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毛利隆元の苦悩

2016.09.09 - 戦国史 其の三

大永3年(1523年)、毛利隆元は、毛利元就の長男として生まれる。天文15年(1546年)、隆元24歳の時、元就より家督を譲られて、当主となった。元就は、隆元に大きな期待を抱いていたが、同時に心配もしていた。

元就いわく、「隆元はまったくの正直者で、これでは今の世の中はやって行けない。」

「今の時節は、誰が一番役立つ味方なのか、何が大切で何が不要なのか、どれを後回しにして、どれを急ぐべきなのか、隆元はその分別がちと弱いようだ。これも経験不足から来るものだろうか。」

「万事をなげうって、隆元は稽古に励まねば駄目だ。」

「隆元は、大変な孝行者である。神仏への信心も見事である。」


元就は、隆元の実直な人柄を危ぶむと共に、評価もしていた。そして、まだまだ経験不足であると見なしていた。それでも元就は、当主としての隆元を全面に押し出していく。

「余所(よそ)への使者などの命令は、これからは隆元に行わせる。」

「余所(よそ)への書状は、日夜、隆元から出させる。」

その一方で元就は、自らの指示を絶えず仰ぐよう求めた。

「大小に関わらず、例え分かった事でも、密密に私に相談し、判断を仰ぎなさい。」

そして、隆元から相談される度、元就は細かい助言を送って、陰から新当主を支えた。これらは書状で密密にやり取りされ、元就は、「この書状を見たら、誰にも見せずに燃やしさない。」と注意書きを付け加えておいたが、実直な隆元は、これらの書状を大切に保管し続けた。元就は常日頃から、「書状は大事の物。」、「いずれも暇があれば、隅々まで目を通しておきなさい。」と言い聞かせていたので、隆元はそれを忠実に守ったのである。その結果、これらの書状は後世まで残って、我々の目にするところとなった。


ただし、書状だけでは本心が伝わらない事もあるので、元就は、時には面談に来るよう求めた。

「書状では、一通りの事しか表現できず、かえって相談がうまくいかない事もあるので、隆元自身、軽々と山上まで登って来て、面談しなくてはなりません。」

元就と隆元は、共に吉田郡山城に住んでいたが、元就は山上190メートルの本丸に住んでおり、隆元はそこから100メートル低い本城に住まっていた。しかし、隆元は、「本丸と本城は遠く、何事も不便である。」と述べて、この後、本丸から程近い尾崎丸に生活の場を移した。これも、元就の指南を受けやすくするためであろう。


隆元は、父の助言を忠実に守りながら、力を尽くして当主の重責を務めていた。しかし、自らの力量が父には及ばないとも自覚しており、自分の代で家を滅ぼしてしまうのではないかと、深く憂慮していた。天文23年(1554年)春、大敵、陶晴賢との戦いを目前に控えていた時、隆元は、山口にある国清寺(こくしょうじ)の僧侶、笠曇恵心(じくうん えしん)に宛てて、武運つたなく敗れた際には、死後の弔いをしてくれるよう依頼した。隆元は、恵心を心の師と仰いでいたようで、胸中を余す事なくさらけ出している。


「我が家も、父の代で終わると思います。私の代からは家運も尽き果てたようです。諸家興亡の中で、我が家だけが今日に至るまで存続しているのは、誠に不思議な事です。しかし、何時までも我が家が存続している訳は無く、私は家が滅びる時の主人として生まれて来ました。我が家は数代に渡って名を留め、父の代になり、その数代にも勝る名を馳せるようになりました。このため、例え私に才覚、器量があったとしても、父には及びもつきません。また、例え私が普通の人であっても、人は父と比べて大変、劣っていると見るでしょう。ましてや無才覚、無器量であったならば、言うまでもありません。我が家は、このように人にも知られるようになりましたが、それはひとえに父が一心の心遣い、苦労をしてきたからです。灯り消えんとして光増す、という例えの如く、家運もこれまででしょう。ともかく今生の思いは断ち切りました。今は来世にての安楽を願っておりますので、宜しくお導きください。しかし、このような事を言っているからといって、国を保つ事を油断している訳ではありません。十分には出来ないかもしれませんが、私なりに心掛けて努力しようと思っています。その事については、少しも疎意はありません。誠に恐れ入りますが、来世をお頼み致したく、この様に私の思いを残らずお話した次第です。なにとぞお頼み申し上げます。」


これを読むと、隆元は気の弱い人物に思えるかもしれない。だが、彼には紛れも無く、戦国武将としての気概もあった。強大な軍事力を誇る陶晴賢に対し、元就は当初、恭順する姿勢を見せていたが、これと対決するよう主張したのは、他ならぬ、隆元であった。

隆元いわく、「晴賢は、元就を怖き者として恐れている。このためいずれは討たれる。ならば力のある時に戦うべきである。」

そして、天文24年(1555年)、毛利家は総力を上げて厳島の戦いに臨み、見事、陶晴賢を討ち取る事に成功するのである。その立役者となったのが、隆元であった。


弘治3年(1557年)4月、大内義長を滅ぼした直後、毛利元就はこれを契機に、政務から一切手を引いて隠退すると言い出した。元就も61歳となっており、毛利家も力が付いてきた今、ここらが引き際と考えたのだろう。ところが、父あっての毛利家と考えていた隆元にとって、この隠退宣言は、晴天の霹靂であった。そして、隆元は、「父、元就が築き上げた領国を、自分の不器量、無才覚でつぶしては大変だ。」と慌てふためき、しまいには、「長く家を保ち、分国を支配する事は出来ないから、隆元も隠居する。」とまで言い出す始末であった。元就が翻意して隠退を撤回すると、隆元は安堵して再び、当主としての自覚を取り戻していく。それでも、時には、その責務に押し潰されそうになるのであった。

隆元いわく、「とにかく、元就の跡を継ぐ事が大変なのだ。」

「自分の代で、毛利家を潰す訳にはいかないのだ。」

恵心への私書、「名将の子には、必ず不運の者が生まれると申しますが、私には思い当たります。」


陶晴賢、大内義長を滅ぼし、その領国を編入した毛利家は一躍、中国地方きっての大大名となった。だが、出雲国にはまだ強敵、尼子家が存在している事から、元就は油断せず、家中の引き締めを図った。その核となるのが、長男、毛利隆元、次男、吉川元春、三男、小早川隆景である。しかし、兄弟の仲は、必ずしもしっくりしたものでは無かった。元就はそれを憂いて、弘治3年(1557年)11月25日、かの有名な教訓状を書き綴った。

「毛利という名字を、力の及ぶ限り、末代までもすたらぬように心がけ、努力する事が大切である。」

「元春、隆景は、すでに他家を相続している。けれどもこれは、当座のものに過ぎない。だから毛利の二文字を疎かにして、忘れるような事があれば、真に問題である。」

「兄弟が少しでも喧嘩するような事があったなら、3人皆、滅亡するものと思いなさい。」

「兄弟が仲良くする事は、亡き母、妙玖(みょうきゅう)への最大の弔いである。」


これにて、隆元、元春、隆景の三兄弟の結束は強まったかに見えたが、実はそうでもなかった。

弘治4年(1558年)に書かれたと見られる隆元の覚書。

「私が足りないところを助けてくれるとのことだが、まったく何もしてくれない。」

「吉田に2人が来ても、すぐに帰りたがる。」

「何事も隆元をのけ者にして、2人だけでちこちこと話し合ってばかりいる。そのついでに他人とも、ちこちこと話し合っている。こちらからなつなつと話しかけても、相手にしてくれない。」

「兄の言う事であっても、堪忍して受け入れず、隆景は心のままに動いている。それは、隆元を見限る行為である。小早川より下に私がいると言う事は、ひとえに私に才覚が無いからだと人は言っている。」

隆元は思い余って、その悩みを元就に訴えかけた。

それに対する元就の返書

「馴れ馴れしく、こまごまとあるべきところを、次第にひたひたと無くなるとは困った事ですね。もっともなことです、もっともなことです。隆景や元春も分かってはいるでしょう。ただ、他家を継げば、自然、自分の事を優先してしまいます。あなたと私との間でも問題は起こるのです。ましてや他家を相続しているのだから、そこのところをよく思いやって、互いに分別をわきまえるのが大事です。いつも父を頼ってばかりいては駄目ですよ。何事も兄弟で相談しなさい。2人には私からも話しておきます。隆元の言う事はもっともです。私もそう思います。」


この様に三兄弟は、元就が教訓状を送ったにも関わらず、すれ違いや衝突が絶えなかったようである。それでも3人共、道義はわきまえていたようで、深刻な対立に至る事は無かった。元就のくどいまでの説教が、功を奏したと言えよう。そして時には、兄弟仲良く、酒を酌み交わす事もあった。永禄4年(1561年)3月26日、毛利元就、隆元父子は重臣を引き連れて、三原にある隆景の居城、雄高山城(新高山城)まで旅行に出向いた。3月27日、一行が到着すると、そこから10日間、隆景は心を込めて饗応し、隆元を訪ねて酒を酌み交わしたり、隆元も宿所に隆景を招いて饗応したりしている。


永禄5年(1562年)12月、この時、元就は、出雲国、洗合(あらわい)の陣中にて、尼子攻めの指揮を取っていた。留守を預かっていた隆元は、66歳の老父の身を気遣って、厳島の神に向かって願文を捧げた。

「どうか父の体が健康で、長生きできますように。もし、巳歳の厄難がふりかかるならば、その難は隆元が引受けて、身代わりとなります。」

しかし、その願いが天に通じてしまったのか、それから9ヵ月後の永禄6年(1563年)9月1日、隆元は、父のいる出雲に向かっている途中、安芸国佐々部にて急死してしまう。毛利隆元、享年41。


隆元の死後、国清寺の恵心は、隆元から送られてきた書状の数々を、元就に送り届けた。元就はそれを読んで、生前の隆元の心の苦しみや、父への溢れんばかりの思いを知った。これらの書状は、吉川元春や小早川隆景も拝見したようである。


元就の返書 、「隆元の書き置きをお贈り頂きましたところ、毎日見ては言葉にもならず、涙が絶えません。和尚(恵心)のことを、これほど頼りにしていたとは存じておりませんでした。お願いします、是非共、国にお越しください、共に隆元の菩提を弔ってください。」


隆景の返書 、「御手紙を拝見致しました。隆元の書き置きを数通、送って頂きましたが、誠に、是非に及びません。これほどまで思いつめておられたとは、まったくもって言葉にもなりません。これらの書状の文面から、兄の深い思いが見えてきました。今まで、気付きませんでした。来世の事まであなた様を頼りとしていたようですので、このうえは安芸においでになり、隆元のために寺を建立してくださいますよう。元春も私も出来る限りの助力を致します。元就の御心底のほどは、御察しください。寺のことは、急ぎお願いしたいとの事であります。 くれぐれもお願い致します。」


元就は、恵心に吉田に来て隆元の菩提を弔ってもらいたいと依頼した。同じ依頼は、吉川元春や小早川隆景からも届けられており、こうして郡山城内に隆元の菩提寺、常栄寺が建立された。

元就いわく、「私は、隆元の存命中は、世の中の恐れも少なく、心強く思っていた。」

この元就の言葉こそ、隆元に対する最大の評価ではなかろうか。隆元は、偉大な父と常に見比べられながらも、自らの実直さを持って、国家を堅実に運営した。そして、当主の重圧に押し潰されそうになりながらも、懸命に責務を果たし続けた。元就だけでなく、元春や隆景も、亡くしてから初めて、その存在の大きさに気付いた事だろう。



↑毛利隆元像



隆元の死去を受け、元就は、孫の輝元を当主の座に付けた。しかし、まだ11歳の幼年であったので、自らが実権を握ると共に、輝元の補佐役として、吉川元春と小早川隆景を権力の中枢に据えた。3人で政務、軍務の分担を計ったが、それでも最高指導者として、元就にかかる心身の負担は重かったに違いない。永禄9年(1566年)には、病を患って一事、重篤になるも、京から呼び寄せた名医、曲直瀬道三の治療をもって回復に努め、同年9月には、尼子家を滅ぼして、毛利家を中国地方の覇者の座に押し上げる事に成功する。元亀元年(1570年)9月、元就は病が再発し、輝元、元春、隆景の懸命の看病を受けて一時、持ち直すも、元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城にて死去した。毛利元就、享年75。隆元の死から8年後の事であった。


主要参考文献、館鼻誠著「戦国争乱を生きる」

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金沢城

金沢城は、石川県金沢市にある平山城である。


天文15年(1546年)、加賀国を支配していた一向一揆は、統治拠点を設けるべく、犀川と浅野川に挟まれた台地上に、城郭風の寺院、尾山御坊(金沢御堂)を築いた。以降、尾山御坊は本願寺の北陸における一大拠点として用いられ、ここを発した一向一揆軍は、有力戦国大名の朝倉義景や上杉謙信とも戦った。しかし、畿内の覇者、織田信長の攻勢には抗しかね、天正8年(1580年)、織田家部将、佐久間盛政の攻撃を受けて、尾山御坊は落とされた。 戦後、佐久間盛政は功績として加賀半国の統治を委ねられ、尾山御坊を金沢城と改称して本拠に定めた。 天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで敗れた盛政は5月に刑死し、代わって、能登一国の領主であった前田利家が、金沢城と加賀半国を受け取った。


利家は金沢城を本拠と定めると、新たに堀を穿ち、櫓や郭(くるわ)を増設し、天守閣を築くなどの大改修を加えた。工事はその後も続けられ、前田家の領国拡大と合わせて、城は拡張されていった。慶長4年(1599年)、利家は死去し、長男の利長が跡を継いだ。この利長の時代、前田家は能登、加賀、越中の3カ国、122万5千石を支配する、日本最大の外様大名となった。その後、加賀大聖寺藩10万石、越中富山藩10万石が成立、分与されたので102万石となるが、それでも徳川家に次ぐ実力者である事に変わりはなく、家格も徳川家に次ぐものがあった。そして、金沢城とその城下町は、いわゆる加賀百万石のお膝元として栄え、北陸最大級の都市へと発展する。


しかし、金沢城は火の運が悪いようで、度々、焼失を受けている。

慶長7年(1602年)、落雷を受けて、天守閣と本丸の建物が焼失する。これ以降、天守閣が再建される事は無かった。

元和6年(1620年)、火災を受けて、本丸御殿が焼失する。

寛永8年(1631年)、城下の大火を受けて、再建された本丸御殿が焼失する。これ以降、本丸の機能は二ノ丸に移されていった。

宝暦9年(1759年)、城下の大火を受けて、城内ほぼ全域が焼失する。この火災は城のみならず、城下の90パーセント、10,500戸以上を焼き尽くす大惨事となった。おそらく、千人余の死者と万を超える被災者が出ただろう。このため、加賀藩は幕府より5万両を借用して復興に努めた。

文化5年(1808年)、二ノ丸御殿が出火して、全焼する。

明治4年(1571年)、金沢城は陸軍省の管轄下に入り、師団の司令部が置かれるも、明治14年(1881年)、営所より出火して、再建された二ノ丸御殿、五十軒長屋、橋爪門などが焼失する。


現在、金沢城は、石川県が用地を取得して、史実を尊重しつつ、伝統工法と現在工法を織り交ぜて建物を再建しつつある。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑石川門

金沢城の特徴の一つが、この独特な外観の海鼠塀(なまこべい)です。


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑手前が河北門で、奥が五十軒長屋



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑河北門から見た五十軒長屋



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋から見た、三の丸広場


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋内部

伝統工法と現代工法の双方が、用いられています。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑三十軒長屋

安政5年(1858年)に再建された長屋で、重要文化財に指定されています。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑極楽橋付近の石垣



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑玉泉院庭園

寛永11年(1634年)、三代藩主、前田利常によって作庭された庭園で、その後、歴代藩主によって手が加えられていきました。明治時代に廃絶され、大正時代に池は埋め立てられましたが、平成27年(2015年)、絵図、文献等を参考にして復元されました。


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑玉泉院庭園と奥に本丸石垣

金沢城を散策するなら、合わせて兼六園や東茶屋街を散策するのをお勧めします。そして、食事は近江市場で取っては如何でしょうか。

但馬八木城

八木城は、兵庫県養父市にある山城である。



八木城の始まりは定かではなく、建久5年(1194年)~正治2年(1200年)頃、但馬国養父郡朝倉を本拠とする、朝倉高清が築いたのが最初とされている。高清は、次男、重清を城主として、同時に八木姓を名乗らせた。尚、この但馬朝倉氏からは更に一派が分かれて、後に越前朝倉氏を築く事になる。南北朝時代、八木氏は、当時、山陰に勢威を振るった山名氏に従って、山名四天王の1人に数えられた。八木氏は但馬を代表する国人の1人となり、八木城も時代が下るに連れ、発展していった。八木城は大きく二つに分かれており、標高409メートルの位置に南北朝時代に築かれたと見られる八木土城があり、それより低い標高330メートルの位置に本丸があり、ここが防御の要となっていた。



戦国時代の八木城は、上下一体で運用され、普段の政務や生活は、麓に築かれた居館で営まれていたと見られる。15代当主、八木豊信(1524~?)の時代になると、400年近くに渡って君臨してきた八木氏にも、戦国の荒波が押し寄せる事になる。当初、豊信は山名氏に従っていたものの、西の毛利家の勢力が強くなると、これに属した。しかし、東の織田家の勢力も強くなると、但馬は両者がせめぎ合う地となり、天正5年(1577年)には、織田家の部将、羽柴秀長の侵攻を受けた。これは何とか凌いだものの、天正7年(1579年)頃、抗しきれないと見て織田家に降参した。


豊信は、羽柴秀吉に属して、因幡国に知行を与えられ、若桜鬼ヶ城の守備を任された。その後の豊信の足取りは不確かで、天正9年(1581年)4月と、天正10年(1582年)2月の2回に渡って津田宗及の茶席に招かれたのが確認されており、また、九州に渡って、島津四兄弟の末弟、島津家久(1547~1587年)に仕えていたのも確認されている。八木城主時代の豊信の花押と、島津仕官時の花押の文字が一致しており、家久の右筆(ゆうひつ・秘書役)として仕えていたようだ。豊信の没年は不明であるが、地味ながら、数奇な生涯を辿ったと言えよう。



天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命を受け、別所重棟が八木城に入り、1万2千石を領した。この別所時代、八木城は近代改修され、石垣が施された。天正19年(1591年)、重棟は死去し、嫡男の吉治が継いだ。文禄元年(1592年)、吉治は、朝鮮出兵に従って3千石を加増され、1万5千石となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折には西軍に従って、丹後田辺城の攻撃に加わり、これを落とすのに貢献した。しかし、関ヶ原本戦は東軍の勝利に終わり、吉治は改易の危機に瀕するも、許されて丹波の北由良に転封となった。これに伴い、八木城も廃城となった。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑見張り所の様な跡

登城口から、しばらく登るとあります。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸からの眺望は、木々に阻まれてほとんど望めませんでした。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑本丸跡と石仏

左奥の山が、八木土城です。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑南面の石垣



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑北面の石垣

ここから北の山を登っていくと、八木土城に繋がります。


但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木土城

段丘状になっていて、郭が連なっているのが分かります。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木土城、最高所

ここが八木城の最高所で、今でも土塁がはっきりと残っています。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木城北面

北面は切り込んだ谷と山があるので、こちらからの攻撃はまず無理でしょう。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑八木城南面

南面はやや開けており、ここに小さな城下町がありました。南面には、血の谷と呼ばれる場所があって、かつて羽柴秀長軍と八木城の城兵が戦って、両軍の戦死者で真っ赤に染まったとのいわれがあります。やはり、攻城軍は、南から攻めてきたのでしょう。



但馬八木城
但馬八木城 posted by (C)重家

↑麓から見た八木城

八木城は、山間の小大名の居城であったので、それに見合った小振りな造りですが、八木土城と合わせるとそこそこの規模になります。

ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 終

ここから日にちを、4月29日に戻す。グライムとライチュは、ベルリンを飛び立ってから50分ほどして、レヒリンに到着した。だが、そこもソ連軍機の攻撃を受けており、着陸はそれを掻い潜ってのものとなった。到着すると、グライムはすぐさま、ヒトラーの第一の命令を果たすべく、現存する航空機の全てを、ベルリン救援のために向かわせた。これらの航空機はベルリンの包囲網内に補給物資を投下し、現地のドイツ軍はパンツァーファウスト十発余、砲弾十数発、医薬品を少々、受け取った。しかし、ソ連軍数十万人に対しては、何の意味も無かった。それから、グライムとライチュは、ヒトラーの第二の命令、ヒムラーの逮捕を果たすべく、プレーン(ドイツ北部の都市)に向かった。5月1日、プレーンにて、海軍元帥カール・デーニッツを首班とする新政府が発足する。そして、同日夜半、グライムとライチュは、ヒトラーが自殺した事を知った。5月2日、グライムは新政府の会議に参列し、ライチュはその外で、ヒムラーの来着を待った。ヒムラーは遅れて姿を現し、ライチュもその姿を認めて、彼を告発すべく質問を投げかけた。



ライチュ、「全国指導者閣下、あなたが連合軍と接触して、ヒトラーの指示無しに講和を申し入れたと言うのは本当ですか?」


ヒムラー、「勿論ですとも」


ライチュ、「あなたは最も困難な時に、祖国と国民を裏切ったのです。これは国家的な裏切りです、全国指導者閣下。あなたがそれをするのは、地下壕で総統と共にいなければならない時だったはずです」



ヒムラー、「国家的裏切りだって?それは違う!歴史が違う評価を付ける事が、あなたにも分かる事でしょう。ヒトラーは戦争を続けようとしていた。彼は誇りと名誉に憑かれて、気が変になっていた。彼はまだ、ドイツの血を流そうとしていたが、もう血など残っていなかったのだ。ヒトラーは気が変になっていた。こんな事はずっと以前に終わりにするべきだったのだ」



ライチュ、「気が変になっていたですって?私が彼の所から出てきて、まだ36時間も経っていないのですよ。彼は自分が信じる事業のために死んだのです。彼は、あなたの言う名誉に包まれて勇敢に死にました。ところがあなたやゲーリングなどは、裏切り者、臆病者のレッテルを張られて生きていかねばならないのです」



ヒムラー、「私は自分に出来る事をした。ドイツの血を救うために。私達の国にまだ残っているものを救うために」



ライチュ、「全国指導者閣下、あなたはドイツの血と言っているのですか?あなたは今、それを言うのですか?あなたがそれを考えねばならなかったのは、何年も前の事です。あなたがこれだけの量の無益な流血を我が身のものと感じるよりも、前の事なのです」



突然の空襲によって、会話は中断された。ヒムラーは親衛隊の全国指導者にして、全ドイツ警察長官であり、今だ隠然たる勢力を保持していた。デーニッツのもとにも、ヒムラー逮捕命令が届いていたが、彼の力を警戒して、州の行政長官の地位を授けるに到っていた。なので、ライチュに出来るのは、ここまでであった。当時のライチュは知らなかったようだが、ヒムラーは、ユダヤ人虐殺の実行責任者であって、数百万もの人々を死に至らしめていた。そんな男が連合軍に和平交渉を持ちかけたのは、同胞の流血には心を痛めていたのか、それとも単に保身のためにしたのか、それは人々の判断に委ねられる。5月7日、グライムとライチュは、政府の命を受けてオーストリアの都市ツェル・アム・ゼーに飛んだ。そこにいるアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥に、政府の指示を伝えるためであった。しかし、5月8日、ドイツは降伏し、ヨーロッパの戦争は終わった。5月9日、グライムとライチュは米軍に出頭し、捕虜として拘禁された。2人の戦争も、これで終わった。だが、グライムはソ連軍に引き渡されると知って絶望し、5月24日、ヒトラーから受け取っていた毒薬を仰いで自決した。ローベルト・リッター・フォン・グライム、52歳。



ヒムラーは5月22日、イギリス軍の捕虜となったが、翌23日、粗略な扱いに耐えかねて、毒薬を仰いで自決した。ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー、44歳。ゲーリングは5月7日に米軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判にかけられて絞首刑を宣告されたが、この処刑方法に納得せず、1946年10月15日、青酸カリを飲んで自決した。ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング、53歳。ライチュは15ヶ月間の勾留の後に、釈放された。しかし、故郷ヒルシュベルクにいたライチュの父、母、妹、妹の子供達は、ヒルシュベルクのポーランド編入に伴うドイツ人追放を前にして、一家心中を果たしていた。ライチュもまた自殺を考えたが、自らが見てきた真実を語るため、生きる事を決した。戦後、ナチスが隠してきた犯罪行為の数々が暴かれると、それを受けてか、ライチュも、「ヒトラーは、全世界に対する犯罪者として命を断った」と語った。



しかし、すぐにこうも付け加えた。

「彼は、最初はそうでは無かった。初め、彼が考えていたのは、いかにドイツを立ち直らせるか、いかに自国民が経済的不自由なく、しっかりとした社会保障を受けて暮らせるか、ということだけであった。そのために彼は、様々なゲームを行った。最初の危険な賭けに成功すると、賭博者の誰もが犯す間違いに陥った。すなわち、より大きな危険を冒し、それに勝つと、更に大きな賭けに出るのだった。成功する度、民衆の熱狂は高まり、その支持を背景に彼は次の一歩へと進んだ。やがて誇大妄想に憑かれて、ヒトラー自身が変わってしまい、理想主義者、庇護者から、貪欲で腹黒い独裁者に変貌して、自らもその犠牲となった。世界史において、これほどの権力を1人の人間が獲得する事をもう許すべきではない」と語った。

ライチュはこう述べているが、1925年にヒトラーが執筆した、「我が闘争」では、既に反ユダヤ主義と東方進出が述べられている。ヒトラーが政権を握るのは1933年であるが、それ以前から、その侵略的性向は明らかだった。ライチュも大勢のドイツ国民と同様、ヒトラーの本質を見抜けず、強烈な個性に魅せられ、その弁舌によって踊らされた一人と言えよう。



ライチュは、1912年にドイツ領ヒルシュベルク(現ポーランド領、ドルヌィ・シロンスク県)に生まれ、学生の頃より空を飛ぶ事に憧れを抱き、1932年、グライダーによる初飛行を果たした。1937年、ドイツ空軍の飛行学校に女性として初めて入校し、テストパイロットとなった。1938年には、女性としては初となる、ヘリコプター飛行を行う。1941年3月28日、それまでの飛行試験の功績を讃えられて、ヒトラーより2級鉄十字章を授与された。同年には、ロケット戦闘機Me163の飛行試験を行うが、5回目の飛行試験中、意識不明になるほどの重傷を負い、5カ月間の入院を余儀なくされた。この時、瀕死の身でありながらメモを取っており、尋常ではない意志の強さを見せている。しかしながら、テストパイロットに必要な分析的知性には欠けており、彼女の報告はあまり役立たなかったという声もある。



ナチスはライチュの話題性を買って、大いに宣伝材料とした。そして、ドイツ空軍のあらゆる航空機を操縦する、特別許可を与えた。ライチュもナチスに傾倒したが、党員にはならず、反ユダヤ主義には反対の立場をとっていた。熱烈な愛国心の持ち主で、国家やヒトラーに対して、死をも辞さない忠誠心を持っていた。1944年2月28日には、女性唯一となる1級鉄十字章を授与される。この鉄十字章を、ライチュは生涯、持ち続けた。戦後も空への憧れと挑戦心を持ち続け、1955年にはグライダードイツチャンピオンとなった。1970年代、老年となっても活発に飛行し、女性による飛行滞在時間、飛行距離、飛行高度などの世界記録を次々に塗り替えていった。1979年8月24日、ドイツフランクフルトにて、心筋梗塞で死去。ハンナ・ライチュ、67歳。生涯、独身だった。






↑1941年3月、ヒトラーより2級鉄十字章を授与されるライチュ。中央はゲーリング




↑戦後、1947年に撮影された、総統官邸



主要参考文献、「KGB㊙調書・ヒトラー最後の真実」


ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 2

ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ライチュが地下壕に滞在している間にも、その精神と肉体は衰えていく一方に映った。この時期、ヒトラーに接した多くの人間が、その衰えを目撃している。年齢よりも老けた見た目、猫背、白髪混じりの頭髪、病的なまでの蒼白な顔、どんよりした目、しゃがれ声、四肢の振るえ(特に左足と左腕)などであった。ヒトラーは去る4月22日に行われた戦況会議において、シュタイナーSS大将による北からのベルリン解放作戦が失敗に終わったとの情報に接すると、私は見捨てられたと金切り声を上げ、軍隊を罵倒し、裏切り者を呪い、居並ぶ幕僚を前に、もう終わりだと絶望を露わにしていた。それでもヒトラーは、ベルリンの南に存在するヴァルター・ヴェンク大将率いる第12軍の存在に希望を繋いで、ベルリン解放作戦を練った。ヴェンク第12軍は4月26日から、ベルリンに向けて進撃していたが、ソ連軍の厚い壁に阻まれ、ポツダム(ベルリン南西約30キロにある都市)に達するのが精一杯であった。12軍は包囲網に僅かな隙間を作り、そこからドイツ軍2万人余を脱出させたが、間もなくソ連軍によって押し返され、再び包囲網は閉じられた。



 4月27日、親衛隊全国指導者ヒムラーの総統付き連絡将校である、フェーゲラインSS中将は逃亡を図って、官邸から無断退去した。ヒトラーは親衛隊を派遣して捜索させ、愛人宅で泥酔していたところを取り押さえた。フェーゲラインは、エヴァ・ブラウンの妹を妻に迎えていたので、極めてヒトラーに近しい人物であった。ヒトラーは弟分の行状にひどく落胆すると共に、彼に逃亡を促したのは、ヒムラーではないかと疑念を抱いた。4月27日の深夜から28日にかけて、ソ連軍による砲撃は最高潮に達した。砲弾の雨が官邸に降り注いで、中庭の木々は全て薙ぎ払われ、激しい轟音と振動が地下壕に響き渡った。最早、何時、ソ連軍が侵入してきてもおかしくない状況であった。ヒトラーは第2回の自殺会議を招集し、遺体を完全に消却する方法について議論を持った。そして、ソ連軍が官邸の敷地に侵入した時点で、集団自殺を始める事を決定した。その時が来たなら、各々、毒薬を服用し、その後、親衛隊の手によって遺体を焼却し、痕跡を残さず消し去る運びとなった。



 4月28日の間、ヒトラーは第12軍にまだ望みを抱いて、地下壕を歩き回っては、居合わせた人々の前で、自らの作戦計画を披露した。そして、震えの止まらない手で、汗ばんだ道路地図を振りかざし、神経質な素早い足取りで部屋中を歩き回りつつ、地図上に存在している部隊に指示を飛ばすのであった。しかし、それらの部隊のほとんどは戦闘力を失って敗走中であるか、既に消滅していた。しかも、市と外部を結ぶ電話網は26日の時点で切断されており、無線通信もアンテナが破壊された事によって、不通となっていた。その後、国防軍司令部が上げた気球アンテナの短波通信によって、ようやく外部と連絡を繋いでいる状況であった。なので、ヒトラーの熱のこもった作戦指導はまったくの無意味であり、それは絶望、希望、妄想が入り混じった悲喜劇に映った。ライチュは、ヒトラーを理想の政治家として崇拝していたが、この最終段階になってそれが崩れてゆくのを感じた。それでも、彼に対する忠誠心だけは、まだ失っていなかった。



 4月28日午後21時、ヒトラーは、これまでに無い最大の衝撃を受けた。ヒトラーの腹心で、親衛隊全国指導者であるヒムラーが裏切ったとの、電報がもたらされたのである。ヒトラーは常々、「忠臣ハインリヒ」と呼んで、ヒムラーを頼りにしていた。そのヒムラーが独断で、スウェーデンを通じて西側連合軍に講和交渉を持ちかけたのであった。地下壕にあった人々は皆、一大衝撃を受けて、男女問わずに泣いて、怒りに恐怖、絶望が入り混じった叫び声を挙げた。中でもヒトラーの怒り様は尋常ではなく、顔を真っ赤にして、狂ったように怒りの叫び声を上げ続けた。長い怒りの発作が終わると、ヒトラーは麻痺したように黙り込み、地下壕の人々も皆、沈黙した。そして、同日深夜、逮捕されていたフェーゲラインSS中将は、エヴァの助命嘆願も空しく、銃殺に処された。こうした間にも、ソ連軍は着実に接近しており、ライフルの発射音が間近に聞こえていた。地下壕に流入する外気も、火薬と煙に満ちていた。



4月29日午前1時半、ヒトラーは蒼白な顔をして、グライムの部屋に入って来ると、「私達の唯一の希望はヴェンクだ。彼がやって来れるよう、空軍の全戦力を結集して、援護せねばならない。だから、君はレヒリン(ベルリン北方にある都市)に戻って、そこから飛行機を送り込む事を命じる。君の空軍の任務は、官邸に突入しようとしているソ連軍の陣地を叩く事だ。空軍の支援があればヴェンクはやって来れる。これが、君が地下壕を出なければならない第一の理由だ。第二の理由は、ヒムラーの行動を止める事だ」と告げた。ヒトラーは、ヒムラーに話が及ぶと怒りで自制心を失い始め、手と唇を震わせながら、「ヒムラーが本当に敵と交渉を始めたなら、見つけ次第、逮捕せよ」と厳命を下した。そして、「裏切り者には決して、総統たる私の跡は継がせない!君は、そんな事が起こらないようにするために、ここを出なければならないのだ」と言った。



 グライムとライチュはこれに激しく抗議し、今更そんな企てをしても無駄で、レヒリンに辿り着くのも不可能で、この地下壕で死にたいと述べた。だが、ヒトラーは、「帝国軍人としての君の義務は、あらゆる可能性を尽くす事だ。これは成功する唯一の機会なのだ。私と君の義務は、機会を生かす事なのだ」と重ねて命じた。ライチュは納得せず、更に食い下がったが、グライムは考え直して、「ハンナ、私達はここに残った人達の唯一の希望なのだ。機会がほとんど無きに等しいとしても、私達はそれを生かさねばならない」と諭した。グライムが準備を進めていた時、ライチュは1人でヒトラーのもとに行き、「我が総統、どうして、いったいどうしてあなたは、私達に残る事を許してくださらないのですか」と尋ねたが、ヒトラーはライチュを見つめて、「神の御加護がありますように」とだけ言った。準備が整うと、空軍の連絡将校がグライムに対し、「あなたは脱出しなければならない。我が国民に真実を語り、空軍の名誉を救い、世界に対するドイツの威信を救う事が、あなたに託されている」と言った。



 地下壕にいる人々は、それぞれ最後の短い手紙を書いて、ライチュ達に託した。マクダは、自らが付けていたダイヤの指輪をライチュに形見として渡した。しかし、ライチェらは、ゲッベルスとその夫人マクダの二通の手紙だけを除いて、全て破棄した。包囲網は刻一刻と狭まっており、ソ連軍は通りを挟んだ向かい側にある、カイザーホフホテルと宣伝省の建物まで制圧し、そこの屋根から官邸に向けて銃撃を始めていた。ライチュとグライムは、ヒトラーの警護を担っていた親衛隊の装甲車に乗り込んで、ブランデンブルク門へと向かった。この門はベルリンを象徴する歴史的建造物であったが、既に戦場の巷と化しており、次々に銃痕が刻まれていった。だが、ここは辛うじてドイツ軍が保持しており、門の近くには、2人乗りのアラド96練習機が隠されてあった。ライチュは、これがベルリンに現存する最後の航空機だと察した。そうこうしている間にも砲弾が降り注いできて、彼らが乗ってきた装甲車も破損してしまう。ブランデンブルク門から続く400メートル余の舗装道路には砲弾の穴は無く、そこが滑走路代わりになるはずであった。



エンジンを始動し、プロペラの回転数を上げて、機体は銃砲弾が飛び交う只中を滑走していった。機体が屋根の高さまで上がると、無数の投光器に捉えられ、すぐさま対空砲火を浴びせられた。砲弾が炸裂する度、機体は大きく揺り動かされたが、幸い、小さな破片が幾つか命中しただけで済んだ。機体が高度6千メートルまで上げると、この世のものとは思えない光景が広がった。ベルリンは炎上し、どこまでも火の海が広がっていた。それは、想像を絶する規模の破壊であった。それから間もなく、この絶望の空の下、ヒトラーとエヴァ・ブラウンは地下壕の小会議室で結婚式を挙げ、2人は夫婦となった。しかし、これは死に行く者の儀式であった。式が終わると2人は自室へと戻り、お祝いの朝食を取った。それからヒトラー夫妻は自室に、ボルマンとゲッベルス夫妻、ユンゲとクリスティアンの2人の秘書を招いて、会談をもった。シャンパンを飲みつつ、古き良き時代、昔の友人、ゲッベルスの結婚式などについて語り合い、時に弱い笑い声も洩れたが、次にヒトラーが自殺について語りだすと、部屋には陰鬱な空気が漂った。この後、ヒトラーは隣室に入って、秘書のユンゲに遺言を口述筆記させた。



 29日昼、ヒトラーは、官庁地区防衛司令官モーンケSS少将を呼んで、「後、どれくらい持ち堪えられるか」と尋ねた。モーンケは、「敵は至近では360メートルの距離に達しています。重火器、特に対戦車砲と十分な量の弾薬を与えられなければ、最大限持ち堪えて2、3日でしょう」と答えた。ヒトラーはただ頷いただけで自室へと戻り、ゲッベルスとボルマンは、「出来る限り、敵を食い止めてくれ」とモーンケに懇願した。29日午後20時、ヒトラーは国防軍総司令部に宛てて、短い質問状を送った。①ヴェンクの先鋒はどこか?②その攻撃再開はいつか?③第9軍はどこか?④その突破方向は?⑤ホルステの第41装甲軍団の先鋒はどこか?それに対する、カイテル元帥からの返信は、①について、ヴェンクの先鋒はシュヴィロウ湖の南で停止。その東側面全体からソ連軍の猛攻撃を受けている。②について、先の理由から、第12軍がベルリンに向かう攻撃は、続行不可能。③④について、第9軍は敵の包囲下にある模様。1個師団が西に向けて突破したものの、その所在は不明。⑤について、ホルステ中将の第41軍団は、ブランデンブルク、レーテポン、クレメンで防御戦に立たされており、救出作戦への転用は不可能。



 29日午後22時、ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将が戦況報告に上がり、「パンツァーファウストの備蓄はもう底を付いています。破損した戦車の修理も不可能です。市内での戦闘は、24時間以内に終息する見込みです」と告げた。この日、ヒトラーに届けられた情報の全てが、救出作戦の失敗と、戦闘の終結を告げるものであった。ここに到って、ヒトラーは全ての望みが潰えたと悟り、自決を決意した。そして、自室に参謀総長クレープス大将、警備指揮官ラッテンフーバー中将、専属パイロットのバウア中将、副官ギュンシェ少佐などを集めて、「君達は、これまで誠実に仕えてくれた」と感謝の念を述べ、1人1人と握手を交わしていった。この夜、ヒトラーは医師のハーゼに命じて、愛犬ブロンディーを毒殺させ、青酸カリの効力を確かめた。4月30日午前2時半、ヒトラーは、別れを告げたいと言って、秘書、料理人、事務官20~25人を廊下に集めた。ヒトラーはボルマンを従えて現れ、これまで仕えてくれた事に感謝の念を述べ、黙ったまま握手をして回った。同日午後14時半、ヒトラーはエヴァを伴って、2度目の別れの儀式を行った。ヒトラーは、ボルマン、ゲッベルス夫妻を始めとする近臣、侍従12人に、ほとんど聞き取れない2,3の言葉をかけながら握手を交わしていった。



 突然、マクダがひざまずいて、「どうか決心を翻してください」と懇願したが、ヒトラーは、「他に解決の道は無い」と言って押しのけ、それからゲッベルスに向かって、「君の責任において、我々の死体を直ちに焼却してほしい」と言い付けた。そして、エヴァと腕を組みながら、自室へと戻っていった。これが、生きている2人が目撃された最後となる。4月30日午後15時半、ヒトラーは拳銃を口に向け、青酸カリを噛むと同時に引き金を引いた。アドルフ・ヒトラー、56歳。エヴァは、青酸カリを飲んで自決した。エヴァ・ブラウン改め、エヴァ・ヒトラー、33歳。2人の遺体は、地下壕の非常口から数歩の所で焼却され、その後、近くの砲弾の穴に埋められた。5月1日午後20時40分、マクダは医師の手を借りて子供達に麻酔注射を打ち、10分ほどして子供達が寝入ってから、青酸カリのカプセルを口に含ませ、噛み砕かせていった。マクダとゲッベルスは子供達の処置を終えると、総統官邸と宣伝省の間にあるヴィルヘルム広場に出ていった。そして、ゲッベルスは青酸カリを噛んでから拳銃で頭を撃ち抜き、マクダはおそらく青酸カリを飲んで死んだ。



ヨーゼフ・ゲッベルス、47歳。マクダ・ゲッベルス、44歳。長女ヘルガ、13歳。次女ヒルデ、11歳。長男ヘルムート、9歳。3女ヘッダ、8歳。4女ホルデ、7歳。5女ハイデ、4歳。ゲッベルスとマクダの遺体は焼却されたが、埋葬する間も無かったのか、そのまま放置され、子供達の遺体も地下壕の寝台に残された。同日21時半、官庁地区司令官モーンケを始めとする5百人余は脱出を図り、線路沿いに北に向かったが、ソ連軍の分厚い包囲網を突破できず、モンハウザーアレー駅近くのビール醸造所に立て篭もらざるを得なかった。だが、そこも間もなく包囲され、5月2日18時、ソ連軍に降伏した。ボルマンもベルリンからの脱出を図ったが、5月2日、総統官邸から数キロ北にある、ヴァイデンダム橋まで来た所で、自決したと見られる。マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン、44歳。5月2日午前5時、ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将は、ソ連軍に降伏を申し入れた。停戦時刻は午後13時とされたが、実際に市街の戦闘が終結したのは午後17時頃であった。激しかった戦闘音も散発的に響くだけとなり、やがてそれも途絶えた。そして、崩れ落ちたベルリン市街に、押し黙る様な静寂が訪れた。



 ベルリン市街戦においては、ヒトラーを始めとする高官達の死だけに目が行きがちであるが、その影で、市民の犠牲は計り知れなかった。ベルリン市民は10万人余が死亡し、ドイツ兵は2万人余が戦死したと見られている。だが、国家と首都の崩壊という混沌の中に埋もれ、正確な数字が分かる事は永遠に無いだろう。ソ連軍の方は、前哨戦となるゼーロウ高地の戦いとベルリンの市街戦を含めて、8万1千人の戦死、行方不明者を出したとされている。未曾有の大戦を引き起こした独裁者は、最後の瞬間まで大勢の人間を巻き添えにしたのだった。戦闘終了後、ソ連軍はドイツ人女性を少なくとも10万人以上強姦し、その内、1万人余が自殺したと推測されている。また、ソ連軍による略奪、殺人も、市内各所で繰り広げられた。マクダの言っていた、敗北の後に襲ってくるであろう災厄との言葉もあながち、的を外れてはいなかった。だが、ドイツもロシアの地において、限りない略奪と虐殺を繰り広げてきており、その報復が成されたのだった。これが戦争だった。




 

↑少年兵を閲兵するヒトラー ベルリン戦の一こま


 
 
↑ブランデンブルク門 ベルリン戦の一こま


 

↑戦後間もなく撮影された、ブランデンブルク門


 

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重家 
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