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2020.06.01 - 
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スターリングラード 終

(12月12日)、フォン・マンシュタイン元帥率いるドイツ軍が、南から包囲網を解囲するための攻撃、冬の嵐作戦を発動する。孤立地帯のドイツ軍兵士は口々に「マンシュタインが救援に来るぞ!」と言い合い、目を輝かせた。しかし、この作戦もソ連軍の激しい反撃を受けて頓挫し、(12月23日)、マンシュタイン率いるドイツ軍は退却していった。孤立地帯のドイツ軍及び同盟軍は、ロシアの奥地に完全に取り残された。


(1942年12月)、孤立地帯のドイツ兵達は、寒気・栄養失調・砲撃・感染症で次々に倒れていった。それでも兵士達はクリスマスを祝うため、乏しい食料から少しずつ取り置きをするようにした。(12月24日)、クリスマスイブの日の気温は、零下25度であった。兵士達は薄暗い壕の中、かすれ声で、「清しこの夜」を歌った。大勢の兵士達が故郷を思って忍び泣いた。このような状況であったにも関わらず、ある兵士は、「今年のクリスマスはこれまでで、一番美しいクリスマスの一つでした。僕は一生忘れないでしょう」と述べている。


しかし、クリスマスの早朝から猛烈な砲撃にさらされた部隊もあった。最後に残ったシャンペンを開いて、今まさにグラスを上げようとした時、砲弾が立て続きに落下して、皆は一斉に地に伏せた。そのため、せっかくのシャンペンはこぼれてしまい、死傷者も出る事態となった。年が明けて(1943年1月6日)、気温は零下35度まで低下した。大草原に野ざらしのドイツ兵達は次々に死んでいった。第6軍司令官パウルスの報告、「軍は飢え、凍っている。弾薬なし。もはや戦車を動かせない」 軍医の書き残し、「第一の敵は飢えだ。相変わらず飢えだ!」


(1月10日)、孤立地帯のドイツ軍に対し、ソ連軍の総攻撃が始まる。ドイツ軍は痩せ衰えていたが、驚異的な抵抗を見せる。最初の3日間で、ソ連のドン方面軍は2万6千人余の兵と戦車の半数を失った。しかし、それでもソ連軍の勢いは止められず、ドイツ軍の戦線は次々に突破されていった。その頃、孤立地帯の飛行場では、この地獄から逃れようとする兵士で溢れかえり、混沌の極みにあった。輸送機が着陸する度に負傷兵達は、他者を押し退けて我先に乗り込もうとする。憲兵は制止しようと、しばしば群集に向けて発砲したが効果はなかった。そういった合間にもソ連軍の爆弾、砲弾が着弾し、大勢が死んでいった。運良く輸送機に乗り込めたとしても、負傷者を満載した結果、重過ぎて墜落したり、ソ連軍に撃墜される機が後を絶えなかった。


大多数の負傷兵は輸送機に乗れず、そのまま置き去りにされた。負傷兵達は幾日も食べ物を口にしておらず、絶望の嘆き声を上げていた。孤立地帯の状況を報告するため、第6軍の将校が輸送機に乗り込んで西方のドイツ軍戦線に到着した。その将校と謁見した将軍と副官は、その姿を見てびっくり仰天した。将軍と副官は染み一つないきれいな軍服に身を包んでいたが、その将校は頬はこけ、髭は伸び放題、服は汚れきってシラミがたかっていた。足元は凍傷を防止するため、ぼろを巻きつけていた。副官はまじまじと将校を見つめた挙句、恐る恐る彼と握手した。


(1月17日)、孤立地帯の西半分はソ連軍に制圧された。大草原から10万人余の兵士が、よろよろと瓦礫の都市に退却していった。多くの兵士は赤痢、黄疸などの病気に罹っており、顔は緑黄色をしていた。追撃するソ連軍の報告、「猛烈な寒さだ。凍るような空気は鼻のあたりで氷になる。歯が痛くなる。凍結したドイツ兵の無傷の死体が道端に並んでいる。彼らを殺したのは我々ではない。寒さの仕業だ。長靴も上着も粗末で、軍服の上着は紙のように薄い。雪の上にはいたる所に足跡がある」


スターリングラードの廃墟の地下には、2万人余の負傷兵と4万人余の病人が詰め込まれた。うめき声、助けを求める叫び、祈りの言葉が、爆撃の轟音に混じって聞こえた。(1月31日)、ドイツ軍は分断され、市街地の一角を辛うじて保つのみとなる。ドイツ軍の全滅は、間近に迫った。追い詰められ、憔悴しきった第6軍司令官パウルスは、とうとうソ連軍に降伏を申し入れた。


それを受け、痩せ衰えた兵士達は降伏の証拠として、両手を高く上げて地下室や掩蔽壕からよろめき出た。ひどい凍傷のため、歩くのがやっという兵士が大勢おり、そのほとんどが足指か足の爪がなかった。あるソ連軍将校は捕虜達の前に立ちはだかり、周囲の廃墟を指差して、「ベルリンもこうなるのだ!」と叫んだ。


スターリングラードで捕虜となったのは、13万人余(ソ連側の発表によれば9万1千人)であった。11月22日に包囲されて以来、15万人以上の兵士が死んでいったのであろう。しかし、正確な数字は誰にも分からない。過酷な戦いを生き抜いて捕虜となっても、さらに過酷な運命が彼らを待っていた。


ソ連軍では、自軍の兵士に給養する食料でさえ欠乏していた。そのため、ドイツ軍捕虜に与える食料など、ほとんどなかった。ドイツ兵捕虜の内、半数は春を待たずして死んだ。スターリングラードで捕虜になったドイツ兵で、戦後、東ドイツに生還したのは5千人余だった。ドイツ軍に協力したヒーヴィも相当数が捕虜となったが、ほぼ全員がソ連に抹殺されたと考えられる。


このスターリングラード戦全体で、ソ連は110万人余の死傷者を出し、その内、48万5千人余が戦死した。ドイツと同盟国は50万人余の兵士を失った。ソ連側の方が人的損失は大きかったが、ドイツ側にとってこの損失は許容できる範囲を超えていた。この破滅的な損害を受けた結果、東部戦線の主導権はソ連側が握る事になり、さらには第二次大戦の転換点ともなった。


(1943年2月2日)、市内での戦闘は完全に終息し、瓦礫の街を静寂が包んだ。しかし、破壊音と戦闘音に慣れてしまった人々には、この静けさは異様に感じられた。かつてスターリングラードは美しい都であったが、それを偲ばせるものはほとんど残っていなかった。唯一、往時を偲ばせるものは噴水池だった。形を留めた少年少女の像が池の周りを踊っている。しかし、
市街の瓦礫の下には、幾万もの女子供が原形を留めずに埋もれていた。


何十年経っても、スターリングラードで建設作業を始めれば、必ずと言っていいほど、戦闘の名残の死体が発見された。スターリングラードは現在ではボルゴグラードと改名され、百万人が住む大都市として復興を遂げている。しかし、郊外に広がる原野には、生々しい激戦の跡が今でもそこかしこに残っている。


主要参考文献、アントニービーヴァー著「スターリングラード」



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スターリングラード 2

激戦の最中にも、まだ市内には多数の民間人が残っていた。男は兵士として戦場に駆り立てられたため、残されたのは女子供ばかりであった。市街に残された市民は、廃墟の地下室や下水道、河岸に掘った横穴に隠れたが、多くは生き残れなかった。西のドイツ軍占領地に向かった避難民もいたが、そこには何もなかった。ドイツ軍はあらゆる物資を摘発していたので、食料も何も残っておらず、避難民達は寒々とした荒野に捨て置かれ、その大半がロシアの土と化していった。


ソ連の情報筋によれば、ドイツ軍は戦闘中に3千人余の市民を処刑し、また、ヒトラーの命令で6万人余の市民が、強制労働に従事させるべくドイツ本国へと運ばれていったと云う。独ソ両軍とも、市民を積極的に助ける気など毛頭なかった。スターリンはドイツ軍の命令に従った市民は全て射殺せよと命令を発し、たとえ強要されて行動したとしてもその例外ではないとした。 そのため、ソ連軍が自国民を殺害するケースも多々あった。


スターリングラード攻略の主力を担うドイツ第六軍には、5万~7万人余の元ソ連兵が含まれていた。彼らはヒーヴィ(対独協力者)と呼ばれ、その構成はコサックなどの志願した現地住民、脱走したソ連兵、捕虜となったソ連兵などであった。ヒーヴィの多くはソ連兵捕虜で占められており、始めは労働に従事していたが、ドイツ軍の兵力不足を補うため、次第に戦闘に駆り出されるようになっていった。ドイツ軍参謀長の報告、「我が戦闘部隊をロシア人捕虜で強化せざるを得ないのはまことに遺憾であります。彼らはすでに我らの射撃手になろうとしております。敵であるべき野獣が今や一致協力して我々と生活を共にしているとは、何とも奇妙な状況であります」。


ヒーヴィは同国人に対し勇敢に戦い、忠誠心篤い態度を示したため、総じて前線のドイツ軍はヒーヴィを厚遇した。何故、これほど多くのヒーヴィがドイツ軍に協力したかと言うと、多分にソ連の残酷な体制に対する不信と恐怖からであった。一旦、ドイツ側に協力した者を、ソ連の体制は決して許容しなかったため、彼らは最後までドイツ軍と共に戦わざるを得なかった。しかし、ドイツ軍は協力者以外の捕虜にはろくに食料も与えず、その多くを餓死に追い込んだ。


(10月初旬)、スターリングラード攻防戦の中盤、ドイツ軍によって市街の大半は占領され、ソ連軍はヴォルガ河を背後にした、細長い戦線を維持するのみとなっていた。ソ連軍の戦線は、ヴォルガ河の対岸から船で運ばれてくる増援と補給によって辛うじて支えられていた。船は兵士や物資を西岸に届けた後、負傷兵を満載して東岸に運んだ。


ドイツ軍も勿論、それは察している。そのため、渡河地点に猛烈な砲撃を加えたり、急降下爆撃機で船を攻撃して、全力でこれを阻止しようとした。船の乗組員の死傷率は、第一線で戦う部隊と変わりなかった。船舶の損失は甚大であり、おびただしい数の負傷兵が対岸に渡れず、岸辺に横たわってうめき声を上げていた。船に乗せられても、負傷兵達は穀物袋を積載するように積み重ねられて運ばれていったので、状態がより悪くなったり、東岸に渡るまでに死亡する例も多かった。また、東岸に渡っても、満足な治療が受けられる保障はなかった。


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ヒトラーはスターリングラードの象徴性に取りつかれており、その奪取に執念を燃やしていた。それにソ連軍は最早、撃滅寸前であると確信していたため、ドイツ軍の戦力を集中的に市街に投入していった。薄くなったドイツ軍戦線の両側面は、貧弱な装備しか持たないルーマニア軍に委ねられた。ドイツ軍が市街戦に釘付けになっている間、ソ連軍は密かにスターリングラードの北西と南東に戦力を集中し始めていた。市の防衛に送られる戦力まで削減して、その増強に努めたため、スターリングラードの防衛が危機に陥るほどであった。


(11月中旬)、ヴォルガ河には浮氷が下り始め、本格的な冬が迫っていた。敵味方のどちらを見ても、最初から残っている戦闘員はほんの少数だった。ソ連古参兵いわく、「あれは、我々が8月に戦った連中とは違うドイツ兵だ。我々の方も違っていた」。ソ連兵の大量の死体は瓦礫の中に埋もれてゆき、市の郊外にはドイツ兵の墓標が広がり続けていた。この頃になると、ドイツ第六軍の健康状態は、深刻な状況にあった。ドイツ軍の間には、赤痢・チフス・パラチフスなどの感染症が広がり、病死する兵士の数が急増していた。軍医の推測によれば、食糧不足に加えて、累積するストレスで体の抵抗力は弱まった事が原因であるとされた。ソ連軍も病気になるドイツ兵の多さを知って驚き、それをドイツ病と呼んだ。


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(11月19日)、満を持したソ連軍の大反抗「ウラヌス作戦」が開始される。(11月22日)、ソ連軍は、まともな対戦車装備を持たないルーマニア軍の戦線を突破し、一大包囲網を完成させる。この結果、ドイツ軍・同盟軍・ヒーヴィ合わせて29万人余(数字には諸説あり)が包囲された。孤立地帯の食料、弾薬不足は深刻であった。空軍は空からの補給を約束したが、孤立地帯のドイツ軍が要求する物資の数分の一しか空輸できず、それすら悪天候によって途絶える事もしばしばであった。輸送機は積荷を降ろした後、傷病兵を満載して飛び立ったが、度々、過剰積載で墜落したり、ソ連軍の高射砲で撃ち落された。ただでさえ乏しい糧食は三分の一から二分の一に切り詰められた。ヒトラーは包囲されたドイツ軍をスターリングラード要塞軍と命名し、その絶対死守を命じた。


多くのドイツ兵達は、包囲以前に適切な防寒服を受け取っていなかったので、猛烈な寒気に苦しめられ、凍傷に罹る者が後を絶えなかった。さらにシラミにたかられ、それが運ぶ伝染病にも苦しめられた。このドイツ軍包囲の勝報は、スターリングラード市内で戦っているソ連兵にはなかなか伝わらなかった。そのため、士気の低いソ連兵多数が、包囲されているドイツ軍へ投降するという出来事もあった。無論、彼らは閉じ込められ、ドイツ軍と共に飢えに苦しむ事となった。


スターリングラード3に続く・・・

スターリングラード 1

(1941年6月21日)、300万人を越えるドイツ軍が、ソ連邦へと攻め込んだ。ソ連の体制崩壊を目指したこの大攻勢は、バルバロッサ作戦と呼ばれた。当初は破竹の勢いで進撃していったドイツ軍であるが、広大なロシアの大地で消耗を続け、12月にはソ連の首都モスクワを目の前にして、その進撃は食い止められてしまう。消耗し尽くしたドイツ軍は、ソ連軍の反撃の前に敗退を余儀なくされた。


だが、ヒトラーはまだ、ソ連の打倒を諦めてはいなかった。今度はモスクワよりもずっと南、カフカス地方とヴォルガ河にいたる南部ロシアを征服しようとの決意を固めた。東部戦線の最終勝利を目指したこの大攻勢は、ブラウ作戦と命名された。1942年6月28日)、大攻勢が開始され、ドイツ軍は昨年と同じように破竹の勢いで進撃を続ける。ドイツは軍を大きく二つに分け、A軍集団はカフカス地方の油田を、B軍集団はヴォルガ河河畔の都市スターリングラードを目指した。当初、作戦の経過は順調だった。
 

(7月)、スターリングラード攻略を担うドイツ軍は、兵員25万人、戦車750両、軍用機1,200機、火砲7,500門だった。それに対するソ連軍は、兵員17万人、戦車360両、軍用機340機、火砲8,000門だった。(8月23日)、ドイツ空軍が、スターリングラードに猛爆撃を加えた。当時、スターリングラードの人口は60万人であったが、最初の週の爆撃で4万人の死者を出した。8月後半)、ドイツ地上軍は、市の郊外に達する。(9月初旬)、ドイツ軍は自信満々だった。市攻略の主力を担う第6軍司令部には戦勝気分がみなぎり、あるドイツ兵は便りに、「スターリングラードは2、3日で陥落するでしょう」と書いている。しかし、早期攻略どころか、戦闘は激しくなる一方であった。


ソ連軍は消耗し、この時点で防衛隊は4万人ほどでしかなかったが、彼らはここがロシアの最後の防衛線であると認識し、最後まで戦い抜く決意を示していた。兵士達はロシアの国民全体の思いが自分達に向けられていると感じており、スターリングラードで戦うことに凄まじい誇りを感じていた。また、市街戦には多数の女性兵士も参加していた。ドイツ装甲師団の報告、「午後も遅くなるまで、我々は37ヶ所もの敵の高射砲陣地を相手に撃ち合わねばならなかった。敵の砲兵は粘り強い女性だったが、ついに全滅した」。


(9月13日)、ドイツ軍は市街に突入を開始する。爆撃と砲撃で崩れ落ちた建物の一角一角を廻って、独ソ両軍は熾烈な戦闘を繰り広げた。ドイツ兵の書き残し、「急降下爆撃機の地獄を思わせる咆哮、高射砲、大砲の響き、エンジンの唸る音、戦車のキャタピラが立てる雷のような音、ロケット弾の金属音、飛び交う短機関銃のせわしい音、あたりは騒音の洪水である。しかも46時中どこにいても燃え盛る街の熱に襲われる」 「負傷兵の挙げる叫び声、あれは人間の発する声ではない。傷付き苦しむ野生動物のおぞましい叫びだ」 


「衛生兵、助けてくれ!」という負傷兵の叫びは、爆撃音や瓦礫を吹き飛ばす砲弾の音と同じように日常の戦場の音となる。両軍の兵士達にとって、街中に落ちてくる砲弾は何よりも恐ろしかった。爆発そのものも危険であったが、高層ビルに当たれば、砲弾の破片やレンガなどが凶器となって上から大量に降り注いでくるのだ。市街は、始終舞い上がる煙や土埃によって霞み、死体や物の焼ける異様な臭気が立ち込めた。


ヴォルガ河は、湖を思わせる広大な河だった。夜間、船に乗ったソ連の増援部隊が、赤黒く燃え盛る市街地へと送り込まれて行く。巨大な炎がビル群の抜け殻を映し出し、夜空に火の粉を舞い上がらせる。兵士達は、船から鉄兜だけを出して、西岸の燃え盛る建物を睨み続ける。河にはドイツ軍の銃砲弾が絶え間なく飛来して水柱が上がり、直撃を喰らって沈没する船もある。この地獄のような光景を見て、怖じ気をふるう兵士もいた。しかし、船には政治将校が乗り込んでおり、川に飛び込んで逃れようとする者がいれば、容赦なく射殺する構えをとっていた。


至近弾があってパニックに陥る兵士がいれば、政治将校は即刻、射殺して死体を河に投げ落とした。岸が近づくにつれ、焼け焦げた建物と腐った死体の悪臭が漂ってくる。彼らは上陸するや否や、駆け出して、「ウラー(万歳)!!!」の叫びと共にドイツ軍に突撃していった。スターリングラードの凄まじい消耗戦を物語る事例がある。ソ連親衛第13狙撃師団は、増援として市街戦に投入されたが、第13狙撃師団は西岸に渡った最初の24時間で30%が死傷し、スターリングラード戦が終わった時点で1万人いた部隊の内、生き残った者は320名に過ぎなかった。


(9月中旬)、急に気温が下がり、霜が降りてくる。過酷なロシアの冬が近づいていた。だが、そのような事はおかまいなしに、市内では果てしない消耗戦が続いていた。壊れた建物や掩蔽壕、地下室や下水道で、近接戦が繰り広げられた。両軍の兵士は共に、疲労、緊張、憤怒で神経が昂ぶっており、ろくに捕虜も取らずに相手を撃ち殺していった。ドイツ空軍が爆撃して破壊した建物が、皮肉にもソ連軍に格好の待ち伏せ場所を提供していた。ドイツ軍将軍の手紙、「敵は目に見えない。地下室、崩れた壁の陰、掩蔽壕、工場跡に待ち伏せて攻撃してくるので、我が方の損害は甚大だ」。ソ連軍は、ドイツ軍を絶え間ない緊張状態に陥れて心身を消耗させようと、夜襲を繰り返した。さらにソ連空軍は毎晩、ドイツ軍陣地に爆撃を加えた。


あるドイツ軍部隊の報告、「部隊は不眠不休の有様だ。もうすぐ彼らの体力は完全に消耗するだろう」。ドイツ軍の中には戦闘のストレスに耐え切れず、自傷行為を行う者や自殺をする者が絶えなかった。一方のソ連軍の方も消耗し、疲労しきっていた。高い士気を保っている兵士もいたが、恐るべき戦闘の重圧に耐えられない兵士も大勢いた。このスターリングラード戦全体で、ソ連軍は脱走・寝返り・自傷行為・無能・臆病などを理由に13,500人余の自軍兵士を処刑している。


スターリングラード2に続く・・・

ドイツを目指した日本潜水艦「伊52」 4

ドイツを目指した潜水艦「伊52」1から御覧になってください


(6月24日午前0時28分)、護衛空母ボーグから、アベンジャー17号機が飛び立った。機長はウィリアム・ゴードン中尉で、テイラー機に代わって現場を探索するために派遣されたのだった。そして、ソノブイが潜水艦を探知すれば、直ちに魚雷攻撃をするよう命令されていた。この機体には機長のゴードン、銃手と無線員、そして、民間人のブライス・フィッシュ技師の合わせて4人が乗り込んでいた。通常、アベンジャー雷撃機は3人乗りであるが、最新兵器である音響探知機ソノブイと、音響追跡魚雷マーク24の組み合わせ攻撃を確実とするため、水中音響の専門家であるフィッシュ技師に同行を要請したのである。(0時55分)、ゴードン機が現場海域から16キロ付近に接近すると、フィッシュ技師はソノブイに微かなスクリュー音が入ってくるとゴードンに伝えた。


(午前1時)、ゴードン機は現場海域に到着する。ソノブイからは、微かなスクリュー音が聞こえ続けた。ゴードンは更に3つのソノブイを投下して、その音に耳を傾ける。(午前1時45分)、1つのソノブイの音が明らかに強くなった。それは北に浮かぶソノブイからであり、潜水艦が北に移動している事が分った。ゴードンは中央の目印と、北のソノブイの中間に魚雷を投下する事を決める。


高度100メートルから、魚雷を投下しようとした時、北のソノブイの反応がより強くなった。(1時54分)、ゴードンは潜水艦が狙いよりやや北に進んだと判断し、投下場所を北方にずらして魚雷を発射した。魚雷は17分間走ると、バッテリーが切れて沈没してしまう。しかし、魚雷が疾走して、17分経っても爆発は起こらなかった。ところが18分後、突如爆発が起こり、それから30秒間に渡って爆発音が響いた。その時の音が、ソノブイ・レコーダーによって録音されている。


まず、伊52のシュッシュッシュッシュッという水を切るスクリュー音がしばらく続く。そして、急にドーン!という爆発音が大きく響き渡った。テープには爆発音と共にパイロット達の会話も録音されていた。

「見えないな」

「黙れ!」

「やったぜ!あの野郎に命中した!」

やがて艦体がきしむ金属音と、空気が漏れる音が聞こえ始める。伊52は艦体に致命的な打撃を受けていた。爆発の音が静まると、今度は艦体が水圧によってつぶれる音が聞こえ始めた。

「何か聞こえるぞ、ブリキ缶を踏み潰す様な音だ」

「潜水艦が壊れる音じゃないか?」

金属がクシャクシャと潰れる音が続き、しばらくして鈍い爆発音が響いた。そして、短い2度の爆発音を最後に静寂が訪れた。テープはここで終った。


(6月24日)夜明け、波静かな海面には油が広がっていた。対潜部隊は撃沈の確証を掴もうと、現場海域を捜索した。捜索に当たった駆逐艦からは、以下のような漂流物が回収された。艦の外板・日本語が書かれた木片・サンダルの片方・天然ゴムの塊多数・ゴム片からはがした髪の毛・絹の破片・人肉の大きな塊一つ。駆逐艦は、現場海域に多数のサメがいると報告した。これは、明らかに人間の死体に引き寄せられたものだった。(人肉の解剖所見)、これは腕の肉のようである。浅黒いのでドイツ人ではなく、日本人のものであろう。体毛の質が良く、数も少ないので若い日本人と見られる。(毛髪鑑定)、黒い直毛。約15センチの毛が多い。毛にこれといった特徴は無いが、状況からいって日本人のものと思われる。


伊52には、民間の技術者達も乗り込んでおり、その遺書が残されている。まだ幼い自分の子供のために残していった遺書である。

「郷照さん 御父さまより
お父様は、日本が戦争に勝つため、大事なお仕事をするため、お国の言いつけによって、遠い所に行きます。戦争をしながら行くのです。郷照も、お父様やまさるのおじ様に負けない、立派な日本の子供にならなければいけません。お母様のお言いつけと、先生の教えをよく守り、勉強も、遊びもお手伝いも、友達との力比べも、誰にも負けぬ、強い賢い子供になるように自分で自分の事を考えて、頑張りなさい。
のぶ子とひさ子には、お兄さんから、話してあげてください。 おわり。」


それにしても、1944年8月前後に届けられた、謎の到着信号は何だったのだろうか?想像力を膨らませてみれば、伊52は1944年6月24日に沈没したものの、乗員の魂はブレストまで到着し、それを知らせたのであろうか・・・


伊52は現在、大西洋アゾレス諸島北方、北緯15度15分、西経39度55分、深度5千メートルの海底に眠っている。


日本潜水艦による訪独作戦は、合計5隻で行われた。


「伊30」 (1942年4月11日)呉を出港。(6月18日)マダガスカル島東岸で通商破壊任務に従事中、訪独任務を受ける。同島沖にて給油を受けた後、出発。(8月6日)ロリアン到着。(8月23日)ロリアン出航。(10月8日)ペナン到着。(10月13日)シンガポールにて機雷に触れ沈没。乗員14人が死亡。

「伊8」 (1943年6月1日)呉を出港。 (6月27日)ペナン出航。 (8月31日)ブレスト到着。(10月5日)ブレスト出航。(12月5日)シンガポール到着(12月21日)呉に到着。唯一の訪独作戦成功艦となる。

「伊34」 (1943年10月13日)呉を出港。(11月11日)シンガポール出航。 (11月13日)ペナン島沖にてイギリス潜水艦の待ち伏せに遭い撃沈される。乗員85人が戦死。水深が35メートルと浅かったため、14人が助かった。

「伊29」 (1943年11月5日)呉を出港。 (12月16日)シンガポール出航。(1944年3月11日)ロリアン到着。 (7月14日)シンガポール到着。(7月26日)バシー海峡にてアメリカ潜水艦の待ち伏せに遭い撃沈される。乗員110人余が戦死。

「伊52」 (1944年3月10日)呉を出港。 (4月23日)シンガポール出航。(6月24日)大西洋上でアメリカ空母によって撃沈される。乗員125人とドイツ人3人が戦死。


主要参考文献「消えた潜水艦イ52」

ドイツを目指した日本潜水艦「伊52」 3

(6月22日)、この日、伊52はドイツ潜水艦U530と会合して、レーダー逆探知装置を受け取らねばならない。大西洋は多数の連合軍機によって、常に監視されている。敵機の接近を事前に察知するレーダー逆探知装置を装備せねば、伊52のロリアン到着は望めなかった。そのため、この装置を受け取る事は最優先事項であった。伊52とU530は会合点付近の海域に到着したが、生憎、この日は両艦とも、お互いを見つける事は出来なかった。(翌6月23日午後20時20分)、両艦は無事会合に成功し、早速、レーダー逆探知装置がゴムボートで伊52に届けられた。そして、3人のドイツ軍人も乗り移った。


U530乗員の回顧、「あの日本潜水艦はとても大きくて、美しい艦でした。ゴムボートで運んでいた木箱を落してしまうと、すぐに日本の水兵がジャックナイフの形で飛び込み、木箱まで泳いで脇に抱えると、また泳いでそれを艦に引き揚げていました」。「伊52の艦長が、我々に向かって別れの挨拶をしました。彼らは彼らの針路に進み、我々は潜水しました」
 
その後、U530は現場海域から離れたが、ほどなくして伊52からのものと思われる戦闘音を探知する。伊52が攻撃されている模様であったが、会合自体は成功したのでU530はすぐに本国に無線報告しようとした。しかし、生憎、無線機の調子が悪く、すぐに発信する事は出来なかった。


(6月27日)、U530は無線機を直し、27日になって会合成功との無線を発した。会合成功との知らせを受けて、ドイツ駐在武官室には歓声が上がり、伊52の受け入れ準備を加速する。そして、フランス北部の戦況を伊52に伝えながら、ドイツ側と最終調整を進めた。ドイツ駐在武官は、伊52が早ければ7月25日にロリアンに入港すると推察し、日本に持ち帰る品々と便乗する人員を準備をした。乗艦予定者は27名、海軍の駐在員・技術士官、日本に赴任するドイツの軍人・技術者合わせて17名と、さらに陸軍の技術士官10名が乗り込む予定であった。


(7月30日)、伊52からと推定される信号QWFを受け取った。この信号は、指定された合流点に36時間で到着するというものである。(8月1日)、伊52を迎えるためドイツ護衛艦隊が出港し、午前4時と、午後23時にロリアン港外の指定場所で待機したものの、この日は合流する事は出来なかった。日本人一行も朝から到着をずっと待っていたが、引き返さざるを得なかった。日本人一行がいったん基地内に戻ると、そこは大混乱の極みにあった。フランス北部のドイツ軍戦線が破綻し、ロリアンは孤立しつつあったのだ。そこで、一行は包囲網に捕らわれる前にパリへと引き揚げていった。この後、ロリアンは1944年8月7日から1945年5月に降伏するまで、連合軍に包囲される事になる。


伊52からと思われるQWF信号は、8月1日にも何回か受信された。したがって8月2日にもドイツ艦隊は出港して待機したが、またもや合流出来なかった。(8月3日)、ドイツ海軍は伊52に向けて、「護衛艦は4日の午前4時30分に合流点で待つ。合流出来ない場合は理由を報告せよ」と発信し、ドイツ駐在武官も艦長宛てに直接、メッセージを送った。だが、返信はなかった。


(8月8日)、ドイツ駐在武官からの指令、「貴艦よりの連絡はないが、我々は無事を祈っている。急速に戦況が悪化しているため、ロリアンや他のフランス沿岸の港に入る事は危険になった。針路を変えてノルウェーのトロンヘイムかベルゲンに進め。貴艦の状況をできるだけ早く報告せよ」。しかし、伊52から返信が帰って来る事はなく、その消息は完全に途絶えた。


このQWF信号は、連合軍の発した偽の電文であった可能性がある。しかし、連合軍の行動を見ると、その推測とは矛盾する事が多い。誰が?何のために ?この到着信号を発信したのかは、現在でも謎のままである。だが、この謎の信号は、伊52が発したものでない事だけは確かである。彼らはこの時、無線を発しようがなかったのだ・・・


伊52はどうなったのであろうか?(6月23日)、伊52はU530と会合している時、アメリカ対潜部隊(護衛空母ボーグと5隻の駆逐艦)によって追跡されていたのである。暗号を解読しているアメリカ軍は会合点に対潜部隊を差し向け、2隻の潜水艦を葬り去ろうとしていた。23日、ボーグは夜明け前の午前3時から、4時間おきに航空隊を発信させて探索する。その内の1機、ジェシー・テイラー少佐が操縦するアベンジャー雷撃機はボーグの南西海域を探索していた。


月のない漆黒の闇夜だった。離陸から1時間半後、テイラー機はレーダースコープに僅かな反応を捉えた。八木アンテナを調整するとレーダースコープに小さな光点が輝いた。目標までの距離は約16キロであった。テイラー機は目標まで、1.6キロに近づくと、照明弾とソノブイを投下した。ソノブイとは当時の最新兵器で、海上に浮かぶブイに海中の音を捕らえるソナーを組み合わせた、画期的な潜水艦探知装置である。そして、このソノブイがとらえた音の強弱によって、潜水艦のおおよその位置を特定し、正確な攻撃を加える事が出来るのだ。


(午後11時45分)、テイラー機は目標まで1キロを切った時、再び照明弾を投下した。すると、そこには、これまでに見た事もない巨大潜水艦が浮かび上がった。それは、艦首と艦尾が異様に細く尖っており、ドイツのUボートとは違って、カモフラージュ用の塗装も表示もない真っ黒な潜水艦だった。潜水艦の上空を通過したテイラー機は旋回し、潜水艦の左前方に進んでから、左舷艦首に向けて直進する。そして、高度90メートルまで急降下しながら爆雷2個を投下した。


この時、潜水艦は急速潜航中であり、艦尾と艦橋だけが水上にあり、白い航跡を引いていた。爆雷の1発は艦橋の右6メートル付近に、もう1発は15メートル離れた場所で炸裂し、巨大な水柱が艦橋を覆い尽くした。テイラー機は2個目のソノブイを投下し、音を探ると大きなスクリュー音が響いてきた。まだ潜水艦は健在であり、海中を進んでいた。海面は爆発によって波立ち、潜水艦が潜航した後には渦巻きが出来ていた。


(11時47分)、テイラー機は急旋回し、この渦巻きに向かって、マーク24魚雷(スクリュー音を探知して自動追尾する最新魚雷)を発射した。魚雷投下から3分後、ソノブイ・レシーバーから恐ろしい爆発音が響いた。潜水艦に魚雷が命中したのだ。爆発音は1分ほど続き、スクリュー音は消えた。テイラー機は、万が一潜水艦が爆破を逃れた場合に備えて、現場を囲むように更に3つのソノブイを敷設した。しかし、5つのソノブイからはその後、スクリュー音を伝えてこなかった。潜水艦は沈没したのか?それともスクリューを止め、海中で息を潜めているのか?しばらく周辺海域を監視するため、護衛空母ボーグでは後続機を送る準備を進めた。


U530乗員の回顧、「会合して、木箱を伊52に引き渡した後、すぐに我々は潜水しました。いつ飛行機が現れても、敵艦が現れても不思議ではない緊迫した状況でした。敵が交信を傍受して、この会合を知っているのではないかと恐れていました。我々の艦長は何か情報をキャッチして相当神経質になっており、早く抜け出さなければ、と言っていました。出来るだけ早く、会合点から離れました。何分経ったか覚えていませんが、少しして戦闘音が聞こえました。高射砲で撃つような音でした。狙われたのは、我々が会合したばかりの伊52のようでした。その後、ブワーンという爆発音が何回か聞こえました」


U530はこの夜、2回にわたって敵機の接近を察知したが、その度、潜水して攻撃を逃れる事が出来た。そして、浮上と潜航を繰り返しながら、危険海域からの脱出に成功した。このU530は終戦まで生き残る。


伊52は攻撃を受ける前、レーダー逆探知装置を艦に設置して、調整を行っている最中であったらしい。乗り込んだシュルツェ二等兵・ベーレント二等兵・連絡将校シャーファー大尉がその作業を指導していた。しかし、装置のテストを行うため、伊52はしばらく浮上航行を続ける必要があった。完全に調整が終らなければ、敵機が近づいてきても敵のレーダー波を探知する事は出来ない。そこをテイラー機に襲われたのである。


照明弾の投下によって伊52は初めて攻撃に気が付き、急速潜航を試みたものの、重厚長大な艦体が災いして、伊52は短時間で潜航する事は出来なかった。最初の攻撃で至近弾を受けたが、幸い致命傷には至らなかった。ようやく海面下に姿を没した伊52は、潜航しながら逃れようとした。だが、海中での動きはソノブイによって克明に捕らえられ、そして、魚雷攻撃を受けたのである。まさか、敵機がスクリュー音を聞きながら攻撃を行っているなど、伊52の乗員には知る由もなかった。


ドイツ潜水艦Uボートは敵に音を探知される事を恐れ、エンジン音が響かないようにゴムの防音材を使用するなど、できるだけ静かに進む工夫をしていた。例えば、ドイツから日本に譲渡された Uボート (日本名、呂500)を日本側が調査した際、日本潜水艦と比べて、その特色を次の様に述べている。

「呂500で水中航行中、米機グラマンF6Fからの13ミリ機銃を受けたが、弾痕は残っても致命的にはならなかった。鋼材が良かったからであろう。全体的に性能は良く、搭載機器、回転機器の発生音が静かだった。艦内音が強いと水中聴音機が聞こえにくいのだが、その点有利であった。レンズ類はドイツツァイス製でこれも良質だった。襲撃用の二番潜望鏡は内筒だけが上下する油圧式で、操作が楽だった。受信機はドイツテレフンケン社の物、方位盤、魚雷発射指揮装置などはコンパクトにできていた。生ゴムなどの資源がないためか、配線は省略してある。食生活は日本の方が豊富で、水の消費量も日本の方が多かった」


しかし、日本潜水艦には騒音を減らすような工夫が欠けていた。伊30・伊8・伊29など、日本潜水艦がドイツに到着した時、ドイツ海軍関係者は、「こんな大きな音を立てながら、よく無事に到着したものだ」と変に感心したものだった。「日本潜水艦は、水中で太鼓を叩きながら進むようなものだ」とも言った。日本の最新潜水艦であった伊52も世界標準から見れば、旧式艦であったのかもしれない。だが、自動追尾魚雷・ソノブイなど最新技術を駆使したアメリカ軍によって、沈められたかに見えた伊52は損傷を受けながらも、まだ息があった。艦内では生き残るため、任務を完遂するため、乗員達は必死になって損傷修理をしていたと思われる。そして、伊52のスクリューは再び動き始めた。

4へ続く・・・
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重家 
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