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独ソ戦の捕虜、苛烈なる運命

●ソ連兵捕虜の運命

ドイツはアメリカ、イギリスなどの西側国家の捕虜は比較的、人道的に扱ったが、ソ連兵捕虜に対しては何の配慮も示さず、ろくに食料も与えなかった。ドイツは、ソ連兵を下等人種と見なして、残忍極まる態度で接した。ドイツの食料優先順位は、まずはドイツ軍、次に本国のドイツ国民、その次が占領地の民間人、最下位がソ連兵捕虜であった。その食料は、ドイツ占領下のソ連領から強制的に取り上げられた。戦場で捕虜となったソ連兵は、収容所へと連行されて行くが、場所によっては数百キロの道のりを延々と歩かされ、途中、力尽きた者は次々に銃殺されていった。


鉄道で輸送される事もあるが、屋根の無い無蓋列車に座る事も出来ないほど詰め込まれ、風雪に晒されながら運ばれていった。これが冬場であれば、目的地に達した時、数百人から数千人の凍死体が転がり落ちたと云う。徒歩での行進、鉄道輸送の際に死亡した捕虜は、20万人に達すると見られている。ようやく収容所に達しても、風雪を遮る宿舎、診療所、便所などは無く、野原を鉄条網で囲っただけのしろものがほとんどだった。建物がある場合もあったが、狭い室内に大量に詰め込まれたり、中に入る事を許されない事もあった。


アメリカの学者アレクサンダー・ダリンの記述

「弁の立つ大勢の証人によると、何個師団もが野外でくたばるに任せられた。伝染病等の病気で、収容所の人口は減った。監視兵の殴打、職権濫用は日常茶飯事だった。何百万人もが、食料も屋根も無い状態で放っておかれた。捕虜輸送列車が目的地に着くと、貨車は死体で一杯だった。死亡率は統計により大きく異なるものの、1941年から1942年にかけてのこの冬場、30%を下回る事は無かった。95%に達する所もあった」


1942年1月26日、この日、ドイツの参謀ハインツ・ダンコ・ヘル大佐は、ドイツ軍がスターリノ(現在名ドネツィク)に建設した収容所を訪問し、その時の模様を報告している。

「捕虜達は、びっしり寄り添って立っている。横になって寝る空間が無いのだ。扉の側で身を屈めて転がっているのが3人いたが、死にかけているか、もう死んでいるらしい。骨と皮だけの姿が、幾つか転がっているのが見えた。立っていられなくなったのだ。ベッドも椅子も毛布も無い、糞だらけの床だけ。どの顔にも生気が無い、目はくぼみ、髭が汚い」


1942年2月28日、ドイツの東方占領地大臣であった、アルフレート・ローゼンベルクは、カイテル元帥宛ての手紙でこう述べている。

「ドイツの捕虜収容所にいるロシア人の運命は、まさに大悲劇であります。捕虜になった360万人中、今尚、作業可能な者は僅か数十万人しかおりません。大部分は餓死したか、厳しい気候で死亡したかであります。発疹チフスで死んだ者も何万人とおります。大抵の収容所所長は、市民が捕虜に食料を与える事を禁じており、餓死するに任せております。飢えと疲労で行進出来なくなった捕虜は、多くの場合、恐怖に慄く市民の前で射殺され、死体は放っておかれます。捕虜が寝る場所も無い収容所も多くあります。雨や雪の時も、屋根無しで横たわっています。ええ、そうです、地面に穴を掘ったり、どこかに横穴を掘ったりする道具すら与えられておりません。そして、捕虜は射殺されるのです。あちこちの収容所でアジア人(ロシア人)が射殺されております」


西ドイツ政府捕虜史委員会の報告。

「ドイツの公式文書によると、1944年5月1日の段階で、ドイツに捕まったソ連人捕虜500万人以上の内、200万人以上が死亡し、他に100万人以上が行方不明になっていた。行方不明者の大部分は死んだか、処刑されたかで、逃亡したのは僅かに過ぎない。この時点で生きていたソ連人捕虜の数は100万人を切る。1944年5月1日時点のドイツの公式数字を基礎にすれば、第二次大戦のこの時点までに、ドイツに捕まったソ連人捕虜の約60パーセントが死亡した事になる」


ティモシー・スナイダー著「ブラッドランド、上巻)の記述。

ドイツ軍は、310万人ものソ連兵捕虜を死に至らしめた。その内訳は、銃殺50万人、移送中の死と収容所での餓死を合わせて260万人であった。


ソ連兵捕虜は、草や樹皮など、手当たり次第、口に入れ、それでも飢餓に追い詰められると、食人行為に走った。ロシアの長く厳しい冬の間、捕虜達は、硬い地面を手で掘って壕を作り、そこで仲間と寄り添って耐え忍ぼうとした。しかし、そのまま飢えて凍りついていった。また、ドイツ占領下のソ連領では飢餓が広がって、戦争中、数百万人の民間人が餓死した。こうしたドイツの残虐行為は、ソ連国内へと伝わってゆき、ソ連の人々は捕虜となって飢え死にさせられるぐらいなら、戦って死ぬ方がましだと考え、徹底抗戦するようになった。そして、大戦後半、ソ連軍がドイツ本土に達すると、報復とばかりに、ドイツ人に対して略奪、婦女暴行、虐殺の限りを尽くした。





1941年8月、スモレンスク近辺の過密状態の捕虜収容所(ウィキより)



●ドイツ兵捕虜の運命

ドイツも1943年7月のクルスク戦以降は、ソ連の圧倒的な物量攻勢によって防勢一方となり、東部戦線の各所で敗退し、多数の捕虜を出すようになる。ソ連は、第二次大戦中、300万人以上のドイツ兵を捕虜とした。そして、捕虜を、ウクライナからシベリアに到る、国内3千箇所の収容所に振り分けた。捕虜は、鉄条網内に設けられたバラックに詰め込まれ、板張りの寝台で寝泊りした。日々の労働は、建設作業、木材伐採、鉱山労働、農作業、石材切り出しなどであった。この肉体労働を補う食事は、僅かなパンとマッシュポテト、薄いキャベツのスープなどであった。独ソ戦による国土破壊の煽りを受けて、ソ連全体の食料が不足していた。


しかも、ソ連の非効率な計画経済に付きものの、流通の滞りがあって、カビの生えたパンや、黒ずんで異臭を放つジャガイモがよく食事として出された。捕虜達は恒常的な飢餓に晒されており、犬、猫、ヘビ、トカゲ、ネズミなどを見かけると、手当たり次第に捕らえて、口に入れた。そんなドイツ兵捕虜に、ソ連の民衆は度々、食べ物の差し入れを与えた。特にロシア人女性は、深い同情心を示してくれる事が多かった。捕虜達にとってパンは命そのもので、これを盗んだ者には、集団で殴る蹴るの厳罰が加えられた。そして、見せしめとして服を剥がされ、バラック内を曳き回された。50歳以上の年配者は環境の変化に対応出来ず、よく盗みを働いた。捕虜達はバラック内の秩序と命の食料を守るため、階級も年齢も上のパン泥棒を殴りつけねばならなかった。


戦争中、ドイツ兵は固い団結と仲間意識を誇ったが、捕虜となって飢餓に追い込まれると、相互扶助の精神は失われていった。ソ連は、従順で協力的な捕虜は厚遇して、食料も多めに与えた。協力者は収容所の役職に就いて、かつての戦友をこき使った。また、密告者となって、不満を口にした戦友を売る者もいた。捕虜達の間には疑心暗鬼が広まって、自分しか頼りにならないという状況が現出した。信じられるのは、自分と極少数の戦友のみだった。だが、捕虜達も密告者を捜し出すと、作業中、事故に見せかけて殺害する事もあった。捕虜生活から解放され、帰郷への列車に乗っている最中、捕虜達は、裏切り者を走っている列車から突き落としたりもした。


西ドイツ政府捕虜史委員会に寄せられた捕虜の証言

「帰郷のため輸送される途中、我々は2人の男を放りだしました。走っている列車から、頭から先に、ほれ!と放ったのです。あの時の事を思い出すと、今でもぞっとします。恐ろしい事です。それも帰郷の途中です。放りだされる前、片方の男はめそめそ泣いていました」


1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ中央軍集団を壊滅させ、ドイツ兵を8万5千人余を捕らえた。ソ連の独裁者スターリンは、この捕虜達をモスクワに集めて、戦意高揚の戦勝パレードを行おうと考えた。衆目が集める中、侵略者たるドイツ人の惨めな姿を見せ付けて、ソ連の大勝利を印象付けようとしたのである。1944年7月初め、スターリンは、ドイツ兵捕虜5万5千人をモスクワに運ばせた。捕虜達は、幾日もまともな飲食物を与えられておらず、皆、飢え渇いていた。その上、大半が赤痢を患っていた。軍服は泥まみれで、異臭を放っていた。 


同年7月16日、ソ連当局は、翌日に控えた行進に備えて、捕虜達に特別豪華な食事、パンとお粥、ハムを与えた。しかし、弱った胃腸に急に大量の食物を流し込んだ結果、大勢が下痢に悩まされる事になった。1944年7月17日朝、モスクワの空は晴れ渡っていた。吹奏楽団がマーチを演奏する中、捕虜達は号令をかけられて、幅70メートルのゴーリキー通りを歩き出した。先頭を行くのは、中央軍集団の壊滅で捕虜となった、21人の将軍達だった。彼らは勲章はそのままで、軍服も整っていた。その後を、泥まみれのやつれ切った兵士達が続く。


赤痢の捕虜達は、缶詰の空き缶を手にして、行進の最中に排泄を行った。それを見た護衛のソ連騎兵は、「ドイツ野郎め、教養ねえな」と嘲笑った。群衆の前を通り過ぎる時、ドイツ兵達は罵声を浴び、石を投げつけられた。捕虜に直接、危害を加えようとした者もいたが、これは護衛の騎兵に阻止された。罵声と投石、唾の吐きかけまでは許されていたが、殺しは禁止であった。だが、この日、捕虜達は、群集の目の中に、憎悪よりはむしろ同情を見た。涙ぐんでいる女性もいた。


この行進は6時間続き、クレムリンの近くで解散となった。そして、捕虜達は待っていた列車に乗り込み、ソ連各地の収容所へと散っていった。そして、終わりの見えない、強制労働の日々が始まるのだ。ドイツ兵捕虜の大半は、1949年末から1950年初頭にかけて解放されたが、戦犯として有罪にされた2万7千人は尚も留め置かれて、1953年から1954年にかけて半数以上が解放され、残った1万人は1955年末から1956年初頭にかけてようやく解放された。第二次大戦でソ連の捕虜となったドイツ人は350万人余で、その内、100万人以上が死亡したと見られる。





1944年7月17日、モスクワ市内を行進させられる、ドイツ兵捕虜



主要参考文献

パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」

ティモシー・スナイダー著、「ブラッドランド 上」

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