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独ソ戦の捕虜、苛烈なる運命

●ソ連兵捕虜の運命

ドイツはアメリカ、イギリスなどの西側国家の捕虜は比較的、人道的に扱ったが、ソ連兵捕虜に対しては何の配慮も示さず、ろくに食料も与えなかった。ドイツは、ソ連兵を下等人種と見なして、残忍極まる態度で接した。ドイツの食料優先順位は、まずはドイツ軍、次に本国のドイツ国民、その次が占領地の民間人、最下位がソ連兵捕虜であった。その食料は、ドイツ占領下のソ連領から強制的に取り上げられた。戦場で捕虜となったソ連兵は、収容所へと連行されて行くが、場所によっては数百キロの道のりを延々と歩かされ、途中、力尽きた者は次々に銃殺されていった。


鉄道で輸送される事もあるが、屋根の無い無蓋列車に座る事も出来ないほど詰め込まれ、風雪に晒されながら運ばれていった。これが冬場であれば、目的地に達した時、数百人から数千人の凍死体が転がり落ちたと云う。徒歩での行進、鉄道輸送の際に死亡した捕虜は、20万人に達すると見られている。ようやく収容所に達しても、風雪を遮る宿舎、診療所、便所などは無く、野原を鉄条網で囲っただけのしろものがほとんどだった。建物がある場合もあったが、狭い室内に大量に詰め込まれたり、中に入る事を許されない事もあった。


アメリカの学者アレクサンダー・ダリンの記述

「弁の立つ大勢の証人によると、何個師団もが野外でくたばるに任せられた。伝染病等の病気で、収容所の人口は減った。監視兵の殴打、職権濫用は日常茶飯事だった。何百万人もが、食料も屋根も無い状態で放っておかれた。捕虜輸送列車が目的地に着くと、貨車は死体で一杯だった。死亡率は統計により大きく異なるものの、1941年から1942年にかけてのこの冬場、30%を下回る事は無かった。95%に達する所もあった」


1942年1月26日、この日、ドイツの参謀ハインツ・ダンコ・ヘル大佐は、ドイツ軍がスターリノ(現在名ドネツィク)に建設した収容所を訪問し、その時の模様を報告している。

「捕虜達は、びっしり寄り添って立っている。横になって寝る空間が無いのだ。扉の側で身を屈めて転がっているのが3人いたが、死にかけているか、もう死んでいるらしい。骨と皮だけの姿が、幾つか転がっているのが見えた。立っていられなくなったのだ。ベッドも椅子も毛布も無い、糞だらけの床だけ。どの顔にも生気が無い、目はくぼみ、髭が汚い」


1942年2月28日、ドイツの東方占領地大臣であった、アルフレート・ローゼンベルクは、カイテル元帥宛ての手紙でこう述べている。

「ドイツの捕虜収容所にいるロシア人の運命は、まさに大悲劇であります。捕虜になった360万人中、今尚、作業可能な者は僅か数十万人しかおりません。大部分は餓死したか、厳しい気候で死亡したかであります。発疹チフスで死んだ者も何万人とおります。大抵の収容所所長は、市民が捕虜に食料を与える事を禁じており、餓死するに任せております。飢えと疲労で行進出来なくなった捕虜は、多くの場合、恐怖に慄く市民の前で射殺され、死体は放っておかれます。捕虜が寝る場所も無い収容所も多くあります。雨や雪の時も、屋根無しで横たわっています。ええ、そうです、地面に穴を掘ったり、どこかに横穴を掘ったりする道具すら与えられておりません。そして、捕虜は射殺されるのです。あちこちの収容所でアジア人(ロシア人)が射殺されております」


西ドイツ政府捕虜史委員会の報告。

「ドイツの公式文書によると、1944年5月1日の段階で、ドイツに捕まったソ連人捕虜500万人以上の内、200万人以上が死亡し、他に100万人以上が行方不明になっていた。行方不明者の大部分は死んだか、処刑されたかで、逃亡したのは僅かに過ぎない。この時点で生きていたソ連人捕虜の数は100万人を切る。1944年5月1日時点のドイツの公式数字を基礎にすれば、第二次大戦のこの時点までに、ドイツに捕まったソ連人捕虜の約60パーセントが死亡した事になる」


ティモシー・スナイダー著「ブラッドランド、上巻)の記述。

ドイツ軍は、310万人ものソ連兵捕虜を死に至らしめた。その内訳は、銃殺50万人、移送中の死と収容所での餓死を合わせて260万人であった。


ソ連兵捕虜は、草や樹皮など、手当たり次第、口に入れ、それでも飢餓に追い詰められると、食人行為に走った。ロシアの長く厳しい冬の間、捕虜達は、硬い地面を手で掘って壕を作り、そこで仲間と寄り添って耐え忍ぼうとした。しかし、そのまま飢えて凍りついていった。また、ドイツ占領下のソ連領では飢餓が広がって、戦争中、数百万人の民間人が餓死した。こうしたドイツの残虐行為は、ソ連国内へと伝わってゆき、ソ連の人々は捕虜となって飢え死にさせられるぐらいなら、戦って死ぬ方がましだと考え、徹底抗戦するようになった。そして、大戦後半、ソ連軍がドイツ本土に達すると、報復とばかりに、ドイツ人に対して略奪、婦女暴行、虐殺の限りを尽くした。





1941年8月、スモレンスク近辺の過密状態の捕虜収容所(ウィキより)



●ドイツ兵捕虜の運命

ドイツも1943年7月のクルスク戦以降は、ソ連の圧倒的な物量攻勢によって防勢一方となり、東部戦線の各所で敗退し、多数の捕虜を出すようになる。ソ連は、第二次大戦中、300万人以上のドイツ兵を捕虜とした。そして、捕虜を、ウクライナからシベリアに到る、国内3千箇所の収容所に振り分けた。捕虜は、鉄条網内に設けられたバラックに詰め込まれ、板張りの寝台で寝泊りした。日々の労働は、建設作業、木材伐採、鉱山労働、農作業、石材切り出しなどであった。この肉体労働を補う食事は、僅かなパンとマッシュポテト、薄いキャベツのスープなどであった。独ソ戦による国土破壊の煽りを受けて、ソ連全体の食料が不足していた。


しかも、ソ連の非効率な計画経済に付きものの、流通の滞りがあって、カビの生えたパンや、黒ずんで異臭を放つジャガイモがよく食事として出された。捕虜達は恒常的な飢餓に晒されており、犬、猫、ヘビ、トカゲ、ネズミなどを見かけると、手当たり次第に捕らえて、口に入れた。そんなドイツ兵捕虜に、ソ連の民衆は度々、食べ物の差し入れを与えた。特にロシア人女性は、深い同情心を示してくれる事が多かった。捕虜達にとってパンは命そのもので、これを盗んだ者には、集団で殴る蹴るの厳罰が加えられた。そして、見せしめとして服を剥がされ、バラック内を曳き回された。50歳以上の年配者は環境の変化に対応出来ず、よく盗みを働いた。捕虜達はバラック内の秩序と命の食料を守るため、階級も年齢も上のパン泥棒を殴りつけねばならなかった。


戦争中、ドイツ兵は固い団結と仲間意識を誇ったが、捕虜となって飢餓に追い込まれると、相互扶助の精神は失われていった。ソ連は、従順で協力的な捕虜は厚遇して、食料も多めに与えた。協力者は収容所の役職に就いて、かつての戦友をこき使った。また、密告者となって、不満を口にした戦友を売る者もいた。捕虜達の間には疑心暗鬼が広まって、自分しか頼りにならないという状況が現出した。信じられるのは、自分と極少数の戦友のみだった。だが、捕虜達も密告者を捜し出すと、作業中、事故に見せかけて殺害する事もあった。捕虜生活から解放され、帰郷への列車に乗っている最中、捕虜達は、裏切り者を走っている列車から突き落としたりもした。


西ドイツ政府捕虜史委員会に寄せられた捕虜の証言

「帰郷のため輸送される途中、我々は2人の男を放りだしました。走っている列車から、頭から先に、ほれ!と放ったのです。あの時の事を思い出すと、今でもぞっとします。恐ろしい事です。それも帰郷の途中です。放りだされる前、片方の男はめそめそ泣いていました」


1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ中央軍集団を壊滅させ、ドイツ兵8万5千人余を捕らえた。ソ連の独裁者スターリンは、この捕虜達をモスクワに集めて、戦意高揚の戦勝パレードを行おうと考えた。衆目が集まる中、侵略者たるドイツ人の惨めな姿を見せ付けて、ソ連の大勝利を印象付けようとしたのである。1944年7月初め、スターリンは、ドイツ兵捕虜5万5千人をモスクワに運ばせた。捕虜達は、幾日もまともな飲食物を与えられておらず、皆、飢え渇いていた。その上、大半が赤痢を患っていた。軍服は泥まみれで、異臭を放っていた。 


同年7月16日、ソ連当局は、翌日に控えた行進に備えて、捕虜達に特別豪華な食事、パンとお粥、ハムを与えた。しかし、弱った胃腸に急に大量の食物を流し込んだ結果、大勢が下痢に悩まされる事になった。1944年7月17日朝、モスクワの空は晴れ渡っていた。吹奏楽団がマーチを演奏する中、捕虜達は号令をかけられて、幅70メートルのゴーリキー通りを歩き出した。先頭を行くのは、中央軍集団の壊滅で捕虜となった、21人の将軍達だった。彼らは勲章はそのままで、軍服も整っていた。その後を、泥まみれのやつれ切った兵士達が続く。


赤痢の捕虜達は、缶詰の空き缶を手にして、行進の最中に排泄を行った。それを見た護衛のソ連騎兵は、「ドイツ野郎め、教養ねえな」と嘲笑った。群衆の前を通り過ぎる時、ドイツ兵達は罵声を浴び、石を投げつけられた。捕虜に直接、危害を加えようとした者もいたが、これは護衛の騎兵に阻止された。罵声と投石、唾の吐きかけまでは許されていたが、殺しは禁止であった。だが、この日、捕虜達は、群集の目の中に、憎悪よりはむしろ同情を見た。涙ぐんでいる女性もいた。


この行進は6時間続き、クレムリンの近くで解散となった。そして、捕虜達は待っていた列車に乗り込み、ソ連各地の収容所へと散っていった。そして、終わりの見えない、強制労働の日々が始まるのだ。ドイツ兵捕虜の大半は、1949年末から1950年初頭にかけて解放されたが、戦犯として有罪にされた2万7千人は尚も留め置かれて、1953年から1954年にかけて半数以上が解放され、残った1万人は1955年末から1956年初頭にかけてようやく解放された。第二次大戦でソ連の捕虜となったドイツ人は350万人余で、その内、100万人以上が死亡したと見られる。





1944年7月17日、モスクワ市内を行進させられる、ドイツ兵捕虜



主要参考文献

パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」

ティモシー・スナイダー著、「ブラッドランド 上」

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空母「蒼龍」艦長、柳本柳作 後

昭和17年(1942年)6月4日(日本時間6月5日)、空母蒼龍と艦長柳本は、運命のミッドウェー海戦を迎える。この日、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母を主力とする、日本の大艦隊が太平洋の小島ミッドウェーに殺到した。作戦を開始するに当たって、連合艦隊司令長官、山本五十六大将は、「ミッドウェー攻撃の間、母艦艦載機の半数は、敵艦隊の出現に備えて艦上待機を行う」と作戦計画に明記させていた。機動部隊(空母を中心とする高速艦隊)の総指揮官は南雲忠一中将で、参謀長の草鹿龍之介少将と、航空参謀の源田実中佐が補佐に当たった。この中でも、源田中佐の発言力は大きく、源田艦隊とも称されていた。南雲中将は水雷戦の専門家であって、航空戦には疎く、航空専門家である源田中佐の進言を追認するのみだった。その源田中佐は、攻撃一辺倒の参謀で、米軍など鎧袖一触であると豪語していた。


日本海軍のほぼ全ての水上艦艇が参加する、大作戦であったが、主役はやはり4隻の空母とその艦載機であった。

4空母の艦載機は261機で、この他にミッドウェー島占領後に使用する予定の、零戦21機、二式艦偵2機を積み込んでいた。合計284機である。

対するアメリカ海軍も、3隻の空母が主力で、その艦載機は240機、これに、ミッドウェー島の基地航空機、115機が加わった。合計355機である。

アメリカ軍機動部隊の総指揮官は、フレッチャー少将で、自らは空母ヨークタウンを指揮し、スプルーアンス少将率いる空母エンタープライズとホーネットを麾下に置いていた。


日本海軍はミッドウェー作戦時、並行してアリューシャン攻略作戦も行っており、この作戦に空母2隻が動員されて、戦力の分散を強いられた。それでも、ミッドウェー作戦に参加する艦艇数は日本側が勝っていたが、これも広範囲に分散しており、実質的には南雲機動部隊のみの攻撃となる。南雲機動部隊とフレッチャー機動部隊の水上艦艇数は、ほぼ互角であった。航空機数は、ミッドウェー島の航空機が加わると、アメリカ側が優勢であった。ただ、搭乗員の錬度だけは日本側が勝っていた。情報戦では、アメリカ側が圧倒的、優勢にあった。当時の日本海軍は知る由も無かったが、アメリカ海軍は日本の暗号を解読しており、待ち伏せの態勢を取っていた。


海戦前日の6月3日夜半、山本司令官座上の戦艦大和では、敵信班の通信員が、「ミッドウェー北方海域に、敵空母らしい呼び出し符号を探知しました」と報告していた。しかし、山本司令部は、南雲機動部隊もこれを探知しているはずであり、あえて無線封鎖を破る必要は無いとして、この重大情報を知らせなかった。ところが南雲機動部隊は、これを探知していなかった。従って、南雲機動部隊は五里霧中で敵艦隊を捜索しつつ、ミッドウェー島も攻撃せねばならない。6月4日午前4時半(戦記では日本時間と現地時間の片方、あるいは両方が記されているが、ここでは現地時間のみとする)、南雲機動部隊から、ミッドウェー島攻撃隊108機が、次々に発艦していった。


午前5時半、第一次攻撃隊が飛び立った後、南雲司令部は、「本日敵機動部隊出撃の算なし。敵情特に変化なければ第二次攻撃は第四編成(陸上基地攻撃装備)を似て本日実施の予定」と、発光信号で各艦に告げた。南雲司令部は、敵空母による攻撃は無いものと見なしていた。山本司令部が、前夜に敵空母出現の報を知らせなかったのもあるが、南雲司令部自身にも慢心と油断があった。しかし、その頃、アメリカ機動部隊は、北東から密かに接近していた。午前5時34分、アメリカの偵察飛行艇は、日本空母群を発見し、その位置と艦載機の発艦を報告する。この時点で、アメリカ空母は発見されておらず、逆に日本空母の動向は筒抜けとなっていた。


アメリカ軍機動部隊、総指揮官フレッチャー少将は、日本空母発見の報を受けて、スプルーアンス少将率いる空母、エンタープライズ、ホーネットに全力攻撃をさせ、自らが率いる空母ヨークタウンは、新たな日本空母の出現に備えて、時間を置いて第二次攻撃を仕掛ける事を決した。全力攻撃を命じられたスプルーアンス少将であるが、その攻撃を決定的なものとすべく、間合いと時間の頃合を検討する。既に、日本の艦載機発艦は告げられており、間もなくミッドウェー島を攻撃する事になる。そのミッドウェー攻撃隊が帰還して収容作業に入り、次の第二次攻撃隊が準備している、その瞬間を狙うのが、最も効果的であった。スプルーアンス少将とその参謀長ブラウニング大佐は、その時刻を午前9時と想定し、午前7時をもって全力発艦となった。


午前6時半、日本の第一次攻撃隊はミッドウェー島上空に達し、爆撃を開始した。15分後には爆撃は終了し、攻撃隊は帰路についた。しかし、成果は不十分だと判断され、午前7時、攻撃隊指揮官、友永大尉は、「第二次攻撃の要あり」と打電する。それを受けて、南雲司令部は、敵艦攻撃用に待機していた艦載機を、ミッドウェー島第二次攻撃に転用する事を決した。そして、艦船攻撃用の魚雷や徹甲爆弾が取り外され、陸用爆弾への転換作業が始まった。南雲機動部隊は、早朝から度々、ミッドウェー島から発したアメリカ軍機による空襲を受けていたので、この排除を優先したのだった。しかし、これによって、山本長官の「艦載機の半数は、敵艦隊に備えて待機せよ」との意向は、無視される形となった。


日本の攻撃隊が帰路についていた頃、午前7時、アメリカ空母エンタープライズ、ホーネットの艦上では、爆弾、魚雷を積んだ艦載機118機が次々に発艦していった。午前8時38分には、空母ヨークタウンも攻撃隊38機を発艦させる。目標は無論、日本空母である。午前7時28分、南雲機動部隊に、水上偵察機(重巡洋艦利根四号機)から、「敵らしきもの10隻見ゆ」との、緊急電が届けられた。これを受けて、飛龍、蒼龍を指揮する第二航空戦隊司令官、山口多聞少将は、一刻を争う事態と見て、陸用爆弾装備の九九艦爆36機による即時攻撃を打診した。


しかし、南雲司令部は、護衛戦闘機無しの攻撃は犠牲が大きいとみて、これを却下する。護衛戦闘機は、上空直掩機を降ろしてから後追いさせるという方法もあったが、そういう考えには到らなかった。そして、南雲司令部は敵艦隊を攻撃すべく、今度は、陸用爆弾から、魚雷、徹甲爆弾への再転換を命じた。兵器員達は、てんやわんやの作業に追われ、格納庫は爆弾や魚雷で溢れかえる事態となった。しかも、この間、ミッドウェー島のアメリカ軍機による空襲を受けたり、第一次攻撃隊を収容したりして、転換作業は遅れに遅れた。


そして、午前9時20分、アメリカ空母機による最初の攻撃が始まった。TBDデヴァステイター雷撃機の編隊が低空から現れて、突入を開始する。上空直掩の零戦隊はこれを迎撃すべく、低空に下りていく。零戦は存分に威力を発揮して、雷撃機を次々に海上に撃ち落していった。日本空母も巧みな操艦で、魚雷を回避する。雷撃機は全て撃退され、南雲機動部隊には安堵の空気が広がった。午前10時22分、混乱していた兵装転換作業も進んで、攻撃隊は、後30~60分ほどで、全機、発艦する見込みとなった。と、その時、見張員が、「敵艦爆急降下!」と絶叫を上げた。


見上げると、アメリカ軍急降下爆撃機が、いつの間にか直上に迫っていた。守護神たる零戦隊は低空にあって、対処不能であった。高角砲、機銃も水平を向いていて、咄嗟に撃てない。SBDドーントレス艦爆の編隊(エンタープライズ30機、ヨークタウン17機)が、逆落としに突っ込んでくる。そして、赤と白のまだら模様の入った、450キロ爆弾を次々に切り離していった。午前10時23分、まず、空母加賀に爆弾が命中して爆発炎上し、続いて、赤城、蒼龍にも爆弾が命中して、それぞれ爆発炎上した。命中弾は、燃料を満載した艦載機や、そこら中に散らばっていた爆弾、魚雷に誘爆して、手の付けられない火災が発生した。空母が最も脆弱になる瞬間を狙われたのだった。


ただ1隻、攻撃を免れた飛龍は、山口少将の指揮の下、果敢に反撃を試みた。そして、アメリカ空母ヨークタウンを大破せしめたが、これと相打ちの形で、飛龍も大破炎上する。その後、ヨークタウンは、日本潜水艦、伊168の雷撃を受けて、止めを刺された。しかし、日本空母は、4隻が致命傷を負った。空母蒼龍には、爆弾3発が連続して命中し、その内の1発は、250キロ爆弾を装着した九九艦爆18機の中心で炸裂して、巨大な火柱が噴き上がった。凄まじい爆風が吹き抜けて、艦上の乗員を吹き飛ばし、艦全体が振動した。


艦橋の窓ガラスは内側に膨らんで、拳大の穴が空いていた。柳本は健在であったが、火傷を負って顔を赤く腫らしていた。だが、艦長としての責務を果たすべく、旺盛に動き回って消火の指示を出していた。しかし、格納庫内の誘爆は止まらず、艦橋も猛火に包まれた。飛行甲板は三つに折れ、切れ目から次々に誘爆が発生して、人や物を吹き飛ばした。火から逃れんとして、梯子(はしご)や手すりを掴んでも、それらは焼けていて、乗員の両手に大火傷を負わせた。艦底部の機関科員300人は、上部で起こっている火災によって閉じ込められ、30人弱の脱出者を除いて全滅した。そして、機関も停止する。


蒼龍の破壊の度合いは尋常でなく、柳本は、爆弾命中から20分後には、「総員退去」の命を下した。大勢の乗員が先を争って救命艇に乗り込まんとして、救命艇ごと海上に落下してしまう。柳本は、艦橋右舷にある信号台に立って、乗員1人1人に向けて、「飛び込め、飛び込め!」と叱咤していた。この間、大勢の乗員が、「艦長も退艦を」と懇願したが、柳本は頑としてこれを受け付けなかった。柳本は平素から、「自分は陛下のお艦(ふね)をお預かり申し上げているのだ。どんな事があっても艦と運命を共にする。お前達は一度や二度の挫折に屈せず、七転八起、生命のあらんかぎり報国の誠を尽くせ」と説いており、それを身をもって実践する決意であった。


一時、蒼龍の火災は下火になったかに見えたが、後部ガソリン庫に引火して大爆発すると、再び猛火に包まれた。続いて、前部ガソリン庫にも引火して、大爆発が起こった。午後19時15分、夜の闇が覆う中、炎に包まれた蒼龍は、艦首を突き上げるような形で沈んでいった。5分後、弾薬庫に引火したのか、水中で大爆発して海水が噴き上がった。蒼龍の定員1,103人の内、718人が戦死し、助かったのは385人であった。この戦死率の高さが、蒼龍の被害の凄まじさを物語っている。しかし、柳本の早期退艦命令が無ければ、犠牲者はもっと増えていた事だろう。海軍大佐、柳本柳作48歳。翌年、戦死公表され、海軍少将に特進。


ミッドウェー海戦の総決算

日本海軍は、空母4隻と重巡1隻が沈没、重巡1隻が大破、駆逐艦1隻が中破、航空機285機を失った。戦死者は3,057人(搭乗員は110人)

アメリカ海軍は、空母1隻と駆逐艦1隻が沈没、航空機147機(艦載機109機、基地航空機38機)を失った。戦死者は307人(搭乗員は172人)


搭乗員の岡本飛曹は生き残り、木村という整備員を通して、柳本の最後を知った。蒼龍が炎上する中、木村は、猛火に追われて艦橋に逃げ込んだ。幹部は既に退艦していたが、柳本はまだそこにいて、2人きりとなった。木村は退艦を懇願したが、柳本は、「ぐずぐずするな、早く退艦せい!」と怒鳴りつけ、自らはバンド状の物で羅針盤に身体を括り始めた。その口元からは、「身を君国に捧げつつ、己が務(つとめ)をよく守り」との軍歌、「第六潜水艇の遭難」が洩れていた。木村が尚も、「艦長、退艦してください」と懇願すると、一際大きな声で、「馬鹿、急げ!早く行け!」と叱咤した。木村はその凄まじい気迫にたじろぎ、言葉通りに艦橋から飛び出した。その時、君が代の歌声が聞こえてきた。艦は沈み始めており、艦首側に走って海に飛び込んだ。語り終えると木村は、「俺は艦長が好きだった」とつぶやいて泣き崩れた。


昭和18年(1943年)6月、内地に帰還していた岡本は、柳本の一周忌に当たるこの月、東京にある柳本宅を訪ねた。そこで、アヤコ夫人と対面し、乗員達から聞き集めた、艦長の最後の姿を語った。夫人は眼を伏せて聞いていたが、語り尽くされると、「はじめての涙です」と言って、声を出して泣いた。しばらくして、夫人は柳本の仏前に案内し、供えてあったビール2本の内、1本を下げ、「主人と一緒に飲んでください」と言って、コップに注いでくれた。思い出話は尽きず、その日は柳本宅に泊めてもらい、翌朝、帰隊した。岡本高志は戦争を生き残り、戦後は海上自衛隊に入隊し、退職後は農業を営んだ。平成15年(2003年)、85歳で死去。


岡本の生前の談話、「艦長は、戦勢の行方を暗に感じながら、祖国のために若い命が失われていくことに責任を感じ、また人一倍部下に愛情をかけておられたから、その狭間に立ってどれほど深く悩まれたことだろうか。そして、武人として愛と信念に生きた心は、いつまでも私の脳裏にあって忘れることはできません」

空母「蒼龍」、そして、柳本と乗員達は、ミッドウェーの沖合い、北緯30度42・5分、西経178度37・5分の海底で、眠りについている。


主要参考文献、森史朗著、「ミッドウェー海戦(第一部・第二部)」、「零戦 7人のサムライ」


空母「蒼龍」艦長、柳本柳作 前

昭和17年(1942年)6月4日、この日、日本海軍は、ミッドウェー海戦に望んで、痛恨の大敗北を喫した。海上には、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母が炎上して漂っていた。中でも蒼龍の被害は深刻で、早々に、総員退去が命じられていた。炎と煙が渦巻く中、艦長は盛んに、「飛び込め!飛び込め!」と叱咤の声を上げていた。それを受けて、乗員達は次々に海に飛び込んでいく。乗員達は泳ぎながら、艦橋の方を仰ぎ見た。艦長は、大火傷を負っているようで、顔を赤く腫らしていた。だが、それを気にする素振りはなく、泳ぎ去っていく乗員達の姿をじっと見つめていた。それは、乗員達が生き延びてくれるようにと、祈っている様だった。乗員達は深い悲しみと感動を覚えながら、艦を去っていく。この部下思いの艦長の名を、柳本柳作といった。


明治27年(1894年)、柳本柳作は、長崎県平戸市に生まれた。13歳の時、父が事業に失敗して自殺し、貧しい生活を送った。母と兄が働いて家計を助け、柳本も毎日10キロ弱の距離を歩いて中学校に通い、夜遅くまで勉学に励んだ。大正2年(1913年)、19歳の時、海軍兵学校に入学して、軍人の道に進んだ。兵学校時代、抜群の体力を示して、皆から注目された。大正5年(1916年)、少尉候補生として練習艦常盤に乗り込んだ時、夜になっても寝床に姿を見せない日が続いたので、皆から、「柳本候補生は夜も寝ないらしい」と噂を立てられた。候補生仲間が不審に思って捜すと、睡眠を削って読書に勤しんでいる柳本の姿が目撃された。大正13年(1923年)、30歳の時、24歳のアヤ子と結婚した。その後、4男1女が生まれるが、長男と次男は早くに亡くなった。


昭和12年(1937年)、大佐に進級して水上機母艦、能登呂の艦長に任ぜられた。一艦の長となった柳本は、意気込みのあまり、乗員達に厳しい訓練を課し、規律違反者には容赦なく厳罰を下した。その結果、乗員達は艦長を恐れて遠ざかり、艦内の士気は著しく低下してしまう。柳本の謹厳実直過ぎる性格が、悪い方に作用したのだった。柳本と付き合いの深かった草鹿龍之介大佐は、それを見かねて、「謹厳実直もいい加減にせい。それじゃあ部下はついてこんぞ」と厳しく忠告した。柳本はそれを真面目に受け取って、反省したらしい。その後、能登呂の士官室で宴会が開かれた際、柳本はねじり鉢巻姿で酒を飲み、酒樽を叩いて安来節(やすぎぶし・どじょうすくいを含む滑稽な踊り)をやりだしたので、部下達はびっくり仰天した。それ以来、艦内のぎくしゃくした空気は消え、和気あいあいたる雰囲気に変わったと云う。柳本は、艦長として一皮剥けたようだった。


昭和14年(1939年)、柳本は、軍令部第二部の第三課長に任ぜられ、昭和16年度から開始される軍備充実計画(通称⑤計画)に熱心に取り組んだ。その主張するところは、50センチ砲搭載の改大和型戦艦、5万トン級空母、3万トン以上の超大型巡洋艦、潜水型空母、潜特型潜水艦の建造であった。海軍内では、航空機を主兵にすべきとの声が強まっていたが、柳本は砲術科出身であったので、砲戦重視の保守的な軍備充実案を提出したのだった。その一方、誰より早くレーダーの可能性に着目し、「電波をもって標的を検出する装置なくしては、戦争突入は不可能である」と主張して、昭和16年5月にレーダーの研究を開始させ、同年9月には一応、完成にまでもっていった。実戦での装備は、翌昭和17年5月となる。


昭和16年(1941年)10月6日、柳本は、空母「蒼龍」の艦長に任ぜられた。

航空母艦「蒼龍」の性能要目

基準排水量15,900トン 満載排水量19,500トン

全長227・5メートル  全幅21・3メートル

機関出力152,000hp

最大速力34・5ノット 航続距離 18ノットで7680海里

兵装 12・7センチ連装高角砲6基  25ミリ連装機銃14基

搭載機 常用57機 補用16機

乗員1,103人

1934年11月20日に起工し、1937年12月29日に竣工した中型正規空母である。



↑蒼龍 (ウィキより)



↑柳本柳作 (ウィキより)


柳本は、厳格で堅苦しい印象を醸し出しており、しかも、「海軍の乃木さん、融通のきかないコチコチの石頭、軍人精神の権化」と噂されていたので、蒼龍の乗員達は、戦々恐々で新艦長を迎えた。これに対して柳本は、「艦長は兵と共にありたい」という指針を掲げて、艦に乗り組んだ。艦内巡視は欠かさず行い、各科、各居住区、艦底の機関科まで隈なく歩いて、乗員の健康状態、衛生状態を徹底的に調べ上げた。そして、改善すべきところは即座に改善させ、科長や士官が慣例を盾に抵抗を示しても、一切受け付けず、乗員第一主義を貫いた。食事も、下士官兵に出される、麦飯が半分混じった一汁一菜の質素な兵食を3食、取り続けた。艦長には従兵が付いていて、白米の特別食が出されるにも関わらずである。こうした柳本の心がけは全乗員に伝わって、信頼が寄せられるようになった。


真珠湾を目指しての航海以降、柳本は、46時中、片時も艦橋を離れようとはしなかった。艦橋を出るのは、食事と便所、夕食後に艦長室で要務をこなす時だけであった。昼間は艦長用の高椅子に陣取り続け、夜は背後に置かれた安楽椅子に毛布をかぶって寝た。副長の小原中佐が体を心配して、艦長室で休むよう促しても、「いや、いつ敵の空襲を受けるとも限らんから」と首を横に振るのだった。異様とも思えるほどの、精勤振りであった。そんな柳本に、小原副長は最初は戸惑ったが、やがて、身を挺して艦と乗員を守りたいという、艦長の熱意の表れであると気付くと、心から感銘を受けた。


柳本は、艦長訓示ではいつも、「何か尋ねる事、心配事があったら、遠慮せず艦長室へ来い。ここにおる者は皆、艦長の子供である」と述べていた。真珠湾攻撃を目前に控えて、搭乗員の岡本高志二等飛曹は、思うところがあって艦長室のドアを叩いた。いつもは艦橋に詰めている柳本が、運良く部屋にいた。そして、「何か用か。こっちへ入れ」と手招きした。岡本が緊張しきって、「お尋ねしたい事があって参りました」としぼり出すと、柳本は頬をくずし、自分で椅子をもってきて、岡本の前に置いた。岡本は、「自分は搭乗員になって、いつも生死と隣り合わせに生きております。死についてどう考えてよいのか、考えがまとまりません。自分が精一杯戦って死を迎えた時、自分がはたして微笑んでいる事が出来るのか、そんな従容とした気持ちで死につく事が出来るのか、今だに悟りきれなくて悩んでおります」と言った。


柳本は、岡本の目をじっと見つめながら、率直に語った。

「私も中尉の頃から、武人としての生き方をあれこれ考えてきたが、今に至るも覚悟は出来ていない。今ここに拳銃があって死ぬという事になれば話は簡単だが、艦長として艦と運命を共にする事になれば、艦と自分の体が一体になって沈んでいく訳だからね。従容として死ぬ事が出来るかどうか。自分だけ艦から逃げ出そうとする心があり、それを脱却して、艦と一体になって沈んでいく事が自然でなければならぬと思う。その点では、君達搭乗員の方が幸せかもしれないね。(死ぬまでの)時間が短いから」と答えて、屈託なく笑った。


岡本は、「はあ、その点は艦長よりは幸せといえるでしょうが。でも、自分はそこまでの境地に達していないのが恥ずかしい限りです」と返した。岡本は、艦長がその言葉通りになんでも話してくれると、感激した。艦長が、下士官兵に腹蔵なく話をするのは、厳格な階級制度のある海軍では、異例の出来事である。柳本は、相手が士官であろうと、下士官兵であろうと差別はせず、誰でも対等に扱ってくれた。突然、柳本が、「ビールは好きか」と尋ねて、岡本が、「はい」と答えると、従兵にビールを4本持って来させた。それから気兼ねなく話しながら、岡本は1人で3本を飲み干した。「失礼しました」と言って退出する際、柳本は笑いながら、「また来い」と声をかけた。


3日後、前回の言葉通り、岡本は艦長室へと呼び出された。そして、出撃を前にしての、意気込みの程を聞かれた。岡本は、「皆と同じで緊張しています」と答えた後、思い切って、「艦長はこの戦争は勝てるとお思いですか?」と尋ねてみた。柳本はしばらく考えた後、「日米戦争については、いろいろな面から考えて私は日本に不利だと思う。だからこそ、天佑神助を祈ろう」と答えた。岡本は、この言葉の真意を掴めなかったが、戦後、数十年経ってから、この戦争は勝てないと心情を吐露してくれたのだと気付き、改めて感じ入るのだった。


柳本は、出撃を前にした搭乗員に対して、未来に希望が持てない話をするのは良くないと思いなおしたのか、「人事を尽くして天命を待つ、そんな心構えが必要だね」と元気付けた。この後、またビールが4本、運ばれてきた。岡本1人でほとんど飲みきったが、その間、柳本は、にこにこと笑いながらそれを見ていた。真珠湾攻撃が成功に終わり、岡本が、「艦長、無事帰りました。ありがとうございました」と報告すると、柳本はよしよしといった感じで2,3頷いた。だが、真珠湾攻撃では、蒼龍出撃隊52機の内、零戦3機、九九艦爆2機を失って、戦死者7人を出していた。その報告を受けている時、柳本は、「そうか」と言って、目をうるませていた。


真珠湾攻撃の帰路、空母、飛龍と蒼龍はウェーキ島攻撃を命じられ、攻撃隊を送り込んだ。この時、蒼龍の戦闘機小隊長は、攻撃隊直掩の任務を放りだして、高空に上がり、敵戦闘機の姿を捜し求めた。その頃、攻撃隊は、アメリカ戦闘機の攻撃を受けており、2機が撃墜されてしまう。結局、戦闘機小隊は、護衛の任務を果たせず、会敵も出来ずに帰還した。この報告を聞いた柳本は激怒して、小隊長の頬を音が鳴るほど、拳で殴りつけた。小隊長が功を焦って、任務を果たさなかったと見なしたのだろう。側で見ていた岡本飛曹も震え上がるほど、柳本は怒っていた。柳本は無骨、不器用な人柄であったが、一旦、心を許せば、どこまでも誠実で人情味があった。だが、内には烈々たる闘志を秘めており、いい加減、妥協というものは許さなかった。


昭和17年(1942年)5月初旬、横須賀にある海軍料亭「小松」で、次期作戦の準備を名目に、慰労会が行われた。蒼龍の幹部士官100人余が、二階の大広間に並んだ。まず、柳本が一通りの挨拶文を述べ、「以上終わり、これからは無礼講でやってくれ」と呼びかけた。すると一気に座は活気付き、女将の合図で芸者達も入って来て、場を盛り上げた。柳本は下戸であったが、能登呂の一件以来、無理をして、杯を受けるようにしており、士官達の差し出す杯を次々に飲み干していった。すっかりできあがった柳本は、無骨な軍歌を歌いながら、剣舞とも柔道ともいえない奇妙奇天烈な踊りを披露して、場の大喝采を浴びた。宴会は、盛大に夜更けまで続いた。

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重家 
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