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秘書が見たヒトラー 終

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

4月28日の深夜、ライチュとグライムが飛行の支度をしていた。そして、ヒトラーと長い会話をしてから、地下壕を去って行った。ユンゲが執務室に入ると、そこには皿やグラスが並べられて祝いの席が設けられていた。ユンゲには、何の席かまだ分からなかったが、ここでヒトラーとエヴァの結婚披露宴が行われるのだった。そして、ヒトラーから口述筆記してもらいたいと言い渡され、隣の会議室に移動した。タイプライターの席に座ると、ヒトラーはまず、「余の政治的遺言」と発した。それを聞いたユンゲは、極度に緊張する。ここで、あらゆる歴史的真実が明かされるに違いないと思ったからだ。


しかし、その期待は外れ、ヒトラーは心ここにあらずと言った感じで、ほとんど機械的に声明、訴え、要求を述べるのみだった。その内容は、「1939年の開戦とヨーロッパにもたらされた戦禍は、ユダヤ人の陰謀によるものである。敵の見せ物にされるくらいならば、私は首都に留まり死を選ぶ。国民、兵士もそれに続いてくれる事を望む。その名誉の死の後に、新たな国家社会主義の芽が生えてくるであろう」といったものだった。続いて、新政府の閣僚の名前を挙げていき、カール・デーニッツ海軍元帥を大統領に、ゲッベルスを首相に、ボルマンを党大臣に指名し、自らの意思を受け継いで、軍民一体となってあくまで悪しき国際ユダヤ人に抵抗するよう呼びかけた。


けれども、ドイツと国家社会主義が崩壊しようとしている今、彼が任命する男達がなにをすべきなのか、ユンゲには理解し難かった。続いて、個人的な遺書の口述を始め、それが終わると3部清書するようにと言った。 ユンゲが清書に取り掛かっている間、ヒトラーとエヴァの結婚式が執り行われた。大管区局長のヴァルター・ヴァーグナーが戸籍係となり、ゲッベルスとボルマンが立会人となった。4月29日早々の深夜、参列者がお祝いを述べた後、エヴァは署名に名を記し、続いてBと書こうとしたが、新たな姓がヒトラーとなるため、Hと書き直した。それは、死に行く者のけじめの儀式であった。その後、ヒトラーは、何度も会議室を出たり入ったりして、ユンゲの作業具合を窺った。ヒトラーは言葉は発しなかったが、余裕のある時間は少ない事から、遺書の完成を待ちかねていた。


突然、ゲッベルスが会議室に駆け込んできて、泣きながらユンゲに話かけてきた。丁度、近くに心を打ち明けられる人間がいなかったからであった。「ユンゲさん!総統が私にベルリンから立ち去れと命じるんです。新政府で私が指導的役割を引き受けるように、と言うんですよ。しかし、私はやはり、ベルリンを出て行く事は出来ない。総統の傍を離れる事なんて出来ませんよ!私はベルリン大管区長で、ここが私の居場所なんですから。総統が死んだら、私の人生は意味がない。それなのに総統はこう言ったんです。「ゲッベルス君、君までも私の命令に従わないとは、思ってもいなかったね」って。総統はあんなにも多くの決定を、手遅れになってから下したのに、この一件は、最後の決定は、なぜこんなに早いんだろうか?」と、途方に暮れながら問いかけた。


そして、彼もまた口述筆記を頼み、それを総統の遺書に添えるよう頼んだ。その内容は、「私は、人生で初めて総統の命令を拒否する。ベルリンにある、総統の傍らの自分の場所を離れる事は出来ない。だが、忠義の手本の方が、長らえた生より貴重になる事だろう。国家社会主義の存在しないドイツに生きるよりも、家族全員で一緒に死ぬ方を選ぶ」といったものだった。この日、ベルリン救援作戦が悉く失敗した事を知らされ、ヒトラーは最後を決めた。自決の手段は、ピストルと毒薬と定めていたが、ヒムラーの離反を受けてから、毒薬の効果に疑念を持っていた。そこで、ハーゼ医師を呼んで話し合い、青酸カリのアンプルを1つ渡した。


2人は、犬小屋になっている小さな空き部屋に入って行くと、ハーゼがヒトラーの愛犬ブロンディの前に屈みこんだ。甘酸っぱいアーモンド臭が漂ってきたかと思うと、もうブロンディは動かなかった。そこから戻ってくるヒトラーの顔は、既に死人そのものだった。4月30日、エヴァは、「皆さん、私の事をヒトラーさんと呼んでくれていいんですよ」と顔をほころばせながら言った。エヴァがヒトラーと出会ったのは、1929年10月、エヴァ17歳、ヒトラー40歳の時だったが、そこからは長らく影の存在だった。ようやく晴れて夫婦となれたものの、その幸せは僅か1日でしか無かった。エヴァは、ユンゲを自室に呼んで洋服ダンスを開けると、「ユンゲさん、私、このコートをお別れにあなたにプレゼントしたいのよ」と言った。それは、銀ぎつねの美しいコートで、ユンゲは感激して心から礼を言った。


それから、ヒトラーと昼食がもたれ、明るい落ち着きのある雰囲気で会話がなされた。それは、覚悟を秘めた最後の食事であった。ユンゲは食卓を立つと、煙草を一服する場所を探し、ヒトラーとエヴァは自室に戻っていった。ほどなく、副官のギュンシェが近寄ってきて、「ちょっと来て、総統がお別れしたいそうだよ」と耳打ちしてきた。廊下に出て行くと、秘書や使用人らが立ち並んでいた。ヒトラーはゆっくりと自室から出てくると、1人1人に握手していった。その背は、いまだかってないほど曲がっていた。ヒトラーは、ユンゲとも握手を交わし、じっと見つめてきたが、その目は遥か遠くを見ているようだった。何かつぶやくが聞こえず、最後の言葉は分からなかった。


エヴァは、ヒトラーお気に入りの黒いドレスを着ていた。そして、微笑みながら抱き締めてきて、「どうかここから出ていけるよう、頑張ってくださいね。あなたならきっと上手くやれると思うわ。そうしたらバイエルンの人達によろしく伝えてくださいね」と言った。その声には、すすり泣きも混じっていた。ヒトラーに続いて、エヴァも部屋へと入って行く。そして、重い鉄の扉が閉まった。不意にここから出来るだけ遠くに行ってしまいたいという衝動に駆られ、地下壕の階段を駆け上って行く。ところが、途中でゲッベルスの子供達が、しょんぼりとしゃがみこんでいたので立ち止まった。今日は誰も昼食を作ってくれなかったので、子供達はお腹を空かせていた。


ユンゲは子供達を連れてテーブルに付き、パンを食べさせた。子供達と喋っていた時、突如、一発の銃声が鳴り響いた。皆、黙り込んだ。今、ヒトラーが死んだのだ。しかし、子供達は何も分からないまま、お腹を満足させると部屋へと戻って行った。ユンゲはテーブルに付いたまま、きつい酒をあおり、そのままやるせない時間が過ぎていった。やがて、副官のギュンシェがやって来て、どっと座り込むと、彼も酒の瓶を掴んだ。その大きな手は、小刻みに震えていた。そして、「僕は、総統の最後の命令を実行したよ。彼の死体を焼いたんだ」とつぶやいた。ユンゲは何も答えず、何も問わない。ギュンシェは、遺体が余すことなく焼けたかどうか確認するため、また下に降りていった。


ユンゲは、ヒトラーの居た部屋へと駆り立てられた。エヴァの椅子の下には、空になった青酸カリのカプセルが転がっていた。ヒトラーの腰掛けのクッションには血が染みこんでいた。にわかに気分が悪くなった。ヒトラーは死んで、どうしようもない虚しさと戸惑いを残していった。そして、自分でも驚くほど、憎しみの感情が湧いてきた。夜半、モーンケ少将とギュンシェが話し合って、脱出計画を練っていた。ユンゲとクリスチアン夫人は、「私達も連れていって!」とせがむと、2人の男は頷いた。5月1日夜半、総統官邸を出て行く時、ゲッベルスが見送って、歪んだ笑みを浮かべながら、「あなたは上手く切り抜けられますよ」と言ってくれた。この頃、すでに子供達は死出の旅についており、ゲッベルスもまたマクダと共に後を追う。


脱出の前、もう一度、ヒトラーの部屋の前を通りかかった。ヒトラーの灰色のコートや、帽子、手袋が架けられていて、犬の手綱がぶらぶらと揺れていた。エヴァの洋服ダンスには、E・Vの金文字が付いた銀ぎつねのコートが架かっていたが、それを手にする事は無かった。今、いるのはピストルと毒薬だけだった。午後21時半頃、脱出が始まり、大勢の人々を掻き分けながら地下道を進んでいった。崩れかけた階段を登り、壁の穴を通り抜けながら、ヴィルヘルム広場に出た。遠くの銃砲火は激しく、広場を横切って行く時も、時々、耳をつんざくような銃声が響いた。地下鉄の入口を見つけて、暗いトンネルを進み、避難民や兵士達の脇を通り抜けて、フリードリヒ駅まで辿り着いた。そこで行き止まりであったので、鉄橋を進んで向こう岸へ渡らねばならなかった。ユンゲら先頭集団は無事通り抜ける事が出来たが、後方から続く人々はソ連軍に銃撃を浴びせられ、阿鼻叫喚に陥った。


燃え盛る家々の間を通り抜け、真っ暗な街路を忍び足で歩きながら、何時間も進んだ。人気の無い地下室を見つけて2、3時間の睡眠を取ると、また歩き出す。5月2日、やがて、空が白々と明けてゆき、静かな朝を迎えた。銃声は止んでいた。一行は古びたビール醸造所まで行き着いたが、これ以上、先に進む事は出来なかった。ソ連軍の戦車や兵士によって、完全に包囲されていたからだ。ソ連軍は降伏するよう呼びかけている。モーンケ少将は最後の報告書を書き上げて、これをデーニッツに届けてくれるよう、女性達に頼んだ。軍人達はここから出て行く事は叶わないが、女性達ならソ連軍も通してくれると思ったからだ。


女性達は鉄兜とピストルをその場に置き、男達と別れの握手をしてから、出て行った。国民突撃隊などの動員兵も武器を置いて、ソ連軍に投降して行く。その一方、親衛隊の兵士達は尚も醸造所に留まって、抗戦の構えを取っていた(モーンケ少将らはしばらく篭城していたが、18時頃、降伏する)。ユンゲらは、荒々しい勝者、ソ連兵達の真ん中を、恐る恐る通り抜けていった。こうして、ユンゲの戦争は終わった。戦後、ユンゲはベルリンに戻ったが、そこでソ連軍に拘束され、14週間、独房に収監された後、ヒトラーの死についての尋問がなされた。それから司令部付きの従業員として働き、1945年12月10日、外部の病院事務員に採用され、解放となった。その後は、秘書や事務員、編集者やフリーの記者として働き、2002年2月11日、81歳で死去した。


同年、彼女が書いた手記をもとにして、「最後の瞬間まで」が出版された(和訳・私はヒトラーの秘書だった)。第3章までは、戦後間もなく書かれたもので、見たもの感じたものがほぼそのまま書かれているが、4章の暗殺未遂事件から6章のヒトラーの死までは、老年になって本にする際に新たに書き起こされたもので、記憶違いや、ヒトラーへの批判も散見される。特に、ヒトラーの遺言の際に抱いた大いなる疑問、その死に関して湧き上がって来たと言う憎しみは、戦後、ユンゲがナチスヒトラーの真実を知るに到ってからの、後付けであろう。ユンゲの自著には、自己批判や自己弁護が付け加えられていると見て良い。ただそうであっても、これらの証言が大変、貴重なものである事に変わりは無い。


ユンゲは生前、この様な事を言っていた。

完全崩壊、難民、苦しみ、私はこの責任をヒトラーのせいにしました。彼の遺書、自殺、その頃から私はヒトラーを憎み始めました。それと同時に私は激しい同情をヒトラーにさえも抱いたのです。彼は父親のような友人でしたし、私に安心と保護と安全の感覚を与えてもくれたんです。森の真ん中にある総統の大本営のあの共同体の中で、あの父親のような人に守られていると感じていました。あの事を思い出すと、今でも心温まる気持ちになります。どこかに属していると言うあの感情をあんな風に抱く事は、その後、二度とありませんでした。自分の上司が、その誠実な顔の裏に犯罪的権力欲を持った男である事を見抜くには、私は若過ぎ、未熟過ぎました。ドイツが崩壊した時、とにかく望みは1つ、生きる事でした。ようやく、1960年代の半ば頃になって、自分の過去や日増しに強くなってくる罪悪感と真剣に取り組むようになりました。この男の犯罪が露見したからには、私は自分の人生の最後の瞬間まで、共犯の感覚と共に生きていく事でしょう。





↑生前のヒトラー最後の写真

1945年4月末に撮られたと見られる。





↑狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)の掩蔽壕の廃墟


旧ドイツ領東プロイセン(現ポーランド領)にあった、ヒトラーの本営跡。


主要参考文献、トラウデル・ユンゲ著、「私はヒトラーの秘書だった」



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