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岩村城

岩村城は、岐阜県恵那市岩村町にある山城である。日本三大山城(大和高取城、備中松山城)の一つとされる。岐阜県岩村城の見所と言えば、壮大な石垣であるが、ここに秘められた歴史もまた壮絶なものがある。



城の創建は古く、文治元年(1185年)、源頼朝の臣であった加藤景廉が、美濃国遠山荘の地頭に任じられた時から始まったとされている。その景廉の子、景朝の代に遠山性に改名し、以降、一族は恵那郡一帯に散って、数多くの城館を築いていった。それらの中で本家筋の遠山氏は、代々、岩村城を居城として戦国に至る。この岩村遠山氏、最後の当主となったのは遠山景任である。景任は、年代は不明であるが、美濃攻略を進めていた頃の織田信長と同盟を結んでいる。 信長は、美濃・信濃・三河の国境に位置する城である岩村城と、その一帯を統治する遠山氏を重要視し、叔母にあたる、おつやの方を景任に娶せたうえに、子のなかった夫妻に婿養子として四男、坊丸まで送っている。



元亀3年(1572年)11月、織田信長と武田信玄、戦国時代を代表する両雄が対決に至ると、岩村城はその位置ゆえ、争奪戦の的となる。信玄は西上作戦の一環として、秋山虎繁(信友)に3千の兵を任せて岩村城を攻撃させた。この時、岩村城では折り悪く、城主、遠山景任が死亡していた。その死は、武田軍との前哨戦で受けた傷によるものと考えられている。城主を失って主体性を失ったのか、残されたおつやの方と遠山一族は、信長の援軍を待たずして、虎繁の降伏勧告に応じた。 この時、おつやの方と遠山一族はほとんど抵抗せずに城を明け渡した事、坊丸を武田家に差し出した事、そして、おつやの方が敵将である虎繁の妻に納まった事で、後に信長の凄まじい怒りに触れる事になる。



開城後、虎繁は城将として岩村城に君臨した。岩村城は信長の本拠、岐阜城からもほど近く、武田家の西方進出の拠点となった。それは、信長にとって脇腹に剣を突きつけられたに等しく、更に虎繁とおつやの方に対する憎悪を深めていくのだった。天正元年(1573年)4月、武田信玄が病没し、勝頼に代替わりするが、秋山虎繁はそのまま岩村城の守備を任された。 天正2年(1574年)2月、勝頼が東美濃で大規模な軍事活動を行うと虎繁もこれに従い、岩村城周辺の織田方18支城を陥落させて、周辺に勢力を伸ばした。しかし、翌天正3年(1575年)5月21日、武田軍が長篠で大敗北を喫すると、岩村城は、織田軍の反抗をまともに受ける形となった。信長の嫡男、信忠率いる兵3万人余の大軍が岩村城に迫ってきたのである。



信長は、長篠勝利の余勢を駆って、東美濃を奪還する決意であった。この時、虎繁が守る岩村城は3千人余の兵力だった。篭城するには十分な兵力であるが、後詰めが無ければ勝利の可能性は無い。同年6月、虎繁は、勝頼の来援を信じて篭城戦に入った。当初、織田軍は一挙に城を攻め落とさんと、力攻めを加えた。織田軍は数を頼みに強攻したが、天険の要害はびくとみせず、逆に虎繁を始めとする城兵の激しい反撃を受けて、多数の死傷者を出して撃退された。これに懲りた織田軍は長期包囲に切り替え、城方の抵抗力が弱まるまでじっくり待つ事にした。この間、城方が待ち望んでいた、武田の後詰めはなかなか現れなかった。武田勝頼は長篠で大敗北を喫していたが、形振り構わぬ素人動員で、短期間で軍勢を再建する事に成功している。そして、同年9月7日、勝頼はこの寄せ集めの武田軍を、徳川家康によって包囲されていた遠江、小山城へと振り向けた。



長篠の大敗北を受けて、武田方はしばらく動けないと踏んでいた徳川方は、この素早い援軍の到来に驚いて撤退していった。勝頼は、
織田軍3万人余に包囲されている岩村城の救援は困難極まるが、1万人以下の徳川軍なら、寄せ集めの武田軍でも追い払えると踏んだのだろう。こうして小山城の危機は救われたが、同じく包囲されていた岩村城は後回しにされた。天正3年(1575年)10月、孤立無援の岩村城では、半年にも及ぶ篭城で兵糧が乏しくなり、士気も低下していった。そして、同年10月23日、26日には、城方と織田軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられたらしく、城方の大身の武士が多数、戦死している。この頃、武田家の先遣隊(おそらく3千~5千)がようやく岩村城に駆け付けていた。



同年11月10日、城外の武田軍は劣勢であったが、織田軍の本陣を打ち破らんと、水晶山に夜襲を仕掛けた。だが、水晶山は織田信忠の本隊をはじめ、河尻秀隆、毛利秀頼らによって固められており、すぐさま反撃に出て武田軍を撃退した。城兵も合わせて打って出て、柵を打ち壊し、夜襲隊と合流せんとした。そこへ、信忠自ら陣頭に立つ織田軍が突入してきたので、武田軍は散々に討ち破られた。夜襲隊は兵力不足、城兵は兵糧攻めによって力が出せなかったのだろう。武田軍は甲斐、信濃の大将21人と、兵1,100人余が討死し、山野に多数の屍を晒した。この頃、武田勝頼も本隊を率いて岩村城の後詰めに向かおうとしていた。上京していた信長は勝頼来援の報を受けると、同年11月15日、急ぎ岐阜まで駆け戻った。



勝頼の本隊は伊那に着陣したようだが、織田の大軍を目の前にして動けなかった。岩村城も兵糧は乏しく、城兵も大半が討死して、これ以上の籠城は不可能であった。精魂尽き果てた虎繁らは篭城を断念して、開城を申し出た。ここまで、よくぞ戦い抜いたと云えよう。同年11月21日、織田方が開城を受け入れたので、虎繁を始めとする3人の将は、礼を言わんと、信忠の陣へ赴いた。だが、この和議は謀略であって、信忠は3将を絡め捕って、信長の下へと送った。そして、助命されるはずであった城兵達も誰一人として許されず、主将を失った岩村城に織田軍の総攻撃が加えられた。 和議になると安堵していた城方は不意を突かれたが、この破約には怒って最後の抵抗を試みた。城内では遠山一族が各曲輪を守って、織田軍に少なからぬ打撃を与えたが、衆寡敵せず次々に討たれていった。最後には城に火が放たれ、生き残った者達も各曲輪に押し込められて、焼き殺されていった。



一方、信長の下へ送られた虎繁は、長良川にて逆磔(さかさはりつけ)の刑に処された。おつやの方は虎繁と共に逆磔にされたとも、信長自らの手で斬り殺されたとも云われている。信長の激しい怒りに触れた岩村城の人間3千人余は、こうして無残に葬り去られたのだった。 落城後、織田家部将、河尻秀隆が岩村城を任されて城主となった。これ以前の武田時代は土塁の城であったろうが、織田時代に石垣が築かれるなどして、現代に近い姿となった。河尻秀隆が甲斐に移封となると、森乱丸、長可、忠政の森家兄弟、三代の持ち城となり、忠政の代になって近世城郭として完成した。



その後、城主は次々に変わり、最終的には松平氏が入封して明治に至る。しかし、明治の世を迎えると岩村城も他の城同様、建物は取り壊され、壮大な石垣と秘められた悲劇のみが残される事となった。 (余談)おつやの方は、信長に対して呪いの言葉を発しながら、死んでいったと云われている。この岩村城に関わった織田信長・織田信忠・坊丸こと織田勝長・森乱丸・森長可・川尻秀隆といった人物は、いずれも横死している。ちなみに岩村城では出る!との噂がある・・・






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↑本丸石垣


岩村城は標高が高い所に建っているので、登るのはさぞかし難儀するだろうと思っていましたが、車で本丸近くにある駐車場まで行けたので、そこに車を置くと、歩いて5分程で本丸までたどり着きました。



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↑本丸埋門



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↑本丸石垣






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↑本丸跡


岩村城は遠山景任→秋山虎繁(信友)→川尻秀隆→森乱丸・長可・忠政→田丸直昌→松平氏→丹羽氏→松平氏と目まぐるしく城主が入れ替わっています。武田勝頼や織田信長、信忠も一時、在城したと思われます。往時には、これらの武将達もこの本丸跡にいたのでしょう。



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↑曲輪跡


この曲輪は中世に築かれたもので、戦国時代の息吹を感じさせられる遺構です。


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↑本丸石垣


岩村城は、川尻秀隆の時代に大修築され、その後、城主と時代が変わる毎に石垣が増改築されていきました。



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↑六段に積まれた本丸石垣



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↑岩村城の井戸(霧ヶ井)



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↑岩村城からの眺め


天正3年(1575年)、秋山虎繁を主将とする岩村城を、織田信忠率いる3万余の大軍が包囲していました。往時には、周辺をびっしりと織田軍の旌旗(せいき)や逆茂木(さかもぎ)が立ち並んでいたでしょう。本国への道は閉ざされ、孤立無援で半年もの籠城は、想像を絶します。この岩村城を見下ろす位置にあったのが水晶山で、織田軍の陣跡が残っているようです。

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