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ドイツ本土航空戦 3

●ドイツ空軍の反撃


ドイツ戦闘機隊は壊滅的打撃を被ったものの、それでも戦争が続く限り、戦闘機と搭乗員を空に送り続けねばならなかった。ドイツ軍は、1944年4月頃から、爆撃機攻撃を専門とする、突撃飛行隊を編成する。それは、Fw190戦闘機を基本として、コックピットまわりを防弾ガラス、防弾鋼板で覆って防御を固め、13mm機関銃2丁、20mm機関砲2門、30mm機関砲2門に武装強化した重戦闘機であった。アメリカ軍爆撃機B17の撃墜に必要な命中弾数は、20mm機関砲では平均25発、30mm機関砲では平均3発と見られていたので、火力は申し分なかった。しかし、その反面、重量は250kg増加して、戦闘機本来の運動性は損なわれていた。



敵戦闘機との空戦は甚だ困難であったので、突撃戦闘機隊1個に付き、通常仕様の戦闘機隊2個が護衛に付いた。その構成は、上空援護の通常仕様機、近接護衛の通常仕様機、そして、爆撃機攻撃を専門とする突撃飛行隊であった。戦闘の一例を挙げてみる。1944年7月7日、連合軍が1,119機の爆撃機でライプチヒ市を爆撃をした際、突撃飛行隊を含む戦闘機、120機が迎撃に舞い上がった。まず通常仕様の戦闘機隊が前路を切り開くと、突撃戦闘機隊は急降下しつつ、爆撃編隊を一連射した。この攻撃で爆撃機23機を撃墜したが、自らも30機以上の機体を失った。犠牲は大きかったが、大型爆撃機に対する唯一、有効な攻撃法として、この後も突撃飛行隊による迎撃は続いた。



ドイツ空軍は、突撃飛行隊に続き、新鋭機を投入して戦局の挽回を図った。1944年8月、主力戦闘機Fw190を改良強化した、Fw190D型を西部戦線に配備する。Fw190D型の最高速度は時速680kmに達しており、アメリカ軍が誇るP51とも、互角に渡り合える性能を有していた。しかし、工場爆撃の影響を受けて生産数は伸び悩み、終戦までに800機強しか量産出来なかった。1944年9月には、最高速度870kmを発揮する、ジェット戦闘機Me262が戦場に姿を現す。Me262の性能は革新的であったが、まだまだ未成熟で、エンジンの故障率が高い上に、その寿命はせいぜい30時間程度でしかなかった。当時、Me262の機体損失の3分の1が事故によるものだったが、その原因の大半をエンジンが占めていた。



燃料消費量も激しい事から、攻撃に使える時間は5分程度で、2回攻撃を加えるのがやっとであった。それでも、連合軍戦闘機を振り切って、爆撃機に致命傷を与えうる能力は画期的で、プロペラ戦闘機最高峰を誇るP51といえども、ジェット戦闘機Me262の速度には到底、追いつけなかった。それに、Me262が装備する、30mm機関砲4門の威力は絶大で、一連射で大型爆撃機を粉砕する事が出来た。後には、強力なR4M空対空ロケット弾も主翼下に24発、装備される。このロケット弾の射程は800mで、爆撃機の防護機銃の射程外から撃つ事が可能であった。弾頭には400gの炸薬が充填されており、1発で重爆撃機を撃墜する威力を秘めていた。



1945年3月18日、アメリカ軍爆撃機1,221機と護衛戦闘機632機が、ベルリン爆撃を敢行した際、Me262戦闘機36機が迎撃に当たった。Me262は高速を生かして護衛戦闘機の群れを突破すると、爆撃機編隊に向けて、R4M空対空ロケット弾を撃ち放ち、続いて30mm機関砲の連射を浴びせかけた。一瞬の嵐の様な攻撃で、B17爆撃機11機が撃墜され、更にP51戦闘機も1機撃墜された。Me262の損害は、3機であった。両軍の圧倒的な戦力差を鑑みれば、Me262はよく健闘したと言える。しかし、アメリカ軍側からすれば、損失は出撃機数の1%にも満たず、任務遂行になんらの支障も無かった。もし、Me262の出撃数が一桁多かったなら、さしものアメリカ軍も青ざめる損失が出ていたであろう。



アメリカ軍にとって幸いであったのは、ヒトラーがこの革新的な戦闘機を、爆撃機として用いようとして、戦闘機型の生産に歯止めをかけた事である。それと、連合軍の工場爆撃もあって、Me262の生産数は伸び悩み、30機程度のゲリラ的な出撃が続いた。いかに強力な戦闘機であっても、この程度の機数では決定打は与えられない。一方のアメリカ第8航空軍は、戦力を増すばかりであった。



1944年8月時点での戦闘機の配備定数

P51単発戦闘機720機

P47単発戦闘機288機

P38双発戦闘機72機

P61双発夜間戦闘機32機

戦闘機合計1,112機で、終戦までこの戦力を維持した。


1944年10月時点での爆撃機の配備定数

B17四発爆撃機936機

B24四発爆撃機468機

爆撃機合計1,404機



同時期、イギリス軍爆撃機も2,053機の戦力で、ドイツの都市を夜間爆撃していた。その爆撃の規模は、アメリカ第8航空軍にも負けず劣らずであった。この様に当時のドイツは、昼はアメリカ空軍の爆撃を受け、夜にはイギリス空軍の爆撃を受けていた。しかも、破壊効果を上げるべく、爆撃は何度も繰り返された。こうしたアメリカ、イギリス軍機による連携攻撃で、ドイツの都市と工場は次々に焼失していった。そして、兵器や燃料の生産にも事欠き、軍民の移動すらままならなくなった。戦略爆撃によって、戦争終結の時間が短縮されたのは間違いないところである。また、ドイツ空軍を撃滅し、制空権を獲得した事も大きい。近、現代戦では、空を制した者が戦争をも制する。如何に強力な陸軍と海軍を擁していようとも、空の援護が無ければ、決して主導権は握れない。それが戦争末期のドイツと日本の姿であった。



本土の制空権を失ったドイツは、それを取り戻そうと方々から戦闘機を掻き集めたが、それすら失われていった。その結果、各方面の戦線も崩壊の速度を速めたのだった。アメリカ、イギリス爆撃機が、ドイツ本土に投下した爆弾の総量は、約164万3千t(日本本土爆撃は、15万5千トン)で、爆撃によるドイツの民間人犠牲者数は60万人(その内7万5千人が子供とされる)であった。軍用機と搭乗員の損失は数万に達していたと見られるが、詳細は不明である



だが、その戦果の一方、アメリカ、イギリス軍機の損害も記録的なものとなる。第8航空軍所属のB17爆撃機は、撃墜による未帰還機3,154機を出し、修理不能の損傷を受けて廃棄処分されたのが1,534機で、合計4,688機が失われた。次にB24爆撃機は、1,071機が未帰還となり、廃棄処分となったのが2,555機で、合計3,626機が失われた。搭乗員の戦死者は、2万6千人であった。イギリス爆撃機軍団では、各種爆撃機6,440機が未帰還となり、更に相当数の機体が廃棄処分となった。搭乗員は、12万5千人の内、5万5,573人が戦死した。尚、これらの数字は、史料によって差異がある。



第二次大戦における戦略爆撃では、現代にも通じる様々な戦訓が導き出された。いかに強力な爆撃機であっても、敵制空権下での活動は自殺行為である。制空権を得るには、強力かつ大量の戦闘機を必要とする。制空権を得て、初めて戦略爆撃は成立する。そして、戦略爆撃が本格化したなら、最早、戦争の帰趨は明らかである。





↑P51D

全長:9.83m

全幅:11.28m

全備重量:5,490kg

出力:1,490hp

最大速度:703km/h

航続距離:3,700km

武装 :12,7mm機銃×6

爆弾搭載量: 900kg

乗員:1名

総生産機数:1万5千機以上

速度、運動性、航続距離、武装のバランスが取れた傑作機で、第二次大戦最高の戦闘機との評価を受けた。特にアメリカ空軍による、ドイツ本土爆撃を成功に導いた功績は大きい。





↑Me262A-1a

全長:10.58m

全幅:12.50m

全備重量:6,400kg

推力:893kg×2

最大速度:870km/h

航続距離:1,050km

武装 :30mm機関砲×4 R4Mロケット×24

爆弾搭載量: 1,000kg(実戦では500kg)

乗員:1名

総生産数:1,433機

レシプロ機を過去のものとする、画期的なジェット戦闘機として登場した。連合軍の圧倒的な制空権下でも、その卓越した速力をもって、爆撃編隊に一撃を加える事が可能であった。連合軍機500~600機を撃墜したとされる。しかし、多くの欠陥を有しており、数も少なすぎて、戦局に寄与する事は無かった。




↑ドイツ空軍ガンカメラ映像




↑B17爆撃機からの視点




↑P51戦闘機の解説動画



●主要参考文献 

ポール・ケネディ著「第二次世界大戦 影の主役―勝利を実現した革新者たち」

大内健二著「ドイツ本土戦略爆撃」

学研「歴史群像」シリーズ

アントニー・ビーヴァー著「第二次大戦1939ー1945 中」「第二次大戦1939-1945 下」

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ドイツ本土航空戦 2

●第二次シュバインフルト爆撃


1943年10月14日早朝、イギリス東部の基地から、アメリカのB17爆撃機291機と搭乗員3、000人が次々に飛び立っていった。機内通信機からは、搭乗員達の祈りの声が響く。爆撃目標は前回と同じく、シュバインフルト及び、レーゲンスブルクである。乗員達が頼れるのは、自らの防護機銃と、僚機の援護であった。第8航空軍では爆撃隊の損害を少しでも減らすべく、戦闘隊形に工夫を凝らしていた。それが、コンバットボックス(箱型編隊)である。



↑コンバットボックス


上下左右に広がる立体的な密集編隊を組んで、防護機銃の死角を無くすと共に、突入してくる敵機に対して、多数の爆撃機による集中射撃が出来るようにしていた。コンバットボックスは15~18機で1編隊が構成され、更にこれを3つに集合させたのがコンバットウイングで、45機~54機で構成された。コンバットボックスの防御火力は確かに強力で、ドイツ戦闘機といえども迂闊に近寄る事は出来なかった。しかし、損傷を受けたり、攻撃を避けようとして、編隊から落伍した機体があれば、たちまちドイツ戦闘機によってなぶり殺しとなった。



爆撃隊が、ドイツの都市アーヘン(ベルギー、オランダと国境を接する)に差し掛かると、護衛のP47戦闘機は、航続距離の限界に達して、翼を振りつつ帰投していった。ここからは爆撃機の単独行になる。すると、その時を待っていたドイツ戦闘機隊が、すかさず波状攻撃を開始仕掛けてきた。まず、Fw190とBf109の単発戦闘機の第1陣が、編隊の正面から機関砲を撃ちかけながら襲来する。単発戦闘機のすぐ後ろには、第2陣のBf110などの双発戦闘機が控えており、主翼下の空対空ロケット弾を編隊に向けて発射した。このロケット弾は強力だが、無誘導で命中率は低かった。だが、時限信管が取り付けられており、上手く編隊の中で爆発させる事が出来れば、損傷を与えて、編隊を崩す効果があった。また、Ju87急降下爆撃機も、上空から時限爆弾を投下して、編隊を攻撃した。第2陣はロケット弾を撃ち放つと、続いて機関砲で爆撃機を攻撃した。



第2陣が攻撃中、先陣の単発戦闘機は着陸して、燃料弾薬を補給し、再び迎撃に舞い上がってゆく。そして、隊伍を整えた双発戦闘機も合わせて攻撃を開始する。ドイツ戦闘機隊は、爆撃機の1編隊に狙いを定めると、ロケット弾で編隊を崩し、損傷したり、落伍した爆撃機に銃撃を加えて、止めを刺していった。ドイツ軍は300機を超える各種迎撃機を差し向け、また、あらゆる戦法を用いて爆撃機の撃墜を図った。アメリカ爆撃隊の損害は記録的なものとなり、291機の出撃機の内、65機が撃墜された。その損失率は25%に達しており、搭乗員も1,000人以上が失われた。ドイツ軍は合計312機で迎撃し、その内、35機を失った。今回の犠牲をもって得た戦果は、ボールベアリングの一時的な減産であった。



当初、アメリカ空軍首脳は、自軍の爆撃機の性能を過信して、迎撃にやってくるドイツ戦闘機を逆に屠る事も出来ると見なしていた。実際、B17、B24の防御火力は強力で、優れた貫通力を誇る12・7mm機銃を10挺丁以上装備して、それらを機体の上下左右に配置して、死角を無くすようにしていた。機体構造も頑丈で少々の被弾はものともせず、アキレス腱となる燃料タンクも自動防漏式(被弾しても、ゴムの膨張によって燃料漏出を抑える)となっていた。特にB17の機体の頑丈さには定評があって、「空の要塞」の名に相応しい性能を誇っていた。アメリカ空軍首脳は、これら強力な爆撃機をもってすれば、味方戦闘機の護衛無しでも、ドイツ戦闘機を撃退し、戦略目標を爆撃可能だと見なしていた。しかし、実情は遥かに過酷であった。



アメリカ空軍の公式記録 、「1943年10月中旬、昼間爆撃作戦は危機に瀕していた。代償は危険なまでに高くなる一方で、戦果には疑問が付きまとっていた。従って、この作戦の前提となっていた事柄は再考すべきだった。第8航空軍はこの時期、ドイツ上空の制空権を失っていたのが事実だった。そして、確実な長距離援護を受けられなければ、制空権を取り戻す事は出来ない。明確に、戦闘機の航続距離を延ばす必要がある」



アメリカ空軍首脳にとって、一連の爆撃作戦の損失率は、許容できる範囲を超えていた。そして、ドイツ深部への爆撃攻勢は一時、控えられ、味方戦闘機の護衛の範囲内、ドイツ北部やフランス占領地などの短距離目標に切り替えられた。アメリカ航空軍司令官アーノルドも、「爆撃機と共に出撃して、共に帰投できる戦闘機を製造する事が、絶対的に必要である」と確信するに到り、爆撃機搭乗員も、全行程を援護してくれる戦闘機の登場を心底、願っていた。



これらの期待に応えられる唯一無二の存在が、新鋭の長距離戦闘機P51マスタングであった。P51は空力特性に優れた機体で、運動性に優れるばかりか、燃費も素晴らしく、戦闘機としては異例の大航続距離を誇った。機体タンクに693ℓ、機体後部タンクに1,018ℓ、更に409ℓの増槽を2つ装備すれば、戦闘半径は1,200kmを超えた。イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmであったので、優にドイツ深部まで進撃可能であった。また、増槽を大量生産する事によって、P47など、既存の戦闘機も航続距離を伸ばす処置が取られた。



1943末、待望のP51戦闘機隊がヨーロッパ戦線に到着し、同年12月13日のキール爆撃から護衛に付くようになった。当初は機数不足から目立った働きは無かったが、週ごとに数百機単位でアメリカから機材が送られてくると、急速に戦力を増していった。P51だけでなく、B17爆撃機の機体数増加にも、目を見張るものがあった。アメリカの工業力が、底力を発揮し出していた。だが、一方のドイツ軍も戦力増強に余念がなく、1944年1月、ドイツ防空戦闘機隊は、機材の量産と戦力の集中によって、これまでにない最大の規模に達していた。



ドイツ本土、オランダ、ベルギー、フランスなど西部戦線全体で、単発戦闘機870機、双発戦闘機780機、合計1,650機を配備したのである。搭乗員も選りすぐりの精鋭が揃っていた。それだけでなく、レーダー、高射砲、探照灯の増強も進められ、1944年には高射砲11,950門、探照灯7,520基が配備された。これらのレーダー、高射砲、探照灯、戦闘機隊を組み合わせた防空線(カムフーバーライン)をデンマークからフランスにまで巡らせて、連合軍機を待ち受けた。こうして、ヨーロッパ上空にて、史上最大規模の航空決戦が始まろうとしていた。



1944年初頭、満を持して、アメリカ第8航空軍によるドイツ本土爆撃が再開された。爆撃機の出撃機数は平均600~700機に達しており、これを、ほぼ同数の戦闘機が往復護衛した。ドイツ戦闘機隊はこれまで、護衛戦闘機が帰投するところを見計らって爆撃機を攻撃し、大きな戦果を挙げていた。しかし、アメリカ軍の新型長距離戦闘機の登場によって、この戦法は通用しなくなる。しかも、P51戦闘機隊は、敵戦闘機を積極的に攻撃するよう命じられており、敵機を見つければ近接支援を外れ、必要に応じて低空まで追撃を行った。これを受けて、ドイツ戦闘機隊が爆撃機を攻撃するには、まずP51戦闘機隊の護衛網を突破せねばならなくなり、これまでに無い苦しい戦いを強いられる事となった。



1944年3月6日、戦力を増した第8航空軍は、ついにドイツの首都、ベルリンに対する、大規模爆撃を敢行する。B17及びB24爆撃機の編隊672機と護衛戦闘機800機余の一大戦力が、ベルリン市と周辺の工業施設に爆弾の雨を降らせた。しかし、この日はさすがにドイツ空軍の迎撃も激しく、地上からの対空砲火も凄まじいものがあった。第8航空軍は大損害を被って、672機の爆撃機の内、69機が撃墜され、護衛戦闘機も11機が失われた。一方、ドイツ空軍も無傷では済まず、戦闘機106機を失った。その2日後にもベルリン爆撃は決行され、539機の爆撃機を891機もの戦闘機で護衛したため、ドイツ戦闘機隊が大きな損害を出した。その後も第8航空軍による、ドイツ本土爆撃は引き続いた。



1944年春、ドイツ上空にて、P51戦闘機隊とドイツ戦闘機隊による、血みどろの航空戦が繰り広げられた。この過程で両軍とも、多数の機材と搭乗員を失う。だが、アメリカ戦闘機隊は機材、搭乗員を滞る事なく補充して、戦力を維持したのに対し、ドイツ戦闘機隊は損失に補充が追いつかず、その戦力は減少する一方だった。ドイツ空軍はこの危機を凌ぐため、東部戦線や地中海戦線から次々に戦闘機隊を引き抜いて、本土防空に当てたが、それすら次々に失われていった。また、この措置の代償として、東部戦線及び地中海戦線では、連合軍が圧倒的な航空優勢に立って、ドイツ空軍は偵察飛行さえ、ままならなくなった。



1944年4月、東部戦線のドイツ空軍は、戦闘機、爆撃機など、各種航空機を合わせて500機のみであったが、対するソ連空軍は13,000機に達しており、制空権を完全に掌握していた。しかも、ドイツ空軍に所属する、対空砲1万門とその要員50万人もドイツ本国に回送された。対空砲は対戦車砲としても有効であったので、東部戦線のドイツ軍は、空陸共に戦力を大きく減少させる結果となった。これを受けて、1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ軍に壊滅的打撃を与えるのである。この様にドイツ本土航空戦は、多方面の戦線にも重大な影響を与えていた。



1944年1月から5月にかけて、ドイツ防空戦闘機隊は、月平均450人の搭乗員を失っていった。5月24日には、稼動可能な戦闘機数は240機に過ぎず、5月下旬までに2,262人の搭乗員が戦死していた。中でも、経験を積んだ熟練搭乗員を多数失ったのは致命的であった。


エゴン・マイヤー  102機撃墜 3月2日戦死

アントン・ハックル  192機撃墜 3月3日戦死

ゲルハルト・ロース 92機撃墜 3月6日戦死

エミール・ビッチェ  108機撃墜 3月15日戦死

ヴォルフ・ディートリヒ・ヴィルケ 162機撃墜 3月23日戦死

ヨーゼフ・ツヴェルネマン 126機撃墜 4月8日戦死

オットー・ヴェスリンク 83機撃墜 4月19日戦死

クルト・ウッベン 110機撃墜 4月27日戦死

レオポルト・メンステル 95機撃墜 5月8日戦死

ヴァルター・エーサウ 123機撃墜 5月11日戦死

フリードリヒ・カール・ミューラー 140機撃墜 5月29日戦死


1944年2月から5月にかけての空の消耗戦は、戦史においては目立たないが、戦争の行方を左右する重大な出来事であった。ドイツ空軍は打倒され、ドイツ上空ですら、連合軍の支配するところとなった。この圧倒的な制空権確保を受けて、1944年6月6日、アメリカ、イギリス連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させるのである。この時、連合軍総司令官アイゼンハワーは、兵士達にこう訓示している。「空に飛行機が見えたら、それは味方の飛行機だ」と。だが、ドイツ空軍は余力を振り絞って、反撃に出る。ためにノルマンディー戦線においても、果てしない空の消耗戦が続けられた。劣勢ながらドイツ空軍は善戦して、ほぼ同等の損害を与えていたが、連合軍の制空権を覆すまでには到らなかった。



このノルマンディー上陸作戦の前後、連合軍爆撃機は主にフランスで、地上軍の支援に回されたので、その間はドイツ本土爆撃が低調になった。だが、フランスにおける連合軍優位が確立されると、連合軍爆撃機は、圧倒的な戦力でドイツ本土爆撃を再開する。爆撃機の1回の出撃機数は、1,000機単位となっていて、これに、ほぼ同数の護衛戦闘機が付いた。 ドイツ本土とフランスにおける航空消耗戦で、疲弊仕切っていたドイツ空軍にこの爆撃を阻止する術は無かった。



1944年6月以降、連合軍爆撃機はとりわけ、石油精製工場、鉄道操車場、送電網に効果的な爆撃を加えた。ドイツの心臓たる重工業は、石炭を養分として動いていた。その養分を届ける血管の役割をしていたのが、ドイツの鉄道網である。連合軍はこれに目を付けて、鉄道網を中心とする、ドイツの輸送網全体の破壊を試みた。そして、連合軍爆撃機は、操車場、機関車庫、駅、橋梁、運河などに、大量の爆弾の雨を降らせた。その結果は如実に現れ、ドイツの石炭生産量は1944年9月以降、急速に低下する。そして、1945年2月には、ドイツの主要石炭生産地である、ルール地方からの石炭輸送量は10分の1に低下していた。ドイツ工業は養分の石炭を断たれて、次々に停止していった。輸送網が破壊された結果、兵士、武器弾薬、食糧の輸送にも困難を来たし、ドイツ国内ですら孤立地帯が生じつつあった。



ドイツの航空燃料生産は1944年3月には18万1千tあったが、5月下旬からの爆撃以降、生産量は激減する。6月は5万6千t、9月は1万7千t、1945年2月に到っては僅か1千tとなった。ドイツの航空機生産量は、1944年に最高潮に達し、3万9,800機もの機体を生み出したが、大戦末期になると、機体はあっても燃料が無いという状況になった。そして、燃料不足は搭乗員育成にも深刻な影響をもたらした。ドイツの新米搭乗員は、連合軍より遥かに短い訓練期間を経て、離着陸がやっという状態で戦闘機に乗り組み、圧倒的な数の連合軍戦闘機に挑まねばならなかった。1944年6月から10月までに、ドイツの搭乗員は1万3千人が戦死したとされる。これらのほとんどは未熟な搭乗員であって、子供殺しとまで呼ばれた。アメリカ軍搭乗員は、地表近くまで追い詰めたドイツ戦闘機が、鉄塔、木、建物を避けられずに激突するのを多数、目撃したと証言している。 

ドイツ本土航空戦 1

 ●爆撃目標シュバインフルト


時は1943年10月、第二次大戦最中。イギリスの空軍基地にて、アメリカの搭乗員達が緊張の面持ちで、出撃前のブリーフィングに集まっていた。彼らは、アメリカ第8航空軍に所属する搭乗員達で、ドイツ本土及び、ドイツの占領地(フランス、オランダ等)を爆撃する任務を負っていた。そして、指揮官の口から、「爆撃目標シュバインフルト」と告げられた時、搭乗員達は一様に顔面蒼白となり、自らの運命の終わりを悟った。シュバインフルト、それはドイツ本土南部にある、人口4万人の小さな工業都市である。ドイツの首都ベルリンと比べれば、人口は100分の1に過ぎない。だが、ここでは重要な戦略物資が作られていた。それが、ボールベアリング(玉軸受)である。


ボールベアリングとは真円の球体で、ありとあらゆる機械の稼動部分を担う。人間に例えれば関節、あるいは軟骨に当たる。この球体が無ければ、機械は動かないのである。シュバインフルトは、ボールベアリングの一大生産地であった。従って、この都市を破壊すれば、ドイツの産業自体を麻痺状態に追い込む事も可能と見られた。この小さな工業都市を爆撃する意味は、大いにあったのだ。だが、ドイツもまた、シュバインフルトの重要性をよく理解しており、周辺に強力な戦闘機隊を配置して待ち受けていた。それに加えて、多数の対空砲や煙幕発生装置まで配備していた。


それに、イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmの距離があって、この往路を護衛可能な連合軍戦闘機は、1943年10月時点において配備されていなかった。従って、爆撃隊は自らの防護機銃のみで敵戦闘機を撃ち払い、目標まで到達せねばならない。実に、前途多難な爆撃行であった。実際、2カ月前に行われたシュバインフルト爆撃において、爆撃隊は深刻な損害を被っていた。1943年8月17日、この日、376機のアメリカ軍爆撃機によって、第1次シュバインフルト爆撃が決行された。


空軍首脳は出撃するに当たって、爆撃隊の損害を少しでも抑えるべく、陽動作戦を行おうとした。まず、先行する別働隊が、シュバインフルトの東南180kmに位置するレーゲンスブルグを爆撃する。こうして、別働隊がドイツ戦闘機隊の注意を惹き付けている隙に、すかさず本隊がシュバインフルトを爆撃するのだ。レーゲンスブルグにはドイツの戦闘機生産工場があって、ここも重点爆撃目標と見なされていた。しかし、これは陽動であって、主目標はあくまでシュバインフルトである。8月17日午前8時、レーゲンスブルグを目標とする別働隊、B17爆撃機146機が次々に飛び立っていった。


続いて、シュバインフルトを目標とする本隊、B17及びB24爆撃機230機が飛び立たんとした時、異変が起こった。それは、かの有名なイギリスの霧である。観光客にとっては見物の1つであったが、航空機にとっては忌々しい白い悪魔であった。出撃予定の午前9時になっても霧は晴れず、午前11時になってようやく出撃可能となった。先行する別働隊とは、3時間の遅れが生じていた。これでは当初の陽動作戦の意味は薄れ、両爆撃隊がそれぞれ目標を強襲する形となる。司令部は判断に迷ったが、作戦続行を決めた。レーゲンスブルグ爆撃隊146機は、ドイツ国境までは味方戦闘機の護衛を受けていたが、ここまでが航続距離の限界で、彼らは翼を振りつつ反転していった。


すると、それを待っていたかのように、ドイツの戦闘機隊が襲い掛かって来る。ドイツ戦闘機隊400機余が代わる代わる攻撃を加えてきて、爆撃機15機が撃ち落され、10数機がエンジンや機体に損傷を受けた。損傷機は煙を吹きつつ、尚も飛行を続行し、爆撃隊はレーゲンスブルグ上空に達して、303トンの爆弾を投下した。爆撃隊はそこから南下してアフリカのアルジェリアを目指したが、エンジンに被弾した機体は地中海を越えられず、海上に落ちていった。それから3時間後、シュバインフルト爆撃隊230機もドイツ本土に侵入した。しかし、この間に、ドイツ戦闘機隊は給油と給弾を済ませ、伝えられる第2派の攻撃に備えていた。シュバインフルト爆撃隊は、その網の中に飛び込んだのだった。


ドイツ戦闘機隊は、爆撃編隊の隙間から切り込んでは、一撃離脱を繰り返した。ドイツ戦闘機隊300機余の迎撃と、地上からの高射砲の砲火を受けて、爆撃機は次々に撃ち落されていった。搭乗員達が落下傘を開いて次々に脱出していく。しかし、きりもみ状態になった機体からは脱出不可能で、そのまま地上に激突して爆炎を上げた。レーゲンスブルグ、シュバインフルト爆撃隊は合わせて376機が出撃したが、その内、60機が撃墜された。故障などで途中帰還した15機を除くと、その損失率は17%に達していた。


アメリカ空軍では1回の任務に付き、4%以上の損失が出るのは許容し難いとしていたので、上層部はこの結果に衝撃を受けた。基地に帰投した316機も、100機余が重大な損傷を受けて廃棄処分となり、撃墜機と合わせると、都合160機もの爆撃機が失われた。熟練搭乗員も一挙に600人が失われ、搭乗員の間には言い知れぬ恐怖感が広がって、士気は急速に低下した。この犠牲の成果で得たものは、シュバインフルトのボールベアリング生産量、34%の低下であった。しかし、それも半年後には旧に復したとされる。一方、ドイツ側も、この迎撃戦において47機の戦闘機を失っていた。


アメリカの主力爆撃機、B17及びB24は、エンジン4発の大型機で、それぞれ10人の搭乗員が乗り組んでいる。それに対して、ドイツの主力戦闘機、Bf109及びFw190は、エンジン単発で1人乗りであった。血の取引は、アメリカの方が明らかに分が悪かった。それに、ドイツ上空でアメリカ軍機が撃墜された場合、運良く搭乗員が脱出出来たとしても、成すすべ無く捕虜となって、戦線復帰は不可能となる。一方、ドイツ軍機は撃墜されたとしても、搭乗員が無事、脱出に成功すれば、すぐに戦線復帰が可能であった。


大損害を受けたアメリカ第8航空軍は、本国から新たな補充を受けつつ、戦力の再建を図った。そして、まだ傷も癒えないまま、1943年9月6日、ドイツ本土のシュツットガルトを目指して、262機の爆撃機が飛び立った。目標はシュツットガルト周辺に点在する、航空機工場であった。しかし、今回の爆撃行も苦難に満ちたものとなり、45機の爆撃機が撃墜され、損失率は前回と同様、17・2%に達していた。搭乗員達は目標、レーゲンスブルグ、シュヴァインフルト、シュツットガルトと告げられた際には、死刑宣告と同様に受け取った。搭乗員にとって何よりの衝撃は、すぐ前や横にいる僚機がみるみる炎に包まれて、分解しながら落ちていく光景だった。


夕方を迎えると、搭乗員の多くは、昂ぶった神経を抑えるためウイスキーに手を伸ばした。酒の手を借りて眠りについても、機銃掃射を受けて機体を穴だらけにされ、戦友が重傷を負ってもがき苦しみ、エンジンが火を噴くといった悪夢にうなされた。多くの者が戦闘神経症に罹り、突然の震えや金縛りに遭い、中には一時的に失明する者もいた。どれも、極端に危険な状態に置かれ続けた事による、ストレス反応であった。爆撃機の損失は、ドイツ軍によるものだけでは無い。霧が濃い時は、空中衝突が頻発したし、帰還途中で衝突事故に到る例も多かった。また、爆撃中、上空の味方が落とした爆弾に当たって、爆散する機体もあった。


飛行任務中の苦労も絶えない。高空の凍えるような寒風は、胴体両側面の銃座を固める銃手にとって、大変きつかった。外気に直接、接しているので、全身がかじかんでくるのだ。電熱式の長靴、手袋、つなぎ服で固める者もいたが、動作が不安定で、任務中、それらがずっと機能し続けるのは稀だった。銃塔に篭もる乗員は、敵地の上空にいる数時間、狭い空間から出られないため、尿意を催した場合、ズボンの中に垂れ流す他、無かった。飛行中、重傷を負った者は、基地にたどり着く前に低体温症で命を落とす公算が高かった。25回の爆撃任務を終えると、本国に帰還して、休暇を得られる約束が成されていたが、そんなものは遠い夢物語に思えた。


搭乗員達は、心身共に衰弱していた。しかし、そんな彼らを奈落に突き落とすかの様に、再びシュバインフルト爆撃が告げられた。冒頭、第2次シュバインフルト爆撃の開始である。




↑B17G

全長:22.66m

全幅:31.62m

全備重量:29,700kg

出力:1,200hp×4

最大速度:462km/h

航続距離:5,800km

武装 :12.7mm機銃×13  

爆弾搭載量:近距離任務時、3,600kg

乗員:10名

総生産機数:12,731機


原型機となる、モデル299の初飛行は1935年であったが、発展余裕があった事から、その後の大改良と重量増加をよく受け付けた。大抵の航空機は何らかの欠点や癖があるが、飛行性能は安定しており、構造も頑丈であったので、並の軍用機なら墜落するような損害にもよく耐えた。アメリカ空軍による、対ドイツ爆撃の主力を担った。






↑B24J

全長:20.60m

全幅:33.50m

全備重量:29,500kg

出力:1,200hp×4

最大速度:488km/h

航続距離:5,900km

武装 :12.7mm機銃×10

爆弾搭載量:近距離任務時、3,600kg

乗員:10名

総生産機数:18,431機


B17と並ぶアメリカ空軍の主力爆撃機であった。飛行性能自体は、B17を上回っていたが、被弾に脆い事から、乗員はB17の方を好んだ。航続距離に優れる事から、太平洋戦線や地中海戦線では活躍した。また、哨戒機型は大西洋戦線で活躍し、Uボートの封じ込めに大いに貢献している。





↑Bf109G

全長:8.95m

全幅:9.92m

全備重量:3,400kg

出力:1,475hp

最大速度:640km/h

航続距離:650km

武装 :20mm機関砲×1 、13mm機銃×2

爆弾搭載量: 250kg

乗員:1名

総生産機数:33,000機


1939年開戦時からのドイツ空軍の主力戦闘機で、登場時は世界の最先端を行く機体であった。戦争後半には英米の新型機に見劣りするようになったが、それでも改良を重ねて一線級の性能を維持した。軽量で運動性に優れていたが、航続距離と武装が不足気味であった。



↑Fw190A8

全長:9.00m

全幅:10.50m

全備重量:4,900kg

出力:1,700hp

最大速度:656km/h

航続距離:800km

武装 :20mm機関砲×2、13mm機銃×2

爆弾搭載量:500kg

乗員:1名

総生産機数:2万機以上

Bf109と並ぶドイツの主力戦闘機で、高高度性能以外ではBf109を上回る性能を示した。機体構造が頑丈で、戦闘爆撃機としても用いられた。発展余裕にも優れ、後期型のFw190Dは、アメリカが誇るP51マスタングに匹敵する性能を示した。


                                            

越前大野城

越前大野城は、福井県大野市にある平山城である。



大野城は、天正4年(1576年)、織田家の部将、金森長近によって築かれたのが、最初となる。城は、標高249メートルの亀山の山頂に築かれ、野面積みの石垣の上に、2層3階の天守閣が置かれた。その後、城主は次々に入れ替わるが、天和2年(1682年)、大老、土井利勝の子、利房が入ってからは、以後代々、土井氏が城主を務めた。安永4年(1775年)、野口村から出火した火災が、城下1,400軒を焼く大火となって、大野城にも飛び火、天守閣を含む本丸を焼失した。寛政7年(1795年)、本丸は再建されたが、明治6年(1873年)、明治政府による廃城令によって、建物は取り壊された。昭和43年(1968年)、鉄筋コンクリート製の天守閣が復元されて、現在に到る。





↑麓から見た、大野城





↑城門





↑お福池





↑西を望む





↑東を望む





↑南を望む





↑北を望む






↑天守台の石垣




↑天守閣


越前大野城は、雲海に浮かぶ天空の城として知られており、福井県の名所ともなっています。しかし、個人的にはやはり、鉄筋コンクリート製の天守閣は頂けず、いずれは木製で復元してもらいたいです。




↑朝倉義景の墓所


大野城から歩いて、15分ほどの所にあります。 朝倉義景とは、かつて、越前国を支配していた戦国大名で、周辺国にも大きな影響を及ぼすほどの大大名でした。しかし、天正元年(1573年)、織田信長に大敗を喫した事から、本拠の一乗谷も危うくなり、一族の朝倉景鏡を頼って、越前大野の賢松寺へと逃れます。ところが、ここで景鏡の裏切りを受けて、賢松寺は200騎の武士に取り囲まれ、その中で無念の自刃となりました。賢松寺はその後、廃寺となりましたが、義景の墓所は現代でも、市街地の一角にひっそりと佇んでいます。

由良要塞の遺構、友ヶ島

友ヶ島とは、和歌山県和歌山市の沖に浮かぶ無人島です。かつて、ここには大日本帝国の要塞が築かれていました。



由良要塞とは、明治政府が外国からの侵攻に備えて建設した要塞の1つで、紀伊半島と淡路島の間にある、紀淡海峡周辺に築かれたものである。淡路島の由良地区・和歌山県の友ヶ島地区・和歌山県の加太、深山地区・鳴戸海峡防備を担う鳴戸地区(淡路島門崎に置かれた砲台)の4地区を合わせて、由良要塞と称された。由良要塞は、大阪湾への敵艦侵入に備え、第二次大戦まで臨戦態勢にあったが、終戦を受けて撤去された。





↑20,3cm砲弾








↑第二砲台跡

終戦による爆破を受けて、半壊しています。




↑展望台からの眺め

向こうに見える島は、淡路島です。あちら側にも要塞が築かれていて、この紀淡海峡の防備にあたりました。





↑第三砲台跡

友ヶ島各所にある砲台跡の中で、最も見応えのある遺構です。トンネル内を散策する事も出来ます。内部は薄暗いので、懐中電灯か携帯のライトを使用した方が良いです。私もペンライトを片手に、内部を見学してきました。





↑砲台内

トンネル左奥に、中に入っていく通路があって、そこも見学してきました。観光客は結構、大勢いたので、賑やかでしたが、それでも不気味さは否めなかったです。






↑第三砲台跡

中央、奥に見えるトンネルに入って行きます





↑トンネル内

前に見えるのは、この世の人です。




↑第三砲台跡

この辺りの遺構が、最も廃墟っぽくて、趣きがありました。





↑第三砲台内部

ここは弾薬庫だったのでしょう。




↑将校宿舎跡


内部は朽ちています。



友ヶ島は小さな無人島ですが、実際に歩き回って見ると、思いの他、広く感じました。飲み物は桟橋付近に売っていましたが、夏に散策する場合は、島に渡る前に大きなペットボトルを買っておいた方が良いでしょう。トイレは所々にありました。この島に渡るには、船を使う他ありませんが、時刻と便数が限られているので、よく確認してから渡りましょう。第三砲台の廃墟の雰囲気と、展望台からの眺めはとても良かったです。

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重家 
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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