このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
(12月12日)、フォン・マンシュタイン元帥率いるドイツ軍が、南から包囲網を解囲するための攻撃、冬の嵐作戦を発動する。孤立地帯のドイツ軍兵士は口々に「マンシュタインが救援に来るぞ!」と言い合い、目を輝かせた。しかし、この作戦もソ連軍の激しい反撃を受けて頓挫し、(12月23日)、マンシュタイン率いるドイツ軍は退却していった。孤立地帯のドイツ軍及び同盟軍は、ロシアの奥地に完全に取り残された。
(1942年12月)、孤立地帯のドイツ兵達は、寒気・栄養失調・砲撃・感染症で次々に倒れていった。それでも兵士達はクリスマスを祝うため、乏しい食料から少しずつ取り置きをするようにした。(12月24日)、クリスマスイブの日の気温は、零下25度であった。兵士達は薄暗い壕の中、かすれ声で、「清しこの夜」を歌った。大勢の兵士達が故郷を思って忍び泣いた。このような状況であったにも関わらず、ある兵士は、「今年のクリスマスはこれまでで、一番美しいクリスマスの一つでした。僕は一生忘れないでしょう」と述べている。
しかし、クリスマスの早朝から猛烈な砲撃にさらされた部隊もあった。最後に残ったシャンペンを開いて、今まさにグラスを上げようとした時、砲弾が立て続きに落下して、皆は一斉に地に伏せた。そのため、せっかくのシャンペンはこぼれてしまい、死傷者も出る事態となった。年が明けて(1943年1月6日)、気温は零下35度まで低下した。大草原に野ざらしのドイツ兵達は次々に死んでいった。第6軍司令官パウルスの報告、「軍は飢え、凍っている。弾薬なし。もはや戦車を動かせない」 軍医の書き残し、「第一の敵は飢えだ。相変わらず飢えだ!」
(1月10日)、孤立地帯のドイツ軍に対し、ソ連軍の総攻撃が始まる。ドイツ軍は痩せ衰えていたが、驚異的な抵抗を見せる。最初の3日間で、ソ連のドン方面軍は2万6千人余の兵と戦車の半数を失った。しかし、それでもソ連軍の勢いは止められず、ドイツ軍の戦線は次々に突破されていった。その頃、孤立地帯の飛行場では、この地獄から逃れようとする兵士で溢れかえり、混沌の極みにあった。輸送機が着陸する度に負傷兵達は、他者を押し退けて我先に乗り込もうとする。憲兵は制止しようと、しばしば群集に向けて発砲したが効果はなかった。そういった合間にもソ連軍の爆弾、砲弾が着弾し、大勢が死んでいった。運良く輸送機に乗り込めたとしても、負傷者を満載した結果、重過ぎて墜落したり、ソ連軍に撃墜される機が後を絶えなかった。
大多数の負傷兵は輸送機に乗れず、そのまま置き去りにされた。負傷兵達は幾日も食べ物を口にしておらず、絶望の嘆き声を上げていた。孤立地帯の状況を報告するため、第6軍の将校が輸送機に乗り込んで西方のドイツ軍戦線に到着した。その将校と謁見した将軍と副官は、その姿を見てびっくり仰天した。将軍と副官は染み一つないきれいな軍服に身を包んでいたが、その将校は頬はこけ、髭は伸び放題、服は汚れきってシラミがたかっていた。足元は凍傷を防止するため、ぼろを巻きつけていた。副官はまじまじと将校を見つめた挙句、恐る恐る彼と握手した。
(1月17日)、孤立地帯の西半分はソ連軍に制圧された。大草原から10万人余の兵士が、よろよろと瓦礫の都市に退却していった。多くの兵士は赤痢、黄疸などの病気に罹っており、顔は緑黄色をしていた。追撃するソ連軍の報告、「猛烈な寒さだ。凍るような空気は鼻のあたりで氷になる。歯が痛くなる。凍結したドイツ兵の無傷の死体が道端に並んでいる。彼らを殺したのは我々ではない。寒さの仕業だ。長靴も上着も粗末で、軍服の上着は紙のように薄い。雪の上にはいたる所に足跡がある」
スターリングラードの廃墟の地下には、2万人余の負傷兵と4万人余の病人が詰め込まれた。うめき声、助けを求める叫び、祈りの言葉が、爆撃の轟音に混じって聞こえた。(1月31日)、ドイツ軍は分断され、市街地の一角を辛うじて保つのみとなる。ドイツ軍の全滅は、間近に迫った。追い詰められ、憔悴しきった第6軍司令官パウルスは、とうとうソ連軍に降伏を申し入れた。
それを受け、痩せ衰えた兵士達は降伏の証拠として、両手を高く上げて地下室や掩蔽壕からよろめき出た。ひどい凍傷のため、歩くのがやっという兵士が大勢おり、そのほとんどが足指か足の爪がなかった。あるソ連軍将校は捕虜達の前に立ちはだかり、周囲の廃墟を指差して、「ベルリンもこうなるのだ!」と叫んだ。
スターリングラードで捕虜となったのは、13万人余(ソ連側の発表によれば9万1千人)であった。11月22日に包囲されて以来、15万人以上の兵士が死んでいったのであろう。しかし、正確な数字は誰にも分からない。過酷な戦いを生き抜いて捕虜となっても、さらに過酷な運命が彼らを待っていた。
ソ連軍では、自軍の兵士に給養する食料でさえ欠乏していた。そのため、ドイツ軍捕虜に与える食料など、ほとんどなかった。ドイツ兵捕虜の内、半数は春を待たずして死んだ。スターリングラードで捕虜になったドイツ兵で、戦後、東ドイツに生還したのは5千人余だった。ドイツ軍に協力したヒーヴィも相当数が捕虜となったが、ほぼ全員がソ連に抹殺されたと考えられる。
このスターリングラード戦全体で、ソ連は110万人余の死傷者を出し、その内、48万5千人余が戦死した。ドイツと同盟国は50万人余の兵士を失った。ソ連側の方が人的損失は大きかったが、ドイツ側にとってこの損失は許容できる範囲を超えていた。この破滅的な損害を受けた結果、東部戦線の主導権はソ連側が握る事になり、さらには第二次大戦の転換点ともなった。
(1943年2月2日)、市内での戦闘は完全に終息し、瓦礫の街を静寂が包んだ。しかし、破壊音と戦闘音に慣れてしまった人々には、この静けさは異様に感じられた。かつてスターリングラードは美しい都であったが、それを偲ばせるものはほとんど残っていなかった。唯一、往時を偲ばせるものは噴水池だった。形を留めた少年少女の像が池の周りを踊っている。しかし、市街の瓦礫の下には、幾万もの女子供が原形を留めずに埋もれていた。
何十年経っても、スターリングラードで建設作業を始めれば、必ずと言っていいほど、戦闘の名残の死体が発見された。スターリングラードは現在ではボルゴグラードと改名され、百万人が住む大都市として復興を遂げている。しかし、郊外に広がる原野には、生々しい激戦の跡が今でもそこかしこに残っている。
主要参考文献、アントニービーヴァー著「スターリングラード」