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鬼ノ城

鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市にある古代山城である。


鬼ノ城の、築城年代ははっきりしないが、出土した遺物のほとんどが7世紀後半から8世紀初頭の物である事から、7世紀後半に築城されたと見られる。この城は、当時の国際関係の緊張を受けて築城された、国家的事業による城郭である。西暦660年、朝鮮半島南西部にあった国家、百済が唐・新羅連合軍の攻撃を受けて滅亡する。百済の遺臣達は、その後も抵抗して復興運動を続け、その援助を日本の王朝、倭国に求めた。百済と倭国は、長らく友好関係にあった事から、大和朝廷はこの求めに応じ、朝鮮半島に数万の兵を送った。しかし、663年、倭国・百済連合軍は、白村江において、唐・新羅連合軍に破れ、百済復興の夢も潰えた。大和朝廷は、唐・新羅による日本侵攻を警戒して、西日本各地に城を築いた。その城の1つが、鬼ノ城である。


鬼ノ城は、吉備高原南縁、標高397メートルの鬼城山を中心に築かれた。頂部は平坦、斜面は急傾斜で、既に天然の要害の地を成していた。そこに、土塁や石垣を鉢巻状に巡らせて山頂部を囲い込み、その全長は2.8キロに達した。大半は土塁であるが、土を強く押し固めた版築工法によるもので、非常に頑丈で、高さは約6メートルあった。山頂部にあるが、水の湧き出る谷が幾つもあるので、飲料水に困る心配は無い。規模壮大な城門が東西南北、四箇所に設けられ、中心部には、食料貯蔵庫と見られる高床倉庫が設けられ、城内には鉄器を製作、修理する鍛冶工房もあった。その規模を見ると、数千人の長期の篭城が可能であったろう。鬼ノ城の名は史書にこそ載っていないが、国家的事業による築城であったのは間違いない。



鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑鬼ノ城の全体図


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑西門


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑西門

ここだけ復元されています。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑南を望む

晴れていれば、瀬戸内海や四国も望めるようです。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑鍛冶工房跡

築城に使う鉄器を、ここで製作していたそうです。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑東門

鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑屏風折れの石垣

ここの石垣が、鬼ノ城の見所の1つです。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑屏風折れの石垣

結構な急斜面に築かれています。かなりの難工事だったでしょう。



鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑土塁跡

年月を経ているので、高さはそれほどありませんでしたが、それでも土塁だとはっきり分かりました。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑北門

西門から、一周廻って来ました。遺跡見学も良いですが、周りの景色も良かったです。晴れていれば、素晴らしい眺望が得られるでしょう。

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木村重成の覚悟

2017.03.22 - 戦国史 其の三

木村重成は、大阪の陣で活躍した、豊臣方の勇将として知られている。生年は不明で、両親もはっきりしておらず、父は、豊臣秀吉の家臣、木村重茲、母は、豊臣秀頼の乳母、宮内卿局(くないきょうのつぼね)であったと云う。秀頼とは乳兄弟の関係であった事から、篤い信頼を受け、若くして側近として重きを成した。慶長16年(1611年)3月、豊臣秀頼と徳川家康が二条城にて会見した際には、替えの脇差持を勤めた。


慶長19年(1613年)11月、大阪冬の陣で、重成は初陣を飾る。大阪城の北東、大和川を渡った低湿地帯に今福という村落があった。豊臣方はこの地に4重の柵を築いて、徳川方の接近阻止を図った。守るのは、矢野正倫と飯田家貞を将とする、6百人の兵であった。一方、徳川家康は、佐竹義宣率いる1,500人の兵を差し向けて、今福攻撃を命じる。11月26日未明、佐竹隊は猛攻をかけて、4重の柵を打ち破り、矢野正倫と飯田家貞を討ち取った。この形勢を見た豊臣方は、木村重成に兵を授けて、反撃させる。佐竹隊は、木村隊の接近を見て後退し、奪取した柵を利用しつつ防戦した。木村隊は、佐竹隊を徐々に追い込んでいったが、南岸の上杉景勝の鉄砲隊が、援護射撃を加えてきたので、攻撃は行き詰った。


そこで、豊臣方は更に後藤基次を援軍に差し向けて、木村隊を援護させた。両隊合わせて3千人余となり、威勢は大いに上がった。後藤隊は、対岸の上杉鉄砲隊に銃撃を加えて、地に伏せさせると、木村隊と合わせて前面の佐竹隊に突撃していった。佐竹隊は防戦に努めたものの、木村隊によって重臣、渋江政光が討ち取られ、梅津憲忠も重傷を負って、本陣も危うくなる。たまらず佐竹義宣は、対岸の上杉景勝に援護を求めた。景勝は求めに応じて、堀尾忠晴や榊原康勝の隊と合わせて大和川の中洲を渡り、援護射撃を加えた。木村、後藤隊は佐竹隊を追い詰めていたが、新手の到来を受けて城に後退した。この戦いは、両者痛み分けと言ったところであった。


大阪冬の陣、豊臣方は善戦したものの、孤立無援の状況である事には変わりなく、徳川方と折り合いを付けねばならなかった。和睦の際、重成が豊臣方の正史として徳川方の陣所に赴き、そこで秀忠と会見して誓詞を受け取った。その時の立ち居振舞いや、礼儀作法が理にかなっていた事から、賞賛を受けた。だが、翌年、和議は脆くも破れ、大阪にて、戦国最後の大決戦が繰り広げられる事となる。慶長20年(1614年)5月6日、大阪夏の陣、重成は、徳川方を迎え撃つべく、八尾、若江に向けて出陣した。戦いを前にして、重成は既に死を決しており、姉婿の猪飼野 左馬之介(いかいの さまのすけ)に宛てて、遺書を送ったとされる。その時の書状の写しが伝わっている。写しの日付けは4月6日であるが、これは5月6日の間違いだと思われる。


「一書を啓(もう)します。まずもって、傷の痛みはいかほど和らいだでしょうか。朝夕心許無く案じています。お聞き及びでしょうが、(敵は)まったく隙がなく、残念ながら城中の有り様ははかばかしくありません。とかく天下は家康にあると存じています。昨夕も石川肥後守(康勝)という私の同輩と、城中の詮議について語り合い、御母公(豊臣茶々)の下知による手分け、手配は承知しない事が尤もだと決めました。私は昨朝七つ(午前4時)に下知を承知せず、摂津鴫野(せっつしぎの)へ出陣し、分相応の働きをして諸人が驚目、致しました。


とかく一日も早く討死をする覚悟です。貴方は昨今の篭城、そのうえ数ヶ所の深手を負われているので、油断なく早々に所領に引き戻られる事が、尤もだと考えています。誰も嗤ったりしないでしょう。私は家康と懇志の筋目(ねんごろな関係)があるので、板倉伊賀(勝重)より度々、内意を伝えてきましたが、当君(秀頼)に対し二心を抱くのは士の本意ではありません。すこしばかり考えたりもしましたが、人並みに月日を送る気はありません。そこで、この香炉を姉君にお届けください。また、この太刀は家康より私が十三の元服の祝いとしてもらったものです。


使者は本多平八郎(忠政?)であり、口上では家康秘蔵の大業物(おおわざもの)にて来国俊(らいくにとし、鎌倉時代の刀工)との由でした。私は数度の戦いに、この太刀で一度も不覚をとった事がありません。ですから、大波と名付け、今日まで所持してきましたが、貴方へ形見に送ります。ご秘蔵ください。一城内にありながら、一時も心を割って話し合う機会もなく、他人同然のようであったのは残念でなりません。さぞ、姉お照殿はお恨みになるでしょう。この件は、私に事情あっての事なので宜しく弁明をしてください。仕方なかったのです。恐惶謹言」


この書状は先にも書いた通り、写しであって本物では無い。しかし、それでも重成本人が書いているかのような、具体的な内容、覚悟の程が伝わってくるので、自筆の書状は確かに存在したのではないか。


この書状が実在したとして話を進める。重成には、兄弟が何人か存在しており、その内の1人が姉の照で、豊臣家臣、猪飼野左馬之介に嫁いでいたようだ。その左馬之介が戦で重傷を負い、重成が案じる様子が伝わってくる。徳川方の大軍が隙無く迫って、城内は動揺していたようだ。そして、重成は、天下の権は既に家康にあって、豊臣方に勝ち目は無いと悟っている。また、大阪城では、女城主、茶々が軍事にあれこれ口出しをして、武士達がそれを苦々しく思っている状況が伝わってくる。重成は、もう命令には従えないと自らの判断で出陣して、5月5日、摂津鴫野にて活躍したと言っている。翌日が本格的な戦いとなるが、この日は、前哨戦の小競り合いに勝ったのだろうか。


家康とは懇意の関係にあったとされるが、詳細は不明である。ただ、重成は秀頼の乳兄弟で、その信頼も篤かったので、取次ぎ役には適任であった。取次ぎ役と良好な関係を結べば、外交交渉も円滑に進めやすい。そういった事情で、家康は早くから重成に目を付けて、贈り物などを送ったのだろう。その家康から、内応を促されたものの、重成は二君には仕えずとの覚悟を定めている。そして、左馬之介に使者を遣わして、形見の品を渡し、城から落ち延びるよう勧めた。城内では、親身な付き合いが出来なかった事を詫びて、手紙を締めている。姉夫婦のその後は不明であるが、この書状が伝わっているのを見れば、生き延びたのではないか。猪飼野左馬之介と照の子孫とされる、木村権右衛門の邸宅跡が大阪に存在している。


5月6日、重成は、最後の戦いに臨む。徳川方は、河内口、大和口、紀伊口の三方から、大阪城に迫っていた。この内、河内口の徳川方が主力で、家康や秀忠の本隊も含まれていた。そこで重成は、河内口の徳川方を迎え撃つべく、大阪城から東方8キロに位置する、八尾、若江方面に向かった。木村隊6千に続いて、長宗我部盛親隊5,300も出陣する。6日午前2時頃に出発したが、道に迷った挙句、沼地で立ち往生するなどして、午前5時にようやく若江に着陣した。重成は、6千人の兵を三手に分けて布陣する。そこへ、徳川方の藤堂高虎隊5千人が接近し、右備の藤堂良勝、藤堂良重ら1千人が、攻撃を仕掛けてきた。木村隊も右備700人が応戦し、数度の激突の後、藤堂良勝、良重の両将を討ち取って撃退した。重成は緒戦に勝利したが、追撃はさせず、玉串川の西側堤防上に鉄砲隊を配して次の敵に備えた。その頃、南西の八尾では 、長宗我部隊と藤堂隊が戦いを始めていた。



↑八尾・若江の戦い(ウィキより)


木村隊の前に、次に現れたのは、井伊直孝勢9千人余であった。井伊勢は数において勝っていたが、若江は川と湿地が広がる地形で、全軍の投入は難しかった。そこで、直孝は直率する5,600人で木村隊に挑む。6日午前7時頃、井伊隊は、玉串川の東側堤防に上がると、鉄砲の一斉射撃を浴びせかけた。木村隊は鉄砲戦に押されたのか、それとも予定通りであったのか、玉串川西岸から後退する。重成は、田んぼが広がる湿地帯の中、味方には足場の良い所に陣取らせ、敵には細い畦道を通らせて、そこを叩くつもりだったようだ。木村隊を追って、井伊隊左備の川手良列が1,200人をもって突撃してきたが、深追いしてきた川手良列を討ち取って、これを撃退する。


次に井伊隊右備の庵原朝昌((いおはら ともまさ)1,200人が突入してきて、混戦となるも、これも撃退した。そうと知った井伊直孝は怒って、自ら本隊3, 200を率いて突撃する。重成も全力でこれを迎え撃ち、両軍入り乱れての激闘となった。人数的にはほぼ互角であったが、井伊隊は徳川方きっての精鋭であり、その猛攻を受けて、木村隊は徐々に押され始める。木村隊は、夜通しの行軍と、藤堂隊、井伊の川手隊、庵原隊、直孝本隊による連続攻撃を受けて、疲れが出てきたのかもしれない。 それまで様子身をしていた榊原康勝、丹羽長重らの隊も、井伊隊の優勢を見て、木村隊左備に攻撃を開始する。6日午後14時頃、味方が総崩れとなる中、重成自身、槍をとって奮戦したものの、ついに力尽きて討たれた。重成の首を取ったのは、安藤重勝、または庵原朝昌であったと云う。


木村隊は重成を始め、350人余が討死した。勝った井伊隊も100人余の討死と多数の負傷者を出して、翌7日の、最終決戦の先鋒は辞退した。八尾では、長宗我部隊が藤堂隊相手に戦いを優勢に進めていたが、木村隊壊滅を受けて撤退を開始する。しかし、そこを藤堂、井伊隊に追撃されて、長宗我部隊も壊滅的打撃を被った。こうして八尾・若江の戦いは、豊臣方の敗北に終わった。重成は戦いを前に、頭髪に香を焚きこんでいたと云われている。家康のもとにその首が運ばれてくると、麗しい香りが漂ってきた。家康は、その覚悟のほどを知り、「稀代の勇士なり、不憫の次第なり」と述べたと云う。木村重成、享年は不明であるが、まだ20代前半であったろう。華も実もある若武者であった。

「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線 後

●東部戦線の負傷兵

負傷兵は、治療と移送に多くの人手を要し、乏しい薬品や食料も消費するので、兵站に負担を与える存在だった。そのため、衛生兵は、助かる見込みの無い患者を冷徹に選別する。「痛い!助けてくれ!」と叫ぶ瀕死の重傷者に対し、衛生兵は傷を見て手に負えないと判断すると、「こいつはもう助からん」とさじを投げ、ここからは神の仕事と、従軍牧師の祈りの手に委ねた。死に行く者は、運が良ければモルヒネ注射を打ってもらって、朦朧としたまま死を迎える事が出来たが、大半は苦痛に悶えながら1人寂しく死んでいった。


独ソ戦前半、ドイツ軍が進撃中であった時、死者は、鉄十字の墓標、もしくは木枠の十字架に姓名と生没年を刻まれて、埋葬されていった。しかし、独ソ戦後半、ソ連軍が反撃に転じると、ドイツ兵の墓は見つかり次第、戦車で踏み均(なら)されたり、ロシア兵に引き倒されるなどして、破壊されていった。そのため、ドイツ軍は、死者が出ると、樹下や草原に誰にも分からないように埋葬していった。それは、十字架や石碑も無く、弔う者さえいない墓であった。ただ、死者の安息だけが願われた。しかし、急な撤退戦においては、死者を埋葬する間もなく、そのまま打ち捨てられていった。


東部戦線では、先に書いた兵站の問題と、双方の深い憎しみから、動けない負傷兵が捕虜となった場合、大半はその場で殺される運命にあった。その時に拷問を受ける事も稀では無い。1944年4月2日、ソ連軍は強大な装甲兵力をもって、ドイツ軍戦線を突破した。第3山岳師団は包囲の危機に直面し、吹雪の中を撤退していった。兵達が所持しているのは小火器と手榴弾のみで、ソ連の機械化部隊に対抗しようがなく、移送用の車両も無かった。こうした切羽詰った撤退行動で、何時も悲惨な目に遭うのが負傷兵であった。まだ歩ける者は仲間の手を借り、ロシア兵による捕虜虐殺への恐怖を原動力に、最後の力を振り絞って前進した。


しかし、動けない負傷兵も大勢いた。彼らの多くは、ピストルを所望した。過酷な戦闘を助け合ってきた、かけがえのない仲間である。だが、どうする事も出来ない。別れの際、動ける者と動けない者、お互い深い悲しい目で見つめ合う。そして、家族への伝言を頼んだり、写真や普段の愛用品を遺品として、故郷に託す者もいた。最後の握手を交わした後、兵士達は歩き出し、負傷兵達の姿は吹雪の中に掻き消えていった。やがて、後ろからピストルの銃声が響いてきた。


●名誉の戦死

1944年4月6日、第3山岳師団はソ連軍の包囲を逃れるべく、撤退行動を続けていたが、ソ連の装甲部隊が先行して退路を断っていた。第3山岳師団を含む、5個師団がソ連軍の包囲網に捕われた。時を経れば包囲網は強化され、逃れる術は無くなる。この危機を逃れる唯一の方策は、現有戦力を結集して、迅速に突破する事であった。ドイツ軍は、撤退に次ぐ撤退で疲労しきっていたが、死力を振り絞って突破攻勢を行った。ゼップの所属する144連隊が殿(しんがり)を受け持って、戦いつつ撤退に入った。


その際、鉄道トンネルを抜けていったが、ソ連軍の追撃を食い止めるべく、工兵隊が爆破準備を進めていた。ゼップの上官、クロース大尉は、自部隊の工兵隊が後から続いてくるので、それを待ってから爆破するよう、爆破班に指示を出した。ところが、爆破班は、ソ連軍の追撃に怯えていたのか、それを待つ事なく爆破を実行してしまう。トンネルを通過中であった工兵隊は、爆発に巻き込まれ、先頭を歩いていた2名を残して全滅した。そうと知ったクロース大尉と兵士達は、怒り心頭になりながらも、先を進んだ。


部隊の集合場所に差し掛かると、警戒歩哨が、「止まれ、動くんじゃない、合言葉!」と叫んだ。兵士達は疲れ切って、苛立っている。先頭を行く兵士は、「合言葉ってなんだい」と、歩哨に毒を吐きかけながら、通過しようとした。すると、軽機関銃が発射され、その兵士の上半身を撃ち砕いた。兵士達は、信じられないといった顔をして、すぐさま身を隠した。クロース大尉は匍匐前進しつつ、「武器をしまえ、ばか者!我々はクロース大隊である。すぐに上官を呼び出してこい」と呼びかけた。やがて、1人の中尉がやってきて、クロースと応対した。


中尉は事情を知ると、歩哨に軽機関銃を向け、「仲間を撃つとはどういう奴だ!」と怒鳴り散らした。歩哨は若い兵士で、恐怖に震えていた。しかし、中尉は益々、激高して自分を抑えられなくなり、叫びながら弾倉が空になるまで軽機関銃を撃ち尽くした。上官に射殺された歩哨、その歩哨に殺された兵士、いずれも公式には、「偉大なるドイツのために戦死」となった。真相は、遺族には明かされない。先に、味方によって爆殺された工兵隊も同じく、名誉の戦死か、行方不明扱いであった。


●狙撃兵の仕事

ゼップは狙撃兵として戦いながら、次の事を学んだ。確実に捉えた目標以外は撃たない、1つの潜伏地点から撃つのは1発のみとし、すぐに次の潜伏地点に移動する。同じ場所から何発も発射すれば、すぐさま狙撃や砲撃の的となるからだ。擬装はなるべく簡便に済ませ、その材料も、軽量かつ、身近な物で済ませる。絶えず流動する戦場において、全身擬装は時間と材料を食うばかりか、動きも悪くなるので役には立たなかった。ゼップは、骨組みにした折り畳み傘に、枝や草を織り込んで利用した。


1日の活動を始める前に、排便を済ませておく。狙撃兵は、何時間もその場に潜伏する場合があるからだ。位置を特定されて迫撃砲の攻撃を受けた場合、思い切って飛び出し、ジグザグに走って自軍陣地に駆け込む。未熟な狙撃兵は、砲撃を受けると恐怖に身をすくませ、そのまま砲撃の餌食となっていた。だが、時と場合によっては、ジッと身を潜め続ける必要もある。狙撃兵同士の対決となって、相手に所在地を悟られた場合、僅かなりとも動く事は許されず、夜の闇を迎えるまで身を潜める必要があった。また、1人で狙撃するより、専門の観測員と連携する方が効率が上がる事を知った。そのため、必要に応じて、経験豊富な兵士に観測員を頼むようにした。


戦線が小康状態の時、ゼップは朝晩、前線より前に出て、敵情視察と狙撃を行った。狙撃をする事によって、敵の活動を抑え込み、士気を喪失させる効果をもたらした。また、目にした敵情は、相手の動向を特定するのに役立った。ゼップは、指揮官など重点狙撃目標を認めた場合、相手を確実に仕留めるべく、炸裂弾を用いる事があった。炸裂弾は文字通り、炸裂して相手に致命傷を負わせる。例え助かったとしても、酷い大きな傷跡を残す。そのため、携帯火器に炸裂弾を用いる事は、ジュネーブ条約で禁じられていた。しかし、ソ連軍は戦争初期からこの弾を使っていたので、ドイツ軍も対抗上、用いるようになった。ゼップは、ソ連製狙撃銃を使用している間は、ソ連軍の遺棄兵器から炸裂弾を調達していたが、後にドイツ製狙撃銃を支給されると、炸裂弾もドイツ製を使用した。


ロシア兵による集団攻撃が成された場合、敵は次から次にやってくるので、一発撃って、また次の地点に移動するといった悠長な真似は出来ず、射界が取れて体を隠せる潜伏地点から、出来る限り射撃を繰り返した。そして、敵の攻撃が正確さを増してきたり、戦況が変化してくると、予め定めておいた次の潜伏地点に移動した。300メートルまでの距離なら、出来るだけ胴体を狙い撃って、生きたまま戦闘力を奪うようにした。そうすると、重傷者が苦痛の叫びを上げて、敵の士気と勢いを削ぐ効果があった。50メートル以内に入ろうとした場合、即座に戦闘力を奪うべく、頭部または心臓を狙い撃った。だが、30メートル以内まで接近を許した場合、最早、狙撃銃は役には立たず、MP40短機関銃に取り替えて応射した。こうした陣地を巡る戦闘では、ゼップの殺害数は跳ね上がるが、狙撃の数には入らない。


1945年4月20日、ゼップは、ドイツ国防軍最高の叙勲の1つである、騎士十字賞を受賞する。公認狙撃数は、257人(実数は遥かに多い)に達していた。しかし、戦争は敗北に終わり、5月8日、ドイツは降伏する。ゼップの所属する第3山岳師団は、この報をチェコスロバキアで聞いた。翌5月9日、第3山岳師団は解散し、兵士達は少数に別れて、それぞれ西側を目指して歩き出した。ソ連の捕虜になる事だけは、避けたかった。しかし、チェコスロバキアの住民達は武装蜂起していたので、極力、人目を避けて横断せねばならなかった。ゼップは昼間は身を潜め、夜間に行動する事にした。


隠密の逃避行となるので、持っていくのは護身用の短機関銃のみでよく、狙撃銃はもう必要無かった。それに、捕まって狙撃兵と分かれば惨殺されるため、ゼップは辛い気持ちを堪えて、狙撃銃を処分した。この逃避行では、尚も大勢の戦友が命を失った。1945年6月5日、ゼップは、250キロの距離を走破して、無事、オーストリアの故郷、ザルツブルクに帰り着く事が出来た。ゼップは、常に戦場の渦中に身を置き続けたが、類まれな幸運に恵まれて、幾度かの軽傷だけで済んだ。だが、心には決して消える事の無い傷を負い、それからの人生において、悪夢となって蘇ってくるのだった。2010年3月2日、オーストリアのヴァルス・ズィーツェンハイムにて死去。ヨーゼフ・アラーベルガー、85歳。



主要参考文献、アルブレヒト・ヴァッカー著、「最強の狙撃手」



「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線  前

ドイツ軍狙撃兵、ヨーゼフ・アラーベルガーの凄絶な体験談。愛称はゼップ。


1924年12月24日、オーストリアのザルツブルクに生まれる。1943年、ドイツ国防軍に入隊し、6ヶ月の訓練を受けた後、東部戦線に運ばれ、第3山岳師団の軽機関銃手となった。1943年7月18日、初めて戦場に立ち、そこから無我夢中で戦ったが、すぐに軽機関銃手が決死隊に近い存在であると悟った。そして、自らも7月22日に軽傷を負う。軽機関銃は歩兵戦において重要な位置を占めるが、その分、敵からも狙われやすく、死傷率は飛び抜けて高かった。そのため、ゼップは生き残りを図って、狙撃兵への転向を申し出る。


当時、ドイツ軍は、自軍の狙撃兵不足を痛感していた事から、この転向はすんなり受け入れられた。いかにも俄仕込みであったが、ゼップは天性の射撃の才能を発揮して、たちまちドイツ軍屈指の狙撃兵へと成長してゆく。彼が手にしたのは、ソ連製狙撃銃モシン・ナガン91/30であった。銃と弾薬は、ソ連軍から鹵獲(ろかく)したものを使用した。狙撃兵は歩兵戦のエースであるが、敵からすれば憎悪の対象であり、捕まれば拷問と惨殺は免れなかった。尚、狙撃を証明するには、結果をノートに記して、それを下士官、士官に説明し、署名をしてもらう必要があった。また、陣地を巡る、両軍入り乱れての攻防における狙撃は、数には入らないとされた。


●避けられない道

1943年8月初旬、新米狙撃兵ゼップは早速、仕事を頼まれる。ゼップの所属する中隊は、数日前からソ連の狙撃兵によって付け狙われており、その排除を要請されたのだった。ゼップは、塹壕の隙間から様子を窺う。相手は射撃の腕は良かったが、一箇所に身を止めて射撃を繰り返していたので、すぐに居場所を特定する事が出来た。これは、狙撃兵として致命的な誤りであった。そして、ゼップは照準スコープの中に相手の体を捉える。軽機関銃手であった時は、ただ、無我夢中で撃ち続けていただけだが、今回は意識的に殺害せねばならない。初めての恐るべき任務を前にして、躊躇いが走り、動悸が高まって、体が震え出す。一度、狙いを外して大きく息を吸い、心を落ち着かせようとした。そして、再び照準を定めるが、また逡巡する。しかし、そんな最中にも、相手は獲物を探し求めている。


ゼップが狙われずにすんだのは、ただ、運が良かったからに過ぎない。もどかしく思った友軍兵士からは、「さっさと一発ぶっ放せ」との声が上がった。ゼップは体の力を抜き、夢の中にいるような心地で息を止め、思い切って引き金を引いた。銃声が轟き、兵士から、「やったぜ大当たり、お陀仏だ!」との声が上がった。これを合図にドイツ軍の攻撃が始まり、ソ連軍を追い出して、相手の塹壕を乗っ取る事が出来た。戦闘終了後、ゼップと仲間の兵士達は、首尾を確認するため、ソ連軍狙撃兵の死体を探し求めた。隠れ場所から死体を引き摺り出すと、弾丸は右目から入って、後頭部に抜け、そこに大穴を空けていた。相手は初々しさの残る、16歳ぐらいの少年兵だった。ゼップは、晴れがましさに恐ろしさ、それに良心の呵責とがない交ぜになって、倒れた相手を見つめていた。突然、吐き気が込み上げてきて、嘔吐せずにはいられなかった。そして、兵士達の目の前で、胃の中の物を全て吐き出した。


ゼップは醜態を晒したと思ったが、兵士達は平然とした顔で、理解を示してくれた。そして、年長の伍長が、「恥じる事はない。ここにいる誰もが通ってきた道だ。どうしたってくぐり抜けるしかない。ちびってズボンを汚すより、吐いてすっきりした方が良いさ」と言うと、火酒を取り出して、一杯飲むよう勧めた。ゼップはそれを手に取り、一杯ぐいっと飲み干した。これで新米兵士は、東部戦線の冷徹な戦士となった。この一件で、「戦争は殺すか、殺されるかである。敵への同情は自殺行為に等しく、迷った次の瞬間に敵が自分を殺すだろう。敵に対して兵士としての行動を徹底し、冷徹になればなるほど、生存の機会は増す」と悟った。そこからの14日間で、ゼップは合計27人の狙撃に成功する。もう、躊躇う事も吐く事も無かった。しかし、若者らしい純真さも、急速に失われていくのだった。


●東部戦線の衛生状態

東部戦線のドイツ兵のほとんどは、下痢を患っていた。勿論、不衛生な環境から来るものである。前線に張り付いている兵士達の悩みの1つが、その便の始末であった。塹壕の狭い空間に便を排出すれば、臭いはおろか、伝染病が広がる恐れもあるので、それは避けねばならない。そのため、兵士達は缶詰の空き缶を取り置いておいて、それに大小を放出すると、塹壕の外に投げ捨てるようにしていた。しかし、経験の浅い者は、便が自分に降りかからないよう、大きく体を乗り出すので、狙撃兵に撃たれる例が絶えなかった。戦闘中に便意を催せば、もうズボンの中に垂れ流す他無かった。戦闘が小康状態になった時、近くに川があれば、ズボンにこびり付いた便をこそぎ取った。また、兵士達は絶えず、虱(しらみ)にたかられており、暇さえあれば体や衣類を隅々まで調べ上げて、一心不乱に取った。補給も安定せず、数日間、食うや食わずの状態に置かれるのも日常茶飯事であった。飲料水不足になると、兵士達は度々、小川や水溜りの水を飲んだので、赤痢や黄疸に罹る者が絶えなかった。


●砲撃の恐怖

1943年9月26日午前8時、ソ連軍は戦線突破を図って、第3山岳師団に猛攻を加えてきた。手始めに、何百門もの火砲や、カチューシャロケットが火を噴いて、ドイツ軍陣地に砲弾の雨を浴びせかける。ソ連軍の砲撃の凄まじさは有名で、ドイツ兵の誰もが、恐怖を覚えている。うなりを上げた砲弾が次から次に着弾して、耐え難い轟音を轟かせ、破片と土埃をそこら中に撒き散らす。兵士達は少しでも深く塹壕に潜り込まんとして、身を屈め、必死に祈りの言葉をつぶやく。気が動転した兵士が、塹壕から飛び出さんとして、それを仲間が必死になって抑え込む。ゼップもまた、幼児のように怯えて穴の壁にしがみ付き、「神よ、ここから救い出してください、助けてください、天にまします我らの神よ!」と叫んだ。すぐ近くで爆発が起こったかと思うと、黒い物体が目の前に転がり落ちてきた。ゼップは思わず、恐怖に身がすくんだ。それは、隣の穴にいた戦友の血まみれの胴体だった。手足は千切れ、ずたずたになった頭部と胸だけを残していた。


それなのに言葉を発し、「どうなったんだ、何が起こったんだ。なぜ急に暗くなったんだ、どうして体の感覚がなくなったんだ」と呻き出した。続いて、「目が見えない、ああ、目が見えない、ああ、手はどこだ、ああ!」と叫んで、泥の中を転がり出した。この世のものとは思えない光景を目の当たりにして、ゼップは気が変になりそうだった。そして、体を震わせながら、「ああ神様、この男を死なせてください、ひどすぎます、どうか死なせてやってください!」と悲鳴を上げた。血まみれの戦友は、最後に断末魔の悲鳴を上げて、ようやく事切れた。その間は、恐るべき砲撃音さえ、耳に入らなかった。30分ほどしてソ連軍の砲撃は終わり、続いて戦車や歩兵による接近戦が始まると、ゼップはむしろ、ほっとした。戦闘の興奮に身を投じる事で、心の内に芽生えかけた狂気を発散する事が出来たからだ。


●将校の存在

東部戦線のドイツ軍は、消耗に補給、補充が追い付かず、その戦力は衰える一方だった。しかし、ソ連軍は、アメリカ、イギリスから莫大な援助を受け取ると共に、懐の深い国土から絶えず人員と兵器をおくり込んで、その戦力は増す一方だった。第3山岳師団も絶え間ない防御戦闘によって、師団としての戦闘力を失いつつあった。止む事のない戦闘と、日増しに募る不安感から、残存兵の間に動揺が広がり始めていた。1人や2人だけで塹壕陣地を守るのも珍しくなく、そうした孤立状況に置かれた兵士達は、取り残された様な孤立感や不安感を覚える。そして、仲間の顔を見たい、後方の安全地帯に逃れたいという、欲求に駆られるのだった。もし、部隊全体が恐慌状態に陥ったなら、抵抗はおろか、前線の維持すら不可能となって、容易に敵の蹂躙を許す事になる。そうなれば、部隊の壊滅は免れない。


1943年12月30日、ゼップが所属する144連隊において、ソ連軍の重圧に耐えられず、戦区の一部が恐慌の兆しを見せ始めた。この危機を鎮めるべく、連隊本部付きの大尉が前線に赴いた。兵士達を激励すべく、バイクと足を使って前線を駆け巡っている最中、大尉は、後方に向かって走り出した兵士5人の姿を認めた。大尉はすぐさまMP40短機関銃を構えると、その頭上に向かって威嚇射撃した。兵士達は驚いて立ち止まり、目を見開いて大尉を凝視した。しかし、動転していた1人は、大尉目掛けてライフルを発射する。弾は危うく逸れたが、大尉は毅然としたまま、その兵士に照準を定め、「銃を下ろして陣地へ戻るんだ、ばか者め!」と諭した。正気を取り戻した兵士達は、大尉に引き連れられて、元の陣地に戻っていった。


砲弾が降り注ぐ中、大尉は匍匐前進をして、ゼップの元にも立ち寄り、激励の言葉をかけ、チョコレート缶を1つ置いていくと、また次の陣地へと向かっていった。この大尉の勇気ある行動によって、連隊に再び秩序と信頼がもたらされた。最前線で兵士と共に戦う将校は、士気に大きな影響を及ぼすのだった。逆にそんな将校を失った場合、兵士達に動揺と混乱が現れ、戦意を喪失させる効果をもたらした。なので、独ソの狙撃兵達は、こぞって指揮官を狙い撃ちにした。尚、戦争末期のドイツ軍将校の損失は目を覆うばかりで、ゼップの所属連隊でも、1944年11月の時点で、通常は中尉か大尉が200人前後の中隊を率いるところを、軍曹が率い、通常は少佐か中佐が1,000人前後の大隊を率いるところを、大尉が率い、通常は大佐が3,000人前後の連隊を率いるところを、少佐が率いていた。兵員も定数を大きく割り込んでおり、おおむね3分の1以下だった。


●捕虜となる恐怖

1944年3月6日、ドイツ軍の前線が突破され、第3山岳師団も包囲の危機に直面した。味方戦線との繋がりは断ち切られる寸前で、幅1キロほどの回廊状の防衛地帯が唯一、逃れる道だった。ゼップが所属する144連隊も戦いつつ、この回廊を撤退していった。その際、ソ連軍に蹂躙された師団の中央救護所から、憔悴しきった衛生兵4名が逃れてきた。しかし、彼らは強い精神的ショックを受けており、明らかに言動がおかしかった。そこで、食事と酒を与えて落ち着かせると、自らが体験した恐るべき出来事を話し始めた。中央救護所には、軍医1人と衛生兵7人、それに動けない重傷者多数が残されていた。非武装である事を示すため、白旗と赤十字の旗を掲げ、良く見える場所に武器もまとめ置いていた。そこに、ソ連のモンゴル人部隊が現れた。


衛生兵の1人が、たどたどしいロシア語で、「我々は武器を持っていない。ここにいるのは怪我人だけだ。我々は投降する」と伝えた。しかし、モンゴル人達に寛容の心は無かった。 1人のモンゴル兵が近寄ってきたかと思うと、その衛生兵を銃床で殴りつけ、蹴飛ばした挙句、短機関銃を撃ち放って、止めを刺した。続いて、モンゴル兵達は、重傷者達が横たわっているテントに押し入ると、突然、1人の胸にナイフを突き立てた。それを見た衛生兵達は戦慄して、次に起きる事態を予感した。衛生兵達は併設するテントに押しやられ、見張りを1人付けられた。横たわる重傷者達を前にして、モンゴル兵の軍曹は、「母なるロシアに攻め込んで女子供を殺したら、どうなるか思い知らせてやる!」と叫び、部下達に、「羊と同じ要領で、こいつらの首を切れ」と命じた。それを受けて、モンゴル人達は手馴れた手つきで、次々に重傷者の首を掻き切っていった。


軍医は、現場の余りの凄惨さにへたりこんでしまったところ、モンゴル兵に、「臆病者!」と罵られ、銃床で殴り殺された。重傷者の処刑を終えるとモンゴル兵達は、救護所の略奪に取り掛かった。それが済めば、6人の衛生兵が殺されるのは明白だった。6人は意を決して、脱出を図る。そして、1人の衛生兵が見張りの背後から近づくと、引きずり倒して腎臓に短剣を突き刺した。それを合図に全員が走り出したが、騒動に気付いたモンゴル兵達は銃火を浴びせかけてきた。短剣を突き立てた最後尾の衛生兵と、その前を行く兵が撃たれて死んだ。残った4人は銃弾がかすめる中、必死に走ってその場を逃れた。そして、2日間走り通して、ようやく味方と合流したのだった。彼らの話を聞いたゼップらは、ロシアの捕虜になった場合を想像して、怖気を振るった。ゼップ自身も以前、ドイツ兵捕虜が首を切り裂かれた状態で殺されていたのを目撃しており、今回の事も合わせて、生きてロシアの捕虜にはなるまいと心に誓うのだった。





秦始皇帝陵

2017.01.15 - 三国志・中国史

紀元前210年7月21日(おそらくは8月21日)、中国史上初の皇帝、秦始皇帝は巡行中、病を得て急死した。嬴 政(えい せい)、49歳。始皇帝の死は秘され、その棺は車馬に載せられて、首都、咸陽へと運ばれていった。しかし、暑い時期であったため、車馬からは悪臭が漂い始めた。それを紛らわすため、塩漬けの魚が積みこまれた。行列が咸陽に着くと、喪が発せられ、公子の嬴 胡亥(えい こがい)が二世皇帝に即位した。同年9月、始皇帝の遺体は、西安の東方25キロにある、驪山(りざん)の地に埋葬された。


この山の麓に、始皇帝のために築造中であった陵墓があった。そして、遺体は地下宮殿に安置され、その上に巨大な墳丘が築かれた。陵墓の建設は、前246年、始皇帝が13歳で王位を継承した時から始まっており、二世皇帝の時代を迎えて、ようやく最終工程に入った。ここまで、38年の歳月が費やされていた。しかし、その最中の前209年7月、陳勝、呉広の反乱を受けて、工事は中断を余儀なくされる。そして、前206年、秦は滅亡を迎え、結局、始皇帝陵は未完のまま終わった。


しかしながら、秦が国力を傾けて築いただけはあって、始皇帝陵の壮大さは他の追従を許さず、中国史上最大の陵墓となっている。陵墓は、版築(黄土を突き固めただけの、簡単な工法)によって築かれた二重の城壁に囲まれ、外城は南北2,165メートル、東西940メートル、内城は南北1,355メートル、東西580メートルあった。そして、内城の中に、南北350メートル、東西345メートル、高さ76メートルの墳丘と、その地下30メートルに宮殿と始皇帝の墓室があった。


地上には、始皇帝の魂が日常生活を送るための寝殿や、休息のための便殿、食事をするための建物も建造されていた。陵墓の官吏は、毎日、食事を捧げていた。しかし、前209年、陳勝、呉広の反乱軍が陵墓に侵入し、兵馬俑を破壊して火を放った。続いて、前206年、項羽によって陵墓は暴かれ、この時も兵馬俑は破壊された。その後、陵墓に迷い込んだ羊飼いが地下宮殿を焼いて、その火は90日間も消えなかったと云う。


始皇帝の死から100年後の歴史家、司馬遷の記述を載せたい。

「始皇帝が秦王に即位して間もなく、驪山にて、その陵墓の築造が始まった。彼が天下を統一した後、全国から70万人の刑徒がここに集められて苦役に従事した。そして、3度、地下水脈を掘り抜いて、棺を覆う部屋を銅で固め、地下に宮殿、楼閣を築き、百官の席を設け、美しい器具や珍奇な財宝で墓室を満たした。器械仕掛けの弩と矢を備え付けて、盗掘者が近づけば発射するようにした。水銀で、全国の多くの川や長江、黄河、大海を再現し、器械仕掛けで流れるようにした。天井には天文の図、床には地理を描いた。永遠に燃え続けるよう、人魚(鯨との説)の膏(あぶら)で燭台の火が灯された。二世皇帝が即位すると、「先帝の宮女の内、子の無い者は後宮から出すべきではない」と言って、殉死を命じた。多数の殉死者を埋葬した後、官吏の1人は、「器械仕掛けをこしらえた工匠達は、墓の内部を知り過ぎており、それを漏らす危険があります」と建議した。そこで、始皇帝の棺を墓室に安置し、様々な財宝を収めた後、墓道の中と外の門が下ろされ、陵墓の建設に携わった人々を悉く閉じ込めて、誰1人出られないようにした。その上で、陵墓に草木を植え、丘陵の様に見せかけた」


1974年、陵墓から東に1・5キロの地点から、兵馬俑が発見された。俑(よう)とは陶器で作られた人形で、死者への副葬品とされた。始皇帝陵では、兵士、軍馬、戦車、指揮官、文官、力士、水鳥など、様々な俑が発見されている。中でも、人間を模(かたど)った俑は、非常に写実的で、今にも動き出しそうな迫力を醸し出している。実在した兵士を模して作られているので、身長、体格も実物大で、それぞれ容貌も違っており、同じ容貌の者は今だ発見されていない。また、額の皺(しわ)や顎の髭(ひげ)、鎧の金具、衣服の皺といったところまで再現されている。


容貌からは、関中、巴蜀、隴東(ろうとう)といった秦出身の兵から、北方騎馬民族系、西域系、秦が滅ぼした東方6ヵ国系の顔が見てとれた。これによって秦の軍隊は、様々な地域の人々から成り立っている事が分かった。兵士達は盾を持っておらず、鎧も胴体を覆うのみであった。これは秦の軍隊が、機動性を重視した攻撃的性格を持っていた事を示唆している。秦の軍隊の獰猛さは史書にも記されており、その精鋭部隊がそのまま再現されていた。 彩色が施された兵馬俑が発見された事から、制作時には鮮やかな彩色が施されていた事も分かった。しかし、兵乱を受けて焼かれたり、長らく地中に埋もれている間に、彩色は失われていった。彩色が残っている兵馬俑も、適切な処置を施さないと、空気に触れた途端、急速に劣化してしまう。この様に彩色の保存は難しく、現存する兵馬俑のほとんどは、土色となっている。


実物大の人間や馬の陶器を作るには、高度な技術と大変な手間が必要であった。まず、材料として黄土を捏ねるが、粘り気を増すため、何種類かの土も加える。次に、薄手の粘土で全身を形作っていくが、頭から足まで内部は空洞とし、焼成時の破裂を防ぐため、空気孔も作っておく。立たせて安定させるため、下半身は太めにして、重心を下げておく。ひび割れや歪みを防ぐため、収縮する度合いも考慮しておく。十分乾燥させてから、窯に立たせ、1000度丁度ぐらいの温度を保ちながら長時間、慎重に焼成する。出来上がった俑は生漆を塗られ、その上に何種類も色を重ねて、色合いに深みをもたせていった。


完成なった兵士俑の多くは、青銅製の実物の武器を持たされた。しかし、秦末の混乱時、兵馬俑に突入した反乱軍や、これを鎮圧する秦軍自身によって、武器の多くは持ち去られた。それでも、多数の剣、矛、戟(げき)、弩(ど)、鏃(やじり)が、兵馬俑から発掘された。大部分は青銅製で、鉄製は僅かしか出土しなかった。これらの武器は、公開するにあたって取り上げられ、別に保存されている。武器は、腐食耐性のあるクロムの膜で覆われており、発見時にも今だ光沢と切れ味を保っていた。クロムメッキの技術は、1937年にドイツで発明されたとあるが、秦はそれより2千年も昔に、既にこれを習得していた事になる。しかし、この技術は秦の滅亡と共に消え去ってしまい、次の漢王朝には継承されていない。このような高度な技術を、秦がどのようにして習得したのかは、今だ謎とされている。


兵馬俑は1号坑、2号坑、3号坑、4号坑からなっているが、4号坑は未完となっており、何も入っていない。1号坑からは、焼却された跡が残る兵士傭が多く見つかっており、3号坑からは、頭部を砕かれた兵士傭が多く見つかった。これらは、陳勝、呉広の反乱軍と、項羽の軍による破壊を物語っている。兵馬俑は、全てが発掘された訳ではなく、今だ多くが地中に埋もれたままとなっている。その密度から計算すると、8千体が存在すると考えられている。


2000年には、外城の東北に水鳥坑が発見され、青銅製の鶴6羽、白鳥20羽、雁(がん)20羽、それに飼育係の官吏の俑も発見された。地下に河川が作られて、その畔にこれらは配置されていた。秦の次の王朝、漢の時代にも、秦を見習ったと思われる兵馬俑が作られているが、その大きさは3分の1程度で、写実性にも欠けている。秦ほど規模の大きな陵墓と兵馬俑は、後にも先にも存在しない。しかしながら、後の王朝は、秦が一大陵墓を築かんとして、国が傾いていった事を知っており、これを反面教師として大規模な陵墓は築かなかったとも言える。


始皇帝陵は、驪山(りざん)の山麓にある事から、土石流に襲われる危険性があった。そのため、陵墓の東南に版築工法による堤防を築いて、土石流から守った。現在、その施設は五嶺遺跡と呼ばれており、長さ1キロ、幅40メートル、高さ2~8メートルほどの版築が残されている。また、陵墓の内城、外城には、排水施設が設けられており、陶製の下水管を敷き詰めて、雨水の排出が行われていた。下水管は五角形の構造で、上面の三角形によって上からの圧力を緩和し、平らな広い底面によって沈み込まない様にしていた。これら陶製の下水管は大量に制作されて、陵墓全体の地下に埋め込まれていた。それによって、地下宮殿への浸水を防いでいたと考えられる。


1976年、外城の東350メートルの地点で、整然と並んだ17基の墓が発見された。その内、8基を発掘したところ、男性5人、女性2人の遺骨が見つかった。印賞も見つかった事から、これらは始皇帝の公子であると推測された。1人の頭骨には銅の鏃(やじり)が刺さっており、遺骨はばらばらに分断されていた。始皇帝には20数人の子供がいたが、二世皇帝は大部分を殺害して、陵墓に殉葬したとされている。李斯(りし、秦の丞相)伝によれば、公子12人と公女10人が殺害されたとあり、秦始皇帝本紀では、公子6人が殺害され、公子3人が自殺に追い込まれたとある。その血生臭い故事を、裏付けるかのような発見であった。


1978年、1979年には、陵墓の西南1・5キロの地点で、刑徒の墓地が2ヶ所見つかった。103基あった墓の内、32基を発掘したところ、100体の遺骨が見つかった。それは、竪穴の小さな墓で、1人を埋葬したものから、2,3人、多い所では14人がまとめて葬られていた。鑑定したところ、女性は3体、男性は6~12歳の子供のものが2体、その他は20~30歳のものであったようだ。遺骨の上に置かれていた瓦片には、姓名、本籍、力役が記されていた。


1981年、始皇帝陵の墳丘を調査したところ、表面の土から水銀が検出された。墳丘の周辺では30ppbの濃度であったが、墳丘中央では平均205ppb、多い所で1,500ppbに達していた。2千年以上の歳月を経て、地下にあった水銀が蒸発し、それが地表に現れたと見られる。司馬遷の記述にあった、水銀の川と海の存在を裏付ける調査結果となった。2002年から2003年9月にかけて、考古学者達は墓を掘る事なく、地中レーダー、赤外線、磁気探知などの科学的手法をもって、墳丘を調査した。その結果、地下宮殿の空間は、南北145メートル、東西170メートルである事が判明した。


墓室は、地下30メートルにあって、南北50メートル、東西80メートルあった。墓室は石灰岩で守られ、空間の高さは15メートルあって、周囲は16~22メートルの厚い壁に覆われていた。墓室は浸水しておらず、崩れてもいないようだった。棺は、防腐作用と、湿度調整機能がある木炭で覆われていると考えられている。また、地下30メートルにあって、地熱は10~15度程度で安定している事から、始皇帝の遺体は、現在でも形を留めている可能性がある。古代技術の粋を極めた財宝や壁画も、そこにあるだろう。しかしながら、現在の技術で陵墓を発掘すると、空気に触れた瞬間、遺物が損壊する恐れがある事から、確かな保存技術が確立されるまで、中国の考古学会は発掘を容認しない方針である。始皇帝と地下宮殿は、神秘のベールに包まれたまま、今だ眠りについている。



 
↑秦始皇帝陵の地図(ウィキより)



↑秦始皇帝陵の墳丘(ウィキより)  




↑クロムメッキを施された青銅剣(ウィキより)




↑兵馬俑坑(ウィキより)


 

↑兵馬俑(ウィキより)




↑兵馬俑(ウィキより)


主要参考文献
鶴間和幸著、「中国の歴史 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国」
「始皇帝の地下帝国」




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重家 
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重家
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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