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変節の将、木曽義昌

2018.01.27 - 戦国史 其の三

天文9年(1540年)、木曽義昌は、木曾義康の嫡子として生まれる。木曽氏は、代々、信濃国筑摩郡の一部、木曽谷を支配する領主で、木曽義仲の子孫を自称した。地盤とする木曽谷は、大部分を急峻な山地が占めており、耕作地は木曽川沿いの僅かな範囲しかなかった。だが、ヒノキを始めとする豊富な木材資源を有しており、これが主要な財源となっていた。室町時代、木曽氏は、信濃守護小笠原氏の統制下に置かれたが、戦国時代に至ると、統制から離れて独立勢力となった。しかし、甲斐の戦国大名、武田信玄が信濃に勢力を伸ばして、隣接する下伊那郡まで制圧すると、天文22年(1554年)、父、義康は服属を申し入れた。信玄は、この申し入れを喜んで受け入れ、娘の真龍院(真理姫)、当時5歳と、木曽義昌、当時15歳との婚姻を定めた。義康も娘の岩姫を人質として、甲府に差し出した。



木曽氏は、武田氏に軍事的に従属する形となったが、統治面においては自立性を保った。永禄7年(1564年)、義昌が甲府に赴いて信玄に挨拶すると、その返礼として誰が木曽に赴くかが、問題となった。信玄は、出来れば自分自身が、それが出来なければ嫡男義信か、少なくとも4男勝頼が返礼に赴くべきところだと述べたが、出陣の準備で慌しいので、家臣の代参となった。それでも落ち着き次第、信玄自身が木曽領の洗馬(せば)を訪れる事にした。信玄が、木曽氏を重んじている様子が伝わってくる。木曽氏は、美濃国、飛騨国との境に位置する重要な国衆であったので、信玄は厚遇して、その心を繋ぎとめようとしていた。



義昌は、永禄8年(1565年)までには家督を相続し、木曽氏の当主となった。元亀4年(1573年)4月13日、信玄が死去して勝頼が跡を継ぎ、武田家も代替りとなった。勝頼もまた、木曽氏を重視して、美濃制圧後には1,000貫文の知行を与えると約束した。しかし、天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が惨敗すると、先の約束は空手形に終わる公算が高くなった。それどころか、隣接する美濃岩村城が、織田軍の攻撃を受けて全滅すると、にわかに木曽領が織田家に対する最前線となった。勝頼は、織田家の侵攻に備えて、義昌に指示を出し、伊那郡への援軍に位置付けると共に、木曽谷の防衛強化も申し渡した。勝頼は、木曽氏を国境防衛の要と位置付けたが、同時に寝返りも懸念して、目付けを派遣して動向を監視させた。



天正4年(1576年)、勝頼は更に念を押すように、木曽家臣に対して、勝頼、義昌の双方に忠誠を誓うという起請文を提出させた。その条文の最後には、「木曽義昌が勝頼に逆心を企てた場合は諫言し、それに従わなければ甲府に注進する」とあった。勝頼は、義昌を重視しつつ、警戒も怠らなかった。天正8年(1580年)10月、遠江にある武田家の要衝、高天神城が徳川軍によって包囲され、翌天正9年(1581年)3月25日、孤立無援のまま落城して、城兵が悉く討ち取られるという事態が起こる。この間、勝頼が援軍に駆け付ける事は一度も無く、高天神城の落城は、武田の劣勢を内外に広く知らしめるものとなった。義昌が、武田家離反を決めたのは、おそらくこの時だろう。そして、織田家に属する美濃苗木城主、遠山友忠からの誘いを受諾して、寝返りを決した。



江戸時代初期に成立した軍記「甲乱記」によれば、天正10年(1582年)1月27日、義昌の内通は、勝頼の知るところとなった。それを報告したのは、義昌の側近、千村右京進であったとされ、かねてからの勝頼の警戒策が当たった形となった。しかし、事態は深刻である。勝頼は木曽氏を討伐すべく、直ちに兵を催し、先遣隊として武田信豊を将とする3千人余の兵を木曽口に進ませ、同時に仁科盛信と2千人余の兵を伊那口へ進ませた。同年2月2日、勝頼は、人質としていた義昌の老母、嫡男の千太郎、義昌の娘を処刑すると、自らも1万5千の本隊を率いて新府城から出陣した。尚、義昌の妻は、信玄の娘、真龍院であったが、夫によって一族との絆を引き裂かれ、更に兄によって息子と娘を殺された事になる。この後、真龍院は城を出て、天保4年(1647年)、98歳で死去するまで木曽山中に隠棲したと云われている。



武田軍は2万人余の兵力をもって、木曽谷に押し寄せんとしていた。存亡の危機に立った義昌は、弟の上松義豊を差し出して、織田家に援軍を要請する。それに応じて、遠山友忠の軍が木曽谷に急行した。同年2月3日、織田信長はこの機に乗じて武田家を討滅すべく、家中の大半を動員し、更に徳川、北条の諸大名にも呼びかけて、ここに大掛かりな甲州征伐が始まった。同年2月16日、武田方の部将、今福昌和率いる3千人余が木曽領に侵攻すべく、鳥居峠に押し寄せて来る。義昌は織田家の援軍と共同して、午前10時から午後16時まで激戦を繰り広げ、兵卒数百人と武者40人余を討ち取って、これを撃退した。累々と横たわる武田方の戦死者は近くの沢に埋葬され、そこは葬沢と呼ばれた。同年2月25日、今度は武田の親類衆、穴山信君も離反して、2月29日には、駿河江尻城を徳川家康に明け渡した。勝頼にとって、義昌の離反は最悪の事態であったが、まだ想定の範囲内であった。しかし、穴山信君の離反は想定外であったに違いない。



信君の離反は、駿河が無傷で徳川軍の手に渡り、更に本拠地、甲斐に踏み込まれる事を意味していた。勝頼は信濃で織田軍を迎え撃つ心積もりであったが、背後にも敵を迎えて、甲斐に引き返さざるを得なかった。そして、この報を聞いた兵達は戦意喪失して、たちまちの内に逃げ去った。武田家は内部崩壊を起こして、3月2日の高遠城の戦いを除いて、まともな抗戦も出来なかった。勝頼は最後の頼みとした小山田信茂にも離反され、天正10年(1582年)3月11日、天目山にて無念の自害を遂げた。武田滅亡後、信長は信濃に進駐して、仕置きを行った。そして、同年3月20日、義昌は、上諏訪に在陣していた信長に出仕し、馬2頭を献じた。信長は、義昌の功を褒めて、後藤源四郎作の見事な刀剣と、黄金100枚を下賜した。



更にこの場で、本領の木曽谷の安堵に加えて、信濃国の内、安曇(あづみ)、筑摩の2郡の加増を申し渡し、退出の際には、信長自ら屋形の縁まで見送った。破格の待遇を受けた義昌は、これで木曽の一国衆から一転、10万石余の大名身分となった。同じく離反した穴山信君は、遅めであったので現状維持で、土壇場で離反した小山田信茂は、斬首となっていた。報復攻撃をものともせず、人質の処刑も顧みず、真っ先に内応した義昌を、信長は最も高く評価したのだった。義昌は、深志城に城代を置いて、新領経営の拠点とした。しかし、それから3ヵ月後、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、信濃国は大混乱に陥り、義昌の身辺も激変する。



北信濃(川中島4群)の領主であった森長可は変報を受けると、所領を放棄して、木曽領を通って美濃に帰還せんとした。この時、義昌は、遠山友忠と謀って、長可を亡き者にせんとした。おそらく、遠山友忠が森家の本領、金山城を手にして、義昌が北信濃の所領を手にする手はずだったのだろう。ところが、相手の方が一枚上手で、この企みを察した長可は、深夜、木曽福島城の城門を打ち破って押し入ると、子息の義利を人質にしてしまった。これで義昌は、長可に手が出せなくなり、遠山友忠にも手出ししないよう説得して回るなど、かえって長可の撤退を助ける形となった。長可は、美濃の本領、金山城近くに達すると、ようやく義利を解放した。続いて、織田家の重臣、滝川一益が、本拠の伊勢長島に帰還すべく、木曽谷の通行許可を求めてきた。だが、義昌はこれを拒否する。そこで一益は、「通してくれれば、佐久郡、小県郡の人質を進上する」との条件を持ちかけた。一益は、上野国及び信濃国の佐久郡、小県郡の領主であった。



義昌はこれを了承して、人質を受け取った上で、通過を認めた。義昌はこの人質を利用して、佐久郡、小県郡を切り取ろうと考えたのだろう。しかし、義昌の目論見はまたもや崩れ去る。越後の戦国大名、上杉景勝が、旧信濃守護、小笠原長時の弟、洞雪斎を立てて、義昌の所領、安曇郡、筑摩郡に侵攻してきたのである。上杉軍の後援と旧小笠原家臣の協力を受けた洞雪斎の勢いは強く、重要拠点である深志城を攻め落とされ、安曇郡と、木曽谷を除く筑摩郡の放棄を余儀なくされた。これで義昌は、多くの犠牲を払って手にした新領を失い、元の木阿弥となった。その後、信濃には北条家、徳川家も侵攻して来て、三つ巴の争いとなると、義昌は当初、最も勢いの強かった北条家に従った。だが、徳川家が勢いを付けて来ると、今度は徳川方に寝返った。この時、安曇郡、筑摩郡を再び義昌に渡すという約定を得た上で、信濃衆の人質を家康に譲り渡した。



しかし、家康は信濃守護の流れを組む、小笠原貞慶を深志城に入れて、実質的には安曇郡、筑摩郡を自らの勢力圏とした。両郡の復帰に執念を燃やす義昌にとって、この措置は到底、許容できるものではなかった。そして、天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康の対立が激化して、小牧、長久手の戦いに発展すると、義昌は、豊臣方に寝返った。義昌は、かつて武田家を滅亡に導いたように、再び豊臣家の軍勢を呼び込もうとした。一方、家康からすれば、自らの勢力圏内に豊臣家の楔(くさび)を打ち込まれた形となって、事態は深刻であった。同年5月、家康は、小笠原貞慶に命じて木曽攻めをさせたが、義昌は鳥居峠を固めて、これを撃退した。同年8月、家康は再び、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを派遣して、義昌の支城、妻籠城を攻撃させた。徳川軍は数千人余、妻後城の城兵は300人余であったが、城将の山村良勝は良く守って、これを撃退した。



義昌は、豊臣家の大攻勢を願っていたであろうが、事態は思わぬ方向に進んでしまう。天正14年(1586年)、豊臣家と徳川家の間で講和が成立し、しかも、義昌を始めとする信濃の諸将は、家康の傘下に組み込まれてしまったのである。義昌からすれば居心地が悪く、苦虫を噛み潰す思いであったろう。そして、天正18年(1590年)、家康が関東に転封されると義昌もこれに従い、木曽谷から、下総阿知戸1万石に転封された。先祖代々住み慣れた土地から引き離されるのは、不本意であったに違いない。石高も削減されたように見える。それでも義昌は、町作りを推し進めるなどして、阿知戸の発展に努めた。そして、文禄4年(1595年)~文禄5年(1596年)の間に死去した。享年は56、もしくは57。嫡男の義利が跡を継いだが、叔父の上松義豊を殺害するなど、粗暴の振る舞いが多かったとされ、慶長5年(1600年)、家康によって改易された。大名としての木曽氏は、ここに滅亡する。



木曽義昌は、時流を見る目に長け、大勢力相手にも粘り強い戦いを見せる、一角の人物であった。そして、武田家滅亡の足掛かりを作った事で、一時の栄転を預かる。しかし、その後は運が振るわず、転落の道を辿っていった。武田という大勢力を滅亡に導いた事で、義昌の名は知られるようになったが、同時に警戒される存在にもなったであろう。秀吉も家康も、義昌に利用価値はあっても信は置けないとして、重用しようとはしなかった。その一方、秀吉は、九州大友家の一家臣、立花宗茂を見込んで、大名にまで引き立てている。宗茂はその父、紹運と共に斜陽の大友家に尽くし、赫々たる武勲も上げて、秀吉に激賞されている。戦国の世は、裏切りが日常茶飯事であったとは言え、信義にもとる者はやはり軽視され、家運が栄える事は無かった。





↑木曽義昌像(ウィキより)





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波賀城

波賀城は、兵庫県宍粟市にある山城である。


伝承によれば、その昔、波賀七朗なる武士がこの地に城を築いたのが最初とされる。13世紀中頃には、鎌倉幕府御家人の中村氏がこの地に入り、戦国時代末期に至るまで治めていた。その後、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による播磨攻めの際に落城したと思われる。波賀城の歴史は不確かで、廃城の時期も定かではない。















↑二層櫓





↑二層櫓





↑二層櫓内部

木造建築で、ちょっとした資料館となっています。





↑北西を望む






↑西を望む




↑南西を望む

波賀城が、三つの街道を制する位置にある事が分かります。




↑北を望む






波賀城の人影はまばらで、眼下に広がる景色を静かに堪能出来ました。11月初旬であったにも関わらず、まだツクツクボウシが一匹だけ鳴いていました。

佐用城(福原城)

佐用城は、兵庫県佐用郡にある平山城である。


南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨赤松氏の一族、佐用範家が築いたのが、佐用城の始まりとされる。その後、同じ赤松氏の一族、福原氏が城主となったため、福原城とも称された。戦国時代、福原氏最後の当主となったのが、福原則尚(ふくはら のりなお)である。佐用城は、近隣にある上月城と共に赤松氏の城郭群を担っていたが、織田信長の勢力が播磨にまで伸びてくると、その部将、羽柴秀吉の攻撃を受ける事となった。そして、天正5年(1577年)11月27日、秀吉自身は上月城を攻め立て、佐用城には与力の黒田孝高と竹中重治を差し向けた。


秀吉自身の文書によれば、佐用郡にある敵城三つの内、佐用城の城兵が打って出て来たので、竹中半兵衛と黒田官兵衛を先陣として、これを迎え撃たせ、数多を討ち取った。秀吉配下の平塚三郎兵衛が城主(則尚)を討ち取り、助太刀に来た城主の弟も討ち取ったとある。信長公記によれば、城兵250人余が討死したそうだ。翌11月28日、秀吉は上月城に攻めかかり、7日後に城兵は敵わずと見て、城主、赤松政範の首を差し出してきたが、秀吉はこれを許さず、城兵を備前、美作国境に連行して、悉く磔(はりつけ)に処したとある。こうして佐用城と上月城は、共に凄惨な最後を迎えた。それからほどなく、佐用城は廃城になったと思われる。






↑本丸跡





↑説明版





↑福原霊社

落城時の城主、福原則尚の首級と魂を祀るため、地元の人々が建てたものと伝わります。そのため、この神社は、頭様(こうべさま)とも云われているそうです。





↑佐用城の郭(くるわ)跡





↑福原霊社から東を望む

秀吉軍との戦いでは、この正面が主戦場だったのでしょう。





↑福原霊社脇の道路

ここは、空堀だったのかもしれません。


城の写真は少ないので、ついでに寄った、飛龍の滝の写真も載せておきます。佐用郡にあって、落差は20メートルとの事です。





↑飛龍の滝





↑滝の不動明王

増水していて、不動明王の姿は確認出来ませんでした。




↑飛龍の滝

普段はもっと水が少ないようですが、この日は雨の翌日だったので、水量豊富で迫力ありました。





↑飛龍の滝

苗木城

苗木城は、岐阜県中津市にある山城である。一般的には知名度に欠けるが、見応えのある石垣と、麓を流れる木曽川に、背景の恵那山が相まって、風光明媚な姿を醸し出している。


築城年代ははっきりせず、美濃国東部に勢力を張る遠山氏によって、天文年間(1532~1555年)に築かれたと見られる。遠山氏は、源頼朝の重臣であった遠山景廉(とおやま かげかど)を祖として、代々、東美濃を統治していた。本家は岩村城を居城としていたが、戦国時代に到ると一族が分派して苗木城を築き、苗木遠山氏となった。戦国時代後半、遠山氏は、東の武田信玄と西の織田信長の狭間に置かれて、揺れ動いていた。当時の岩村当主、遠山景任(とおやま かげとう)は、武田、織田に両属する姿勢を取っていたが、元亀3年(1572年)5月頃に病死すると、信長はすかさず、四男の御坊丸と軍勢を送り込んで、岩村城と遠山氏を織田方に取り込んだ。そして、景任夫人で、信長の叔母にあたる、おつやの方を御坊丸の後見人とした。


元亀3年(1572年)10月、武田信玄が西上作戦を開始すると、織田の在番兵は岐阜城防衛の為、岩村城から出払った。同年11月14日、その隙を突いて、武田部将、秋山虎繁が攻め寄せてくると、おつやの方はすぐさま城を明け渡した。そして、虎繁と婚約を交わし、御坊丸も差し出した。だが、苗木遠山氏の方は、織田方に止まった。天正2年(1574年)1月27日、信玄の跡を継いだ、武田勝頼は東美濃に侵攻し、織田方の明知城を囲んだ。同年2月、明知城は落城し、苗木城も同じく落城して、苗木遠山氏は織田家に亡命したと見られる。天正3年(1575年)5月21日、織田信長は、長篠の戦いで勝頼を破ると、勝利に乗じて、嫡男、信忠に大軍を授けて、岩村城を攻めさせた。そして、同年11月21日、織田軍は岩村城を落とすと、秋山虎繁とおつやの方を処刑し、岩村遠山氏も悉く討ち果たした。


その一方、苗木遠山氏の友忠は、苗木城主に返り咲いたと見られる。天正10年(1582年)2月1日、友忠は、武田部将、木曽義昌に調略を仕掛けて、内通させる事に成功し、これに乗じて兵を出すよう、織田信忠に注進している。そして、織田家はこれを足掛かりとして、武田討滅に成功した。しかし、同年6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、東美濃は群雄割拠状態となった。友忠は、同じ東美濃の領主、森長可と敵対するも、長可の勢いは強く、苗木城も攻め立てられた。友忠は一度は森軍を撃退したものの、次の攻撃には耐えられず、天正11年(1583年)5月、苗木城を捨てて、徳川家康の下に逃げ込んだ。友忠はそのまま客死したらしく、嫡男の友政が跡を継いだ。


一方、苗木城を支配していた森氏は、慶長4年(1599年)、信濃川中島に転封され、代わって川尻直次(秀長)が城主となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きると、川尻直次は西軍に加わって、苗木城から出陣した。遠山友政は家康方の東軍に加わって、東美濃攻めを命じられる。そして、旧領、苗木城に攻めかかって、奪還する事に成功した。戦後、その功をもって、友政は苗木城とその周辺、1万500石の知行を与えられる。以後代々、遠山氏は苗木城を居城として、統治に務めた。しかし、小藩ゆえの財政難に苦しみ、幕末には借金は14万両に達して、財政破綻してしまう。そうした状況で明治の世を迎え、遠山氏による統治も終わりを向かえた。そして、苗木城も廃城となった。




↑風吹門





↑大矢倉

結構、立派な造りでした。





↑大門跡





↑菱櫓門跡





↑千石井戸と石垣





↑天守台

昔は小振りな天守閣が建っていたようですが、現在は展望台となっています。



↑天守台より東を望む

ここからの眺めが、一番良かったです。奥には恵那山がそびえ立っているのですが、雲に隠れてしまっています。





↑天守台より、北を望む

木曽川が流れています。




↑天守台より西を望む





↑馬洗岩

天守台直下にある大岩です。

「カザンからホーフガイスマーまで」3千キロの逃避行

2017.08.05 - 歴史秘話 其の三

第二次大戦末期、1945年3月6日、ドイツの都市ホーフガイスマーに住む、ヘートヴィッヒ・ビーラー夫人は、一通の封筒を受け取った。そこには、「夫君、第57擲弾兵連隊第2大隊主計へルマン・ビーラーの行方に関する調査は終了したが、徹底的な解明は出来なかった。ご主人はルーマニアのサラータ近郊の戦闘以来、つまり1944年8月22日以来、行方不明である。確たる情報をお知らせできず、残念至極であるが、ご主人がまだ元気でおり、いつの日かつつがなく帰郷される事を、共に望む次第である」とあった。夫人は、2人の娘を抱き締めて悲嘆にくれた。だが、一縷の望みもあった。それは死亡通知ではなく、行方不明とあったからだ。いつの日か、必ず夫は帰ってくる、夫人はそう信じた。


その頃、ヘルマン・ビーラー本人は、生きていた。ヘルマンは、ソ連のセロニ・ドルスク収容所に在って、強制労働をさせられていた。その収容所は、ロシアの奥深く、ソ連の首都モスクワから更に東に800キロの地点、ヴォルガ河河畔の都市、カザンの近郊にあった。当初、ヘルマンは元気であったし、労働もさほど過重だと思わなかったが、徐々に肉体的、精神的に弱っていくのを感じた。なんの自由も娯楽も無い鉄条網内の収容所暮らし、腐臭の漂う粗末な食事、日々の肉体労働、この単調な生活がひたすら続くのだ。これで、健康であり続けろと言うのが無理だった。


ソ連の捕虜となったドイツ人は300万人以上いたが、その内、100万人以上が死に至ったと云われている。1946年初夏、ヘルマンが捕虜となってから2年が過ぎ、その間に戦争も終わっていたが、今だ解放される予兆は無かった。そんな時、収容所にある噂が広まった。それはソ連の西部にある収容所から、捕虜が順に解放されていくといったものだった。しかし、ヘルマンのいるセロニ・ドルスク収容所は、ドイツから遥か3千キロも離れていた。噂によれば、東ほど帰郷は遅れるとの事だった。ヘルマンは既に42歳になっており、この生活をあと数年続けられる自信は無かった。


恐怖と焦燥に駆られたヘルマンは、ついに脱走を決した。それは危険な賭けであった。捕まれば、良くて、殴られ食事を減らされての禁固刑、悪ければ、即銃殺であった。後者の場合、見せしめとして、死体が収容所に晒される場合もある。脱走、それは捕虜なら誰もが頭に思い描いた夢物語だが、途方も無い距離と危険を鑑みて、実行する者はほとんどいなかった。その数少ない脱走者も、広大なソ連の国土から逃れる事は適わず、ほとんどが無残な失敗に終わっていた。そこで、ヘルマンは大胆不敵な脱走計画を立てた。ロシア人に紛れて列車に乗り込み、最短でソ連の国土を抜けようと考えたのだ。それも、ソ連の首都、モスクワを経由してのものだった。


ヘルマンは、パンを乾かして蓄え、建設作業の労賃も貯えた。そして、ドイツの軍服と交換して、ロシアの労働者服を手に入れた。ヘルマンには、ロシア語が喋れるという大きな強味があった。ロシア語が堪能だと、ロシア人社会に溶け込みやすく、ドイツ人だとばれる心配も少ない。ヘルマンは手始めに、建設現場からの脱走を考えた。しかし、作業現場に向かう往復の行進は、銃を構えたロシアの監視兵が付くので、まず無理だった。作業現場に着けば、監視兵が塔に上がり、そこから建設現場全体を見渡すので、これも無理だった。だが、監視兵が捕虜に背を向ける瞬間もあった。それは、監視兵が塔に向かい、登りきるまでの僅かな隙であった。


1946年8月6日朝、捕虜達は整列して、作業現場へと歩き出した。この日、ヘルマンは貯えた賃金とパン、それに大胆な脱走計画を持って行った。現場に到着すると、いつもどおり監視兵が塔に向かい始めた。今だ!ヘルマンは一軒の家の裏手に回り、前方に広がるジャガイモ畑に飛び出した。一心不乱に走る。背後からの銃声を恐れたが、幸い、撃たれなかった。西へ、西へ、息を弾ませて走っていく。やがて、家並みが現れ、カザンの郊外に達した。市電が走っており、ヘルマンは堂々とそれに乗り込んで、市内へと向かった。市内の駅で降り、30分並んでパンを買い求めた。大勢の市民、兵士、警察がいたが、青い労働者服を着て、雑踏に溶け込んでいるヘルマンを怪しむ者は、誰もいなかった。


線路に沿って西に向かって歩き出すと、ヴォルガ河に架かる大きな橋に達した。しかし、そこには歩哨が立っていて、通行人を調べている様子だった。ヘルマンはしばらく身を潜めて、観察していると、列車が通過する度、橋の手前で減速している事に気が付いた。そこで、暗くなってから橋に忍び寄り、減速した列車に飛び乗った。ヘルマンは貨車に隠れて、広大なヴォルガと歩哨をやり過ごした。2時間後、列車は停車し、ヘルマンは降り立った。その時、不意に懐中電灯の光を浴びせられ、心臓が凍り付いた。そこには、武装した鉄道公安官が立っていた。ところが、相手は体制に忠実な役人では無かった。公安官は、ヘルマンをキセルしたロシア人だと見なして、「金はあるか?」と問うてきた 。


ヘルマンが50ルーブル渡すと、公安官はある方向を指差し、「あそこに乗り換えの列車が停まっている。もうすぐ発車だ。とっとと失せろ」と言った。ヘルマンは言われた通りの列車に向かい、貨車に隠れ込んだ。列車が出発して数時間経ったが、ここでヘルマンは間違いを犯した。暗い内に飛び降りるべきであったのに、夜明けまで乗って、終点に着いてしまったのだ。ヘルマンは貨車から這い降りていったが、その様子をロシアの監視兵に見られていた。ロシア兵が、「どこへ行く?どこから来た?」と近寄って来た。そして、最も恐れていた、「身分証は?」との質問をされた。ヘルマンは、前回の公安官の件を思い起こし、再び買収すべく、金を取り出した。しかし、今回の相手は、体制に忠実であった。ヘルマンは銃を突きつけられ、駅の公安室に連行されて、そこで3人の警察官に引き渡された。


ヘルマンは厳重に監視されたが、列車が入って来ると、2人の警察官が検査のため、そちらに向かった。残った1人の様子を窺いつつ、隙を見てドアを飛び出した。後ろから大声が上がったが、銃弾は飛んでこなかった。ヘルマンは走りに走って最終車両にしがみ付き、やっと乗り込んだ瞬間、列車は走り出した。今度は、次の駅に着くまでに飛び降りた。通報されている恐れがあるので、駅手前の藪で暗くなるまで身を潜め、次の列車がやってくると、貨車の下部にある鉄の支柱の間に這いずり込んだ。しかし、その列車の旅は、危険かつ不快なものとなった。車輪の轟音が何時間も耳をつんざき、飛ぶように過ぎていく枕木を見ていると、幻覚に襲われた。その苦痛に耐えながら、西へ、西へと距離を稼いでいった。


ヘルマンはある寒村で、モスクワ行きの旅客列車を見つけた。暗い内に列車の屋根に這い上がり、出発を待ったが、その間、機関車の吐き出す煙にむせて、苦しんだ。列車が走り出しても、屋根にはしっかり掴める様な場所はなく、振り落とされれば、一巻の終わりであった。そこでヘルマンは、列車が停車した時、客車のステップに降り立って、車両の壁に体を押し付けた。しかし、ここで車掌に見つかった。車掌はキセルだと思って、切符を買うか、ここで降りるか、どちらかにしろと言った。ヘルマンは金を払って切符を買い、普通に客席に座れる事になった。乏しい持金から支払ったが、致し方なかった。


ヘルマンはモスクワの郊外で降りて、翌朝、モスクワ市内を歩いて抜けていった。なるべく目立たぬよう、大通りは避けて進んだ。この街を支配するソ連の独裁者スターリンは、今も尚、100万人以上のドイツ人を収容所に押し込んで、強制労働に就かせていた。この赤い首都を、1人のドイツ人逃亡者が通り過ぎて行く。ヘルマンは7時間歩いて、モスクワの西端に着き、線路から程近い、荒れ果てた墓地で夜を過ごした。翌朝、近くにあった大操車場を観察して、西行きの列車を探した。そして、この日の夜、目的の列車を見つけた。車両の札には、「カリーニングラード行き」とあった。カリーニングラードは、旧名ケーニヒスベルクと言って、元はドイツの都市であった。


だが、ソ連はケーニヒスベルクを含む東プロイセン北部を自国領に編入して、1946年7月4日をもって、ケーニヒスベルクからカリーニングラードに改名していた。ヘルマンも、どこかでそれを聞いていたのだろう。ヘルマンは、錠の掛かっていない手荷物車を見つけると、それに乗り込んで荷物の中に身を潜めた。ヘルマンは、ソ連西方の都市スモレンスクで降りると、そこでパンを買い求めた。この都市は独ソの戦場となって破壊されており、その廃墟の一角で一晩を過ごした。翌夕方、駅まで歩いて行き、再び「カリーニングラード行き」の列車を見つけた。しかし、ヘルマンは躊躇する。何故なら、その列車は軍用で、大勢のソ連兵が乗り込んでいたからだ。


それでも、ヘルマンは西行きの列車の魅力には抗い難く、今までの行動で大胆にもなっていたから、思い切って乗り込む事にした。そして、炭水車に這い上がり、石炭の山の後ろに身を隠した。すると、2人のロシア人がその隠れ場所にやって来た。今度こそ万事休すか、いや、彼らも逃亡者だった。ロシアには、昔から大勢の逃亡者がいる。ヘルマンが出会った2人も、労働収容所からの逃亡者らしく、身分証も持っていなかった。こうして、3人の逃亡者が身を寄せ合って、西へと進んだ。しかし、途中、罐焚(かまたき)に発見され、石炭用のシャベルで脅されたので、次の駅で降りざるを得なかった。2人のロシア人逃亡者とは、ここで別れを告げた。それぞれ己の故郷を目指すのだ。


ヘルマンはまた、西行きの列車を見つけると、手荷物車に隠れて昼も夜も過ごし、1千キロ以上の距離を稼いだ。カリーニングラードに到着したが、この街は戦場となって廃墟と化しており、ドイツ兵捕虜が再建工事をさせられていた。ドイツ人住民の多くは追放されていたが、まだ数万人、居住していた。ヘルマンはここで、数週間振りにドイツ語の響きを聞いた。廃墟の中には大勢の人間がたむろしていて、そこで闇商売が行われていた。ヘルマンは、地下室で死亡したドイツ人の身分証を手に入れた。これはソ連司令部発行のものだったので、逃亡者として捕まる恐れは減った。しかし、ここに留まり続けると、いずれは嗅ぎ付けられる。長居は出来なかった。


しかし、故郷、ホーフガイスマーまでには、まだ三つの難関が立ちはだかっていた。

ソ連邦ロシア⇔ポーランド

ポーランド⇔ソ連のドイツ占領地

ソ連のドイツ占領地⇔西側諸国のドイツ占領地


これらの国境間は、厳重な警戒下に置かれていた。ソ連の支配下に入った東プロイセンでは、大勢のドイツ人がヘルマン同様、列車に紛れて国境を突破しようとしていた。しかし、その大半が失敗に終わり、警戒も強化されていた。ヘルマンもその事を聞き知っていたが、故郷を目指す決意に揺るぎはなかった。ヘルマンは夜間、列車の下部に潜り込み、枕木の幻覚に襲われながらも、第一の難関を突破した。そして、ポーランド領に編入された旧ドイツ都市、バルテンシュタインの駅に着いた。ヘルマンは西行きの列車を見つけて、空のタンク車に入り込み、容器の奥底に隠れこんだ。蓋は開いていたので、窒息の心配は無かった。列車は走り出し、やがて、旧ドイツ都市キュストリンで一時停車した。


誰か、砂利を踏みしめる足音が、近付いて来る。そして、ヘルマンのいるタンク車で立ち止まり、棒で叩いて、「出て来い!」と声を上げた。ヘルマンは、身を潜め続ける。この間、ヘルマンは息も止めようとしたが、顎が震えるのを止められなかった。再び、「出てこい!」との声が響いた。しばしの沈黙、ヘルマンは、何かおかしいと気付いた。存在が分かっているなら、どうしてタンクをよじ登って、中を確認しようとしないのか。そう、相手はかまをかけて、逃亡者を見つけ出そうとしていた。そうやって、いちいち確認する手間を省いていたのだ。足音は遠ざかって行き、離れた場所で、また、「出て来い!」と聞こえてきた。その直後、列車は出発した。何時間かして、列車は大きな駅に着いた。ヘルマンは、タンクの縁から慎重に辺りを窺うと、駅名はベルリンとあった。ドイツの首都だ。1946年8月25日、こうしてヘルマンは、第二の難関も突破した。


ヘルマンは、ベルリンに設けられていた難民集合所に向かった。そこで改めて身分証をもらい、久しぶりに温かい真っ当な食事をもらった。ここに到るまで、食料は僅かなパンと、生のジャガイモ、ニンジン、タマネギ、トマトで済ませ、水は、駅にあった水樽を飲み、時にはそれで体を洗っていた。この日、ヘルマンはちょっとした解放気分を味わうべく、映画館に足を運んだ。それは、ひどい吹き替えのロシア映画であったが、中身ではなく、映画を見ているという自分自身の自由を楽しんだ。しかし、ここに大きな危険が潜んでいた。上映が終わり、観客が退出しようとした際、出入り口で大騒ぎが起こっていた。ロシア兵が労働に適した男女を捕らえて、強制的にトラックに押し込んでいたのだ。これまでの逃避行で、本能が研ぎ澄まされていたヘルマンはすぐ様、事態を悟った。そして、映画館のロビーに戻り、壁際の凹みに隠れつつ、裏口を求めて脱出した。


ヘルマンは、ベルリンの東西境界線を突破すべく、しばらく情報収集に努めた。東西冷戦の象徴として有名な、ベルリンの壁である。だが、当時はまだ、鉄条網も地雷も無く、監視兵が時折、巡回するだけであった。1946年8月29日、ヘルマンは道を教わって、難なく境界線を越える事が出来た。最後の難関を突破して、西側のドイツ都市ヘルムシュテットに達した。ここからは通常の旅客者として、列車に乗り込んだ。そして、1946年8月30日、ついに故郷、ホーフガイスマーの自宅前に立った。数年に渡った戦争と捕虜生活、そして、ロシアの都市カザンから、ドイツの都市ホーフガイスマーまでの3千キロの旅もようやく終わる。ヘルマンは階段を上がり、震える手でドアを叩いた。ドアが開かれ、ヘートヴィッヒ夫人が、「ヘルマン!」と声を上げた。11歳と17歳の娘も、「パパ!」と駆け寄って来た。ヘルマンは、家族の温もりの中へと包み込まれていった。



戦後、ドイツでは捕虜の実体験を後世に伝えるため、大勢の復員兵から聞き取り調査を行った。この話は、その証言の1つであり、実話とされている。


主要参考文献、パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」


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