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決死の島抜け行「黒瀬川を越えて」

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

江戸時代後期、下総国佐原村に佐原喜三郎と云う侠客がいた。喜三郎は地元の裕福な大百姓、本郷武右衛門の子として生まれた。この本郷家の跡取りと期待されていた喜三郎は、成人してから江戸にある普化宗一月寺に入門し、高僧からの指導を受けて修行を始める。しかし、どこで道を間違えたのか、賭博にはまって侠客となり、やがて佐原に戻って胴取り親分となった。そして、渡世上の争いで人を殺めてお縄となり、天保8年(1837年)に伊豆諸島の八丈島に流刑となったのだった。だが、喜三郎には島で朽ち果てる気は毛頭無く、船で運ばれている最中からすでに島抜けを考えていた。


喜三郎はやくざ者とは言え、非常に頭が切れる上、高僧からの教えもあって教養も深かった。それに喜三郎の出身地、佐原には日本地図の大家、伊能忠敬の本家があって、忠敬が描かせた、「伊豆七島実測図」をどこかで見て、それを頭に記憶していた模様である。伊能地図は門外不出の幕府の極秘事項であったが、喜三郎は佐原の実力者であったから、見る事が出来たのだろう。喜三郎は八丈島に到着すると、朝日象現と称する虚無僧に成りすまし、島内を徘徊しては気象や海流の観測をして回る。その最中に出会ったのが、花鳥と云う女流人だった。花鳥は吉原の遊女出身で、13歳の時、苦界から逃れようとして放火し、15歳になった時点で八丈島に流されてきたのだった。


喜三郎は義太夫、新内(どちらも浄瑠璃)の名手であり、花鳥は三味線が得意であったから、2人はすぐに意気投合する。この時、喜三郎は32歳、花鳥は24歳、2人が恋に落ちるのに時間は要せず、同居生活が始まった。やがて喜三郎を中心に7人の流人が集い、お互いの結束を固めつつ、島抜け計画が進められていく。花鳥も江戸の両親に会いたい一心から、この謀議に加わった。そして、天保9年(1838年)7月3日、黒潮を乗り切るに足る順風が吹き始めると、喜三郎は頃合は良しと見て、帆柱2本、櫂8本の漁船を盗み出すと、外海へと乗り出した。いよいよ、前代未聞の島抜け劇の始まりである。だが、一行の前には、最初から大きな難関が待っていた。それは、八丈島からその北にある御蔵島までの距離、80キロ間を流れている黒潮の奔流、黒瀬川である。


黒瀬川は時速7~13キロで流れており、当時、多くの船がこれに捕まって難破したり、漂流の憂き目にあっていた。八丈島の島唄にも、「鳥も通わぬ八丈島を 越えよと越さぬ黒瀬川」と歌われている。喜三郎らは、これを数人乗りの小さな舟で乗り切らねばならないのである。だが、喜三郎の頭の中には、かつて見覚えた詳細な日本地図、「伊豆七島実測図」があり、それに日頃の観測結果と、情報収集を加えた結果、勝算ありと踏んだのである。この賭けは見事に当たり、慣れた漁師ですら月に3日しか渡れないと云う黒瀬川を突っ切る事に成功する。そして、舟は順風に乗って、2日間で80里(約320キロ)も走破した。


だが、7月4日、大島の付近で嵐に襲われ、帆柱が折れて舟は漂流状態となってしまう。翌7月5日以降も嵐は続き、木の葉の様に揺れる舟から、2人の流人が流されていった。7月7日、なんとか嵐を抜けて、舟は房総半島沖を漂流する。この時、2人の流人が陸地を求めて泳いでいったが、この2人も行方不明となった。7月8日、北東の風に乗って、船は銚子の犬吠崎(いぬぼうさき)を越え、鹿島灘に入った。そして、7月9日、鹿島郡荒野村の浜に近づくと、喜三郎らは船を寄せて座礁させ、とうとう本土に帰り着いたのだった。この7日間の航海で4人が死んだり行方不明となったが、喜三郎と花鳥、仲間の流人1人は生き残ったのだった。江戸から遥か南にある八丈島からの島抜けは、25件確認されているが、成功したのはこの佐原喜三郎だけの様である。


体力を消耗してふらふらになっていた喜三郎らは、浜で出会った1人の漁師に助けを求め、しばらくそこの納屋で介抱を受けた。7月12日、体力を回復した喜三郎らは、その故郷である佐原村へと向かった。翌7月13日、喜三郎は佐原村に着くと、かつての子分の世話になりながら身を潜め、おりしも危篤になっていた父、武右衛門との再会を果たす。武右衛門は思わぬ息子との再会を喜んだ後、翌月に息を引き取る事となる。しかし、佐原にも間もなく島抜けの噂が流れ始め、危険を察知した喜三郎は7月22日に江戸へと向かう。 翌7月23日、喜三郎らは江戸に入り、そこで花鳥は十数年ぶりに両親との再会を果たしたのだった。


2人はしばらく江戸に身を潜ませつつも、幸せな日々を送った。しかし、潜伏していた浜町にも喜三郎らの噂が流れ始める。 10月3日、危険を感じた2人が今まさに西国に逃れようとしていたところへ、役人に踏み込まれ、あえなく御用となった。幕府は、不可能と思っていた八丈島からの島抜けに驚き、2人を詳細に取り調べた後、極刑に処する事を決定した。 そして、3年後の天保12年(1841年)4月、花鳥は江戸市中引き回しの上、斬首となった。享年27。 だが、喜三郎の方は、子分から送られてくる見届け物に物を言わせて生き延び続ける。


喜三郎は、前代未聞の島抜けを果たした者として、皆から一目置かれており、推されて牢名主となった。それからは真面目に務め上げ、治安を安定させ、病を患った囚人を看病したりして、牢内の信望を得る。そして、火事の際、喜三郎が預かる牢から解き放たれた囚人が、全員立ち戻ってきた功を評されて永牢(無期懲役)に減刑された。喜三郎は悪賢いが、侠気があって人を惹きつける魅力があったのは確かであった。しかし、喜三郎は長い牢生活と、病人の囚人を看病し続けた事によって結核を患ってしまう。 やがて喜三郎は、自らの実体験を詳細に描いた記録本、「朝日逆島記」を牢内で書き上げる。それを奉行所に提出した結果、大変な評価を受けて、弘化2年(1845年)5月9日、ついに出獄を許される身となった。


命懸けの島抜けを果たし、その後、捕まって恋人は刑死し、自らも刑の執行を待つばかりであった死罪人が、とうとう自由の身となったのである。この時、喜三郎は40歳、かつての子分達から続々と見舞い品が届けられ、久方ぶりに娑婆の空気も味わった。しかし、喜三郎の強運もここまでだった。喜三郎は病を悪化させ、出獄1ヶ月にして病死してしまう。一方、喜三郎らと共に島抜けした流人の1人は、その後も捕まっておらず、真の島抜け成功者となっている。この喜三郎と花鳥の島抜けは人々の語り草となって、小説や演劇のモデルとなった。


流人となった者のほとんどが一度は心に抱くもの、それが島抜けである。島抜けこそ流人の花であったが、それは死と隣り合わせの仇花でもあった。成功率は千分の一程度で、失敗すれば極刑が待っている。それでも多くの流人が、飢餓から逃れんとして、親兄弟に会わんとして、自由の身にならんとして、海を漕ぎ出していった。だが、そのほとんどが、無残な末路を辿ったのだった。





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伊豆七島の流人

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

伊豆の七島とは、東京の南、太平洋上に浮かぶ島々、北から大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の事である。これらの島々は本土から遠く離れ、周囲を海で囲まれている事から、古来より流刑の地として利用されていた。だが、本格的に流人がこの島々に送られるようになるのは、江戸時代からである。その代表格として上げられるのは、関ヶ原の合戦で副将を務めた宇喜多秀家であろう。


秀家は七島の最南端にある八丈島に流されたが、元大名であった事から客人としての待遇を受けていた。それに正妻の豪姫が北陸の大大名、前田家の出身であった事から、その援助を受けて秀家の子孫は繁栄し、明治の世には20家まで増えていた。しかし、これは例外中の例外であって、大多数の流人は地味の乏しい離島で、喘ぎ苦しみながら生活を送っていたのである。



遠島の刑は、現在の終身刑に当たる重罪である。その主な罪は、幕政批判、放火(放火の罪は重く、火あぶりと定められていたが、15歳未満の者は遠島とされた)、密貿易、恐喝、詐欺、博打(三度までは敲き(たたき)であるが、それ以上になれば遠島とされた)。遠島となっても、将軍の代替りや、慶弔、法要の折には特赦や恩赦も実施されたが、これに加えて、流人の関係者による強力な放免活動も必要であった。それも30年から40年経ってようやく放免は実現するため、それまでに死ぬ者が多かった。


八丈島に送られてくる流人は、最初は政治犯や思想犯が多く、島民は教養ある彼らを国人(くんぬ)と呼んで尊敬していたが、時代が下るにつれ無頼漢の刑事犯が増えてきたので、次第に軽蔑するようになった。江戸時代後半の例を挙げると、最多は博徒で、次に女犯の僧侶、そして喧嘩であった。ちなみに江戸時代、僧侶の妻帯は禁じられていたが、実際にはお針女とか洗濯女の名目で寺内に引き入れたり、遊里に通ったりしていた。それが発覚すれば、日本橋に3日間晒された上、寺法に則って処分された。寺持ちの僧侶であれば遠島で、相手が人妻であったなら、僧侶と言えども獄門に処された。


遠島となった者は道義に外れた者も多く、問題も多く起こした。そのため、島民は困り果てて度々、遠島の免除を願い出たが、幕府は聞き入れなかった。遠島が無くなるのは、明治の世まで待たねばならなかった。流人が配所に到着すると、島役人の人改めを受けた上で、それぞれの村に受け渡される。女流人は、男流人とは区別されて島の有力者の召使いとされた。女流人の小屋には男流人が群がって妊娠する事もあったが、子を養う力が無いため、赤子は捨てられていった。配所には流人頭がおり、流人達の世話と統率に当たった。流人頭は、流人の中から信望のある者が任命されており、親切で面倒見のある者もいたが、同じ流人を家来の様に扱って、牢屋の専制君主の様に振舞う者もいた。


流人は身分によって扱いが異なっており、武士、高僧、有識者などは「別囲」と呼ばれて、寺や島役人の離れに寄宿した。その中でも、宇喜多秀家の一族は別囲以上の扱いを受けていた。見届け物の多い裕福な流人は「家持流人」と呼ばれ、借家に住んだ。しかし、大多数の流人は「流人小屋」と呼ばれる、粗末な掘っ建て小屋に住んでいた。島送りの流人達は渡世勝手次第と言って、自分で生計を立てるのが原則であった。


一見自由に見える流人の生活にも、禁止事項はある。島抜けの禁止・再犯の禁止・水汲み女の雇い入れの禁止(島妻の禁止)・内証便の禁止(見届け物や手紙の密輸禁止)などである。伊豆の島々は水の便が悪く、それを汲むのは島の女の役目であり、それが水汲み女と称されていた。「別囲」「家持」などの流人は水汲み女を雇い入れて、実際には島妻としていた。表向き、水汲み女の雇い入れは禁止されていたが、妻子を持つと流人の心が和んで再犯防止に効果があったので、どの島でも黙認されていた。


島民が最も恐れたのは、流人の再犯である。そのため、再び犯罪に手を染めたなら厳罰を持って望んだ。その主な刑は、斬首、簀巻き(むしろで巻いて海に投げ落とす)、縛り首、断頭刑(木槌で頭を打ち砕く)、榾(ほだ)の掛け捨て(手足を丸太に挟んだまま死ぬまで放置する)などである。伊豆七島は小さな火山列島であり、耕作地は狭く、火山灰によって作物の実りも乏しい。その上、台風などによる塩害や風害を受ける事も多く、その都度、深刻な飢饉に襲われた。そうなれば島民には男1人2合、女1人1合のお救い米が幕府より支給されたが、流人とその子供は適用外であり、飢饉になると多くが餓死していった。流人がこの島で生きて行くには、親族などから送られてくる、金品や食料などの見届け物が必要不可欠であった。


宇喜多一族には、加賀100万石の前田家から、隔年で豊富な見届け物が届けられていたが、これは宇喜多一族のみに当てはまる事であって、ほとんどの流人は親族からの細々とした見届け物で命を繋いでいたのである。そして、飢饉になると頻発したのが、流人による島抜けであった。新島では、寛文8年(1668年)から明治4年(1872年)までに18件、三宅島では、明和2年(1765年)から文久3年(1863年)までに35件、八丈島では、享保7年(1722年)から延元年(1860年)までに25件、確認されている。島を抜けるには数人がかりで船を漕がねばならないので、大抵5人から10数人で決行されている。島抜けの例を幾つか挙げてみる。


嘉永5年(1852年)6月8日、新島から竹居安五郎と云う侠客の親分が6人の仲間と共に島抜けを図った。この時、安五郎は42歳、諸般の罪科を重ねて、遠島となっていた。まず、安五郎らは島の名主宅を襲って殺害した上、鉄砲を盗み出した。そして、水先案内を捕らえると、本土へ向けて船を漕ぎ出した。翌9日、船は伊豆半島に漂着したが、この時に案内人が逃れて代官所に駆け込んだ。直ちに安五郎らの人相書きが配られて、捜索が始まった。一味はばらばらに逃れたが、3人は捕らえられて獄門に処され、3人は行方不明となり、安五郎は甲斐国へ逃れて追跡を振り切った。かつての子分達が、安五郎を匿ったのだろう。そして、安五郎は関東のあぶれ者達の集まり、甲州博徒の親分に復帰して、10年に渡って君臨する事になる。


島抜け成功者として、侠客の中でさらに重きを成していた安五郎であったが、文久元年(1861年)10月6日、ついにその悪運も尽きる時が来た。安五郎の用心棒であった、犬上郡次の密告を受けてお縄となったのである。この郡次は、安五郎の島抜けの際に殺された名主の甥であった。そして、翌文久2年(1862年)安五郎は獄死する。しかし、密告した郡次も、安五郎の一番子分、黒駒の勝蔵の報復を受け、滅多斬りにされて殺されたのだった。


万延元年(1860年)11月、この年は飢饉だったらしく、三宅島に在島していた流人258人の内、34人が島抜けを図った。その中の1人、金子伴作は仲間13人を誘って船を漕ぎ出したが、海が荒れていたからか、島に押し戻されてしまう。そこで、一味は村の鉄砲庫を襲った上で山に逃れた。10日後の深夜、一味は再び船を漕ぎ出したが、村民に非常線を張られており、追跡されて全員が海上で殺されたのだった。

カルタゴの滅亡 3

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
紀元前148年、長期の滞陣でローマ軍の士気は下がり、規律も乱れ始めていた。ローマ軍の司令官は、兵士達に再びやる気を引き起こさせようとして、カルタゴ側の小都市を幾つか攻撃して陥落せしめる。そこでのローマ軍の略奪は、容赦の無いものであった。だが、こういった戦果も、膠着した戦局を打開するには至らなかった。本国ローマでは事態を憂慮する声が上がって、増援部隊の派遣と、新任の司令官スキピオ・アエミリアヌスを送り込む事を決定する。このアエミリアヌスは、かのローマの英雄、スキピオ・アフリカヌスの養孫にあたる人物で、その再来を思わせる軍才を示していた。ローマ上層部の期待にたがわず、アエミリアヌスは現地に着任するや否な、弛緩した軍律を引き締め直し、激励の演説をして、兵士達の士気をたちまち取り戻していった。


カルタゴ側では、ローマ軍が強化された事を知って危機感を覚え、内陸で勇戦していたハズドルバルを召集して、市の総司令官に任じた。アエミリアヌスも動き出し、まずカルタゴ市と内陸との補給路を断ち切らんとして、三重城壁の正面に封鎖砦を築き始めた。カルタゴ側も必死に妨害したが、ローマ軍は卓越した土木工事技術力を発揮して、僅か30日で長大な城砦線を築き上げたのだった。その城砦線には各所に見張り塔が建てられ、その中の一つは三重城壁よりも高い四階建ての木塔で、市街を一望する事も出来た。これにカルタゴ軍民が動揺したため、ハズドルバルは気を引き締め直そうとして、捕虜としていたローマ兵に拷問を加えた上、城壁から次々に投げ落としていった。この様な蛮行はカルタゴ市民も望んでいなかったが、ハズドルバルは反対者も殺害して強行した。目の前で同胞達が無惨に殺されていくのを見てローマ軍は激怒し、来たるべき日の復仇を誓った。


アエミリアヌスは城砦線を築いて内陸からの補給路は遮断したので、今度は海からの補給路を断たんとして、主力を率いてカルタゴの東南、テニアの半島に向かった。第二次ポエニ戦争の敗北を受けて、カルタゴには海軍は存在しなかったが、商船隊は存在していた。これらの勇敢な商船隊は、カルタゴ港を厳重に封鎖するローマ艦隊の網の目を掻い潜っては、市内に補給物資を届けていた。アエミリアヌスはこれを断ち切らんとして、今度はカルタゴ港の正面に長大な封鎖堤を築き始めたのである。カルタゴ人は最初はいぶかしげに見ていたが、工事が進むにつれ、その意図を悟って驚愕した。だが、カルタゴ人は諦めず、ならば別に船の通り道を作らんとして、陸地を開削し始めたのである。そして、開削工事と並行して、艦隊の建造も開始した。


ローマ軍は大量の石材を投じて幅20メートル、全長720メートルもの封鎖堤を築き上げた。だが、その努力はすぐに徒労に終わる。カルタゴ側も市民総出で地を掘り岩を割って、新たに水路を開削したからである。どちらも空前の土木作業であった。それと、カルタゴは限られた資材を投じて、50隻の艦隊も作り上げていた。この艦隊は商船の船長達が中心となっており、しばらく港内で訓練を積んだ後、新たな水路から外海に打って出た。海上にはローマ艦隊数百隻が待ち構えていたが、カルタゴ艦隊50隻はそれに果敢に戦いを挑んだ。


劣勢ながらカルタゴ艦隊は勇戦し、容易に勝敗は決しなかった。だが、両軍の戦力差は余りにも大きかった。夕刻を迎えて、カルタゴ艦隊は撤退に取り掛かったが、その後をローマ艦隊が追う。最早、これ以上は戦えないのでカルタゴ艦隊は港に避難しようとしたが、新たな水路は狭く、少数ずつしか入れなかった。そこをローマ艦隊に狙われ、カルタゴ艦隊の大部分が失われてしまう。最終的に敗れはしたものの、このカルタゴ艦隊50隻の挑戦は、後々まで人々の語り草となった。


カルタゴの港の近くには、チョマと呼ばれる城壁がある。ここは港を見下ろす位置にあって、市街防衛の重要拠点であった。アエミリアヌスもここが要点であると見なして、ローマ軍が築いた封鎖堤を通って、チョマの前面に大兵力と、大型の破城槌、攻城塔を投入した。カルタゴ側も、ここが破られれば致命傷となるのが分かっていたので、軍民、死力を尽くして防戦に努めた。日中、激しい攻防戦が展開されたが、とうとうローマ軍は城壁の一部を破壊せしめる事に成功した。


だが、夜間になると、決死の覚悟のカルタゴ人の一団が海を泳いで忍び寄り、攻城兵器に火をかけて回った。ローマ軍は驚きながらも反撃を加え、その大半を死に至らしめたが、カルタゴ人の決死隊は任務を成功させていた。それならばと、アエミリアヌスは、今度は小型の攻城兵器を数多く持ち込んだ。さらに火を用いた飛び道具を発案し、それを城壁に撃ち込んではカルタゴ兵を追い散らし、とうとうチョマの城壁を乗っ取る事に成功したのだった。
ローマ軍は占領したチョマの城壁に投石器を設置し、カルタゴ市に補給物資を運び入れんとする船に攻撃を加えた。これでカルタゴは、海からの補給路も断たれてしまう。だが、内陸にはまだ、ネフェリスと云う拠点が保持されており、そこからローマ軍の城砦線を避けつつ、チュニス湖を通じて、僅かながらも市内に補給物資が届けられていた。この細々とした補給線こそ、カルタゴ人最後の希望だった。アエミリアヌスの次の目標は当然、ネフェリスとなる。


紀元前147年夏、ローマ軍主力は内陸に進撃し、ネフェリスを激しく攻め立てた。ローマ軍は駐留カルタゴ軍を蹴散らし、軍民合わせて7万人余を殺害せしめたと云う。ネフェリスの陥落でカルタゴは全ての補給路を失い、その滅亡は時間の問題となった。以降、カルタゴ市は深刻な飢餓に陥り、多くの人々が餓死していった。アエミリアヌスは、カルタゴ軍民が十分に弱ったのを見越して、翌年春に総攻撃を実施する事を決した。破滅が目前に迫ってきた事から、カルタゴ側はアエミリアヌスに降伏交渉を持ちかけた。そして、代表としてハズドルバルが会談に赴いたが、アエミリアヌスは都市の破壊を譲らず、会談は物別れに終わる。この時、アエミリアヌスはハズドルバルに対し、その一命と家族、親しい友人の命は助けるから投降するよう呼び掛けた。だが、ハズドルバルはこの申し出を峻拒し、憤激しながら市街に戻っていった。ハズドルバルは傲岸不遜な人物であるが、非常時に国を売るような真似はしなかった。


紀元前146年、アエミリアヌスは最終攻撃に当たって儀式を執り行い、カルタゴ人には呪いを、ローマ人には神の加護があるようにと祈りを捧げた。カルタゴ市にはビュルサと呼ばれる丘があり、この上に壮麗な神殿が建てられていた。これこそカルタゴの象徴であり、ローマ軍の最終目標でもあった。ローマ軍はチョマに集結すると、そこから市街目指して一斉に突撃を開始した。ローマ軍の作戦目標は、まずは港の確保、続いて中央広場、最後にビュルサの神殿の順であった。ローマ軍が港に雪崩れ込んで来ると、カルタゴ側は守り難い地勢にある港を放棄し、倉庫群に火を放ちながら退却していった。ローマ軍の進撃が余りにも迅速であったため、カルタゴ側の応戦は遅れた。しかしながら、ローマ軍が市街中心部へ進撃するに伴って、市民は必死の抵抗を見せるようになる。


ローマ軍は市民の激しい抵抗を排除しつつ、中央広場まで占領した。ここから坂を駆け上がれば、神殿はすぐそこであった。だが、翌朝、ローマ軍の兵士達は占領地での略奪に狂奔し、この日は戦いにならなかった。この間にカルタゴ側は各所から軍民を集結させ、防衛態勢を整える事に成功する。攻囲戦が始まって以来、戦闘と飢餓で市民の半数の命が失われていたが、それでも神殿のあるビュルサ地区にはまだ、10万人余の市民が立て篭もっていた。秩序を回復したローマ軍はビュルサの神殿目指して、再び進軍を開始する。だが、神殿に至る坂道の両脇には、高層の石造建築物が数多く建ち並んでいて、それが砦の役割を果たしており、ビュルサの丘自体も天然の要害となっていた。そこにカルタゴの軍民が立て篭もって、ローマ軍に投石、投槍の雨を浴びせかける。この日を境に、市街戦は本格的かつ、凄惨なものになっていった。


ローマ軍は建物の屋根から屋根に板を架けて乗り移り、市民を斬り伏せ、投げ落としながら、一軒一軒制圧していった。多くの人間が投げ落とされて、路上で戦っている者にも当たるほどであった。路上、建物内、屋根、立て架けた板など、あらゆる場所で戦闘が繰り広げられた。路上を埋め尽くした死体は、行軍に支障をきたすほどであった。そこで、ローマ軍は死体除去の分隊を編成して、瀕死の者であってもかまわず溝に投げ捨てていった。痩せ衰えているとはいえ、カルタゴ市民の抵抗は激烈なものがあった。彼らの必死の形相と雄叫びを受けて、ともすればローマ軍の方が逃げ腰となった。


ローマ軍は幾度となく攻撃を立て直し、アエミリアヌスも自ら陣頭指揮を執って兵士達を推し進めていった。カルタゴ市民は膨大な死者を出して追い込まれていったが、ローマ軍もおびただしい死傷者を出して消耗しており、そのため、市街戦には不向きな騎馬隊まで戦場に投入するに到った。熾烈な市街戦が続く中、ローマ軍の分別は失われてゆき、老若男女問わずに斬り捨てていった。それでも市民の抵抗は収まらなかったので、ついにアエミリアヌスは市街全域に火を放つよう命じた。火に巻かれて多くの市民が焼死していき、建物から逃げ出して来る者はローマ軍が斬り捨てていった。こういった合間にも、各所で略奪が繰り広げられた。


ローマ軍が市街に突入を開始してから七日後、生き残った5万人の市民は抵抗を諦め、降伏を申し出た。しかし、カルタゴの主将ハズドルバルと降伏を良しとしない市民は、神殿に立て篭もって尚も抵抗する。壮麗な神殿を舞台に、最後の戦いが繰り広げられた。やがて神殿は炎上し、悲観した多くのカルタゴ人がそこに身を投じていった。ハズドルバルはこの最終局面になって、家族を伴って投降した。この日、カルタゴは一面燃え盛り、夜空と海を紅に染めた。そして、700年余の歴史に幕を閉じたのだった。


戦後、残っていた建物は悉く破壊され、土地は平らにならされた。そして、永遠の不毛を願って、土地一面に塩が撒かれた。捕虜となった市民5万人は奴隷として、何処かへ売り飛ばされていった。飢餓と戦乱をようやく生き延びた彼らに待っていたのは、過酷な奴隷生活であった。一方、ハズドルバルはローマ兵捕虜を惨殺した前歴があったにも関わらず、ローマで余生を送る事を許された。全てを終えた後、アエミリアヌスは廃墟と化した市街を何時までも見つめて、立ち尽くしていた。そして、「いずれ、我がローマも同じ運命を辿るであろう」と慨嘆し、涙したと云う。ローマ人によって呪われた地とされたカルタゴであるが、100年後、皮肉にも同じローマ人の手によって復興される事になる。以降、カルタゴはアフリカ有数の大都市へと発展してゆき、ローマにとって欠かせぬ都市となる。それゆえ、今に残るカルタゴの遺跡は、ほとんどがローマ時代のものである。


1943年、第二次大戦時、アメリカ軍の猛将ジョージ・パットンはドイツ軍と戦うため、北アフリカに派遣された。作戦終了後、パットンは部下を連れてカルタゴの遺跡に立ち、感慨深げに、「俺はかつて、カルタゴ人としてここで戦ったのだ」と語った。そして、初めて見る遺跡や古戦場を、まるで見てきた事があるように解説して回ったと云う。パットンは自らをハンニバルの生まれ変わりだと語っていたそうだが、実際にはハズドルバルの生まれ変わりであったのかもしれない。現在、ローマ時代の遺跡の下には、カルタゴ滅亡時の焼土層が見て取れる。カルタゴの遺跡はその下にあって、深い歴史と悲しみを湛えて眠りについている。



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↑円形の港がカルタゴの軍港で、その先の長方形が商業港


カルタゴの滅亡 2

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
ローマは、カルタゴとの死闘を経て強大化し、地中海の覇者となりつつあった。しかし、この頃はまだ、支配は完全ではなく、ギリシャ、スペインなど各地で反ローマの火の手が上がっていた。中でも、カルタゴから引き継いだスペインでは反乱が続発し、ローマはこの地に絶えず軍を貼り付けねばならなかった。ローマ軍は地中海最強であり、正規の軍相手には敵無しであったが、地の利を生かしてゲリラ戦を展開するスペイン原住民には難渋した。この反乱は数十年経っても収まる気配はなく、ローマは果てしない消耗を強いられる事になる。スペインの完全な平定を見るには、100年以上後のアウグストゥス帝の時代まで待たねばならない。


一方、カルタゴは国土の開発に務め、経済は持ち直しつつあった。しかし、深刻な悩みの種もあった。それは隣国のヌミディア王、マシニッサによるカルタゴ領への侵攻である。カルタゴとヌミディアは共にローマの同盟国であり、その許可無くしての交戦は禁じられていた。だが、マシニッサはローマが重大な対外問題を抱える度、その間隙を突いてカルタゴ領を蚕食していった。カルタゴは、マシニッサの不法を再三に渡ってローマに訴えたものの、ローマはザマの会戦以来、ヌミディアをより上位の同盟関係と見なしていたので、ほとんど何の反応も示さなかった。その後もマシニッサによる侵略は続き、次々に領土を奪われていったカルタゴでは、ヌミディアに対する怒りとローマに対する不信を増幅させていった。


紀元前160年頃から、カルタゴは軍事力をもってヌミディアに応戦するようになった。だが、それでもヌミディアの侵略は収まらず、ついにはカルタゴ市近郊まで侵入してくる事態となった。これにはさすがにカルタゴも憤慨して、ローマに強く訴えかけた。紀元前153年、これを受けてローマも調査団を送る事を決定し、政界の重鎮であるカトーと云う人物を送り込んできた。このカトーは82歳の高齢で、ハンニバルとの戦争も経験している人物であった。


カトーはカルタゴ市に降り立つと、市街を見学して回った。紛争を抱えているとは言え、カルタゴ市は豊かで活気に満ち溢れており、それを見たカトーは激しい衝撃を覚える。一方のローマと言えば、イタリア半島が第二次ポエニ戦争の主戦場であった事から、その傷跡が今だ各所に残っており、しかもスペイン戦役で消耗を続けているので、国内には厭戦気分が漂っていた。カトーはこの両国の落差に驚き、カルタゴが再び力を付けてローマに刃向かってくるのではないかと思い定めた。そして、この時にカルタゴ滅ぼすべしとの決意を固める。こうして、紛争調停も不調に終わった。


このような問題はあったが、ザマの会戦から半世紀の間、ローマとカルタゴは平和裏に共存していた。そして、経済復興を遂げたカルタゴは、賠償金をローマに完済しつつあった。しかし、カトーは帰国後、政界で演説する度、「カルタゴ滅ぼすべし!」と呼び掛けるようになる。当時のカルタゴは確かに豊かではあったが、総合的に見れば軍事力、経済力とも到底、ローマの敵では無かった。にも関わらず、カトーの主張はローマ国内に徐々に浸透していく。過去、ローマは二度に渡ってカルタゴと死闘を演じており、ローマ人の潜在意識には憎しみと恐怖が残っていた。それに当時のローマは、スペインとギリシャの双方で戦役を重ねて苦闘しており、他民族への寛容の精神が失われつつあった。そうした空気も手伝って、カトーのカルタゴ強硬論は支持を受けてくる。


紀元前151年、カルタゴは、ヌミディア王マシニッサの挑発に堪えかね、庸兵を募ってとうとう大規模な軍事行動に打って出た。マシニッサがカルタゴの友好都市を攻撃してきたのを切っ掛けとして、カルタゴ軍は大挙して出撃し、ヌミディア軍を退去せしめたのである。このカルタゴ軍を率いたのは、ハズドルバルと云う将軍であった。ハズドルバルは勇猛果敢な軍人であったが、傲慢で遠謀深慮には欠けていた。そして、後に重大な問題を引き起こすとも知らず、ハズドルバル率いるカルタゴ軍は、そのまま勢いに乗ってヌミディア領へと侵攻してしまう。


しかし、ヌミディア領深く侵攻したカルタゴ軍は、マシニッサの狡猾な策略を受けて無残な敗北を喫してしまう。このマシニッサは半世紀前のザマの戦いにも参加しており、88歳という高齢ながら、今だ、馬に跨って陣頭指揮を執っていた。余談であるが、マシニッサは41人の子供をもうけて、その末子は87歳の時に生まれたとされている。勇猛かつ残忍で知られるヌミディア騎兵を率いるに相応しい、狡猾さと豪胆さを兼ね備えた人物だった。このマシニッサの言い分としては、「カルタゴ人はよそ者であり、北アフリカを侵略して領土を広げていったのだから、それを取り返して何が悪いのだ」と云うものであった。これには一面の真実も含まれているが、この主張が通れば、カルタゴ人は全ての土地を失ってしまう事になる。


マシニッサに敗れたカルタゴは、軍の主力を失って大きな試練に立たされる。だが、カルタゴに引導を渡したのは、ヌミディアではなくローマであった。カルタゴが、ローマに無断でヌミディア領に侵攻したのは条約違反であるとして、軍団の派遣を通告してきたのである。カルタゴは確かに過失を犯したが、これまでの経緯を見れば、ヌミディア側に非があるのは明白であった。にも関わらずローマは断固として、カルタゴ側の言い分を聞き入れようとはしなかった。ローマはこれまで、介入する機会をじっと窺っていたのであろう。その絶好の機会を逃すはずは無かった。ヌミディアは、だしに使われた様なものであった。そして、これを受けて、8万人ものローマ人が来たるべき遠征に志願した。何故、志願者が殺到したのかと言えば、未開のスペインとは違い、富裕な文化都市に対する遠征とあって、多くの人間がそこに利得を見出していたからだった。


紀元前149年、2人の司令官に率いられたローマ軍8万人余が、カルタゴ市近郊に上陸する。カルタゴは過去、二度に渡って正面からローマと戦ってきたが、今回は、そのような軍事力は存在しなかった。そのため、カルタゴ側は何としても戦争を回避せんとして、300人の人質を提供し、全面降伏を申し出た。これに対してローマは、まず全ての武器を明け渡すよう命じた。カルタゴはこれに応じて、2千の弩、投石器に加えて、20万人分の武器、甲冑を明け渡す。


しかし、ローマは武器を押収した上で、カルタゴ人はその首都を自ら破壊して、海岸から15キロ以上離れた内陸に移り住むよう命じたのだった。この通告は、これまで海洋交易で生きてきたカルタゴ人にとって、死を告げられたのと同様に感じた。生業を失い、住み慣れた土地も放棄して、これからどうやって生きていけというのか!これまでの経緯と、今回のローマの騙し討ちのような仕打ちに、ついにカルタゴ人は激高した。そして、全国民が一致して、最後の戦いを挑む事を決した。 カルタゴとローマの最終戦、第三次ポエニ戦争の始まりである。


まず、カルタゴ人が取り掛かったのは、武器の製造である。都市にあった金属という金属が供出され、それらを鋳潰しては剣、盾、槍、投石器、弩(ど)が作られていった。女は、その髪を弩の材料に提供した。老若男女全てが昼夜を問わず、熱狂的に作業に取り組んだ結果、ローマ軍の攻勢が始まる前にある程度の武器を揃える事が出来た。カルタゴ市には奴隷も含めて20万人余が立て篭もり、その内、戦闘員として武器を取って戦ったのは5万人余であった。その他、先にマシニッサに敗れたカルタゴの将軍、ハズドルバルは残兵2万人余を率いて内陸に拠点を設け、市内に補給物資を運ぶ役割を担った。一方、このカルタゴを攻略せんとするローマ軍は、歩兵8万人余に騎兵4千人余、それに加えてローマ海軍、数百隻がカルタゴ市の封鎖に取り掛かった。


カルタゴ市は、北、東、南の三方を海によって守られている天然の要害であった。残る西は内陸と通じていたが、そこには三重の巨大城壁が築かれていた。海に面した三方も内陸ほどではないが、城壁で囲まれていた。一方、ローマ軍では、いかにカルタゴが強固な城壁を誇っていようとも、全ての武器は取り上げてあるので、大した抵抗は出来まいと高を括っていた。そして、まず司令官の1人が4万人余を率いて、三重城壁に対する正面強襲を開始する。だが、雨あられの如く投石と弩を浴びせられて、死傷者が続出し、城壁に取り付く事さえ困難であった。次にもう1人の司令官が、カルタゴ市の東南にあるテニアと呼ばれる細く狭い半島に上陸して、そこから市街中心部への進入を図ったが、これもカルタゴ市民の果敢な反撃を受けて退けられた。 こうしてローマ軍の第一次攻撃は、完全な失敗に終わった。


案に相違して、カルタゴ市民が壮烈な反撃を浴びせてきたので、ローマ軍は戦略を練り直す必要に迫られた。短期での攻略を諦め、十分な下準備をした上で改めて攻勢とかける事とし、まず攻城兵器の製造に取り掛かった。そして、ローマ軍は巨大な破城槌を2台組み立てると、それをテニアの半島に持ち込んだ。この破城槌は、操作と護衛も含めて6千人もの人員で運用したと云う。その甲斐あって巨大破城槌は威力を発揮し、城壁を破壊し始める。だが、カルタゴ側は夜間、市民総出で城壁を修復すると共に、闇に紛れて奇襲を敢行し、破城槌を破壊せしめたのだった。さらに火船を流して、ローマ軍の軍船を焼き払う事にも成功する。この一連の戦闘で士気が上がったカルタゴ軍は時折、打って出てローマ軍を襲撃するようになった。


市内のカルタゴ市民の敢闘に呼応するように、内陸のハズドルバル軍もローマ軍の後方を撹乱(かくらん)して回った。戦いが長期戦の様相を呈してきたため、ローマ軍はまず、補給と撹乱の任務を担っているハズドルバル軍を叩かんとして、主力を差し向けた。これに対して、数で大きく劣るハズドルバル軍は決戦を避け、強力な騎兵と地の利を生かして遊撃戦を展開する。ハズドルバル軍は神出鬼没で、ローマ軍を散々に翻弄した。こうしたカルタゴ側の思わぬ健闘を受けて、戦線は完全に膠着状態に陥った。この紀元前149年、ローマのカトーは86歳で、ヌミディアのマシニッサは90歳で、共にカルタゴの滅亡を望みながらも、それを見届ける事なく死んだ。


カルタゴ
↑カルタゴ市の概要(海外のウィキペディアより)



カルタゴの滅亡 終に続く・・・

カルタゴの滅亡 1

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一

古代地中海世界、北アフリカの大地に燦然と輝く、一大商業都市があった。その名をカルタゴと云う。紀元前9世紀頃、カルタゴは、東地中海(現在のレバノン周辺)に勢力を張っていたフェニキア人の手によって建設された。当初は小さな植民都市として始まったが、カルタゴのあるチュニジアは地味豊かな大地で、しかも地中海の東西交易の中継地である事も手伝って大いに繁栄し、やがては地中海随一の貿易都市にまで発展する。だが、母国フェニキアはアッシリアやバビロニアといった周辺勢力の伸張によって衰亡していったため、カルタゴは一国家として自立せねばならなくなった。


以降、カルタゴは、地中海の雄、ギリシャと激しく競り合いながら強力な海軍を築き上げ、紀元前5世紀には西地中海一帯に領域を持つ、一大海洋国家に成長する。後にカルタゴの宿敵となるローマであるが、この頃はまだイタリアに数ある都市国家の一つに過ぎず、カルタゴを上位と認める条約を結んでいた。だが、紀元前3世紀になるとローマはイタリア半島全域に支配力を及ぼす、一大国家に成長していた。自然、両大国はお互いを意識して、緊張が高まってゆく。そして、イタリア半島のローマと北アフリカのカルタゴの中間に位置し、お互いの勢力が交錯するシチリア島にて、ついに両者は激突した。時に紀元前264年、第一次ポエニ戦争の始まりである。


シチリアは地中海のほぼ中心に位置する要衝で、この島を制すると、周辺の制海権はおろか、地中海全体に影響を及ぼす事も可能であった。そのため、両国とも総力を挙げて、島の争奪戦を繰り広げた。カルタゴはその経済力をもって各地から庸兵を招集してシチリアに送り込み、ローマは市民から徴兵した国民軍を送り込んでいった。当初、海軍戦力はカルタゴ側の圧倒的優勢であったが、ローマは1から海軍を育て上げ、それに新戦術を加えて、カルタゴ海軍と互角以上の戦いをするまでになった。勢いに乗ったローマ海軍は度々勝利を収め、制海権を握るかに見えたが、嵐を受けて数万人もの人員が海没する大被害を二度も受けてしまい、以後は振るわなくなった。


それでも、ローマ軍は10数年の歳月をかけて、一歩一歩、シチリア島の地歩を固めていった。長引く戦争で、両国とも国力と人員を大きく消耗し、国民に重税を課す事でようやく戦線を維持していた。両国とも疲弊しきっていたが、より苦境にあったのは、シチリアから追い落とされつつあったカルタゴであった。ここでカルタゴは、ハミルカルと云う新進気鋭の将軍をシチリアに送り込んで、事態の打開を図った。このハミルカルこそ、かの有名なハンニバルの父である。ハミルカルは天才的な指揮官で、寡兵をもって要害に立て篭もると、以後、数年に渡って優勢なローマ軍相手に互角に渡り合った。ローマ軍は、地上ではどうしてもハミルカルを撃ち破る事が出来ず、この戦争に勝利するにはハミルカルへの補給を断つしかないと察した。そして、最後の努力を傾けて200隻の艦隊を建造すると、それを、ハミルカルに補給物資を運び入れようとしていたカルタゴ艦隊にぶつけた。この運命の海戦でカルタゴ海軍は壊滅し、制海権を完全に喪失してしまう。


こうして補給路を断たれ、敵中に孤立する形となったハミルカルは、ローマと不利な和議を結んでシチリアを去らざるを得なかった。こうして第一次ポエニ戦争は、ローマの勝利に終わった。時に紀元前241年、24年に渡る長い消耗戦であった。この戦争を契機にローマは一大海軍を築き上げ、地中海の制海権を握るに至った。しかし、その代償も大きく、戦争によってローマ市民の人口は17%も減少した。前251年の統計では、成人市民の数は29万7,797人であったのに、前246年の統計では25万1,211人に減少していた。一方、カルタゴはその主兵が傭兵であったため、人的被害は少なかったが、国富は底を突き、海軍は弱体化し、要衝シチリア島も失った。その上、10年払いで3200タレントの賠償金を課せられた。


戦後、カルタゴは深刻な財政難に陥った。そして、雇っていた傭兵の賃金を出し渋ったため、紀元前240年、4万人を越える傭兵が大反乱を起こした。この反乱には、第一次ポエニ戦争中、重税が課せられていた北アフリカの諸都市も加担し、一時は10万人の規模にまで膨れ上がる。更にカルタゴの勢力範囲であったサルデーニャ島(イタリア半島南西にある大きな島)でも反乱が勃発し、その支配から離れた。存亡の危機に立ったカルタゴは急遽、市民を動員し、新たに庸兵も雇い入れた。そして、再びハミルカルを指揮官に任命して、カルタゴの命運を託した。反乱軍側の方が規模は大きかったが、ハミルカルは卓越した軍才を発揮して、反乱軍を追い詰めていった。そして、最終的には4万人以上の庸兵全てが殺される形で、本土の反乱はようやく終息した。時に紀元前238年、3年半に渡る戦いであった。戦後、カルタゴは蜂起に加担した都市や部族に報復を加え、女子供を含む多くの人間を処刑していった。


紀元前237年、カルタゴは本土の反乱は平定したので、今度はサルデーニャ島の反乱鎮圧に取り掛かろうとした。しかし、これに先んじてローマが兵を派遣し、サルデーニャ島とその北にあるコルシカ島まで占領してしまう。ローマは、カルタゴの弱体化に付け込んで、両島を不法占領したのだった。カルタゴはこれに激しく抗議して艦隊の準備に取り掛かると、ローマは、カルタゴの出兵準備はローマに対する侵攻準備であるとして、宣戦を布告してきた。庸兵の反乱を受けてまったく余力が無かったカルタゴは、何としても戦争を回避すべく1200タレントの追加賠償金を支払った上、両島も放棄せざるを得なかった。このサルデーニャ島は重要な交易拠点にして、食料供給地でもあったのでカルタゴの受けた打撃は大きかった。そして、ローマに対する深い遺恨を覚えた。


第一次ポエニ戦争、庸兵の反乱、ローマによるサルデーニャ島、コルシカ島の占領を受けて、地中海におけるカルタゴの勢力範囲と国力は大きく減退した。だが、カルタゴにはまだ、スペインという植民地が残されていた。このスペインは豊富な銀を産出して、カルタゴの苦しい財政を助けていた。しかし、このスペイン植民地は、南部の沿岸部を占有するに留まっていて、内陸部はほとんど手付かずの状態にあった。このまま手隙の状態が続くと、今度はローマがスペインを狙う可能性があった。この時、カルタゴの指導者となっていたハミルカルはスペインの確保を確固たるものとすべく、遠征を主張する。


おそらく、ハミルカルはこう考えていた。ローマが介入する前にスペイン全土を掌握し、その地からもたらされる富をもって、カルタゴの財政を復興させる。そして、戦力を蓄えた上でローマに報復し、カルタゴを再び地中海の覇者へと導く、と。このスペイン遠征案は政府に承認され、正式にカルタゴの国家戦略となった。紀元前237年、ハミルカル率いる大船団がカルタゴから出航せんとしていた時、9歳になっていたハンニバルは父に同行を願った。それに対してハミルカルは、「ローマを生涯の敵とせよ」との誓いを立てさせた上で、同行を許したと云う。ハミルカルは勇躍スペインに上陸したものの、諸部族の抵抗は思いのほか激しく、戦いに次ぐ戦いの日々が続いた。それでも徐々に支配地は広がっていって、経営が軌道に乗り出したところ、紀元前229年頃、ハミルカルは壮図半ばで、戦死してしまう。


だが、ハミルカルの残した基盤は、娘婿であったハズドルバルが引き継ぎ、それを更に発展させていった。紀元前221年、ハズドルバルが不慮の死を遂げると、25歳になっていたハンニバルがその跡を引き継いだ。ハンニバルはしばらくはスペインの諸部族相手に戦い、貴重な戦闘経験を得ると共に地盤を固め直した。そして、紀元前219年、ハンニバルは亡き父との誓いを果たさんとしてか、大軍を連ねて、遥かローマを目指して進軍を開始する。第二次ポエニ戦争の始まりである。しかし、地中海の制海権はローマの手にあるので、ハンニバルは未開のフランスを横断し、峻険なアルプスを越えてイタリアに向かわねばならなかった。ハンニバルとその軍は苦心してイタリアに辿り着くと、そこからイタリア全土を縦断してローマに凄まじい損害を与え続けた。


ハンニバルの戦歴の頂点となるのが、紀元前216年に行われたカンナエの戦いである。ハンニバル率いるカルタゴ軍5万人は、ローマの頭脳たる元老院議員多数を含んだローマ軍8万人余と決戦し、その内7万人余を殺害すると云う空前の大勝利を収めた。この結果、イタリア半島南部のほとんどの都市がカルタゴ支持に回り、さらにバルカン半島中央部の大勢力マケドニア、シチリア島のシュラクサイといった勢力もカルタゴ側に付いた。これに加えて、イタリア半島北方のガリア人もカルタゴ側に味方する。こうしてローマは、ハンニバルが構築した巨大な包囲網に捕われ、存亡の危機に立った。


だが、ローマはここから、実に粘り強かった。非常に苦しい状況であったにも関わらず、ハンニバルからの和平提案を峻拒し、市民に大動員をかけてじりじりと反抗した。だが、その過程でイタリア半島は戦場となって荒れ果て、多くの耕作地が放棄された。特に南イタリアの状況は酷く、両軍による略奪と破壊を受けて、荒廃しきっていた。戦争による人口減少も甚だしく、前233年のローマの成人市民の数は、27万713人であったのに、前204年の統計では21万4千人に減少していた。ローマだけでなく、同盟都市の人的資源も大きな打撃を被っていたが、それでもローマの国力、軍事力はカルタゴを上回るものがあった。


ローマは底力を発揮して、やがてハンニバルをイタリア半島のつま先に押し込める事に成功する。そして、若き新星スキピオを立てて攻勢に転じ、ハンニバルの根拠地であるスペインを奪取し、更にカルタゴ本国へと攻め入った。このカルタゴの危機を救えるのは、ハンニバル唯1人であった。紀元前203年、ハンニバルは本国からの召還令を受け、北アフリカに帰還する。そして、紀元前202年、北アフリカザマの大地で、スキピオ率いるローマ軍と、ハンニバル率いるカルタゴ軍が国運を賭けて決戦した。この戦いで勝敗を左右する存在となったのが、カルタゴの隣国にあって強力な騎兵を有していたヌミディア王国である。このヌミディアの王、マシニッサはローマに味方して参戦し、その強力な騎兵をもってカルタゴ軍を撹乱し、ローマの勝利に大きく貢献した。ザマの会戦でハンニバルは生涯初の惨敗を味わい、カルタゴの未来も大きく閉ざされる結果となった。


ザマの会戦後、カルタゴは抗戦を諦め、使節を派遣してローマとの間に講和条約を結ぶ。だが、この戦争でカルタゴが失ったものは、余りにも大きかった。スペインを始めとする全ての海外領土を失った事に加えて、10隻を除く、全ての軍船がローマ側に引き渡された事は何よりの痛手であった。これで伝統を誇るカルタゴ海軍は消滅し、自衛のための最小限の軍備しか持てなくなった。ローマは、カルタゴを独立した同盟国と見なして駐留軍は置かず、その自治は認めたが、以後、ローマの承認無しに戦争する事は禁じられた。更に、賠償金として50年払いで1万タレントの支払いも課せられた。カルタゴの農園は1年に1万2千タレントの収益があったと云わているが、それでも長期の戦争で疲弊しきったカルタゴにとって、とてつもない負担であった。こうして、カルタゴは大国としての地位を失い、ローマの覇権下で生きる一地域国家、すなわち属国に等しい存在になった。


戦後、カルタゴでは経済が悪化し、それを立て直すためハンニバルが再び先頭に立った。ハンニバルは政治面でも持ち前の指導力を発揮し、増税はせずに経費の削減と予算の見直しによって見事に国内経済を建て直した。だが、その反面、既得権益を侵される立場にあった貴族達の反感を喰らい、これら反対派の要望を受けて、ローマから視察団がカルタゴに派遣される事になった。この視察団はハンニバル暗殺の密命を受けていたと云われており、危険を察知したハンニバルは国外に逃亡する。しかし、その後もローマは執拗にハンニバルを探索し、紀元前183年、亡命先のビィテニア(現トルコ)で自害に追い込んだ。ハンニバル・バルカ、65歳。奇しくも同時期に、最大の好敵手であったスキピオ・アフリカヌスも54歳で死去している。カルタゴはハンニバルと云う偉大な指導者を失ったが、彼が行った改革を元に着実に復興を遂げていく。

CarthageMap.png







↑紀元前264年頃のカルタゴの勢力範囲(ウィキペディアより)


カルタゴの滅亡2に続く・・・



 

 

 

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重家 
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