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小谷城の攻防 後

2010.09.05 - 戦国史 其の二
岐阜に在った信長は、山本山城が降ると知るや、なんと報を得た8月8日の夜半の内に出陣する。そして、続々と追い慕って来る軍勢の集結を待って、8月10日には小谷城を囲んだ。このあたりの信長の迅速な決断と用兵は、さすがと言わざるを得ない。この時の織田軍の兵数は不明であるが、主だった部将を総動員している事から、3万人は超えていただろう。信長は今度こそ、決着を付ける決意であった。


「信長公記」によれば、朝倉義景も2万人余を引き連れて救援に駆けつけたとあるが、「朝倉記」によれば、義景に次ぐ実力者であった朝倉景鏡や、重臣の魚住景固らが連年の出兵の負担に耐えかねて参陣を拒否したとあるので、実数は1万人余だったのではないか。朝倉軍は劣勢で、しかも小谷城は既に織田軍の重囲にあって、近寄る事も出来ず、小谷北方にある田部山(田上山)に陣取らざるを得なかった。小谷城には大嶽(おおずく)と呼ばれる、本城よりも高所に築かれた砦がある。この大嶽は小谷城の背面を守る要であり、朝倉家との連絡線でもあった。だが、その大嶽の北面にある焼尾砦の将、浅見対馬守は浅井家を見限って、信長に内通を打診する。これを受けて、信長は焼尾砦からの大嶽攻略を企図した。


8月12日夜半、大雨が降りしきる中、信長は自ら馬廻りの者を率いて焼尾砦に入ると、そこから大嶽に夜襲を仕掛けた。大嶽には5百人余の朝倉軍が守っていたが、不意を突かれて、たちまち降伏に追い込まれる。信長はこの降兵を朝倉本陣に向けて解き放ち、現在、朝倉軍が圧倒的不利な状況に置かれている事を知らしめた。これを受けて義景は戦意を喪失し、撤兵するに違いないと信長は見込んだ。そして、無防備な背後を晒した瞬間、間髪入れずに襲うと決めた。翌8月13日、信長は大獄に続いて、小谷城の麓近くにある丁野、中島といった砦を奪取した。これで、小谷城は外部と遮断され、完全に孤立する。8月13日夜半、朝倉義景はこの情勢を見て、小谷救援の望みは断たれた、または既に小谷城は落城したと判断し、越前に撤退を開始した。だが、信長はこの瞬間を見逃さなかった。


信長は自ら先頭に立って朝倉軍を急追すると、刀根坂において捕捉、朝倉軍数千人余を討ち取って完勝した。信長は、義景の心胆を完全に見抜いていたとしか言えない。信長はそのまま越前に侵攻し、義景に立ち直る隙も与えず、8月20日に自害に追い込んだ。朝倉家の滅亡をもって浅井家の運命は極まり、長政も覚悟を決める。8月26日、越前から舞い戻った信長は、続いて浅井家に止めを刺すべく小谷城前面の虎御前山に着陣した。この頃、小谷城では、その運命を見越して逃れ出る者が絶えなかった。だが、その一方で、少数だが最後まで浅井家に忠実たらんとする者もいた。篭城の最中、長政とその父、久政はそういった忠義の士に報いんとして、感謝の意を込めた感状を与えている。それらの感状の中には土地を与えんとの文言があったが、最早、長政にはそのような土地は無かった。受け取る者も空手形に終わると分かっていたが、主君からの感謝の意と名誉だけを受け取ったのだった。


8月27日夜半、小谷城の京極丸を守備する部将、浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊ら3人がこの期に及んで織田方に通じ、秀吉の部隊を迎え入れた。このため、長政が守る本丸と、久政が守る小丸とが分断される。そして、秀吉は占領した京極丸を基点に、その一段上にある小丸に攻撃を集中した。久政は防戦に努めたものの、衆寡敵せず、最後を悟って郭内に入った。久政は家臣と決別の杯を交わすと、鶴松太夫と云う舞楽をもって仕えていた者に、逃れ出るよう促した。だが、鶴松太夫は武士でないにも関わらず、最後までお供致しますと述べ、その言葉通り久政の介錯を勤めた末、切腹して果てたのだった。後に人々は、鶴松は名を小谷に上げしと称えた。


8月28日、信長は自ら京極丸に上り、長政の篭る本丸攻撃に望んだ。だが、この28日前後、信長は、長政に降伏を促す使者を送ったらしい。信長は裏切られたとは云え、長政の武将としての器量は高く買っており、数度に渡って使者を送ったと云われている。長政も心が揺れ、父、久政が存命ならばこれに応じる事も考えたようだ。しかし、織田方が久政の死を隠していたと知ると、最後まで戦う覚悟に変わった。8月28日夜半、長政は、妻、お市の方と茶々、お初、お江与の3人の娘を城から送り出す。お市と3人の娘は今生の別れを惜しんだが、長政にはこれで思い残すものはなくなった。翌8月29日、織田軍の総攻撃が始まるも、長政とそれに殉ずる覚悟を決めている将兵の奮戦もあって、本丸は尚も持ち堪えた。


この29日、長政は、戦国大名として最後となる感状を家臣の片桐孫右衛門(かたぎり まごえもん)に与えている。この片桐孫右衛門直貞は、豊臣秀頼の傅役(もりやく)として仕えた片桐且元の父に当たる人物である。長政の感状を要約して載せる。

「思いもよらぬ成り行きで、当城も本丸一つを残すのみとなってしまった。不自由な篭城の中にあっても、忠節を全うせんとするそなたの覚悟には、感謝の念しか覚えない。特に、皆が次々に城から抜け出していく中、そなたは変わりなく尽くしてくれている。とても言葉では言い尽くせない」

孫右衛門は、この書を名誉の証として子孫に託し、主君と共に最後の一戦に望む。この感状は、現代にまで伝えられている。


9月1日、長政は本丸から打って出て、前面の織田軍と尚も激闘を続けていたが、後方の織田軍が本丸に雪崩れ込んで来て、中に入る事は出来なくなった。長政は最早これまでと定め、敵の手にかかるよりは自刃して果てんと、本丸東下にある赤尾清綱の屋敷に入った。百人余の近臣達が防戦して時間を稼ぐ中、長政は腹をかき切り、29年の生涯を閉じた。そして、多くの近臣も主君の後を追って、切腹して果てていった。小谷城には当初、3千人余が篭っていたと見られるが、その多くは逃れ去った。だが、7百人余りの将兵は、最後まで長政に付き従って戦死した。この長政主従、最後の奮戦によって、織田方も相応の戦死者を出したであろう。


戦後、浅井長政、久政、朝倉義景の首は京に送られ、獄門に晒された。信長は、長政を頼りになる義弟と信じていただけに裏切られた怒りも激しく、捕虜とした長政の母は惨殺し、長政の長男で10歳の万福丸も探し出して、関ヶ原にて磔(はりつけ)とした。そして、長政、久政、義景の首は薄濃(はくだみ)にして、酒肴の見せ物とした。信長は、この浅井家討滅にあたって、木下秀吉の武功が一番であると評し、小谷城を含む12万石の所領を委ねた。また、小谷城落城の切っ掛けを作った、山本山城主の阿閉貞征にも2万5千石の所領が与えられた。それに対し、大嶽を落とす切っ掛けを作った焼尾砦の降将、浅見対馬守は落城寸前の裏切りのため、所領没収の上、追放となった。また、浅井家の重臣でありながら、最後の最後で裏切った浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊らは後世への戒めと称され、斬首となった。


この後、小谷城の主となったのは秀吉であるが、天正4年(1576年)、琵琶湖畔に新たに長浜城を築いたため、小谷城は廃城となり、その短くも激しい歴史に終わりを告げた。だが、浅井家の血脈が途切れる事はなかった。長政の長女、茶々は秀吉の妻となって秀頼を生み、次女、初は名門の家柄である京極高次に嫁ぎ、三女、江は徳川秀忠に嫁いで、後の三代将軍家光を生んだ。長政の娘達はそれぞれ数奇な運命を辿りながらも、浅井家の血筋は後世まで残されてゆく。



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小谷城の攻防 前

2010.09.05 - 戦国史 其の二
永禄11年(1568年)、この年、尾張、美濃を領有する有力大名に成長していた織田信長は、天下統一事業を一気に進展させるべく、上洛を目指して動き出す。しかし、岐阜から京に抜けるには、北近江に勢力を張る浅井氏と、南近江に勢力を張る六角氏の領国を通らねばならなかった。同年4月、信長は上洛を確実なものとするため、北近江の雄、浅井長政と盟約を結び、さらに妹のお市の方を嫁がせて絆を深めた。 同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、六角氏は敵対したが、長政は信長に協力して援軍を送った。信長の勢いは凄まじく、瞬く間に畿内の主要部を制圧して、一躍、天下人に最も近い武将となった。この信長の成功は、その通り道に当たる浅井長政の協力なくしては達成し難いものであった。そして、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢攻めを開始すると、長政はこれにも援軍を送っている。両家の協力関係は、このまま続いて行くかに見えた。


しかし、元亀元年(1570年)4月、信長が越前朝倉攻めを開始すると、長政は突如として信長から離反し、その背後を襲った。この離反の理由については、古くからの繋がりがある朝倉家との関係を重視したものと云われているが、確かな事はわかっていない。挟撃の危機から命からがら逃れた信長は激怒して、両家は一転、不倶戴天の間柄となった。だが、この時の浅井家と織田家の実力の差は、余りにも大きかった。浅井家は近江北部30万石余で動員力は8千人余なのに対し、織田家は尾張57万石、美濃54万石、伊勢志摩の大半50万石余、その他、近江南部や畿内各地にも所領があるので、石高は200万石以上、動員力は5万人を超えていた。浅井家は、朝倉家の援助を受けねば戦線の維持は不可能で、必然的に受け身の態勢となる。


元亀元年(1570年)6月、浅井氏の麾下にあった有力国人、堀秀村がその居城、鎌刃城と、美濃との境目にある長比城(たけくらべじょう)や刈安尾城(かりやすおじょう)ごと信長に投降すると云う事態が起こる。これは戦わずして国境線を打ち破られ、直接、小谷城を突かれる事を意味していた。長政は、国境で信長を食い止める算段を立てていたが、それは味方の裏切りで脆くも崩れ去る事となった。信長は勿論この機を逃さず、一挙に長政を討滅せんと動き出す。そして、徳川家康にも援軍を要請して、大軍をもって小谷城へ迫った。これに対し、単独では敵し得ない長政は、朝倉家に援軍を仰いだ。同年6月28日、長政は朝倉軍の来援を待って、姉川にて信長との決戦に望んだ。浅井、朝倉軍は1万5千人余で、織田、徳川軍は2万5千~3万人余だった。


浅井、朝倉軍は前半は優勢であったが、最終的には数に勝る織田、徳川軍の前に敗れ去った。この結果、浅井方の横山城が落ち、その南方の佐和山城は孤立した。浅井家は多くの将兵を失い、領国も分断されるという大打撃を被るが、まだ余力は残っていた。信長は落とした横山城に木下秀吉を篭めると、ここを対浅井の最前線とした。同年9月、浅井、朝倉軍は巻き返しを図り、大阪本願寺、三好家と結んだ上で京へと進軍を開始する。そして、浅井、朝倉軍は比叡山に立て篭もって、信長を大いに苦しませたが、決着には至らず、両軍共に兵を退いた。 これが浅井、朝倉家にとって、最初にして最後の織田勢力圏への攻勢であり、最も信長を追い詰めた瞬間であった。しかし、これ以降は、地力に勝る織田家によって防戦一方に追い込まれていく。


翌元亀2年(1571年)2月、敵中に孤立していた佐和山城は8ヶ月の篭城の末、力尽き、城将、磯野員昌と共に信長に降伏する。だが、同年5月、長政も反撃に出て、浅井井規(いのり)に軍を授けて、先年、信長に寝返った堀秀村の拠る鎌刃城を攻めさせた。浅井勢は一向一揆勢を加えた5千人余の軍勢だったが、急遽駆け付けた木下秀吉率いる数百人余によって側面攻撃を受け、それに合わせて城兵も突出して来たので、脆くも敗れ去った。同年8月、信長は3万余の兵を率いて浅井領国に侵入し、越前との国境に近い余呉、木之本近辺まで進出して村々を放火して回った。これは国の基である領民の生活を破壊して、間接的に浅井家の首を締め上げる作戦であった。信長は尚も攻撃の手を緩めず、同年9月、浅井方の志村城に猛攻を加えて城兵を悉く討ち果たし、首級670を上げて城を落とした。それを見て震え上がった近隣の小川城は、戦わずして降伏した。浅井家は、領国を幾度も蹂躙されて疲弊し、支城も次々に奪われて勢力圏は縮小する一方であった。


元亀3年(1572年)正月、横山城の城将、木下秀吉が岐阜の信長の下に新年の挨拶に出向くと、長政はその隙を突かんと浅井井規らに軍を授けて、横山城を急襲させた。だが、城代の竹中半兵衛は少数ながら城を良く守り、近隣の城からも援軍が駆けつけたので、浅井軍は退けられた。同年3月、信長はまたも北近江に進出し、小谷近辺まで放火して回った。信長は盛んに長政を挑発して、小谷城から誘い出さんとしたが、この時の長政に朝倉の援軍は無く、じっとこれに耐える他無かった。同年7月19日、信長は嫡男、信忠を始め、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉、佐久間信盛といった錚々たる部将も引き連れた3万~5万余の大軍を動員し、総力を挙げて小谷攻めに取り掛かった。この頃、東の武田信玄が不穏な動きを示しており、信長としては信玄との対決が始まる前に、浅井家を滅ぼしたかったのである。


7月21日、織田軍は小谷城に至ると、まず、その麓にある虎御前山(とらごぜんやま)や雲雀山(ひばりやま)を占領し、続いて町口を破って城下を焼き払った。翌22日には木下秀吉に命じて、小谷城の支城、山本山城を攻撃させて50人余を討ち取り、23日には近江北部の余呉、木之本まで兵を出して寺院や家屋を焼き払わせた。そして、7月27日より、小谷城攻略の前線基地とすべく、虎御前山に砦の建設を開始する。目の前でここまでされながらも、戦力で劣る長政には手の出しようが無く、歯軋りするばかりであった。信長公記によれば、このような浅井家存亡の危機にも関わらず、朝倉家の援軍はなかなか現れなかった。そこで長政は、信長が苦境に陥っているとの偽情報を流し、それを信じた義景は、7月29日にようやく小谷にやってきたと云う。しかも義景は、情報とは違って意気盛んな織田軍を見て、小谷後方の大嶽(おおずく)に陣取ったまま動かなくなったとされる。


この信長公記の記述を見れば、義景は怠惰で臆病な大将にしか映らないが、実際には現実的な対応をしている。
信長が岐阜城から出陣したのが7月19日で、その報が一乗谷に届くまで1日~2日、そこから動員をかけて兵が集まるまで2~3日はかかるだろう。そして、義景は7月24日に一乗谷から出陣しているから、それほど遅くはない。ただ、行軍速度は遅く、信長が2日の行程で近江に入ったのに対し、義景は4日の行程で7月28日にようやく近江に入っている。長政はこの行軍の遅さに苛立って、偽情報を流したのかもしれない。それから、義景が大獄に陣取ったまま動かなくなったというのは、臆病と言うより、お互いの兵力に格差があるからで、朝倉、浅井軍は合わせても1万5千から2万、対する織田軍は最低でも3万、最大で5万人であった。これで野戦を挑めというのが無理な話で、例え打って出ても兵力不足で敗れた姉川の戦いの二の舞になるだけである。で、あるから、高所に陣取って織田軍の攻撃を待ち受けるという義景の方策は間違ってはいないだろう。


だが、義景は何時も、信長が出動してから、遅まきに対応するといった感じで、基本的に受身の姿勢であった。これでは敵味方から、戦意に欠けると見られても仕方なかった。兵力の多寡と言い、大将の戦意と言い、どちらに時の勢いがあるかは一目瞭然であった。8月8日には、朝倉家の有力部将である前波吉継が、8月9日には富田長繁が、それぞれ義景を見限って、信長に降る事態が起きた。信長はしきりに挑発して決戦を誘ったものの、義景が乗ってくる気配は無かった。こうなると信長も手の出しようがなく、戦線は膠着状態となった。そのため、信長は今回で浅井家に引導を渡せなかったが、小谷前面に大規模な封鎖陣地を築き上げた事で、浅井家をほぼ封じ込める事には成功した。信長との開戦以来、浅井家は領国を幾度となく蹂躙され、その挙句、小谷城に完全に押し込められてしまった。最早、年貢を満足に得る事すら難しかったであろう。


なので篭城を支えていたのは、朝倉家からの兵糧援助であったと思われる。しかし、それを援助する朝倉家にも、明らかに衰えの色が見えていた。朝倉家にとって、浅井家は組下大名であってそれを保護する道義上の責任があった。それに信長によって小谷城が落とされると、次に狙われるのは越前の一乗谷であるのは明白であって、越前の安全保障上からも、何としても守り抜かねばならなかった。しかし、連年の出兵に伴う出費と、兵糧援助の負担は重かったに違いない。対する信長も連年の様に出兵しているが、浅井、朝倉家と比べると体力が段違いであった。消耗戦となれば、やはり国力の差が物を言ってくる。


元亀3年(1572年)11月、追い込まれる一方であった浅井、朝倉軍が動いた。浅井井規を先鋒として、織田方の宮部城を攻撃したのである。これは、宮部城から虎御前山に連なる織田方の陣地破壊を目論んだものだったが、堅固な陣地はびくともせず、逆に木下秀吉の迎撃を受けて撃退される始末であった。衰えを見せる浅井、朝倉軍の戦力で、この封鎖陣地を突破する事は、最早、不可能であった。この戦勢を挽回するには、他の反織田勢力の助力、特に大規模な野戦兵力を有する武田信玄の力が必要であった。同年12月、その頼みの綱である信玄が西上を開始し、三方ヶ原にて織田、徳川軍を打ち破った。浅井、朝倉家はこの信玄の西上作戦に期待し、愁眉が開く思いであった。


だが、信玄は、翌元亀4年(1573年)4月、志半ばにして病没してしまう。これによって浅井、朝倉家の運命も閉ざされた。そして、天正元年(1573年)8月8日、浅井家にとって決定的な出来事が起こる。小谷城の西方に位置する重要な支城、山本山城の阿閉貞征が離反して、織田方に付いたのである。この山本山城の側面援助があったから、小谷城は全面包囲を免れて篭城を続けられてきた。だが、山本山城を失った事で、小谷城は全周囲からの攻撃に晒される事になるのである。

近世初期の武家の華「衆道」

2010.05.10 - 戦国史 其の二
16世紀から17世紀にかけて、日本の武家では衆道、すなわち男色(少年愛)が流行していた。それは単なる同性愛だけでなく、少年が年長の若者と深く交わる事によって深い信頼関係を築くと共に、その知識や技術を教えてもらう切っ掛けともなっていた。また、裏切りが横行していた戦国時代、男色は信頼できる兄弟分を得る機会でもあった。しかし、男色は、時に男女の関係以上に燃え上がり、感情のもつれや、少年を巡る恋争いから刃傷沙汰になる事も珍しくなかった。


武田信玄がまだ20代であった頃、源助という小姓と男色関係にあった。しかし、源助は、信玄が弥七朗と云う少年と関係をもったとの噂を聞き、ひどく腹を立てた。それを知った信玄は、源助をなだめようとして自筆の誓文を送った。「弥七朗に対し、これまで何度も言い寄った事はあるが、その度、彼は腹痛を理由に断ってきた。この事について、私は全く嘘はついていない。
弥七朗に夜伽をさせようとした事はなかったし、これまでも無かった。いわんや昼も夜も、そのような事はしていない。ましてや今夜だってしようとは思っていない。お前とは特に親しくしたいと思っているのにこのような疑いをかけられ、はなはだ困り果てている。この言葉にうそ偽りがあれば、当国一二三大明神、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙ろう」


信玄は、この誓文で潔白を主張しているが、誘った事には変わりなく、また、主君の誘いを弥七朗が無下に断われたものだろうか?甚だ怪しいものである。そして、この書状の面白いところは、後に甲斐の虎とも称される大武将が、年下の小姓の機嫌を損ねないよう、必死に弁解する様子が伝わってくるところである。この信玄自筆の誓文に関しては諸説あって、花押がぎごちなく、墨色が異なるところがあるので、後に模写されたものであるとの説があったり、信玄らしい流麗な書体も見られるので自筆であるとの説もあって、はっきりしない。だが、信玄が男色関係をもっていた事を強く示唆する書状ではある。


永禄2年(1559年)、上杉謙信は上洛の徒につく。京に着くと、謙信は室町将軍、足利義輝の館に招かれ、そこに関白、近衛前嗣も加わって、盛大な酒宴が催された。義輝、謙信、前嗣は大いに語り、飲み明かした。後日、今度は近衛前嗣の館で酒宴が催された。この場では、華奢な若衆がたくさん集められ、酒を飲み夜を明かした。近衛前嗣によれば、謙信は若衆好きである事を公言していた。


天正12年(1586年)10月、東北会津の戦国大名、蘆名盛隆は小姓の大庭三又衛門と男色関係にあった。しかし、盛隆の寵愛が衰えてくると、三又衛門はこれを恨みに思い、主君を斬り付けるという凶行に走った。このため、将来を嘱望されていた蘆名盛隆は、僅か24歳でこの世を去った。三又衛門はすぐに誅されたが、これで蘆名家の屋台骨は大いに揺らぎ、後に伊達政宗の台頭を許す一因ともなった。


江戸時代初期、かつて東北で勇名を馳せた伊達政宗も、老境に差し掛かっていた。政宗は孫もいるような年齢であったが、この時、小姓の只野作十郎と大恋愛をしていた。そういったある日、政宗は酒の席にて、作十郎が他の男と寝ているのではないかと放言してしまう。これを聞いた作十郎は怒り、「浮気など思いもよらぬ事であります。自らの腕を切りつけ、その血判をもって潔白を証明致します」と記した起請文を差し出した。これを受けて政宗は大いに短慮を恥じ、「自分がその場にいたならば、脇差を押さえこんででも、その腕を傷付けはさせなかっただろう」と起請文に記し、更に自らの血判を押して、作十郎に謝罪の意を表した。 


尚、政宗はこの起請文において、「あなたも御存知の通り、私も若い頃は、酒の肴にするように腕や腿(もも)を突き通して衆道にのめりこんだものだが、昨今は世間の物笑いになりかねないので控えている。けれでも、私の腕や腿を見てもらいたい。(傷跡で)隙間もないほど、昔はこうした事をしてきたものである。さすがに今はもう出来ない」と述べている。つまり、政宗の腕と腿には多数の傷があって、しかも、それは衆道の愛の証として、自らが傷付けたものであったのである。それと、戦国の世も終わり、江戸の世を向かえつつあると、衆道もはばかれるようになってきた事が窺える。


衆道の絆は、時に肉親の関係以上のものとなる事もあり、その様な兄弟分が討たれた場合、もう一人の兄弟分は命懸けで仇討ちをした。しかし、兄弟分となった者が他の若衆にうつつを抜かしてしまうと、もう一人の兄弟分は激しく嫉妬し、浮気をした兄弟分を討つと云うことも少なくない。そして、討たれた兄弟分の浮気相手が、またその仇を討つという事もあった。当時の庶民はこのような衆道仇討ちを果たした者を、武士の誉れであると拍手喝采したのだった。このように衆道は、事件の火種になり易い危険な関係でもあった。そのため、幕府や諸大名は次第に衆道に否定的な立場を取るようになり、江戸中期を境にして衰退していった。

知られざる実力派武将

2010.05.01 - 戦国史 其の二

戦国時代の武将で、実力がありながら、あまり名の知られていない人物を、簡単な略歴と共に紹介したい。


八柏 道為(やがしわ みちため / ?~1595年)

出羽の戦国大名、小野寺家に仕える重臣であり、知友兼備の将と云われていた。出羽の狐と呼ばれた謀将、最上義光は小野寺領を虎視眈々と狙っていたが、それを防いできたのが八柏道為であった。天正14年(1586年)、有屋峠において、小野寺軍と最上軍が激突した際、八柏道為の活躍によって緒戦は小野寺軍の勝利に終わったと云う。この合戦の詳細は明らかではないが、最後は最上軍優勢の形で終わったようだ。


この後も、最上義光は小野寺領を併呑せんと狙い続けるが、その目的のためには八柏道為の存在がどうしても邪魔であった。文禄5年(1595年)、義光は一計を案じ、道為が内通しているとの偽書を送り、それを主君の小野寺義道の目に留まるようにしむけた。はたして、
義道はこの計略に引っかかり、道為を殺害してしまう。小野寺家の衰亡は、この忠臣を失った時から始まった。以後、義光は事あるごとに小野寺領を蚕食していった。


慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦において、義道は緒戦は東軍側に身をおいたものの、義光憎しの一心から西軍に鞍替えしてしまう。関ヶ原合戦が東軍勝利に終わると、小野寺家は御家取り潰しとなり、義道は石見、津和野の地に配流の身となった。知勇兼備の将と謳われた八柏道為が存在していれば、また違った展開があったのかもしれない。ただ、八柏道為の人物像と活躍は「奥羽永慶軍記」と云う軍記によるところが大きく、それが史実であったかどうかは定かではない。


梅津 憲忠(うめづ のりただ / 1572~1630)

少年時代は浪人であったが、父、道金と共に常陸に移り住み、佐竹家の世話になるようになる。その間、憲忠は自らの研鑽に努め、後に開花する高い政治的素養を培った。やがて、佐竹義宣の近習に取り立てられ、その高い実務能力を買われて祐筆となった。憲忠は、初期佐竹藩の確立に尽力し、義宣の篤い信頼を受けて家老にまで出世する。

憲忠は実務だけでなく、馬術や鉄砲にも長ずる武功の士でもあった。大坂の冬の陣では、奮戦して重傷を負っている経歴もある。また、連歌や書道にも深い造詣がある文化人でもあった。弟の政景も優れた実務能力を有しており、兄弟揃って、佐竹家の藩政を主導した。弟の政景は、近世初期の資料として最良のものとされている、梅津政景日記を残している。


大縄 義辰 (おおなわ よしとき / ?~?)

常陸の戦国大名、佐竹家に仕えていた武将であり、佐竹義重の子息、盛重が会津の戦国大名、蘆名家を引き継ぐに当たって、共に会津に出向した。新しく蘆名家当主となった盛重であるが、まだ年少である事から、義辰がその後見役として実務を執った。義辰には、佐竹義重の意を汲んで、蘆名家を主導する事を期待されていた。

天正17年(1589年)、蘆名家は、伊達政宗と事を迎える事となり、両者は摺上原に於いて激突する。この時、蘆名先手衆の指揮官を務めたのが、佐竹系筆頭であった大縄義辰だったようだ。義辰ら蘆名先手衆は奮戦したものの、後方の蘆名部隊は戦いに参加しなかったので、衆寡敵せず伊達軍に打ち破られてしまう。蘆名家はこの戦いで滅亡し、盛重と義辰は常陸へと逃れた。義辰はその後、朝鮮出兵に伴って、肥前名護屋に在陣したり、水戸城の普請奉行を務めたりした。生没年は不詳である。

長篠合戦後の武田勝頼

2010.02.28 - 戦国史 其の二

天正3年(1575年)5月21日、遠江国、設楽原(したらがはら)の地で、武田軍1万5千人余と織田・徳川連合軍3万8千人余が激突する(実数は武田軍1万余、織田・徳川軍2万人余であったとも)。史上名高いこの長篠の戦いで、武田方は数千人余の討死を出し、さらに武田家を支えてきた名将、多数を失って惨敗した。この戦いの結果、武田家の威信は大いに失墜したが、逆に織田信長は著しく威信を高めて、自らの覇権確立を確信するに至った。更に、織田、徳川軍はこの勝利に乗じて戦果を拡大すべく、美濃岩村城や三河、遠江の武田方諸城を囲んだ。これらの諸城が落とされれば、連鎖的に武田領国が崩壊しかねない状況であった。



この領国の一大危機に対し、勝頼はまず、軍を立て直す事から始めねばならなかった。減少した戦闘員を急遽、補充すべく、戦死した武士の年少の子息や、僧侶、町人まで取り立てて、遮二無二に軍の再建に臨んだ。そして、3ヶ月後には何とか1万3千の軍を編成し、徳川軍に包囲されていた遠江小出城の後詰めへと向かった。 同年9月7日、武田の援軍が小出城に現れると、徳川方はこれほどの短期間で武田軍が立て直されるとは思っていなかったから、驚いて撤退していった。徳川方は勝頼の手腕を手放しで賞賛したが、武田軍の中には多くの百姓人夫が混じって、人数合わせをしているという点は見抜いていた。こうして勝頼は、小出城の後詰めには成功したが、織田の大軍に囲まれている美濃岩村城の方は、如何ともし難く、後回しにした。岩村城はほとんど見放された形となったが、そこから半年余り持ちこたえて、貴重な時間を稼いでくれた。


天正3年(1575年)11月21日、粘っていた岩村城もついに力尽き、織田軍によって、城兵は1人余さず皆殺しとなった。この凶報は、武田領国を震撼させる。 同年12月16日、勝頼はかつてない危機感を覚えて、領国各地より身分を問わず、15歳以上60歳以下の男子を20日間の期限付きで、総動員するよう布告する。それと平行して、勝頼は武田軍を近代化すべく、軍政改革を行う。まず信玄以来の軍法を改めて新たな軍法を制定し、かつ装備を改善するため、長柄槍を減らし、騎馬武者の増員と鉄砲装備の拡充を目指した。 こうした努力の結果、武田軍は兵力の回復には成功したものの、その反面、軍務に適さない者を大量に動員したため、以前と比べて質的には見劣りする軍となった。 また、連年の出兵による領内の疲弊に加え、武田の財政を支えてきた金山収入の減少もあって、装備の改善もままならなかったと思われる。



長篠の戦いでは、武田家の領国支配を分担し、意思決定にも加わっていた宿老達のほとんどが戦死していた。これら有能な人材を多数、失った事が武田家にとって最も大きな打撃であった。勝頼は、必然的に新たな人材の登用を迫られる。駿河・遠江方面は、山県昌景が駿河江尻城代としてこの地域を統括していたが、戦死後には穴山信君に代わった。この江尻城は、長篠合戦後、攻勢を強める徳川家に対応するための重要拠点だった。 西上野は、内藤昌秀(昌豊)が箕輪城代として統括していたが、戦死後しばらくは、城主は置かれず、天正6年(1578年)以降から、真田昌幸がこの地域を統括するようになる。そして、勝頼の側近として重く用いられるようになったのが、武田信豊、跡部勝資、長坂光堅らだった。特に信豊と勝資は、武田家の意思決定に深く関与する事になる。


天正5年(1577年)1月22日、織田、徳川家による軍事的圧迫は引き続いていた事から、勝頼は背後を固める目的で、関東の北条氏政の妹を娶った。この時、勝頼32歳、北条夫人14歳であった。典型的な政略結婚であったが、そのような事に関係なく、2人は深く愛し合ったようである。この婚姻によって両家の絆は深まったかに見えた。しかし、両家の蜜月は束の間であった。天正6年(1578年)3月、越後の雄、上杉謙信が死去し、その跡目を巡って2人の養嗣子、景勝、景虎による後継争い(御館の乱)が勃発すると、武田家と北条家は思惑が行き違って、溝を深めていく事になるのである。


北条氏政はこの機に乗じて、越後を北条家の影響下に置こうと考え、自身の弟である景虎の支援を開始する。しかし、北条家の主力は関東で佐竹氏らと対陣中で、すぐには動けなかったので、勝頼に軍事支援を仰いだ。勝頼はこの要請を受諾して、上杉氏の諸城を接収しながら、進軍を開始した。この過程で信濃飯山城、越後越知城、越後不動山城、越後赤沢城を手に入れる(これらは乱終結後、正式に武田家に割譲される)。勝頼は、春日山城に達すると、軍事圧力を加えながら、景勝と景虎の双方に、和睦するよう呼びかけた。本来なら、ここで景虎を全面支援すべきであったのだが、勝頼は、景虎が勝利して、北条家の勢力が越後にまで伸びる事は避けたかった模様である。


それに、出兵の間にも攻勢を強める徳川家に、早急に対応せねばならない事情もあった。そして、景勝と景虎いずれも支援せず、両者が和睦するよう努力を傾けた。勝頼としては、武田・北条・上杉による三和が望ましかったようだ。 同年8月、勝頼は苦労して、景勝と景虎との和睦を取りまとめたが、徳川軍、駿河侵入の報を受けて、和睦の持続を見守る間も無く、撤兵せざるを得なかった。そして、勝頼の撤兵後、和睦は脆くも崩れ去り、戦は再開された。そもそも両者は、越後で唯一の統治者たらんとして争っているのであって、話し合いで収まる訳などなかった。


結局、勝頼は、景虎になんらの支援も与えなかったので、北条氏政は不信感を抱きつつあった。それに、勝頼の部将、真田昌幸が、景虎方の上野沼田城攻撃の姿勢を見せたり(これは昌幸の独断で、北条家の抗議と、勝頼からの叱責を受けて取りやめた)、景勝が、しきりに勝頼の援軍到来を宣伝したので、北条方の不信感は増幅されていった。 天正7年(1579年)1月、武田・北条の関係は軋みながらも、まだ同盟は維持されており、年初の挨拶が交わされた。だが、同年3月24日、北条方の景虎が敗死し、御館の乱が景勝の勝利に終わると、北条家の態度は硬化する。


この御館の乱の間、勝頼が、景勝や景虎に直接的な軍事支援を行った事は一度もなかったが、乱の半ば以降からは、明らかに景勝寄りの姿勢を見せていた。氏政はこれに対して、景虎を支援しなかったのは約定違反であるとして怒り、武田家との亀裂は決定的なものとなる。そして、同年9月、両者は手切れして、戦争状態に入った。敵となった北条家は、織田家と結んで、武田を挟撃せんとした。「信長公記」の天正7年9月の記事によれば、北条家は、織田家に鷹を進上して音信を図ったとある。続いて、年10月の記事によれば、北条家は、織田家と好(よしみ)を通じて、武田攻撃のため、出陣したとある。


武田家にとって最大の味方であった北条家は、いまや直面する最大の脅威となった。天正7年(1579年)10月20日、勝頼は景勝との関係を深める必要に迫られ、妹を嫁がせて、上杉家と軍事同盟を結ぶ。さらに常陸の佐竹義重とも同盟を結んで、北条家を東西から挟撃せんとした。一方の北条家も、織田家、徳川家と同盟を結んで武田家を挟撃せんとした。 そして、同年10月25日には、徳川家と示し合わせて、数万の大軍をもって伊豆三島に陣取り、駿河侵攻を窺った。これに対応するため、勝頼も駿河に出陣して北条軍と対峙する。それから勝頼は徳川軍に向かい、軍事圧力を加えて追い返した。この対陣は、同年12月9日、勝頼が甲斐に帰還するまで続いた。


勝頼は東の北条家に全力を注ぐため、西の大敵、織田家との和解を試みる。織田家と武田家との間は、天正5年(1575年)に岩村城が落城した後からは、大きな戦闘は起こっていなかった。そこで、天正7年末から、佐竹義重の仲介で和解交渉が開始される。条件の隔たりから和解は難航するが、勝頼はこの後も粘り強く交渉を続けた。武田家はただでさえ、織田、徳川家に劣勢であったのに、ここで北条家まで敵に回したのは致命的であった。武田家は、西、南、東を戦国屈指の強豪大名によって囲まれたのである。北に唯一、味方として上杉家が存在しているものの、内乱の影響で弱体化しており、援軍は期待出来そうに無かった。北条家とは全面戦争に入ったため、武田家もこちらに全力を投入せねばならなかったが、その隙に、織田家に攻め入られれば最早、どうしようも無かった。


天正8年(1580年)を迎えた時点で、織田家の軍事力は、武田家の遥か上を行っており、これに自力で対抗するのは最早、不可能となっていた。それにこの頃から、織田家臣や地方大名も、信長の事を上様と尊称しており、戦国大名の枠を超えた、より上位の権力者であると認識していた。なので勝頼は、織田家への服属も視野に入れて交渉していたと思われる。それは、後の江戸幕府と外様大名との関係の様に、信長の覇権を認める一方、甲信の地に地方大名として存続する方向であったろう。勝頼としては、可能な限り現状を維持しての服属を模索しただろうが、苛烈な性格の持ち主である信長は、甲斐一国の安堵しか認めなかったろう。良くて、甲斐一国と信濃南半分といったところで、これではさすがに勝頼も承服しかねて、交渉は難航したのだろう。


勝頼は、服属を視野に置いた和解交渉を進める一方、北条家を討ち滅ぼし、関東を併呑する事も考えていたと思われる。北条領を編入する事に成功したなら、武田家は250万石を超える一大勢力となって、織田家と言えども容易には手が出せなくなる。そうなれば、和解交渉も有利に運んでいただろう。交渉ごとは、古今東西、力の大きい方の言い分がまかり通る。力無き者が、交渉を有利に進めんとすれば、相手との力の差を埋める他は無い。それに何より、関東を制すれば、徳川家を圧倒し、織田家への自力の対抗も見えて来る。勝頼は、織田家との和解交渉を継続しつつも、上野国への大攻勢を開始する。上野国の内、西部は武田家が領有していたが、東部は上杉家と北条家の領有する所であった。だが、御館の乱後、上杉家は東上野から手を引いたので、武田、北条家はこの地を巡って激しい争奪戦を繰り広げる事となる。


天正8年(1580年)、武田家と佐竹家は、共同して上野へ出兵した。勝頼は軍事圧力を加えて、東上野の諸領主を次々に服属させて行き、上野での戦いは武田家優勢で進んだ。しかし、遠江、駿河方面では、武田家が劣勢に立たされており、同年3月からは徳川軍による遠江、高天神城攻撃が始まる。高天神城の将兵達は、勝頼の来援を期待して篭城戦に入った。だが、勝頼は西は守って、東に攻勢をかける方針で、主力を上野や伊豆に振り向ける事はあっても、高天神城の援軍に駆け付ける事は最後までなかった。徳川家に主力を振り向ければ、必然的に織田家も援軍を出して来るだろう。そうして再び、織田家と武田家が激突する事態になれば、最早、和解交渉など不可能となる。また、衝突を切っ掛けに、織田家の大攻勢が始まるかもしれない。北条家に全力を傾けていた勝頼にとって、それだけは避けねばならない事態だった。勝頼は、織田家との和解が成立するまで、または北条家を討滅するまで、高天神城が持ちこたえてくれる事を望んだ。


尚、同年3月、武田を取り巻く情勢が大きく変わる、2つの出来事が起こっている。1つは、北条家が、織田家に進物を送り届けて、関八州を上げて織田の分国となりたいと口上し、縁組も要請した事である。北条氏政は、上野での武田家の攻勢を深刻な脅威と捉えて、弟の氏邦に、「このままでは当方滅亡」とまで打ち明けている。そのため、織田家に従属を申し出て、支援を仰いだのだった。これで北条家は、織田家傘下の大名となり、その支援と保護を約束される身となった。この北条家を攻撃している武田家は、当然、討伐の対象と見なされる。もう一つは、この3月をもって、石山本願寺と織田家との間で講和が成立し、同年8月には、石山の地が明け渡された事である。織田家はこれまで、本願寺包囲に3~4万人余の大軍を貼り付けていたが、任務が解消された事で手隙となった。この軍事力がどこに向かうかは、信長次第であった。 武田を取り巻く情勢は悪化の一途を辿っていたが、北条家と全力で戦っていた勝頼には如何ともし難かった。


それでも、上野での戦いは武田優勢で進んでおり、その原動力となっていたのが、真田昌幸である。昌幸は北条方の城を調略をもって次々に落として行き、天正8年(1580年)秋には、北条方最大の拠点、沼田城をも落としている。そして、同年8月からは、仕上げとして勝頼自らが出陣して、残る北条方の諸城を攻め取った。 これによって上野一国は、武田家がほぼ領有する所となった。太閤検地によれば、上野国は49,6万石で12,400人が動員可能な大国である。 勝頼は更なる版図拡大を狙い、佐竹、里見などの反北条勢力を結集させて、武蔵国への一大攻勢を企図した。太閤検地によれば、武蔵国は66,7万石あって北条家の力の源泉となっている。ここを奪えば、北条家の命脈は断ったも同然であるが、武田家に残された時間は少なかった。


関東での武田優勢の一方で、徳川軍によって包囲され、孤立無援状態であった高天神城の篭城は限界に達していた。天正9年(1581年)初旬、城内では餓死者が続出する事態となり、主将の岡部元信は徳川方に開城を申し出たものの、信長がこれを却下させた。信長は天下への見せしめとするため、高天神城を血祭りに上げる事を望んでいた。勝頼が味方の城を見殺しにしたと宣伝して、その権威を失墜させ、臣民の動揺を誘おうと考えていたのである。そして、同年3月22日、徳川軍の攻撃により、岡部元信以下700人余が討死して、高天神城は落城した。 信長の思惑通り、世の人々は、勝頼は城を見殺しにして天下の面目を失ったと噂した。こうして、武田の軍事的劣勢は、内外に広く知れ渡る事となった。


この頃、勝頼は武田家の捕虜となっていた信長の子息、信房を返還している。勝頼は信房を返還して、織田家との和平の切っ掛けを掴もうとしていた。しかし、これに対して信長は、使者に会おうともせず、目下宛ての尊大な書式で信房の返還に礼を述べただけであったと云う。 上杉家は、武田家と織田家が和睦したとの風聞を聞き付けて、それを問い質す書状を送っている。 それに対して、勝頼の側近、跡部勝資が弁明しているので、それを略して載せたい。

「織田家との和睦は、佐竹義重に仲介を依頼しているが、まったく進展していない。交渉が進展すれば、報告すると何度も約束しているが、和睦がまとまらないのだから報告する内容が無い。信長の子、信房を返還したのは、佐竹義重の強い要望によるもので、交渉の進展とは無関係である。もし和平が成立したなら、上杉家も含めた三和の形を取りたいと言う約束は、織田家には伝えてある」

これ以降も勝頼は、信長との和解交渉を続けたが、暖簾に腕押しであった。畿内に覇権を確立しつつあった信長にとって、武田家など最早、脅威でもなんでもなく、いつ滅ぼすかの問題でしかなかった。そして、信長は、天正9年(1581年)より、武田攻めの為の兵糧備蓄を開始する。武田家が存続するには、甲斐一国の安堵と、織田家への従属を受け入れる他、無かったろう。もっとも、信長は武田信玄、勝頼父子を激しく憎んでいたので、この条件すら許さなかったかもしれない。だが、勝頼にしても、石高が5分の1以下になる条件は、やはり受け入れ難かった。


この時期、武田家は北条家には優位に立っていたが、徳川家には劣勢であり、その背後に位置する織田家の強大な圧力に晒されていた。上杉、佐竹と言った味方はいるものの、織田家相手には戦力不足で、総体的に見れば、武田の不利は明らかだった。 天正9年(1581年)の時点で、織田家は生産力豊かな畿内各国を全て支配していたので、石高は600万石余、動員力は15万人余であった。更に、徳川家や北条家の軍事力も、これに加わる。それに対して、武田家は甲斐22,7万石、信濃40,8万石、駿河15万石、上野49,6万石、越後の一部(3万石ほどか?)を支配下に治めて石高は130万石余、動員力は3万2千人といったところであった。戦国の世の人々は、力関係の変化に敏感である。相手の力を見誤れば、自身が滅亡する事になる。なので常日頃から嗅覚を研ぎ澄ませ、力ある者の下に付こうと心掛けていた。世の人々は、武田の劣勢を見抜いていたであろう。そう感じていたのは武田家臣とて同じであり、内心は不安を隠せなかったに違いない。


天正9年(1581年)、勝頼は織田、徳川の攻勢に備えるべく、新たなる居城、新府城の築城を開始する。ただ、この新府城は防御のためだけに作られた城ではない。新府城は広大な武田領国の中心に位置しており、防御も含め、戦略、統治上の広い観点に立っての築城であった。 しかしながら、城の築城には多大な費用、労力が必要であり、それが大名の居城ともなれば尚更である。その負担は当然、家臣や領民に課せられる事になる。これまでも、連年の出兵によって家臣や領民は疲弊していた事から、勝頼に対する不満、不信は増幅されていった。天正9年(1581年)12月、信長は、翌年春に武田家を総攻撃すると家臣に通告する。そして、攻撃準備と平行して、武田家臣に対する調略を開始した。織田家との和解交渉も、あるいは関東を併呑した上で織田、徳川に反抗をとの戦略も、時間切れとなった。12月後半、織田家侵攻が噂される中、勝頼は新府城を突貫工事で完成させて、この城に移る。高天神城の落城から、武田家臣の間に動揺が広がり始め、織田家による侵攻の噂がそれに輪をかけた。武田の滅亡は間近に迫っていた。




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重家 
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