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決死の島抜け行「黒瀬川を越えて」

2011.06.11 - 歴史秘話 其の一

江戸時代後期、下総国佐原村に佐原喜三郎と云う侠客がいた。喜三郎は地元の裕福な大百姓、本郷武右衛門の子として生まれた。この本郷家の跡取りと期待されていた喜三郎は、成人してから江戸にある普化宗一月寺に入門し、高僧からの指導を受けて修行を始める。しかし、どこで道を間違えたのか、賭博にはまって侠客となり、やがて佐原に戻って胴取り親分となった。そして、渡世上の争いで人を殺めてお縄となり、天保8年(1837年)に伊豆諸島の八丈島に流刑となったのだった。だが、喜三郎には島で朽ち果てる気は毛頭無く、船で運ばれている最中からすでに島抜けを考えていた。


喜三郎はやくざ者とは言え、非常に頭が切れる上、高僧からの教えもあって教養も深かった。それに喜三郎の出身地、佐原には日本地図の大家、伊能忠敬の本家があって、忠敬が描かせた、「伊豆七島実測図」をどこかで見て、それを頭に記憶していた模様である。伊能地図は門外不出の幕府の極秘事項であったが、喜三郎は佐原の実力者であったから、見る事が出来たのだろう。喜三郎は八丈島に到着すると、朝日象現と称する虚無僧に成りすまし、島内を徘徊しては気象や海流の観測をして回る。その最中に出会ったのが、花鳥と云う女流人だった。花鳥は吉原の遊女出身で、13歳の時、苦界から逃れようとして放火し、15歳になった時点で八丈島に流されてきたのだった。


喜三郎は義太夫、新内(どちらも浄瑠璃)の名手であり、花鳥は三味線が得意であったから、2人はすぐに意気投合する。この時、喜三郎は32歳、花鳥は24歳、2人が恋に落ちるのに時間は要せず、同居生活が始まった。やがて喜三郎を中心に7人の流人が集い、お互いの結束を固めつつ、島抜け計画が進められていく。花鳥も江戸の両親に会いたい一心から、この謀議に加わった。そして、天保9年(1838年)7月3日、黒潮を乗り切るに足る順風が吹き始めると、喜三郎は頃合は良しと見て、帆柱2本、櫂8本の漁船を盗み出すと、外海へと乗り出した。いよいよ、前代未聞の島抜け劇の始まりである。だが、一行の前には、最初から大きな難関が待っていた。それは、八丈島からその北にある御蔵島までの距離、80キロ間を流れている黒潮の奔流、黒瀬川である。


黒瀬川は時速7~13キロで流れており、当時、多くの船がこれに捕まって難破したり、漂流の憂き目にあっていた。八丈島の島唄にも、「鳥も通わぬ八丈島を 越えよと越さぬ黒瀬川」と歌われている。喜三郎らは、これを数人乗りの小さな舟で乗り切らねばならないのである。だが、喜三郎の頭の中には、かつて見覚えた詳細な日本地図、「伊豆七島実測図」があり、それに日頃の観測結果と、情報収集を加えた結果、勝算ありと踏んだのである。この賭けは見事に当たり、慣れた漁師ですら月に3日しか渡れないと云う黒瀬川を突っ切る事に成功する。そして、舟は順風に乗って、2日間で80里(約320キロ)も走破した。


だが、7月4日、大島の付近で嵐に襲われ、帆柱が折れて舟は漂流状態となってしまう。翌7月5日以降も嵐は続き、木の葉の様に揺れる舟から、2人の流人が流されていった。7月7日、なんとか嵐を抜けて、舟は房総半島沖を漂流する。この時、2人の流人が陸地を求めて泳いでいったが、この2人も行方不明となった。7月8日、北東の風に乗って、船は銚子の犬吠崎(いぬぼうさき)を越え、鹿島灘に入った。そして、7月9日、鹿島郡荒野村の浜に近づくと、喜三郎らは船を寄せて座礁させ、とうとう本土に帰り着いたのだった。この7日間の航海で4人が死んだり行方不明となったが、喜三郎と花鳥、仲間の流人1人は生き残ったのだった。江戸から遥か南にある八丈島からの島抜けは、25件確認されているが、成功したのはこの佐原喜三郎だけの様である。


体力を消耗してふらふらになっていた喜三郎らは、浜で出会った1人の漁師に助けを求め、しばらくそこの納屋で介抱を受けた。7月12日、体力を回復した喜三郎らは、その故郷である佐原村へと向かった。翌7月13日、喜三郎は佐原村に着くと、かつての子分の世話になりながら身を潜め、おりしも危篤になっていた父、武右衛門との再会を果たす。武右衛門は思わぬ息子との再会を喜んだ後、翌月に息を引き取る事となる。しかし、佐原にも間もなく島抜けの噂が流れ始め、危険を察知した喜三郎は7月22日に江戸へと向かう。 翌7月23日、喜三郎らは江戸に入り、そこで花鳥は十数年ぶりに両親との再会を果たしたのだった。


2人はしばらく江戸に身を潜ませつつも、幸せな日々を送った。しかし、潜伏していた浜町にも喜三郎らの噂が流れ始める。 10月3日、危険を感じた2人が今まさに西国に逃れようとしていたところへ、役人に踏み込まれ、あえなく御用となった。幕府は、不可能と思っていた八丈島からの島抜けに驚き、2人を詳細に取り調べた後、極刑に処する事を決定した。 そして、3年後の天保12年(1841年)4月、花鳥は江戸市中引き回しの上、斬首となった。享年27。 だが、喜三郎の方は、子分から送られてくる見届け物に物を言わせて生き延び続ける。


喜三郎は、前代未聞の島抜けを果たした者として、皆から一目置かれており、推されて牢名主となった。それからは真面目に務め上げ、治安を安定させ、病を患った囚人を看病したりして、牢内の信望を得る。そして、火事の際、喜三郎が預かる牢から解き放たれた囚人が、全員立ち戻ってきた功を評されて永牢(無期懲役)に減刑された。喜三郎は悪賢いが、侠気があって人を惹きつける魅力があったのは確かであった。しかし、喜三郎は長い牢生活と、病人の囚人を看病し続けた事によって結核を患ってしまう。 やがて喜三郎は、自らの実体験を詳細に描いた記録本、「朝日逆島記」を牢内で書き上げる。それを奉行所に提出した結果、大変な評価を受けて、弘化2年(1845年)5月9日、ついに出獄を許される身となった。


命懸けの島抜けを果たし、その後、捕まって恋人は刑死し、自らも刑の執行を待つばかりであった死罪人が、とうとう自由の身となったのである。この時、喜三郎は40歳、かつての子分達から続々と見舞い品が届けられ、久方ぶりに娑婆の空気も味わった。しかし、喜三郎の強運もここまでだった。喜三郎は病を悪化させ、出獄1ヶ月にして病死してしまう。一方、喜三郎らと共に島抜けした流人の1人は、その後も捕まっておらず、真の島抜け成功者となっている。この喜三郎と花鳥の島抜けは人々の語り草となって、小説や演劇のモデルとなった。


流人となった者のほとんどが一度は心に抱くもの、それが島抜けである。島抜けこそ流人の花であったが、それは死と隣り合わせの仇花でもあった。成功率は千分の一程度で、失敗すれば極刑が待っている。それでも多くの流人が、飢餓から逃れんとして、親兄弟に会わんとして、自由の身にならんとして、海を漕ぎ出していった。だが、そのほとんどが、無残な末路を辿ったのだった。





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