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カルタゴの滅亡 2

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
ローマは、カルタゴとの死闘を経て強大化し、地中海の覇者となりつつあった。しかし、この頃はまだ、支配は完全ではなく、ギリシャ、スペインなど各地で反ローマの火の手が上がっていた。中でも、カルタゴから引き継いだスペインでは反乱が続発し、ローマはこの地に絶えず軍を貼り付けねばならなかった。ローマ軍は地中海最強であり、正規の軍相手には敵無しであったが、地の利を生かしてゲリラ戦を展開するスペイン原住民には難渋した。この反乱は数十年経っても収まる気配はなく、ローマは果てしない消耗を強いられる事になる。スペインの完全な平定を見るには、100年以上後のアウグストゥス帝の時代まで待たねばならない。


一方、カルタゴは国土の開発に務め、経済は持ち直しつつあった。しかし、深刻な悩みの種もあった。それは隣国のヌミディア王、マシニッサによるカルタゴ領への侵攻である。カルタゴとヌミディアは共にローマの同盟国であり、その許可無くしての交戦は禁じられていた。だが、マシニッサはローマが重大な対外問題を抱える度、その間隙を突いてカルタゴ領を蚕食していった。カルタゴは、マシニッサの不法を再三に渡ってローマに訴えたものの、ローマはザマの会戦以来、ヌミディアをより上位の同盟関係と見なしていたので、ほとんど何の反応も示さなかった。その後もマシニッサによる侵略は続き、次々に領土を奪われていったカルタゴでは、ヌミディアに対する怒りとローマに対する不信を増幅させていった。


紀元前160年頃から、カルタゴは軍事力をもってヌミディアに応戦するようになった。だが、それでもヌミディアの侵略は収まらず、ついにはカルタゴ市近郊まで侵入してくる事態となった。これにはさすがにカルタゴも憤慨して、ローマに強く訴えかけた。紀元前153年、これを受けてローマも調査団を送る事を決定し、政界の重鎮であるカトーと云う人物を送り込んできた。このカトーは82歳の高齢で、ハンニバルとの戦争も経験している人物であった。


カトーはカルタゴ市に降り立つと、市街を見学して回った。紛争を抱えているとは言え、カルタゴ市は豊かで活気に満ち溢れており、それを見たカトーは激しい衝撃を覚える。一方のローマと言えば、イタリア半島が第二次ポエニ戦争の主戦場であった事から、その傷跡が今だ各所に残っており、しかもスペイン戦役で消耗を続けているので、国内には厭戦気分が漂っていた。カトーはこの両国の落差に驚き、カルタゴが再び力を付けてローマに刃向かってくるのではないかと思い定めた。そして、この時にカルタゴ滅ぼすべしとの決意を固める。こうして、紛争調停も不調に終わった。


このような問題はあったが、ザマの会戦から半世紀の間、ローマとカルタゴは平和裏に共存していた。そして、経済復興を遂げたカルタゴは、賠償金をローマに完済しつつあった。しかし、カトーは帰国後、政界で演説する度、「カルタゴ滅ぼすべし!」と呼び掛けるようになる。当時のカルタゴは確かに豊かではあったが、総合的に見れば軍事力、経済力とも到底、ローマの敵では無かった。にも関わらず、カトーの主張はローマ国内に徐々に浸透していく。過去、ローマは二度に渡ってカルタゴと死闘を演じており、ローマ人の潜在意識には憎しみと恐怖が残っていた。それに当時のローマは、スペインとギリシャの双方で戦役を重ねて苦闘しており、他民族への寛容の精神が失われつつあった。そうした空気も手伝って、カトーのカルタゴ強硬論は支持を受けてくる。


紀元前151年、カルタゴは、ヌミディア王マシニッサの挑発に堪えかね、庸兵を募ってとうとう大規模な軍事行動に打って出た。マシニッサがカルタゴの友好都市を攻撃してきたのを切っ掛けとして、カルタゴ軍は大挙して出撃し、ヌミディア軍を退去せしめたのである。このカルタゴ軍を率いたのは、ハズドルバルと云う将軍であった。ハズドルバルは勇猛果敢な軍人であったが、傲慢で遠謀深慮には欠けていた。そして、後に重大な問題を引き起こすとも知らず、ハズドルバル率いるカルタゴ軍は、そのまま勢いに乗ってヌミディア領へと侵攻してしまう。


しかし、ヌミディア領深く侵攻したカルタゴ軍は、マシニッサの狡猾な策略を受けて無残な敗北を喫してしまう。このマシニッサは半世紀前のザマの戦いにも参加しており、88歳という高齢ながら、今だ、馬に跨って陣頭指揮を執っていた。余談であるが、マシニッサは41人の子供をもうけて、その末子は87歳の時に生まれたとされている。勇猛かつ残忍で知られるヌミディア騎兵を率いるに相応しい、狡猾さと豪胆さを兼ね備えた人物だった。このマシニッサの言い分としては、「カルタゴ人はよそ者であり、北アフリカを侵略して領土を広げていったのだから、それを取り返して何が悪いのだ」と云うものであった。これには一面の真実も含まれているが、この主張が通れば、カルタゴ人は全ての土地を失ってしまう事になる。


マシニッサに敗れたカルタゴは、軍の主力を失って大きな試練に立たされる。だが、カルタゴに引導を渡したのは、ヌミディアではなくローマであった。カルタゴが、ローマに無断でヌミディア領に侵攻したのは条約違反であるとして、軍団の派遣を通告してきたのである。カルタゴは確かに過失を犯したが、これまでの経緯を見れば、ヌミディア側に非があるのは明白であった。にも関わらずローマは断固として、カルタゴ側の言い分を聞き入れようとはしなかった。ローマはこれまで、介入する機会をじっと窺っていたのであろう。その絶好の機会を逃すはずは無かった。ヌミディアは、だしに使われた様なものであった。そして、これを受けて、8万人ものローマ人が来たるべき遠征に志願した。何故、志願者が殺到したのかと言えば、未開のスペインとは違い、富裕な文化都市に対する遠征とあって、多くの人間がそこに利得を見出していたからだった。


紀元前149年、2人の司令官に率いられたローマ軍8万人余が、カルタゴ市近郊に上陸する。カルタゴは過去、二度に渡って正面からローマと戦ってきたが、今回は、そのような軍事力は存在しなかった。そのため、カルタゴ側は何としても戦争を回避せんとして、300人の人質を提供し、全面降伏を申し出た。これに対してローマは、まず全ての武器を明け渡すよう命じた。カルタゴはこれに応じて、2千の弩、投石器に加えて、20万人分の武器、甲冑を明け渡す。


しかし、ローマは武器を押収した上で、カルタゴ人はその首都を自ら破壊して、海岸から15キロ以上離れた内陸に移り住むよう命じたのだった。この通告は、これまで海洋交易で生きてきたカルタゴ人にとって、死を告げられたのと同様に感じた。生業を失い、住み慣れた土地も放棄して、これからどうやって生きていけというのか!これまでの経緯と、今回のローマの騙し討ちのような仕打ちに、ついにカルタゴ人は激高した。そして、全国民が一致して、最後の戦いを挑む事を決した。 カルタゴとローマの最終戦、第三次ポエニ戦争の始まりである。


まず、カルタゴ人が取り掛かったのは、武器の製造である。都市にあった金属という金属が供出され、それらを鋳潰しては剣、盾、槍、投石器、弩(ど)が作られていった。女は、その髪を弩の材料に提供した。老若男女全てが昼夜を問わず、熱狂的に作業に取り組んだ結果、ローマ軍の攻勢が始まる前にある程度の武器を揃える事が出来た。カルタゴ市には奴隷も含めて20万人余が立て篭もり、その内、戦闘員として武器を取って戦ったのは5万人余であった。その他、先にマシニッサに敗れたカルタゴの将軍、ハズドルバルは残兵2万人余を率いて内陸に拠点を設け、市内に補給物資を運ぶ役割を担った。一方、このカルタゴを攻略せんとするローマ軍は、歩兵8万人余に騎兵4千人余、それに加えてローマ海軍、数百隻がカルタゴ市の封鎖に取り掛かった。


カルタゴ市は、北、東、南の三方を海によって守られている天然の要害であった。残る西は内陸と通じていたが、そこには三重の巨大城壁が築かれていた。海に面した三方も内陸ほどではないが、城壁で囲まれていた。一方、ローマ軍では、いかにカルタゴが強固な城壁を誇っていようとも、全ての武器は取り上げてあるので、大した抵抗は出来まいと高を括っていた。そして、まず司令官の1人が4万人余を率いて、三重城壁に対する正面強襲を開始する。だが、雨あられの如く投石と弩を浴びせられて、死傷者が続出し、城壁に取り付く事さえ困難であった。次にもう1人の司令官が、カルタゴ市の東南にあるテニアと呼ばれる細く狭い半島に上陸して、そこから市街中心部への進入を図ったが、これもカルタゴ市民の果敢な反撃を受けて退けられた。 こうしてローマ軍の第一次攻撃は、完全な失敗に終わった。


案に相違して、カルタゴ市民が壮烈な反撃を浴びせてきたので、ローマ軍は戦略を練り直す必要に迫られた。短期での攻略を諦め、十分な下準備をした上で改めて攻勢とかける事とし、まず攻城兵器の製造に取り掛かった。そして、ローマ軍は巨大な破城槌を2台組み立てると、それをテニアの半島に持ち込んだ。この破城槌は、操作と護衛も含めて6千人もの人員で運用したと云う。その甲斐あって巨大破城槌は威力を発揮し、城壁を破壊し始める。だが、カルタゴ側は夜間、市民総出で城壁を修復すると共に、闇に紛れて奇襲を敢行し、破城槌を破壊せしめたのだった。さらに火船を流して、ローマ軍の軍船を焼き払う事にも成功する。この一連の戦闘で士気が上がったカルタゴ軍は時折、打って出てローマ軍を襲撃するようになった。


市内のカルタゴ市民の敢闘に呼応するように、内陸のハズドルバル軍もローマ軍の後方を撹乱(かくらん)して回った。戦いが長期戦の様相を呈してきたため、ローマ軍はまず、補給と撹乱の任務を担っているハズドルバル軍を叩かんとして、主力を差し向けた。これに対して、数で大きく劣るハズドルバル軍は決戦を避け、強力な騎兵と地の利を生かして遊撃戦を展開する。ハズドルバル軍は神出鬼没で、ローマ軍を散々に翻弄した。こうしたカルタゴ側の思わぬ健闘を受けて、戦線は完全に膠着状態に陥った。この紀元前149年、ローマのカトーは86歳で、ヌミディアのマシニッサは90歳で、共にカルタゴの滅亡を望みながらも、それを見届ける事なく死んだ。


カルタゴ
↑カルタゴ市の概要(海外のウィキペディアより)



カルタゴの滅亡 終に続く・・・
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