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カリブの海賊

2011.06.17 - 歴史秘話 其の二
カリブ海とは、北は大アンティル諸島のキューバ、ドミニカ、西は中央アメリカのコスタリカ、ニカラグア、南は南米のベネズエラ、コロンビア、東は小アンティル諸島までを範囲とする海域である。 かつて、この海域は、先住民が小舟に乗って漁をしたり、ささやかな貿易をするのみであった。しかし、そこへヨーロッパ人が大船に乗って現れると、平和な海はたちまち激変する。ヨーロッパ人は先住民を虐げるばかりか、列強と海賊が相争う、修羅の海となったのである。その切っ掛けとなったのがヨーロッパ人による、アメリカ大陸発見と植民活動である。


1492年、コロンブス率いるスペインの船団が、アメリカ大陸に達した。ヨーロッパの人々は、これを快挙と捉えて、興奮の渦に包まれた。しかし、アメリカの先住民にとっては、悪夢の始まりとなった。そして、これ以降、スペイン人は大挙として中南米に押し寄せ、先住民達を虐げつつ、無慈悲な征服活動を進めていった。スペインは、1521年にはアステカ帝国を、1533年にはインカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中にした。更に1545年、南米(現在のボリビア)でポトシ銀山が発見されると、大量の銀が産出されるようになった。こうしてカリブ海一帯は、金銀財宝をヨーロッパへと運ぶ船で満ち溢れるようになる。財宝目当てに多くのスペイン人が中南米に渡り、各地に植民都市を建設していった。


しかし、財宝に惹き付けられたのはスペイン人だけではなかった。富を独り占めにはさせじとフランスが、次にイギリスが、17世紀からはオランダが、それぞれ私掠船を派遣してスペイン船を襲撃するようになる。私掠船とは、国家公認の海賊である。それだけでなく、財宝の噂を聞き付けたヨーロッパ各地のあぶれ者達が、中南米に殺到するようになり、彼らも海賊となってスペイン船を襲うようになった。これら海賊や私掠船の集団は、「バッカニア」と総称されて、恐れられた。スペインも対策として輸送船に軍艦を付けて護送船団を組んだり、軍を派遣して海賊の根拠地を攻撃したりしたが、海賊行為は激しくなる一方であった。


17世紀、カリブの海は、勇猛かつ貪欲な海賊で満ち溢れるようになった。彼らの激しい海賊活動によって、スペインの植民地支配が揺るぎ出すと、ヨーロッパ列強は割り込む様に各地に拠点を築いていった。カリブ海の中核となる西インド諸島には、フランス人やイギリス人が植民するようになり、さらにアフリカから連れられてきた奴隷によって人口は急増した。これらの人々の多くは、社会の最底辺に位置しており、容易に海賊行為に走った。また、当時の商船の多くは傲慢で残忍な船長の下、船員は過酷な扱いを受けていたので、彼らも海賊に加わる事が多かった。


海賊の国籍は様々で、ヨーロッパ各地の白人、アフリカの黒人奴隷、白人と黒人の混血、南米の原住民など、非常に国際的であった。海賊船の乗員の大抵は20代の若者で、船長になる者は、30代から40代くらいだった。そして、大部分の海賊は独身だった。海賊となった者の多くは、社会の圧制から逃れて来た者達であり、彼らは権威に縛られる事を大変嫌った。しかし、中には海賊の捕虜となり、仕方なしに仲間になる事を強いられた者もいた。彼らは自分達の自由を守るため、民主的な方法で組織を運営している。例えば、ヨーロッパの海軍が会議をする際には、参加を許されるのは士官のみであったが、海賊の場合は全乗員が参加する事が出来た。


船長は多数決で選出され、同じく多数決で罷免する事も出来た。船長に次ぐ地位である操舵手は、乗員の代表でもあった。船長、操舵手、外科医、船大工などの少数の熟練した技術者には、多めの略奪品が分け与えられたが、それ以外は全乗員に公正に分配されるのが基本であった。しかし、獲物が無けらば、もちろん報酬などは無い。海賊とは、博打打ちのような職業であった。それでも、海賊ならではの保障もあった。当時の国家では、障害者に対する保障などほとんど無かったが、海賊では、戦闘や航海で手足を失うような者がいれば、補償金が支払われている。


海賊の乗り込む船は、全長30メートルほどの2、3百トンクラスの船が多かった。獲物と狙う相手の方が大型船である場合が多いが、大胆不敵な海賊達は度々、挑戦しては勝利を収めている。糧食や器具は、他の船からの分捕りで多くを補っていた。航海用具は貧弱で、海図も不正確なものだった。だが、彼らの技術は確かであり、経験と勘を頼りに各地を航海した。海賊が掲げる旗で有名なのは、黒の生地に二本の骨が交差する頭蓋骨である。実際には様々な絵柄であったが、黒地である事はほぼ共通していた。海賊はこの黒地の旗をたなびかせ、乗り込んでいた楽士が不気味な演奏を奏でつつ、獲物に接近する。これは、相手の恐怖心を煽って、早期に降伏させる心理的効果を狙ったものである。


海賊達は、獲物を狙う時、砲撃戦よりも接近戦を図った。船をなるべく傷付けずに、積荷ごと奪うためである。1985年、北米大陸東岸、トッド岬沖で発見された海賊船ウィダ号からは、海賊の戦術を推測できる遺物が見つかっている。船には、スペインの金貨や銀貨、腕輪や指輪などの豪華な財宝に加えて、多くの武器、弾薬類も積み込まれていた。弾薬の打ち分けは、ピストル、散弾銃、マスケット銃、それに手投げ弾だった。これらの武器は、船体をあまり傷付けずに甲板上の敵を殺傷可能であった。それと、回収された骨と衣服から推測した結果、ウィダ号の海賊達の平均身長は、165センチであった。海賊と言えば、大柄な荒くれ男と想像しがちであるが、そうでもなかったようである。


17世紀半ば、イギリスはジャマイカ島を占領し、ここにポート・ロイヤルと云う理想的な港湾を見つけた。このポート・ロイヤルは、カリブ海の海運ルートの中心に位置していた。現地のイギリス総督はスペインを苦しめてやろうと企み、周辺の海賊を歓迎して招き入れた。海賊達も拠点が得られると喜び、ポート・ロイヤルに殺到するようになる。町はたちまちの内に、略奪品の金銀で溢れかえるようになった。町には貨幣所が作られて容易に換金できるようになり、さらに居酒屋、売春宿、賭博場が雨後の竹の子の様に建ち並ぶようになった。海賊達は略奪してきた金銀を毎夜毎晩、町で馬鹿騒ぎしながら撒き散らした。こうしてポート・ロイヤルは、海賊の楽園となった。イギリスから遥々やって来たある牧師は、このポート・ロイヤルで神の教えを説こうとしたが、海賊、殺人者、売春婦などで溢れかえっている町を見て絶望し、来た船で戻ってしまう出来事もあった。


カリブの海賊は、財宝を積んだ船だけでなく、植民都市も頻繁に襲った。海賊らはカリブ海周辺の沿岸都市を襲っては、住民を虐殺暴行し、略奪の限りを尽くした。また、町を破壊しないかわりに、法外な代償金をせしめる事も多々あった。捕虜となった者は、脅しと拷問を受けて財産の在り処を吐かされ、それが身分の高い者であれば、高額の身代金が要求された。カリブの海賊は恐るべき体力を誇り、大胆不敵かつ残忍だった。時に守備隊の方が数的に優勢であっても、彼らは粘り強い戦闘力を発揮して度々、勝利を収めている。彼らの活動は現地の住民にいつまでも恐怖の記憶として残り、子孫代々に渡って語り継がれていった。


スペイン側も捕らえた海賊は容赦なく殺害していったが、それでも攻撃が収まる気配は無かった。スペイン人が目の色を変えて中南米各地の住民から巻き上げた財宝は、同じく目の色を変えた海賊によって狙われ続ける運命にあった。略奪に成功した海賊がポート・ロイヤルに凱旋すると、酒、女、博打などのあらゆる放蕩にふけった挙句、数日の内に稼ぎを使い果した。これが、典型的な海賊の生態だった。莫大な財宝を得て海賊業から足を洗い、楽隠居を決め込む者もいたが、そういった者は少数に過ぎない。海賊の職業病はアルコール中毒で、大抵、若くして死んでいった。


海賊となった者には、一獲千金を得られる機会が確かにあった。そして、スリル、暴力、酒、女を存分に味わう事も出来た。しかし、その反面、リスクも大きく、戦闘、壊血病、暴風雨、熱帯病などが頻繁に彼らを襲った。また、海賊行為を行った者が官憲に捕まると大抵は縛り首となり、見せしめとして、目立つ場所に骸骨になるまで吊るされる事になる。それでも彼らはリスクを取って、海賊行為を続けた。例え平民として生きても、支配者から搾取されて長く貧しい生活を送るだけであり、それならば太く短く、自由気ままに生きようとしたのである。


1692年、ジャマイカに大地震が発生し、ポート・ロイヤルは地震とその後に襲ってきた大津波によって壊滅した。市街の大部分は海中に没し、2千人余の人々が死亡した。この町の成り立ちを知る人々は、神の審判が下ったのだと噂した。海賊の楽園は消え去ったかに見えたが、今度はバハマ諸島の島の1つ、ニュー・プロヴィデンスが新たな海賊の基地として注目される事になる。ここはすぐさま海賊の巣窟となり、たちまちの内に居酒屋、売春宿が建ち並ぶようになった。そして、彼らの吐き出す略奪品を目当てに、多くの商人も集まってくる。ここは海賊の楽園、第二のポート・ロイヤルとなった。海賊達は、俺達が死ぬ時には天国ではなく、ニュー・プロヴィデンスに帰るのだと言った。


200年余りもの間、カリブの海は海賊達に大いなる恵みを与えていた。だが、17世紀も後半になると、その実りは乏しくなる一方となる。財宝を運ぶ船はめっきり少なくなり、それに代わって植民地産の農産物などを運ぶ船が増えるようになった。それでも海賊をするしか能のない者は、農産物や日用品などを略奪したが、それらはほとんど金にならなかった。そんな海賊達に追い討ちをかける様に、これまで海賊活動を支援してきたイギリス、フランスが方針を転換して、基地の提供を拒否するようになる。今まで我が物顔でカリブの海を闊歩してきた海賊達に、暗い影が差し始める。だが、ロウソクの最後の灯火の様に、海賊達は再び活発な活動を開始した。


18世紀前半、黒髭を代表とする勇猛果敢な海賊の首領が次々に登場して、周辺の海域を支配したのである。ニュー・プロヴィデンスを中心に、海賊達の黄金時代が幕が開く。しかし、それは30年ばかりの期間でしかなかった。この頃から、国家として強力に成長してきたヨーロッパ諸国が海賊活動を強硬に取り締まるようになり、海賊の傍若無人な振る舞いを憎んでいた人々もこれに支持を与えた。1718年11月には海賊の代表格、黒髭が討ち取られて晒され、続いて1720年代には、名立たる海賊の船長達が片っ端から殺されたり、縛り首となる出来事が起こった。これ以降、カリブ海における海賊行為は急速に尻すぼみとなってゆく。これは、一世を風靡したカリブの海賊の終わりを告げる出来事であった。



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