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ドイツ本土航空戦 3

●ドイツ空軍の反撃


ドイツ戦闘機隊は壊滅的打撃を被ったものの、それでも戦争が続く限り、戦闘機と搭乗員を空に送り続けねばならなかった。ドイツ軍は、1944年4月頃から、爆撃機攻撃を専門とする、突撃飛行隊を編成する。それは、Fw190戦闘機を基本として、コックピットまわりを防弾ガラス、防弾鋼板で覆って防御を固め、13mm機関銃2丁、20mm機関砲2門、30mm機関砲2門に武装強化した重戦闘機であった。アメリカ軍爆撃機B17の撃墜に必要な命中弾数は、20mm機関砲では平均25発、30mm機関砲では平均3発と見られていたので、火力は申し分なかった。しかし、その反面、重量は250kg増加して、戦闘機本来の運動性は損なわれていた。



敵戦闘機との空戦は甚だ困難であったので、突撃戦闘機隊1個に付き、通常仕様の戦闘機隊2個が護衛に付いた。その構成は、上空援護の通常仕様機、近接護衛の通常仕様機、そして、爆撃機攻撃を専門とする突撃飛行隊であった。戦闘の一例を挙げてみる。1944年7月7日、連合軍が1,119機の爆撃機でライプチヒ市を爆撃をした際、突撃飛行隊を含む戦闘機、120機が迎撃に舞い上がった。まず通常仕様の戦闘機隊が前路を切り開くと、突撃戦闘機隊は急降下しつつ、爆撃編隊を一連射した。この攻撃で爆撃機23機を撃墜したが、自らも30機以上の機体を失った。犠牲は大きかったが、大型爆撃機に対する唯一、有効な攻撃法として、この後も突撃飛行隊による迎撃は続いた。



ドイツ空軍は、突撃飛行隊に続き、新鋭機を投入して戦局の挽回を図った。1944年8月、主力戦闘機Fw190を改良強化した、Fw190D型を西部戦線に配備する。Fw190D型の最高速度は時速680kmに達しており、アメリカ軍が誇るP51とも、互角に渡り合える性能を有していた。しかし、工場爆撃の影響を受けて生産数は伸び悩み、終戦までに800機強しか量産出来なかった。1944年9月には、最高速度870kmを発揮する、ジェット戦闘機Me262が戦場に姿を現す。Me262の性能は革新的であったが、まだまだ未成熟で、エンジンの故障率が高い上に、その寿命はせいぜい30時間程度でしかなかった。当時、Me262の機体損失の3分の1が事故によるものだったが、その原因の大半をエンジンが占めていた。



燃料消費量も激しい事から、攻撃に使える時間は5分程度で、2回攻撃を加えるのがやっとであった。それでも、連合軍戦闘機を振り切って、爆撃機に致命傷を与えうる能力は画期的で、プロペラ戦闘機最高峰を誇るP51といえども、ジェット戦闘機Me262の速度には到底、追いつけなかった。それに、Me262が装備する、30mm機関砲4門の威力は絶大で、一連射で大型爆撃機を粉砕する事が出来た。後には、強力なR4M空対空ロケット弾も主翼下に24発、装備される。このロケット弾の射程は800mで、爆撃機の防護機銃の射程外から撃つ事が可能であった。弾頭には400gの炸薬が充填されており、1発で重爆撃機を撃墜する威力を秘めていた。



1945年3月18日、アメリカ軍爆撃機1,221機と護衛戦闘機632機が、ベルリン爆撃を敢行した際、Me262戦闘機36機が迎撃に当たった。Me262は高速を生かして護衛戦闘機の群れを突破すると、爆撃機編隊に向けて、R4M空対空ロケット弾を撃ち放ち、続いて30mm機関砲の連射を浴びせかけた。一瞬の嵐の様な攻撃で、B17爆撃機11機が撃墜され、更にP51戦闘機も1機撃墜された。Me262の損害は、3機であった。両軍の圧倒的な戦力差を鑑みれば、Me262はよく健闘したと言える。しかし、アメリカ軍側からすれば、損失は出撃機数の1%にも満たず、任務遂行になんらの支障も無かった。もし、Me262の出撃数が一桁多かったなら、さしものアメリカ軍も青ざめる損失が出ていたであろう。



アメリカ軍にとって幸いであったのは、ヒトラーがこの革新的な戦闘機を、爆撃機として用いようとして、戦闘機型の生産に歯止めをかけた事である。それと、連合軍の工場爆撃もあって、Me262の生産数は伸び悩み、30機程度のゲリラ的な出撃が続いた。いかに強力な戦闘機であっても、この程度の機数では決定打は与えられない。一方のアメリカ第8航空軍は、戦力を増すばかりであった。



1944年8月時点での戦闘機の配備定数

P51単発戦闘機720機

P47単発戦闘機288機

P38双発戦闘機72機

P61双発夜間戦闘機32機

戦闘機合計1,112機で、終戦までこの戦力を維持した。


1944年10月時点での爆撃機の配備定数

B17四発爆撃機936機

B24四発爆撃機468機

爆撃機合計1,404機



同時期、イギリス軍爆撃機も2,053機の戦力で、ドイツの都市を夜間爆撃していた。その爆撃の規模は、アメリカ第8航空軍にも負けず劣らずであった。この様に当時のドイツは、昼はアメリカ空軍の爆撃を受け、夜にはイギリス空軍の爆撃を受けていた。しかも、破壊効果を上げるべく、爆撃は何度も繰り返された。こうしたアメリカ、イギリス軍機による連携攻撃で、ドイツの都市と工場は次々に焼失していった。そして、兵器や燃料の生産にも事欠き、軍民の移動すらままならなくなった。戦略爆撃によって、戦争終結の時間が短縮されたのは間違いないところである。また、ドイツ空軍を撃滅し、制空権を獲得した事も大きい。近、現代戦では、空を制した者が戦争をも制する。如何に強力な陸軍と海軍を擁していようとも、空の援護が無ければ、決して主導権は握れない。それが戦争末期のドイツと日本の姿であった。



本土の制空権を失ったドイツは、それを取り戻そうと方々から戦闘機を掻き集めたが、それすら失われていった。その結果、各方面の戦線も崩壊の速度を速めたのだった。アメリカ、イギリス爆撃機が、ドイツ本土に投下した爆弾の総量は、約164万3千t(日本本土爆撃は、15万5千トン)で、爆撃によるドイツの民間人犠牲者数は60万人(その内7万5千人が子供とされる)であった。軍用機と搭乗員の損失は数万に達していたと見られるが、詳細は不明である



だが、その戦果の一方、アメリカ、イギリス軍機の損害も記録的なものとなる。第8航空軍所属のB17爆撃機は、撃墜による未帰還機3,154機を出し、修理不能の損傷を受けて廃棄処分されたのが1,534機で、合計4,688機が失われた。次にB24爆撃機は、1,071機が未帰還となり、廃棄処分となったのが2,555機で、合計3,626機が失われた。搭乗員の戦死者は、2万6千人であった。イギリス爆撃機軍団では、各種爆撃機6,440機が未帰還となり、更に相当数の機体が廃棄処分となった。搭乗員は、12万5千人の内、5万5,573人が戦死した。尚、これらの数字は、史料によって差異がある。



第二次大戦における戦略爆撃では、現代にも通じる様々な戦訓が導き出された。いかに強力な爆撃機であっても、敵制空権下での活動は自殺行為である。制空権を得るには、強力かつ大量の戦闘機を必要とする。制空権を得て、初めて戦略爆撃は成立する。そして、戦略爆撃が本格化したなら、最早、戦争の帰趨は明らかである。





↑P51D

全長:9.83m

全幅:11.28m

全備重量:5,490kg

出力:1,490hp

最大速度:703km/h

航続距離:3,700km

武装 :12,7mm機銃×6

爆弾搭載量: 900kg

乗員:1名

総生産機数:1万5千機以上

速度、運動性、航続距離、武装のバランスが取れた傑作機で、第二次大戦最高の戦闘機との評価を受けた。特にアメリカ空軍による、ドイツ本土爆撃を成功に導いた功績は大きい。





↑Me262A-1a

全長:10.58m

全幅:12.50m

全備重量:6,400kg

推力:893kg×2

最大速度:870km/h

航続距離:1,050km

武装 :30mm機関砲×4 R4Mロケット×24

爆弾搭載量: 1,000kg(実戦では500kg)

乗員:1名

総生産数:1,433機

レシプロ機を過去のものとする、画期的なジェット戦闘機として登場した。連合軍の圧倒的な制空権下でも、その卓越した速力をもって、爆撃編隊に一撃を加える事が可能であった。連合軍機500~600機を撃墜したとされる。しかし、多くの欠陥を有しており、数も少なすぎて、戦局に寄与する事は無かった。




↑ドイツ空軍ガンカメラ映像




↑B17爆撃機からの視点




↑P51戦闘機の解説動画



●主要参考文献 

ポール・ケネディ著「第二次世界大戦 影の主役―勝利を実現した革新者たち」

大内健二著「ドイツ本土戦略爆撃」

学研「歴史群像」シリーズ

アントニー・ビーヴァー著「第二次大戦1939ー1945 中」「第二次大戦1939-1945 下」

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ドイツ本土航空戦 2

●第二次シュバインフルト爆撃


1943年10月14日早朝、イギリス東部の基地から、アメリカのB17爆撃機291機と搭乗員3、000人が次々に飛び立っていった。機内通信機からは、搭乗員達の祈りの声が響く。爆撃目標は前回と同じく、シュバインフルト及び、レーゲンスブルクである。乗員達が頼れるのは、自らの防護機銃と、僚機の援護であった。第8航空軍では爆撃隊の損害を少しでも減らすべく、戦闘隊形に工夫を凝らしていた。それが、コンバットボックス(箱型編隊)である。



↑コンバットボックス


上下左右に広がる立体的な密集編隊を組んで、防護機銃の死角を無くすと共に、突入してくる敵機に対して、多数の爆撃機による集中射撃が出来るようにしていた。コンバットボックスは15~18機で1編隊が構成され、更にこれを3つに集合させたのがコンバットウイングで、45機~54機で構成された。コンバットボックスの防御火力は確かに強力で、ドイツ戦闘機といえども迂闊に近寄る事は出来なかった。しかし、損傷を受けたり、攻撃を避けようとして、編隊から落伍した機体があれば、たちまちドイツ戦闘機によってなぶり殺しとなった。



爆撃隊が、ドイツの都市アーヘン(ベルギー、オランダと国境を接する)に差し掛かると、護衛のP47戦闘機は、航続距離の限界に達して、翼を振りつつ帰投していった。ここからは爆撃機の単独行になる。すると、その時を待っていたドイツ戦闘機隊が、すかさず波状攻撃を開始仕掛けてきた。まず、Fw190とBf109の単発戦闘機の第1陣が、編隊の正面から機関砲を撃ちかけながら襲来する。単発戦闘機のすぐ後ろには、第2陣のBf110などの双発戦闘機が控えており、主翼下の空対空ロケット弾を編隊に向けて発射した。このロケット弾は強力だが、無誘導で命中率は低かった。だが、時限信管が取り付けられており、上手く編隊の中で爆発させる事が出来れば、損傷を与えて、編隊を崩す効果があった。また、Ju87急降下爆撃機も、上空から時限爆弾を投下して、編隊を攻撃した。第2陣はロケット弾を撃ち放つと、続いて機関砲で爆撃機を攻撃した。



第2陣が攻撃中、先陣の単発戦闘機は着陸して、燃料弾薬を補給し、再び迎撃に舞い上がってゆく。そして、隊伍を整えた双発戦闘機も合わせて攻撃を開始する。ドイツ戦闘機隊は、爆撃機の1編隊に狙いを定めると、ロケット弾で編隊を崩し、損傷したり、落伍した爆撃機に銃撃を加えて、止めを刺していった。ドイツ軍は300機を超える各種迎撃機を差し向け、また、あらゆる戦法を用いて爆撃機の撃墜を図った。アメリカ爆撃隊の損害は記録的なものとなり、291機の出撃機の内、65機が撃墜された。その損失率は25%に達しており、搭乗員も1,000人以上が失われた。ドイツ軍は合計312機で迎撃し、その内、35機を失った。今回の犠牲をもって得た戦果は、ボールベアリングの一時的な減産であった。



当初、アメリカ空軍首脳は、自軍の爆撃機の性能を過信して、迎撃にやってくるドイツ戦闘機を逆に屠る事も出来ると見なしていた。実際、B17、B24の防御火力は強力で、優れた貫通力を誇る12・7mm機銃を10挺丁以上装備して、それらを機体の上下左右に配置して、死角を無くすようにしていた。機体構造も頑丈で少々の被弾はものともせず、アキレス腱となる燃料タンクも自動防漏式(被弾しても、ゴムの膨張によって燃料漏出を抑える)となっていた。特にB17の機体の頑丈さには定評があって、「空の要塞」の名に相応しい性能を誇っていた。アメリカ空軍首脳は、これら強力な爆撃機をもってすれば、味方戦闘機の護衛無しでも、ドイツ戦闘機を撃退し、戦略目標を爆撃可能だと見なしていた。しかし、実情は遥かに過酷であった。



アメリカ空軍の公式記録 、「1943年10月中旬、昼間爆撃作戦は危機に瀕していた。代償は危険なまでに高くなる一方で、戦果には疑問が付きまとっていた。従って、この作戦の前提となっていた事柄は再考すべきだった。第8航空軍はこの時期、ドイツ上空の制空権を失っていたのが事実だった。そして、確実な長距離援護を受けられなければ、制空権を取り戻す事は出来ない。明確に、戦闘機の航続距離を延ばす必要がある」



アメリカ空軍首脳にとって、一連の爆撃作戦の損失率は、許容できる範囲を超えていた。そして、ドイツ深部への爆撃攻勢は一時、控えられ、味方戦闘機の護衛の範囲内、ドイツ北部やフランス占領地などの短距離目標に切り替えられた。アメリカ航空軍司令官アーノルドも、「爆撃機と共に出撃して、共に帰投できる戦闘機を製造する事が、絶対的に必要である」と確信するに到り、爆撃機搭乗員も、全行程を援護してくれる戦闘機の登場を心底、願っていた。



これらの期待に応えられる唯一無二の存在が、新鋭の長距離戦闘機P51マスタングであった。P51は空力特性に優れた機体で、運動性に優れるばかりか、燃費も素晴らしく、戦闘機としては異例の大航続距離を誇った。機体タンクに693ℓ、機体後部タンクに1,018ℓ、更に409ℓの増槽を2つ装備すれば、戦闘半径は1,200kmを超えた。イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmであったので、優にドイツ深部まで進撃可能であった。また、増槽を大量生産する事によって、P47など、既存の戦闘機も航続距離を伸ばす処置が取られた。



1943末、待望のP51戦闘機隊がヨーロッパ戦線に到着し、同年12月13日のキール爆撃から護衛に付くようになった。当初は機数不足から目立った働きは無かったが、週ごとに数百機単位でアメリカから機材が送られてくると、急速に戦力を増していった。P51だけでなく、B17爆撃機の機体数増加にも、目を見張るものがあった。アメリカの工業力が、底力を発揮し出していた。だが、一方のドイツ軍も戦力増強に余念がなく、1944年1月、ドイツ防空戦闘機隊は、機材の量産と戦力の集中によって、これまでにない最大の規模に達していた。



ドイツ本土、オランダ、ベルギー、フランスなど西部戦線全体で、単発戦闘機870機、双発戦闘機780機、合計1,650機を配備したのである。搭乗員も選りすぐりの精鋭が揃っていた。それだけでなく、レーダー、高射砲、探照灯の増強も進められ、1944年には高射砲11,950門、探照灯7,520基が配備された。これらのレーダー、高射砲、探照灯、戦闘機隊を組み合わせた防空線(カムフーバーライン)をデンマークからフランスにまで巡らせて、連合軍機を待ち受けた。こうして、ヨーロッパ上空にて、史上最大規模の航空決戦が始まろうとしていた。



1944年初頭、満を持して、アメリカ第8航空軍によるドイツ本土爆撃が再開された。爆撃機の出撃機数は平均600~700機に達しており、これを、ほぼ同数の戦闘機が往復護衛した。ドイツ戦闘機隊はこれまで、護衛戦闘機が帰投するところを見計らって爆撃機を攻撃し、大きな戦果を挙げていた。しかし、アメリカ軍の新型長距離戦闘機の登場によって、この戦法は通用しなくなる。しかも、P51戦闘機隊は、敵戦闘機を積極的に攻撃するよう命じられており、敵機を見つければ近接支援を外れ、必要に応じて低空まで追撃を行った。これを受けて、ドイツ戦闘機隊が爆撃機を攻撃するには、まずP51戦闘機隊の護衛網を突破せねばならなくなり、これまでに無い苦しい戦いを強いられる事となった。



1944年3月6日、戦力を増した第8航空軍は、ついにドイツの首都、ベルリンに対する、大規模爆撃を敢行する。B17及びB24爆撃機の編隊672機と護衛戦闘機800機余の一大戦力が、ベルリン市と周辺の工業施設に爆弾の雨を降らせた。しかし、この日はさすがにドイツ空軍の迎撃も激しく、地上からの対空砲火も凄まじいものがあった。第8航空軍は大損害を被って、672機の爆撃機の内、69機が撃墜され、護衛戦闘機も11機が失われた。一方、ドイツ空軍も無傷では済まず、戦闘機106機を失った。その2日後にもベルリン爆撃は決行され、539機の爆撃機を891機もの戦闘機で護衛したため、ドイツ戦闘機隊が大きな損害を出した。その後も第8航空軍による、ドイツ本土爆撃は引き続いた。



1944年春、ドイツ上空にて、P51戦闘機隊とドイツ戦闘機隊による、血みどろの航空戦が繰り広げられた。この過程で両軍とも、多数の機材と搭乗員を失う。だが、アメリカ戦闘機隊は機材、搭乗員を滞る事なく補充して、戦力を維持したのに対し、ドイツ戦闘機隊は損失に補充が追いつかず、その戦力は減少する一方だった。ドイツ空軍はこの危機を凌ぐため、東部戦線や地中海戦線から次々に戦闘機隊を引き抜いて、本土防空に当てたが、それすら次々に失われていった。また、この措置の代償として、東部戦線及び地中海戦線では、連合軍が圧倒的な航空優勢に立って、ドイツ空軍は偵察飛行さえ、ままならなくなった。



1944年4月、東部戦線のドイツ空軍は、戦闘機、爆撃機など、各種航空機を合わせて500機のみであったが、対するソ連空軍は13,000機に達しており、制空権を完全に掌握していた。しかも、ドイツ空軍に所属する、対空砲1万門とその要員50万人もドイツ本国に回送された。対空砲は対戦車砲としても有効であったので、東部戦線のドイツ軍は、空陸共に戦力を大きく減少させる結果となった。これを受けて、1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ軍に壊滅的打撃を与えるのである。この様にドイツ本土航空戦は、多方面の戦線にも重大な影響を与えていた。



1944年1月から5月にかけて、ドイツ防空戦闘機隊は、月平均450人の搭乗員を失っていった。5月24日には、稼動可能な戦闘機数は240機に過ぎず、5月下旬までに2,262人の搭乗員が戦死していた。中でも、経験を積んだ熟練搭乗員を多数失ったのは致命的であった。


エゴン・マイヤー  102機撃墜 3月2日戦死

アントン・ハックル  192機撃墜 3月3日戦死

ゲルハルト・ロース 92機撃墜 3月6日戦死

エミール・ビッチェ  108機撃墜 3月15日戦死

ヴォルフ・ディートリヒ・ヴィルケ 162機撃墜 3月23日戦死

ヨーゼフ・ツヴェルネマン 126機撃墜 4月8日戦死

オットー・ヴェスリンク 83機撃墜 4月19日戦死

クルト・ウッベン 110機撃墜 4月27日戦死

レオポルト・メンステル 95機撃墜 5月8日戦死

ヴァルター・エーサウ 123機撃墜 5月11日戦死

フリードリヒ・カール・ミューラー 140機撃墜 5月29日戦死


1944年2月から5月にかけての空の消耗戦は、戦史においては目立たないが、戦争の行方を左右する重大な出来事であった。ドイツ空軍は打倒され、ドイツ上空ですら、連合軍の支配するところとなった。この圧倒的な制空権確保を受けて、1944年6月6日、アメリカ、イギリス連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させるのである。この時、連合軍総司令官アイゼンハワーは、兵士達にこう訓示している。「空に飛行機が見えたら、それは味方の飛行機だ」と。だが、ドイツ空軍は余力を振り絞って、反撃に出る。ためにノルマンディー戦線においても、果てしない空の消耗戦が続けられた。劣勢ながらドイツ空軍は善戦して、ほぼ同等の損害を与えていたが、連合軍の制空権を覆すまでには到らなかった。



このノルマンディー上陸作戦の前後、連合軍爆撃機は主にフランスで、地上軍の支援に回されたので、その間はドイツ本土爆撃が低調になった。だが、フランスにおける連合軍優位が確立されると、連合軍爆撃機は、圧倒的な戦力でドイツ本土爆撃を再開する。爆撃機の1回の出撃機数は、1,000機単位となっていて、これに、ほぼ同数の護衛戦闘機が付いた。 ドイツ本土とフランスにおける航空消耗戦で、疲弊仕切っていたドイツ空軍にこの爆撃を阻止する術は無かった。



1944年6月以降、連合軍爆撃機はとりわけ、石油精製工場、鉄道操車場、送電網に効果的な爆撃を加えた。ドイツの心臓たる重工業は、石炭を養分として動いていた。その養分を届ける血管の役割をしていたのが、ドイツの鉄道網である。連合軍はこれに目を付けて、鉄道網を中心とする、ドイツの輸送網全体の破壊を試みた。そして、連合軍爆撃機は、操車場、機関車庫、駅、橋梁、運河などに、大量の爆弾の雨を降らせた。その結果は如実に現れ、ドイツの石炭生産量は1944年9月以降、急速に低下する。そして、1945年2月には、ドイツの主要石炭生産地である、ルール地方からの石炭輸送量は10分の1に低下していた。ドイツ工業は養分の石炭を断たれて、次々に停止していった。輸送網が破壊された結果、兵士、武器弾薬、食糧の輸送にも困難を来たし、ドイツ国内ですら孤立地帯が生じつつあった。



ドイツの航空燃料生産は1944年3月には18万1千tあったが、5月下旬からの爆撃以降、生産量は激減する。6月は5万6千t、9月は1万7千t、1945年2月に到っては僅か1千tとなった。ドイツの航空機生産量は、1944年に最高潮に達し、3万9,800機もの機体を生み出したが、大戦末期になると、機体はあっても燃料が無いという状況になった。そして、燃料不足は搭乗員育成にも深刻な影響をもたらした。ドイツの新米搭乗員は、連合軍より遥かに短い訓練期間を経て、離着陸がやっという状態で戦闘機に乗り組み、圧倒的な数の連合軍戦闘機に挑まねばならなかった。1944年6月から10月までに、ドイツの搭乗員は1万3千人が戦死したとされる。これらのほとんどは未熟な搭乗員であって、子供殺しとまで呼ばれた。アメリカ軍搭乗員は、地表近くまで追い詰めたドイツ戦闘機が、鉄塔、木、建物を避けられずに激突するのを多数、目撃したと証言している。 

ドイツ本土航空戦 1

 ●爆撃目標シュバインフルト


時は1943年10月、第二次大戦最中。イギリスの空軍基地にて、アメリカの搭乗員達が緊張の面持ちで、出撃前のブリーフィングに集まっていた。彼らは、アメリカ第8航空軍に所属する搭乗員達で、ドイツ本土及び、ドイツの占領地(フランス、オランダ等)を爆撃する任務を負っていた。そして、指揮官の口から、「爆撃目標シュバインフルト」と告げられた時、搭乗員達は一様に顔面蒼白となり、自らの運命の終わりを悟った。シュバインフルト、それはドイツ本土南部にある、人口4万人の小さな工業都市である。ドイツの首都ベルリンと比べれば、人口は100分の1に過ぎない。だが、ここでは重要な戦略物資が作られていた。それが、ボールベアリング(玉軸受)である。


ボールベアリングとは真円の球体で、ありとあらゆる機械の稼動部分を担う。人間に例えれば関節、あるいは軟骨に当たる。この球体が無ければ、機械は動かないのである。シュバインフルトは、ボールベアリングの一大生産地であった。従って、この都市を破壊すれば、ドイツの産業自体を麻痺状態に追い込む事も可能と見られた。この小さな工業都市を爆撃する意味は、大いにあったのだ。だが、ドイツもまた、シュバインフルトの重要性をよく理解しており、周辺に強力な戦闘機隊を配置して待ち受けていた。それに加えて、多数の対空砲や煙幕発生装置まで配備していた。


それに、イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmの距離があって、この往路を護衛可能な連合軍戦闘機は、1943年10月時点において配備されていなかった。従って、爆撃隊は自らの防護機銃のみで敵戦闘機を撃ち払い、目標まで到達せねばならない。実に、前途多難な爆撃行であった。実際、2カ月前に行われたシュバインフルト爆撃において、爆撃隊は深刻な損害を被っていた。1943年8月17日、この日、376機のアメリカ軍爆撃機によって、第1次シュバインフルト爆撃が決行された。


空軍首脳は出撃するに当たって、爆撃隊の損害を少しでも抑えるべく、陽動作戦を行おうとした。まず、先行する別働隊が、シュバインフルトの東南180kmに位置するレーゲンスブルグを爆撃する。こうして、別働隊がドイツ戦闘機隊の注意を惹き付けている隙に、すかさず本隊がシュバインフルトを爆撃するのだ。レーゲンスブルグにはドイツの戦闘機生産工場があって、ここも重点爆撃目標と見なされていた。しかし、これは陽動であって、主目標はあくまでシュバインフルトである。8月17日午前8時、レーゲンスブルグを目標とする別働隊、B17爆撃機146機が次々に飛び立っていった。


続いて、シュバインフルトを目標とする本隊、B17及びB24爆撃機230機が飛び立たんとした時、異変が起こった。それは、かの有名なイギリスの霧である。観光客にとっては見物の1つであったが、航空機にとっては忌々しい白い悪魔であった。出撃予定の午前9時になっても霧は晴れず、午前11時になってようやく出撃可能となった。先行する別働隊とは、3時間の遅れが生じていた。これでは当初の陽動作戦の意味は薄れ、両爆撃隊がそれぞれ目標を強襲する形となる。司令部は判断に迷ったが、作戦続行を決めた。レーゲンスブルグ爆撃隊146機は、ドイツ国境までは味方戦闘機の護衛を受けていたが、ここまでが航続距離の限界で、彼らは翼を振りつつ反転していった。


すると、それを待っていたかのように、ドイツの戦闘機隊が襲い掛かって来る。ドイツ戦闘機隊400機余が代わる代わる攻撃を加えてきて、爆撃機15機が撃ち落され、10数機がエンジンや機体に損傷を受けた。損傷機は煙を吹きつつ、尚も飛行を続行し、爆撃隊はレーゲンスブルグ上空に達して、303トンの爆弾を投下した。爆撃隊はそこから南下してアフリカのアルジェリアを目指したが、エンジンに被弾した機体は地中海を越えられず、海上に落ちていった。それから3時間後、シュバインフルト爆撃隊230機もドイツ本土に侵入した。しかし、この間に、ドイツ戦闘機隊は給油と給弾を済ませ、伝えられる第2派の攻撃に備えていた。シュバインフルト爆撃隊は、その網の中に飛び込んだのだった。


ドイツ戦闘機隊は、爆撃編隊の隙間から切り込んでは、一撃離脱を繰り返した。ドイツ戦闘機隊300機余の迎撃と、地上からの高射砲の砲火を受けて、爆撃機は次々に撃ち落されていった。搭乗員達が落下傘を開いて次々に脱出していく。しかし、きりもみ状態になった機体からは脱出不可能で、そのまま地上に激突して爆炎を上げた。レーゲンスブルグ、シュバインフルト爆撃隊は合わせて376機が出撃したが、その内、60機が撃墜された。故障などで途中帰還した15機を除くと、その損失率は17%に達していた。


アメリカ空軍では1回の任務に付き、4%以上の損失が出るのは許容し難いとしていたので、上層部はこの結果に衝撃を受けた。基地に帰投した316機も、100機余が重大な損傷を受けて廃棄処分となり、撃墜機と合わせると、都合160機もの爆撃機が失われた。熟練搭乗員も一挙に600人が失われ、搭乗員の間には言い知れぬ恐怖感が広がって、士気は急速に低下した。この犠牲の成果で得たものは、シュバインフルトのボールベアリング生産量、34%の低下であった。しかし、それも半年後には旧に復したとされる。一方、ドイツ側も、この迎撃戦において47機の戦闘機を失っていた。


アメリカの主力爆撃機、B17及びB24は、エンジン4発の大型機で、それぞれ10人の搭乗員が乗り組んでいる。それに対して、ドイツの主力戦闘機、Bf109及びFw190は、エンジン単発で1人乗りであった。血の取引は、アメリカの方が明らかに分が悪かった。それに、ドイツ上空でアメリカ軍機が撃墜された場合、運良く搭乗員が脱出出来たとしても、成すすべ無く捕虜となって、戦線復帰は不可能となる。一方、ドイツ軍機は撃墜されたとしても、搭乗員が無事、脱出に成功すれば、すぐに戦線復帰が可能であった。


大損害を受けたアメリカ第8航空軍は、本国から新たな補充を受けつつ、戦力の再建を図った。そして、まだ傷も癒えないまま、1943年9月6日、ドイツ本土のシュツットガルトを目指して、262機の爆撃機が飛び立った。目標はシュツットガルト周辺に点在する、航空機工場であった。しかし、今回の爆撃行も苦難に満ちたものとなり、45機の爆撃機が撃墜され、損失率は前回と同様、17・2%に達していた。搭乗員達は目標、レーゲンスブルグ、シュヴァインフルト、シュツットガルトと告げられた際には、死刑宣告と同様に受け取った。搭乗員にとって何よりの衝撃は、すぐ前や横にいる僚機がみるみる炎に包まれて、分解しながら落ちていく光景だった。


夕方を迎えると、搭乗員の多くは、昂ぶった神経を抑えるためウイスキーに手を伸ばした。酒の手を借りて眠りについても、機銃掃射を受けて機体を穴だらけにされ、戦友が重傷を負ってもがき苦しみ、エンジンが火を噴くといった悪夢にうなされた。多くの者が戦闘神経症に罹り、突然の震えや金縛りに遭い、中には一時的に失明する者もいた。どれも、極端に危険な状態に置かれ続けた事による、ストレス反応であった。爆撃機の損失は、ドイツ軍によるものだけでは無い。霧が濃い時は、空中衝突が頻発したし、帰還途中で衝突事故に到る例も多かった。また、爆撃中、上空の味方が落とした爆弾に当たって、爆散する機体もあった。


飛行任務中の苦労も絶えない。高空の凍えるような寒風は、胴体両側面の銃座を固める銃手にとって、大変きつかった。外気に直接、接しているので、全身がかじかんでくるのだ。電熱式の長靴、手袋、つなぎ服で固める者もいたが、動作が不安定で、任務中、それらがずっと機能し続けるのは稀だった。銃塔に篭もる乗員は、敵地の上空にいる数時間、狭い空間から出られないため、尿意を催した場合、ズボンの中に垂れ流す他、無かった。飛行中、重傷を負った者は、基地にたどり着く前に低体温症で命を落とす公算が高かった。25回の爆撃任務を終えると、本国に帰還して、休暇を得られる約束が成されていたが、そんなものは遠い夢物語に思えた。


搭乗員達は、心身共に衰弱していた。しかし、そんな彼らを奈落に突き落とすかの様に、再びシュバインフルト爆撃が告げられた。冒頭、第2次シュバインフルト爆撃の開始である。




↑B17G

全長:22.66m

全幅:31.62m

全備重量:29,700kg

出力:1,200hp×4

最大速度:462km/h

航続距離:5,800km

武装 :12.7mm機銃×13  

爆弾搭載量:近距離任務時、3,600kg

乗員:10名

総生産機数:12,731機


原型機となる、モデル299の初飛行は1935年であったが、発展余裕があった事から、その後の大改良と重量増加をよく受け付けた。大抵の航空機は何らかの欠点や癖があるが、飛行性能は安定しており、構造も頑丈であったので、並の軍用機なら墜落するような損害にもよく耐えた。アメリカ空軍による、対ドイツ爆撃の主力を担った。






↑B24J

全長:20.60m

全幅:33.50m

全備重量:29,500kg

出力:1,200hp×4

最大速度:488km/h

航続距離:5,900km

武装 :12.7mm機銃×10

爆弾搭載量:近距離任務時、3,600kg

乗員:10名

総生産機数:18,431機


B17と並ぶアメリカ空軍の主力爆撃機であった。飛行性能自体は、B17を上回っていたが、被弾に脆い事から、乗員はB17の方を好んだ。航続距離に優れる事から、太平洋戦線や地中海戦線では活躍した。また、哨戒機型は大西洋戦線で活躍し、Uボートの封じ込めに大いに貢献している。





↑Bf109G

全長:8.95m

全幅:9.92m

全備重量:3,400kg

出力:1,475hp

最大速度:640km/h

航続距離:650km

武装 :20mm機関砲×1 、13mm機銃×2

爆弾搭載量: 250kg

乗員:1名

総生産機数:33,000機


1939年開戦時からのドイツ空軍の主力戦闘機で、登場時は世界の最先端を行く機体であった。戦争後半には英米の新型機に見劣りするようになったが、それでも改良を重ねて一線級の性能を維持した。軽量で運動性に優れていたが、航続距離と武装が不足気味であった。



↑Fw190A8

全長:9.00m

全幅:10.50m

全備重量:4,900kg

出力:1,700hp

最大速度:656km/h

航続距離:800km

武装 :20mm機関砲×2、13mm機銃×2

爆弾搭載量:500kg

乗員:1名

総生産機数:2万機以上

Bf109と並ぶドイツの主力戦闘機で、高高度性能以外ではBf109を上回る性能を示した。機体構造が頑丈で、戦闘爆撃機としても用いられた。発展余裕にも優れ、後期型のFw190Dは、アメリカが誇るP51マスタングに匹敵する性能を示した。


                                            

独ソ戦の捕虜、苛烈なる運命

●ソ連兵捕虜の運命

ドイツはアメリカ、イギリスなどの西側国家の捕虜は比較的、人道的に扱ったが、ソ連兵捕虜に対しては何の配慮も示さず、ろくに食料も与えなかった。ドイツは、ソ連兵を下等人種と見なして、残忍極まる態度で接した。ドイツの食料優先順位は、まずはドイツ軍、次に本国のドイツ国民、その次が占領地の民間人、最下位がソ連兵捕虜であった。その食料は、ドイツ占領下のソ連領から強制的に取り上げられた。戦場で捕虜となったソ連兵は、収容所へと連行されて行くが、場所によっては数百キロの道のりを延々と歩かされ、途中、力尽きた者は次々に銃殺されていった。


鉄道で輸送される事もあるが、屋根の無い無蓋列車に座る事も出来ないほど詰め込まれ、風雪に晒されながら運ばれていった。これが冬場であれば、目的地に達した時、数百人から数千人の凍死体が転がり落ちたと云う。徒歩での行進、鉄道輸送の際に死亡した捕虜は、20万人に達すると見られている。ようやく収容所に達しても、風雪を遮る宿舎、診療所、便所などは無く、野原を鉄条網で囲っただけのしろものがほとんどだった。建物がある場合もあったが、狭い室内に大量に詰め込まれたり、中に入る事を許されない事もあった。


アメリカの学者アレクサンダー・ダリンの記述

「弁の立つ大勢の証人によると、何個師団もが野外でくたばるに任せられた。伝染病等の病気で、収容所の人口は減った。監視兵の殴打、職権濫用は日常茶飯事だった。何百万人もが、食料も屋根も無い状態で放っておかれた。捕虜輸送列車が目的地に着くと、貨車は死体で一杯だった。死亡率は統計により大きく異なるものの、1941年から1942年にかけてのこの冬場、30%を下回る事は無かった。95%に達する所もあった」


1942年1月26日、この日、ドイツの参謀ハインツ・ダンコ・ヘル大佐は、ドイツ軍がスターリノ(現在名ドネツィク)に建設した収容所を訪問し、その時の模様を報告している。

「捕虜達は、びっしり寄り添って立っている。横になって寝る空間が無いのだ。扉の側で身を屈めて転がっているのが3人いたが、死にかけているか、もう死んでいるらしい。骨と皮だけの姿が、幾つか転がっているのが見えた。立っていられなくなったのだ。ベッドも椅子も毛布も無い、糞だらけの床だけ。どの顔にも生気が無い、目はくぼみ、髭が汚い」


1942年2月28日、ドイツの東方占領地大臣であった、アルフレート・ローゼンベルクは、カイテル元帥宛ての手紙でこう述べている。

「ドイツの捕虜収容所にいるロシア人の運命は、まさに大悲劇であります。捕虜になった360万人中、今尚、作業可能な者は僅か数十万人しかおりません。大部分は餓死したか、厳しい気候で死亡したかであります。発疹チフスで死んだ者も何万人とおります。大抵の収容所所長は、市民が捕虜に食料を与える事を禁じており、餓死するに任せております。飢えと疲労で行進出来なくなった捕虜は、多くの場合、恐怖に慄く市民の前で射殺され、死体は放っておかれます。捕虜が寝る場所も無い収容所も多くあります。雨や雪の時も、屋根無しで横たわっています。ええ、そうです、地面に穴を掘ったり、どこかに横穴を掘ったりする道具すら与えられておりません。そして、捕虜は射殺されるのです。あちこちの収容所でアジア人(ロシア人)が射殺されております」


西ドイツ政府捕虜史委員会の報告。

「ドイツの公式文書によると、1944年5月1日の段階で、ドイツに捕まったソ連人捕虜500万人以上の内、200万人以上が死亡し、他に100万人以上が行方不明になっていた。行方不明者の大部分は死んだか、処刑されたかで、逃亡したのは僅かに過ぎない。この時点で生きていたソ連人捕虜の数は100万人を切る。1944年5月1日時点のドイツの公式数字を基礎にすれば、第二次大戦のこの時点までに、ドイツに捕まったソ連人捕虜の約60パーセントが死亡した事になる」


ティモシー・スナイダー著「ブラッドランド、上巻)の記述。

ドイツ軍は、310万人ものソ連兵捕虜を死に至らしめた。その内訳は、銃殺50万人、移送中の死と収容所での餓死を合わせて260万人であった。


ソ連兵捕虜は、草や樹皮など、手当たり次第、口に入れ、それでも飢餓に追い詰められると、食人行為に走った。ロシアの長く厳しい冬の間、捕虜達は、硬い地面を手で掘って壕を作り、そこで仲間と寄り添って耐え忍ぼうとした。しかし、そのまま飢えて凍りついていった。また、ドイツ占領下のソ連領では飢餓が広がって、戦争中、数百万人の民間人が餓死した。こうしたドイツの残虐行為は、ソ連国内へと伝わってゆき、ソ連の人々は捕虜となって飢え死にさせられるぐらいなら、戦って死ぬ方がましだと考え、徹底抗戦するようになった。そして、大戦後半、ソ連軍がドイツ本土に達すると、報復とばかりに、ドイツ人に対して略奪、婦女暴行、虐殺の限りを尽くした。





1941年8月、スモレンスク近辺の過密状態の捕虜収容所(ウィキより)



●ドイツ兵捕虜の運命

ドイツも1943年7月のクルスク戦以降は、ソ連の圧倒的な物量攻勢によって防勢一方となり、東部戦線の各所で敗退し、多数の捕虜を出すようになる。ソ連は、第二次大戦中、300万人以上のドイツ兵を捕虜とした。そして、捕虜を、ウクライナからシベリアに到る、国内3千箇所の収容所に振り分けた。捕虜は、鉄条網内に設けられたバラックに詰め込まれ、板張りの寝台で寝泊りした。日々の労働は、建設作業、木材伐採、鉱山労働、農作業、石材切り出しなどであった。この肉体労働を補う食事は、僅かなパンとマッシュポテト、薄いキャベツのスープなどであった。独ソ戦による国土破壊の煽りを受けて、ソ連全体の食料が不足していた。


しかも、ソ連の非効率な計画経済に付きものの、流通の滞りがあって、カビの生えたパンや、黒ずんで異臭を放つジャガイモがよく食事として出された。捕虜達は恒常的な飢餓に晒されており、犬、猫、ヘビ、トカゲ、ネズミなどを見かけると、手当たり次第に捕らえて、口に入れた。そんなドイツ兵捕虜に、ソ連の民衆は度々、食べ物の差し入れを与えた。特にロシア人女性は、深い同情心を示してくれる事が多かった。捕虜達にとってパンは命そのもので、これを盗んだ者には、集団で殴る蹴るの厳罰が加えられた。そして、見せしめとして服を剥がされ、バラック内を曳き回された。50歳以上の年配者は環境の変化に対応出来ず、よく盗みを働いた。捕虜達はバラック内の秩序と命の食料を守るため、階級も年齢も上のパン泥棒を殴りつけねばならなかった。


戦争中、ドイツ兵は固い団結と仲間意識を誇ったが、捕虜となって飢餓に追い込まれると、相互扶助の精神は失われていった。ソ連は、従順で協力的な捕虜は厚遇して、食料も多めに与えた。協力者は収容所の役職に就いて、かつての戦友をこき使った。また、密告者となって、不満を口にした戦友を売る者もいた。捕虜達の間には疑心暗鬼が広まって、自分しか頼りにならないという状況が現出した。信じられるのは、自分と極少数の戦友のみだった。だが、捕虜達も密告者を捜し出すと、作業中、事故に見せかけて殺害する事もあった。捕虜生活から解放され、帰郷への列車に乗っている最中、捕虜達は、裏切り者を走っている列車から突き落としたりもした。


西ドイツ政府捕虜史委員会に寄せられた捕虜の証言

「帰郷のため輸送される途中、我々は2人の男を放りだしました。走っている列車から、頭から先に、ほれ!と放ったのです。あの時の事を思い出すと、今でもぞっとします。恐ろしい事です。それも帰郷の途中です。放りだされる前、片方の男はめそめそ泣いていました」


1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ中央軍集団を壊滅させ、ドイツ兵8万5千人余を捕らえた。ソ連の独裁者スターリンは、この捕虜達をモスクワに集めて、戦意高揚の戦勝パレードを行おうと考えた。衆目が集まる中、侵略者たるドイツ人の惨めな姿を見せ付けて、ソ連の大勝利を印象付けようとしたのである。1944年7月初め、スターリンは、ドイツ兵捕虜5万5千人をモスクワに運ばせた。捕虜達は、幾日もまともな飲食物を与えられておらず、皆、飢え渇いていた。その上、大半が赤痢を患っていた。軍服は泥まみれで、異臭を放っていた。 


同年7月16日、ソ連当局は、翌日に控えた行進に備えて、捕虜達に特別豪華な食事、パンとお粥、ハムを与えた。しかし、弱った胃腸に急に大量の食物を流し込んだ結果、大勢が下痢に悩まされる事になった。1944年7月17日朝、モスクワの空は晴れ渡っていた。吹奏楽団がマーチを演奏する中、捕虜達は号令をかけられて、幅70メートルのゴーリキー通りを歩き出した。先頭を行くのは、中央軍集団の壊滅で捕虜となった、21人の将軍達だった。彼らは勲章はそのままで、軍服も整っていた。その後を、泥まみれのやつれ切った兵士達が続く。


赤痢の捕虜達は、缶詰の空き缶を手にして、行進の最中に排泄を行った。それを見た護衛のソ連騎兵は、「ドイツ野郎め、教養ねえな」と嘲笑った。群衆の前を通り過ぎる時、ドイツ兵達は罵声を浴び、石を投げつけられた。捕虜に直接、危害を加えようとした者もいたが、これは護衛の騎兵に阻止された。罵声と投石、唾の吐きかけまでは許されていたが、殺しは禁止であった。だが、この日、捕虜達は、群集の目の中に、憎悪よりはむしろ同情を見た。涙ぐんでいる女性もいた。


この行進は6時間続き、クレムリンの近くで解散となった。そして、捕虜達は待っていた列車に乗り込み、ソ連各地の収容所へと散っていった。そして、終わりの見えない、強制労働の日々が始まるのだ。ドイツ兵捕虜の大半は、1949年末から1950年初頭にかけて解放されたが、戦犯として有罪にされた2万7千人は尚も留め置かれて、1953年から1954年にかけて半数以上が解放され、残った1万人は1955年末から1956年初頭にかけてようやく解放された。第二次大戦でソ連の捕虜となったドイツ人は350万人余で、その内、100万人以上が死亡したと見られる。





1944年7月17日、モスクワ市内を行進させられる、ドイツ兵捕虜



主要参考文献

パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」

ティモシー・スナイダー著、「ブラッドランド 上」

空母「蒼龍」艦長、柳本柳作 後

昭和17年(1942年)6月4日(日本時間6月5日)、空母蒼龍と艦長柳本は、運命のミッドウェー海戦を迎える。この日、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母を主力とする、日本の大艦隊が太平洋の小島ミッドウェーに殺到した。作戦を開始するに当たって、連合艦隊司令長官、山本五十六大将は、「ミッドウェー攻撃の間、母艦艦載機の半数は、敵艦隊の出現に備えて艦上待機を行う」と作戦計画に明記させていた。機動部隊(空母を中心とする高速艦隊)の総指揮官は南雲忠一中将で、参謀長の草鹿龍之介少将と、航空参謀の源田実中佐が補佐に当たった。この中でも、源田中佐の発言力は大きく、源田艦隊とも称されていた。南雲中将は水雷戦の専門家であって、航空戦には疎く、航空専門家である源田中佐の進言を追認するのみだった。その源田中佐は、攻撃一辺倒の参謀で、米軍など鎧袖一触であると豪語していた。


日本海軍のほぼ全ての水上艦艇が参加する、大作戦であったが、主役はやはり4隻の空母とその艦載機であった。

4空母の艦載機は261機で、この他にミッドウェー島占領後に使用する予定の、零戦21機、二式艦偵2機を積み込んでいた。合計284機である。

対するアメリカ海軍も、3隻の空母が主力で、その艦載機は240機、これに、ミッドウェー島の基地航空機、115機が加わった。合計355機である。

アメリカ軍機動部隊の総指揮官は、フレッチャー少将で、自らは空母ヨークタウンを指揮し、スプルーアンス少将率いる空母エンタープライズとホーネットを麾下に置いていた。


日本海軍はミッドウェー作戦時、並行してアリューシャン攻略作戦も行っており、この作戦に空母2隻が動員されて、戦力の分散を強いられていた。それでも、ミッドウェー作戦に参加する艦艇数は日本側が勝っていたが、これも広範囲に分散しており、実質的には南雲機動部隊のみの攻撃となる。南雲機動部隊とフレッチャー機動部隊の水上艦艇数は、ほぼ互角であった。航空機数は、ミッドウェー島の航空機が加わると、アメリカ側が優勢であった。ただ、搭乗員の錬度だけは日本側が勝っていた。情報戦では、アメリカ側が圧倒的、優勢にあった。当時の日本海軍は知る由も無かったが、アメリカ海軍は日本海軍の暗号を解読して、待ち伏せの態勢を取っていた。


海戦前日の6月3日夜半、山本司令官座上の戦艦大和では、敵信班の通信員が、「ミッドウェー北方海域に、敵空母らしい呼び出し符号を探知しました」と報告していた。しかし、山本司令部は、南雲機動部隊もこれを探知しているはずであり、あえて無線封鎖を破る必要は無いとして、この重大情報を知らせなかった。ところが南雲機動部隊は、これを探知していなかった。従って、南雲機動部隊は五里霧中で敵艦隊を捜索しつつ、ミッドウェー島も攻撃せねばならない。6月4日午前4時半(戦記では日本時間と現地時間の片方、あるいは両方が記されているが、ここでは現地時間のみとする)、南雲機動部隊から、ミッドウェー島攻撃隊108機が、次々に発艦していった。


午前5時半、第一次攻撃隊が飛び立った後、南雲司令部は、「本日敵機動部隊出撃の算なし。敵情特に変化なければ第二次攻撃は第四編成(陸上基地攻撃装備)を似て本日実施の予定」と、発光信号で各艦に告げた。南雲司令部は、敵空母による攻撃は無いものと見なしていた。山本司令部が、前夜に敵空母出現の報を知らせなかったのもあるが、南雲司令部自身にも慢心と油断があった。しかし、その頃、アメリカ機動部隊は、北東から密かに接近していた。午前5時34分、アメリカの偵察飛行艇は、日本空母群を発見し、その位置と艦載機の発艦を報告する。この時点で、アメリカ空母は発見されておらず、逆に日本空母の動向は筒抜けとなっていた。


アメリカ軍機動部隊、総指揮官フレッチャー少将は、日本空母発見の報を受けて、スプルーアンス少将率いる空母、エンタープライズ、ホーネットに全力攻撃をさせ、自らが率いる空母ヨークタウンは、新たな日本空母の出現に備えて、時間を置いて第二次攻撃を仕掛ける事を決した。全力攻撃を命じられたスプルーアンス少将であるが、その攻撃を決定的なものとすべく、間合いと時間の頃合を検討する。既に、日本の艦載機発艦は告げられており、間もなくミッドウェー島を攻撃する事になる。そのミッドウェー攻撃隊が帰還して収容作業に入り、次の第二次攻撃隊が準備している、その瞬間を狙うのが、最も効果的であった。スプルーアンス少将とその参謀長ブラウニング大佐は、その時刻を午前9時と想定し、午前7時をもって全力発艦となった。


午前6時半、日本の第一次攻撃隊はミッドウェー島上空に達し、爆撃を開始した。15分後には爆撃は終了し、攻撃隊は帰路についた。しかし、成果は不十分だと判断され、午前7時、攻撃隊指揮官、友永大尉は、「第二次攻撃の要あり」と打電する。それを受けて、南雲司令部は、敵艦攻撃用に待機していた艦載機を、ミッドウェー島第二次攻撃に転用する事を決した。そして、艦船攻撃用の魚雷や徹甲爆弾が取り外され、陸用爆弾への転換作業が始まった。南雲機動部隊は、早朝から度々、ミッドウェー島から発したアメリカ軍機による空襲を受けていたので、この排除を優先したのだった。しかし、これによって、山本長官の「艦載機の半数は、敵艦隊に備えて待機せよ」との意向は、無視される形となった。


日本の攻撃隊が帰路についていた頃、午前7時、アメリカ空母エンタープライズ、ホーネットの艦上では、爆弾、魚雷を積んだ艦載機118機が次々に発艦していった。午前8時38分には、空母ヨークタウンも攻撃隊38機を発艦させる。目標は無論、日本空母である。午前7時28分、南雲機動部隊に、水上偵察機(重巡洋艦利根4号機)から、「敵らしきもの10隻見ゆ」との、緊急電が届けられた。これを受けて、飛龍、蒼龍を指揮する第二航空戦隊司令官、山口多聞少将は、一刻を争う事態と見て、陸用爆弾装備の九九艦爆36機による即時攻撃を打診した。


しかし、南雲司令部は、護衛戦闘機無しの攻撃は犠牲が大きいとみて、これを却下する。護衛戦闘機は、上空直掩機を下ろしてから後追いさせるという方法もあったが、そういう考えには到らなかった。そして、南雲司令部は敵艦隊を攻撃すべく、今度は、陸用爆弾から、魚雷、徹甲爆弾への再転換を命じた。兵器員達は、てんやわんやの作業に追われ、格納庫は爆弾や魚雷で溢れかえる事態となった。しかも、この間、ミッドウェー島のアメリカ軍機による空襲を受けたり、第一次攻撃隊を収容したりして、転換作業は遅れに遅れた。


そして、午前9時20分、アメリカ空母機による最初の攻撃が始まった。TBDデヴァステイター雷撃機の編隊が低空から現れて、突入を開始する。上空直掩の零戦隊はこれを迎撃すべく、低空に下りていく。零戦は存分に威力を発揮して、雷撃機を次々に海上に撃ち落していった。日本空母も巧みな操艦で、魚雷を回避する。雷撃機は全て撃退され、南雲機動部隊には安堵の空気が広がった。午前10時22分、混乱していた兵装転換作業も進んで、攻撃隊は、後30~60分ほどで、全機、発艦する見込みとなった。と、その時、見張員が、「敵艦爆急降下!」と絶叫を上げた。


見上げると、アメリカ軍急降下爆撃機が、いつの間にか直上に迫っていた。守護神たる零戦隊は低空にあって、対処不能であった。高角砲、機銃も水平を向いていて、咄嗟に撃てない。SBDドーントレス艦爆の編隊(エンタープライズ30機、ヨークタウン17機)が、逆落としに突っ込んでくる。そして、赤と白のまだら模様の入った、450キロ爆弾を次々に切り離していった。午前10時23分、まず、空母加賀に爆弾が命中して爆発炎上し、続いて、赤城、蒼龍にも爆弾が命中して、それぞれ爆発炎上した。命中弾は、燃料を満載した艦載機や、そこら中に散らばっていた爆弾、魚雷に誘爆して、手の付けられない火災が発生した。空母が最も脆弱になる瞬間を狙われたのだった。


ただ1隻、攻撃を免れた飛龍は、山口少将の指揮の下、果敢に反撃を試みた。そして、アメリカ空母ヨークタウンを大破せしめたが、これと相打ちの形で、飛龍も大破炎上する。その後、ヨークタウンは、日本潜水艦、伊168の雷撃を受けて、止めを刺された。しかし、日本空母は、4隻が致命傷を負った。空母蒼龍には、爆弾3発が連続して命中し、その内の1発は、250キロ爆弾を装着した九九艦爆18機の中心で炸裂して、巨大な火柱が噴き上がった。凄まじい爆風が吹き抜けて、艦上の乗員を吹き飛ばし、艦全体が振動した。


艦橋の窓ガラスは内側に膨らんで、拳大の穴が空いていた。柳本は健在であったが、火傷を負って顔を赤く腫らしていた。だが、艦長としての責務を果たすべく、旺盛に動き回って消火の指示を出していた。しかし、格納庫内の誘爆は止まらず、艦橋も猛火に包まれた。飛行甲板は三つに折れ、切れ目から次々に誘爆が発生して、人や物を吹き飛ばした。火から逃れんとして、梯子(はしご)や手すりを掴んでも、それらは焼けていて、乗員の両手に大火傷を負わせた。艦底部の機関科員300人は、上部で起こっている火災によって閉じ込められ、30人弱の脱出者を除いて全滅した。そして、機関も停止する。


蒼龍の破壊の度合いは尋常でなく、柳本は、爆弾命中から20分後には、「総員退去」の命を下した。大勢の乗員が先を争って救命艇に乗り込まんとして、救命艇ごと海上に落下してしまう。柳本は、艦橋右舷にある信号台に立って、乗員1人1人に向けて、「飛び込め、飛び込め!」と叱咤していた。この間、大勢の乗員が、「艦長も退艦を」と懇願したが、柳本は頑としてこれを受け付けなかった。柳本は平素から、「自分は陛下のお艦(ふね)をお預かり申し上げているのだ。どんな事があっても艦と運命を共にする。お前達は一度や二度の挫折に屈せず、七転八起、生命のあらんかぎり報国の誠を尽くせ」と説いており、それを身をもって実践する決意であった。


一時、蒼龍の火災は下火になったかに見えたが、後部ガソリン庫に引火して大爆発すると、再び猛火に包まれた。続いて、前部ガソリン庫にも引火して、大爆発が起こった。午後19時15分、夜の闇が覆う中、炎に包まれた蒼龍は、艦首を突き上げるような形で沈んでいった。5分後、弾薬庫に引火したのか、水中で大爆発して海水が噴き上がった。蒼龍の定員1,103人の内、718人が戦死し、助かったのは385人であった。この戦死率の高さが、蒼龍の被害の凄まじさを物語っている。しかし、柳本の早期退艦命令が無ければ、犠牲者はもっと増えていた事だろう。海軍大佐、柳本柳作48歳。翌年、戦死公表され、海軍少将に特進。


ミッドウェー海戦の総決算

日本海軍は、空母4隻と重巡1隻が沈没、重巡1隻が大破、駆逐艦1隻が中破、航空機285機を失った。戦死者は3,057人(搭乗員は110人)

アメリカ海軍は、空母1隻と駆逐艦1隻が沈没、航空機147機(艦載機109機、基地航空機38機)を失った。戦死者は307人(搭乗員は172人)


搭乗員の岡本飛曹は生き残り、木村という整備員を通して、柳本の最後を知った。蒼龍が炎上する中、木村は、猛火に追われて艦橋に逃げ込んだ。幹部は既に退艦していたが、柳本はまだそこにいて、2人きりとなった。木村は退艦を懇願したが、柳本は、「ぐずぐずするな、早く退艦せい!」と怒鳴りつけ、自らはバンド状の物で羅針盤に身体を括り始めた。その口元からは、「身を君国に捧げつつ、己が務(つとめ)をよく守り」との軍歌、「第六潜水艇の遭難」が洩れていた。木村が尚も、「艦長、退艦してください」と懇願すると、一際大きな声で、「馬鹿、急げ!早く行け!」と叱咤した。木村はその凄まじい気迫にたじろぎ、言葉通りに艦橋から飛び出した。その時、君が代の歌声が聞こえてきた。艦は沈み始めており、艦首側に走って海に飛び込んだ。語り終えると木村は、「俺は艦長が好きだった」とつぶやいて泣き崩れた。


昭和18年(1943年)6月、内地に帰還していた岡本は、柳本の一周忌に当たるこの月、東京にある柳本宅を訪ねた。そこで、アヤコ夫人と対面し、乗員達から聞き集めた、艦長の最後の姿を語った。夫人は眼を伏せて聞いていたが、語り尽くされると、「はじめての涙です」と言って、声を出して泣いた。しばらくして、夫人は柳本の仏前に案内し、供えてあったビール2本の内、1本を下げ、「主人と一緒に飲んでください」と言って、コップに注いでくれた。思い出話は尽きず、その日は柳本宅に泊めてもらい、翌朝、帰隊した。岡本高志は戦争を生き残り、戦後は海上自衛隊に入隊し、退職後は農業を営んだ。平成15年(2003年)、85歳で死去。


岡本の生前の談話、「艦長は、戦勢の行方を暗に感じながら、祖国のために若い命が失われていくことに責任を感じ、また人一倍部下に愛情をかけておられたから、その狭間に立ってどれほど深く悩まれたことだろうか。そして、武人として愛と信念に生きた心は、いつまでも私の脳裏にあって忘れることはできません」

空母「蒼龍」、そして、柳本と乗員達は、ミッドウェーの沖合い、北緯30度42・5分、西経178度37・5分の海底で、眠りについている。


主要参考文献、森史朗著、「ミッドウェー海戦(第一部・第二部)」、「零戦 7人のサムライ」


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