に至る、広大な領域を統治するにあたって、その中間に位置する平泉を本拠と定めた。そして、清衡はここに、京にも負けぬ一大都市と、中尊寺を始めとする大寺院を建設する事を構想する。清衡は7歳の時に前九年の役(1062年)が起こって、父の藤原経清を失い、さらに後三年の役(1083~1088年)によって妻子を失い、その後、異父弟と血塗られた戦いを繰り広げた末に奥羽を統一している。中尊寺の建立には、戦乱で死んでいった敵味方、多くの人々が極楽浄土に導かれるようにとの、そして、奥羽と国家全体がいつまでも安寧であってほしいとの、清衡の切なる願いが込められていた。


興和元年(1099年)より平泉の町造りが始まり、大治元年(1126年)には、その中心となる中尊寺や金色堂などの大伽藍が作り上げられていった。建物には漆が厚く塗りこめられ、さらにその上に金箔が押されていた。菩薩像は金粉、銀粉で描かれ、御堂は瑠璃玉と螺鈿(らでん)が散りばめられていた。この螺鈿に用いられる夜光貝は、琉球以南でないと取れない物である。これらは陽光に照らされると、光り輝いて見えたと云う。これを見た人々は平泉の栄華と、藤原氏の力に瞠目したであろう。中尊寺建立の目的は鎮魂だけでなく、京都の文化を取り入れ、それを東北に根付かせる事、そして、奥州の王者としての清衡の実力を見せ付ける為のものでもあった。


この藤原氏の財力の源となっていたのが、当時の奥州で豊富に算出していた砂金と、海外貿易による利益である。藤原氏は、蝦夷地や大陸の沿海州と交易を行っており、それを通じて北方の豊かな産物を手にしていた。また、博多を通じて中国とも交易を行っており、その砂金をもって、白磁や経典などを取り入れていた。奥州の豊かな産金については、中国の史書にも書き残されており、それがやがてマルコ・ポーロの耳にも入って、黄金の国ジパングの伝説を生んだと云われている。奥州産の砂金や駿馬は京都にも運び込まれ、その代価として京都の様々な文物が平泉へと運ばれていった。
奥州産の駿馬は、京都の公家と武家の羨望の的であったと云われている。奥州から運ばれる様々な物品が京都の繁栄を支え、また、その京都から取り入れられる文物が平泉繁栄の基礎となっていた。


大治3年(1128年)7月13日、藤原清衡は73歳でこの世を去り、その跡を基衝が継ぐ。基衝の業績で特筆されるのが、中尊寺を越える大寺院、毛越寺を建てた事である。基衝は、毛越寺の本尊とする仏像を迎えるにあたって、京都の仏師、運慶にその制作を依頼し、そのための礼として、金百両、鷲羽百枚、アザラシの皮60枚、駿馬50疋、白布3千端、安達の絹千疋、その他、様々な物品を船三艘に積んで送り届けたされる。その高価な支度品の数々を見て運慶は仰天し、丹精を込めて見事な薬師如来像を作り上げた。その出来栄えは素晴らしく、それを見た後鳥羽上皇が、洛外への持ち出しを禁じようとしたほどであった。基衝は後鳥羽上皇の妨害をなんとかかわして、無事、仏像を毛越寺に迎え入れたが、その落成を待たずに病に倒れた。


保元2年(1157年)頃、基衝は55歳前後で死去し、その跡を秀衝が継いだ。そして、秀衝は未完成だった毛越寺を完成させて、亡き父に捧げた。秀衝はそれだけでなく京の平等院鳳凰堂を模し、それを超えるとされた無量光院と、政庁である平泉館(柳乃御所)を作り上げた。そして、秀衝自身の居館として、香木の伽羅の木を用いて建てられたとされる伽羅御所も建てられ、壮麗極まる平泉の町並みはここに完成を見た。だが、平和を謳歌する平泉にも、ひたひたと戦乱の足音が近づいていた。その頃、中央では源氏と平氏が激しく競い合っており、その余波が奥州にまで及んで来たのである。平治2年(1160年)1月3日、源氏の棟梁、源義朝は平清盛に敗れ、逃れる途上、配下の裏切りによって殺された。そして、時代は平家の世となり、承安4年(1174年)、義朝の子で、16歳になっていた源義経が、平家から逃れるように平泉に流れ着く。


秀衝は義経を快く迎え入れ、すぐに藤原氏との関係が深い佐藤基治の娘を娶らせたと云う。この佐藤基治の子息、継信と忠信は後に義経に付き従って、共に平家追討に加わる事になる。治承4年(1180年)、源頼朝が鎌倉にて平氏打倒の兵を挙げると、22歳の若武者となっていた義経は居ても立ってもたってもいられなくなり、兄のもとへ駆けつけんとした。秀衝は反対したが、義経の決意が変わる事がないと知ると、佐藤継信、忠信の兄弟と手勢数百騎を付けて、奥州から送り出した。その後の義経の活躍は、多くの人々が知る通りである。


平氏と源氏が激闘を続けていた時、秀衝は局外中立の立場を取った。平清盛から、頼朝を討つ様、要請された事もあったが秀衝は動かなかった。しかし、関東には幾度となく、奥州から兵が雪崩れ込むとの噂が流れていた。実際に奥州から兵が進む事はなかったが、関東の頼朝にとって、どう動くか分からない藤原氏の動向は不気味であった。そのため、頼朝は平氏追討には弟の義経、範頼を差し向けつつも、自らは鎌倉に留まり続けたのである。源平合戦の最中、奥州と関東は戦火こそ交えなかったものの、潜在的には敵対関係にあった。養和2年(1182年)4月、頼朝は、江ノ島にて秀衝を調伏(呪詛)する儀まで行っている。奥州出身の佐藤兄弟らを擁する義経はこの儀には参加しておらず、さぞかし複雑な思いであったろう。


文治元年(1185年)3月、義経は壇ノ浦にて平家を討ち滅ぼし、常勝将軍として京都に凱旋する。人々からもてはやされ、義経は有頂天であった。そして、義経は捕虜とした平時忠の娘を娶ったり、策謀家、後白河法皇に接近して、その親衛隊長の様な役職に就いてしまう。これは頼朝から見れば、義経が平氏政権の基盤を受け継いで、政治的自立を目指しているように映った。両者の間に不信の芽が生えるのにさほどの時間は要せず、やがてそれは、修復不可能な対立へと発展してゆく。頼朝は、義経の所領を全て取り上げた上、同年10月、京都に義経暗殺団を送り込んだ事から、ついに両者の関係は破綻した。これを受けて義経も覚悟を決め、後白河法皇に迫って頼朝追討の宣旨を出させると、叔父の源行家と共に挙兵を図った。


しかし、所領を失っていた義経には確固たる基盤がなく、従う者はほとんどいなかった。一方の頼朝は自ら大軍を引き連れて、義経征討に向かわんとしていた。追い詰められた義経は船で九州に渡り、そこで再起を図ろうとする。だが、嵐によってそれも叶わず、仕方なく畿内各地を流浪する身となった。同年12月、頼朝は京都に北条時政を送りこみ、後白河上皇に、頼朝追討の宣旨を出した責任を追及すると、上皇はすぐさま変節して義経追討の宣旨を出した。頼朝は上皇の弱味に乗じて、全国に守護、地頭を設置させる権限まで獲得した。この年、義経は栄光と所領の全てを失ったが、その反面、頼朝は政権基盤を大いに強化する事に成功した。


奥州藤原氏と平泉2に続く・・・


PR

敵持(かたきもち)

2010.05.27 - 歴史秘話 其の一

敵持とは、かつて人を殺めたため、討手から逃れている者の事である。逃亡の身である敵持に取って、深編笠、鎖鉢巻、鎖帷子は必需品であった。中には剃髪して僧となって身分を隠したり、虚無僧となって逃亡生活を続ける者もいた。討手に遭遇せず、無事生涯を終えんとしても、その死の間際まで緊張は解けなかった。そして、墓場まで秘密を持って行かねば成らなかった。敵持の身に、真の安息はなかったのである。


元文3年(1738年)に成立した「老死語録」と云う本には、ある敵持の話が載せられている。


徳川幕府に仕える旗本、杉浦内蔵助には親しく付き合っていた2人の老人がいた。1人は小山六左衛門と云う60代の独身の老人で、内蔵助が話相手として屋敷に住まわせていた。もう1人は内海意三と云う70代の独身の町医者で、六左衛門と同じく内蔵助の話相手として、その屋敷によく寝泊りしていた。


屋敷では2人の老人が同じ日に寝泊りする事も多く、おのずと親交が深まっていった。そういったある夜、寝物語に2人の老人はしみじみと語り合った。意三は、六左衛門を信用出来る友人と見込み、これは誰にも話さないでほしいと念を押した上で、自らの身の上話を始めた。「今から50年前、わしが20余りの頃、喧嘩で人を殺めた事がある。その後、殺害した者の子が成人して、仇討ちに江戸に出たと聞いたが、顔も知らないであろうし、名前も変えているので、まず見つかる事はないだろう。しかし、敵持の身を隠して仕官は出来ず、経歴を述べるのも憚られる。そのため、今まで奉公も結婚もしなかったのだ。」


六左衛門は意三が人を殺めた事があると聞いて驚いたが、それでも友人の話に聞き入っていた。しかし、その話は、段々と自分の身の上に重なってくる事に愕然とした。実は、この意三に討たれた者の子こそ、六左衛門に他ならなかったからである。六左衛門が11歳の時、父が討たれ、成人すると敵(かたき)を求めて江戸に出てきた。しかし、敵の行方はようとして掴めず、ただただ、歳月のみが過ぎていった。その探し求めた敵が、実に50年振りに、それも目の前にいたのである。六左衛門は、仇を討つと決した。


そして、後日の早朝、六左衛門は屋敷の門で待ち伏せをした。意三が薬箱持ちと共に門に入ってくると、60代前半の六左衛門は刀を振り上げ、「親の敵!」と名乗りを上げる。すると、70代前半の意三も刀を手に取って、返り討ちの構えを取った。そして、老人同士の斬り合いが始まった。六左衛門は、意三の薬箱持ちに一刀を浴びせられ、傷を負いながらも10歳若い事がものを言ったのか、とうとう意三を討ち果たす事に成功したのである。敵持は、墓場まで秘密を持って行かねばならない。気心の知れた老人であるからと秘密を漏らしたのは、意三の一生の不覚であった。


一方、六左衛門は町奉行所に出頭し、仇討ち成就を報告した。これで、50年間の苦労は報われるはずであった。ところが奉行所では、仇討ちが正当なものであるのかどうか、書類で確かめなければならず、その間、六左衛門は拘束される身となった。六左衛門が仇討ちを申請してから、既に40年余の歳月が流れており、その書類を探し出すのに奉行所は苦労した。六左衛門は老体で、負傷の身でもあったので、この長時間の拘束は実に応えた。ようやく仇討ちが認められ、六左衛門は解放されたものの、破傷風に罹ってしまい、ほどなくして病没してしまった。


この話が、本当にあった出来事なのかは定かではないが、同様の事例は確かにあったのだろう。

東インド貿易船の航海生活

2009.11.07 - 歴史秘話 其の一
17世紀、オランダ東インド会社の貿易往復船の航海概要


オランダから東インドへの長い航海は、地球を半周する以上の距離があった。そのため、東インド貿易にたずさわるオランダ商船は非常に頑丈に作られていた。商船は大中小幾つかの種類があったが、その中でもバタヴィア号級は最大、最高級の船だった。

バタヴィア号級 性能要目

全長は49メートル、全高は約61メートル 排水量は1200トン、マストは3本、甲板は4層、大砲は30門、船体は2重構造。乗員乗客は350名余。新造時には600トンの積載能力があるが、年数を経ると海水が染込んできて、積載能力は落ちてゆく。

建造費は約10万ギルダー。当時は300ギルダーで家族を1年養う事が出来た時代である。建造には莫大な費用がかかっていたが、老朽化して解体されるまでには、建造費用の数倍の利益が得られた。東インドまでの航海は、並の船では壊れてしまう程の圧力を受ける。頑丈な作りのバタヴィア号級といえども、5、6回の往復、10年から20年働くのがせいぜいだった。老朽化すると解体され、住宅用の木材にされた。


東インド貿易船に、女性が乗り込む事は少なかった。若い独身女性を、数百人の若い男達と一緒にすれば、問題が起こるのは必死だったからだ。東インド会社は過去の苦い経験から、女性が東インドに渡る事をあまり許可しなかった。許可されるのは、高級商務員の妻と娘ぐらいだった。
バタヴィア号級では、階級に応じて部屋や船内空間を割り当てられた。メインマストから後方は、高級船員、商務員とその使用人だけが出入りを許される特別な空間だった。船長などの地位の高い乗員、及び上流階級に属する乗客には個室が与えられ、彼らにはある程度のプライバシーが保たれていた。次に、職人、大工、医師、料理人などの中級に属する人々は船尾、あるいは船首楼の比較的ゆったりとした寝台で眠る事が出来た。


しかし、下級に属する水夫や兵士には個室など無かった。乗組員の三分の二を占める彼らは、メインマストから前方の空間に押し込まれ、仕事に必要でない限り船尾に近づく事は許されなかった。兵士らは甲板の最下層に居住したが、天井は低く、新鮮な空気や光も入ってこない薄暗い空間だった。水夫は砲甲板に居住しており、兵士よりはややましな居住空間があった。ここには光も空気も入ってくるが、その反面、赤道付近では耐え難いほどの暑さに悩まされ、冬場は凍えるような寒さに苦しめられた。水夫、兵士達は限られた生活空間をめぐって、隣人とよく喧嘩沙汰となり、盗難も横行していた。


長い航海生活中、人々は退屈を紛らわせるのに苦労した。食事が一番の楽しみで、それを待つ間、乗員達は噂話をしたり、サイコロ賭博などのゲームをして過ごした。また、歌を歌ったり、芝居を披露する事もあった。上級の少数の人は読書をして過ごし、女性は毛糸を編んだり、料理を作ったりした。水夫達は腕相撲をして気晴らしをした。だが、退屈と暑さのせいで、揉め事はしょっちゅう起こった。不敬や酩酊といった軽い罪を犯した者には罰金刑が課せられたが、暴力行為や盗難をした者には重い罪が課せられた。


ナイフによる喧嘩では、当事者はマストに縛りあげられた上で、利き手の手のひらにナイフを突き立てられる事になる。これは自力で外すまで放置された。反乱のような重罪を犯した者は即座に殺されるか、容赦のない厳罰が加えられた。反乱者には大抵、鞭打ち200回の刑が加えられる事になる。この刑を受けると背中は真っ赤にただれ、苦しみ抜いて死ぬ者も多く、助かっても傷跡は一生残った。さらに重い罰はマスト落とし刑で、後ろ手をロープで縛られ、足に重りを付けられた上で何回もマストの端から落とされた。この刑を受けると、急な減速を受けて手や腕の骨はバラバラに砕けた。他にも船底くぐり刑と言うのがあり、これはロープで括り付けられた上で、船の舷側から舷側へと潜らされた。これは溺死する者が絶えなかった。


バタヴィア号級は当時としては最大級の船だったが、便所はたった4つしかなかった。2つは船尾にあって上級の船員や乗客が用いた。残る2つは船首にあって、下級に属する、大部分の乗員がそれを用いた。船首の便所は、雨ざらしの甲板に穴を開けただけのものだった。他人からは丸見えで、乗員はそれに長い列をなして順番を待った。そして、用を足した後、水中まで垂らしてあるロープを引き上げ、それで尻を拭いた。そのロープは勿論、汚物まみれである。悪天候の日には船内で用を足し、それらはビルジ(船底の湾曲部)に溜められた。ビルジの汚水は恐ろしい臭いを放ち、航海中、下甲板から悪臭が消える事はなかった。


航海中は、誰もが日焼けに苦しんだ。また、上級、下級を問わず、全乗員がシラミにたかられた。シラミによって、発疹チフスが発生する事もあった。東インド貿易船の乗員の内、4分の1余りが発疹チフスによって命を落としたと云う。船内にいる生物はシラミだけでなく、ゴキブリやネズミなどもはびこっていた。新造船であっても、これらの生物はいつの間にか潜り込んで、すぐに繁殖した。


長い単調な航海生活を続けていると、中には精神のバランスを崩す者も現れる。うつ病に罹る者は珍しくなかったし、海中に身を投じる者も中にはいた。その一方で、乗員達は楽しいひと時を過ごす事もあった。穏やかな日には水泳をしたり、イルカの戯れを見たり、夜半には話し上手な人の語りに耳を傾けたりして心を慰めた。赤道を越えた日や船長の誕生日など、特別な日を迎えた時は盛大に祝って、大騒ぎする事もあった。人々にとって、1日3度の食事が何よりも待ち遠しい時間であった。しかし、食事も階級によって差があり、上級船員は下級船員よりも上等なものを食べていた。


航海が長引くと食物や水は徐々に腐ってゆき、そこに虫が湧いていった。赤道付近では、熱で樽が破裂する事もあり、これ幸いと無数の鼠が群がった。保存食のビスケットや堅パンも、大量のゾウムシが発生して、不気味にうごめいていた。乗員達は新鮮な食物を手に入れるため、鶏(にわとり)、ヤギ、豚を主甲板の小屋で飼ったり、野菜を育てたり、魚を釣ったりして工夫した。船内生活では、真水は何よりの貴重品である。しかし、日が経つにつれ、水には藻が繁殖してきて緑色を帯び、小さな虫が繁殖した。乗員達は、ぬるぬるとして異臭を放つ水を、こしてから飲んだ。貴重品な水で体を洗う事など、もちろん出来ない。この水も階級によって分配される量に差が有り、上級の人々の割当量は2倍だった。下級の乗員達は、常に喉の渇きを訴えていた。


オランダから東インドまでの航海には、平均して8ヶ月かかった。条件に恵まれた幸運な船は4ヶ月半ほどで目的地に着いたが、風が凪いで数ヶ月間、まったく動けなくなり、再びオランダに帰り着くのに2年かかった船もあった。東インド会社は、如何なる事情があろうとも、航海の遅延には激しく怒った。17世紀半ば、オランダはアフリカ南端の喜望峰に要塞を築き、ここを船の寄港地とした。往復船はオランダを出て、平均5ヶ月かけて喜望峰に到着すると、ここに3週間ほど滞在して休息を取った。その間、食料物資を補給し、病人を治療するなどした。東インド会社はいち早く目的地に到着した船には報奨金を出したが、大抵の船は喜望峰で快適に過ごす数週間の方を選んだ。喜望峰は水夫達にとって憩いの場であり、ここを大海の酒場と呼んで親しんだ。


船が出港して3~4ヶ月経つと、船乗りが最も恐れる壊血病が発生し始める。この病気はビタミンCの不足によって起こるのであるが、17世紀には、まだその原因は知られていなかった。発症すると、患者の足は腫れあがって痛み、息が臭くなり、歯茎から出血し始める。やがて口が酷く腫れ上がり、壊疽を起こして歯が抜け落ちてゆく。発症してから1ヶ月経つと、患者は酷く苦しみながら死んでいった。東インド貿易船では、喜望峰に着くまでの間、1隻に付き、大抵20人から30人が死亡した。犠牲者がもっと増える場合もあり、船の運航に支障が出る場合もあった。


東インド貿易船はこうした様々な苦労を乗り越えて、東インドに到着する。そして、大量の香辛料を積み込んだ後、長い長い往路を戻ってゆくのだった。




batavia.jpg










↑バタヴィア号級

このバタヴィア号級は、難破の結果、150人以上が惨殺される事件が起こった事で有名です。




オランダ東インド会社

2009.11.07 - 歴史秘話 其の一
ヨーロッパに住む人々は、古代から肉や魚をよく食していた。その肉や魚を長期間、保存したり、味を引き立たせるには香辛料が不可欠である。しかし、ヨーロッパには香辛料を産出する地域はなく、遠い異国から取り寄せねばならなかった。それは遥か彼方、インドからニューギニア付近にかけての東南アジアにあった。そこから香辛料をヨーロッパに持ち込もうとすれば、アジアやアラビアの陸路を経由せねばならず、その間に価格は元値の百倍に跳ね上がる。それでいて、手に入る量は僅かであった。その為、ヨーロッパ人はより安く、より多くの香辛料を求めて海へと乗り出していく。そして、15世紀後半にポルトガル船がアフリカを回ってインド洋に進出すると、海路を通じて産地から直接、香辛料を仕入れる事が可能になった。


東インドからヨーロッパにまで香辛料を運ぶ航海は非常な困難を伴うが、貿易から得られる冨はその労苦を補って余りある物だった。それから、しばらくはポルトガルとスペインが香料貿易を独占していたが、16世紀後半からは、オランダとイギリスも東インドに進出するようになる。新興勢力のオランダ商人には勢いがあり、多数の商社を結成して船団を東インドに送り出していった。これらの商社は、お互いに競合しながら膨大な利潤を上げていたが、やがて、競争の激化によって貿易の利益率は下がっていった。こうした事態を放置しておけば、共倒れになる恐れが高い。1602年3月20日、そこで、各商社は話し合って、一つの巨大会社を設立する事にした。これが、世界最強の会社とも謳われた、連合東インド会社(略称VOC)の誕生である。


新会社の経営は17人の重役の手に委ねられ、出だしは順風満帆であった。最初の連合船団は巨額の富を会社にもたらしたし、ポルトガルと戦って、重要な香料諸島を奪取せしめたからである。更に東インド会社は、イギリスを東インドから追い出して、香料貿易を独占する事にも成功した。こうして、東インド会社は世界最高の冨と権力を誇る、並び立つ者のいない大企業となった。貿易でもたらされる冨は、いったん東インド会社の金庫に収められた後、出資者に分配されていった。株主には10~20%の配当が毎年、支払われ、時には50%を越える時もあった。出資者の1人、ヤコブという商人は50万ギルダーの財産を築き上げた。


会社の出資者達の懐は、大いに潤っていた。しかし、実際に命懸けで長い航海にたずさわる職員や水夫には、僅かばかりの賃金が支給されるに過ぎなかった。昇級はあったが、年金などは無かった。だが、オランダ本国で働こうにも、安定した仕事にありつくことは難しく、僅かであっても賃金が支払われ、食事、寝床だけは保障されている東インド会社で働く事は、貧しい者にとっては励みとなっていた。ちなみに当時の月給は、上級商務員は80ギルダーで交易の責任者となれば160ギルダー、商務員の中で一番位の低い商務員補佐で24ギルダー、兵卒は9ギルダー、軍曹で18ギルダーだった。当時のオランダでは300ギルダーで家族を1年養う事ができた。


会社で働いていれば、大きな利益を得られる機会は確かに存在した。だが、大金を得る前に早死にする者の方がほとんどだった。東インドに到着したばかりの職員の余命は3年であり、現地に定住して長生きする者はごく僅かであった。熱帯の蒸し暑い気候の下、大勢の者が健康を損ない、マラリア・赤痢を始めとする疫病、熱病に罹って死んでいった。また、会社から厳罰を下されて死ぬ者や、海難事故で命を落とす者や、酒を大量に浴びて命を落とす者も大勢いた。東インド会社の職員となって、無事帰国できる者は大体、3分の1だったと云う。


こういった事情で、東インド会社に応募する者の大抵は窮乏し、切羽詰まって、命の危険を省みずに一山当てようとする者ばかりだった。商務員の中には育ちの良い者もいたが、多くは財産を失った者であった。商務員が仕事で大きな功績を挙げても賞与などは与えられず、働きに見合った賃金が支払われる事はなかった。潤うのは安全な本国にいる経営者達だけであり、正直者でいては馬鹿を見るばかりだった。そのため、商務員達はことごとく不正行為に手を出して、帳簿の改ざん、禁止されていた私的貿易などが日常茶飯事のように行われていた。この様な状況がまかり通っていたにも関わらず、実利を重んじる東インド会社は私貿易の横行を黙認し、まれにしか取締りを行わなかった。



東インド会社もその職員も欲丸出しで皆が金儲けに執心していたが、その下で働く水夫や兵士の多くも柄の悪い荒くれ者揃いだった。彼らは悪態をつき、大騒ぎし、娼婦を買い、殺人を犯すので、上官は厳罰をもって彼らを服従させねばならなかった。粗暴な部下を率いる上官には、何よりも腕っ節の強さを求められた。しかし、こうであっても、船を動かすには相互の信頼と協力が不可欠である。東インド会社の水夫達は度々、問題行動は起こしても、航海を通じて絆を深め、それなりにはまとまっていた。当時の一般認識では、東インド会社で働く人間は社会の最底辺にいる者と見なされていたが、こういった命知らずの人間でなければ務まらない仕事でもあった。


東インドに滞在しているヨーロッパ人女性は、非常に少なかった。そのため、新たにやってくるヨーロッパ女性は航海中から待ち望まれており、美人であろうと不美人であろうと求婚者には事欠けなかった。そのような事情で、東インドで働いているオランダ人男性の大半は現地人女性を妻や、愛人としていた。しかし、オランダ政府は、現地人妻や混血児を本国に連れ帰る事を禁じていたので、オランダ人男性が現地家族と暮らしていこうとすれば、東インドに定住するしかなかった。これには慢性的な人手不足に悩む、東インド会社の思惑もあった。だが、大抵のオランダ人男性は一山当てると、現地家族を捨てて本国に帰っていったようだ。


東インド会社は、最盛期には約200隻の武装商船と1万人の兵士を有しており、東南アジア全域から、日本を含む東アジアにも影響力を及ぼしていた。オランダで最大の収益を誇り、かつ強大な会社であると自他共に認める存在であった。この東インド会社の成功は、オランダに大いなる冨と繁栄を呼び込む。しかし、18世紀に入ると、香料の価値の低下、職員の私利追求、植民地拡大戦争による出費などが経営に重く圧し掛かって来るようになる。そして、1799年、さしもの大会社も破産状態となって解散となり、東インドの経営と支配はオランダ政府の手に委ねられた。オランダ東インド会社は、冨に彩られた華やかな表情の裏で、強欲な醜い一面を持つ組織でもあった。だが、歴史に特筆される大きな存在であった事は間違いない。




決闘の歴史

2009.07.05 - 歴史秘話 其の一
現在に生きる人々は、自身の名誉を傷付けられた場合、裁判に訴え、法による裁きで名誉を取り戻そうとする。しかし、現在よりも法が整備されておらず、人々が武器を所有していた時代は、剣によって失った名誉を取り戻そうとしていた。


古代ゲルマン人は私的な揉め事が起こると、一騎打ちによって問題を解決していた。名誉、財産、命は剣捌きと偶然に委ねられた。10世紀から12世紀にかけては、決闘裁判が盛んに行われた。当時の判事はあらゆる訴えに対して決闘裁判を認めた。決闘裁判の結果は、場所、係争案件によって様々である。その一例を挙げると、民事事件では敗者は負傷していると、追放刑か重い罰金刑が科された。刑事事件では敗者は首吊りか火あぶりに処せられた。もちろん決闘であるので、敗者は刑を受ける前に死ぬ事も多い。


原則として争いのある者同士が決闘をするべきであるのだが、相手が成人男子でこちらが老人や女であるなど、力量に差がある場合は、代理人を立てる事も出来た。農民、騎士、市民、貴族などあらゆる人々が、階級によって遵守すべき事柄に従って決闘場で戦った。決闘裁判では、神は正しいものに味方すると信じられていた。しかし、勝者が後に罪を告白するという出来事もあって、決闘裁判の正当性は揺らぐ事になり、やがて廃止される。だが、私闘としての決闘がなくなる事はなかった。


決闘に用いられた武器は様々である。

棍棒・サーベル・バタルド(斬、刺突用の戦闘剣)・エストク(細身の長剣)・エスパドン(刃が150センチ以上で両手用大型戦闘剣)・ラピエール(細身の長剣)・フランベルジュ(細身の長剣)・鉄製斧・ハンマー・戦槌・投げ槍・弓・ブーメラン・時代が下るとピストルも使われた。通常、最初に侮辱を受けた側が武器を選ぶ権利を持つ。武器は同一のものが2つ用意されるのが普通である。時代や所によって方式には違いがあるが、通常、決闘を行う2名は、それぞれ1名の介添人を付けていた。介添人は中世までは武器を携帯しており、決闘が白熱すると介添人同士も戦った。近世になると、介添人は武器を携帯しない立会人となった。



16世紀、決闘はフランスを中心として行われた。この時代は宗教戦争・内戦・迫害・虐殺など血生臭い出来事が立て続けに起こる。すると、この混沌とした時代に後押しされるように決闘は盛んになる。決闘好きな人間は、些細な事から遊びのように命を危険に晒した。ダンボワーズと云う騎士は、仲の良い友人から「何時か」と尋ねられると「お前が死ぬ時だ!」と答えてすぐさま闘いが始まった。当時のフランス社会では、争いや殺人は日常茶飯事で、王の控えの間でさえ人々は短剣を持って闘った。


フランス王、アンリ四世(1553~1610)の時代(在位22年の間)には、決闘で8000人もの貴族が命を失っていた。宮廷は決闘の温床であった。ヴォルトールと云う人物はこう述べている。「国の特色にまでなったこの時代遅れの残虐行為は、内戦や外国との戦争と同様、あるいはそれ以上に国の人口を減らす事に貢献した」と。決闘があまりにも多く行われたため、フランス王は度々、決闘をすれば厳しく処罰すると布告した。しかし、それでも決闘は広く行われていた。


決闘を行う事は、名誉と勇気の証明書とされていた。しかし、この時代の貴族達は血を好み、残酷さを競い、命を軽視するのが毅然とした勇気ある宮廷貴族であると思っていた。自惚れ、気紛れ、ちょっとした一言や視線、態度が決闘に至った。余計な一言のために10人くらいが殺し合う事も珍しくなかった。ある時には、1人の女性を巡って4人の貴族が激しく戦ったが、女性が選んだのは決闘者以外の男性だった。決闘好きなアンドリューと云う騎士は、法によって30歳で処刑されるまで、72人の人間を殺していた。


18世紀、ナポレオンによる第一帝政時代にも決闘は行われていた。ナポレオン自身は「良き決闘者は悪しき兵士である」と述べて、決闘者を軽蔑していたが、彼の将軍達、クレベール、オージェロー、ジュノー、マルモン、ネーといった面々は、かつては決闘者であった。猛将として名高いネーは、サーベルの名手でもあり、18歳の頃、決闘に望んで相手を負かしている。この相手は手首に麻痺が残り、失業して極貧生活に陥った。後にネーはこの相手を探し出して終生、生活費を送った。イタリアのナポリ王は、ナポレオンに決闘状を送りつけたが、彼は「私はあなたの王国を征服する方が良い」と答え、それを実行した。


19世紀、決闘は非合法化されるようになり、相手を殺す事も避けられるようになっていった。しかし、アメリカでは征服、ゴールドラッシュ、インディアン戦争などで国中が沸き立っており、暴力に熱狂して血生臭い決闘が盛んに行われた。第7代アメリカ大統領ジャクソンは、1826年にピストルによる決闘で政敵だったディキンソンを殺している。保安官、カウボーイ、冒険家、金発掘人、盗賊などあらゆる人々が銃を巧みに操った。アメリカ西部での決闘は、銃を抜く素早さが物を言い、先にピストルを抜いて数発撃った者が大抵、勝者となった。


20世紀、第一次世界大戦が起こって、かつてないほどの死の嵐が吹き荒れると、人々は血と暴力に嫌悪感を示すようなり、決闘は不謹慎で野蛮な行為であると見なすようになった。それでも、決闘は伝統主義者達によって支え続けられていたが、第二次大戦後には姿を消していった。現在、決闘は、先進国では法によって禁止されており、全世界で年間15件程度、報告されているに過ぎない。しかし、裏の世界では、今でも人知れず決闘が行われているかもしれない。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 最新記事 
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
▼ 最新CM
[04/24 DennisCal]
[04/16 Jharkhand escorts]
[03/14 お節介爺]
[05/12 杉山利久]
[07/24 かめ]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ 楽天市場