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2020.06.01 - 
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アマゾンに消えたイギリス人大佐 1

2013.12.31 - 歴史秘話 其の二

1906年10月、南米ブラジルの底知れないジャングルの中で、イギリスの探検隊が苦闘していた。彼らに課された任務は、ブラジルとボリビア間を測量して国境線を定める事であった。言葉にすると簡単であるが、これは想像を絶する困苦を必要とした。蒸し暑い熱帯気候は、ただそこにいるだけで体力を奪う。それでいて隊は、毎日の様に山刀(マチェーテ)を振るって、ジャングルを開削する重労働をせねばならなかった。ジャングルはあらゆる危険に満ちていて、そこには猛獣ジャガーを始め、毒蛇のサンゴヘビやクサリヘビ、敵対的なインディオなどが潜んでおり、更に、マラリア、デング熱、象皮病、黄熱病などの病原菌が満延していた。


隊員は合計23名、隊長はイギリス人少佐パーシー・ハリソン・フォーセットで、1867年生まれの39歳、後にアマゾンの伝説となる人物である。身長186・7センチの大柄な体格の持ち主であるが、なにより、鷹の様な鋭い眼差しが印象的な人物である。探検隊は丸木のカヌーに乗って、ブラジルとボリビア間を蛇行する川を遡って行く。その川も危険な生物で満ちており、ワニやアナコンダなどの大型爬虫類に、ピラニア、電気ウナギ、カンディル(吸血ナマズ)などの獰猛な魚が潜んでいた。この中でも、カンディルは特に危険で、人の肛門や尿道、膣などに侵入しては、激痛を与えつつ生き血を啜る。しかも矢じりの様な返しが付いているので引き抜く事は困難で、除去するには手術が必要であった。



↑パーシー・ハリソン・フォーセット


隊は丸木舟に乗って川沿いを調査していったが、ある日、フォーセットは川縁に倒木の様な、何か気になるものを見つけた。しかし、それは巨大なアナコンダの見間違いで、うねうねと動いて舟に近づいてきた。隊員達は恐怖の悲鳴を上げ、フォーセットはライフルを取り上げて、無我夢中で撃ち続けた。硝煙が辺りに立ち込め、やがてアナコンダは動かなくなった。フォーセットは標本用に皮を削ごうと思って蛇に近づいたが、川の流れによるものか、揺らりとその巨体が動いたので、一行は慌ててその場を離れた。この大蛇は、フォーセットの見立てでは、18メートルもの体長があった。アナコンダの公式な最長記録は8・5メートルであるが、それを超える大物が密林の奥に潜んでいたのであろうか。隊は常に危険な生物の脅威に慄いていたが、それよりも悩まされたのが小さな虫達である。


皮膚に産卵管を差し込んで体内に蛆を発生させる蝿(ベルニ)、皮膚を刺して病変を残す小さなブヨ(ピウム)、病原菌を撒き散らす蚊(ネッタイシマカ)、などである。隊は蚊帳を持っていたが、ほとんど役に立たなかった。9月25日、ボリビアの町、リベラルタから、探検隊は23人で出発したが、10月25日には虫のせいで半数が病人となっていた。フォーセットと同じ舟に乗っていた4人の隊員は病死し、岸辺に埋葬された。やがて、隊は敵対的なインディオが存在するジャングルに足を踏み入れていった。隊は尾行され、周囲にはインディオと思われる裸足の足跡が付くようになったが、その姿を確認する事は出来なかった。夜間、ジャングルから時折、人間の甲高い声が響いてくるが、やはりその姿を確認する事は出来なかった。


そういったある日、迂回路を探しにいった水先案内人が森の奥に消えた。フォーセットは数人の隊員を連れて捜索に向かったが、そこで見つけたのは数十本の矢が刺さった案内人の死体であった。フォーセットはすぐに退避に取り掛かり、舟を漕ぎ出した。すると、体中をまだらに彩色したインディオ達が岸辺に姿を見せ、矢を射かけ始めた。インディオの矢には猛毒が塗られている。隊員達は舟に身を伏せつつ、必死に櫂(かい)を漕いで難を逃れた。フォーセットはこの様な危険な目に遭っても、尚も任務を続行し、ジャングルを開削して測量していった。そして、1907年5月、ついに全工程を踏破し、ブラジルとボリビアの国境線を定めたのだった。隊員のほとんどがやつれきった病人と化していたが、フォーセットだけは発熱もなく、健康そのものであった。


周囲の人間は、フォーセットの頑強な肉体に驚き呆れた。フォーセットによれば、「この地域では、健康な人間が奇人、変人、異常者に見られた」との事である。フォーセットの肉体は熱帯病への耐性があり、フォーセット自身、申し分のない体質であると自画自賛した。1907年末、フォーセットは久方ぶりに帰郷し、家族と安寧の日々を過ごした。しかし、フォーセットはそんな平凡な生活にはすぐに飽いて、あの地獄の様なジャングルを恋しく思うようになった。彼はもう野生の人と化していて、文明生活には馴染めず、家にあってもハンモックで寝るのであった。そして、数ヵ月後には装備をまとめて、再び南米に渡って行った。フォーセットいわく、「私は悪魔のような手で鷲掴みにされ、またあの地獄を見たがっていた」


1908年、フォーセットは再びアマゾンのジャングルに降り立った。今度の目的はブラジル南西部の町コルンバ周辺の測量と、ブラジルとコロンビアの国境沿いを流れる川、リオ・ヴェルデの調査だった。フォーセットを長とする合計9人の探検隊は、二艘の筏(いかだ)に乗り込んで川を下っていった。だが、川は途中で急流となってこれ以上、筏で進むのは不可能となり、山刀でジャングルを開削しての前進となった。隊は汗を滝の様に流しながら、朝から晩まで草木を切り倒しつつ、先を目指したが、それでも1日に800メートルも進めなかった。隊は食料を節約するつもりであったが、激しい肉体労働による消耗から、すぐに食料を平らげてしまった。


アマゾンは緑の樹木に多い尽くされているが、そこに人間が食べれる様な動植物は驚くほど少なかった。やがて食料は尽き果て、口にするのは僅かな木の実と動物のみとなる。隊員達は退却したがったが、フォーセットはそれでもヴェルデ川の源流を見つけるべく、前進を強攻した。陸路を突き進んで1ヶ月、ようやくヴェルデ川の源流を見つけたが、隊は疲弊しきっていた。隊員のほとんどは痩せ衰え、高熱を発していた。それでも隊員達は気力を振り絞って帰路に着き、意識を朦朧とさせつつ、ようやく最寄りの入植地に辿り着いた。フォーセットは、「緑の地獄、征服」との電報を発したが、隊員の内、5人は衰弱しきって、まもなく息を引き取った。



↑ヴェルデ川を調査中のフォーセット一行

右手前の人物がフォーセットで、過酷な環境で頬はこけ、髭は伸び放題で目も落ち窪んでいる。


1910年、フォーセットは、ペルーとボリビアの境目を流れるヒース川流域の探検測量に取り掛かった。しかし、丸木船に乗って川を進んでいた際、フォーセット一行は好戦的なインディオ、グアラヨ族と遭遇し、雨あられと矢を射掛けられた。隊員達は驚愕して、「退却!退却!」と叫んだが、フォーセットは、「インディオのいる向こう岸に着けよ!」と言って譲らなかった。フォーセットは川に降り、はんかちを頭上で振りながら、矢が降りしきる中を歩き出した。そして、フォーセットは聞き知ったインディオの言葉で「友!友!」と繰り返すと、矢は止んだ。やがて、インディオの1人が水際まで降りてきて、フォーセットの手からはんかちを受け取った。フォーセットとインディオが和解し、親交を結んだ瞬間であった。


インディオはフォーセットからステットソン帽を贈られると、それをかぶって上機嫌となり、代わりにバナナや魚、首飾りなどをくれた。この勇気ある非暴力、友好姿勢は、フォーセットのこれからの探検の常套手段となる。そして、インディオから弓を向けられる度、山刀をその場に捨て、両手を頭上に掲げて歩み寄り、何かしら物を差し出して、インディオと親交を結ぶのだった。また、フォーセットは如何なる場合であっても、ライフルでインディオを銃撃してはならないと隊員に申し付けていた。この様なやり方は、無謀であると言う者もいたが、フォーセットは、「無勢の探検隊が、多勢のインディオ部族に対抗する術は無い。友好的な姿勢を見せる他、無いのだ」と述べるのだった。実際、インディオ部族の多くは、フォーセットの友好を受け入れたが、中には交渉の余地もない好戦的な部族がいるのも確かであった。


1911年、フォーセットは、ボリビア北西部の探検測量に取り掛かった。この探検には、南極探検で名を馳せた科学者マリーが加わったが、フォーセットとは反りが合わず、探検中、幾度と無く衝突する事になる。マリーは初めて味わう南米の蒸し暑い気候とジャングルでの重労働に苦しみ、隊から遅れがちになった。マリーは度々、フォーセットに小休止を提案したが、にべもなく却下されるのが常だった。マリーは始終文句を言って、盗み食いをするようになり、フォーセットも、「貴様に疲れる権利などない!」と言い放って、前進を強攻するのだった。フォーセットは、自分に付いてこれる意志と能力の持ち主であれば、敬意を表して誠実に対応したが、そうでない者は侮蔑して突き放すのが常だった。


フォーセットは、「無能で怠惰な人間には我慢ならない」と述べており、探検隊から追放されたり、耐えかねて脱走する者もいた。1911年の探検も過去同様、過酷なものとなり、隊員達は次々に病魔に犯されていった。マリーの健康状態はより酷く、下痢に悩まされ、両足は象皮病に罹ったのか、腫れあがって靴を履くのも困難になっていた。その上、膝や肘の周りには、数十匹以上の蛆が皮下組織に蠢いていた。マリーはそれを見て戦慄し、蛆の駆除を始めたが、それらは傷の内部で死んで腐り、より症状は悪化した。 マリーの体は壊疽で膨れ上がり、膿を大量に流して、後は死を待つばかりとなった。


フォーセットは探検に取り掛かる際、予めこう申し渡していた。隊員の病気が悪化したり、骨折して前進が不可能となった場合、その者は遺棄していくと。ジャングルの奥地で動けなくなった者を助けようとすれば、隊全体が消耗して危険に晒されるからだ。しかし、実際にその様な措置を取った事の無いフォーセットは悩み、マリーを放置するか、救出するか、隊員と話し合いをもった。マリーとは犬猿の仲であったが、フォーセットはここで、助ける判断を下した。そして、不本意ながらも探検を一時中断して、一番近い入植地を探し、道中、出会った開拓民にマリーの身を委ねたのだった。その後、フォーセットは探検を再開して、1ヶ月後にペルーのコハタに到着した。


マリーは瀕死の状態であったが、親切な開拓民一家の手厚い介抱を受けて、一命を取りとめた。マリーは帰国すると、「フォーセットに殺されかけたも同然だ」と、非難の声を上げた。一方のフォーセットも、「彼の症状を招いたのは、彼自身の怠惰によるもので同情の余地はない。人道的に言って、彼のために出来る事は全てした」と反論するのだった。マリーとフォーセットは水と油の様な関係であったが、反骨心旺盛な点だけは似ていた。1913年、マリーは熱帯にはもう懲り懲りして、カナダの北極調査隊に参加する。しかし、そこで氷に閉ざされて船が動かなくなると、マリーは仲間と組んで反乱を起こし、船長と別れて、荒涼たる雪原に脱出を図った。残った船長は助かったが、マリーの姿を再び目撃した者はいなかった。


フォーセットは未踏のジャングルを開削して測量するという困難極まる任務を完遂し、南米の国境画定に多大な貢献を果たした。探険家としての名声は最早、不動のものとなり、本人も、ここからは自らの探究心の赴くまま探検行に乗り出そうとした。そして、1914年、フォーセットはブラジル南西部を探索し、そこで未知のインディオ、マスビ族を発見する。フォーセットは彼らと親交を結び、生態を調査すると、マスビ族は極めて知的で、ジャングルを開拓してバナナやトウモロコシを植え、精巧な土器を作るなど、豊かな農耕生活を営んでいる事が分かった。


また、彼らが語り継いできた伝承によれば、祖先はもっと豊かで、広大で美しい集落に住んでいたとの事だった。当時のヨーロッパ人の多くは、アマゾンは未開の地で野蛮人しか住んでいないと考えていたが、フォーセットは、実際には高度な文明があったのではないかと、考えるようになった。それを裏付けるかのように、フォーセットはジャングルの中で、人や動物を描いた古代の絵や彫刻らしきものが描かれた岩を見かけたり、小さな高台に登る度に、土器などの人工物を見つけていた。フォーセットはアマゾンの中心には、知られざる文明の遺跡が存在すると推測し、それを見つけるのが自らの使命であると考えるようになった。


実は、アマゾンの中心に遺跡があると考えたのはフォーセットが初めではなく、既に16世紀からその存在は噂されていた。それが、黄金に彩られた都市、エル・ドラードの伝説である。エル・ドラードとは本来、黄金を塗った者という意味であるが、スペインの征服者達(コンキスタドール)は、これを黄金の国ととらえ直したのだった。そして、欲望に駆られた征服者や探検家達は、黄金都市を求めてアマゾンの奥地に次々に踏み込んだが、その度に多大な犠牲者を出した挙句、何の成果も得られずに、空しく引き揚げるのみだった。


フォーセットはそういった征服者達よりは現実的かつ、学術的で、黄金の都市は誇張された作り話で、そこにあるのは石造りの古代都市であろうと考えていた。そして、ブラジル東部のバイーア州に、それがあると目星を付け、いよいよ本格的に古代都市の探索に向かおうとした。フォーセットの胸は高鳴るばかりであったが、そういった矢先に第一次世界大戦が勃発し、探検を中断せざるを得なかった。そして、1人の愛国心あるイギリス軍人として、西部戦線の塹壕に飛び込んでいった。フォーセットは少佐として100人の野戦砲兵隊を率いて、ドイツ軍に立ち向った。フォーセットは戦場においても勇敢で抜群の働きを見せ、1916年には中佐に昇格して、700人以上の旅団を率いる身となった。


1916年7月1日、戦史上に名高いフランスソンムの戦いでは、フォーセットは砲兵をもって、突撃していく歩兵を援護した。フォーセットは、イギリス兵達が砲弾で吹き飛ばされ、機関銃になぎ倒されていく様を目撃し、この戦いは終末の決戦(ハルマゲドン)であると言った。この日だけで、イギリス軍は2万人近くが戦死し、4万人が負傷した。砲弾や毒ガスが絶え間なく降り注ぐ戦野には無数の人骨が散らばり、兵士達の唯一の生活空間である塹壕は泥や糞尿にまみれ、蛆(うじ)や鼠が蠢(うごめ)いた。負傷者の苦悶の叫びや、呻き声も絶える事は無かった。フォーセットはこの戦いで体に傷を負う事は無かったが、心には傷を負い、休暇で帰宅した際には、何時間も黙ったまま頭を抱えて座っていた。


忌まわしい戦場で正気を保つため、兵士達は家族や恋人、故郷に思いを馳せたが、フォーセットの場合は、アマゾンの古代都市であった。例え戦闘中であっても、古代都市の幻影が消える事はなく、部下にも、戦争が終われば、すぐにでも古代都市探索に向かうつもりだと語っていた。彼は、愚かで醜い人間世界よりも、過酷ながら純粋な大アマゾンに身を置きたかった。1919年6月19日、ようやく戦争は終結し、フォーセットは中佐身分で除隊して、久方ぶりに帰宅した。だが、家庭にあっても彼の頭の中にあるのは、古代都市であって、すぐさま探検資金の獲得に動き出すのだった。


しかし、当時のイギリスは戦争によって疲弊しきっており、資金を援助しようとする者はなかなか現れなかった。フォーセットは焦っていた。資金がなかなか集まらない事もそうだが、彼もこの年、52歳となっており、さすがに体力の衰えを感じざるを得なかったからだ。1920年1月、フォーセットはなけなしの貯金をはたいてジャマイカに移転すると、その足でブラジル政府にかけあって、探検資金の援助を要請した。フォーセットは退役中佐の身分であったが、これでは威信に劣るとして、イギリス陸軍省に大佐に昇格させてもらいたいと要請した。


この申し出はにべもなく却下されたが、フォーセットは構わず大佐を自称し、これで世間一般には、フォーセット大佐という呼び名が定着する。1920年、フォーセットはブラジル政府から僅かばかりの探検資金を得ると、隊員を募集し、大柄なオーストラリア人ボクサー、ルイスに若いアメリカ人鳥類学者、アーネストを加えて、念願の古代都市探索に乗り出した。隊は勇躍、クイアバの町から出発したものの、今回の探検は最初から上手くいかなかった。雨季に出発した事から、長雨を受けて装備が台無しとなり、そのうえ、頑強な男と見込んだはずのルイスもジャングルの過酷な環境に耐えられず、精神に異常を来たし始めたので、クイアバに送り返さざるを得なかった。


それでもフォーセットは、アーネストと2人で前進したが、1ヶ月後にはアーネストも衰弱し切って弱音を吐くようになり、フォーセット自身も足が感染病で腫れ上がって、これ以上の前進は困難となった。フォーセットは何の成果も挙げられないまま、探検を中断せざるを得なかった。無念この上なかったが、それでもフォーセットは諦めず、再び古代都市探索の計画を練った。そして、1921年8月にはなけなしの私財をはたいて、なんと、たった1人で探検行に乗り出した。彼は54歳という年齢でありながら、危険に満ちたジャングルの奥地に分け入り、飢えと乾きに苦しみながら、3ヵ月に渡って探索を続けたのだった。


途中で物資が尽きたので、フォーセットは退却せざるを得なくなかったが、狂気にも近いその熱意は燃え上がる一方であった。そして、帰還するなり、再び探検計画を練り始めたものの、深刻な資金不足がそれを許さず、彼はとうとう破産に追い込まれた。フォーセット一家はイギリスに戻って、倒壊寸前の古家を借り、そこで電気も水道も無い貧窮生活に陥った。生活のために家財を売り払ったが、それでも足らず、先祖代々の家宝まで売る始末であった。さすがのフォーセットも絶望の淵に沈み、不機嫌に黙ったまま家で過ごす日が続いた。フォーセットの妻ニーナは良き理解者であったが、とても不安定で寂しく、ひどく貧しいとこぼし、自身の境遇を船乗りの妻に例えている。フォーセットは偉大な探検家であったが、良き家庭人であるとは言い難かった。

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元寇と竹崎季長の奮闘 3

2012.07.15 - 歴史秘話 其の二
1275年3月、元はついに南宋を滅ぼして、全中国を支配下に置いた。これは、元がアジアの覇権国となった事だけでなく、日本遠征にも本腰を上げて取り掛かれる事を意味していた。そして、1279年2月、フビライは中国の泉州に600隻の船舶建造を命じ、同年6月には朝鮮半島の高麗にも900隻の船舶建造を命じた。1280年8月、フビライの下で日本遠征の討議がなされ、作戦方針が決定した。忻都(きんと)と洪茶丘(こうさきゅう)率いる東路軍(元、高麗、漢(旧金国)の兵)4万人と900隻の船団は朝鮮の合浦から出航し、范文虎(はんぶんこ)率いる江南軍(旧南宋軍)10万人と3500隻の船団は江南から出航する。


両船団は壱岐で合流した後、日本上陸を試みる事となった。弘安4年(1281年)5月3日、東路軍4万人を乗せた船団が、合浦から出航する。今回の元軍は、日本での居住を考慮して鍬(すき)、鍬(くわ)も積み込んでいたと云う。5月21日、東路軍は対馬に来襲して制圧すると、現地の武士団を打ち破って、再び住民を蹂躙し尽した。5月26日、続いて壱岐を制圧すると、ここを九州上陸の基地とする。東路軍と江南軍は6月15日を期日として、この壱岐で合流する予定であったが、江南軍はまだ出航もしていなかったので、まずは東路軍のみで九州上陸を図る事となった。 
 
 
同年6月6日、先鋒となった東路軍は、勇んで博多湾に姿を現した。だが、彼らが見たのは、博多湾一帯に築かれた石築地(いしついじ)の威容であった。石築地とは、その名の通り石を積み重ねて作られた元寇防塁で、高さは2メートルから3メートル、幅は約3メートルあって、これが東の香椎から西の今津までの間、約20キロメートルに渡って築かれていた。前回の文永の役の折、元軍に博多上陸を許して苦戦を強いられた戦訓を受けて築かれたもので、現代風に言えば上陸阻止陣地と言うべきものである。


この石築地の上に、前回よりも数を増した日本の武士団が満を持して待ち構えていた。そして、その中には、主従8人で駆け付けた竹崎季長の姿もあった。東路軍は日本側の固い防備を見て博多上陸は困難と判断し、とりあえず陸続きの志賀島に上陸して、そこを停泊地とした。同日夜半、日本の武士団は船に乗って夜襲を仕掛け、夜が明けるまで元軍と激しい船戦を行った。だが、小振りな日本船は、元軍の大船相手に苦戦したそうである。 


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↑石築地の上に陣取る菊池武房の軍勢と、その前を行進する竹崎季長一行
 
 
6月8日、日本の武士団は、海の中道(志賀島へ伸びる砂州)を渡る一団と、船に乗って攻撃を加える一団とに分かれて、東路軍に総攻撃を加えた。海の中道を通ってきた日本軍は元軍に弩(ど)を浴びせられるなどして数百人が死傷したが、それでも激しい攻勢を続けて元軍を敗走させ、一時は東路軍大将の洪茶丘を討ち取る寸前まで追い詰めた。この志賀島を巡る戦いには竹崎季長も参加しており、奮戦の末、季長と従者2人が負傷して、1人が戦死した。負傷した季長は守護代の安達盛宗(泰盛の息子)に体面して、引付に肥後国の一番に戦功を書いてもらった。


志賀島の戦いは13日まで続き、東路軍は利あらずとして壱岐まで後退していった。その頃、范文虎率いる江南軍は6月中頃から下旬にかけてようやく出航し始めていた。一方、日本軍は6月末から7月初旬にかけて壱岐に上陸し、東路軍と激しい合戦となって双方多数の討死を出した。一連の戦いで、幕府の有力御家人の少弐資能は84歳で戦傷死し、その子の少弐経資は負傷し、その子となる少弐資時も19歳で戦死している。 
 
 
7月初旬、江南軍は平戸付近に続々と到着し始めたので、東路軍もそれに合わせて壱岐から平戸に移り、そこで両船団はようやく合流を果たした。これで、元軍は人数14万人余、船舶4400隻余の壮観となった。7月27日、これまで東路軍のみが戦って苦戦を強いられてきたが、やっと戦力が出揃った事で元軍も奮い立ち、再び九州上陸を図って動き出す。しかし、博多表の防備が固いと知ったので、今度はその裏手を突くべく、肥前国の沖に浮かぶ鷹島(たかしま)を制圧した。


だが、そうと知った日本軍はすぐさま兵船を出して反抗に出たので、鷹島周辺で激しい船戦が繰り広げられる事となった。そうした戦いの日々が続く中、平戸、鷹島付近に突如として、台風が現れたのである。そして、7月30日の夜から8月1日の未明にかけて暴風雨が吹き荒れて、元軍の船団は壊滅的な被害を受けた。こうして元軍6、7万人余が海の藻屑となり、フビライの日本征服の野望も波間に没した。元軍の高官の中には自分だけが逃れようとする者がいて、破壊を免れた船から兵を降ろして帰国を図った。 
 
 
8月5日(日本では閏月7月5日)、取り残されたり、逃走を図ろうとする元軍に対して日本軍の追撃戦が始まった。竹崎季長もこの追撃に加わろうとしたものの、なかなか兵船が廻って来ないので、もどかしさに身悶えしていた。そこへ、安達盛宗(泰盛の子息)の大船がやってくると、季長は、「守護の手の者です。兵船が廻漕(かいそう)されたならば、乗って合戦せよと命じられました」と嘘を言って乗り込んだ。しかし、盛宗の家臣に見咎められて、「安達盛宗が乗る船です。その配下の者以外を乗せる訳にはいかない。降りなさい」と下船を命じられてしまう。


季長は、「君の御大事に役立つために乗ってきたのに、空しく海に突き落とされては報われません。小舟をください。降りましょう」と言って、やむなく小舟に乗り移った。季長は次に「たかまさ」と言う武士の船を見かけると、「船を寄せられよ」と呼びかけた。それを受けて、たかまさの船は近づいてきたが、なかなか乗り込む事が出来ず、季長は、「内密に命じられた事があります。船を近づけてください」と頼み込んだ。 
 
 
だが、たかまさは一見して怪しみ、「守護が乗っている様子では無い。船を遠ざけよ」と命じた。そこで季長は、「仰せの様に守護は乗っていません。この舟は遅いので乗せてもらうために偽りを申しました」と弁明した。それでも、たかまさは乗せてくれないので、季長は手をすり合わせて、「それならば、私1人だけでも乗せてください」と頼み込むと、さすがに根負けしたのか、たかまさは、「戦場で無ければ、どうしてそこまでたかまさに懇望する事があろうか」と言って、季長1人は乗せてくれた。しかし、季長の郎党達は海上に置いてけぼりの形となり、彼らは大いに嘆いた。それに季長は家臣に兜を預けていたので、脛当(すねあて)を外し、それを烏帽子に結び付けて兜の代用にせぜるを得なかった。


季長はたかまさに、「命を惜しんで乗り移ったと思わないでください。敵船に乗り移るまでと考え、便乗致しました。元軍は、日本船が近づくと熊手をかけて生け捕りにすると聞いています。生け捕られて異国に渡るぐらいならば、死んだ方がましです。私が熊手にかけられたならば、鎧の草摺りのはずれを切ってください」と頼んだ。たかまさはその覚悟の程に感銘を受け、「不覚をしました。野中殿(季長の親類)ばかりは乗せてあげるべきでした」と言い、郎党から兜を脱がせて、それを季長がかぶる様に勧めた。 
 
 
だが、季長は、「ご厚意は嬉しいのですが、その者が兜を付けずに戦死したならば、季長のせいと妻子が嘆くのは身が痛みます。兜は頂けません」と断った。そして、この日の戦いで、季長は言葉通りに元軍の船に乗り移り、見事に首級を挙げたのだった。そして、翌8月6日、季長は、鎌倉幕府から送られて来た使者、合田遠俊のもとへと出向き、合戦報告をした。遠俊は、嘘を何度もついてでも船に乗り込んで、手柄を挙げた季長に驚き、「大猛悪(勇猛果敢)」の人であると賞賛して、その戦功を報告する事を約束してくれた。次に季長は、守護代、安達盛宗に対面して首級2つを示し、側に控える引付の者がその戦功を書き記した。これによって季長は、前回以上の恩賞を賜ったと思われる。
 

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↑元軍の兵船に乗り込み、首を取らんとする竹崎季長

季長の頭からは兜代わりの脛当が外れ、烏帽子姿となっている。


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↑安達盛宗に戦功報告する竹崎季長

左が季長で、右上が盛宗、右下が戦功を引付に記す執筆(しゅひつ)

 
 
 
日本軍による掃討戦は8月7日頃には終わり、元軍数万人が捕虜となって博多に連行された。脱走に成功した南宋人捕虜の報告によれば、捕虜の内、唐人(南宋の人間)は奴隷として助命されたが、蒙古、高麗、漢人(旧金国)は許されず、悉く首を刎ねられたと云う。この元寇では神風のご加護によって、日本は救われたと評される向きが多い。だが、実情はそうでは無いだろう。第一次の文永の役では、元にはまだ主敵である南宋が健在であったので、日本に対しては最初から懲罰目的と威力偵察が目的であったのではないか。


たかだか3万人程度では、最初から日本征服は不可能であり、おそらく元軍は台風の被害があろうと無かろうと、一航過の襲撃と決めていたのだろう。それに加えて日本武士団の奮闘も、元軍の早期撤退を促したのだろう。第二次の弘安の役では、元は南宋を滅ぼしていたので、本腰を上げて日本征服に取り掛かろうとした。しかし、今度は、日本側も満を持して待ち構えていたので、台風の被害を受けなくとも、結局は引き揚げざるを得なくなっていただろう。神風を過大評価する事は、日本武士団の必死の努力を過小評価する事に繋がる。


一方、元のフビライにとって、日本遠征は大変、苦い思い出となった。遠征軍の主体は旧南宋兵や高麗兵であったとは言え、莫大な費用と労力をもって作り上げた兵船、武具、兵糧を失った事は痛かったに違いない。しかし、フビライにとって、人的な損失に関しては、許容範囲であったと思われる。元は南宋を滅ぼした事によって数十万もの旧南宋兵を抱え込む事となったが、これらに然るべき職を与えないと社会不安の元となる。そこで、日本遠征に事寄せて、これらの失業軍人を体よく送り出したのだろう。


勿論、勝つ事が最も望ましいが、もし敗れたならば全滅しても構わなかった 実際、台風の被害を受けたとは言え、元軍は多くの兵員を置き去りにしている。鎌倉幕府は元軍を撃退し、国を守ったが、侵攻を受けた側であるので、何ら得られる物は無かった。それどころか、主役として活躍した御家人達の多くは戦役の負担と恩賞不足に泣き、民衆にも負担を強いる事となった。それらの不満は蓄積されてゆき、やがては鎌倉幕府の衰亡に繋がっていく。尚、元寇によって日本と元との交易は途絶えたかのように見えるが、そうでは無い。日本と大陸の交易は、元寇の最中であっても途絶えておらず、むしろこれ以降、より活発になっていくのである。


弘安7年(1284年)4月4日、二度に渡る元寇を退けた鎌倉幕府執権、北条時宗は34歳の若さで病死した。未曾有の国難を受けて、人知れず心身を磨り減らしていたのであろう。その跡を嫡子の貞時が継いだが、まだ14歳の少年であったため、幕府の重鎮、安達泰盛が政治を切り盛りした。しかし、泰盛は、もう1人の幕府有力者、平頼綱との対立を深めてゆき、翌弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の急襲を受けて受けて殺された。この霜月騒動と呼ばれる政争は全国に波及して、各地で泰盛派と頼綱派による合戦が起こり、竹崎季長が世話になった安達盛宗や少弐景資も泰盛派として戦ったものの、敗れて命を失った。 
この霜月騒動で、竹崎季長がどのような立居地にあったのかは不明である。



正応6年(1293年)2月9日、48歳となっていた季長は、元寇における自らの戦い振りを記録として残しておこうと思ったのか、絵巻物の作成に取り掛かった。これが
『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』である。その中には、霜月騒動で命を失った安達泰盛、盛宗父子や少弐景資の姿もあって、彼らは取り分け、色鮮やかに描かれている。何れも、季長にとって忘れられぬ人物であり、この絵詞には自らの戦功を示すだけでなく、世話になった人々に対する感謝の念や、追悼の念も込められているのである。


主要参考文献、『日本の中世9 モンゴル襲来の衝撃』

 
 

元寇と竹崎季長の奮闘 2

2012.07.13 - 歴史秘話 其の二
文永12年(1275年)6月、文永の役から半年が経った頃、季長は幕府から恩賞の沙汰が来るのを今か、今かと待ち続けていた。所領の訴訟に敗れ、厳しい経済状態に置かれていた季長は、恩賞として知行地を賜る事を心から願っていた。しかし、一行にその気配は無く、焦りが募るばかりであった。文永の役では武勲を立てたはずなのに、それが、鎌倉の将軍の耳に達していないのではないかと、季長は思い定め、ならば鎌倉まで直接出向いて、訴えようと決した。ところが、そうと知った一族の長老は、余りにも恐れ多いとして、思い止まる様、諫止した。それでも季長の決意は変わらなかったので、一族の不興を買う事となった。同年6月3日、季長は旅の費用を工面する為、馬と鞍を売り、2人の従者のみを連れて旅立ったが、一族の者は援助せず、誰一人として見送らなかった。


季長は一族のこの仕打ちを深く恨み、今回の訴えが届かない場合には出家して、故郷には二度と帰らぬ覚悟を決めた。季長は長門国に渡って赤間関に着くと、ここで、季長の烏帽子親であり、長門守護代でもある三井季成に会いに向かった。烏帽子親とは、男子が元服する際、成人の象徴たる烏帽子をかぶせて、幼名から大人の名前を名付けてくれる人物の事である。烏帽子親と烏帽子子との間では、実の親子関係に次ぐ、または同等の絆で結ばれるとされている。 
 
 
三井季成はわざわざ遊女を呼んで宴を催すなど、心からの歓待で季長を出迎えてくれた。その上、出立の際には河原毛の馬と銭を餞別として渡してくれた。逆風の中での人の情けは、季長の心を温めると共に、勇気を奮い起こすものであったろう。だが、鎌倉に入るまでに季長の従者は1人減って、2人だけの旅路となる。同年8月10日、季長は伊豆国に入ると、その地の三島大明神を参詣して、弓箭の祈祷を行った。翌11日にも箱根権現を参詣して、祈祷する。8月12日、鎌倉に到着すると、まずは由比ヶ浜に出向いて塩湯をかぶって身を清め、その足で鶴岡八幡宮に参詣して、ここでも弓箭の祈祷を行った。


季長は三島、箱根、鶴岡の三大社を訪ねて、訴えの成就と自らの武運長久を一心に祈ったのだった。そうした上で、いよいよ幕府の奉行に訴え出たのであるが、従者を1人引き連れただけの弱小御家人に、わざわざ面会しようという物好きな奉行人はいなかった。奉行人が受け付けてくれない限り、裁判は始まらず、従って季長の訴えが取り上げられる事も無い。困り果てた季長は再び鶴岡八幡宮を参詣して、一心不乱に祈りを捧げた。そのまま2ヵ月の月日が空しく流れるが、季長はそれでも諦めずに機会を待ち続ける。 
 
 
そして、10月3日、いよいよ待ちに待ったその機会が巡って来た。執権、北条時宗の舅であり、鎌倉幕府の最有力者でもある安達泰盛に、直接訴え出る僥倖を得たのである。これには、烏帽子親である三井季成の助け舟があったと思われる。これが最初にして最後の機会と心得る季長は、自らの思うところを必死になって訴えかけた。 


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↑安達泰盛に訴えかける竹崎季長

 
 
季長、「鳥飼で先駆けをして元軍と合戦し、自らの乗馬と旗差の馬を射殺され、季長ら3騎が負傷したので、白石通泰を証人に立てて少弐景資の引付(合戦報告書)の一番に記録されました。この事を少弐経資(景資の兄)に申し立てたところ、先駆けの子細を報告して、将軍の仰せを追って申し上げると言ってくれました。ところがそれが成されず、将軍のお耳に達していない事に、弓箭の面目を失いました」 

 
泰盛はそれに対して、「討死、分捕の功はあるのか」と尋ねる。 

 
季長、「討死、分捕はありません」 

 
泰盛、「討死、分捕の戦功が無いのであれば、合戦の忠をした事にはならない。経資の書状には傷を被ったとの記載が見えるので、それで十分ではないか」 

 
季長、「先駆けをして景資の引付の一番に記録されたのに、経資の報告からは漏れて、将軍のお耳に達していない事を申し上げているのです。ご不審な点がありましたら、景資へ御教書をもってお尋ねください。その結果、私が申し上げた先駆けの功が嘘であると景資が起請文をもって申し上げたなら、私の勲功は捨てられ、この首を召してください」 

 
泰盛、「御教書を出して尋ねると言う事は、先例が無いので叶うものでは無い」
 
 
季長、「土地の訴訟や日本での合戦恩賞でも、先例をもって事を成すべきでしょう。しかし、異国との合戦では、先例があるとも思えません。先例が無いので景資にお尋ねにならず、将軍のお耳に達しないとなれば、弓箭の勇みをどうして成す事ができましょうか」 

 
泰盛、「言い分はもっともであるが、裁判の決まりでは、先例が無ければどう言っても叶うものではないのだ」 

 
季長、「重ねて申し上げるのは恐縮でありますが、直接に恩賞をもらおうという訴訟ではありません。先駆けをした事を、景資にお尋ね頂きたいのです。その結果、私が嘘を申しているのであれば、勲功は捨ててこの首を召してください。私の言う事が真実であれば、将軍のお耳に入れて頂き、次の合戦の勇みにしたいと申し上げているのです。もし、このまま捨て置かれましては、生前の嘆き、これに過ぎるものはありません」 

 
泰盛、「合戦の事はよく承った。将軍にご報告しておこう。恩賞については間違いなかろう。急ぎ国へ下向して、重ねて忠節を尽くしてもらいたい」 

 
季長、「将軍にご報告頂ければ、仰せに従って肥後に下るべきところですが、本領の訴訟が上手くいかず、無足の身であるので、帰るべき場所がどこにあるともわかりません。家臣になれば面倒を見てくれると言ってくれる身近な人はいますが、なまじ、ころはた(小さくとも独立した自分の旗)を指そうとしていますので、面倒を見てくれる人はいません。どこにいて後日の御大事を待てばよいのかわかりません」 

 
泰盛、「山内殿(北条時宗)からすぐに参るべきとの仰せである。合戦の事はまた承るであろう」 

季長には帰るべき場所が無いので、恩賞の沙汰があるまで、しばらく鎌倉滞在を続ける事にした。

 
 
当初、泰盛は、季長の訴えを受け付けない態度であったが、恩賞よりも弓箭の面目を施してもらいたい、嘘があれば首を召してもらいたい、との言い分にはさすがに意気に感ずるものがあったのだろう。そして、無足であっても他人の庇護は受けず、自らの旗を指したいという心意気も気に入ったに違いない。泰盛が側近に話したところでは、季長を大変強情な人であるという意味の「奇異の強者(こわもの)である」と述べ、「幕府の次の御大事にも駆けつけてくれる武士だろう」と評したのだった。10月4日に季長が安達邸に参上して、泰盛の側近と話をした際、この言葉を伝え聞いたそうである。それによれば、恩賞も間違いないとの事であった。逆境にあっても決して諦めず、その身は小なりと言えども、武士としての言い分を貫き通した季長に、天は微笑みかけたのだった。 
 
 
それから1ヶ月後の11月1日、季長は鶴岡八幡宮を参詣した後、安達邸に参上する。季長は見参所から奥へと案内され、そこで泰盛の手自ら、所領拝領の下文(くだしぶみ)を賜ったのだった。それには、季長を肥後国海東郷の地頭に任ずるとあった。 
 
泰盛、「すぐに肥後に下るのか」 

 
季長、「申し上げました先駆けの事が、将軍のお耳に達して恩賞にあずかったならば、急いで肥後に下向して次の御大事を待ちましょう。将軍のお耳に達していないのであれば、少弐景資に先駆けの事をお尋ねくださいと申し上げます」 

 
泰盛、「将軍にその功を披露すると、そなたの分の下文は私が直接渡すようにとの仰せであった。今120人ばかりの恩賞は、大宰府の少弐経資を通して渡すようにと仰せられた」 

 
季長、「私の先駆けの事が将軍のお耳に達しているのであれば、急いで下向してまた忠節を尽くしたいと存じます」 

 
泰盛は、季長の旅立ちに先立って、黒栗毛の名馬を一頭、餞(はなむけ)として贈ってくれた。季長がその名馬に跨り、ころはたを掲げて颯爽と帰っていく姿は、人生の中で最も晴れがましい瞬間であった。


 
 

元寇と竹崎季長の奮闘 1

2012.07.13 - 歴史秘話 其の二
文永11年(1274年)10月3日、朝鮮半島の合浦(ハッポ)から、900隻もの大船団が一路、日本を目指して出航した。その船団には物々しい雰囲気が漂っており、とても平和な商船には見えなかった。甲板には屈強な男で満ち溢れており、船倉にも大量の武具が積み込まれていた。これは、大元国(モンゴル帝国)の長にして、北東アジアの覇者であるフビライの命を受けた、日本遠征軍であった。いわゆる、元寇である。


これまでフビライは度々、日本の鎌倉幕府に使節を派遣して好(よしみ)を通じようとしたが、幕府はこれを黙殺し続け、ついに関係がこじれて今回の兵役となったのだった。フビライが送ってきた国書は日本との通好を求めるもので、それほど高圧的なものではなかったのだが、モンゴル国皇帝が日本国王に書を奉るとあって、両国の上下関係を明らかにして、場合によっては兵を用いるとの文言もあった。これが、鎌倉幕府や朝廷の警戒心を呼び起こし、フビライの度々の返信使節の催促にも応じなかった理由であった。 
 
 
ともあれ、ここに至っては最早、後戻りは出来ず、両国共、軍の勝敗によって決着をつける他、無かった。元軍の規模は3万人余で、蒙古(モンゴルの兵)、漢(旧金国の兵)、高麗(朝鮮の兵)で構成されていた。総司令官はモンゴル出身の忻都(きんと)で高麗出身の洪茶丘と、旧金国出身の劉復亨の2人が副司令官であった。『八幡愚童訓』によれば、10月5日に元軍は対馬の西岸、佐須浦に上陸し、翌10月6日、地頭の宗助国(そう すけくに)が80騎余でこれを迎え撃ったものの、悉く討死し、勝ち誇った元軍は対馬の住民を蹂躙し尽くした。それによってある者は殺され、ある者は手に穴を穿たれて船に結び付けられ、ある者は異国の地に奴隷として連行されていった。


10月14日、元軍は続いて、対馬と九州の中間にある壱岐島に来襲する。守護代、平経高率いる100騎余が元軍を迎え撃ったものの多勢に無勢、こちらも悉く討死して、壱岐の住民も対馬と同様の憂き目に遭った。対馬、壱岐の住民が元軍の襲来を受けて悲惨な目に遭ったという情報は、たちまちの内に日本全国に伝わって人々は恐れ慄いた。襲来から1ヶ月後の11月11日、甲斐の国の僧、日蓮は、「大蒙古国よりよせて候」、「壱岐、対馬の様になりはしないかと思えば、人々の涙は止まらない」と書き残している。壱岐を制圧した後、元軍は博多に向かうが、その途上、松浦地方にも襲撃を加えた。


これも日蓮の書簡に拠れば、「松浦党は数百人が討たれ、また生け捕られたりしたので、蒙古が押し寄せてきた浦々の百姓達は壱岐、対馬と同様であった」と述べている。高麗側の史料に拠れば、日本で捕らえた少年少女200人を国王と后に献上したとある。元軍の船団は松浦地方から東に進み、10月19日には博多湾に姿を姿を見せた。そして、10月20日にはついに博多湾の西部、今津に上陸を果たした。元軍は福岡平野の中心部目掛けて進撃してくると、九州を中心とする日本の武士団がこれを迎え撃って、激しい合戦となった。 
 
 
この戦いの関する日本側の同時代史料は極めて少なく、『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』や『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』」から実情を探る他は無い。『八幡愚童訓』は、鎌倉時代中期の作成でこれも貴重な資料であるが、八幡宮の霊徳を説く目的で作成されており、日本の軍勢は、大将でさえ1万2千騎であるとの大袈裟な表現も含まれている。『蒙古襲来絵詞』については、実際に戦闘に参加した御家人、竹崎季長によって作成されており、欠損や後世の加筆はあるものの、非常に写実的で元寇の第一級史料となっている。『八幡愚童訓』の記述を用いた通説では、日本の武士は敵に名乗りを上げて一騎打ちを挑んだが、元軍はこれを集団戦法で散々に討ち破ったとある。 
 
 
しかし、日本の武士が名乗りを上げるのはむしろ味方に向けてであって、これは自らの名前を覚えてもらって、戦功を挙げた際に証人になってもらう為である。それに、どこの誰ともつかない異国の敵に向かって一騎駆けをするなど、当時の目からしても自殺行為にしか映らなかっただろう。『蒙古襲来絵詞』には、竹崎季長が先駆けの功を狙って単騎で突撃する場面も描かれているが、その後には、日本の騎馬武士団が集団で矢を射掛けている場面も描かれている。日本の武士団も元軍も同じく、集団で戦ったと考えるのが妥当なところである。


実際に元寇をその目で見て、その肌で感じてきた竹崎季長の奮闘振りを紹介していきたい。竹崎季長は九州は肥後国の出身で、寛元4年(1246年)に生まれ、文永11年(1274年)の文永の役の際には、29歳の壮年の武者であった。しかし、同族内の所領争いに敗れた没落御家人であったので、今回の大事には、僅か5騎だけを率いての参陣であった。さて、季長一行が福岡の息浜に着くと、そこには大勢の武士が控えていた。その日の大将は少弐景資で砂丘の上に陣取り、ここで元軍を待ち受ける方策であった。しかし、季長は、「大将の指示を待っていれば戦に遅れてしまう。一門の中で季長が肥後国の先駆けをしてみせる」との決意を掲げていた。


そして、少弐景資の陣を訪れると、元軍に向かって進み出る事を願い出た。「本訴(所領に関する訴訟)がうまくいかないので、若党(従者)も従わず、私が率いるのは僅か5騎でしかありません。この5騎で、大将の御前で敵を倒して手柄をお目にかける事は適わないでしょう。ならば、兵を進めて先駆けの功を挙げる他は思い付きません。どうか、私達5騎が先駆けをした旨を将軍にご報告願い致します」。景資はこれに応えて、「私はこの合戦で命が助かるとは思っていませんが、もし助かったならば、貴方の先駆けの手柄を将軍に報告しましょう」と言ってくれた。そして、自らは500騎の兵を持っていながらも、季長に先駆けの功を譲る姿勢を見せてくれた。季長はこれに感謝の念を覚えながら、息浜を出発した。 


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↑息浜の砂丘に陣取る少弐景資とその軍勢

黒い唐櫃(からびつ)の上に腰掛けている人物が、少弐景資
 
 
季長は元軍を求めて赤坂へと向かうと、その途上、見事な装いをした武者と出会う。その武者は100騎余の郎党を率いて元軍を蹴散らし、首級2つを挙げて、それを太刀と長刀に貫いて郎党に掲げさせていた。季長はこの武士をあっぱれと思って、「どなたでございますか。たいへんすがすがしく見えますが」と声をかけた。すると相手は、「肥後国の菊池二郎武房と申す者です。そのようにおっしゃるのはどなたですか」と返してきた。季長は、「同じ肥後国の竹崎五郎兵衛季長が馬を走らせます。ご覧ください」と答えると、勇んで元軍に向かっていった。


元軍の本隊は麁原(すそはら)と云う小高い丘に陣取って、ひしめいていた。季長はその麁原に向かって馬を駆けようとすると、従者が、「味方は後ろから続いて来るでしょう。それをお待ちになって、証人を立ててから御合戦ください」と諫止した。ところが、季長は、「弓箭(武門)の道は先駆けをもって賞とする。ただ駆けよ!」と叫んで、突撃を開始する。元軍は麁原から鳥飼(とりかい)の干潟に下りてきて、これを迎え撃ち、雨あられの如く矢を射かけてきた。 
 
 
まず季長の旗差しが射られて落馬し、季長ら3騎も矢傷を負って血を滴らせた。更に元軍は、「てつはう」と呼ばれる炸裂弾(陶器の器に火薬と鉄片や青銅片を詰めた一種の手榴弾)を投げつけてきて、それが炸裂すると馬は驚いて飛び跳ねた。季長一行が、成すすべ無く討死せんとしていたその時、肥前国の御家人、白石通泰が後方から大勢で駆けてきたので、元軍は麁原に退いていった。季長は実に危ういところを助かり、「馬を射られずに元軍の中に駆け入り、白石通泰の軍勢がやってこなかったならば、戦死していたはずの身であった。意外にも命が助かり、お互いに合戦の証人に立った」と述べた。


この10月20日、元軍は麁原や別府(べふ)といった高台に陣取って、福岡平野の中心部に進撃してきたが、鳥飼や赤坂の地で日本の武士団の激しい迎撃を受けて阻止された。 この日の前線大将で、季長に先駆けを譲った少弐景資も勇戦し、敵の大将と思しき人物を認めて矢を射かけ、見事に命中させている。これが元軍の副将、劉復亨であったとされており、『元史』にも負傷したと記述されている。しかし、日本側も少なからぬ被害を出しており、博多の町や筥崎宮(はこざきぐう)が戦火を受けて灰燼と化し、民衆は悲嘆に暮れたと云う。


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↑元軍へ突撃せんとする竹崎季長

中央の元軍兵士3名は、左側の同軍兵士と比べて明らかに筆致が違うので、後世の追筆と見られている。


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↑竹崎季長の後方から駆け付けた白石通泰の軍勢。

この図の日本武士団は一騎駆けではなく、集団で駆けている。


 
夜を迎えてモンゴル軍は帰陣し、日本軍も大宰府の防塁である水城(みずき)に入って、翌日の合戦に備えた。ところが、翌10月21日の朝を迎えると、博多湾から元軍の船団は皆、消え去っていた。元軍は思わぬ苦戦を受けて、早期撤退を決め込んだのだった。もしくは、元軍は最初から威力偵察と示威行動のつもりで、一航過の襲撃と決めていたかもしれない。この時の元は、中国の南宋を主目標としていたので、日本遠征に全力を投入出来ない事情もあった。


それに、3万人程度では九州の制圧すら覚束ず、しかも時間を置けば日本側は本土から次々に援軍がやって来る事になる。なので、元軍は一撃離脱戦法を取ったのではないか。しかし、元軍は帰路に大きな損害を出した。『高麗史』によれば、朝鮮半島に向かっての航行中、
暴風雨に遭遇して船団、人員に多大な損失を出したとある。そして、この文永の役全体で元軍が被った人的損失は、1万3,500人余であったと云う。一方、日本側の人的損失は不明であるが、対馬、壱岐を蹂躙され、博多も焼け落ちたとあるので、この文永の役は日本側がやや劣勢で終わったのだろう。


 
 
 

ヨーロッパが恐怖に震えた日 アッティラの来襲

2012.05.04 - 歴史秘話 其の二
5世紀前半、ゲルマニア(ドイツ)に居住するゲルマン諸部族が、大挙としてライン河を越え、西ローマ帝国領であるガリア(フランス)に侵攻を開始した。世に言う、ゲルマン民族大移動である。実のところ、ゲルマン人によるガリア侵攻はさほど珍しい光景ではなく、ほとんど日常茶飯事と言ってよいものだった。それは、紀元前1世紀にユリウス・カエサルがガリアを征服して以来、400年以上もの歴史がある。だが、ローマ帝国はその試みを悉く打ち砕いて来たし、侵入してきたゲルマン人達も、略奪した後は本拠地に引き返して行くという一過性のものに過ぎなかった。


しかし、今回、明らかに事態は違っていた。ゲルマン人には激しい動揺が見られ、何としても西ローマ帝国内に生存権を確保しようと必死になっていた。これまでゲルマン人は、ローマ人に幾度と無く、手痛い目に遭わされてきたが、決して恐れてはいなかった。その大柄な体格と命知らずの蛮勇は、時に精鋭ローマ軍すら恐れさせたものだった。だが、そんな彼らが恐怖に青ざめ、何かに急き立てられるように、大挙として西ローマ帝国内に押し寄せて来るのである。 
 
 
この時のローマ帝国は衰弱して東西に分裂しており、ゲルマン人を追い払う力も無くしていた。その為、ガリアはたちまちのうちに、難民と化したゲルマン人諸部族の占有する地となった。何が、彼らをそこまで追い詰めていたのだろうか?それは東の果てからやってきた遊牧民、フン族の脅威である。彼らの特徴に付いて述べてみる。フン族の男は幼い頃から馬に慣れ親しみ、狩猟の腕を磨きながら成長していくので、言わば生まれながらの騎馬戦士であった。何をするにも、どこに行くにも馬に乗り、戦場でも馬から下りて戦うのを極度に嫌った。


彼らは牛、馬、羊の群れを引き連れて移動し、狩猟や牧畜によって生計を立てていた。衣服は動物の皮で作られたもので、擦り切れるまで着ていた。住まいは二輪の牛車で、その中で食事や睡眠、男女の混交もこなしていた。フン族には人間行動を律する法律は存在せず、族長の命令が絶対だった。土地や蓄財の収集には関心が無かったが、黄金は好んだ。黄金に限らず、光り輝く物は何でも好んだ。耕作し、食料を確保しておくという考えが無かったので、機会さえあればまず奪う事を考えた。目的地も無く、定住にも関心が無かったので、各地を移動しつつ、略奪を繰り広げた。彼らの軍団は神出鬼没の機動力を誇り、その騎乗戦闘能力も極めて高かった。 

 
 
その獰猛さは、勇猛で鳴るゲルマン人ですら悪魔と呼ぶほどであり、蛮族の中の蛮族と恐れられた。ゲルマン人の方が遥かに人数が多く、優秀な騎兵も有していたのだが、それでもフン族の騎兵には歯が立たなかった。そして、フン族は強力な騎兵団にものを言わせて、多数のゲルマン人諸部族を支配下に組み入れていった。西暦444年、フン族の族長に、アッティラと呼ばれる優れた統率者が就任すると、その獰猛さに拍車が掛かる。この頃、フン族は現在のハンガリー平原一帯に本拠を置いていたが、アッティラに率いられてドナウ河を渡り、東ローマ帝国に侵攻を開始した。


フン族は行く先々で荒れ狂い、略奪の限りを尽くした。彼らは多数の人間も連れ去ったが、役立たない人間と見なせば容赦なく殺戮していった。東ローマ帝国のキリスト教徒は、フン族に神の鞭(むち)との綽名(あだな)を付け、彼らの通った後には犬の鳴き声すらしないと恐れ慄いた。フン族は、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノーブルの目前まで接近すると、そこから東ローマ皇帝に凄まじいばかりの要求を突きつけた。まず2,250キロの黄金の差し出しに加えて、更に毎年、約780Kgもの黄金の支払い、それにフン族から脱走した兵士の返還と、捕虜としたローマ人を解放するに当たって金貨を支払うよう求めるものだった。 
 
 
東ローマ帝国はこの要求に対して、脱走兵の返還だけでお茶を濁そうとして、彼らをアッティラの元へと送り届けた。これらの脱走兵はフン族に組み敷かれたゲルマン系の兵士がほとんどで、フン族の生活行動に馴染めず、東ローマ帝国に投降した者達だった。アッティラは、これら脱走兵全員を地に伏せさせて天幕用の布をかぶせると、フン族騎兵の集団に何度もその上を往復させて、悉く轢き殺したのだった。東ローマ帝国の人々はこの蛮行に震え上がったが、雇っていたゲルマン人兵士の中では敵愾心が高まった。


そして、ゲルマン人庸兵を中心とするローマ軍が主体となって、フン族を殲滅せんとして出撃して行ったが、戦場を縦横に駆け巡って雨あられの如く弓矢を浴びせかけるフン族騎兵の前に大敗を喫してしまう。この結果、東ローマ帝国はフン族の脅迫に屈して、大量の黄金供出を余儀なくされたのだった。西暦449年、アッティラは更に注文を付けて、身分の高い使者を送って確実に協約を実行せよと迫ってきたので、東ローマ帝国は然るべき高位の人物をアッティラの下へと送った。その使者の1人である、プリスクスが書き残した記録が残っている。 
 
 
「我々一行はナイッスス(ニシュ)の街に入った。ここは、コンスタンティヌス大帝の生地であり、基幹道路も走っているが、フン族の襲撃を受けて破壊し尽され、廃墟と化した教会で雨露をしのぐ僅かな人数以外には、無人の街と化していた。街道の周辺も無人地帯が続き、川辺にはフン族に殺された多くの人々が白骨化して横たわり、殺されたままの状態で放置されていた。我々はドナウ河を渡り、アッティラの本拠地に入った。天幕の中のアッティラは、何人もの蛮族の高官や武将に囲まれていた。アッティラが身に付けている衣服の質素さには驚かされた。


ライン河からドナウ河にかけての広大な地域を支配している首長の天幕だと言うのに、その内部には煌びやかな調度品や、芸術品は何一つ置かれていなかった。寝台は見当たらず、これだけは高価そうな毛皮が床に置かれ、その他にあるのは木製の粗末な椅子と、アッティラの傍らに立て掛けてある弓と斧だけだった。アッティラの背は低かったが、頑丈そうな体格をしていた。顔の色はくすんだ黄色で、髭(ひげ)はほとんど無く、顔の造りは奇妙な程に平面的だった。両眼とも斜視で黒い窪んだ眼をしており、珍しいものでも眺める様に我々に視線を注いでいた」




↑フン族の進路(ウィキペディアより)
 
 
西暦451年4月、アッティラ率いるフン族はハンガリー平原から出立して、再び大規模な征服活動に取り掛かった。まず、ゲルマニア(ドイツ)を横断してライン河に至ると、その中流に位置するマインツ付近から渡河して、ガリア(フランス)に攻め入ったのである。フン族はガリアに侵入すると軍を三つに分け、パリの南西にあるオルレアンを目指して侵攻を開始する。このオルレアンはフランス中央部に位置する要衝であって、ここが落ちれば、ゲルマニアに続いてガリアまでもフン族に支配下になりかねない。このガリアにはフン族の脅威から逃れて、生存権を獲得しようと必死になっていたゲルマン人諸部族が存在していた。


それに地中海に面したガリア南部には、まだ西ローマ帝国の勢力も残っていた。もし、ガリアまでフン族の支配する所となれば、ゲルマン人には行き場が無くなり、ただでさえ衰亡している西ローマ帝国も止めを刺されかねない。この存亡の危機を受けて、かつては宿敵同士だったゲルマン人諸部族と西ローマ帝国が結託してフン族に当たる事となった。そして、フン族撃滅を目指して、ローマ・ゲルマン連合軍を結成する。その頃、フン族の3軍団はそれぞれ略奪、虐殺を繰り広げながらガリア中央部を目指して侵攻中で、オルレアン近郊に達すると合流して都市の攻囲を開始した。 
 
 
ローマ・ゲルマン連合軍はオルレアン攻囲中のアッティラの背後を突くべく、南と西から接近した。アッティラはこれを察知すると不利な情勢と見たのか、ゲルマニアを目指して撤退を開始する。しかし、途中のランス付近で補足されたので、アッティラはここで会戦を決意した。西暦451年6月24日、西ローマ帝国軍と西ゴート族を始めとするローマ、ゲルマン連合軍と、アッティラ率いるフン族軍団はシャンパーニュ地方の平原で激突した。両軍の規模であるが、フン族の兵士数は3万人と言われており、多数の蛮族も自軍に組み込んでいるので、5万人以上はいたと思われる。


これに対するローマ、ゲルマン連合軍はやや劣る人数であったのではないか。フン族は左と右に傘下の蛮族兵団を配し、中央にはアッティラ直率のフン族騎兵団を配した。これに対して、西ローマ帝国軍の司令官アエティウスはフン族騎兵の機動力を封じるべく、地形を有効活用する。ローマ軍を左手の丘陵に配して、中央にはアラニ族を配し、右手に河を望む地に西ゴート族を配して、左右から回り込まれるのを事前に防いだ。 
 
 
午後15時に始まった開戦は、力押しの混戦となった。フン族騎兵は蛮勇を奮って中央のアラニ族を蹴散らしつつあったが、その左右を支える配下の蛮族軍は、ローマ軍と西ゴート族の奮戦を受けて押され気味となった。丘陵と河に挟まれた地形による制約と、左右を支える蛮族軍が総崩れになった事で、フン族騎兵も自慢の機動力と攻撃力を存分に振るえなかった。両軍は尚も激闘を重ねて、乱戦の中、西ゴート族の族長テオドリックも戦死した。


それでも、陽が落ちる頃にはフン族軍の劣勢は明らかとなり、さすがのアッティラも茫然自失して自害するとまで口走ったと言う。フン族軍はついに撤退を開始するが、消耗しきったローマ・ゲルマン連合軍にもこれを追う力は無かった。フン族はこの戦いで大きな痛手を受けたものの、アッティラ自身はすぐに気力を取り戻し、翌452年には西ローマ帝国領の北イタリアに再び侵攻を開始する。フン族は、イタリア北部の東にあるアクィレイアから西のミラノに至るまでの地方都市を次々に蹂躙していった。 
 
 
先年にはゲルマン人と協力してフン族を撃退した西ローマ軍であったが、今回はその援軍を得られる見込みは立たず、単独で戦ったしても勝ち目は無かったので、自国を蹂躙されながらも見て見ぬ振りをした。その為、フン族は春から秋にかけて、半年余りも我が物顔で北イタリアを蹂躙したのだった。フン族が接近してくると、人々は「アッティラが攻めてくる、フン族が押し寄せて来る」と叫んで狂乱状態に陥った。


西ローマ帝国は膝を屈して、司教レオと元老院議員2人を代表とする使者をアッティラの元に派遣し、賠償金を支払う事でようやく北イタリアから去ってもらう事を承諾させた。この不名誉な事態を、キリスト教会は美談に作り変えて宣伝する。すなわち、神の加護を得た司教レオが勇気を奮ってアッティラと対面し、その暴虐を非難して恥じ入らせ、神の愛を説いた事によって、彼を退散させるに到ったのだ、と。歴史的な屈辱を、キリスト教の伝説に作り変えたこの出来事は、画家のラファエッロの手によって壮麗な絵画に描かれ、その後のキリスト教布教に大いに貢献する事になる。 




「大教皇レオとアッティラの会談」 (ウィキペディアより)
 
 
西暦453年春、冬が過ぎ去って再びフン族が暴れだす季節となり、周辺の人々が戦々恐々になっていた頃、突如としてアッティラは倒れた。宴の最中、突然、大量の血を吐いて倒れ、あえなく息を引き取ったのだった。蛮族の中の蛮族たるフン族王の葬儀は、傘下のゲルマン諸部族の族長も大勢参列する盛大なものとなった。遺骸は金、銀、鉄の3重の棺に納められ、河を塞き止めたその底に豪華な埋葬品と共に埋められたが、それを掘らされた奴隷は墓の秘匿の為、全員殺されたと云う。アッティラの死後、息子達による後継争いが勃発して、部族は内紛状態に陥った。


フン族は四分五裂して急速に求心力を失い、これを好機と見た傘下の蛮族達は次々にその支配を離れていった。アッティラ率いるフン族は一時、ドナウ河の河口からライン河の河口に至るまでの広大な地域を傘下に治めたものの、アッティラの死と共に、その支配は脆くも崩れ去ったのだった。以後、フン族は散り散りになって現地社会に埋没していった。彼らが再び歴史に浮上する事は無かったが、彼らが残した恐怖の爪痕はヨーロッパに住む人々の脳裏に刻まれ、悪夢として語り継がれていった。 
 
 
アッティラは常々、北部ヨーロッパに一大帝国を創設すると公言していたが、国家統治に欠かせない政治機構を創設した形跡は伺えない。アッティラは大胆な行動力、優れた統率力、好機を生かす判断力、騎兵を縦横に操る戦術能力を有していたが、明確な軍事戦略や、国家構想を持っていたとは言い難い。ただひたすら獲物を求めて追いかけていく、肉食獣の様な本能だけが彼の行動原理だった様に見える。


このアッティラを始めとするフン族は、自分達についての記録を何一つ残しておらず、その起源も今だ明らかになっていない。分かっているのは、彼らがカスピ海の東方からやって来た事だけである。アッティラと会見したプリスクスによれば、彼は黄色い肌に平面系の顔をしていたとあるので、これはモンゴル系の遊牧民であるとの印象を強くする。 フン族は、かつてモンゴル平原に勢力を振るった匈奴の末裔ではないかと見る向きは多い。それを裏付ける資料は無いが、その生活様式、戦闘行動に共通点が多いのも確かである。
 
 

匈奴もまた文字を持たない民族であるため、彼らを知ろうと思えば、敵として戦った中国の帝国、漢の記述に頼る他は無い。匈奴は遊牧と狩猟を生業としている民族で、その衣服も動物の毛皮をなめしたものだった。子供の頃から馬や羊に慣れ親しみ、鳥や鼠を射抜いては弓術を磨いた。青年になる頃には強い弓を引く様になり、革の鎧を身にまとった。全匈奴氏族を合わせても100~200万人でしかなかったが、成年男性の全てが軽装騎兵であるので、戦時の動員力は極めて高かった。


全部族が結束していたなら、優に10~20万人は動員できたと思われる。匈奴は
その神出鬼没の騎兵団をもって、6千万人の人口を擁する前漢と互角に渡り合った。しかし、匈奴内で内紛が度重なった事に加えて、それを好機と見た前漢の武帝(在位 紀元前141~87年)による激しい攻撃を受けて弱体化し、匈奴の部族は、漢への服属を余儀なくされたり、北辺に逃れたりした。その部族の一派が数百年の歳月をかけてユーラシア大陸を横断し、やがてフン族としてヨーロッパに姿を現したのではなかろうか。




↑紀元前250年頃の匈奴の領域(ウィキペディアより)



 
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