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満州国と虎頭要塞 後

ソ連軍は湿地帯を踏破するのに難渋したが、それでも物量にものを言わせて着実に包囲の輪を縮めていく。これを受けて大木大尉は、外周の警戒部隊を要塞内に撤収させた。堅固な陣地に拠っての篭城戦の開始である。戦闘状況報告書によれば、8月9日午後13時、41センチ榴弾砲を含む各種要塞砲が火を噴き、イマン鉄橋やソ連軍火点に向けて猛砲撃を開始したとある。これらの反撃砲火によってソ連軍の火砲は一時沈黙し、イマン鉄橋も損傷してシベリア鉄道は一時通過不能となった。41センチ榴弾砲は、まさに期待通りの破壊力を示したのだった。しかし、虎頭要塞のもう一つの切り札であった24センチ列車砲は、他方面に分解輸送中であったのでこちらは未使用のまま終わっている。 
 
 
8月10日未明、各所でソ連軍に対する斬り込み戦闘が行われた。午前6時半、要塞から対岸のソ連陣地に向けて先制砲撃が開始されると、これに応じてソ連軍重砲も反撃して来たため、河を挟んでの熾烈な砲撃戦となった。午後12時、ソ連軽爆撃機40機が飛来し、日本軍陣地や砲列に向けて銃爆撃が加えられた。これらの砲爆撃によって、日本軍は砲数門と、二つの観測所を破壊された。午後17時30分、対岸のソ連軍重砲が制圧射撃を加えた後、18時から20時にかけてソ連軍部隊による総攻撃が行われた。日本軍はこれを陣地前で迎撃し、肉迫斬り込み攻撃を加えて撃退せしめた。日本軍は必死の奮闘を見せてソ連軍の浸透を阻み続けたが、虎頭要塞は敵中に孤立しており、激しい激突を繰り返す度に戦力を磨り減らしていくのだった。中猛虎山の弾薬庫は運び込まれた重傷者で埋まってゆき、壁際には死体が積み上げられていった。一方のソ連軍は度々、撃退されつつも、無尽蔵とも思えるほどの補給と補充があった。 
 
 
8月13日午前、ソ連軍は多数の戦車と火砲を並べて押し潰すような猛攻を加え、西猛虎山と中猛虎山の山頂を奪い取った。そして、ソ連軍は煙突や換気口にガソリンを流し込んで、要塞内部を燻り始めた。日本軍は山頂を奪還すべく、斬り込み隊を送り込んで白兵戦を繰り返したが、ついに奪還はならなかった。8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が流れ、日本は無条件降伏する。だが、日本の降伏後もソ連は侵攻を止めなかったし、大木大尉も玉音放送をデマと受け取ったので尚も虎頭要塞の戦闘は続行された。この日も終日、激闘は続き、斬り込み隊が虎頭街のソ連軍指揮所を攻撃して、兵舎2棟を焼き払った。8月16日午後17時、日本軍は15センチ加農砲を山頂のソ連軍に向けて射撃し、これを駆逐せしめた。ソ連軍もすぐに重砲の反撃砲火を浴びせた後、部隊を差し向けて奪還に取り掛かったが、日本軍はその意図を看破して逆撃を加えて撃退せしめた。 
 
 
満州では、虎頭を始め、ハイラル、東寧にある日本軍要塞は奮戦してソ連軍の大部隊を食い止めていたが、全体的な戦況は絶望的であった。関東軍主力は当初の方針通り、南部の通化目指して総撤退に入っていたが、国境付近の守備隊と居留民の多くは、ソ連軍の津波の前に取り残される形となった。居留民の多くは取る物も取り敢えず、自力で数百キロの距離を走破して避難せねばならなかった。飢えと疲労が重く圧し掛かる中、急に牙を剥き始めた漢人、朝鮮人、満人による襲撃を受け、それにソ連軍による蹂躙が加わって、居留民達は塗炭の苦しみを味わった。ソ連軍は進撃路上に避難民がいるとそのまま戦車でひき潰し、逃げ惑う人々に自動小銃を浴びせかけた。ソ連軍に占領された都市では日本人は徹底的に略奪され、婦女子は繰り返し性暴行を受けた。多くの避難民が逃避行に絶望して家族諸共、自決の道を選んだのだった。中には漢人に子供を預けてから逃避行したり自決する者もいて、この過程で多くの残留孤児が生まれる事になる。 
 
 
8月17日の虎頭要塞。ソ連軍は捕虜とした日本人5人を軍使として差し向け、降伏するよう呼び掛けた。要塞本部付きの中尉がこれに応対し、降伏勧告状を受けとって中猛虎山の逆襲口に戻っていった。しばらくして中尉が出てくると、「よし、ソ連軍に伝えよ。我が軍はこの地を死守せよとの命令を受けている。我々はこの地を死守し、大日本帝国悠久3千年の大儀につくのだ」と宣言し、勧告状に赤線で大きく×印を書き込んで、代表の森軍使に手渡した。しかし、何を思ったか、森氏がにわかに走り出したため、中尉は怒鳴りつけて呼び止め、一刀のもとに斬り捨てたのだった。戻ってきた4人の軍使の報告を受けたソ連軍は、以降、降伏勧告を送る事を止め、日本軍の殲滅を決定した。守備隊は生き延びる道を自ら閉ざしたのであるが、ソ連軍が今現在、満州で続けている蛮行を鑑みれば、この降伏拒否もやむを得ない出来事であったのかもしれない。それに、降伏勧告を受け入れていたとしても将兵の大半はシベリアの凍土で強制労働を課せられた上、民間人の多くも略奪、暴行の憂き目にあったのは間違いないだろう。 
 
 
ソ連軍の攻撃は再開され、地下要塞にガソリンを注ぎ込んでは深部まで焼き払い、また、大量の一酸化炭素を発生させて窒息死に追い込んでいった。8月18日、虎頭要塞の象徴とも言える41センチ榴弾砲も、最後の時を迎える。これまでに百数十発の巨弾をソ連軍に叩き込んだが、ついに火薬庫に直撃弾を受け、コンクリートの覆いごと吹き飛んだのだった。8月19日、中猛虎の砲兵陣地は、ソ連軍のカチューシャロケットによる猛射を浴びせられ、それに続くソ連軍部隊の攻撃によって中猛虎一帯が制圧された。これによって中猛虎の地下要塞は、各陣地との連絡を閉ざされて孤立する。ここに本部を置いていた守備隊首脳部は最早これまでと定め、50キロの爆薬を要所に設置させた。そして、午後20時、爆薬に点火し、大音響と共に要塞ごと自爆して果てたのだった。避難していた民間人300人も最後を共にする。戦後の調査では、子供を含む多数の人骨が発見されている。 本部の全滅によって組織的な抵抗は終わった。だが、まだ幾つかの要塞陣地は残っており、最後まで激しく抗戦する。
 

8月21日、西猛虎陣地の将兵達はソ連軍に最後の斬り込みを行った後、全滅。8月26日早朝、最後に残った虎粛山陣地に苛烈な砲撃が加えられ、午後15時、それを生き残った70人余の日本軍に対して、ソ連軍1千人が総攻撃し、午後15時30分に陣地は陥落した。これで、虎頭要塞は完全に沈黙する。殲滅戦であったため、将兵も居留民も捕虜となったのは僅かで、戦後、内地に帰還した者は53人に過ぎなかった。8月9日の開戦以来、17日間に渡る死闘であった。満州防衛の要であった虎頭要塞の陥落によって、日本が大陸に抱いた見果てぬ夢も砕け散った。満州全体での日本軍の戦死者は推定8万人、日本人居留民の死者は推定18万人と見られている。ソ連軍の戦死者は8,200人、負傷者は2万2千人であった。関東軍主力は戦わずして後退し、そのままソ連軍に降伏するという憂き目にあったが、虎頭要塞を始めとする少数の国境守備隊は命を賭して時間を稼ぎ、避難民の後退を助けた。彼ら国境守備隊の奮闘が無ければ、居留民の犠牲者はさらに増えていただろう。彼らの戦いは、決して無駄では無かったはずである。 
 
 
ソ連はその後、満州全土と日本領の樺太南部、全千島列島も占領する。そして、それらの地域で捕虜とした軍民70万人余を強制連行し、シベリアを始めとするソ連各地に送り込んでいった。彼らは極寒の気温の中、栄養不足で重労働を課せられ、次々に息絶えていった。これらシベリア抑留者の実態は、今だ明らかになっておらず、その死者数は10万人を超えるとも言われている。日本が満州に心血を注いで築いてきたものは、敗戦によって全て失われた。それは、言葉では言い表せないほど膨大なものであった。残された工業、産業、鉄道施設は当時の金額で約400億円、現在の金額で何十兆円にもなる。だが、満州を占領したソ連は工業、産業施設の内4割を持ち去り、4割は破壊していったとされる。 
 
 
これに対して中国政府は、「満州国の遺産は中国に帰属するものである」と、厳重に抗議したが、ソ連は満州を開放したのは我々であるとして聞き入れなかった。それでも、日本が満州に残していった近代国家の基盤は、中国にとってかけがいの無いものであった。この地域に残された工業施設が、戦後の中国経済の発展を支える事になるのである。だが、日本が築いた満州国にも負の一面はあった。それは、満州における阿片製造である。阿片は中毒性のある麻薬であり、これが満州国における主要財源となっていた。満州における阿片生産は古くからのもので、張作霖、張学良の軍閥時代にも行われていたものだが、新国家建設という莫大な費用を要する事業を推進するため、日本もこれを継承していたのだった。
 
 
現在、中華人民共和国は、満州国を偽満州国と呼んで非難し、虎頭要塞も日本帝国主義の残照として紹介している。しかし、かつての満州が異民族の支配する土地であった事実と、日本がそこに築いた産業基盤によって中国経済が支えられてきた事実は伏せられている。その中国は国共内戦の終結後、チベットやウイグルに侵攻して少数民族を弾圧虐殺し、大量の漢民族を送り込んで自国領土であるとの既成事実を作り上げるに到った。この様な中国が捏造する歴史に、日本が迎合する必要は無い。満州国は未開の大地に近代産業を築き上げた日本人の開拓精神の象徴として、そして虎頭要塞は、自国民を守るべく玉砕していった将兵達の愛国心と自己犠牲の象徴としてとらえるべきだろう。国際社会は今も尚、弱肉強食である。日本は敗れたからと言って卑屈にならず、主張すべき事は主張せねばならない。そして、苦杯を嘗めた第二次大戦の教訓も生かしつつ、これからも国家を守っていかねばならない。 

 
 
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↑満州国の首都、新京(長春)  (ウィキペディアより)
 
日本が満州に建設した近代都市 
 
 
 
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↑昭和製鋼所 (ウィキペディアより)
 
日本が満州に建設した製鋼所 

 
 
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