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高知城

高知城は、高知県高知市にある平山城である。日本において江戸時代からの現存天守閣がある、12城の内の1つで、本丸御殿も現存する貴重な城である。高知平野の中心に位置する、大高坂山(標高44・4メートル)に築かれ、北に流れる江の口川、南に流れる鏡川を天然の外堀とした。




南北朝時代、地元の豪族、大高坂山に城を築いたのが最初とされる。その後、廃城になっていたらしいが、戦国時代、天正15年(1587年)、土佐の出来人、長宗我部元親が大高坂山に再び城を築いて本拠とした。しかし、当地は、水害が多発する、低湿地帯であった事から工事は難航した模様である。大高坂山城の整備は続いていたようだが、天正19年(1591年)、長宗我部氏は浦戸城に本拠を移転した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、長宗我部氏は西軍に組した事から改易となり、翌慶長6年(1601年)、山内一豊が土佐一国24万石の大名として浦戸城に入った。



一豊は浦戸城を本拠としたものの、地積が狭い事から城下の発展は期待薄であった。そこで、大高坂山を新城地と定めたが、やはり難工事が予想された。一豊は、西軍の浪人で、築城、石垣普請の名手とされた、百々綱家(どど つないえ) を招聘し、総奉行に任命して新城築城の大任を委ねた。綱家はその期待に応えて、城の縄張に、城下の町割も行なった。そして、慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸が完成して、河中山(こうちやま)城と命名され、城内にて盛大な祝宴が催された。


慶長15年(1610年)、二代目藩主、忠義は度々、水害に悩まされた事から、川中山の字を嫌って、高智山に改め、更に高知と定めた。慶長16年(1611年)、三ノ丸が完成し、これで城の縄張りは完成となった。享保12年(1727年)、城下の大火を受けて、天守閣を始めとする城内の建物の大半が焼失する。寛延2年(1749年)、天守閣が再建される。明治6年(1873年)、明治政府の廃城令を受けて、天守閣、本丸周辺建造物、追手門を残して、後は全て取り壊された。その後、高知城は保存の対象となり、幾度かの修復工事を受けて、現在に到る。





↑山内一豊像





↑追手門





↑本丸石垣





↑天守閣





↑詰門





↑御殿内部





↑天守閣から東を望む





↑天守閣から西を望む






↑天守閣から北を望む





↑天守閣から南を望む





↑天守閣を望む






↑天守閣を望む



高知城はそんなに大きな城ではありませんが、大きな破風のある天守閣は優美で、印象に残ります。また、御殿を始めとする、本丸周辺の建物も見応えあります。

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竹田城、再訪

竹田城は、兵庫県朝来市にある山城である。標高353・7mの古城山の山上にあって、豪壮な石垣が残る、日本屈指の山城とされている。竹田城は、但馬、播磨、丹波の境目に位置する、交通上の要衝にして、戦国期から近代に到るまで莫大な銀を産出した、生野銀山の支配権も有していた。



竹田城の正確な築城年代は不明で、嘉吉3年(1443年)、山陰の雄、山名持豊(宗全)によって築かれ、初代城主として、太田垣光景が配されたと云う。そして、太田垣氏は、山名氏の重臣として、代々、竹田城を統治した。永禄12年(1569年)、織田家の部将、木下秀吉が但馬に侵攻を開始し、生野銀山から山名氏の本拠にあたる此隅山城まで、10日間で18城を落とした。この時、太田垣氏は竹田城共々、秀吉に降伏したと思われる。永禄13年(1570年)、太田垣輝延が七代目城主となった。しかし、天正3年(1575年)、隣国、丹波の雄、荻野直正の侵攻を受けて、竹田城は落城する。



主筋の山名祐豊は織田家に援軍を求め、これに応じる形で明智光秀が荻野直正を攻め立てたので、輝延は竹田城に復帰する事が出来た。しかし、これ以降、山名祐豊と太田垣輝延は織田家との確執を深め、毛利家に組して、織田家に敵対する。太田垣氏の場合は生野銀山の支配権を巡って、織田家と対立したらしい。 これを受けて、天正5年(1577年)、羽柴秀吉は但馬に侵攻し、竹田城を攻撃した。輝延は敵わずと見て城から退散し、秀吉は、弟、秀長を竹田城代として入れた。しかし、翌天正6年(1578年)、播磨の別所氏が蜂起した事から、秀長は援軍に向かわねばならなくなった。その隙を突いて、輝延は再び、竹田城に返り咲く事が出来た。



天正8年(1580年)、播磨を平定した秀吉は、次に但馬を平定すべく、秀長を差し向けた。秀長は瞬く間に但馬を席巻して、輝延も竹田城を追われた。輝延のその後は不明で、太田垣氏は完全に没落する。秀長は、家臣の桑山重晴を1万石の竹田城主とした。天正13年(1585年)、桑山重晴は移封され、赤松広秀(斎村政広)が2万2千石の竹田城主となった。慶長6年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、赤松広秀は西軍に属し、丹後田辺城攻めに加わった。しかし、本戦で西軍が敗れた事から、広秀は降伏して、東軍による鳥取城攻めに加わった。この時、広秀は城下を焼き討ちして大火を招いた事から、戦後、徳川家康から切腹を命じられる。竹田城は接収されたが、その後、用いられる事なく、廃城となった。






↑竹田城下

竹田城は、昔は山上近くまで車で行けましたが、近年は史跡保護の観点から、中腹、あるいは麓からバスに乗るか、徒歩で登って行く形となりました。尚、山上には料金所があって、500円の入城券を購入する必要があります。私は麓の竹田駅近くにある、竹田まちなか観光駐車場に車を停め、そこから歩いて山頂まで登って行きました。






↑登山口

登り始めたのは8時20分で、山頂に着いたのは8時50分でした。















↑天主台から北を望む






↑天主台から東を望む






↑天主台から南を望む





↑天主台を望む






↑天主台を望む





↑麓から竹田城を望む


私が竹田城を訪問するのは、これで三度目と記憶していますが、いつ訪れても、見応えがあります。また、季節によってその景観も大きく変わるので、晩秋の雲海、冬の雪化粧も見てみたいです。

鹿野城

鹿野城は、鳥取県鳥取市鹿野町にある平山城である。標高148メートルの妙見山に築かれており、山麓の平城と、山上の山城が一体として用いられた。往時には、3層の天守閣が築かれていた模様である。



創建年代は不明で、因幡守護、山名氏の家臣であった志加奴氏(鹿野氏)によって築かれたと云われる。江戸中期に書かれた軍紀「陰徳太平記」によれば、天文13年(1544年)初夏、出雲の戦国大名、尼子晴久の攻撃を受けて、鹿野入道以下300人余が討ち死にして、落城したと云う。その後は、山名氏の持ち城となっていたが、毛利氏の進出を受けて、その支配下に落ちた。


天正8年(1580年)、織田家部将、羽柴秀吉の攻撃を受けて落城し、天正9年(1581年)、その家臣であった亀井茲矩が1万3,800石の城主として入った。茲矩は、鹿野城を総石垣の近世城郭に造り替え、合わせて城下町の整備も行い、鹿野町の基礎を作り上げた。慶長9年(1600年)、茲矩は関ヶ原の戦いで功を上げて加増され、3万8千石の大名となり、次代の政矩の時には4万3千石となった。元和3年(1617年)、亀井氏は転封され、代わって池田光政が因幡、伯耆国合わせて32万5千石の鳥取藩として入り、鹿野城には家老の日置忠俊が入った。


寛永9年(1632年)、光政は岡山に転封され、代わって同じ池田一族の光仲が鳥取藩主となった。鹿野城には代官が派遣されたが、正保元年(1644年)、城は破却されたとされる。





↑鹿野城の鳥瞰図





↑鹿野城の登山口





↑城山神社

往時には曲輪が置かれていたのでしょう。





↑天主台跡

小振りながらも、3層の天守閣がそびえていたと思われます。





↑本丸から城下を望む


山頂は樹木に覆われていて、眺望はいまいちでした。





↑本丸跡


現在は中学校の校庭となっていますが、往時には居館が築かれていたと思われます。





↑出丸跡と外堀





↑麓から見た鹿野城


鹿野城は、史跡としては見所が少ないと感じました。けれでも春になると、桜が堀に映り込んで、大変、美しい光景が見れる様です。

羽衣石城

羽衣石城は、鳥取県東伯郡にある山城である。標高372メートルの羽衣石山の山上に築かれ、眼下に山陰道を望む、伯耆東部の要衝である。人工の石垣は少なく、天然の岩石を石垣の様に利用していた。



羽衣石城は、室町時代の貞治2年(1366)年、伯耆国に所領を有していた、南条貞宗によって築かれたと伝わる。以後代々、戦国に到るまで、南条氏の本拠として用いられた。天文年間(1532~1555)初期、当時の南条家当主、宗勝は、隣国、出雲の戦国大名、尼子氏の傘下に入り、天文9年(1540年)には、尼子氏による、吉田郡山城攻撃(毛利元就の居城)にも加わった。しかし、天文12年(1543年)、周防国の大大名、大内氏が、尼子氏の本拠地、月山富田城を攻撃すると、宗勝は寝返って、大内氏の道案内をした。



ところが、大内氏が惨敗して、尼子氏による反撃が始まると、天文16年(1547年)頃、宗勝は所領を保てなくなって、隣国、因幡に逃れた模様である。それから15年余、諸国を転々としながら、旧領回復の機会を窺った。やがて、毛利氏の勢力が強大化してくると、宗勝はその傘下に入った。そして、永禄5年(1562年)、毛利氏の後援を受けた宗勝は、ついに羽衣石城を奪回し、旧領復帰を果たしたのだった。毛利氏は伯耆を2分して、西半分は家臣の杉原盛重に、東半分は宗勝の支配に委ねた。それからの宗勝は、毛利氏の協力者として各地を転戦し、天正3年(1575年)に死去した。南条宗勝、享年79?



跡を継いだのは嫡男、元続で、毛利氏の重鎮、吉川元春に血判起請文を差し出して忠誠を誓い、所領を安堵された。だが、この頃から畿内の覇者、織田信長の勢力が山陰にまで及び始めており、元続の心は揺れ動く。そして、尼子遺臣の福山茲正(ふくやま これまさ)を通して、織田氏に気脈を通じるに到る。ところが、吉川元春はそうと知ると、天正4年(1576年)、毛利派の南条家臣、山田重直に命じて、福山滋正を討たせた。これに慌てた元続は、重臣5人を元春の下に派遣して、弁明に努める始末であった。しかし、元続の心中は既に決しており、家臣の山田重直に対しても含むところがあった。



そして、天正7年(1579年)9月、意を決した元継はついに、山田重直の居城、堤城を襲うに到った。堤城は落城し、重直は命からがら脱出して、鹿野城へと逃れた。毛利派であった重直を攻撃した事で、南条氏の離反は決定的となった。そして、天正8年(1580年)6月、織田家部将、羽柴秀吉が因幡に侵攻を開始すると、元続もこれに援軍を送って、協力する。秀吉は鹿野城を落とし、亀井茲矩を守将として置いた。これで織田氏と南条氏は勢力が接して、協力関係は深まった。



この事態に危機感を覚えた吉川元春は、南条討伐を決意し、同年8月、自ら軍を率いて、羽衣石城前面に展開した。両軍は長瀬川を挟んで対峙し、同年8月13日、吉川軍が渡河して攻撃を開始し、これを南条軍が迎え撃って、激闘となった。しかし、数に劣る南条軍は破れ、城へと逃れた。勝った吉川軍は数百人を討ち取ったと喧伝したが、自らの損害も多く、城攻めには到らなかった。



天正9年(1581年)6月25日、羽柴秀吉は姫路から出陣して、因幡に侵攻し、毛利方の城、鳥取城を囲んだ。毛利方は、鳥取城に兵糧を送り込まんとしたが、陸路からの輸送は、間に羽衣石城が立ちはだかっているので甚だ困難で、海路からの輸送も織田方の兵船によって阻まれた。吉川元春は、鳥取までの道を切り開くべく、嫡男、元長を先鋒として送り出した。元長は、伯耆国衆に参陣を促したが、皆、日和見の態度で思うように集まらなかった。鳥取城を囲む秀吉軍は、2万人余、そこへ後詰めに向かうには兵力不足であった。そのため、まず羽衣石城を落として気勢を上げるべく、同年8月11日、元長は、これに攻撃を加えた。



8月12日、南条軍が固めていた長和太は破られたが、次の羽衣石谷入口で必死に防戦して、吉川軍を追い返した。この合戦で、南条軍は160人余、吉川軍は180人余が戦死し、負傷者は数知れなかったと云う。元春は、毛利輝元に援軍を請うたが、毛利本家も余裕が無く、それは果たされなかった。そこへ、鳥取城が落城寸前との報が入り、元春は僅かな手勢をもって出陣を決意する。そして、同年10月25日には、羽衣石城から30町(3.3キロメートル)余の距離にある、馬ノ山に陣取って、更に前進する予定であった。



だが、同10月25日、鳥取城は落城する。元春は悲報を受けるも、逆に闘志を燃やし、弔い合戦の決意で羽衣石城を攻撃せんとした。そうと知った元続は、秀吉に後詰めを仰いだ。これを受けて秀吉は2万人余の兵を率いて、同年10月27日、御冠山に着陣し、馬ノ山の吉川軍6千人余と向かい合った。秀吉の方が優勢であったが、決死の覚悟の元春を甘く見ず、まずは羽衣石城に兵糧、弾薬を届けるのが先決と見なした。そして、伯耆国中から兵糧を掻き集めると、それを羽衣石城に搬入していった。



同年11月8日、秀吉は、蜂須賀正勝、羽柴秀長を押さえとして残すと、姫路へと帰陣して行った。一方、元春も押さえの兵を残すと、帰陣した。南条方としては、秀吉が、元春を討ち滅ぼしてくれるものと期待していたので、早々の撤退は予想外であった。そのため将兵は気落ちして、脱走者が多数、出る事態となってしまう。それでも、秀吉は一応、後詰めを果たし、羽衣石城はその後も持ち堪える事が出来た。一方、元春は、鳥取城の後詰めを果たせず、落城の憂き目となった。両者の明暗は分かれたのである。




天正10年(1582年)2月、元春は、再び伯耆に侵攻してきて、南条方の妙見山城を襲った。元続も後詰めに駆け付け、激戦となったが、城を奪われてしまう。この後、元春は、備中高松城の後詰めに向かったので、南条方は一息付くことが出来た。しかし、同年6月2日、本能寺の変が起こって、元続は織田家の後ろ盾を失ってしまう。そして、同年9月、南条方から内通者が出て羽衣城に火を放ち、合わせて毛利方の山田重直勢300人余が侵入して来たため、南条方は総崩れとなって、元続は僅か数人の郎党を伴って城から脱出した。3年前、元続は、重直を追いやったが、今度は自分がやり返されてしまった。



元続は秀吉の下に走り、旧領復帰を訴えた。その甲斐あって、天正11年(1583年)11月から天正12年(1584年)7月の間に、羽衣石城に復帰する事が出来た。翌天正13年(1585年)、羽柴氏と毛利氏との間で境界線の交渉が成立し、伯耆国は西半分3群が毛利領に、東半分3群が南条領として確定した。南条氏は4万石(6万石とも)の豊臣大名となり、天正15年(1587年)の九州征伐や、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣した。天正19年(1591年)、南条元続、死去。享年43。跡を継いだのは、元忠であったが、13歳の年少であったため、叔父が後見人となった。



慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、元忠は西軍に付き、伏見城や、大津城攻めに加わった。しかし、本戦で西軍が敗れたため、南条氏は改易の憂き目に遭い、元忠も浪々の身となった。大名としての南条氏はここに滅亡し、羽衣石城も廃城となる。その後の元忠であるが、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣が起きると、豊臣方として大阪に入城した。そして、3千人余の兵を任せられ、平野橋口の守備を任されたが、ここで、徳川方から伯耆1国を与えるとの条件を提示され、内応を決意する。しかし、豊臣家臣、渡辺糺(わたなべ ただす)に見破られ、城内にて切腹させられた。南条元忠、享年37。



参考HP 東郷町誌http://www.yurihama.jp/town_history2/default.htm

                        




↑羽衣石城案内図

中腹まで車で行けます。そこから歩いて15分ほどで、本丸に着きます。





↑登山路





↑天然岩

羽衣石城には、このような大岩が所々にあります。





↑大岩と祠(ほこら)


その昔、この山に羽衣をまとった天女が舞い降りたとの伝説から、羽衣石山と名付けられました。





↑模擬天守閣と、展望台


往時の羽衣石城には、天守閣は無かったと思われます。





↑展望台からの眺め

日本海と東郷池が見渡せます。





↑本丸下の曲輪跡






↑本丸の土塁





↑天然石を利用した塁壁

この付近で突然、ガサガサという音がしたかと思うと、野生の牡鹿とばったり出会いました。双方、ビックリ仰天して、牡鹿は山へ、私は麓へと慌てて逃げ去りました。





↑麓から見た羽衣城

往時には、この辺りに平時の居館があったのかもしれません。羽衣石城は、天然の地形を多用した野性味ある城跡でした。

飛騨松倉城

飛騨松倉城は、岐阜県高山市にある山城である。


松倉城は、天正7年(1579年)、飛騨の戦国大名、姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)によって築かれた。天文9年(1540年)、頼綱は、飛騨南部を支配していた三木良頼の嫡男として生まれる。頼綱も当初は、三木と名乗っていたが、父の政治活動によって、飛騨国司、姉小路氏の名跡を得ると、姉小路頼綱と名乗るようになった。元亀元年(1570年)2月、頼綱は上洛して、織田信長と誼(よしみ)を通じたが、同時に上杉謙信にも通じて、両属する姿勢を取っていた。だが、天正6年(1578年)3月、謙信が病没すると、頼綱は上杉家から離れ、同年10月の織田家による、越中侵攻に協力した。


天正7年(1579年)、頼綱は飛騨を統一すべく、大きく動き出す。まずは、松倉城を築いて、ここを新たな本拠と定めた。続いて、織田家の力を後ろ盾として、親上杉派の国人達を討ち滅ぼしていった。また、この年、頼綱は、長男である、姉小路信綱に謀反の疑いをかけて謀殺したとされている(1583年の出来事とも)。だが、飛騨北部にはまだ、最大の競争相手である、江馬輝盛が残っていた。天正10年(1582年)6月、織田信長が横死すると、輝盛は挙兵して、飛騨の覇権を賭けて、頼綱に決戦を挑んだ。両軍の兵数は不明だが、江戸時代の軍紀「飛州軍乱記」によれば、姉小路方1,000人、江馬方は300人であったと云う。勢力的に見て、姉小路方が上回っていただろう。


同年10月26日午前2時、兵力で劣る江馬軍は機先を制して、姉小路方の支城、小島城に夜襲を仕掛けた。だが、案に相違して激しく応戦され、江馬軍は退却する。翌日、頼綱は江馬軍を追って進軍、八日市にて両軍は激突し、2時間余りの戦闘の後、輝盛を討ち取った。更に、江馬氏の本拠、高原諏訪(たかはらすわ)城をも落とし、頼綱の飛騨統一は大きく前進する。翌天正11年(1583年)、頼綱は仕上げとして、実弟の鍋山顕綱を暗殺(この時に、長男の信綱を暗殺したとも)、更に同盟者であった広瀬宗域も攻め滅ぼし、ここに頼綱の飛騨統一は(白川郷の内ヶ島氏を除き)、完成を見る。そして、頼綱は、家督と松倉城を次男の秀綱に譲り、自らは北方の広瀬城に居を定めた。


天正12年(1584年)、豊臣秀吉と、徳川家康、織田信雄との対決、小牧・長久手の戦いが起きると、頼綱は越中の同盟者、佐々成政と共に、徳川、織田陣営に付いた。しかし、織田信雄が秀吉と単独講和してしまい、徳川家康もそれに続くと、頼綱と佐々成政は孤立してしまう。天正13年(1585年)7月、秀吉は自ら大軍を率いて、越中の佐々成政を攻め立て、飛騨の頼綱には、部将の金森長近の軍を差し向けた。二方面から進軍して来る金森軍に対し、頼綱は各支城に一族、重臣を篭めて待ち受けた。


姉小路方は防戦に務めたものの、衆寡敵せず、次々に支城は落ちていった。広瀬城も攻め立てられ、頼綱は降伏する。一方、嫡男の秀綱は降伏を良しとせず、松倉城に篭もって、尚も抵抗を続けた。だが、同年8月、秀綱は、守り切れないと見て城を落ち延び、信濃を目指さんとした。秀綱と夫人は険しい山中の道に分け入り、標高1790メートルの安房峠(あぼうとうげ)を越え、ようやく信濃の地に入った。


だが、山深い角ヶ平の地にて、住民の落ち武者狩りに遭い、夫妻諸共、殺された(夫妻は二手に分かれて進み、それぞれの地で最後を遂げたとも)。秀綱と夫人の逃避行は、幾つかの伝説を残し、その遺品は、現在にまで伝えられている。一方、頼綱は助命され、京都に幽閉された。しかし、大名としての、姉小路氏はここに滅亡する。頼綱が生涯を費やし、更に血族をも犠牲にして成し遂げた飛騨統一は、脆くも崩れ去った。天正15年(1587年)、姉小路頼綱、死去。享年48。


頼綱の夢の跡、松倉城であるが、その後、金森長近の支配する所となり、石垣を有する織豊系城郭へと変貌を遂げた。だが、天正16年(1588年)、長近が新たに高山城を築き、そこを居城とした事から、廃城となった。























↑本丸石垣




↑本丸



↑本丸から北東を望む





↑本丸から北西を望む





↑本丸から南を望む





↑南石門跡



松倉城からは、高山盆地を一望する事が出来ます。ここから、眼下を見渡したなら、少しばかり飛騨の支配者になった気持ちがするでしょう。

 プロフィール 
重家 
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