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小谷城の攻防 後

2010.09.05 - 戦国史 其の二
岐阜に在った信長は、山本山城が降ると知るや、なんと報を得た8月8日の夜半の内に出陣する。そして、続々と追い慕って来る軍勢の集結を待って、8月10日には小谷城を囲んだ。このあたりの信長の迅速な決断と用兵は、さすがと言わざるを得ない。この時の織田軍の兵数は不明であるが、主だった部将を総動員している事から、3万人は超えていただろう。信長は今度こそ、決着を付ける決意であった。


「信長公記」によれば、朝倉義景も2万人余を引き連れて救援に駆けつけたとあるが、「朝倉記」によれば、義景に次ぐ実力者であった朝倉景鏡や、重臣の魚住景固らが連年の出兵の負担に耐えかねて参陣を拒否したとあるので、実数は1万人余だったのではないか。朝倉軍は劣勢で、しかも小谷城は既に織田軍の重囲にあって、近寄る事も出来ず、小谷北方にある田部山(田上山)に陣取らざるを得なかった。小谷城には大嶽(おおずく)と呼ばれる、本城よりも高所に築かれた砦がある。この大嶽は小谷城の背面を守る要であり、朝倉家との連絡線でもあった。だが、その大嶽の北面にある焼尾砦の将、浅見対馬守は浅井家を見限って、信長に内通を打診する。これを受けて、信長は焼尾砦からの大嶽攻略を企図した。


8月12日夜半、大雨が降りしきる中、信長は自ら馬廻りの者を率いて焼尾砦に入ると、そこから大嶽に夜襲を仕掛けた。大嶽には5百人余の朝倉軍が守っていたが、不意を突かれて、たちまち降伏に追い込まれる。信長はこの降兵を朝倉本陣に向けて解き放ち、現在、朝倉軍が圧倒的不利な状況に置かれている事を知らしめた。これを受けて義景は戦意を喪失し、撤兵するに違いないと信長は見込んだ。そして、無防備な背後を晒した瞬間、間髪入れずに襲うと決めた。翌8月13日、信長は大獄に続いて、小谷城の麓近くにある丁野、中島といった砦を奪取した。これで、小谷城は外部と遮断され、完全に孤立する。8月13日夜半、朝倉義景はこの情勢を見て、小谷救援の望みは断たれた、または既に小谷城は落城したと判断し、越前に撤退を開始した。だが、信長はこの瞬間を見逃さなかった。


信長は自ら先頭に立って朝倉軍を急追すると、刀根坂において捕捉、朝倉軍数千人余を討ち取って完勝した。信長は、義景の心胆を完全に見抜いていたとしか言えない。信長はそのまま越前に侵攻し、義景に立ち直る隙も与えず、8月20日に自害に追い込んだ。朝倉家の滅亡をもって浅井家の運命は極まり、長政も覚悟を決める。8月26日、越前から舞い戻った信長は、続いて浅井家に止めを刺すべく小谷城前面の虎御前山に着陣した。この頃、小谷城では、その運命を見越して逃れ出る者が絶えなかった。だが、その一方で、少数だが最後まで浅井家に忠実たらんとする者もいた。篭城の最中、長政とその父、久政はそういった忠義の士に報いんとして、感謝の意を込めた感状を与えている。それらの感状の中には土地を与えんとの文言があったが、最早、長政にはそのような土地は無かった。受け取る者も空手形に終わると分かっていたが、主君からの感謝の意と名誉だけを受け取ったのだった。


8月27日夜半、小谷城の京極丸を守備する部将、浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊ら3人がこの期に及んで織田方に通じ、秀吉の部隊を迎え入れた。このため、長政が守る本丸と、久政が守る小丸とが分断される。そして、秀吉は占領した京極丸を基点に、その一段上にある小丸に攻撃を集中した。久政は防戦に努めたものの、衆寡敵せず、最後を悟って郭内に入った。久政は家臣と決別の杯を交わすと、鶴松太夫と云う舞楽をもって仕えていた者に、逃れ出るよう促した。だが、鶴松太夫は武士でないにも関わらず、最後までお供致しますと述べ、その言葉通り久政の介錯を勤めた末、切腹して果てたのだった。後に人々は、鶴松は名を小谷に上げしと称えた。


8月28日、信長は自ら京極丸に上り、長政の篭る本丸攻撃に望んだ。だが、この28日前後、信長は、長政に降伏を促す使者を送ったらしい。信長は裏切られたとは云え、長政の武将としての器量は高く買っており、数度に渡って使者を送ったと云われている。長政も心が揺れ、父、久政が存命ならばこれに応じる事も考えたようだ。しかし、織田方が久政の死を隠していたと知ると、最後まで戦う覚悟に変わった。8月28日夜半、長政は、妻、お市の方と茶々、お初、お江与の3人の娘を城から送り出す。お市と3人の娘は今生の別れを惜しんだが、長政にはこれで思い残すものはなくなった。翌8月29日、織田軍の総攻撃が始まるも、長政とそれに殉ずる覚悟を決めている将兵の奮戦もあって、本丸は尚も持ち堪えた。


この29日、長政は、戦国大名として最後となる感状を家臣の片桐孫右衛門(かたぎり まごえもん)に与えている。この片桐孫右衛門直貞は、豊臣秀頼の傅役(もりやく)として仕えた片桐且元の父に当たる人物である。長政の感状を要約して載せる。

「思いもよらぬ成り行きで、当城も本丸一つを残すのみとなってしまった。不自由な篭城の中にあっても、忠節を全うせんとするそなたの覚悟には、感謝の念しか覚えない。特に、皆が次々に城から抜け出していく中、そなたは変わりなく尽くしてくれている。とても言葉では言い尽くせない」

孫右衛門は、この書を名誉の証として子孫に託し、主君と共に最後の一戦に望む。この感状は、現代にまで伝えられている。


9月1日、長政は本丸から打って出て、前面の織田軍と尚も激闘を続けていたが、後方の織田軍が本丸に雪崩れ込んで来て、中に入る事は出来なくなった。長政は最早これまでと定め、敵の手にかかるよりは自刃して果てんと、本丸東下にある赤尾清綱の屋敷に入った。百人余の近臣達が防戦して時間を稼ぐ中、長政は腹をかき切り、29年の生涯を閉じた。そして、多くの近臣も主君の後を追って、切腹して果てていった。小谷城には当初、3千人余が篭っていたと見られるが、その多くは逃れ去った。だが、7百人余りの将兵は、最後まで長政に付き従って戦死した。この長政主従、最後の奮戦によって、織田方も相応の戦死者を出したであろう。


戦後、浅井長政、久政、朝倉義景の首は京に送られ、獄門に晒された。信長は、長政を頼りになる義弟と信じていただけに裏切られた怒りも激しく、捕虜とした長政の母は惨殺し、長政の長男で10歳の万福丸も探し出して、関ヶ原にて磔(はりつけ)とした。そして、長政、久政、義景の首は薄濃(はくだみ)にして、酒肴の見せ物とした。信長は、この浅井家討滅にあたって、木下秀吉の武功が一番であると評し、小谷城を含む12万石の所領を委ねた。また、小谷城落城の切っ掛けを作った、山本山城主の阿閉貞征にも2万5千石の所領が与えられた。それに対し、大嶽を落とす切っ掛けを作った焼尾砦の降将、浅見対馬守は落城寸前の裏切りのため、所領没収の上、追放となった。また、浅井家の重臣でありながら、最後の最後で裏切った浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊らは後世への戒めと称され、斬首となった。


この後、小谷城の主となったのは秀吉であるが、天正4年(1576年)、琵琶湖畔に新たに長浜城を築いたため、小谷城は廃城となり、その短くも激しい歴史に終わりを告げた。だが、浅井家の血脈が途切れる事はなかった。長政の長女、茶々は秀吉の妻となって秀頼を生み、次女、初は名門の家柄である京極高次に嫁ぎ、三女、江は徳川秀忠に嫁いで、後の三代将軍家光を生んだ。長政の娘達はそれぞれ数奇な運命を辿りながらも、浅井家の血筋は後世まで残されてゆく。



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