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秦始皇帝陵

2017.01.15 - 三国志・中国史

紀元前210年7月21日(おそらくは8月21日)、中国史上初の皇帝、秦始皇帝は巡行中、病を得て急死した。嬴 政(えい せい)、49歳。始皇帝の死は秘され、その棺は車馬に載せられて、首都、咸陽へと運ばれていった。しかし、暑い時期であったため、車馬からは悪臭が漂い始めた。それを紛らわすため、塩漬けの魚が積みこまれた。行列が咸陽に着くと、喪が発せられ、公子の嬴 胡亥(えい こがい)が二世皇帝に即位した。同年9月、始皇帝の遺体は、西安の東方25キロにある、驪山(りざん)の地に埋葬された。


この山の麓に、始皇帝のために築造中であった陵墓があった。そして、遺体は地下宮殿に安置され、その上に巨大な墳丘が築かれた。陵墓の建設は、前246年、始皇帝が13歳で王位を継承した時から始まっており、二世皇帝の時代を迎えて、ようやく最終工程に入った。ここまで、38年の歳月が費やされていた。しかし、その最中の前209年7月、陳勝、呉広の反乱を受けて、工事は中断を余儀なくされる。そして、前206年、秦は滅亡を迎え、結局、始皇帝陵は未完のまま終わった。


しかしながら、秦が国力を傾けて築いただけはあって、始皇帝陵の壮大さは他の追従を許さず、中国史上最大の陵墓となっている。陵墓は、版築(黄土を突き固めただけの、簡単な工法)によって築かれた二重の城壁に囲まれ、外城は南北2,165メートル、東西940メートル、内城は南北1,355メートル、東西580メートルあった。そして、内城の中に、南北350メートル、東西345メートル、高さ76メートルの墳丘と、その地下30メートルに宮殿と始皇帝の墓室があった。


地上には、始皇帝の魂が日常生活を送るための寝殿や、休息のための便殿、食事をするための建物も建造されていた。陵墓の官吏は、毎日、食事を捧げていた。しかし、前209年、陳勝、呉広の反乱軍が陵墓に侵入し、兵馬俑を破壊して火を放った。続いて、前206年、項羽によって陵墓は暴かれ、この時も兵馬俑は破壊された。その後、陵墓に迷い込んだ羊飼いが地下宮殿を焼いて、その火は90日間も消えなかったと云う。


始皇帝の死から100年後の歴史家、司馬遷の記述を載せたい。

「始皇帝が秦王に即位して間もなく、驪山にて、その陵墓の築造が始まった。彼が天下を統一した後、全国から70万人の刑徒がここに集められて苦役に従事した。そして、3度、地下水脈を掘り抜いて、棺を覆う部屋を銅で固め、地下に宮殿、楼閣を築き、百官の席を設け、美しい器具や珍奇な財宝で墓室を満たした。器械仕掛けの弩と矢を備え付けて、盗掘者が近づけば発射するようにした。水銀で、全国の多くの川や長江、黄河、大海を再現し、器械仕掛けで流れるようにした。天井には天文の図、床には地理を描いた。永遠に燃え続けるよう、人魚(鯨との説)の膏(あぶら)で燭台の火が灯された。二世皇帝が即位すると、「先帝の宮女の内、子の無い者は後宮から出すべきではない」と言って、殉死を命じた。多数の殉死者を埋葬した後、官吏の1人は、「器械仕掛けをこしらえた工匠達は、墓の内部を知り過ぎており、それを漏らす危険があります」と建議した。そこで、始皇帝の棺を墓室に安置し、様々な財宝を収めた後、墓道の中と外の門が下ろされ、陵墓の建設に携わった人々を悉く閉じ込めて、誰1人出られないようにした。その上で、陵墓に草木を植え、丘陵の様に見せかけた」


1974年、陵墓から東に1・5キロの地点から、兵馬俑が発見された。俑(よう)とは陶器で作られた人形で、死者への副葬品とされた。始皇帝陵では、兵士、軍馬、戦車、指揮官、文官、力士、水鳥など、様々な俑が発見されている。中でも、人間を模(かたど)った俑は、非常に写実的で、今にも動き出しそうな迫力を醸し出している。実在した兵士を模して作られているので、身長、体格も実物大で、それぞれ容貌も違っており、同じ容貌の者は今だ発見されていない。また、額の皺(しわ)や顎の髭(ひげ)、鎧の金具、衣服の皺といったところまで再現されている。


容貌からは、関中、巴蜀、隴東(ろうとう)といった秦出身の兵から、北方騎馬民族系、西域系、秦が滅ぼした東方6ヵ国系の顔が見てとれた。これによって秦の軍隊は、様々な地域の人々から成り立っている事が分かった。兵士達は盾を持っておらず、鎧も胴体を覆うのみであった。これは秦の軍隊が、機動性を重視した攻撃的性格を持っていた事を示唆している。秦の軍隊の獰猛さは史書にも記されており、その精鋭部隊がそのまま再現されていた。 彩色が施された兵馬俑が発見された事から、制作時には鮮やかな彩色が施されていた事も分かった。しかし、兵乱を受けて焼かれたり、長らく地中に埋もれている間に、彩色は失われていった。彩色が残っている兵馬俑も、適切な処置を施さないと、空気に触れた途端、急速に劣化してしまう。この様に彩色の保存は難しく、現存する兵馬俑のほとんどは、土色となっている。


実物大の人間や馬の陶器を作るには、高度な技術と大変な手間が必要であった。まず、材料として黄土を捏ねるが、粘り気を増すため、何種類かの土も加える。次に、薄手の粘土で全身を形作っていくが、頭から足まで内部は空洞とし、焼成時の破裂を防ぐため、空気孔も作っておく。立たせて安定させるため、下半身は太めにして、重心を下げておく。ひび割れや歪みを防ぐため、収縮する度合いも考慮しておく。十分乾燥させてから、窯に立たせ、1000度丁度ぐらいの温度を保ちながら長時間、慎重に焼成する。出来上がった俑は生漆を塗られ、その上に何種類も色を重ねて、色合いに深みをもたせていった。


完成なった兵士俑の多くは、青銅製の実物の武器を持たされた。しかし、秦末の混乱時、兵馬俑に突入した反乱軍や、これを鎮圧する秦軍自身によって、武器の多くは持ち去られた。それでも、多数の剣、矛、戟(げき)、弩(ど)、鏃(やじり)が、兵馬俑から発掘された。大部分は青銅製で、鉄製は僅かしか出土しなかった。これらの武器は、公開するにあたって取り上げられ、別に保存されている。武器は、腐食耐性のあるクロムの膜で覆われており、発見時にも今だ光沢と切れ味を保っていた。クロムメッキの技術は、1937年にドイツで発明されたとあるが、秦はそれより2千年も昔に、既にこれを習得していた事になる。しかし、この技術は秦の滅亡と共に消え去ってしまい、次の漢王朝には継承されていない。このような高度な技術を、秦がどのようにして習得したのかは、今だ謎とされている。


兵馬俑は1号坑、2号坑、3号坑、4号坑からなっているが、4号坑は未完となっており、何も入っていない。1号坑からは、焼却された跡が残る兵士傭が多く見つかっており、3号坑からは、頭部を砕かれた兵士傭が多く見つかった。これらは、陳勝、呉広の反乱軍と、項羽の軍による破壊を物語っている。兵馬俑は、全てが発掘された訳ではなく、今だ多くが地中に埋もれたままとなっている。その密度から計算すると、8千体が存在すると考えられている。


2000年には、外城の東北に水鳥坑が発見され、青銅製の鶴6羽、白鳥20羽、雁(がん)20羽、それに飼育係の官吏の俑も発見された。地下に河川が作られて、その畔にこれらは配置されていた。秦の次の王朝、漢の時代にも、秦を見習ったと思われる兵馬俑が作られているが、その大きさは3分の1程度で、写実性にも欠けている。秦ほど規模の大きな陵墓と兵馬俑は、後にも先にも存在しない。しかしながら、後の王朝は、秦が一大陵墓を築かんとして、国が傾いていった事を知っており、これを反面教師として大規模な陵墓は築かなかったとも言える。


始皇帝陵は、驪山(りざん)の山麓にある事から、土石流に襲われる危険性があった。そのため、陵墓の東南に版築工法による堤防を築いて、土石流から守った。現在、その施設は五嶺遺跡と呼ばれており、長さ1キロ、幅40メートル、高さ2~8メートルほどの版築が残されている。また、陵墓の内城、外城には、排水施設が設けられており、陶製の下水管を敷き詰めて、雨水の排出が行われていた。下水管は五角形の構造で、上面の三角形によって上からの圧力を緩和し、平らな広い底面によって沈み込まない様にしていた。これら陶製の下水管は大量に制作されて、陵墓全体の地下に埋め込まれていた。それによって、地下宮殿への浸水を防いでいたと考えられる。


1976年、外城の東350メートルの地点で、整然と並んだ17基の墓が発見された。その内、8基を発掘したところ、男性5人、女性2人の遺骨が見つかった。印賞も見つかった事から、これらは始皇帝の公子であると推測された。1人の頭骨には銅の鏃(やじり)が刺さっており、遺骨はばらばらに分断されていた。始皇帝には20数人の子供がいたが、二世皇帝は大部分を殺害して、陵墓に殉葬したとされている。李斯(りし、秦の丞相)伝によれば、公子12人と公女10人が殺害されたとあり、秦始皇帝本紀では、公子6人が殺害され、公子3人が自殺に追い込まれたとある。その血生臭い故事を、裏付けるかのような発見であった。


1978年、1979年には、陵墓の西南1・5キロの地点で、刑徒の墓地が2ヶ所見つかった。103基あった墓の内、32基を発掘したところ、100体の遺骨が見つかった。それは、竪穴の小さな墓で、1人を埋葬したものから、2,3人、多い所では14人がまとめて葬られていた。鑑定したところ、女性は3体、男性は6~12歳の子供のものが2体、その他は20~30歳のものであったようだ。遺骨の上に置かれていた瓦片には、姓名、本籍、力役が記されていた。


1981年、始皇帝陵の墳丘を調査したところ、表面の土から水銀が検出された。墳丘の周辺では30ppbの濃度であったが、墳丘中央では平均205ppb、多い所で1,500ppbに達していた。2千年以上の歳月を経て、地下にあった水銀が蒸発し、それが地表に現れたと見られる。司馬遷の記述にあった、水銀の川と海の存在を裏付ける調査結果となった。2002年から2003年9月にかけて、考古学者達は墓を掘る事なく、地中レーダー、赤外線、磁気探知などの科学的手法をもって、墳丘を調査した。その結果、地下宮殿の空間は、南北145メートル、東西170メートルである事が判明した。


墓室は、地下30メートルにあって、南北50メートル、東西80メートルあった。墓室は石灰岩で守られ、空間の高さは15メートルあって、周囲は16~22メートルの厚い壁に覆われていた。墓室は浸水しておらず、崩れてもいないようだった。棺は、防腐作用と、湿度調整機能がある木炭で覆われていると考えられている。また、地下30メートルにあって、地熱は10~15度程度で安定している事から、始皇帝の遺体は、現在でも形を留めている可能性がある。古代技術の粋を極めた財宝や壁画も、そこにあるだろう。しかしながら、現在の技術で陵墓を発掘すると、空気に触れた瞬間、遺物が損壊する恐れがある事から、確かな保存技術が確立されるまで、中国の考古学会は発掘を容認しない方針である。始皇帝と地下宮殿は、神秘のベールに包まれたまま、今だ眠りについている。



 
↑秦始皇帝陵の地図(ウィキより)



↑秦始皇帝陵の墳丘(ウィキより)  




↑クロムメッキを施された青銅剣(ウィキより)




↑兵馬俑坑(ウィキより)


 

↑兵馬俑(ウィキより)




↑兵馬俑(ウィキより)


主要参考文献
鶴間和幸著、「中国の歴史 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国」
「始皇帝の地下帝国」




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彦根城、再訪

彦根城は、滋賀県彦根市にある平山城です。10年程前に一度訪れているので、再訪となります。


慶長5年(1600年)9月、徳川第一の功臣、井伊直政は関ヶ原合戦の功をもって、旧石田三成領18万石と佐和山城を拝領する。直政は、新城を築く事を計画していたが、実行に移す前に関ヶ原の負傷が元で、慶長7年(1602年)に死去した。嫡男の直継が跡を継ぎ、慶長9年(1604年)7月より、彦根山を中心に築城が始まった。慶長11年(1606年)6月、天守閣が築かれ、慶長19年(1614年)には、内堀とそれより内にある建物群と、城下町が完成を見た。慶長20年(1615年)2月、直継は家臣団統制に苦慮していた事から、次弟の直孝に交代させられる。


元和元年(1615年)7月、普請が再開され、元和8年(1622年)、表御殿、黒鉄門、外堀などが築かれ、城下町の拡張も行われて、ここに彦根城は完成を見た。幕末の大老、井伊直弼(1815~1860年)も、この城で生まれ育っている。明治時代、廃城令によって、全国の城が次々に取り壊されていく中、大隈重信の提言を受けて、彦根城の解体は免れた。昭和27年(1952年)、彦根城の天守閣と、附櫓、多聞櫓は国宝に指定され、昭和31年(1956年)には、彦根城は国特別史跡に指定された。


彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑彦根駅前にある井伊直政像


彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑玄宮園からの眺め


彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑玄宮園からの眺め


彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑本丸からの眺め 右手の山は、かつての石田三成の居城、佐和山城で、左手の奥に伊吹山が見渡せます。



彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑本丸からの眺め 竹生島が見渡せました。


彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城の紅葉はなかなか見応えありましたが、現在の彦根城主である、ひこにゃんに出会えなかったのは残念でした。どうも、訪問時間が早過ぎたようです。まあでも、早朝は人が少なくて、ゆったり散策出来ましたし、天守閣にもすんなり入れたので良しとしておきます。




八上城

八上城は、兵庫県篠山市にある山城で、黒井城、八木城と並んで、丹波の三大山城と称されています。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑麓にある春日神社

鳥居をくぐった先に、車が1、2台停めれるスペースがあります。この神社から登り始めます。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑主膳屋敷跡

歴代の当主が住まっていた所です。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑二の丸跡

この先にある土塁が、本丸跡です。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸から西を望む

左下にある山には、法光寺城が築かれていて、八上城の側面防御を担っていました。明智光秀との攻防の折には、ここは占領され、付城とされた模様です。この両城の谷間に城下町があり、その奥にかつての波多野氏の本拠、奥谷城がありました、



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸跡



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸跡の石垣

この石垣は、明智光秀か豊臣秀吉の統治下にあった時に、築かれたものでしょう。




八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

眼下にある小島の様な丘陵にも、織田軍の陣所が設けられていました。このどれかが、ロウ山で、光秀の家臣、小畠越前守が守っていましたが、波多野軍に攻め懸けられ討死しました。丹波は霧が深い事で知られており、その霧に乗じて、波多野軍は忍び寄ったのでしょう。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑大堅堀跡

実際、大きな堀切りでした。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑朝路池跡

底が見えていたので、入水自殺をするには無理があると思いました。しかし、この付近は、なにやら重々しい雰囲気が漂っているように感じました。山中では誰一人出会わず、不気味なほど静寂だったので、余計にそう感じました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑八上城遠景

これは、篠山城の本丸からの眺めです。八上城のある高城山は、整った山容をしており、丹波富士とも称されています。    

八上城の攻防

2016.11.23 - 戦国史 其の三

八上城は、兵庫県篠山市にある山城である。城を築いたのは、丹波国(兵庫県、京都府、大阪府に跨る地域)の戦国武将、波多野氏で、戦国時代後半、城主の波多野秀治と織田家の部将、明智光秀との間で、熾烈な攻防戦が繰り広げられた城として知られている。


波多野氏の始まりは、応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)の応仁の乱にて、石見国出身の波多野清秀(1443?~1504年)が東軍の総大将、細川勝元に属して活躍した事から、その子、細川政元から、丹波多紀郡を与えられた事に始まるとされる。この清秀の時代に、奥谷城が築かれ、そこを本拠とした。2代目、元清(1496~1545)になると、波多野氏の勢力は周辺の群にまで及び始める。そして、元清は、奥谷城の隣にある、高城山(標高460メートル)に八上城を築き、そこを新たな本拠とした。正確な築城年代は不明だが、大永6年(1526年)に「足利李世記」「細川両家記」に矢上城と記載されている事から、これ以前には築かれていたと見られる。


3代目、秀忠(?~1554?)は、波多野氏の全盛期を作り出した人物で、丹波の最有力者となっただけでなく、室町幕府菅領、細川家の被官として、京都でも活躍を見せた。秀忠は、細川京兆家の権威を背景に、丹波の制覇を進め、天文7年(1538年)には、丹波守護代、内藤氏の拠る八木城を落として、船井郡、桑田群に勢力を伸ばした。また、秀忠の文書は、多紀、桑田、天田、船井の各群に向けて発給されており、その勢力は丹波のほぼ全域に及んでいたと考えられる。その実力をもって丹波守護と称され、名実ともに丹波を代表する戦国大名となった。時の菅領、細川晴元は、秀忠を厚く信頼し、三好長慶と並んで、家中の柱石と見なした。秀忠は、同僚の実力者、長慶に娘を嫁がせて友好関係を結んだ。


しかし、4代目、元秀(?~?)の時代になると、三好長慶との対立が深まってゆく。天文18年(1549年)、細川晴元と三好長慶との間で抗争が始まると、元秀は晴元に属して戦った。だが、長慶の勢力は強大で、天文21年(1552年)、八上城は三好軍によって包囲される。波多野氏は存亡の危機に立ったが、幸いこの時、三好家の一族、芥川孫十郎が摂津芥川城で反旗を翻したので、三好軍は撤退していった。弘治元年(1555年)、八上城は再び三好家の攻撃を受けたが、元秀は固く城を守って、自力でこれを退けた。そこで長慶は調略をもって、波多野氏の切り崩しにかかり、その一族で数掛山(かずかけやま)城主の波多野秀親を味方に付けた。元秀は頼りとしていた一族に裏切られ、八上城を保つのも難しくなった。そして、永禄2年(1559年)、三好家の部将、松永長頼(松永久秀の弟)の攻撃を受けて、元秀は八上城から追われ、丹波の支配者の座から転がり落ちた。元秀は逼塞を余儀なくされ、永禄4年(1561年)まで、文書の発給は途絶える。


それからの元秀の所在は定かではないが、隣接する氷上郡の赤井直正の下に身を寄せていたと思われる。その後援を受けてか、永禄5年(1562年)には勢力を挽回しつつあったようだ。同年12月、元秀は、多紀郡の豪族に人夫摘発を免除するとの書状を発給している。永禄8年(1565年)8月、丹波に君臨していた松永長頼が、赤井直正と戦って敗死すると、元秀はこの機に乗じて反攻し、八上城を奪回する事に成功した。この後、直正が丹波3郡を支配する最大勢力となるが、波多野氏とは協力関係にあったと思われる。元秀の没年は不明だが、やがて、5代目、秀治が当主となった。元亀元年(1570年)11月、秀治は、畿内最大の実力者となっていた織田信長に馬と太刀を送って、服属を表明した。赤井直正も同じく、織田家に服属したようだ。元亀4年(1573年)、足利義昭の主導による信長包囲網が形成されると、秀治は応じなかったが、直正はこれに応じて反旗を翻した。


天正3年(1575年)10月、信長は、直正を討つべく、部将の明智光秀を丹波に派遣した。光秀軍は丹波北部から攻め入ると、瞬く間に直正の拠る黒井城を包囲した。秀治は、光秀軍に協力する姿勢を見せていたが、天正4年(1576年)1月15日、包囲が続く中、突如として反旗を翻した。背後を突かれた光秀はたまらず、総崩れとなって落ち延びていった。天正5年(1577年)10月、光秀は雪辱を晴らさんと、再び丹波攻略に乗り出した。そして、丹波東部の内藤氏の亀山城、八木城、ついで宇津氏の船坂城、波多野氏の籾井城を攻略していった。前回は北から一気に丹波を制圧せんとして失敗したが、今回は東から徐々に切り取っていく堅実な作戦に切り替えたのだった。天正6年(1578年)2月、播磨の戦国大名、別所長治が、織田家に反旗を翻した。別所氏と波多野氏は婚戚関係にあったとされ、これで播磨と丹波が揃って織田家に対抗する形となった。


しかし、同年3月、丹波一の実力者、赤井直正が病没してしまい、反織田陣営にとって大きな打撃となった。赤井氏は丹波の半分と但馬の一部を支配していたので、3~4千人の兵力を有していたと思われる。一方、波多野氏は、一群のみの支配であったのでその兵力は1,500人未満であったろう。だが、赤井氏が主体性を失ってしまったので、これからは、秀治が丹波の反織田の盟主とならざるを得なくなる。同月、これを好機と捉えてか、光秀は、細川藤考と共に丹波に攻め入り、八上城に迫った。その兵力は、8千人余だと思われる。同年4月10日、同僚の丹羽長秀、滝川一益の増援を受けて、細工所城を落とし、多数の付城を築いて、八上城とその有力支城、氷上城の封鎖に取り掛かった。同年7月、園部城を落として側面の安全を確保し、同年9月、八上城の後ろの山まで陣取った。


しかし、同年11月、摂津の織田家部将、荒木村重が謀反を起こし、これで丹波、播磨、摂津の3カ国が織田家に敵対する形となった。光秀は摂津への転戦を命じられ、親織田の丹波国人、小畠越前守に包囲陣を委ねた。だが、村重謀反に呼応する形で、八上城の秀治も反撃に出る。それに対して光秀は、「我々留守ねらい候事、笑敷(おかしき)候」と述べつつ、亀山城から増援を現地に派遣した。光秀は更に指令を発し、赤井氏の黒井城と、波多野氏の八上城との中間に位置する金山城を改修させた。両者の提携を断ち切るためである。同年12月、光秀は丹波に戻ると、八上城の封鎖の徹底を図った。城の三里四方を取り囲むと、堀を穿ち、塀と柵を幾重にも廻らせた。堀際には陣屋を連ね、兵を交代で警備させて、厳重な監視下に置いた。そうしておいて、光秀はまた摂津に転戦したようだ。


光秀不在の間にも、八上城の前線では激しい戦闘が繰り広げられていた。天正7年(1579年)1月26日、光秀は書状で、八上城から約1キロ北にある、籠山(ろうやま)に敵が取り掛かってきて、ここに陣取っていた小畠越前守が戦死したと報じている。だが、この攻撃をもってしても、包囲陣は揺るぎなかった。摂津戦線が織田有利で膠着してきたので、ようやく光秀は本腰を上げて丹波攻めに取り掛かれるようになった。そして、同年2月、光秀は亀山城に入って準備を整えると、同年3月、攻勢に打って出た。この頃には、八上城の兵糧攻めはかなり進行していたようだ。同年4月4日、光秀は書状で、「八上城ではもう四、五百人も餓死している。出てきた者は青くむくんで、この世の人間の顔をしていない。五日、十日の間には討ち果たす事になるだろう」と述べている。この様な状況にあっても、秀治は徹底抗戦の構えを崩さず、尚も篭城を続けたが、城内では徐々に不満が高じつつあった。


同年5月5日、波多野氏の最後の支城、氷上城が落城する。同月、光秀を側面援助すべく、隣国但馬から織田家部将、羽柴秀長が4千人余を率いて、西から丹波に侵攻した。そして、赤井氏の支配下にあった、何鹿郡、天田郡を平定し、これらを光秀に引き渡してから、帰還していった。同年6月1日、激しく抵抗してきた八上城もついに落城となり、秀治も捕らわれの身となった。「信長公記」によれば、調略をもってとあるので、光秀は城内の不満分子に働きかけて、秀治を絡め捕った模様である。同年6月4日、秀治とその弟2人は安土に送られ、そこで磔に処された。秀治の享年は不明で、これをもって波多野氏は滅亡となった。この後、光秀は軍を反転して、同年7月、宇津氏の拠る宇津城を落とし、次に北上して丹後の一色氏を討ち、同年8月9日、赤井氏の黒井城を落とし、残る小敵をつぶしていって丹波の平定を成し遂げた。八上城の落城をもって、事は一気に進展したのだった。それだけ、秀治と八上城の存在は大きかったと言える。


信長は、光秀の功を讃えて、「永年丹波に在国しての粉骨の働きと度々の高名、名誉比類なきものである」との感状を与えた。 天正7年(1579年)10月24日、光秀は晴れて安土に凱旋し、丹波と丹後の平定を報告する。そして、翌年、丹波一国を拝領した。この後、八上城は光秀の持ち城となるも、天正10年(1582年)6月13日、光秀は山崎の合戦にて敗死し、丹波は豊臣秀吉の支配下に入った。慶長7年(1602年)、前田茂勝が入封し、八上城主となるも、慶長13年(1608年)、茂勝は改易され、徳川譜代の松平康重が入封する。慶長14年(1609年)、新たに篠山城が築かれたのに伴い、八上城は廃城となった。現在、篠山城の本丸に立てば、八上城のある高城山を見渡す事が出来る。篠山城は観光地として賑わいを見せているが、八上城を訪れる人は少なく、激しい歴史を秘めつつ、ひっそりと佇んでいる。






秘書が見たヒトラー 終

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

4月29日早々の深夜、ライチュとグライムが飛行の支度をしていた。そして、ヒトラーと長い会話をしてから、地下壕を去って行った。ユンゲが執務室に入ると、そこには皿やグラスが並べられて祝いの席が設けられていた。ユンゲには、何の席かまだ分からなかったが、ここでヒトラーとエヴァの結婚披露宴が行われるのだった。そして、ヒトラーから口述筆記してもらいたいと言い渡され、隣の会議室に移動した。タイプライターの席に座ると、ヒトラーはまず、「余の政治的遺言」と発した。それを聞いたユンゲは、極度に緊張する。ここで、あらゆる歴史的真実が明かされるに違いないと思ったからだ。しかし、その期待は外れ、ヒトラーは心ここにあらずと言った感じで、ほとんど機械的に声明、訴え、要求を述べるのみだった。その内容は、「1939年の開戦とヨーロッパにもたらされた戦禍は、ユダヤ人の陰謀によるものである。敵の見せ物にされるくらいならば、私は首都に留まり死を選ぶ。国民、兵士もそれに続いてくれる事を望む。その名誉の死の後に、新たな国家社会主義の芽が生えてくるであろう」といったものだった。


続いて、新政府の閣僚の名前を挙げていき、カール・デーニッツ海軍元帥を大統領に、ゲッベルスを首相に、ボルマンを党大臣に指名し、自らの意思を受け継いで、軍民一体となってあくまで悪しき国際ユダヤ人に抵抗するよう呼びかけた。けれども、ドイツと国家社会主義が崩壊しようとしている今、彼が任命する男達がなにをすべきなのか、ユンゲには理解し難かった。続いて、個人的な遺書の口述を始め、それが終わると3部清書するようにと言った。 ユンゲが清書に取り掛かっている間、ヒトラーとエヴァの結婚式が執り行われた。参列者がお祝いを述べ、エヴァは署名に名を書いた後、Bと書こうとしたが、新たな姓がヒトラーとなるため、Hと書き直した。それは、死に行く者のけじめの儀式であった。その後、ヒトラーは、何度も会議室を出たり入ったりして、ユンゲの作業具合を窺った。ヒトラーは言葉は発しなかったが、余裕のある時間は少ない事から、遺書の完成を待ちかねていた。


突然、ゲッベルスが会議室に駆け込んできて、泣きながらユンゲに話かけてきた。丁度、近くに心を打ち明けられる人間がいなかったからであった。「ユンゲさん!総統が私にベルリンから立ち去れと命じるんです。新政府で私が指導的役割を引き受けるように、と言うんですよ。しかし、私はやはり、ベルリンを出て行く事は出来ない。総統の傍を離れる事なんて出来ませんよ!私はベルリン大管区長で、ここが私の居場所なんですから。総統が死んだら、私の人生は意味がない。それなのに総統はこう言ったんです。「ゲッベルス君、君までも私の命令に従わないとは、思ってもいなかったね」って。総統はあんなにも多くの決定を、手遅れになってから下したのに、この一件は、最後の決定は、なぜこんなに早いんだろうか?」と、途方に暮れながら問いかけた。


そして、彼もまた口述筆記を頼み、それを総統の遺書に添えるよう頼んだ。その内容は、「私は、人生で初めて総統の命令を拒否する。ベルリンにある、総統の傍らの自分の場所を離れる事は出来ない。だが、忠義の手本の方が、長らえた生より貴重になる事だろう。国家社会主義の存在しないドイツに生きるよりも、家族全員で一緒に死ぬ方を選ぶ」といったものだった。この日、ベルリン救援作戦が悉く失敗した事を知らされ、ヒトラーは最後を決めた。自決の手段は、ピストルと毒薬と定めていたが、ヒムラーの離反を受けてから、毒薬の効果に疑念を持っていた。そこで、ハーゼ医師を呼んで話し合い、青酸カリのアンプルを1つ渡した。2人は、犬小屋になっている小さな空き部屋に入って行くと、ハーゼがヒトラーの愛犬ブロンディの前に屈みこんだ。甘酸っぱいアーモンド臭が漂ってきたかと思うと、もうブロンディは動かなかった。そこから戻ってくるヒトラーの顔は、死人そのものだった。


4月30日、エヴァは、「皆さん、私の事をヒトラーさんと呼んでくれていいんですよ」と顔をほころばせながら言った。エヴァがヒトラーと出会ったのは、1929年10月、エヴァ17歳、ヒトラー40歳の時だったが、そこからは長らく影の存在だった。ようやく晴れて夫婦となれたものの、その幸せは僅か1日でしか無かった。エヴァは、ユンゲを自室に呼んで洋服ダンスを開けると、「ユンゲさん、私、このコートをお別れにあなたにプレゼントしたいのよ」と言った。それは、銀ぎつねの美しいコートで、ユンゲは感激して心から礼を言った。それから、ヒトラーと昼食がもたれ、明るい落ち着きのある雰囲気で会話がなされた。それは、覚悟を秘めた最後の食事であった。ユンゲは食卓を立つと、煙草を一服する場所を探し、ヒトラーとエヴァは自室に戻っていった。ほどなく、副官のギュンシェが近寄ってきて、「ちょっと来て、総統がお別れしたいそうだよ」と耳打ちしてきた。廊下に出て行くと、秘書や使用人らが立ち並んでいた。


ヒトラーはゆっくりと自室から出てくると、1人1人に握手していった。その背は、いまだかってないほど曲がっていた。ヒトラーは、ユンゲとも握手を交わし、じっと見つめてきたが、その目は遥か遠くを見ているようだった。何かつぶやくが聞こえず、最後の言葉は分からなかった。エヴァは、ヒトラーお気に入りの黒いドレスを着ていた。そして、微笑みながら抱き締めてきて、「どうかここから出ていけるよう、頑張ってくださいね。あなたならきっと上手くやれると思うわ。そうしたらバイエルンの人達によろしく伝えてくださいね」と言った。その声には、すすり泣きも混じっていた。ヒトラーに続いて、エヴァも部屋へと入って行く。そして、重い鉄の扉が閉まった。不意にここから出来るだけ遠くに行ってしまいたいという衝動に駆られ、地下壕の階段を駆け上って行く。


ところが、途中でゲッベルスの子供達が、しょんぼりとしゃがみこんでいたので立ち止まった。今日は誰も昼食を作ってくれなかったので、子供達はお腹を空かせていた。ユンゲは子供達を連れてテーブルに付き、パンを食べさせた。子供達と喋っていた時、突如、一発の銃声が鳴り響いた。皆、黙り込んだ。今、ヒトラーが死んだのだ。しかし、子供達は何も分からないまま、お腹を満足させると部屋へと戻って行った。ユンゲはテーブルに付いたまま、きつい酒をあおり、そのままやるせない時間が過ぎていった。やがて、副官のギュンシェがやって来て、どっと座り込むと、彼も酒の瓶を掴んだ。その大きな手は、小刻みに震えていた。そして、「僕は、総統の最後の命令を実行したよ。彼の死体を焼いたんだ」とつぶやいた。ユンゲは何も答えず、何も問わない。ギュンシェは、遺体が余すことなく焼けたかどうか確認するため、また下に降りていった。


ユンゲは、ヒトラーの居た部屋へと駆り立てられた。エヴァの椅子の下には、空になった青酸カリのカプセルが転がっていた。ヒトラーの腰掛けのクッションには血が染みこんでいた。にわかに気分が悪くなった。ヒトラーは死んで、どうしようもない虚しさと戸惑いを残していった。夜半、モーンケ少将とギュンシェが話し合って、脱出計画を練っていた。ユンゲとクリスチアン夫人は、「私達も連れていって!」とせがむと、2人の男は頷いた。5月1日夜半、総統官邸を出て行く時、ゲッベルスが見送って、歪んだ笑みを浮かべながら、「あなたは上手く切り抜けられますよ」と言ってくれた。この頃、すでに子供達は死出の旅についており、ゲッベルスもまたマクダと共に後を追う。脱出の前、もう一度、ヒトラーの部屋の前を通りかかった。ヒトラーの灰色のコートや、帽子、手袋が架けられていて、犬の手綱がぶらぶらと揺れていた。エヴァの洋服ダンスには、E・Vの金文字が付いた銀ぎつねのコートが架かっていたが、それを手にする事は無かった。今、いるのはピストルと毒薬だけだった。


午後21時半頃、脱出が始まり、大勢の人々を掻き分けながら地下道を進んでいった。崩れかけた階段を登り、壁の穴を通り抜けながら、ヴィルヘルム広場に出た。遠くの銃砲火は激しく、広場を横切って行く時も、時々、耳をつんざくような銃声が響いた。地下鉄の入口を見つけて、暗いトンネルを進み、避難民や兵士達の脇を通り抜けて、フリードリヒ駅まで辿り着いた。そこで行き止まりであったので、鉄橋を進んで向こう岸へ渡らねばならなかった。ユンゲら先頭集団は無事通り抜ける事が出来たが、後方から続く人々はソ連軍に銃撃を浴びせられ、阿鼻叫喚に陥った。燃え盛る家々の間を通り抜け、真っ暗な街路を忍び足で歩きながら、何時間も進んだ。人気の無い地下室を見つけて2、3時間の睡眠を取ると、また歩き出す。5月2日、やがて、空が白々と明けてゆき、静かな朝を迎えた。銃声は止んでいた。


一行は古びたビール醸造所まで行き着いたが、これ以上、先に進む事は出来なかった。ソ連軍の戦車や兵士によって、完全に包囲されていたからだ。ソ連軍は降伏するよう呼びかけている。モーンケ少将は最後の報告書を書き上げて、これをデーニッツに届けてくれるよう、女性達に頼んだ。軍人達はここから出て行く事は叶わないが、女性達ならソ連軍も通してくれると思ったからだ。女性達は鉄兜とピストルをその場に置き、男達と別れの握手をしてから、出て行った。国民突撃隊などの動員兵も武器を置いて、ソ連軍に投降して行く。その一方、親衛隊の兵士達は尚も醸造所に留まって、抗戦の構えを取っていた(モーンケ少将らはしばらく篭城していたが、18時頃、降伏する)。ユンゲらは、荒々しい勝者、ソ連兵達の真ん中を、恐る恐る通り抜けていった。こうして、ユンゲの戦争は終わった。


戦後、ユンゲはベルリンに戻ったが、そこでソ連軍に拘束され、14週間、独房に収監された後、ヒトラーの死についての尋問がなされた。それから司令部付きの従業員として働き、1945年12月10日、外部の病院事務員に採用され、解放となった。その後は、秘書や事務員、編集者やフリーの記者として働き、2002年2月11日、81歳で死去した。同年、彼女が書いた手記をもとにして、「最後の瞬間まで」が出版された(和訳・私はヒトラーの秘書だった)。第3章までは、戦後間もなく書かれたもので、見たもの感じたものがほぼそのまま書かれているが、4章の暗殺未遂事件から6章のヒトラーの死までは、老年になって本にする際に新たに書き起こされたもので、記憶違いや、ヒトラーへの批判も散見される。そこには、自己批判や自己弁護も含まれているのだろう。


ユンゲは生前、この様な事を言っていた。

完全崩壊、難民、苦しみ、私はこの責任をヒトラーのせいにしました。彼の遺書、自殺、その頃から私はヒトラーを憎み始めました。それと同時に私は激しい同情をヒトラーにさえも抱いたのです。彼は父親のような友人でしたし、私に安心と保護と安全の感覚を与えてもくれたんです。森の真ん中にある総統の大本営のあの共同体の中で、あの父親のような人に守られていると感じていました。あの事を思い出すと、今でも心温まる気持ちになります。どこかに属していると言うあの感情をあんな風に抱く事は、その後、二度とありませんでした。自分の上司が、その誠実な顔の裏に犯罪的権力欲を持った男である事を見抜くには、私は若過ぎ、未熟過ぎました。ドイツが崩壊した時、とにかく望みは1つ、生きる事でした。ようやく、1960年代の半ば頃になって、自分の過去や日増しに強くなってくる罪悪感と真剣に取り組むようになりました。この男の犯罪が露見したからには、私は自分の人生の最後の瞬間まで、共犯の感覚と共に生きていく事でしょう。





↑生前のヒトラー最後の写真

1945年4月末に撮られたと見られる。





↑狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)の掩蔽壕の廃墟


旧ドイツ領東プロイセン(現ポーランド領)にあった、ヒトラーの本営跡。


主要参考文献、トラウデル・ユンゲ著、「私はヒトラーの秘書だった」



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