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柳之御所・毛通寺

柳之御所は、岩手県西磐井郡平泉町にある、奥州藤原氏の居館跡である。北上川沿いの段丘上にあって、奥州藤原氏初代、清衡の時代から居館として用いられ、三代秀衡の時代に政庁として大規模に整備されたと考えられている。文治5年(1189年)、四代泰衡の時代、源頼朝の侵攻を受けて、泰衡自ら火を放って焼失した。鎌倉時代の歴史書、吾妻鑑では、平泉館(ひらいずみのたち)と記されている。巨大な堀によって囲まれた中に、建物群と庭園があった。そこからは儀式に用いられたと考えられる大量の土器(かわらけ)に、中国産の青磁、白磁の陶磁器から、常滑、渥美産の陶磁器、文字が書かれた木製品、行政に用いられたと考えられる銅印が出土している。




↑柳之御所





↑柳之御所


↑柳之御所


大型の二棟の建物が建っていて、ここが柳之御所の中心的な役割を担っていたと考えられています。



↑柳之御所




↑柳之御所



↑柳之御所

汚物を廃棄していた穴です。




↑柳之御所


非常に巨大な堀です。




↑無量光院跡

無量光院は、三代秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院です。その規模と造形は本家を上回るものであったと伝えられていますが、惜しくも火災で焼失してしまいました。



毛越寺は、嘉祥3年(850年)、天台宗の高僧、円仁によって創建されたと伝えられる。時代を経るにつれ衰退していったが、奥州藤原氏二代基衡の時代に大規模に再興され、壮麗な伽藍が建立された。その事業は三代秀衡にも受け継がれ、堂塔40余、僧坊50余となって、その規模と壮麗さは、中尊寺をも上回った。中でも本堂の金堂円隆寺は、紫壇、赤木の建物に金銀が散りばめられた上、多くの宝物で彩られていた。その堂内に雲慶作の丈六薬師如来像と十二神将像が祀られていた。吾妻鑑でも、「吾朝無双(わがちょうむそう)」と評されている。しかし、嘉禄2年(1226年)、金堂円隆寺を始めとする中心的建物の多くが焼失し、更に元亀4年(1573年)、葛西氏、大崎氏による戦火を受けて、残った建物も焼失してしまう。





↑毛越寺





↑毛越寺、嘉祥寺跡




↑毛越寺、講堂跡




↑毛越寺、金堂円隆寺跡


基衡による建立で、ここが毛越寺の中心的建物でした。




↑毛越寺、金堂円隆寺跡




↑毛越寺、遣水


池に水を注ぐ水路です。ここで雅(みやび)な曲水(ごくすい)の宴が催されたのでしょう。




↑毛越寺、常行堂跡と法華堂跡




↑毛越寺、観自在王院跡


藤原基衡の妻が建立した寺院で、毛越寺に隣接しています。




↑毛越寺、大泉が池




↑毛越寺、大泉が池


広大な池を中心として、山を借景に伽藍が建ち並んでいました。大泉が池の前に立った時、ここに平泉で最も壮麗な建物があったと確信しました。いや、平泉だけでなく日本一の壮麗さであったでしょう。

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