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捕虜は裏切り者

スターリンの言葉、 「捕虜となった者は裏切り者である」


1939年9月、ドイツとソ連は事前に取り決めた密約に従って共にポーランドに攻め込み、その領土を東西に折半して自国の領土に編入した。しかし、1941年6月、ドイツとソ連の関係は破綻し、ドイツ軍は大挙してソ連領に攻め込んだ。快進撃するドイツ軍に、最初に激しく抵抗したのが、旧ポーランド領にあったブレスト・リフレスク要塞である。
守備隊は頑強な抵抗を示し、1週間にわたる激闘の末、ドイツ軍は要塞の大部分を占領した。だが、守備隊の生き残りの兵士は、食料、弾薬、増援がまったく得られない状況であるにも関わらず、尚も抗戦を続けた。その間もドイツ軍は猛烈な進撃を続けて、ロシア奥地へと支配地を広げてゆき、ブレスト要塞は内陸に取り残される形となった。それでも一部兵士の抵抗は続き、攻防が始まってから約1ヶ月後、ようやく要塞の抵抗は終わった。


ソ連政府はこの徹底抗戦を評価し、要塞のあるブレストに「英雄都市」の称号を授け、戦後は要塞の中に記念碑を設けた。ブレスト要塞、最後の生き残りと思われる兵士は、壁にその決意を刻み付けていた。「死んでも降伏はしない。さらば、祖国よ。1941年7月20日」。戦後、この壁はモスクワに運ばれ、現在でも中央軍事博物館に大切に保存されている。だが、この博物館では、ブレスト要塞で奮戦した後、負傷して捕虜となった数名の兵士がいた事実は語られていない。この数名の捕虜は、1945年のソ連軍の反攻で解放されたが、その後、ソ連防諜対策特殊機関に捕縛され、強制収容所に連行されていった。彼らは英雄として扱われず、犯罪者として処分されたのだった。何故なら、スターリンはこう命令していたからである。「捕虜となった将兵は祖国の裏切り者とみなし、その家族は逮捕し、国家の保護と援助を停止する」


この命令は、ドイツ軍の捕虜となっていたスターリンの息子、ヤーコフにも適用されていた。ヤーコフは自ら志願して軍務に就いていたが、1941年7月16日にヴィテブスク近郊でドイツ軍の捕虜となった。ドイツ軍は、ヤーコフがスターリンの息子であると知ると、プロパガンダに利用しようとヤーコフに協力を求めた。だが、愛国心に燃えるヤーコフは、これをきっぱりと断わっている。スターリンとは冷たい親子関係にあったが、国家指導者となっている父を糾弾して、国家を危機に陥れる気は毛頭無かったのだ。


しかし、ソ連政府は、ヤーコフが捕虜になったと知ると、その妻を投獄し、娘はスターリンが預かる事となった。そして、後にヤーコフは、父スターリンの無情な放送を聞く事になる。それは、「捕虜となった赤軍兵士には、裏切り者しかいない。私にはヤーコフという息子はいない」というものであった。ヤーコフは、これに強い衝撃を受ける。そして、1943年4月、捕虜収容所にて、ヤーコフは鉄条網に向かって歩き出した。ドイツ兵は警告の声を上げるが、それでも歩みを止めなかったので、頭を撃ち抜かれて死んだ。ヤーコフの最後には諸説があるが、いずれにせよ自殺に近い最後であった。非情な独裁者も、この愛国心を持った息子の死を聞いて、しばし、うなだれたと云う。
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