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秘書が見たヒトラー 終

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

4月28日の深夜、ライチュとグライムが飛行の支度をしていた。そして、ヒトラーと長い会話をしてから、地下壕を去って行った。ユンゲが執務室に入ると、そこには皿やグラスが並べられて祝いの席が設けられていた。ユンゲには、何の席かまだ分からなかったが、ここでヒトラーとエヴァの結婚披露宴が行われるのだった。そして、ヒトラーから口述筆記してもらいたいと言い渡され、隣の会議室に移動した。タイプライターの席に座ると、ヒトラーはまず、「余の政治的遺言」と発した。それを聞いたユンゲは、極度に緊張する。ここで、あらゆる歴史的真実が明かされるに違いないと思ったからだ。しかし、その期待は外れ、ヒトラーは心ここにあらずと言った感じで、ほとんど機械的に声明、訴え、要求を述べるのみだった。その内容は、「1939年の開戦とヨーロッパにもたらされた戦禍は、ユダヤ人の陰謀によるものである。敵の見せ物にされるくらいならば、私は首都に留まり死を選ぶ。国民、兵士もそれに続いてくれる事を望む。その名誉の死の後に、新たな国家社会主義の芽が生えてくるであろう」といったものだった。


続いて、新政府の閣僚の名前を挙げていき、カール・デーニッツ海軍元帥を大統領に、ゲッベルスを首相に、ボルマンを党大臣に指名し、自らの意思を受け継いで、軍民一体となってあくまで悪しき国際ユダヤ人に抵抗するよう呼びかけた。けれども、ドイツと国家社会主義が崩壊しようとしている今、彼が任命する男達がなにをすべきなのか、ユンゲには理解し難かった。続いて、個人的な遺書の口述を始め、それが終わると3部清書するようにと言った。 ユンゲが清書に取り掛かっている間、ヒトラーとエヴァの結婚式が執り行われた。大管区局長のヴァルター・ヴァーグナーが戸籍係となり、ゲッベルスとボルマンが立会人となった。4月29日早々の深夜、参列者がお祝いを述べた後、エヴァは署名に名を記し、続いてBと書こうとしたが、新たな姓がヒトラーとなるため、Hと書き直した。それは、死に行く者のけじめの儀式であった。その後、ヒトラーは、何度も会議室を出たり入ったりして、ユンゲの作業具合を窺った。ヒトラーは言葉は発しなかったが、余裕のある時間は少ない事から、遺書の完成を待ちかねていた。


突然、ゲッベルスが会議室に駆け込んできて、泣きながらユンゲに話かけてきた。丁度、近くに心を打ち明けられる人間がいなかったからであった。「ユンゲさん!総統が私にベルリンから立ち去れと命じるんです。新政府で私が指導的役割を引き受けるように、と言うんですよ。しかし、私はやはり、ベルリンを出て行く事は出来ない。総統の傍を離れる事なんて出来ませんよ!私はベルリン大管区長で、ここが私の居場所なんですから。総統が死んだら、私の人生は意味がない。それなのに総統はこう言ったんです。「ゲッベルス君、君までも私の命令に従わないとは、思ってもいなかったね」って。総統はあんなにも多くの決定を、手遅れになってから下したのに、この一件は、最後の決定は、なぜこんなに早いんだろうか?」と、途方に暮れながら問いかけた。


そして、彼もまた口述筆記を頼み、それを総統の遺書に添えるよう頼んだ。その内容は、「私は、人生で初めて総統の命令を拒否する。ベルリンにある、総統の傍らの自分の場所を離れる事は出来ない。だが、忠義の手本の方が、長らえた生より貴重になる事だろう。国家社会主義の存在しないドイツに生きるよりも、家族全員で一緒に死ぬ方を選ぶ」といったものだった。この日、ベルリン救援作戦が悉く失敗した事を知らされ、ヒトラーは最後を決めた。自決の手段は、ピストルと毒薬と定めていたが、ヒムラーの離反を受けてから、毒薬の効果に疑念を持っていた。そこで、ハーゼ医師を呼んで話し合い、青酸カリのアンプルを1つ渡した。2人は、犬小屋になっている小さな空き部屋に入って行くと、ハーゼがヒトラーの愛犬ブロンディの前に屈みこんだ。甘酸っぱいアーモンド臭が漂ってきたかと思うと、もうブロンディは動かなかった。そこから戻ってくるヒトラーの顔は、死人そのものだった。


4月30日、エヴァは、「皆さん、私の事をヒトラーさんと呼んでくれていいんですよ」と顔をほころばせながら言った。エヴァがヒトラーと出会ったのは、1929年10月、エヴァ17歳、ヒトラー40歳の時だったが、そこからは長らく影の存在だった。ようやく晴れて夫婦となれたものの、その幸せは僅か1日でしか無かった。エヴァは、ユンゲを自室に呼んで洋服ダンスを開けると、「ユンゲさん、私、このコートをお別れにあなたにプレゼントしたいのよ」と言った。それは、銀ぎつねの美しいコートで、ユンゲは感激して心から礼を言った。それから、ヒトラーと昼食がもたれ、明るい落ち着きのある雰囲気で会話がなされた。それは、覚悟を秘めた最後の食事であった。ユンゲは食卓を立つと、煙草を一服する場所を探し、ヒトラーとエヴァは自室に戻っていった。ほどなく、副官のギュンシェが近寄ってきて、「ちょっと来て、総統がお別れしたいそうだよ」と耳打ちしてきた。廊下に出て行くと、秘書や使用人らが立ち並んでいた。


ヒトラーはゆっくりと自室から出てくると、1人1人に握手していった。その背は、いまだかってないほど曲がっていた。ヒトラーは、ユンゲとも握手を交わし、じっと見つめてきたが、その目は遥か遠くを見ているようだった。何かつぶやくが聞こえず、最後の言葉は分からなかった。エヴァは、ヒトラーお気に入りの黒いドレスを着ていた。そして、微笑みながら抱き締めてきて、「どうかここから出ていけるよう、頑張ってくださいね。あなたならきっと上手くやれると思うわ。そうしたらバイエルンの人達によろしく伝えてくださいね」と言った。その声には、すすり泣きも混じっていた。ヒトラーに続いて、エヴァも部屋へと入って行く。そして、重い鉄の扉が閉まった。不意にここから出来るだけ遠くに行ってしまいたいという衝動に駆られ、地下壕の階段を駆け上って行く。


ところが、途中でゲッベルスの子供達が、しょんぼりとしゃがみこんでいたので立ち止まった。今日は誰も昼食を作ってくれなかったので、子供達はお腹を空かせていた。ユンゲは子供達を連れてテーブルに付き、パンを食べさせた。子供達と喋っていた時、突如、一発の銃声が鳴り響いた。皆、黙り込んだ。今、ヒトラーが死んだのだ。しかし、子供達は何も分からないまま、お腹を満足させると部屋へと戻って行った。ユンゲはテーブルに付いたまま、きつい酒をあおり、そのままやるせない時間が過ぎていった。やがて、副官のギュンシェがやって来て、どっと座り込むと、彼も酒の瓶を掴んだ。その大きな手は、小刻みに震えていた。そして、「僕は、総統の最後の命令を実行したよ。彼の死体を焼いたんだ」とつぶやいた。ユンゲは何も答えず、何も問わない。ギュンシェは、遺体が余すことなく焼けたかどうか確認するため、また下に降りていった。


ユンゲは、ヒトラーの居た部屋へと駆り立てられた。エヴァの椅子の下には、空になった青酸カリのカプセルが転がっていた。ヒトラーの腰掛けのクッションには血が染みこんでいた。にわかに気分が悪くなった。ヒトラーは死んで、どうしようもない虚しさと戸惑いを残していった。夜半、モーンケ少将とギュンシェが話し合って、脱出計画を練っていた。ユンゲとクリスチアン夫人は、「私達も連れていって!」とせがむと、2人の男は頷いた。5月1日夜半、総統官邸を出て行く時、ゲッベルスが見送って、歪んだ笑みを浮かべながら、「あなたは上手く切り抜けられますよ」と言ってくれた。この頃、すでに子供達は死出の旅についており、ゲッベルスもまたマクダと共に後を追う。脱出の前、もう一度、ヒトラーの部屋の前を通りかかった。ヒトラーの灰色のコートや、帽子、手袋が架けられていて、犬の手綱がぶらぶらと揺れていた。エヴァの洋服ダンスには、E・Vの金文字が付いた銀ぎつねのコートが架かっていたが、それを手にする事は無かった。今、いるのはピストルと毒薬だけだった。


午後21時半頃、脱出が始まり、大勢の人々を掻き分けながら地下道を進んでいった。崩れかけた階段を登り、壁の穴を通り抜けながら、ヴィルヘルム広場に出た。遠くの銃砲火は激しく、広場を横切って行く時も、時々、耳をつんざくような銃声が響いた。地下鉄の入口を見つけて、暗いトンネルを進み、避難民や兵士達の脇を通り抜けて、フリードリヒ駅まで辿り着いた。そこで行き止まりであったので、鉄橋を進んで向こう岸へ渡らねばならなかった。ユンゲら先頭集団は無事通り抜ける事が出来たが、後方から続く人々はソ連軍に銃撃を浴びせられ、阿鼻叫喚に陥った。燃え盛る家々の間を通り抜け、真っ暗な街路を忍び足で歩きながら、何時間も進んだ。人気の無い地下室を見つけて2、3時間の睡眠を取ると、また歩き出す。5月2日、やがて、空が白々と明けてゆき、静かな朝を迎えた。銃声は止んでいた。


一行は古びたビール醸造所まで行き着いたが、これ以上、先に進む事は出来なかった。ソ連軍の戦車や兵士によって、完全に包囲されていたからだ。ソ連軍は降伏するよう呼びかけている。モーンケ少将は最後の報告書を書き上げて、これをデーニッツに届けてくれるよう、女性達に頼んだ。軍人達はここから出て行く事は叶わないが、女性達ならソ連軍も通してくれると思ったからだ。女性達は鉄兜とピストルをその場に置き、男達と別れの握手をしてから、出て行った。国民突撃隊などの動員兵も武器を置いて、ソ連軍に投降して行く。その一方、親衛隊の兵士達は尚も醸造所に留まって、抗戦の構えを取っていた(モーンケ少将らはしばらく篭城していたが、18時頃、降伏する)。ユンゲらは、荒々しい勝者、ソ連兵達の真ん中を、恐る恐る通り抜けていった。こうして、ユンゲの戦争は終わった。


戦後、ユンゲはベルリンに戻ったが、そこでソ連軍に拘束され、14週間、独房に収監された後、ヒトラーの死についての尋問がなされた。それから司令部付きの従業員として働き、1945年12月10日、外部の病院事務員に採用され、解放となった。その後は、秘書や事務員、編集者やフリーの記者として働き、2002年2月11日、81歳で死去した。同年、彼女が書いた手記をもとにして、「最後の瞬間まで」が出版された(和訳・私はヒトラーの秘書だった)。第3章までは、戦後間もなく書かれたもので、見たもの感じたものがほぼそのまま書かれているが、4章の暗殺未遂事件から6章のヒトラーの死までは、老年になって本にする際に新たに書き起こされたもので、記憶違いや、ヒトラーへの批判も散見される。そこには、自己批判や自己弁護も含まれているのだろう。


ユンゲは生前、この様な事を言っていた。

完全崩壊、難民、苦しみ、私はこの責任をヒトラーのせいにしました。彼の遺書、自殺、その頃から私はヒトラーを憎み始めました。それと同時に私は激しい同情をヒトラーにさえも抱いたのです。彼は父親のような友人でしたし、私に安心と保護と安全の感覚を与えてもくれたんです。森の真ん中にある総統の大本営のあの共同体の中で、あの父親のような人に守られていると感じていました。あの事を思い出すと、今でも心温まる気持ちになります。どこかに属していると言うあの感情をあんな風に抱く事は、その後、二度とありませんでした。自分の上司が、その誠実な顔の裏に犯罪的権力欲を持った男である事を見抜くには、私は若過ぎ、未熟過ぎました。ドイツが崩壊した時、とにかく望みは1つ、生きる事でした。ようやく、1960年代の半ば頃になって、自分の過去や日増しに強くなってくる罪悪感と真剣に取り組むようになりました。この男の犯罪が露見したからには、私は自分の人生の最後の瞬間まで、共犯の感覚と共に生きていく事でしょう。





↑生前のヒトラー最後の写真

1945年4月末に撮られたと見られる。





↑狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)の掩蔽壕の廃墟


旧ドイツ領東プロイセン(現ポーランド領)にあった、ヒトラーの本営跡。


主要参考文献、トラウデル・ユンゲ著、「私はヒトラーの秘書だった」



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秘書が見たヒトラー 3

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

ソ連軍は恐ろしい勢いで、東から迫っていた。彼らが占拠した村からは、略奪、強姦、虐殺といった、身の毛もよだつ報告が上がってくる。ヒトラーは、「奴らは人間じゃない。アジアの平原から来た野獣だ」と罵ったものの、ドイツ軍は追い込まれる一方であった。そして、1944年11月初旬、ソ連軍が目前まで迫ってきたため、ヒトラーは東プロイセンの狼の巣を引き払わねば、ならなかった。そして、ベルリン行きの特別列車に乗り込んだ時、ユンゲは、心から愛した東プロイセンの景色に永遠の別れを告げた。ヒトラーもまた、別れの感傷に浸っている。ひどく気落ちして、昼食時になっても、ぼんやりと一点を見つめるばかりであった。やがて、列車はベルリンに到着し、ヒトラーは総統官邸に入った。だが、ヒトラーは西部戦線の指揮を執るため、ドイツ西方のタウヌス山地にある鷲の巣に向かうつもりだった。そして、1944年12月16日、ドイツ軍は、西方のアルデンヌからアメリカ軍に大攻勢をかける。ユンゲはクリスマスに休暇を取ってから、1945年1月10日、タウヌスの鷲の巣に着いた。


ヒトラーは、総統防空壕で熱気の帯びた作戦会議を行っており、夕方になってやっと姿を現した。ベルリンにいた時よりかは元気になって、生き生きとしていた。そして、ここでも夜のお茶会が開かれ、政権初期の頃、高速道路建設の際の思い出話に花が咲いた。この晩の会話はたいそう弾み、ヒトラーには、心配事など何も無いといった感じであった。しかし、彼をよく知る人々は、こんな話で気を紛らわし、日々刻々と伝えられてくる、国土や人、物の喪失から目を逸らそうとしているのが、分かるのだった。1945年1月15日、ヒトラーは再び、ベルリンへと舞い戻った。総統官邸の庭園には、鉄筋コンクリート製の巨大な地下壕が作られていた。この地下壕は空襲時の一時的な滞在のために作られたものであったが、官邸が空襲の被害を受けてからは、ここがヒトラーとその幕僚の居住地となった。コンクリートと鉄の扉で守られた堅固な施設であるが、人が住むには余りにも重々しい空間でもあった。


1945年1月25日、西方におけるアルデンヌ攻勢は失敗に終わり、連合軍はライン河に迫りつつあった。同日、東方のソ連軍もオーデル河に達し、ベルリンまで約70キロの地点に立った。戦争は、最終局面を迎えようとしていた。4月19日には、ベルリンを守る最後の防衛線、ゼーロウ高地も突破され、ソ連軍を阻むものは何も無くなった。そして、4月20日、ソ連軍の最初の戦車隊がベルリン近郊に現れ、砲火の轟きが総統官邸にまで聞こえるようになった。そんな最中、ヒトラーは56歳の誕生日を迎えた。ゲーリング、ゲッベルス、リッベントロップ、ヒムラーといったナチス高官達が現れて、ヒトラーと握手を交わし、お祝いの言葉を述べた。そして、皆、口を揃えて街を出るよう促した。だが、ヒトラーは、あくまでベルリンに留まるとの決意を変えず、官邸の庭園でヒトラーユーゲントの少年達に勲章を授けていた。それは、ベルリン中の老若男女を、戦火の渦に巻き込む事を示唆していた。


ユンゲら女性達も、「ベルリンを出てはいかがでしょう」と勧めたものの、ヒトラーは、「いや、それは私にはできない」と答え、続いて、「ここベルリンで決定戦に持ち込まねばならない。さもなければ破滅するかだ!」と述べた。ヒトラーは最早、勝利など信じていなかった。女性達も以前から薄々、感づいてはいたが、それでも信じたかったし、すがりたかった。ところが、ついに本音を、真実を聞いたのだった。同じテーブルに付いていた女性達は沈黙し、ヒトラーは早々に立ち上がって、部屋へと去った。誕生祝いはお開きとなり、飲んだゼクト(発泡ワイン)も気の抜けた味となった。その時、エヴァが皆に声をかけて、踊ろうと言い出した。そして、通りすがりに出会った人々を皆、引き連れると、地下壕を出て、二階にある昔の居間へと向かった。仕事の鬼のボルマン党官房長官や、太っちょのモレル医師も加わる。レコードが流され、シャンパンを飲み、甲高い笑い声を上げて、ダンスをした。皆、心の中の不安を脱ぎい去るべく、踊り狂った。この日の夜、ゲーリングを始めとするナチスの高官達は車列を作って、ベルリンを去っていった。


4月22日、朝から晩まで砲火の轟きが聞こえるようになった。この日、ヒトラーを囲んで戦況会議が開かれたが、現状のドイツ軍の戦力では反撃すら行い得ないと聞かされた。すると、ヒトラーは激高して、「この戦争は負けだ!その罪は軍人共にあるのだ!」と叫んで、散々罵った挙句、茫然自失して椅子に座り込んだ。女性達が会議室に呼ばれて入ると、ヒトラーは無表情で虚ろな目をして立っていた。そして、これまで女性達には決してしなかった、命令口調でがなりたてた。「みんな早く着替えるんだ!1時間後に君達を南ドイツに運ぶ飛行機が出る。何もかもお終いだ!もはや万策尽きて、望みようも無し!」。女性達は、こわばって動けなかった。最初にエヴァの硬直が解け、ヒトラーの前に進み出た。そして、両の手を握り、微笑みながら、「あなたも御存知じゃないの。私があなたのお傍に残る事を。私はいかないわ」と話しかけた。すると、ヒトラーの目の奥が輝きだし、今だかつて誰にも見せなかった事をやってのけた。ヒトラーが、エヴァに口づけをしたのだ。


ユンゲはここを出たかったし、死にたくもなかったが、絶望し、打ちひしがれた孤独な男に、ユンゲもまた強い憐れみと同情を覚えていた。そして、「ここに残ります」と言ってしまった。ヒトラーは足を引きずるようにして、将校達の所へ行き、「諸君、なにもかもお終いです。私は時がくればピストルで自殺します。行きたい者は行ってよろしい。全員自由です」と告げた。沈黙のまま別れの挨拶をして、将校達は次々に地下壕を出ていった。ヒトラーは自室で、破棄せねばならない書類を引っ張り出して整理を始めた。ゲッベルスが家族を伴って、宣伝省の防空壕からやってきた。5人の女の子と1人の男の子は天真爛漫で、部屋をおもちゃで一杯にした。子供達は、ヒトラーおじさんと一緒に遊んだり、話したりするのが好きだった。


4月23日、シュペーアがひょっこり姿を見せた。エヴァは手を差し出しながら、「私、おいでになることを存じていました。総統を1人ぼっちになさる方ではいらっしゃいませんもの」と言ったが、シュペーアは苦笑いを浮かべるのみだった。シュペーアはヒトラーと話をもったが、会話の内容は不明で、その後、ベルリンを去った。この夜、ゲーリングから、「私が総統の地位に付いても宜しいか」との電報が入った。ヒトラーは無気力の極みで、それを聞いても無関心であったが、ボルマンが、「これは反逆行為です」と吹き込むと、急に怒りだして、直ちにゲーリングを解任した。ヒトラーは茫然自失の状態であったが、取り巻き達は、何とか元気つけようとして、エルベ河東岸に陣取っているヴェンク第12軍に目を付けて、これに望みを繋ぐよう必死に説得した。それを受けて、ヒトラーは次第に意欲を取り戻し、作戦の指揮を執りだした。しかし、ソ連軍の勢いは止まる事なく、4月24日には、ベルリンを完全に包囲する。


4月26日、女性飛行士ハンナライチュとグライム空軍大将が、シュトルヒ連絡機に乗ってやってきた。彼女は、ヒトラーを無条件に崇拝しており、彼とその理念のためには、死の犠牲さえ厭わない、狂信的、熱狂的な覚悟に燃えていた。ライチュが、ゲッベルスの子供達の話し相手や遊び相手となった。ゲッベルス夫人マクダには、もう子供達と平静に向き合う気力が残っていなかった。ゲッベルス夫妻は子供諸共、死ぬ覚悟を秘めていた。そんな思い詰めた彼女が、子供達と一緒にいるのは大変な負担となっており、その度、後で泣き崩れていた。子供達は無邪気に過ごしていたが、最年長のヘルガだけは、大人達のまやかしを感じ取って、物憂げな表情をしていた。ユンゲは、子供達を生かせる道はないかと、マクダと話し合いをもった。それに対してマクダは、「うちの子達は、恥と嘲笑の中で生きていくよりも、死んだほうがましなのよ。戦後がどうなろうとも、ドイツという国にうちの子供達の生きる場所はないわ」と述べるのだった。


昼も夜も分からない地下壕の生活を続けていると、今、何日なのかも分からなくなってきた。絶え間ない砲撃によって、安眠出来る日も無かった。地下壕の長い廊下には、疲れ切ってぼろぼろになった兵士達が横たわっていた。大部屋の1つは手術室となって、次々に負傷者が運び込まれ、バケツは切断された手足で一杯となった。ヒトラーは禁煙主義者であったが、この段階に到っては誰も守ろうとはせず、総統が近くにいようがいまいが、皆、そこら中で煙草を吸いまくった。エヴァですら吸っている。規律は弛緩し、あちこちに酒瓶が転がり、ヒトラーが側を通っても起立せず、喋り合ったりしていた。食事時、何を食べているのか分からないまま、どうすれば確実に死ねるだろうかとの会話がなされた。ヒトラーは、ヒムラーから青酸カリ入りのカプセルを10個、受け取っていた。そして、ヒトラーが青酸カリを使えば、数秒の内に死に至ると説明すると、ユンゲとクリスチアン夫人はそれを頼んでもらい受けた。ソ連軍に捕まれば、女性は酷い目に遭わされると噂されており、そうなれば死こそが救いだと思えたからだ。ヒトラーは、「お別れにもっと良い贈り物ができなくて、本当に残念です」と言って、手ずから青酸カリのカプセルを渡した。


ヒトラーは、部屋から部屋へと彷徨い歩いている。かつては年齢よりも若く見られ、鋭い眼差しに力に溢れた動作、獅子吼とも呼ばれた舌鋒をもって、絶対的な独裁者として君臨した。しかし、今は打ちひしがれた老人そのもので、虚ろな目に不自由な動作、言葉は弱々しく、その権威も地に落ちていた。ユンゲは、彼がなにを待っているのか、どうしてけりをつけないのか、理解に苦しんだ。そこで、「あのう、総統閣下ご自身が軍隊の先頭に立って、戦死される事をドイツ国民が期待しているとは、お思いになりませんか」と聞いてみた。最早、総統とは何でも話せた。すると、ヒトラーはさもけだるそうに、「私はもう肉体的に戦える状態ではない。私の手は震えて、ピストルが握れないくらいだ。もし私が負傷したとしても、撃ち殺してくれる部下さえ見つからないだろう。どんな事があっても、私はロシア人の手にだけはかかりたくないんだよ」と答えた。それは本当で、ぶるぶる震える手でフォークを口に持っていき、歩く時も床に足を引きずっていた。


エヴァはいつもと変わらず、朗らかに過ごしていた。けれどもある時、ユンゲの手を取ると、「ユンゲさん、私、本当はものすごく怖いのよ。早く全部終わってくれれば良いのに!」と打ち明けた。その目には、苦悩がありありと浮かんでいた。エヴァは、義弟のフェーゲラインが失踪した事を気にかけていた。やがて、フェーゲラインは愛人宅で泥酔していたところを、取り押さえられる。4月28日夜、ヒムラーの裏切りが発覚すると、フェーゲラインもその関係者と見なされて、死刑判決が下された。エヴァは、ヒトラーにかけあって助命嘆願をしたが、無駄だった。フェーゲラインは外務省の中庭で銃殺され、エヴァは泣き腫らした。皆がヒトラーの最後の決断を待って、じりじりとした時間を過ごしている。勤勉なボルマンやゲッベルスも、最早、何もする事が無い。従卒、副官、職員らもその時を待ちかねている。皆、地下壕から出たがっていた。頭上で鳴り響く轟音を聞きながら、座り込み、煙草を吹かし、無駄話をしながら、やり切れない時間を過ごした。




↑総統官邸




↑総統官邸の空中俯瞰図

赤い図が、総統地下壕のあった所。総統官邸は巨大な建造物だったが、地下壕は比較的、小さな閉鎖空間だった。




秘書が見たヒトラー 2

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

その内、ヒトラーは再び、東プロイセンの狼の巣に本営を移した。ヒトラーは1日1回は、エヴァに電話を入れるようにしていた。ヒトラーがエヴァに夢中になった第一の理由は、彼女の人間的な長所との事であった。ある時、ヒトラーと夫婦や結婚に関しての会話がなされると、ユンゲは、「何故、結婚をなさらなかったのですか?」と尋ねてみた。すると、ヒトラーは、「私は良き家庭の父親にはなれないだろうし、充分に妻に尽くす時間も無いのに家庭を持つのは、無責任でしょう。それに私は自分の子供は欲しくない。天才の子孫はいつの世も大変、生きにくいものです。世間は彼らに有名な祖先と同じ器を期待し、平凡である事を許してくれません。彼らのほとんどが、クレチン症患者になるというのにね」。この答えを聞いたユンゲは、1人の人間が自分自身を天才だと思いこんでいる事に、ひどく嫌な気持ちがした。


ユンゲは時々、ヒトラーの会議室から、将軍達が、悄然として出てくるのを見た。彼らは実現不可能な作戦や指示を正そうと、鉄の決心と、非の打ちどころのない資料と論拠をもって、ヒトラーに立ち向わんとした。ところが、彼らが説明しきらない内にヒトラーは話を遮って、自らの理論を述べ始める。将軍達にはそれがおかしいのは分かっているのだが、どうしても逸らされ、まるで催眠術にかけられたかのように、自らの意見に対する自信を失っていく。そして、打ちのめされ、絶望した面持ちで会見の場から出てくるのであった。1943年7月25日、イタリアのファシスト党首ムッソリーニが失脚した。ヒトラーいわく、「ムッソリーニは思ったよりも弱虫だったな。この私が支援したというのに失脚するとは。しかし、イタリアの同盟というのはどうも信用が置けなかった。無責任な民族と組まなくても、我々だけの方がずっと首尾よく勝てるというものだ。奴らは成果をもたらすどころか、威信の喪失と事実上の敗北を引き起こしてくれたようなものだ」


1943年末、ユンゲの夫、ハンスが休暇で帰ってきたが、最前線で過酷な現状を目にしたのか、完全に人が変わってしまい、まるで別人のようになっていた。そして、ヒトラーとも話を持ったが、最高指導者が現状をまったく認識していない事に愕然としていた。ほどなく、ハンスは再び最前線に戻っていった。1944年を迎えると、ドイツの敗色は濃くなる一方だった。毎日の生活はこれまで以上に不規則になり、作戦会議が際限無く続いて、とんでもない時間に食事を取った。皆、どんなに陽気に振舞い、軽い会話をしても、忍び込んだ不安を隠せなくなってきた。年が明けて、ヒトラーは本営をベルクホーフ山荘に移した。エヴァは、ここにいる。ヒトラーの様子を心配して、エヴァがユンゲに訊ねてきた。「ユンゲさん、総統のご機嫌はどう?私、モレルには聞きたくないの。信用出来ないし、大嫌い。総統に会ってびっくりしたわ。老けて深刻な感じになっちゃって。彼が何を心配しているのかご存知?私には何も言ってくれないのだけど、戦況が良くないのでしょう?」。そして、お茶会でエヴァは、ヒトラーに背中が曲がっていると注意した。


連合軍の爆撃機は、ベルクホーフの上空まで飛び交って、周辺の都市を爆撃するようになった。ヒトラー達はその度、地下防空壕へと退避せねばならなかった。ヒトラーは復讐を誓い、今にドイツ空軍の新発明を使って、敵に全ての借りを百倍にしてお返しすると息巻いた。実際、V1、V2という新型ロケット兵器を開発して、ロンドンに撃ち込み、数千人を殺傷せしめたが、連合軍によるドイツ爆撃の方が遥かに規模が大きかった。この頃、山荘にフェーゲラインという新顔が現れた。フェーゲラインは、ヒトラーとヒムラーとの連絡将校で、最初は作戦会議に顔を出すだけであったが、党指導者のボルマンと親しくなって頭角を現し、ヒトラーの側近の1人に加えられた。


フェーゲラインは、颯爽とした騎手の様な風貌をした美男子だった。その性格は正直かつ愉快で、歯に衣着せない発言をした。話上手で社交家でもあったので、たちまち夜のお茶会の一員となった。そして、フェーゲラインは、エヴァの妹、グレートルの目にとまり、求愛の対象となった。最初、フェーゲラインは、「ありゃいったい、なんて馬鹿なガチョウだ!」と相手にしなかったが、グレートルが、ヒトラーの寵愛を受けているエヴァの妹であると知るや、たちまち取り入って婚約を交わす仲となった。2人は、1944年6月3日に結婚する。(フェーゲラインは女性には人気があったが、出世に貪欲で、彼をよく知る軍人達からは、骨の髄まで腐りきった男と評されていた。また、フェーゲラインは、1941年、独ソ戦の折、騎兵旅団を率いて、プリピャチ沼沢地にてユダヤ人14,000人余を殺戮していた)


連合軍によるドイツ爆撃は、激化する一方であったが、ヒトラーはただの一度も、被害を受けた都市を見に行こうとしなかった。夜になれば、レコードを流しつつ、暖炉の側で、女性達と気さくにお喋りをした。そうやって、余裕と勝利への確信を見せつけようとしているようだった。ヒトラーは常々、礼儀正しい紳士であろうとし、老けた様子を絶対に見せようとはしなかった。しかし、時折、椅子に座ってぼんやりするようになり、年を取って疲れ切っているように見えた。そして、ヒトラーは、女性達に足を延ばしてても良いか?と訊ねてから、ソファーに足を置くのだった。それをエヴァは、心配そうに、悲しそうに見ていた。


1944年6月6日、アメリカ・イギリス連合軍はフランスノルマンディーへの上陸を果たし、6月22日にはソ連軍も、バグラチオン作戦を発動して、大反抗に転じていた。東西からの大きな包囲網が、ドイツに迫りつつあった。1944年7月、ヒトラーは東プロイセンの狼の巣に、また移動した。ヒトラーはここで指揮を執り、夜のお茶会も続ける。しかし、戦況が悪化するにつれ、それについては多くを語らなくなった。同年7月20日、突如として大本営に、爆発音が鳴り響いた。現場はたちまち、恐怖と混乱の巷となった。それは、ヒトラー暗殺を謀った、シュタウフェンベルク大佐の仕掛けた爆弾であった。爆発から数分後、ユンゲらはヒトラーがいると思われる地下会議室へと駆けた。


ヒトラーは、控え室で従卒に囲まれて立っていた。頭髪は逆立ち、黒いズボンは裂けて細い紐が何本も垂れ下がっているかのようであったが、本人は無事であった。そして、女性達に左手を出して、挨拶した。「さあて、ご婦人方、今度もうまくいきましたよ。やはり私は天命を授かった人間なのですね。そうで無ければ、もうこの世にはいませんよ」。間もなく、シュタウフェンベルク大佐が容疑者として上がり、その協力者として、軍の高官も次々に捕らえられていった。ヒトラーは逆上して裏切り者、卑怯者と罵って、散々息巻いた。そして、首謀者らが苦しみながら死ぬよう、ピアノ線による絞首刑に処していった。その一方、ヒトラーは、女性達には変わらず優しく、魅力的に振舞った。ユンゲを末っ子の甘えん坊のように扱い、からかうのが好きだった。1日1回は、エヴァの話となり、その時のヒトラーの目は温かい輝きを帯び、声は柔らかかった。


事件後、ヒトラーはこれまでにない不健康な生活を送るようになった。新鮮な空気を吸う事はほとんど無くなり、食欲も減退して、左手がかすかに震えるようになった。異常にたくさんの錠剤を飲むようになり、その上、毎日、モレル医師による注射を受けるようになった。モレルは肥満体で、野心家の医者だったが、注射の腕は良かった。ヒトラーはモレルを信頼しきって、大変な温情を与えており、夜のお茶会にも欠かせない存在だった。だが、侍医の1人、ブラントが、モレルの処方する錠剤に含まれていたストリキニーネの含有量を調べたところ、ヒトラーが、そのまま飲み続けていれば死に至る量であった。そこで、ブラントは覚書を提出して、ヒトラーにモレルの解任を促したところ、逆に怒りを被って、ブラントが侍医の職を失った。


1944年8月末、ユンゲはヒトラーと食卓を囲っていたが、この日のヒトラーは様子が変で、一言も言葉をかけてこず、偶然、目が合うとじっと探るように見てきた。感じが悪いと言ってもよかった。そして、この日、ユンゲは、フェーゲラインを通じて、夫ハンスが、8月13日ノルマンディー戦線にて戦死したと告げられた。ユンゲは外に飛び出し、雨の降る中、野原の道を駆けていった。どうしようもなく悲しかった。遅くなってから部屋に戻ったが、誰とも会いたくなく、誰とも話したく無かった。1人にしておいてもらいたかったが、ヒトラーからの呼び出しを受けて、仕方なく向かった。ユンゲが部屋に通されると、ヒトラーは無言で近づいてきて両の手を握り、「ああ君、可哀想に。あなたのご主人は立派な人でしたね」と低い悲しげな声で、お悔やみを述べた。そして、「私が付いていますから心配しないで。いつでも助けてあげますよ」と慰めた。


しばらくして、ユンゲはまた食卓に参加するようになった。ヒトラーは老けて疲れた様子で、言葉数も少なかった。ご機嫌うかがいをすると、「私は本当に重大な問題をたくさん抱えています。私がたった1人でどんなに色々な決断を迫られているか、皆さんには分からないでしょう。誰も私の責任の肩代わりなんてしてくれない」とこぼした。それから数日後、ヒトラーは寝込んでしまい、お茶会も中止となった。ヒトラーは投げやりになって誰とも会いたがらず、決済すべきものも滞って、副官達は途方に暮れた。モレル医師が病棟から助手に指示を出して、治療に当たらせると、いくらか気力を取り戻し、ベッドの上から命令を発し、お茶会も開くようになった。ヒトラーは白い寝間着を着て、客を迎え入れた。その袖から見えていた腕は、輝くような白さだった。しばらくは腑抜けたようにベッドに横たわり、疲れた目でぼんやりするばかりであったが、ソ連軍が東プロイセンに侵攻中であるとの報告を受けて、ようやく我に還った。




秘書が見たヒトラー 1

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

1942年11月末、ドイツの総統ヒトラーは、秘書を1人募集した。当時、ヒトラーには3人の女性秘書が付いていたが、その1人が辞めたためであった。これを受けて、ベルリンの総統官邸で働いていた女性事務員、トラウデル・ユンゲ、当時22歳が応募した。ユンゲは1920年にミュンヘンで生まれ、十代の頃からダンサーになるのが夢であったが、家の経済事情もあって、地元の会社で事務員として働き出した。1941年、ダンサーの試験に合格したので、会社を退社してダンサーとして生きようとしたが、戦争状態に入っていたドイツが職業制限を行い出したので、これを諦めざるを得なかった。


そうした折、ベルリン在住の妹インゲが、政府関係者のアルベルト・ボルマンと知り合いであったので、それを通じて、ベルリンの総統官邸で働かないかと誘いをかけてきた。ユンゲはこれを機に家を出て、首都ベルリンを見学し、そこで新たな体験をしたいとの思いが強く湧きあがってきたので、すぐさまベルリンへと発った。そして、総統官邸で事務員として働き出し、次にヒトラーの秘書に応募したのだった。1942年11月末、秘書採用試験を受けるため、ユンゲを含む10人の女性が列車に乗って、東プロイセンにある総統大本営(狼の巣)に入った。女性達は緊張の面持ちで、ヒトラーのいる広間へと通された。ヒトラーは女性達の緊張を解きほぐすかの様に、にこにこしながらやって来ると挨拶を交わし、1人1人に手を差し出しながら、名前や住所を聞いて回った。


この中でユンゲは、ナチス揺籃の地である、ミュンヘン出身であったので、それが好ましく思われたようだった。それから2週間余り後、タイプライターの試験が始まった。まずユンゲが最初で、ヒトラーのいる執務室へと入った。ヒトラーはまず握手の手を差し出すと、次にタイプライターのある机へと導いた。部屋にいるのは2人だけで、ユンゲも緊張は隠せなかったが、ヒトラーはにこにこと優しげに、「あがったりする必要はまったくないんですよ。私だって自分で筆記する時でさえ、あなたが全然やりそうにない間違いを、たくさんやらかしますからね」と気遣った。ユンゲは、「ちっともあがったりしていません」と言い張ったものの、その手はぶるぶると震えていた。


その時、ノックがあって従卒が入って来ると、リッベントロップ外相からの連絡を告げた。ヒトラーはしばし、リッベントロップと電話で応対したので、その間にユンゲは落ち着きを取り戻す事が出来た。電話が終わると試験は再開され、ヒトラーが文章を読み上げて、それをユンゲがタイプに打ち込んでいく。全てを書き終えて提出すると、ヒトラーは素晴らしい出来である事を保障し、別れの挨拶をしてから執務に戻った。ユンゲはほっとして部屋を出たが、自分が受かったとは思っていなかった。しかしながら、ヒトラーはもう他の9人を試す気はなく、既にユンゲの採用を決めていた。


それから間もなく、ヒトラーはユンゲを呼び出し、「君には大変、満足している」と言い、それから、「あなたは、私の所にこのまま留まりたいですか?」と訊ねた。政治的に無知であったユンゲは、特別な職場で、素晴らしい、刺激的な体験を得られると思い、「はい」と答えた。こうしてユンゲは、2人の先輩秘書ヴォルフ嬢、シュレーダー嬢と共に、ヒトラーの秘書となった。それからの日々、ヒトラーと会いも話もせず、一緒に働かず、食事も共にしないという日は、ほんの僅かでしか無かった。しかし、これからの秘書生活では、タイプを打つより、社交相手としての役割の方が多かった。


ユンゲは、東プロイセンの地、狼の巣で働き始めた。冬の東プロイセンは、例えようもなく美しく、雪をかぶった白樺の森、澄み切った空、湖を囲む平原の広がりに感激させられた。だが、夏のプロイセンは、空気は湿っぽく淀んで、息苦しい上、無数の蚊が飛び交って人々を閉口させた。ヒトラーは散歩を日課としていたが、夏の間は、専用の涼しい退避壕に引き篭もっていた。ただ、そんな時でも愛犬ブロンディのためだけに、退避壕近くの一角はひと回りするようにしていた。ヒトラーは犬と遊ぶことが一番の息抜きだと言っており、ブロンディが数センチ高く飛んだりすると、大喜びした。ヒトラーは菜食主義者で、肉抜きの質素な料理をいつも食した。コックが味付けを良くしようと僅かばかり肉の脂を加えたりすると、大抵、ヒトラーはそれを見抜いて、胃の調子が悪くなったと怒るのだった。


1943年2月2日、スターリングラードに包囲されていたドイツ軍30万人余が、飢えと寒さに苦しんだ挙句、全滅した。ドイツの先行きに暗い影が差し始める。1943年3月末、ヒトラーはドイツ南東部にあるベルクホーフ山荘で休息し、そこで国賓を迎えるため、列車の旅路についた。それは豪華な専用列車で、壁は磨かれた高級木材で、床にはビロードの絨毯が敷き詰められ、豊かな食材を提供する食堂車両や会議も出来る応接車両、それに風呂付きのヒトラー用の個室が2つ備わっていた。ヒトラーはユンゲを含む5人を食事に招いて、会話をもった。ヒトラーは女性に対してはとても感じの良いホストで、好きな物を食べるように勧め、何か希望はないかと訊ね、以前この列車でした旅の話や、犬の話をユーモアを加えながら話し、自分のスタッフについて冗談を飛ばしたりした。


やがて、列車はベルクホーフ山荘に到着した。森や野原が広がり、その奥に山々がそびえる美しい場所だった。そして、この山荘には、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンが住まっている。エヴァはとても身なりがよく、いつも品良く装っていた。それでいて気取りがなく、自然体であった。エヴァは、ただ1人、ヒトラーを好きな時に撮影する事を許されており、度々、その姿をカメラや八ミリ映写機におさめようとした。ヒトラーは控えめに、ありのままに写される事を望んだ。エヴァの写真の腕は確かで、度々、上手い写真が出来上がった。ヒトラーはこの山荘で、2つのまったく違う生活を送った。昼間は執務室に篭もって、軍、政治の最高指導者として激しい会議を持ち、夜になると、エヴァやユンゲを含む少数の取り巻きと穏やかなお茶会を持った。参加者は、コーヒー、紅茶、酒など好きな物が飲めたが、ヒトラーは専らリンゴ皮茶と、焼きたてのリンゴケーキを好んでいた。


ヒトラーは少人数の食事時には、もっぱら、政治や軍事とはまったく関係の無い、上滑りな軽い話題を好んだ。同じくヒトラーの秘書であった、クリスタ・シュレーダーは、「お茶の時間に、世の中の事、前線での出来事に言及する事は許されなかった。戦争に関連する事は、全てタブーだった」と述べている。お茶会では、楽しい月並みな会話がもたれ、その中で揶揄を込めたやりとりが交わされた。時にヒトラーは、自分の青春時代を面白おかしく話したり、人の物真似をしたりして、女性達を笑わせた。ヒトラーは、この夜毎のお茶会を子供のように楽しみにしていた。ヒトラーの愛犬、ブロンディも参加を許されており、人々の前で度々、芸を披露した。ブロンディは、ヒトラー自慢の大変賢い犬で、度々、茶会の話題となった。様々な客が訪れて、散歩やお茶会の供となった。中でも、ヒトラーは特にアルベルト・シュペーアをひいきにしていており、「彼は芸術家で、私と同類の人間だ。彼とはまたとないほど暖かい人間関係にあるんだ」と言うのだった。実際、シュペーアは好感の持てる楽しい男で、優れた才能も兼ね備えていた。


だが、ある時、ウィーンからヘンリエッテ・フォン・シーラッハ夫人が訪ねてきた時、 タブーとされている話題を、ヒトラーに持ちかけた。 「総統閣下、私、この前アムステルダルでユダヤ人の移送列車を見たんです。ぞっとしたわ。あの気の毒な人達がどんな様子だったか、あの人達はきっと物凄くひどい扱いを受けているのよ。御存知なんですか?あんな事お許しになるんですか?」 。ヒトラーは怒鳴り散らして、これに反論する。その主張は、「毎日、大切な青年達が何万人も戦死している。最良の者達が失われ、ヨーロッパの釣り合いが取れなくなってきている。何故なら、劣等な連中が生きているからだ。それで百年、千年経てば、どうなると思う?私は自らの民族に対する義務を負っている」といったものだった。最後に、「あなたは憎悪する事を覚えねばならない。私もそうせざるを得なかったのだ」と言った。シーラッハ夫人は、少女時代からヒトラーと肉親のような付き合いをしていたが、「私はもうあなたのお仲間ではありません」と言って退出した。お茶会に気まずい空気が広がる。翌日、シーラッハ夫人は早々に帰された。客としての権利を超え、ヒトラーを楽しませるという義務を怠ったためであった。


1943年4月20日、ヒトラーは54歳の誕生日を迎え、それを祝うため、ヒムラー、ヨーゼフ・ディートリヒ、ゲッベルス、リッベントロップら、ナチス首脳が集った。昼食会が開かれ、ユンゲはヒムラーの隣に座った。彼は、親衛隊全国指導者にして、全ドイツ警察長官でもあり、絶大な権勢を誇る。その外観は官僚的かつ、偽善的に見えて感じが悪かった。ところが実際に話してみると、思いの他、礼儀正しくて、びっくりさせられた。口元には絶えず微笑を湛え、静かな語り口で魅力的な会話をする。そして、自らが運営する強制収容所が、いかに素晴らしく組織されているかを、説明しだした。「収容者達に、私は個人個人に合わせて仕事を振り分けました。このやり方によって、完璧な保安はもとより、より良い成果、平穏、規律なども収容所にもたらされたのです」。ヒトラーはその解説に頷き、ユンゲを始めとする人々もその言葉を信じた。(実際には、ヒトラーがユダヤ人虐殺の指示を出し、それをヒムラーが忠実かつ、大々的に実行していた)


この頃、ユンゲは、ヒトラーの従卒を務めている、ハンス・ユンゲと親しくなり、婚約を交わす仲となった。ハンスは献身的な働きをもって、ヒトラーに大いに気に入られていたが、彼自身は、ヒトラーの身辺から離れたいと考えていた。ヒトラーの側にいると、その思考の世界にとことん影響されて、自分の本質を見失いそうになるからであった。ヒトラーの存在感は大きく、誰もがその強烈な個性の影響を受けずにはいられない。もう一度、自分自身を見つめ直すには、そこを離れる他無かった。なので婚約に事よせて、前線勤務を申し出たのだった。そうとは知らないヒトラーはここでお節介を焼いて、ハンスが前線に赴く前に結婚するよう、2人に強く勧めた。2人は余計なお世話と苦笑したが、悪い気もしなかった。こうしてヒトラーに背中を押される形で、1943年6月19日、2人は結婚式を挙げ、正式に夫婦となった。だが、結婚の幸せはボーデン湖畔で過ごした、4週間の休暇だけであった。そして、ハンスは前線へと赴き、ユンゲは大本営に戻っていった。





↑エヴァ・ブラウンとアドルフ・ヒトラー


1942年6月19日、ベルクホーフ山荘のテラスで撮られた写真。ヒトラーの右にいるのは、シェパード犬のブロンディ。

アマゾンに消えたイギリス人大佐 2

2013.12.31 - 歴史秘話 其の二

1924年9月、フォーセットはリンチという記者と知り合い、彼を通じてアメリカ合衆国の各団体から資金を獲得出来る目処が立った。フォーセットは愁眉が開く思いで、早速、探検の準備に取り掛かる。フォーセットは今回の探検に賭けており、決定的な発見をするまで、ジャングルで1年から2年を過ごすと決意していた。これが可能なのかと言うと、フォーセットはこれまでに、ジャングルの先駆者であるインディオから、狩りの方法や食べられる植物の見分け方などを学んできており、初期の頃より、効率的にジャングルから食べ物を採取できるようになっていた。


また、インディオの集落を拠点として、そこから探検行に乗り出す事も考えたのだろう。しかし、古代都市を見つけるという崇高な目的のため、なんの道楽も無く、危険に満ちたジャングルで2年もの間を過ごすのは、並大抵の人間に出来る事では無い。フォーセットは今回の探検に、誰よりも信頼が置けて、同じ目的意識を持ち、更に体力抜群で意志強固な隊員を必要とした。そのためにフォーセットが選んだのは、自らの息子であるジャックと、その親友のローリーであった。


ジャックは偉大な探検家である父に憧れて、少年時代から体を鍛えており、21歳の今では身長190センチの恵まれた体格を誇った。ローリーも21歳で、身長は180センチ近くあって、筋肉質な体格であった。この2人に探検経験はまだ無かったが、古代都市を見つけるという同じ目的意識があり、従順で信頼が置け、それに若々しい活力に満ちていた。フォーセットはこの2人ならば、未知の大いなる試練にも耐えられると期待した。フォーセットは己の探究心を満足させ、不朽の栄誉を掴むべく、若いジャックとローリーは浪漫と名声を求めて、ブラジルへの旅路についた。


1925年1月、3人はリオデジャネイロに立ち寄り、同年2月11日、そこから列車に乗って1500キロ以上先の奥地へと向かった。3月3日、クイアバに到着すると、そこで探検に適した乾季が訪れるまで待つ事となった。フォーセットはここで2人のガイドを雇い、馬やラバなどの動物を買い入れた。そして、4月20日、乾季が到来し、いよいよ出発となった。フォーセットはまず、ここから150キロ先にある、バカイリ営所を目指した。フォーセットはこの行程を、忍耐力と耐久力の試験と位置付け、2人の若き同行者の探検家としての資質を試そうとした。


ジャングルの過酷な環境は、人間の本性を曝け出す。ここでは弱気は許されず、強靭な意志と体力を有する者のみが立ち入りを許される。ローリーは普段は陽気な性格の持ち主であるが、ジャングルの生活を続ける内に徐々に陰鬱となり、黙りこむようになった。また、ダニに噛まれて足に感染症を患い、隊の仕事をこなせなくなった。反対にジャックの方は未開のジャングルにあっても意気軒昂で、父譲りの抜群の体力を示すと共に、感染症に対する免疫力も発揮した。それに勇気ある行動を示して、父、フォーセットを喜ばせた。57歳となるフォーセットは、さすがに体力の衰えは隠せなかったが、それでも意気軒昂で、常人以上の耐久力はまだ健在であった。


しかし、連れて来た動物達が弱り始め、ローリーの体調も思わしくなかったので、フォーセットは休憩を入れるため、ガウヴォンという人物が経営する牧畜場に立ち寄った。ガウヴォンは多数のインディオを殺害して農場を広げたとされる、いわくつきの人物であるが、フォーセット一行を快く受け入れて、数日間もてなしてくれた。出発するにあたっても、ガウヴォンは弱った動物と引き換えに、犬を譲ってくれた。クイアバを発ってから1ヶ月後、フォーセット一行は、20軒ばかりのあばら家があるだけのバカイリ営所に到着する。5月19日、ジャックはここで22歳の誕生日を迎え、翌5月20日、一行はいよいよ人跡未踏のジャングルの奥地へと踏み込んでいった。


5月29日、一行は好戦的なカイアポ族が住む地帯を恐る恐る通り抜け、更に恐ろしいとされるシャバンテ族が住む地帯に差し掛かった。シャバンテ族はかつて白人に残虐行為を受けた過去があるので、白人を信用しなくなり、友好的に接触しようとする者さえ殺害するようになっていた。フォーセットは、非常に危険な地域に踏む込もうとしていた。クイアバから連れてきたガイド2人は熱帯病を患い、これ以上の前進を渋ったので、ここで送り返す事にした。ローリーも足の感染病は治っておらず、黄疸の症状が現れて片腕も腫れ上がっていたので、フォーセットは一緒に引き返すよう促した。


ローリーはジャングルの中で心の弱さを露呈し、体質的にも向いていなかったが、ここにきて、最後まで頑張ると言い張ったので、このまま同行する事となった。3人のささやかな探検隊はガイドに手紙を託し、手を振って別れるとジャングルの奥地へと入って行った。彼らは古代都市を見つけるため、これから2年余りもジャングルで過ごすのだ。それから数ヵ月後、ガウヴォンが譲った犬が、ただ一匹、よれよれになって彼の邸宅に戻ってきた。フォーセット一行の行方に不吉な暗雲が漂う。フォーセットの人並み外れた体力と意志は世間に広く知れ渡っており、当初は誰も心配していなかったが、何の音沙汰も無いまま2年が経ち、1927年の春を迎えると、さすがに彼らの安否を不安視する声が上がり始めた。


北米の新聞社はこの格好の話題に飛びつき、フォーセットの一大危機、アマゾンのミステリーなどと、紙面一面に扇情的に書きたてた。これを受けて、世間一般から大小様々な捜索隊が志願して、アマゾンに向かう事となる。そして、1928年にダイオットという人物が最初に調査に乗り出したのを皮切りに、次々に捜索隊がアマゾンの奥地へと向かっていった。だが、誰一人として、フォーセット一行の痕跡を掴む事は出来ず、それどころか、3人の探検隊を見つけるため、100人以上の捜索隊がジャングルの奥地で永久に行方不明になる有り様であった。ジャングルはやはり過酷であり、この結果を受けて、人々もフォーセット一行の生存を絶望視した。


そのまま25年の歳月が流れ、1950年を迎えると、話題の的であったフォーセット失踪も世間から忘れ去れていたが、彼の80歳になる妻、ニーナは、生きていれば82歳になる夫と、47歳の息子の生還を今なお信じて待ち続けていた。1952年、フォーセットの次男であるブライアンは、父の軌跡をまとめた「フォーセット探検記」を草稿する。その最初の一冊を手渡されたニーナは、夕方から翌朝になるまで夢中になって読んだ。それを読んでいると、夫がすぐ側にいるように感じられ、夫やジャックとの思い出で胸が一杯になった。そして、読み終えるなり、「ブラボー!ブラボー!」と叫んで、この本の出来を褒めた。それから1年後、1953年、ニーナは84歳の生涯を閉じた。貧困に喘いだ彼女の最後の場所は、荒れ果てた下宿屋であった。


フォーセットはどこに消え、どのような最後を遂げたのであろうか?近年に至り、ある記者がフォーセット失踪を追ってアマゾンの奥地まで赴き、フォーセットが消息を絶ったとされる地域に住んでいるカラパロ族に取材を試みた。その結果、カルパロ族の首長からフォーセットにまつわる、非常に興味深い話を聞く事が出来た。


彼らは動物を連れず、荷物を自分で背負っていた。首長である1人は年を取っていて、あとの2人は若かった。3人は空腹で疲れ切っていたので、人々が魚を与えると、3人はお礼として釣り針とナイフを差し出した。やがて、年取った男が、「もう行かなくてはならない」と言った。人々が、「どこへ行くのか?」と訪ねると、「あの方角だ。東へ」と答えた。人々は口々に「誰もあの方角には行かない。向こうには好戦的な部族がいる。殺されるぞ」と諌めた。だが、年取った男は耳を貸さず、出発して行った。それから何日間かは、夜になると野営の焚き火と煙が見えた。しかし、その火は5日目に消えた。人々は3人に何かよからぬ事が起こったのではないかと心配し、野営地を探しに行ったが、もうどこにも3人の痕跡は見当たらなかった。


これはカラパロ族の首長が、両親から語り聞かされたもので、代々語り継がれてゆく、口承歴史というものであった。口承歴史とは、文字を持たない種族が、部族に起こった出来事を世代から世代に正確に語り継いでいくものである。記者が調べを進めると、1931年にカラパロ族と接触した人類学者も同様の話を聞いたと報告しており、1981年に、カラパロ族を調査したアメリカの人類学者もまた、同じ話を報告している事が分かった。この口承歴史を聞くからに、フォーセット、ジャック、ローリーら3人は道中、カラパロ族の村に立ち寄って歓待を受けたが、そこを出てほどなく好戦的な部族に遭遇し、そこで殺されたと見るべきではなかろうか。


現在に至り、フォーセットが最後に探索した地域からは、数々の文明の痕跡が発見されている。例えばクイクロ族という部族の住む地域からは、古代の大集落の跡が残されており、しかもそれを守る様に、直径1・5キロの円状の壕が掘られていた。集落跡には道路や水路、橋に土手道の痕跡が残されており、広大な広場もあった。人々は排泄物と炭を用いて黒い肥沃な土を作り、豊かな農耕生活を営んでいた。また、ここからは多数の土器も見つかっている。ジャングルに石材は少ないので、人々は木や土を用いて集落を築いていた。周辺数キロにも同じような集落跡が幾つも見つかっており、それぞれが道路で繋がっていた。しかも、それらの集落は極めて計画的に配置されており、当時の中世ヨーロッパ都市と比べても遜色の無いものだった。これらの集落にはそれぞれ2千人から5千人の人々が住み、西暦800年から1600年にかけて存在していたと見られている。しかし、ヨーロッパ人によって持ち込まれた疫病によって人口が激減すると、これらの集落も衰退して、やがてジャングルに覆い尽くされていった。フォーセットが想像していたような石造りの都市こそ無かったが、ここには確かに文明の痕跡があったのだ。


主要参考文献 「ロストシティZ 探検史上、最大の謎を追え」


 

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重家 
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