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根来寺

根来寺は和歌山県岩出市にある寺院です。


根来寺は、大治元年(1126年)、覚鑁(かくばん)上人によって開かれる。根来寺はその後、学問の寺として栄え、真言宗三大学山の一つとして全国から学問を志す僧侶が集まったとある。寺は年代を重ねるごとに栄え、警固のための僧兵の勢力も強大となっていった。戦国時代、根来寺は周囲の山々も取り込んだ一大城郭となり、更にいち早く鉄砲を取り入れて、強力な武装集団となる。「鉄砲記」によれば、天文12年(1543年)、鉄砲伝来のこの年、種子島にいた津田監物算長なる根来寺僧兵が、島の領主、種子島時尭から鉄砲を一丁譲り受けたとある。


算長はこの鉄砲を紀州に持ち帰り、鍛冶職人、芝辻清右衛門に複製させる。根来はもともと高度な技術を要求される宮大工、鎧鍛冶が多くいた事から、たちまちのうちに高度な鉄砲製造技術が確立された。日本最古の砲術、津田流を開いたのは津田算長とされており、その指導を受けて、根来寺僧兵による鉄砲隊も編成された。この鉄砲製造技術は、根来とは目と鼻の先にあり、かつ血縁関係も深い雑賀にも伝わっていった。かくして、紀州には鉄砲隊を主力とした、真言宗根来衆と、一向宗雑賀衆の二つの強力な武装集団が誕生する。しかし、両者は度々、対立関係となった。これは宗旨の違いに加え、勢力、利権争いなども絡んでいたのだろう。


根来寺はその勢力を紀伊、和泉、河内にまで及ぼし、周辺の戦国大名の戦にも介入するようになった。永禄5年(1562年)には、畠山高政に協力して久米田の戦いに参加し、敵方の三好義賢を鉄砲で討ち取っている。天正4年(1576年)には織田信長に協力して、本願寺攻撃に参加し、天正5年(1577年)の信長の紀州雑賀攻めにも協力している。しかし、根来寺は信長没後の天下人、豊臣秀吉に楯突いたことから、天正13年(1585年)、10万人余の大軍勢による征伐を受け、一部の建物を除いて全山灰燼となって滅んだ。現在の建物のほとんどは、江戸時代に徳川氏の援助を受けて建てられたものである。



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↑根来寺大門

根来寺は桜の名所でもあります。


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↑大塔

この塔は明応5年(1496年)に建立され、国宝に指定されています。この塔は、紀州征伐による焼打ちの難を逃れました。


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↑興教大師覚鑁(かくばん)上人の御廟所

奥の院にあり、根来寺でもっとも神聖な場所であります。


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↑本坊内にある庭園


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↑聖天堂
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