このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
(1943年11月5日)、伊29は金塊2トンを積み込み、呉を出港。1944年3月1日にフランスのブレストに到着する予定である(後にロリアンに変更される)
(11月14日)、伊29はシンガポールに到着し、入念な改修整備を行うため、約1ヶ月の準備期間を設けた。シンガポールには、伊29と同じ訪独任務を課せられ、無事に帰還していた伊8があった。その伊8がドイツで搭載してきたレーダー受信機メトックス(敵機の発するレーダー波を事前に察知する装置)を伊29が譲り受けた。そして、ドイツ側が求めている生ゴム、タングステン、スズ、亜鉛、キニーネなどの戦略物資を積み込み、乗員105名と便乗者16名、総員121名が乗り込んだ。
(12月17日)、伊29はシンガポールを出港した。いよいよ、前途多難な大航海の始まりである。そして、伊29号は一路南下して、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通過し、インド洋へ入った。極秘任務のはずであったが、この時点で既に伊29の行動はアメリカ軍によって把握されていた模様である。 艦内では毎朝8時にベルが鳴り響き、30分の急速潜航の演習で一日が始まる。潜水艦と乗員の能力一致を確認する大事な訓練であり、最も緊張する瞬間でもあった。
(12月30日)、スマトラ島とマダガスカル島の中間のインド洋で、ドイツ海軍の補給艦ボゴダ号と会合し、重油と生鮮食料の補給を受け取った。
(1944年1月1日)、伊29は、インド洋上のマダガスカル島付近で元旦を迎えた。この海域は比較的、危険の少ない海域であった。乗組員一同は小ざっぱりした服装に着替えて、恒例の急速潜航を行った。そして、海中で遥拝式を行い、インド洋の海底で「君が代」のラッパが鳴り響いた。元日の献立は豪華であった。朝食は(雑煮・銀飯・煮豆・数の子・煮魚・漬物)、昼食は(五目寿司・マグロの刺身・するめ・昆布巻き・数の子・煮豆・ビワ・漬物)、夕食は(銀飯・魚・フルーツサラダ・数の子・味付葉豆・すまし汁・漬物)、夜食には(ぼた餅)が付いた。大半は缶詰ではあったが、当時の粗末な国民生活と比べれば比較にならなかった。さらに冷酒が振舞われると、艦内には歓声が上がった。
(1月4日)、マダガスカル島沖で、ボゴダ号から2回目の補給を受け、生鮮食料と燃料187トンを受け取った。両艦の連絡は、それぞれの艦橋に黒板を置いて、ドイツ語で記した文字を双眼鏡で読み取りながら行われた。伊29からボゴダ号へ、感謝の意味が込められた正月用お供え餅が送られ、さらに伊29乗員達の故郷への便りが託された。両艦が別れる際、伊29乗員達はボゴダ号へ向かい、ちぎれんばかりに帽子を振って、感謝の意を表した。
(1月9日)、アフリカ南端の喜望峰沖に到達する。ここまでは、水上航行が主であった。しかし、 南アフリカにはイギリス軍の航空基地があって、哨戒機が巡回している。その哨戒距離が400浬であったので、伊29は迂回して、それより南方の沖合600浬を通らねばならない。その航路は、荒れ狂う南緯40度(ローリングフォーティーズ)と呼ばれる凄まじい暴風圏であったが、哨戒機の目から逃れるには、ここを抜ける他無かった。
この海域では風速40メートルの台風並みの西風が吹き荒れており、凄まじい風と波が伊29に叩き付ける。見張り員の命網が波に引きちぎられるも、間一髪で助けられた。激浪と強風が止む事はなく、艦は上下に激しく揺り動かされ続ける。艦橋の窓ガラスが壊れて哨戒長が負傷し、アンテナも吹き飛ばされた。艦と人員の損傷を防ぐため、潜航を余儀なくされる。しかし、潜水艦は、定期的に空気を入れ替える必要があり、また、バッテリーを充電しておかねば潜航能力を失うため、そういう時には否応無しに浮上航行しなければならない。伊29は11日間耐えた後、ようやく暴風圏を突破、南大西洋に抜け北上を開始する。
(1月20日)、シンガポールからロリアンまでの航程の半分に達する。
(1月25日)、伊29はセントヘレナ島右横800マイル地点を通過し、いよいよ連合軍の哨戒網が張り巡らされた危険海域に突入する。木梨艦長は乗員達にその旨を訓示し、見張りや緊急配備を再確認した。そして、昼食にウイスキーを、夕食に散らし寿司を、夜食にフルーツポンチと梅酒を特配して、士気を鼓舞した。伊8を指揮して、訪独任務を成功させた内山艦長は、「大西洋は予想以上に狭かった」と回顧している。大西洋は、太平洋と比べると両側に大陸が迫る、狭い海域だった。要所要所の島や岬に連合軍基地があって、そこから哨戒機が絶え間なく飛んでおり、しかも、島のない海域には敵空母が配置されていた。伊8とそれを指揮していた内山艦長は、大西洋を航行中、絶えず敵の気配を感じて、一瞬も気を緩める事が出来ず、実際以上に逃げ場のない狭い海域に感じられたのである。
(2月1日)、赤道を越える。
(2月5日)、大西洋を更に北上する。これより先は連合軍のさらなる警戒が予想される為、昼は潜航、夜は水上航行となる。伊29は洋上でドイツ潜水艦と会合するよう指示され、指定の位置へ向けて北上を続けた。会合の日時に合わせるため、北緯16度を越えると潜水してゆっくり進んだ。
(2月13日)、会合点付近の海域で、駆逐艦に守られた連合軍の空母を発見する。この空母に対し、ドイツ潜水艦が魚雷を発射した。攻撃後、ドイツ潜水艦は4隻の駆逐艦に3時間にわたって追われ、伊29も2度、哨戒機を目撃するなど危険な目に遭った。
(2月14日)、伊29は、無事、ドイツ潜水艦との会合に成功した。そして、ドイツ海軍の連絡将校の少尉1名と下士官2名が伊29に乗り移る。さらにナクソスと言う新型レーダー逆探知装置が運ばれ、約10時間で設置を完了した。危険極まる海域で、無防備な10時間の作業は、乗員一同の気を揉ませるものだった。だが、この装置は、レーダーを備えた敵機の接近を事前に探知する事が出来るので、この先の航海には必須のものであった。
(2月20日)、ポルトガル西方のアゾレス諸島付近に到達。潜水艦の気配を感じただけで、敵水上艦艇は激しい爆雷攻撃を仕掛けてきた。レーダーに敵を感じたらすぐ潜る、浮上したと思ったらまた潜る、その連続であった。
(2月28日)、爆雷攻撃はさらに激しさを増し、昼も夜も潜航となる。空気は濁り、その不快感は耐え難かった。まず、頭が痛くなり、次に心臓の鼓動が早くなって呼吸が乱れる。1日18時間、潜りっ放しという苦しい日が続き、23時間、連続潜航という日もあったという。
(3月3日)、フランスとスペインに囲まれたビスケー湾が迫り、いよいよ最終航程に入る。しかし、ここからはイギリス本土に近く、そこから絶え間なく飛び立つ、敵哨戒機の襲撃に備えなくてはならない。この付近では、多くのドイツ潜水艦が撃沈されており、最後にして最大の関門である。
(3月5日、午前5時)、警戒充電航行のため浮上するも、突如、イギリス軍機が来襲、急速潜航した。レーダー逆探知装置は、僅かな反応しか示さなかった。敵機のレーダー波の周波数が、ナクソスで逆探知できる周波数と異なっていた為だと考えられた。連合軍のレーダー技術の進歩は早く、短い周波数のレーダーが次々に開発されるので、ドイツの逆探知装置でも十分に対応できなくなっていた。そして、潜航後、乗員1名が行方不明となっていた。海上に取り残されているようであり、木梨艦長に苦悩の色が浮かぶ。しかし、敵機の哨戒は続いているようであり、すぐに浮上する訳にはいかなかった。乗員一同はやりきれなさに打ちのめされた。その後、伊29は浮上して乗員を捜索するが、発見できず戦死認定とする。
3月5日、6日と夜間充電航行を試みたが、浮上後、2分から5分経過すると即、敵哨戒機が現れた。浮上充電が出来ないので、電力と酸素を極力節約する必要に迫られ、艦内の照明は最小限にとどめ、当直以外の乗員は全員、ベッドに横になった。乗員達に頭痛、眠気、酸欠などの症状が現れ、特に3人のドイツ乗員がぐったりとなった。空気清浄装置は限度を超えたのか効かず、電力は残り僅か、浮上に必要な圧縮空気も4回分しかない。これ以上の潜航は危険であった。
木梨艦長は総員を配置に付け、「浮上充電航行を強行するが、哨戒機の襲撃で戦闘も覚悟しなければならない。全員沈着に職務を遂行、この危機を突破しよう」と訓示する。木梨艦長は潜望鏡で周辺海域の安全を確認後、伊29を浮上させた。それから僅か10秒で、電波探知機に敵機の弱い電波が入り始める。しかし、強行突破である。ハッチから冷たい空気が艦内に流れ込んでくると、乗員一同、口を開け、胸一杯に空気を吸い込んだ。今まで、これほど空気が美味いものだと感じた事はなかった。電波音は強弱を繰り返したが、幸い敵機は現れなかった。代わりにスペインのヴィラーノ岬灯台が浮かび上がってくる。実に80日目振りに見た陸影であった。ここからスペインの海岸線に沿い、ビスケー湾に入る。
(3月10日、午前7時30分)、ドイツ側から指定された海域に、伊29は静かに浮上した。その位置は11隻のドイツ水上艦艇が円陣を組み、上空には護衛戦闘機1個小隊が飛び交って待つ、まさにその中央であった。乗員によれば、まるで映画の1シーンを見る思いであったと云う。目的地ロリアンまでは、ドイツの駆逐艦2隻、大型水雷艇2隻に護衛され、フランスの海岸線に沿って伊29は水上航行した。この海域では、イギリス軍機が磁気探知機雷を敷設しているため、水中潜航は危険であった。
(午前9時過ぎ)、イギリス軍機2機が来襲し、護衛のドイツ軍機と交戦を開始、伊29も25ミリ機銃で対空戦闘を行う。ドイツ軍機1機が撃墜されたが、イギリス軍機は撃退された。伊29の25ミリ機銃は重い上に故障が多く、敵機の攻撃に対して、すばやく反撃する事が出来なかった。乗り込んでいたドイツの連絡将校は、伊29の対空火力は不十分だと指摘した。ほかにも改良すべき点として、潜水して進む時、音が大きい点、エンジンから出る煙や夜間の火花が目立つ点、急速潜航に要する時間が長い点を挙げた。
(3月11日、未明)、ロリアン港に近づく。これまでの航海で乗員達の髭は伸び放題、服は垢と汗で黒ずんで異臭を放っていたであろう。しかし、ドイツ側にそのような風体を晒すわけにはいかず、上陸前には体を清め、散髪、ひげ剃りをして、第一種軍装に衣服を正した。(午前8時)この日、伊29は幾多の困難を乗り越え、ロリアン港に到着する。ロリアンには、コンクリート製の巨大なブンカー(Uボート収容施設)が築かれており、伊29はそこにしずしずと進んで行く。ブンカー内では軍艦マーチが奏でられ、日の丸の小旗を振る人垣があった。乗員一同は甲板に整列し、敬礼の姿で威儀を正す。目の前に迫るコンクリートの壁には、生け花や花輪が色鮮やかに飾られてあった。そして、君が代とドイツ国歌が響く中、木梨艦長以下、乗員一同は久方振りに陸地を踏みしめ、ようやく心から安堵する事ができたのだった。
伊29の航海日数は87日、水中航行時間は907時間に達していた。消費燃料は700トン、残存燃料は207トンだった。乗員にも艦体にも大きな負荷のかかる航海であったが、ここまで主機械からポンプまで一度の故障も無かった。それは、自分の部署を守りぬいてきた乗員達の努力の証であった。伊29は甲板上部が少々損傷していたが、それ以外には大きな損傷はなかった。伊29は損傷修理と艦体整備を受けるため、ドックに入る。ドイツのラジオや新聞各紙は、久方ぶりの明るいニュースとして伊29の到着を報じた。そして、ドイツ側は、乗員達を最高級のもてなしで歓迎した。乗員達は上陸後、5日間パリを見学し、オーケストラ付きの晩餐会に招かれるなどして、1ヶ月間休息をとった。この間、木梨艦長はカール・デーニッツ海軍長官から、ワスプ撃沈の功を讃えられ、鉄十字章を授与される。
(4月16日)、伊29は整備を終え、帰路に就く事となった。伊29にはベルリン駐在の技術士官14名、外務省連絡員と陸軍士官のドイツ人4名が同乗した。そして、「離陸時加速用のロケット・装置与圧キャビンの部品と設計図・ビルド社コンパス・潜水艦用レーダー・潜水艦用の簡易型磁力機雷・レーダー逆探知装置・地上用レーダーウルツブルグ・地上用レーダーウルツブルグの妨害波除去装置・電子高度計・KOB装置・IFF装置・クランクシャフトの固定研磨器設計図」など、様々なドイツ新兵器の設計図類とそのモデルを積んで帰路につく。伊29は、敵が厳戒中のビスケー湾と大西洋、そして、荒れ狂う南緯40度線が待ち構える難路を、再び引き返して行くのである。この帰路、乗員1名が黄疸で死亡、2人目の犠牲者が出る。
(7月14日)、ロリアンから89日間に及ぶ苦難の航海を終えて、伊29は再びシンガポールに帰港した。この無事到着の知らせにベルリンの関係者は皆喜び、ドイツ海軍も祝辞を送った。ここで便乗者と新兵器の設計図類を降ろし、大任の半分を終える。後は、新兵器類を日本本土に運び入れるのみである。このシンガポールからはようやく日本の勢力圏内であるが、この航海の間に日本の戦況は大きく悪化し、その勢力圏内にもアメリカ潜水艦が跳梁する事態となっていた。そして、この伊29がシンガポールに到着した事も、連合軍諜報員と暗号解読によって悟られていた。
(7月25日)、伊29はシンガポールを出港した。この動きを把握していたアメリカはその帰国航路に3隻の潜水艦(タイルフィッシュ、ロック、ソードフィッシュ)を派遣して待ち伏せをさせる。
(7月26日16時頃)、伊29は、フィリピンと台湾の間にある、バシー海峡を通過中であった。故国、日本まで後僅かである。乗員の大部分は穏やかな雰囲気であったであろう。だが・・・(16時45分)、待ち伏せていたアメリカ潜水艦ソードフィッシュは浮上航行中であった伊29を発見し、4本の魚雷を発射した。伊29は避ける間もなく魚雷3本を受けて爆沈し、僅かな時間で、木梨艦長を含む110余人と共に海中へと消えていった。 祖国を目の前にしての無念の最後であった。
日本の勢力圏に入ったという事で木梨艦長を始め、乗員達には一瞬の気の緩みがあったのかもしれない。だが、この航海において彼らが示した、超人的な忍耐力・不断の努力・強靭な意志を忘れる事はできない。彼らは日本を救わんとして任務に邁進し、海に消えていったのである。
ドイツへの潜水艦派遣作戦には5隻の日本潜水艦が出撃して行き、荒れ狂う南緯40度線を越え、大西洋の連合軍警戒網を突破し、3隻まではロリアンまたはブレストまで到達する事ができた。しかし、無事に日本まで帰還する事ができたのは、伊8号、1隻のみであった。