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日本の大動脈

1941年12月8日、太平洋戦争開戦時、日本は排水量500トン以上の船舶を約650万総トン保有していた。戦時中に建造された船舶は、約340万総トン。これらに拿捕船など26万総トンを加えた日本の総船舶量は、約1000万総トンだった。しかし、アメリカ軍による激しい通商破壊と、上層部の海上輸送軽視によって、日本の船舶は壊滅的な打撃を被る。1945年8月15日、敗戦時には船舶量は約166万総トンまで激減していた。しかも残存船舶の大部分は、損傷して使用には耐えられなかったのである。


戦争中盤から大型商船の損失が激しくなると、船舶不足の穴を埋めるため、各地から漁船や機帆船(主に木造で、機関と帆走を併用する小型船)が手当たり次第に徴発されていった。これらの船は足が遅く、ほとんど何の武器も備えていなかった事から、アメリカ軍の攻撃を受けて、片っ端から撃沈されていった。戦争末期、日本は絶望的な船舶不足、物資不足に陥ると、苦し紛れにコンクリート製の船を建造し、木造帆船まで用いた。しかし、これらの処置も所詮、断末魔の足掻きに過ぎなかった。


戦時中、日本が失った船舶は約890万総トン、実に保有船舶の90パーセント近くを失ったのだった。船員の戦死者は6万人余、海上輸送中に沈んだ軍人、軍属は35万人余に上ったと云う。その他にも、輸送中に戦車・航空機など多くの兵器が沈められ、それを製造するための戦略物資も滞った結果、兵器の製造すらままならなくなった。石油を断たれた陸海軍は、作戦行動や訓練に支障を来し、艦船は港に繋げられたまま撃沈されていった。食料の輸送も断たれ、当時から輸入に頼っていた日本人は、飢えに苦しんだ。日本が敗戦に至った原因として、よく挙げられるのが、ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦における大敗北であるが、最後の止めとなったのが海上輸送における敗北である。


戦前の日本海軍は、強大なアメリカ海軍に対抗せんとして、無理を押して正面装備の拡充に最大限の努力を傾けてきた。1935年には国家予算の47%を軍事費が占め、日中戦争が勃発した1937年には、これが69,5%に跳ね上がり、更に日米開戦年の1941年なると、実に75%が軍事費に当てられた。しかし、そうまでしても日本海軍の戦力は、アメリカ海軍に及ばないのであった。 日本海軍は長期戦を想定せず、短期決戦を念頭に置いて戦闘部隊の充実に尽力した。こうなると、海上護衛戦力などの後方支援部隊は、必然的になおざりとなる。実際には全てを消耗し尽す長期戦となり、日本は見通しの甘さを身に染みて実感する事になるのだが、これも、日本とアメリカの国力差を鑑みれば、致し方ない面もあった。そして、日本は開戦してから護衛戦力の拡充を図ってきたものの、その戦術も装備も未熟であり、数もまったく足りていなかった。


1943年からアメリカ潜水艦の配備数が急速に増してくると、それに合わせて日本船舶の撃沈数も激増し始める。だが、護衛戦力はまだまだ不足気味で、全ての船団に護衛艦をつける事は不可能であった。それに、この頃になると日本海軍はかなりの艦艇をすり減らしていたのに対し、アメリカ海軍は日毎に勢力を増しつつあった。1944年になってようやく護衛戦力は整い始めるが、日本海軍は大敗を重ねて、すでに戦争の大勢は決していた。海上輸送は、制海権と制空権を得て初めて成立する。海洋国家が生命線である制海権を握られては、敗北に至る他なかった。ただ、そうであっても、日本海軍がもう少し海上護衛に目を向けていれば、太平洋の戦いの様相は変わっていただろう。戦争の結果事態は変わらなかったであろうが、良くも悪くも、粘り強い戦いが出来たはずである。


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捕虜は裏切り者

スターリンの言葉、 「捕虜となった者は裏切り者である」


1939年9月、ドイツとソ連は事前に取り決めた密約に従って共にポーランドに攻め込み、その領土を東西に折半して自国の領土に編入した。しかし、1941年6月、ドイツとソ連の関係は破綻し、ドイツ軍は大挙してソ連領に攻め込んだ。快進撃するドイツ軍に、最初に激しく抵抗したのが、旧ポーランド領にあったブレスト・リフレスク要塞である。
守備隊は頑強な抵抗を示し、1週間にわたる激闘の末、ドイツ軍は要塞の大部分を占領した。だが、守備隊の生き残りの兵士は、食料、弾薬、増援がまったく得られない状況であるにも関わらず、尚も抗戦を続けた。その間もドイツ軍は猛烈な進撃を続けて、ロシア奥地へと支配地を広げてゆき、ブレスト要塞は内陸に取り残される形となった。それでも一部兵士の抵抗は続き、攻防が始まってから約1ヶ月後、ようやく要塞の抵抗は終わった。


ソ連政府はこの徹底抗戦を評価し、要塞のあるブレストに「英雄都市」の称号を授け、戦後は要塞の中に記念碑を設けた。ブレスト要塞、最後の生き残りと思われる兵士は、壁にその決意を刻み付けていた。「死んでも降伏はしない。さらば、祖国よ。1941年7月20日」。戦後、この壁はモスクワに運ばれ、現在でも中央軍事博物館に大切に保存されている。だが、この博物館では、ブレスト要塞で奮戦した後、負傷して捕虜となった数名の兵士がいた事実は語られていない。この数名の捕虜は、1945年のソ連軍の反攻で解放されたが、その後、ソ連防諜対策特殊機関に捕縛され、強制収容所に連行されていった。彼らは英雄として扱われず、犯罪者として処分されたのだった。何故なら、スターリンはこう命令していたからである。「捕虜となった将兵は祖国の裏切り者とみなし、その家族は逮捕し、国家の保護と援助を停止する」


この命令は、ドイツ軍の捕虜となっていたスターリンの息子、ヤーコフにも適用されていた。ヤーコフは自ら志願して軍務に就いていたが、1941年7月16日にヴィテブスク近郊でドイツ軍の捕虜となった。ドイツ軍は、ヤーコフがスターリンの息子であると知ると、プロパガンダに利用しようとヤーコフに協力を求めた。だが、愛国心に燃えるヤーコフは、これをきっぱりと断わっている。スターリンとは冷たい親子関係にあったが、国家指導者となっている父を糾弾して、国家を危機に陥れる気は毛頭無かったのだ。


しかし、ソ連政府は、ヤーコフが捕虜になったと知ると、その妻を投獄し、娘はスターリンが預かる事となった。そして、後にヤーコフは、父スターリンの無情な放送を聞く事になる。それは、「捕虜となった赤軍兵士には、裏切り者しかいない。私にはヤーコフという息子はいない」というものであった。ヤーコフは、これに強い衝撃を受ける。そして、1943年4月、捕虜収容所にて、ヤーコフは鉄条網に向かって歩き出した。ドイツ兵は警告の声を上げるが、それでも歩みを止めなかったので、頭を撃ち抜かれて死んだ。ヤーコフの最後には諸説があるが、いずれにせよ自殺に近い最後であった。非情な独裁者も、この愛国心を持った息子の死を聞いて、しばし、うなだれたと云う。

ロシア兵とウォッカ

ウォッカとは、東欧~ロシア原産の酒である。大麦・小麦・ライ麦・ジャガイモ・など穀物を原材料とし、蒸留後、白樺の炭でこしてから飲む。一般に無味、無臭、無色である。極寒の地で暖を取るという用途もあるため、アルコール度数は40度から50度と極めて高い。第二次大戦中、ロシア兵にとってウォッカは欠かせない飲み物であり、ロシア兵の燃料とも呼ばれた。そして、ロシア兵はウォッカに酔った勢いで、東ヨーロッパ全域で、またはアジアの満州で、はたまた自国のソ連領においても、略奪に励み、婦女暴行を繰り広げたのだった。


ロシア兵達 「ウォッカは俺達の元気の源、ウォッカウラー!!!」

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第二次大戦中、ロシア兵には1日100グラムのウォッカが支給されていた。しかし、戦闘では激しい緊張を強いられるので、この割り当ては、ロシア兵にとって甚だ不満足なものであった。ウォッカが取り出されると、ロシア兵は誰もがしんと静まりかえり、一同の目はビンに注がれる。外科用のアルコールは、職務上の目的に使用されることはなかった。ウォッカが不足すると、ロシア兵は工業用アルコールや凍結防止用アルコールも、ガスマスクの活性炭フィルターでこしてから飲んだ。結果はたちの悪い頭痛どころではない、飲みすぎて失明した者もいた。また、不凍液を飲み干したため、故障車両も頻発したと云う。


スターリン 「馬鹿共が!貴様らは地雷原をその足で切り開け!」

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冬の間、兵士達は大抵1日に1リットルの酒を飲んだ。公式の割り当てだけでは足りないので、実際の死傷者数を報告せずにその割り当て分を分け合ったり、戦線後方の村民と物々交換して手に入れた。また、自分達で考えられる限りの手法を使って、酒を醸造した。


スターリン 「酒を飲んだらさっさと突撃するんだ!グズグズしてると、背後の機関銃が火を噴くぞ!」

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     `{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、  .!-'     胸に七つの傷を持つ
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      丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ      私の大ソ連粛清拳が火を噴くぞ
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   ヽ,, 、   ヽ、.   `ー-一 '/   ,r'    `゙ヽ、
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_,,ィ一'"´ヽ、 ..★ _   _ ,,ノヽ、 _   _★ ,, ノ l `゙ー、 _ ,,ノ
ヽ    ヽ ヾ                  彡、 ノ
 ヘ、  ソゝ、ヽ      r '"´イト `゙ヾ   ノソ /




ソ連軍は進撃する時、戦車に大量の歩兵を載せて進む。しかし、そんな不安定な戦車上でも、ロシア兵はウォッカを手放さない。ある時、戦車が窪みに落ちて大きく揺れ、乗車していた酔っ払いのロシア歩兵がそれに大いに怒って、ハッチを開いて操縦手を射殺すると云う事件も起こしている。ウォッカの支給が遅れたり、届かない事があると、ロシア兵はとんでもない代用品を飲む事もあった。毒ガス攻撃に対応するために作られた対化学兵器用薬液には多少のアルコールが含まれていたらしい。それを誰かがワインだと断言したため、ロシア兵達はこれを大量に飲んでしまった。この有毒な液体は科学戦に備えて、ごく微量を摂取すべきものだったのだが、大量に飲み込んだため28名の死者を出すと言う出来事もあった。


スターリン 「役立たず共が!貴様ら全員、シベリア荒野の肥料にしてやる!」

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   ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
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 `{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、  .!-'    
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   ヽ、oヽ/ \  /o/  |



現在では、ウォッカの需要はやや落ち込んでいるようだが、それでもロシア人にとってなくてはならない必需品である。ウォッカにまつわるこんなニュースもある。2009年、ある男性が失業の憂さ晴らしをするため、ウォッカをボトル8本(4リットル)もの量を飲み干した。すると、男性は昏睡状態に陥って病院へ運ばれた。男性の血中からは、致死量の二倍ものアルコールが検出され、医師を驚愕させた。男性は命は取りとめたが、しばらくは酷い頭痛に苦しめられ、「もう酒を一滴も飲まない」と誓った。


ロシアの厳しい冬の寒さから体を守る必需品ともいわれるウォッカ。しかし、現代のロシアで出回っているウォッカの半分は、マフィアなどが非合法的に作ったもので、逆に体をボロボロにしてしまう危険性が指摘されている。 非合法ウォッカの5%は、人体に有害な工業用メチルアルコールや薬品用アルコールを薄めただけの粗悪品であると云われている。また、悪い衛生状態で作られることも多く、危険に満ちている。ロシア人男性の平均寿命は59歳。その寿命を縮める大きな原因といわれているのが、非合法ウォッカである。

3万5千海里を越えて 後

(1943年11月5日)、伊29は金塊2トンを積み込み、呉を出港。1944年3月1日にフランスのブレストに到着する予定である(後にロリアンに変更される)


(11月14日)、伊29はシンガポールに到着し、入念な改修整備を行うため、約1ヶ月の準備期間を設けた。シンガポールには、伊29と同じ訪独任務を課せられ、無事に帰還していた伊8があった。その伊8がドイツで搭載してきたレーダー受信機メトックス(敵機の発するレーダー波を事前に察知する装置)を伊29が譲り受けた。そして、ドイツ側が求めている生ゴム、タングステン、スズ、亜鉛、キニーネなどの戦略物資を積み込み、乗員105名と便乗者16名、総員121名が乗り込んだ。


(12月17日)、伊29はシンガポールを出港した。いよいよ、前途多難な大航海の始まりである。そして、伊29号は一路南下して、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通過し、インド洋へ入った。極秘任務のはずであったが、この時点で既に伊29の行動はアメリカ軍によって把握されていた模様である。 艦内では毎朝8時にベルが鳴り響き、30分の急速潜航の演習で一日が始まる。潜水艦と乗員の能力一致を確認する大事な訓練であり、最も緊張する瞬間でもあった。


(12月30日)、スマトラ島とマダガスカル島の中間のインド洋で、ドイツ海軍の補給艦ボゴダ号と会合し、重油と生鮮食料の補給を受け取った。


(1944年1月1日)、伊29は、インド洋上のマダガスカル島付近で元旦を迎えた。この海域は比較的、危険の少ない海域であった。乗組員一同は小ざっぱりした服装に着替えて、恒例の急速潜航を行った。そして、海中で遥拝式を行い、インド洋の海底で「君が代」のラッパが鳴り響いた。元日の献立は豪華であった。朝食は(雑煮・銀飯・煮豆・数の子・煮魚・漬物)、昼食は(五目寿司・マグロの刺身・するめ・昆布巻き・数の子・煮豆・ビワ・漬物)、夕食は(銀飯・魚・フルーツサラダ・数の子・味付葉豆・すまし汁・漬物)、夜食には(ぼた餅)が付いた。大半は缶詰ではあったが、当時の粗末な国民生活と比べれば比較にならなかった。さらに冷酒が振舞われると、艦内には歓声が上がった。


(1月4日)、
マダガスカル島沖で、ボゴダ号から2回目の補給を受け、生鮮食料と燃料187トンを受け取った。両艦の連絡は、それぞれの艦橋に黒板を置いて、ドイツ語で記した文字を双眼鏡で読み取りながら行われた。伊29からボゴダ号へ、感謝の意味が込められた正月用お供え餅が送られ、さらに伊29乗員達の故郷への便りが託された。両艦が別れる際、伊29乗員達はボゴダ号へ向かい、ちぎれんばかりに帽子を振って、感謝の意を表した。


(1月9日)、アフリカ南端の喜望峰沖に到達する。ここまでは、水上航行が主であった。しかし、 南アフリカにはイギリス軍の航空基地があって、哨戒機が巡回している。その哨戒距離が400浬であったので、伊29は迂回して、それより南方の沖合600浬を通らねばならない。その航路は、荒れ狂う南緯40度(ローリングフォーティーズ)と呼ばれる凄まじい暴風圏であったが、哨戒機の目から逃れるには、ここを抜ける他無かった。

この海域では風速40メートルの台風並みの西風が吹き荒れており、凄まじい風と波が伊29に叩き付ける。見張り員の命網が波に引きちぎられるも、間一髪で助けられた。激浪と強風が止む事はなく、艦は上下に激しく揺り動かされ続ける。艦橋の窓ガラスが壊れて哨戒長が負傷し、アンテナも吹き飛ばされた。艦と人員の損傷を防ぐため、潜航を余儀なくされる。しかし、潜水艦は、定期的に空気を入れ替える必要があり、また、バッテリーを充電しておかねば潜航能力を失うため、そういう時には否応無しに浮上航行しなければならない。伊29は11日間耐えた後、ようやく暴風圏を突破、南大西洋に抜け北上を開始する。



(1月20日)、シンガポールからロリアンまでの航程の半分に達する。


(1月25日)、伊29はセントヘレナ島右横800マイル地点を通過し、いよいよ連合軍の哨戒網が張り巡らされた危険海域に突入する。木梨艦長は乗員達にその旨を訓示し、見張りや緊急配備を再確認した。そして、昼食にウイスキーを、夕食に散らし寿司を、夜食にフルーツポンチと梅酒を特配して、士気を鼓舞した。伊8を指揮して、訪独任務を成功させた内山艦長は、「大西洋は予想以上に狭かった」と回顧している。大西洋は、太平洋と比べると両側に大陸が迫る、狭い海域だった。要所要所の島や岬に連合軍基地があって、そこから哨戒機が絶え間なく飛んでおり、しかも、島のない海域には敵空母が配置されていた。伊8とそれを指揮していた内山艦長は、大西洋を航行中、絶えず敵の気配を感じて、一瞬も気を緩める事が出来ず、実際以上に逃げ場のない狭い海域に感じられたのである。


(2月1日)、赤道を越える。


(2月5日)、大西洋を更に北上する。これより先は連合軍のさらなる警戒が予想される為、昼は潜航、夜は水上航行となる。伊29は洋上でドイツ潜水艦と会合するよう指示され、指定の位置へ向けて北上を続けた。会合の日時に合わせるため、北緯16度を越えると潜水してゆっくり進んだ。


(2月13日)、会合点付近の海域で、駆逐艦に守られた連合軍の空母を発見する。この空母に対し、ドイツ潜水艦が魚雷を発射した。攻撃後、ドイツ潜水艦は4隻の駆逐艦に3時間にわたって追われ、伊29も2度、哨戒機を目撃するなど危険な目に遭った。


(2月14日)、伊29は、無事、ドイツ潜水艦との会合に成功した。そして、ドイツ海軍の連絡将校の少尉1名と下士官2名が伊29に乗り移る。さらにナクソスと言う新型レーダー逆探知装置が運ばれ、約10時間で設置を完了した。危険極まる海域で、無防備な10時間の作業は、乗員一同の気を揉ませるものだった。だが、この装置は、レーダーを備えた敵機の接近を事前に探知する事が出来るので、この先の航海には必須のものであった。


(2月20日)、ポルトガル西方のアゾレス諸島付近に到達。潜水艦の気配を感じただけで、敵水上艦艇は激しい爆雷攻撃を仕掛けてきた。レーダーに敵を感じたらすぐ潜る、浮上したと思ったらまた潜る、その連続であった。


(2月28日)、爆雷攻撃はさらに激しさを増し、昼も夜も潜航となる。空気は濁り、その不快感は耐え難かった。まず、頭が痛くなり、次に心臓の鼓動が早くなって呼吸が乱れる。1日18時間、潜りっ放しという苦しい日が続き、23時間、連続潜航という日もあったという。


(3月3日)、フランスとスペインに囲まれたビスケー湾が迫り、いよいよ最終航程に入る。しかし、ここからはイギリス本土に近く、そこから絶え間なく飛び立つ、敵哨戒機の襲撃に備えなくてはならない。この付近では、多くのドイツ潜水艦が撃沈されており、最後にして最大の関門である。


(3月5日、午前5時)、警戒充電航行のため浮上するも、突如、イギリス軍機が来襲、急速潜航した。レーダー逆探知装置は、僅かな反応しか示さなかった。敵機のレーダー波の周波数が、ナクソスで逆探知できる周波数と異なっていた為だと考えられた。連合軍のレーダー技術の進歩は早く、短い周波数のレーダーが次々に開発されるので、ドイツの逆探知装置でも十分に対応できなくなっていた。そして、潜航後、乗員1名が行方不明となっていた。海上に取り残されているようであり、木梨艦長に苦悩の色が浮かぶ。しかし、敵機の哨戒は続いているようであり、すぐに浮上する訳にはいかなかった。乗員一同はやりきれなさに打ちのめされた。その後、伊29は浮上して乗員を捜索するが、発見できず戦死認定とする。


3月5日、6日と夜間充電航行を試みたが、浮上後、2分から5分経過すると即、敵哨戒機が現れた。浮上充電が出来ないので、電力と酸素を極力節約する必要に迫られ、艦内の照明は最小限にとどめ、当直以外の乗員は全員、ベッドに横になった。乗員達に頭痛、眠気、酸欠などの症状が現れ、特に3人のドイツ乗員がぐったりとなった。空気清浄装置は限度を超えたのか効かず、電力は残り僅か、浮上に必要な圧縮空気も4回分しかない。これ以上の潜航は危険であった。


木梨艦長は総員を配置に付け、「浮上充電航行を強行するが、哨戒機の襲撃で戦闘も覚悟しなければならない。全員沈着に職務を遂行、この危機を突破しよう」と訓示する。木梨艦長は潜望鏡で周辺海域の安全を確認後、伊29を浮上させた。それから僅か10秒で、電波探知機に敵機の弱い電波が入り始める。しかし、強行突破である。ハッチから冷たい空気が艦内に流れ込んでくると、乗員一同、口を開け、胸一杯に空気を吸い込んだ。今まで、これほど空気が美味いものだと感じた事はなかった。電波音は強弱を繰り返したが、幸い敵機は現れなかった。代わりにスペインのヴィラーノ岬灯台が浮かび上がってくる。実に80日目振りに見た陸影であった。ここからスペインの海岸線に沿い、ビスケー湾に入る。


(3月10日、午前7時30分)、ドイツ側から指定された海域に、伊29は静かに浮上した。その位置は11隻のドイツ水上艦艇が円陣を組み、上空には護衛戦闘機1個小隊が飛び交って待つ、まさにその中央であった。乗員によれば、まるで映画の1シーンを見る思いであったと云う。目的地ロリアンまでは、ドイツの駆逐艦2隻、大型水雷艇2隻に護衛され、フランスの海岸線に沿って伊29は水上航行した。この海域では、イギリス軍機が磁気探知機雷を敷設しているため、水中潜航は危険であった。

(午前9時過ぎ)、イギリス軍機2機が来襲し、護衛のドイツ軍機と交戦を開始、伊29も25ミリ機銃で対空戦闘を行う。ドイツ軍機1機が撃墜されたが、イギリス軍機は撃退された。伊29の25ミリ機銃は重い上に故障が多く、敵機の攻撃に対して、すばやく反撃する事が出来なかった。乗り込んでいたドイツの連絡将校は、伊29の対空火力は不十分だと指摘した。ほかにも改良すべき点として、潜水して進む時、音が大きい点、エンジンから出る煙や夜間の火花が目立つ点、急速潜航に要する時間が長い点を挙げた。


(3月11日、未明)、ロリアン港に近づく。これまでの航海で乗員達の髭は伸び放題、服は垢と汗で黒ずんで異臭を放っていたであろう。しかし、ドイツ側にそのような風体を晒すわけにはいかず、上陸前には体を清め、散髪、ひげ剃りをして、第一種軍装に衣服を正した。(午前8時)この日、伊29は幾多の困難を乗り越え、ロリアン港に到着する。ロリアンには、コンクリート製の巨大なブンカー(Uボート収容施設)が築かれており、伊29はそこにしずしずと進んで行く。ブンカー内では軍艦マーチが奏でられ、日の丸の小旗を振る人垣があった。乗員一同は甲板に整列し、敬礼の姿で威儀を正す。目の前に迫るコンクリートの壁には、生け花や花輪が色鮮やかに飾られてあった。そして、君が代とドイツ国歌が響く中、木梨艦長以下、乗員一同は久方振りに陸地を踏みしめ、ようやく心から安堵する事ができたのだった。


伊29の航海日数は87日、水中航行時間は907時間に達していた。消費燃料は700トン、残存燃料は207トンだった。乗員にも艦体にも大きな負荷のかかる航海であったが、ここまで主機械からポンプまで一度の故障も無かった。それは、自分の部署を守りぬいてきた乗員達の努力の証であった。伊29は甲板上部が少々損傷していたが、それ以外には大きな損傷はなかった。伊29は損傷修理と艦体整備を受けるため、ドックに入る。ドイツのラジオや新聞各紙は、久方ぶりの明るいニュースとして伊29の到着を報じた。そして、ドイツ側は、乗員達を最高級のもてなしで歓迎した。乗員達は上陸後、5日間パリを見学し、オーケストラ付きの晩餐会に招かれるなどして、1ヶ月間休息をとった。この間、木梨艦長はカール・デーニッツ海軍長官から、ワスプ撃沈の功を讃えられ、鉄十字章を授与される。


(4月16日)、伊29は整備を終え、帰路に就く事となった。伊29にはベルリン駐在の技術士官14名、外務省連絡員と陸軍士官のドイツ人4名が同乗した。そして、「離陸時加速用のロケット・装置与圧キャビンの部品と設計図・ビルド社コンパス・潜水艦用レーダー・潜水艦用の簡易型磁力機雷・レーダー逆探知装置・地上用レーダーウルツブルグ・地上用レーダーウルツブルグの妨害波除去装置・電子高度計・KOB装置・IFF装置・クランクシャフトの固定研磨器設計図」など、様々なドイツ新兵器の設計図類とそのモデルを積んで帰路につく。伊29は、敵が厳戒中のビスケー湾と大西洋、そして、荒れ狂う南緯40度線が待ち構える難路を、再び引き返して行くのである。この帰路、乗員1名が黄疸で死亡、2人目の犠牲者が出る。


(7月14日)、ロリアンから89日間に及ぶ苦難の航海を終えて、伊29は再びシンガポールに帰港した。この無事到着の知らせにベルリンの関係者は皆喜び、ドイツ海軍も祝辞を送った。ここで便乗者と新兵器の設計図類を降ろし、大任の半分を終える。後は、新兵器類を日本本土に運び入れるのみである。このシンガポールからはようやく日本の勢力圏内であるが、この航海の間に日本の戦況は大きく悪化し、その勢力圏内にもアメリカ潜水艦が跳梁する事態となっていた。そして、この伊29がシンガポールに到着した事も、連合軍諜報員と暗号解読によって悟られていた。


(7月25日)、伊29はシンガポールを出港した。この動きを把握していたアメリカはその帰国航路に3隻の潜水艦(タイルフィッシュ、ロック、ソードフィッシュ)を派遣して待ち伏せをさせる。


(7月26日16時頃)、伊29は、フィリピンと台湾の間にある、バシー海峡を通過中であった。故国、日本まで後僅かである。乗員の大部分は穏やかな雰囲気であったであろう。だが・・・(16時45分)、待ち伏せていたアメリカ潜水艦ソードフィッシュは浮上航行中であった伊29を発見し、4本の魚雷を発射した。伊29は避ける間もなく魚雷3本を受けて爆沈し、僅かな時間で、木梨艦長を含む110余人と共に海中へと消えていった。 祖国を目の前にしての無念の最後であった。


日本の勢力圏に入ったという事で木梨艦長を始め、乗員達には一瞬の気の緩みがあったのかもしれない。だが、この航海において彼らが示した、超人的な忍耐力・不断の努力・強靭な意志を忘れる事はできない。彼らは日本を救わんとして任務に邁進し、海に消えていったのである。


ドイツへの潜水艦派遣作戦には5隻の日本潜水艦が出撃して行き、荒れ狂う南緯40度線を越え、大西洋の連合軍警戒網を突破し、3隻まではロリアンまたはブレストまで到達する事ができた。しかし、無事に日本まで帰還する事ができたのは、伊8号、1隻のみであった。


3万5千海里を越えて 前

ソロモン諸島、それは日本から遥か南、メラネシアにある島々である。オーストラリア大陸に程近く、どれも鬱蒼としたジャングルに覆われている。(1942年)、第二次大戦時、日本とアメリカは、このソロモン諸島の島の1つ、ガダルカナル島を巡って、陸海空で激しい戦闘を繰り広げていた。そして、ソロモン諸島の近海では、日本の潜水艦戦隊がアメリカ艦隊の動向を探る為、哨戒活動をしていた。その内の1隻が伊19である。


(1942年9月14日朝10時)、伊19は潜航哨戒中、前方に集団機関音を探知した。1時間後、潜望鏡を上げると、15キロの距離を遠ざかってゆくアメリカ艦隊を発見する。追跡すること33分、アメリカ艦隊は変針してきて、伊19の攻撃可能な位置まで前進して来る。それを受け直ちに攻撃準備、魚雷発射の調定がなされる。 その時、アメリカ艦隊はさらに変針、自ら絶好の射線に入ってきた。再度調定、方位右50度、敵速12ノット、距離900メートル、艦長の号令一下、伊19号は6発の魚雷を次々に発射した。そして、艦は直ちに急速潜航、深度80メートルまで潜って敵の反撃に備える。


雷撃から6分後、敵艦からの爆雷攻撃が始まる。伊19を覆い尽くす様に爆発音が響き渡り、艦は激しく振動する。この攻撃は5時間半にも及んだが、幸い至近弾はなく、伊19は無事、生還して魚雷4発の命中を報告する。 伊19が爆雷攻撃を受けていた最中、その必殺の魚雷はアメリカ艦隊を次々に貫いていた。空母ワスプには魚雷3発が命中して、消火不能の大火災を発生させ、戦艦ノースカロライナにも魚雷1発が命中し、艦橋よりも高く水柱が立ち昇り、更にもう1発は駆逐艦オブライエンに命中し、小さな艦は水柱に飲み込まれた。実際には、魚雷5発が命中していた。


この伊19が挙げた戦果は空母1隻撃沈、戦艦1隻中破、駆逐艦1隻撃沈というものであり、1回の雷撃としては、世界の潜水艦史上に残る大戦果であった。この戦果は偶然の要素もあったが、伊19を指揮していた艦長の冷静な判断力によるところも大きかった。その艦長の名は木梨鷹一、この戦果をもって日本有数の潜水艦長として名を馳せる事になる。そして、木梨は11月1日をもって中佐に進級する。


昭和18年10月10日で木梨は伊29の艦長に拝命され、ある重大な任務を言い渡された。


その任務とは日本の呉を出航し、シンガポールでタングステン等の戦略物資を積み込み、遥々、フランスブレストにあるドイツ潜水艦基地を目指し、そこでレーダー等の新兵器を積み込み、日本まで帰還するというものであった。その距離なんと3万5千海里(約6万キロメートル)、しかも、その航路のほとんどの海域が、連合軍の制海権下にあった。航海中、艦が重大な損傷を受けたとしても、誰も助ける事は出来ない。しかも、長期に渡って、乗員は狭い不潔な空間で耐え忍ばねばならない。なんとも過酷な航海であった。


1943年に入ると、日本は消耗戦の末、ガダルカナル島から撤退、ドイツもスターリングラード戦でソ連に敗れるなど、枢軸国側の戦況は急速に悪化していった。ドイツと日本は戦局を挽回すべく、あらゆる手段を模索する。当時、ドイツでは希少金属や生ゴムを始めとする戦略物資が不足しており、兵器の生産にも支障が出ていた。だが、当時、日本が占領していた東南アジアには、ドイツが欲する戦略物資が存在していた。ドイツはそこに目を付け、日本側に戦略物資の提供を求め、その見返りとして、ドイツの進んだ兵器技術を提供したいと提案してきた。


当時、日本はレーダーを始めとする電子兵器の遅れもあって、アメリカ軍に苦戦していた。そこで、日本側もこの提案に乗り、お互いに不足するものを補って、協力し合う運びとなった。しかし、航空機による両国の往復は、まず不可能であった。そこで、隠密裏に海中を進む潜水艦によって、通信しようと試みたのである。


現在の原子力潜水艦は、水中で高速を発揮する事が可能で、水中で長期間、活動する事も可能である。しかし、第二次大戦中の大部分の潜水艦は、航行の大部分を水上で活動する事を前提として設計されており、水中では短時間、短距離しか活動出来なかった。しかも水中では低速しか発揮出来ず、一旦、敵艦のソナーに捉えられれば、そこから逃れるのは困難だった。


狭く密閉された潜水艦での任務は現在においても過酷であるが、当時の潜水艦はさらに居住性が劣悪であり、艦内は湿気だらけで洗濯物も乾かせず、また燃料・排気・カビ・体臭などの臭気が充満している。真水は貴重なので入浴は制限され、日光にもろくに当たれない。このような環境で毎日、単調な任務が続くのである。第二次大戦時、勇名を馳せたUボート乗員でさえ、こうした悪環境で戦闘状態が長引くと、精神の均衡を失う者が現れた。重症になると、ただ開放されたい一心で浮上用弁を勝手に操作したり、機器を叩き壊したりするようになる。こうなると監視付きで、監禁する必要が出てくるのである。


●伊号第29潜水艦の性能要目、艦型は巡潜乙 

基準排水量2,198トン、水中排水量3,654トン、

全長108メートル 、全幅9、3メートル

水上では最大23.8ノット、水中では8ノットの速力を発揮

航続距離は、水上速力16ノットで14,000海里、水中速力3ノットで96海里

兵装は、艦首に53センチ魚雷発射管6門装備、14センチ単装砲1門、25ミリ連装機銃1基

安全潜航深度100メートル


諸外国の潜水艦と比べ、航続距離が長く大型で航洋性に優れている反面、その大型さが災いして敵に発見されやすく、量産が難しいという欠点もある。


木梨艦長と乗員達はこの潜水艦に乗り組み、フランスロリアンを目指す事になる。



後編に続く・・・



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重家 
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