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首斬り浅右衛門

2011.07.03 - 歴史秘話 其の二
 江戸時代、刀剣の試し斬りと、斬首刑を専門とする特殊な一門が存在していた。試し斬りとは、処刑された罪人の死体を土壇(どだん)に載せてから、刀を大きく振りかぶって打ち下ろし、その切れ味の程を確かめる事である。現在から見れば、甚だ野蛮な行為であるが、当時は据物(すえもの)と呼ばれる武術の一種として認められており、特に将軍家のための試し斬りは御様御用(おためしごよう)と称され、名誉ある職と見なされていた。この御様御用を務めていたのが、山田一門と呼ばれる技術集団である。初代の貞武(さだたけ)から始まり、その跡を継ぐ者は代々、浅右衛門を襲名していた。


山田一門は試し斬りだけでなく、死刑執行人としても活動していた。山田一門によって斬首された罪人は数知れず、有名どころでは橋本左内や吉田松陰も含まれている。そのために人々から首斬り浅右衛門や、人斬り浅右衛門と呼ばれたのである。だが、これらは決して簡単な役目ではなかった。試し斬りをするには相当な技術が必要で、人の首を一刀両断するのも、技術に加えて、躊躇なく人の命を断つ、強靭な精神力が必要とされた。生半可な腕と心の者が首を落とそうとすれば、仕損じる事があり、そうなれば罪人に余計な苦しみを与える事になる。そのため、山田一門は厳しい修練を積み、一刀で首を打ち落とす、確かな腕を持った者を当主としていた。また、今際の際(いまわのきわ)の罪人が残す、時世の句を解するため、俳諧の修行も行っていた。この様に山田浅右衛門を襲名するには、文武両道の達人で無ければならない。しかし、山田一族から当主に足る者がいなければ、弟子の中から力量ある者を選んで養子とし、浅右衛門を襲名させて、その家風を受け継がせていった。


これらの役目は、武家政権である徳川幕府にとって必要不可欠なものであった。しかし、死を司る不浄な役目でもあったので、山田一門は正式な幕臣とはされず、浪人身分のまま雇われていた。だが、山田一門の財力は、数万石の大名並であったと云われている。山田一門は幕府、旗本、大名から依頼される試し斬り、刀剣鑑定などで相当な収入を得ていたが、それよりも巨利を得られたのが、人の内臓を用いた製薬の販売である。山田一門は御様御用の役得として、罪人の死体から肝臓、胆嚢(たんのう)を取り出して製薬販売する事を許されていた。当時、肝臓や胆嚢は、肺病に良く効く妙薬であると信じられていて、高値で出回っていたのである。


山田一門は処刑を執行し、その死体を試し斬りにし、さらに内臓を取って製薬を作る。世の人々は、山田一門の技には畏敬の念を持っていたが、その家業は忌み嫌ってもいた。しかし、山田一門に取っても、この家業は心身を著しく消耗するものであった。いくら罪人であっても人である事に変わりは無く、多数の処刑を執行した日には、体よりも心が疲れ果てて夜も眠れなかった。そのため、処刑をした日には宴会を開き、大騒ぎをして気を紛らわしていた。また、罪滅ぼしのため、罪人のための供養塔や寺院を建立したり、貧民の救済にも努めたとされている。


山田一門の家業は、武家の世が続く限りは安泰であった。しかし、明治の世を迎えると、試し斬りや人体の製薬は禁止されて、山田一門の最大の収入源が失われてしまう。それでも、しばらくは処刑執行人として斬首を担っていたが、それも明治13年(1880年)に絞首刑に切り替えられると、山田一門は完全に存在意義を失ってしまう。こうして山田一門は、武家の世の終わりと共に急速に没落してしまった。だが、その一方で、最後までその家風を守り抜いた者もいる。それが、最後の浅右衛門とも云われる山田吉亮(やまだ よしふさ)である。吉亮は安政元年(1854年)の生まれで、少年の頃から剣の才を発揮し、12歳にして斬首刑を執行したとされている。それ以来、多数の斬首刑を執行し、有名どころでは、雲井龍雄(維新の志士で元議員)や、高橋お伝(後に映画や小説のモデルとなった殺人犯)の斬首役も勤めたが、明治13年に斬首刑が禁止されると浪人となった。


吉亮は山田家から受け継いだ人胆(胆嚢)を隠し持っていて、金に困るとそれを売って糊口を凌いでいた。それでも食うに困り出すと、明治25年(1892年)、吉亮38歳の時から、知人の表具師(ひょうぐし)の職人宅を度々訪れるようになる。吉亮はここの主人からお小遣いをもらうまで、何日でも居候を決め込むのだった。吉亮の身嗜みは整っていたが、独身で洗濯をしないからか、虱(しらみ)を大量に飼っていた。主人の妻子はこの無遠慮かつ、虱を家中に撒き散らす居候を嫌っていた。吉亮は豆が嫌いであったので妻子があえて赤飯を出すと、敵もさるもの、箸で一つ一つ豆をつまみ出してから食べるのだった。だが、生真面目な一面もあり、妻子から手伝いを頼まれると、「はい」と答えて嫌な顔一つせず、仕事をこなすのだった。それに達筆の持ち主で、主人に代わって代筆をする事もあった。


毎回、布団は丁寧に折り畳み、365日欠かすことなく、袴(はかま)をきちんと着こなすなど几帳面なところがあった。体格は小柄だが、気迫が漲っているかの様な迫力があり、その鋭い眼光は、人の心底まで見透かしているかの様であった。実際、吉亮は、ある人の面相を見て死を予言し、それを的中させて一家を驚かせた事があった。普段は物静かであるが、子供が誤って袴の裾を踏んだ時には、顔に怒気を含ませ、「打首にするぞ」と凄んだ。この時の顔は、本当に恐ろしかったそうである。この家族の回顧によれば、吉亮は東京の薬屋に頻繁に出入りしていて、人胆の取引をしていたようだと語っている。その縁あってか、明治44年(1911年)に吉亮が58歳で亡くなると、葬儀は薬屋が執り行っている。



その後の山田家であるが、明治18年(1885年)、山田吉顕(よしあき)が九代目浅右衛門を襲名したものの、最早、名目だけであった。昭和に入ると跡継ぎは絶え、嫡流は途絶えてしまう。明治以降の山田一族には不幸が立て続き、病死、事故死、徴用による戦死、が付きまとった。縁起の悪さから名跡を継ぐ者はいなくなり、やがて山田家は消滅するに至った。


yoshihiro.jpg













↑山田吉亮

明治36年(1903年)12月17日、吉亮50歳時の写真と伝わる。
 
主要参考文献「大江戸残酷物語」


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Comment

無題 - 桃源児

2011.07.03 Sun 10:03 URL [ EDIT ]

首斬り浅右衛門、名前は知っていましたが、最後の浅右衛門、新たな世になり、生きるのに苦労したんですね。

Re:無題 - 管理者からの返答

2011.07.03 Sun 13:58

>桃源児さん

この山田浅右衛門は剣豪としては有名ではありませんが、代々の浅右衛門は相当な剣の腕前の持ち主であったと思われます。なまじ下手な処刑人だと、斬首を仕損じて罪人を苦しませる事になります。血生臭い役目ですが、当時の武家社会では必要な存在だったのでしょう。

無題 - (名前なし)

2014.09.14 Sun 10:28  [ EDIT ]

1903年て、コスプレ写真か。

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