安居神社 真田信繁討死の地

安居神社は、大阪市天王寺区にある小さな神社です。そしてここは、大坂夏の陣で勇名を馳せた真田信繁討死の地でもあります。 


安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑安居神社 

都会の一角にあって分かり難いので、行くにはナビを持っていくか、前もって下調べした方が良いでしょう。 


安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑真田信繁の像 


安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑本殿 


安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑安居神社 

小高い丘にある事が分かります。信繁は家康本陣に突撃を繰り返した後、この安居神社まで押し戻されました。そして、傷付き、疲れ果てた身を休めていたところを討たれたとあります。 



茶臼山
茶臼山 posted by (C)重家

↑通天閣なら眺める茶臼山 

橋の架かった小高い丘が茶臼山です。大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田信繁の出撃拠点となりました。往時には、軍勢の喊声と激しい銃撃戦の音が響き渡っていたでしょう。 
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戦場に咲いた赤き大輪 真田信繁

2012.01.15 - 戦国史 其の三
慶長20年(1615年)5月7日、この日、大阪を舞台に戦国最後の激闘が行われていた。かつての天下人豊臣家と、現世の天下人徳川家との決戦である。双方合わせて十数万の軍勢が野を埋め、鬨(とき)の声を上げ、血刀を振るってぶつかり合う様は壮絶そのものだった。旗指入り乱れる乱戦にあって、一際目立つ存在があった。それは将も兵も皆、軍装を赤一色に染め上げた部隊であって、まるで戦場に咲いた赤き花の様であった。その部隊は働きもまた見事であって、雲霞の様な大軍に突入して真一文字に切り裂いてゆく。先頭に立つ武将は、これまた赤一色に染め上げた鎧兜を身にまとい、片手に十文字槍を引っさげて猛烈な突進を繰り返すのだった。その武将は大舞台で己の存在を知らしめるべく、小柄な体に気迫を漲らせて戦場を駆け巡っていた。それこそ大阪の陣で最も名を上げた男、真田信繁(幸村)であった。 
 
 
真田信繁は、永禄10年(1567年)生まれで、大阪夏の陣の時には49歳となっていた。実は、この戦い以前の信繁は、ほとんど名も知られていない武将であった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、父、昌幸と共に2千人余の兵を指揮して上田城に篭城し、徳川3万8千の大軍相手に大いに戦って武名を上げたが、それでも父の影に隠れた地味な存在だった。しかも、肝心の関ヶ原本戦で西軍が敗れた事から、真田父子は所領没収の上、紀州九度山に蟄居を命じられる。このまま何も無ければ、信繁は無名のまま歴史から消え去る運命となった。大名生活が染み込んだ真田父子にとって、九度山での不自由な暮らしは大変堪えたようである。徳川の大軍相手に二度も戦い抜いた昌幸ですら心が弱まり、家康の赦免をひたすら求めるようになっていた。そして、上田領を受け継いだ長男の信之宛てに手紙を送り、死ぬまでにもういちど一度会いたいと述べ、配所の窮状を訴えて援助を要請するのだった。しかし、それらの願いが適わぬまま、慶長16年(1611年)、衰え病んだ昌幸は65歳でこの世を去った。華々しい壮年時代と比べて、なんとも悲しい晩年であった。 
 
 
信繁は父の死に際して出家し、好白と称したとされる。信繁も同じく赦免を願っていたが、なんの音沙汰も無く、空しく歳月だけが過ぎていった。信繁は借金を重ねていた上、火事にあって屋敷が焼けてしまう。その再普請の費用と、これまでの借金の額は相当なものになっていたようだ。その信繁に金銭援助して、生活を助けていたのが兄の信之だった。これまでも九度山の真田父子は、信之の援助によって生活が成り立っていた。それも徳川家に楯突いた角で、死罪になるところを信之の必死の助命嘆願によって一命を助けられていた。しかし、今でもお尋ね者である事に変わりなく、それを身内にもつ信之の気苦労は大変なものだった。しかも、九度山からは、幾度と無く金を無心される。それらに対して信之は不満一つこぼさず、出来る限りの援助を行った。昌幸、信繁の名に隠れてしまっているが、信之もまた一角の人物であった事は間違いない。信之は弟を評して、「物腰は柔和で辛抱強く、言葉少なく怒り立つことはない」と言ったそうである。しかし、この評は、信之自身にも当てはまる事だろう。 
 
 
昌幸の死と、それに付き従っていた家臣達が上田に帰ると、信繁の身辺は一段と寂寥感が強まった。この頃の信繁の書状を幾つか載せてみる。 
 
●真田家の重臣、木村綱成から歳暮の鮭(しゃけ)が届けられ、それに対する信繁の礼状。 
 
「当冬は何事も不自由で、一段と寂しい状態です。こちらの情けない様子を御察しください」  
 
追伸 「貴方は連歌に熱心だそうですね。私にも退屈しのぎにやってみてはいかがです、と勧める方もおりますが、老いの学問で上手くいきません。御察しください」 
 
●信繁の姉の婿である小山田茂誠から鮭が届けられ、それに対する信繁の礼状。 
 
「私の方も無事に過ごしております。こちらのうらぶれた様子は使者の市石が話すでしょうから、詳しくは申し上げません。もはや、お目にかかる事もありますまい」 
 
追伸 「とにかく、年老いた事が残念でなりません。去年から急に老け込んで病身になってしまいました。歯なども抜け落ちてしまい、髭なども黒いのはほとんど残っておりません。」 
 
信繁は34歳からの十数年、男として最も働き盛りの時期を無為に過ごし、空しく老いさらばえていく我が身を悲しんでいた。慶長19年(1614年)秋、そんな信繁の下へ、大阪の豊臣秀頼からの使者が訪れた。この頃、豊臣家と徳川家の関係は悪化の一途を辿り、にわかに戦雲が垂れ込みつつあった。しかし、豊臣方では経験ある指揮官が不足していたので、名の通った浪人に片っ端から声をかけていた。そして、上田城の攻防で武名を上げた事がある信繁にも、誘いをかけてきたのであった。この時、豊臣方は引き出物として黄金200枚、銀30貫を贈り、勝利の暁には大名への取立ても約束したと云う。信繁には、これを断る理由など無かった。 
 
 
豊臣方が不利なのは承知の上であるが、落ちぶれた自分を拾い上げようとしてくれる秀頼への恩義、九度山で苦汁の生活を強いられた事に対する徳川家への恨み、そして何よりも、再び歴史の表舞台に登場して、華々しい活躍をしたいと云う思いが信繁を突き動かしたのだろう。この時、信繁は48歳、絶望を湛えていた目は輝きを取り戻し、老いた体に青年時代の精気が蘇りつつあった。こうして信繁は九度山から脱出し、勇躍、大阪城に入城する。だが、そんな信繁の高揚感とは裏腹に、城内での自らの立場は微妙なものであった。秀頼からは目をかけられたが、兄、信之や叔父の信尹(のぶただ)が徳川方であった事から、周囲の人間からは疑いの目で見られていたらしい。信繁は否が応にも武勲を上げて、周囲の不信を拭い去る必要があった。そんな信繁と、うまが合ったのは同じ浪人の後藤又兵衛基次であったと云う。その基次の近習を務めた長沢九郎兵衛の覚書によれば、信繁には「額に二、三寸の傷があり、小柄な人」であったと語っている。 
 
 
そして、迎えた大阪冬の陣。慶長19年(1614年)11月、信繁は5千人余の兵を任されて大阪城南方にある出丸、通称真田丸に立て篭もった。徳川方の主攻は南方からであり、その危険な最前線を買って出たのである。同年12月、信繁は、強攻を仕掛けてきた前田利常らの軍勢を真田丸に引き付けると、頃合を見計らって散々に銃撃し、大損害を与えて撃退した。この真田丸の戦いが冬の陣最大の激突であり、これに勝利した信繁は大いに武名を上げたのだった。この戦いの前後、徳川方から、我が方に付けば10万石の領土を与えるとの誘いが来たが、信繁は一顧だにしなかったと云う。 
 
 
豊臣方は局地的な戦闘では度々勝利を得たが、全体的な戦況を見渡せば、完全に包囲されている豊臣方の不利は否めない。そこで徳川方と交渉し、本丸以外の堀と櫓を打ち壊す事を条件に和議へと持ち込んだ。こうして一時の平穏が訪れるが、これが危うい和平である事は誰の目にも明らかであった。信繁はそういった状況を見越してか、己の最後を見定めた達観した書状を旧知に送るようになる。 
 
翌慶長20年(1615年)2月10日、信繁の娘すえの婿、石合道定に宛てた書状。 
 
「私ども篭城するからには、すでに覚悟は決まっております。この世でお会いすることも、もはやありますまい。何があってもすえだけは、心に障る事があったとしても、御見捨てにはならぬようお頼み申し上げます」 
 
信繁は、すえが敵将の娘として扱われるのを危惧したのかもしれない。娘を案じる父の素顔が窺える。 
 
同年3月19日、小山田茂誠、之知父子に宛てた書状。 
 
「私に対する殿様(秀頼)の寵愛は大変なものですが、いろいろと気遣いも多いです。とにかく1日1日と暮らしております。お会いすれば詳しい事も説明できましょうが、書状では思い通りになりません。こちらの様子は御使者が申し上げるでしょう。当年中が平穏に過ぎれば、なんとかお会いして、お話したいものです。懐かしく話したい事が山のようにあります。さだめなき浮世ですから1日先の事はわかりません。私のことなど、浮世にあるものとは思わないでください。」 
 
信繁は今年一杯平穏ならば、姉婿と会って話をしたいと願っていたが、定めなき世につき明日の事はわからないの言葉通り、豊臣家と徳川家は最後の戦いを迎える事となる。そして、これが信繁の絶筆となった。 
 
 
こうして迎えた大阪夏の陣。慶長20年(1615年)5月6日、豊臣方は、奈良方面からやってくる徳川先鋒隊を打たんとして、真田信繁、後藤基次、毛利勝永らの部隊を出陣させた。後藤隊は先行して道明寺に着いたが、信繁を始めとする後続の部隊は悉く遅参して姿を見せない。それでも後藤隊は踏み留まって、10倍する徳川方相手に8時間激闘した挙句、基次は討死した。この頃になって豊臣方諸隊はようやく道明寺に到着したが、時既に遅しであった。徳川方は基次を討った余勢を駆って束になって攻めかかり、後手に回った豊臣方は押されに押された。この豊臣軍総崩れの危機を救ったのは、信繁であった。危険な殿軍を買って出て、猛追してきた伊達政宗軍を撃退したので事無きを得たのだった。したたかにやられた徳川方は、あえて後を追おうとしなかった。この時、信繁は徳川方に向けて、「関東勢は百万も揃っておきながら、男は1人もいないのか」と言い捨て、悠々撤退したとされている「北川覚書」。 
 
 
しかし、後世になって編纂された「幸村君伝記」によれば、信繁が殿軍を申し出た時、他の大阪方諸将は、「さもすれば信繁は己の武勇を自慢して、自分達をないがしろにしている。それならば事前の協議など止めて、各々が思う存分に戦おうではないか」と皆怒ったと云う。この話の真偽の程は定かではないが、信繁が積極的に自己喧伝に努めていたとは十分に考えられる。自らの部隊を赤備えとしたのも、戦場で目立つ意味合いも含まれていたのだろう。いずれにせよ、落ちぶれた九度山時代と比べて、別人の様な意気軒昂振りであった。 
 
 
明くる5月7日、豊臣方は大坂城南方に残存戦力を結集し、最後の決戦に望む。劣勢ながら決死の豊臣方は奮戦し、前半戦は優勢に運んだ。その中でも信繁と毛利勝永の活躍は目覚しく、突撃に次ぐ突撃を重ねて、家康の本陣にまで斬り込んだ。そして、信繁率いる赤備えは家康本陣を突き崩し、その首を目の前としたものの、後一突きの力が足りずに力尽きたのだった。だが、信繁の胸中に無念の思いは無かったろう。己の全身全霊を尽くし、天下にその名を知らしめたと言う晴れやかな満足感を胸に抱きつつ、最後を迎えたのだろう。翌5月8日、大坂城は落城し、豊臣秀頼も自刃して果てた。この時、信繁の嫡男、大助幸昌も秀頼に殉じている。大助は、豊臣家臣の速水守久から脱出を進められたが、これを断り、秀頼が切腹するに当たって、「将たる者の腹切りでは佩楯(膝鎧)は取らぬ、我は真田左衛門佐の倅なり」と叫んで膝鎧を付けたまま割腹して果てたと云う。享年は13から16の間であった。夏の陣では兜首を一つ上げたとされており、父に恥じない武士の子であった。 
 
 
当時の人々の声を取り上げてみる。 
 
●本多家記録 「幸村十文字の槍をもって、大御所(家康)を目掛け戦わんと心懸けた。大御所とても叶わずと思って植松の方へと引き下がった」 
 
●公家の山科言緒 「天王寺にてたびたび真田は勇敢に戦い、その後、討死した」 
 
●細川家記 「左衛門佐(信繁)、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄。首は越前大名、松平忠直殿の鉄砲頭が取った。しかし、傷付き、疲れ果てていたところを討ち取ったので手柄にはならないだろう。」 
 
●山下秘録 「家康卿の御旗本目指して一文字に突入し、家康卿の御馬印が倒された。異国はおろか日本にも聞き覚えがないほどの勇士である。神出鬼没の武士である。真田勢はその全てが討死した。合戦が終わった後、真田の名を知らぬ者は天下にいないほどである。」 
 
●薩摩島津家の戦闘報告書 「5月7日、御所様の本陣へ真田左衛門が突撃し、旗本勢を追い散らし討ち取っていった。三度目には真田も討死した。旗本勢で三里ほど逃げた者は皆生き残った。徳川方半分敗北。世間ではもっぱらこれのみが話されている。真田日本一の兵、昔話にも聞いたことがないほどである」 
 
これらの称賛の声こそ、信繁に対する最大の餞(はなむけ)であった。 
 
真田信繁、享年49。野に埋もれ、萎れつつあった花が、最後の最後に大輪を咲かせたのだった。

呉軍港

呉は、広島県南西部にある瀬戸内海に面した都市です。明治以前は寂れた漁村に過ぎませんでしたが、天然の良港を有していた事から、明治時代になって海軍基地に選定され、以降、莫大な国費が投じられて工場やドックが次々に造成されていきました。やがて、呉海軍工廠の規模は東洋最大とまで謳われるようになり、そこから戦艦大和を始めとする、各種艦艇が生み出されていきました。軍艦を作るには高度な技術が必要で、それを運用する乗員にも特殊な技能が求められます。この軍艦を建造、補修し、乗員の教育、訓練にあたるのが軍港の役割りであり、これ無くして艦隊は成り立ちませんでした。


戦前、戦中の日本には横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4軍港がありましたが、その規模の大きさ、機能の重要さにおいては、呉と横須賀が一頭地を抜いていました。軍艦建造能力でも呉と横須賀が際立っていて、この2港では主に戦艦、空母、重巡洋艦などの大型艦艇が建造されたのに対し、佐世保では軽巡洋艦と駆逐艦、舞鶴は駆逐艦、水雷艇などの中小艦艇が建造されていました。軍港としての呉は太平洋戦争中に最盛期を迎え、昭和18年(1943年)
には短期徴用工も含めると人口は40万人に達しました(2011年時点では約24万人)。しかし、大戦末期、アメリカ軍の攻撃が日本本土にまで及ぶようになると、呉は最重要目標と見なされて、激しい爆撃を受けるようになります。



昭和20年(1945年)3月19日、7月24日、7月28日と三度の爆撃を受けて工場群は壊滅し、呉は軍港としての機能を失ってしまいます。連合艦隊の成れの果てである、残存艦艇も悉く沈められ、栄光を誇った日本海軍もまた、壊滅しました。戦後、呉は焦土と化し、米軍機が投下した機雷によって船の往来もままならなくなりました。けれども、危険を顧みない旧海軍掃海艇の活躍によって機雷は除去されていき、破壊された港湾施設の復興も徐々に進められ、再び工業都市としての輝きを取り戻すようになります。そして、海上自衛隊が発足するにあたって、旧海軍の伝統と設備を受け継ぐ呉は、軍港としても復活します。これからも呉は、日本の海を守る拠点として未来に渡って重要な役割を担い続けるでしょう。



大和建造ドック
大和建造ドック posted by (C)重家

↑呉市街

呉では今なお、造船が盛んです。


大和建造ドック
大和建造ドック posted by (C)重家

↑大和建造ドック跡

ここには戦艦大和が建造されたドックがありましたが、現在は埋め立てられています。しかし、上屋の骨組みは、当時のままで残されています。



旧呉鎮守府
旧呉鎮守府 posted by (C)重家

↑海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮守府)

今も昔も、呉軍港の頭脳ともいえる施設です。鎮守府とは軍港を統括する組織で、定められた海域の防備、所属艦船の整備補給、将兵の教育訓練などを担う組織です。呉鎮守府は、明治19年(1886年)に第二海軍区鎮守府(明治22年に呉鎮守府に改称)が設置されたのを始まりとします。外戦部隊である連合艦隊とは別で、鎮守府指揮下にある艦艇は内戦部隊と云われ、駆逐艦、潜水艦、警戒艦、訓練艦、航空隊などで構成されていました。戦前の日本には横須賀鎮守府(東日本を守備範囲とする第一海軍区)、呉鎮守府(西日本の太平洋岸を守備範囲とする第二海軍区)、佐世保鎮守府「九州から台湾、中国、朝鮮半島までを守備範囲とする第三海軍区)、舞鶴鎮守府(日本海を守備範囲とする第四海軍区)が設置されていました。



噫 ( ああ ) 戰艦大和之塔
噫 ( ああ ) 戰艦大和之塔 posted by (C)重家


↑噫(ああ)戦艦大和塔

歴史の見える丘にあって、ここから大和建造ドックを望む事も出来ます。この塔の脇には戦艦「大和」や「長門」の主砲弾も展示されています。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑旧呉海軍工廠塔時計

かつては海軍工廠の屋上にあって終戦まで時を刻んでいましたが、
昭和46年(1971年)に入船山公園に移設されました。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑呉鎮守府、司令長官官舎

元となる建物は、
明治22年(1889年)に建てられました。明治38年(1905年)の芸予地震によって倒壊してしまいますが、同年中にその資材を用いて再建されました。昭和20年(1945年)まで鎮守府司令官宿舎として用いられ、戦後は米軍司令官の宿舎となって昭和31年(1956年)まで使用されました。その後、呉市に返還されて一般公開され、平成7年(1995年)に解体修復工事がなされました。建物は、東の洋風館と西の和風館からなっており、国の重要文化財に指定されています。


入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑鎮守府司令長官の執務室

ここでは歴代連合艦隊司令長官も集って、国事を話し合う機会もあった事でしょう。


入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑食堂

フランス料理が振舞われたのだとか。


入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑和風館


入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家


東郷平八郎、山本五十六を始めとする錚々たる提督達もこの道を通った事でしょう。

ノスタルジック(郷愁・懐かしむ)、そんな言葉がよく似合う街です。

大和ミュージアム 2

大和ミュージアムの目玉は、何と言っても戦艦大和の十分の一サイズの巨大模型でしょう。実際の大和の大きさが、全長263メートル、全幅38・9メートルだったので、模型の全長は26・3メートル、全幅3・8メートルとなります。


戦艦大和については世間一般にも広く知れ渡っている事から、簡単な説明だけしておきます。大和は、当時の日本人が持ちうる技術を結集して建造されたもので、日本海軍の誇りでもありました。その基準排水量6万4千トンと、砲塔1基2700トンにもなる46センチ3連装砲は、戦艦としては史上最大です。先に紹介した潜水艦「あきしお」の排水量が2250トンだったので、その巨大さが窺い知れます。しかし、当時は最高軍事機密とされていたので、一般人には知る由がありませんでした。大和が有名になるのは、むしろ戦後でしょう。


日米開戦間もない昭和16年(1941年)12月16日、大和は大いなる期待を背負って就役しますが、既に海戦の主体は空母と航空機に移りつつあり、自慢の主砲が火を噴く機会はなかなか訪れませんでした。太平洋戦争末期、大和は海上特攻隊として沖縄に送り込まれたものの、望んでいた敵戦艦との撃ち合いの場面は訪れず、代わって現れたアメリカ軍航空機の集中攻撃を受けて、昭和20年(1945年)4月7日、3千人余の将兵と共に東シナ海の海底に沈んでいきました。



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦大和の十分の一模型


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家


戦艦大和の重厚感、機能美が伝わって来る素晴らしい出来栄えです。


砲弾
砲弾 posted by (C)重家

↑主砲弾の数々

左三つは戦艦大和の主砲弾で、左から46センチ91式徹甲弾、46センチ3式弾、46センチ91式徹甲弾の断面です。46センチ91式徹甲弾の全長は1.98メートル、重さは1.46トンもありますが、大和はこの砲弾を42キロ先まで飛ばす事が可能でした。しかし、実際の砲戦では、そんな遠距離に砲弾を放ってもまず命中しないので、砲戦距離は2万~3万メートルを想定していたでしょう。


回天
回天 posted by (C)重家

↑人間魚雷「回天」

これに人間が乗り込んで、敵艦に体当たり自爆する特攻兵器です。実戦にも投入されており、給油艦1隻、護衛駆逐艦1隻、揚陸艇1隻を撃沈しています。回天の戦没者は戦死、事故死、戦後の自決を含めて145人となっています。


特殊潜航艇海龍
特殊潜航艇海龍 posted by (C)重家

↑特殊潜航艇「海龍」

これも回天と同じく、人間が乗り込んで敵艦に向けて魚雷を放ったり、体当たり自爆するための特攻兵器です。戦争末期、本土決戦用に整備されていましたが、実戦に投入される事なく終戦となりました。


零式艦上戦闘機62型
零式艦上戦闘機62型 posted by (C)重家

↑零式艦上戦闘機62型

大和と共に名高い零戦の改良型です。戦争末期に制式化されたもので、初期型より火力が強化されています。


13mm機銃
13mm機銃 posted by (C)重家

↑零戦に搭載された13ミリ機銃


重巡洋艦摩耶
重巡洋艦摩耶 posted by (C)重家

↑重巡洋艦「摩耶」の模型

大和ミュージアムには、これ以外にも多数の日本海軍の艦艇模型が展示されています。

大和ミュージアム 1

大和ミュージアムは、広島県呉市にある博物館です。正式名は呉市海事歴史科学館と言って、日本海軍や呉軍港の歴史、そして、世界最大の戦艦大和についての展示、紹介がなされています。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑大和ミュージアム

左手にあるのが大和ミュージアムで、奥には自衛隊の潜水艦「あきしお」が展示されています。そして、博物館手前には、旧日本海軍の戦艦「陸奥」の装備品が展示されています。


大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦「陸奥」の41センチ主砲の砲身

陸奥の主砲は45口径41センチ砲だったので、これを掛け算すると砲身の長さは18.45メートルとなります。ちなみに大和の主砲は45口径46センチ砲だったので、砲身長は20・70メートルです。戦艦「陸奥」は長門型戦艦の2番艦として建造され、大正10年(1921年)に就役しました。昭和11年(1936年)には大改装を施されて面目を一新し、全長224、9メートル、全幅34、6メートル、排水量3万9千トンの巨艦となります。長門型は、41センチ砲を8門搭載しており、大和型に次ぐ有力艦と見なされていました。しかし、陸奥は昭和18年(1943年)6月8日、謎の大爆発(不祥事を起こした乗員の自爆が疑われる)を起こし、1121人の乗員を巻き添えにして山口県柱島沖に沈んでいきました。戦後、その装備品が引き揚げられて、各所に展示されています。



大和ミュージアム
大和ミュージアム posted by (C)重家

↑戦艦陸奥の主舵



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜水艦あきしお

まずは、あきしおから見る事にしました。全長76・2メートル、排水量2250トンあるとの事で、間近で見ると巨大です!


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑狭い通路

巨大な艦体とは裏腹に、内部は狭く入り組んでいます。


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑乗員の寝台

ここが乗組員のプライベート空間です。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑艦長室

艦長は艦船で一番階級が高いので、個室が設けられていますが、それでも狭いです。



潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑潜望鏡

覗いているのが艦長で、周りの人が乗組員だと思われます。潜水艦の乗員て、随分、高齢なんですね。 ( ̄Д ̄;;


潜水艦あきしお
潜水艦あきしお posted by (C)重家

↑あきしおの艦首

かすかに魚雷発射管の跡が窺えます。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
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