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金ヶ崎城 後

金ヶ崎城は、福井県敦賀市にある城跡です。ここは幾度となく戦乱の舞台となった激戦地ですが、現在は、山頂から日本海や敦賀市を見渡す事も出来る風光明媚な城跡となっています。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑金ヶ崎宮

金ヶ崎城の中腹にあります。かつては、ここも城域の一部だったと思われます。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑中腹から眺める敦賀市内



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑城の案内図


金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿跡

金ヶ崎城の最上部、標高86メートル地点にあります。ここからの眺めはなかなかのものです。


金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から左方を望む

非常に急峻な崖となっています。南北朝時代、金ヶ崎城に篭城していた尊良親王、恒良親王らは足利方の大軍に囲まれて、ここから絶望的な面持ちで海を眺めていた事でしょう。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑月見御殿から右方を望む



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑堀切



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑兵糧庫の跡

元亀元年(1570年)、織田軍が金ヶ崎城を攻撃した際に倉庫が焼け落ち、その時に生じた焼米が出土したとされています。



金ヶ崎城
金ヶ崎城 posted by (C)重家

↑二の木戸跡

南北朝時代、この付近で激しい攻防戦があったと伝えられています。この先を進むと、手筒山城に行けます。



天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城

尾根の左側には金ヶ崎城があり、その右側の尾根に天筒山城がありました。戦国の第一級資料である「信長公記」には屏風の様な高山であったと記されており、実際に見て、なるほどと納得しました。


天筒山城
天筒山城 posted by (C)重家

↑天筒山城

織田軍がこの城に攻めかかった際には、全山を震わすほど、軍勢の喊声や銃声が響き渡っていた事でしょう。金ヶ崎城は小規模な山城ですが、そこに秘める歴史は深いです。



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金ヶ崎城 前

金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した岬に築かれた山城である。城は標高86メートルの金ヶ崎山の山頂にあって、背面は急峻な斜面となっており、三方は海に囲まれた天然の要害である。また、この城は北陸と畿内をつなぐ街道と、日本海交易の拠点、敦賀港を押さえる事も出来る要衝であった。こういった戦略上、経済上の見地から、金ヶ崎城は度々、争奪戦の舞台となっている。


寿永2年(1183年)頃、源平合戦の最中、平氏が源義仲の挙兵に備えて、砦を築いたのが金ヶ崎城の始まりであるとされている。南北朝時代、建武3年(1336年)5月、湊川の戦いに敗れた南朝は捲土重来を期して、後醍醐天皇の皇子である尊良(たかよし)親王と恒良(つねよし)親王、そして、重臣の新田義貞を越前に派遣した。同年10月、皇子2人と義貞は金ヶ崎城に入ったが、すぐに北朝の足利方が包囲するところとなる。


翌建武4年(1337年)、足利尊氏は高師泰に大軍を授けて、城を激しく攻め立てたさせた。城方は何とかこの攻撃を凌いだものの、兵糧不足は深刻であった。同年2月、新田義貞は援軍を求めて城を脱出する。そして、援軍を編成して城に向かったものの、足利方に阻まれて救援は成らなかった。同年3月6日、足利方が城に総攻撃を加えると、兵糧攻めで弱っていた城方300人余は次々に討ち取られていった。そして、本丸まで攻め入られるに至って、尊良親王と新田義貞の嫡男、義顕は自害して果てた。恒良親王は捕らえられて毒殺されたと伝わる。現在、金ヶ崎城の中腹にある金ヶ崎宮は、尊良親王と恒良親王を祭って建てられたものである。



戦国時代、金ヶ崎城は越前朝倉氏の支配する所となり、その一族が敦賀郡司として守りに就いた。朝倉氏は紛うこと無き戦国の大大名であったが、その存在を抹消せんとする者が現れる、織田信長である。元亀元年(1570年)4月20日、信長は越前に攻め入らんとして、3万人余の大軍を率いて京を出立する。4月25日、織田軍は敦賀に侵入すると、手始めに手筒山城への攻撃を開始する。この手筒山城は金ヶ崎城の支城であり、尾根伝いで繋がっていた。信長の号令一下、3万の兵が一斉に雄叫びを上げて山上を駆け上がって行く。しかし、朝倉軍の抵抗も激しく、攻防戦の最中には森乱丸の兄にあたる森可隆(織田家の重臣、森可成の長男)も戦死している。織田軍はおびただしい死傷者を出しつつも、朝倉軍1370人余を討ち取って、その日の内に城を攻め取った。


戦国期の公家が書いた、「言継卿記(ときつぐきょうき)」によれば、織田軍も千人余の討死を出したと書かれており、相当な激戦であった事が窺える。だが、この犠牲は無駄では無かった。隣接する金ヶ崎城に加え、その南方にある疋檀(ひきだ)城も震え上がって、戦わずして織田軍に城を明け渡したからである。これで敦賀郡の平定は成り、後は木芽峠を越えて一乗谷を目指すのみであった。信長が今まさに軍を進めようとした時、凶報が入った。信長の妹婿にして近江北部の領主である、浅井長政が離反したのである。如何に大軍を引き連れていようとも、退路を断たれれば圧倒的に不利となる。4月28日、信長は即座に撤退を決断し、少数の馬廻(うままわり)だけを連れて京へと向かった。


信長は、後を追うであろう朝倉軍や浅井軍を食い止めさせるため、現地に羽柴秀吉、明智光秀、池田勝正らを残していった。殿軍(しんがり)は最も危険な役目であるが、それを成し遂げてこそ主君の信頼も得られる。金ヶ崎城には羽柴隊が篭って信長撤退の時間を稼ぎ、それを成したと判断すると脱出に入った。そこへ朝倉軍が大挙して襲い掛かってくるが、秀吉隊は鉄砲を乱射しつつ、じりじりと退いてゆく。


秀吉隊が崩れそうになると、池田隊や明智隊が側面から援助して撤退を助けた。そして、3隊は入れ替わり立ち替わりながら追撃を食い止め、殿軍の重責を果たしたのだった。この金ヶ崎撤退戦では羽柴秀吉の軍功が名高いが、実際には3千人余の兵を率いていた池田勝正が主力となっていたと思われ、明智光秀も秀吉と同等の働きをしていた。いずれにせよ、この三者の協力によって信長は死地を脱し、軍の大部分も脱出に成功したのだった。


この撤退戦によって織田軍は千人余の戦死者を出したとされるが、3万人余りの軍勢の撤退にしては犠牲は少ないと云えよう。信長の迅速な決断と、優秀な部下達の奮戦によって損害は最小限に抑えられたのだった。この事は、信長に早期の立ち直りを可能とする。4月30日、信長は無事、京に着くと、揺らいだ地盤を固め直すため、重臣と軍勢を近江各所に派遣する。そうした仕置きをすませた上で、5月21日に本拠の岐阜へと戻り、長政への復讐の機会を窺う。


そして、6月中旬、浅井氏に従う国人、堀秀村が織田家に鞍替えしたと聞くや、信長はすぐさま出陣を命じた。6月19日、信長はまたも少数の馬廻を従えただけで城を飛び出すと、近江と美濃の国境で軍勢の集結を待った。そして、6月21日になって2万余の軍勢(後から徳川軍3千人余も参加)が揃うと、小谷城へと攻め上って行くのである。信長は、攻めも退きも常に迅速であり、その速さは他の戦国大名の追従を許さない。信長のこの迅速な決断力と行動力こそ、天下制覇の大きな原動力であった。


尚、この後の金ヶ崎城であるが、天正3年(1575年)に信長が越前を平定すると、敦賀一群は
武藤舜秀(むとう きよひで)に委ねられた。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い後には秀吉の部将、蜂屋頼隆が敦賀一群を与えられる。頼隆は敦賀城を築いてそこを居城としたため、金ヶ崎城は廃城となった。現在でも、金ヶ崎城には土塁や堀切の跡が残っており、かつての激戦地の面影を残している。

一乗谷 終

一乗谷朝倉氏遺跡紹介の続きです。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑中の御殿跡

朝倉館の背後の高台にあります。この中の御殿には、朝倉義景の生母、光徳院が住まっていたと伝えられています。朝倉氏滅亡時、光徳院は捕らえられ、信長の命によって斬られたとあります。

一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑米津

ここからは刀装具を作るための炉の跡や、金属を加工する道具が発見されました。城下町の中心部に近い事から、ここの職人達は朝倉氏お抱えの金工師であったと推測されています。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑復元された町屋

発掘された石垣や礎石をそのまま使い、柱、壁、金具なども出土した遺物に基づいて忠実に再現されているとの事です。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑復元町屋


一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑昔の便所



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑再現武家屋敷の内部

奥では家主がくつろぎ、手前では使用人が食事の準備をしています。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑大規模武家屋敷跡

再現町屋の裏にあります。この辺りには、朝倉氏の有力家臣の屋敷が建ち並んでいました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑武家屋敷跡
一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑上城戸(かみきど)

一乗谷の北面を守っています。


一乗谷は、天正元年(1573年)8月の朝倉氏滅亡時に焼き尽くされ、さらに天正2年(1574年)1月には、越前一向一揆の蜂起によって戦場となり、天正3年(1575年)には、北ノ庄(福井)が越前の中心地となった事で急速に衰退していきました。そして、一乗谷の町並みは田畑へと変わってゆき、人々の記憶からも忘れ去られてしまいました。しかし、それは開発の波を逃れる事にも繋がり、現在まで貴重な遺構が残されています。



一乗谷 2

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市にある戦国期の遺跡です。




一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑下城戸

土塁と巨石で固められています。ここが、一乗谷の表玄関となります。


一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑墓地跡

かつてこの辺りには寺院があって、墓地が広がっていました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家


↑かつての町屋跡



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡

手前の川は一乗谷川で、その奥に朝倉館(義景館)があります。さらに、その背後の山には一乗谷城がありました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡

この唐門は、義景の菩提を弔うために建てられた松雲院(しょううんいん)のもので、豊臣秀吉寄進のものであると伝わります。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑朝倉館跡

歴代の朝倉氏が住まっていた所です。かつては、ここが越前の政治的中心地でありました。正面の山にも、砦群が築かれていました。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑湯殿跡庭園

朝倉館跡の背後の高台にあります。歴代の朝倉当主も眺めた事でしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑南陽寺跡

右にある庭園には、かつて美しい糸桜が生えていた伝えられており、永禄11年(1568年)には、後の室町将軍足利義昭を招いて、ここで観桜の宴が催されました。その時には見事な伽藍があって、庭を眺めつつ華やかな宴が催された事でしょう。



一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑英林塚(朝倉孝景墓)

戦国初代、朝倉孝景(1428~1481)は、朝倉氏を興隆に導いた人物です。彼はここから、一乗谷の盛衰をどのような思いで眺めているのでしょう。


一乗谷
一乗谷 posted by (C)重家

↑諏訪館庭園

諏訪館は朝倉義景の妻、小少将(こしょうしょう)が住まっていた所です。この庭園は一乗谷遺跡の中で最も規模の大きなもので、小少将が義景に愛されて、大きな権勢を誇っていた事が窺えます。 しかし、義景が自刃した後、小少将は織田軍に捕らえられ、その子息で4歳の愛王丸共々斬られたと伝わります。

一乗谷 1

一乗谷は、越前の戦国大名、朝倉氏が築いた城下町である。一乗谷は山間の狭い谷間にあるが、往時には武家屋や町屋が所狭しと建ち並ぶ、1万人もの人々が生活を営む一大都市であった。朝倉氏は元々、但馬の武士であったが、南北朝時代に室町幕府の有力守護大名、斯波氏の家臣となって越前に入った。その頃から朝倉氏は、一乗谷を根拠地とした。


この一乗谷に繁栄をもたらしたのは、戦国初代の朝倉孝景(1428~1481)である。孝景は下克上の潮流に乗って、朝倉氏を一豪族の身上から越前の支配者まで押し上げた実力者であった。以降、戦国5代目の朝倉義景に至る100年余の間、一乗谷は越前の政治的中心地として発展を続ける。特に一乗谷の文化的興隆は目を見張るものがあり、朝倉氏の居館を始めとして、武家屋、町屋では盛んに作庭が行われ、そこで歌が詠まれ、茶会が催された。


一乗谷からは数多くの茶器が出土しており、それらは武家屋、町屋、寺院など城下のあらゆる場所から発見されている。また、硯(すずり)が700点以上も発見されている事から、文芸が盛んで住民の識字率と文化水準は極めて高かったと推測されている。一乗谷の華やかな文化を聞き付けて、訪れる公家や文化人は数知れず、歴代の朝倉当主はそういった人々を迎えては、和歌や連歌の会を催した。


当時の京は戦乱の影響で荒廃しており、そこに住む公家達にとって、一乗谷は憧れの土地であったらしい。当代一流の和漢の学者であった清原宣賢(1475~1550)は、この一乗谷を終焉の地と定め、晩年の8年間を過ごしている。永禄11年(1568年)、後の室町幕府第15代将軍となる足利義昭もこの一乗谷を訪れ、手厚い歓待を受けている。


一乗谷の中心には室町御所を模した朝倉氏の居館があり、堀と土塁が廻らされていた。朝倉居館の背後にある城山(標高473メートル)には一乗谷城が築かれて、朝倉氏の詰めの城となっており、対面する山の峰にも断続的に砦が築かれていた。また、一乗谷の北には長さ150メートルの巨大な土塁、上城戸が築かれ、南には朝倉氏の権威を見せ付けるべく、巨石を用いた石垣造りの下城戸が築かれていた。言わば、一乗谷全体が巨大な城郭となっていたのである。華やかな文化の営みを、堅固な城郭が包み込む。朝倉氏の栄華は、このまま続いていくかに見えた。だが、戦国の荒波は、平和を謳歌する一乗谷にも迫ろうとしていた。


元亀元年(1570年)4月、戦国の風雲児、織田信長が突如として、越前に攻め上ってきたのである。一乗谷と朝倉義景は危機的な状況に陥ったが、この時は浅井長政が信長の背後を襲ってくれたので、窮地を脱する事が出来た。その後も義景は長政と協力して信長と戦い続けるが、戦況は悪化の一途を辿った。そして、天正元年(1573年)8月、ついに義景は、刀根坂にて致命的な敗北を喫してしまう。主力を喪失した朝倉家に、最早、信長を防ぐ術は無かった。


国境は瞬く間に突破され、織田軍は一乗谷へと迫り来る。義景は一乗谷を捨てて越前大野へと逃れたが、そこで同族の景鏡の裏切りに遭い、自刃に追い込まれた。織田軍接近の報を聞いて、一乗谷は恐怖に慄き、逃げ惑う人々で大混乱に陥った。そこへ織田軍が一乗谷に突入してきて、寺院、町屋を問わず、あらゆる箇所に火をかけて回った。その炎は数日に渡って燃え盛り、一乗谷100年の歴史は、灰燼と化したのだった。


義景滅亡後、信長は朝倉旧臣であった桂田長俊を一乗谷に置いて、越前の統治を委ねた。だが、桂田長俊は専横の振る舞い多く、同僚の富田長繁と越前一向一揆の蜂起を受けて、一乗谷にて攻め滅ぼされた。以後、越前は一向一揆の支配する所となったが、天正3年(1575年)、信長は再び越前に攻め入って、一向一揆数万人余を撫で斬りとした。信長は平定成った越前の統治を、柴田勝家に委ねた。勝家は統治拠点を北ノ庄(福井)に定めて、一乗谷から寺院や住民を移転させていったため、荒廃していた一乗谷は一層衰退し、以降、町並みの多くが田畑へと変わっていった。


一乗谷は忘れ去られた幻の都市となったが、昭和42年(1967年)に発掘調査が始まると、戦国時代の町並みがほぼそのままの形で残っている貴重な遺構であると判明した。そして、国は、一乗谷を特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重指定とする。今でも湯殿跡庭園や、諏訪館跡庭園などの見事な庭園は静かに水を湛え、かつての一乗谷と朝倉氏の繁栄振りを偲ばせている。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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