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スパルタクスの乱

2010.11.01 - 歴史秘話 其の一
紀元前一世紀の古代地中海世界、唯一の超大国としてローマ帝国が君臨していた。当時のローマは、世界で最も洗練された文明の一つであった。だが、そのローマの繁栄は、多くの奴隷の苦しみの上に成り立っているものだった。紀元前一世紀、イタリア半島には、600万~700万人の市民が存在していたが、奴隷の人口も200~300万人に達していた。奴隷の人種は様々で、戦争で捕虜となって、奴隷市場に売り飛ばされた者が大半を占めていた。奴隷であっても医者、建築家、教師などの特殊技能を持った者は厚遇された。こういった上層の奴隷の中には開放され、資産を得て一般市民になる者もいた。しかし、その反面、農場や鉱山で働く下層の奴隷ともなれば、過酷な労働を課せられ、人間としての扱いは受けられなかった。そして、当時の奴隷の多くがそのような下層に属していたのだった。


下層奴隷の中には、剣闘士として戦う運命を課された者達もいた。当時のローマでは、剣闘試合が度々催され、人々の最大の娯楽となっていた。剣闘士として選ばれるのは、肉体的に屈強な奴隷である。彼らは訓練施設に送られると、剣闘士としての養成を受けた。そして、彼らは剣を手に取り、まさに命懸けの興行を演じるのだった。剣闘士の戦いは一対一が基本で、用いる武器は様々である。真剣をもって戦う以上、死人が出るのは当然だったが、負けた者が必ず死ぬとは限らず、良い戦い振りを示せば、観客の支持を受けて一命を許された。しかし、敗者が無様な戦い振りを見せようものなら、観客は親指を下に向けて罵声を浴びせかけ、容赦無く死を求めた。


紀元前73年、そのような下層に生きる剣闘士の不満が爆発する事件が起こる。イタリアカプアの町にある剣闘士養成所から、自由を求めて70人余の剣闘士が脱走したのである。この剣闘士達を率いていたのは、スパルタクスと云う男だった。スパルタクスはトラキア(バルカン半島東部の地域)出身の奴隷で、人並み優れた勇気と知恵を有し、卓越した指導力も兼ね備えていた。スパルタクスら70人余の剣闘士は、ナポリ近郊にあるヴェスビオ山に立て篭もると、周辺の農村を荒らし回りつつ、同じ境遇の奴隷達の参加を募った。ローマもこれに対し、3千人もの討伐隊を送り込んだが、少数のスパルタクスらの奇襲攻撃を受けて惨敗を喫した。このローマ軍敗れるの報は、瞬く間に周辺に広がり、付近の農場で過酷な労働を課せられていた奴隷達はこれに勇気を得て一斉に蜂起し、スパルタクスの居るヴェスビオ山へと向かったのである。


奴隷軍の規模は一挙に大きくなり、ローマも事の重大さを実感した。そこで、今度は2個軍団(約1万2千人)を送り込んだが、またしてもスパルタクスの前に敗北を喫した。ローマ軍は地中海最強であり、数的劣勢であってもその錬度と戦術によって幾度となく強敵を撃ち破ってきた精鋭である。そのローマ軍1万2千人の内、逃げ延びたのは、僅か数人であった。これでスパルタクスの名は全イタリアに響き渡り、奴隷どころか下層のローマ人まで参加するに至り、その人数は7~10万人余に達した。だが、これだけの人数が一箇所に集まると、食料の配給や全体の統率にも重大な支障を来たしてしまう。そこで奴隷軍は効率よく集団を運営するため、スパルタクス率いる本隊と、副頭目のクリクスス率いる別働隊とに分離した。この二つの集団はそれぞれ、食料を求めて各地を収奪して回ったが、ローマ軍に対しては共闘する事を約していた。


紀元前73年冬、イタリア南端のトウルィで奴隷軍の本隊と別働隊は合流すると、そこで冬営に入った。そして、ローマ軍との戦いに備えて、武器製造と訓練に励んだ。この時、スパルタクスは、捕虜としていたローマ兵に剣闘試合をさせて復讐したと云う。紀元前72年春、奴隷軍の中で、これからの進路についての話し合いがもたれ、その結果、北に向かってアルプスを越え、そこからそれぞれの故郷へと帰ろうとの結論に達した。これを受け、奴隷軍は再び本隊と別働隊とに分かれて北上を開始する。一方、ローマは断固として反乱を鎮圧する決意を掲げ、スパルタクスとクリクススらに向けて、それぞれ2個軍団ずつ差し向けた。別働隊のクリクススら3万人余は、ローマ軍2個軍団に追い詰められ、やがてその軍諸共、全滅してしまう。


一方、スパルタクスは4万人余を率いて、アドリア海沿いに北上を続けていたが、その途上でローマ軍に追いつかれてしまう。スパルタクスはローマ軍4軍団(約2万4千人)が合流する前に各個撃破を狙い、まず、クリクススを破ったローマ軍2個軍団を撃破すると、返す刀でもう2個軍団のローマ軍をも撃ち破った。スパルタクスら奴隷軍は数こそ多いが、女、子供、老人等も含まれており、装備や訓練も満足には施されていない。その軍が、装備も訓練も行き届いていたローマ軍を撃ち破ったのである。スパルタクスの卓越した統率力、軍才を見せ付けた戦いであった。


スパルタクスは、さらに北イタリアに駐屯していたローマ軍をも撃ち破り、ついに北への道を切り開いたのである。後は、アルプスを越えるのみであった。しかし、ここに来てスパルタクスら奴隷軍は、何故か、進路を南に変更する。その理由は定かでないが、女子供を引き連れてのアルプス越えは困難だったので、イタリア南部まで進んで、そこからキリキア(トルコ南部)の海賊に頼んで小アジア(トルコ)に運んでもらおうと考え直した、または、未開の貧しい土地に戻るより、豊かなシチリア島に渡ろうとした、とも云われている。


いずれにせよ、スパルタクスら奴隷軍はイタリア南端部を目指す事になったが、それは再びローマ軍と戦わねばならない事も意味していた。奴隷軍は略奪をしつつイタリア半島を南下し、シチリア島を目の前にした、メッシーナ海峡まで達する。だが、そこに奴隷軍が待ち望んでいた、海賊の船団は現れなかった。そして、それに代わって現れたのが、ローマ軍8個軍団、5万の大軍であった。最早、ローマはスパルタクスと奴隷軍を無視できない重大な脅威と断じ、総力を挙げて殲滅に取り掛かったのだった。ローマ軍は奴隷軍を包囲せんとし、一時は網の中に追い込んだが、スパルタクスらはこれを強行突破して、危地を脱した。そして、奴隷軍は海路から脱出せんと、港湾都市ブルンディシウムを目指したが、そこにもローマ軍が上陸したとの報を受ける。


前後に敵を迎え、進退窮まったスパルタクスら奴隷軍は、ローマ軍と戦わざるを得なくなった。そして、活路を見出すべく、背後のローマ軍8個軍団との決戦に臨む。一方のローマ軍の方でも、今度こそはと国家の威信を賭けて戦いに臨んでいた。両軍しばしの対峙の後、戦端が切って開かれた。奴隷軍はこの決戦に勝てば、今度こそ自由への展望が広がると信じて、突進する。第1戦は、勢いに勝る奴隷軍の勝利に終わった。だが、これは前哨戦であって、ローマ軍を瓦解に追い込むまでには至らなかった。ローマ軍の司令官は背を見せて敗走した中隊に厳罰を下し、600人の人数の内、10分の1の60人をくじ引きで選び、残りの540人が棒で叩き殺すよう命じた。これがローマ軍最大の厳罰、10分の1刑である。敗北すれば奴隷軍には死が待っており、ローマ軍も退けば過酷な刑が科せられる。こうして始まった第2戦は、奴隷軍、ローマ軍いずれも一歩も退けない激戦となった。


だが、いかに奴隷軍の戦意が高かろうとも、平原での決戦となれば、装備、訓練の行き届いたローマ軍に一日の長があった。奴隷軍が次第に劣勢に追い込まれてゆく状況を見て、スパルタクスは一か八かの賭けに出る。自ら騎兵隊を率いて、ローマ軍本営目掛けて突撃を敢行したのである。そして、見事、スパルタクスは本営付近まで斬り込み、さらに肉薄せんとしたが、乱戦の最中、ローマ兵に槍で太股を突かれて落馬してしまう。スパルタクスは負傷を堪え、尚も剣を振るって猛戦するが、殺到してきたローマ兵に取り囲まれ、ズタズタに切り裂かれてしまう。偉大な統率者を失った奴隷軍は総崩れとなり、4万人余の内、6千人の捕虜を除いて全滅した。


戦いは終わり、ローマ軍はスパルタクスの死体を確認しようとしたが、折り重なった死体の山の中にその姿を見出す事は出来なかった。捕虜となった6千人は十字架に張り付けられ、長い苦しみの果てに絶命していった。十字架の列はローマへと続く街道沿いに何処までも続き、見せしめとして朽ち果てた骸骨が数年に渡って晒された。これ以降、ローマでは奴隷の反乱は途絶え、その待遇は改善の方向に向かったとされる。だが、乱の源となった剣闘試合そのものは、衰えるどころか益々盛んとなり、人々は血の饗宴に熱狂した。剣闘試合が終焉を迎えるのは、5世紀まで待たねばならなかった。


 
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ハンニバルの大遠征

2010.09.10 - 歴史秘話 其の一

古代地中海世界、そこは当時、世界有数の政治、経済、文化先進地であった。紀元前3世紀、この世界はイタリアの新興国ローマと、北アフリカの経済大国カルタゴとに二分されていた。だが、両雄並び立たずのことわざ通り、紀元前264年、両大国は地中海世界の覇権を賭けて、戦争状態に入った。第一次ポエニ戦争の勃発である。この戦いは足掛け23年に渡る消耗戦となったが、最終的には底力のあるローマの勝利に終わった。敗北したカルタゴには多額の賠償金と領土の割譲が課せられ、これで地中海世界の覇権はローマの手に渡ったかに見えた。


だが、紀元前219年になるとカルタゴは再び復興し、ローマの覇権に挑戦する。第二次ポエニ戦争の始まりである。そして、紀元前218年5月、スペインのカルタヘーナから、29歳の若き司令官率いる大軍団が、遥かローマを目指して進軍を開始した。このカルタゴの若き司令官こそ、現在にまでその名を轟かせる名将、ハンニバルその人である。スペインからローマに向かうには、海路を用いるのが最も手っ取り早い。しかし、イタリア周辺の制海権は、優勢なローマ海軍の手にあった。それでもローマに攻め入らんとすれば、ガリア(フランス)を横断し、アルプスも越えて、北からイタリア半島に攻め入るしかなかった。少人数ならともかく、大量の兵士、馬、象、荷車などを引き連れてのアルプス越えは、想像を絶する難事である。


だが、ハンニバルは情報収集に努めた結果、アルプス越えは決して不可能ではないと計算していた。ハンニバルはまず、ピレネー山脈を越えてガリア(フランス)に入る。この時点でハンニバルが率いていた戦力は歩兵5万と騎兵9千、戦象37頭であった。カルタゴ軍ピレネーを越えるとの報を得て、ローマは緊張する。ローマ側は、ガリア南部にあるローマ同盟都市が攻撃されると予想して、そこに軍団を送り込んだ。まさか、敵がアルプスを越えてイタリア半島に直接攻め入ろうとしているなど、考えにも及ばなかったのである。


ハンニバルは、ローマ軍の探索の目から逃れるため、フランス内陸部の森林地帯を突き進んでいった。このため、ローマはハンニバルの行方を見失う。当時のフランスは森と沼に覆われた未開の地で、勇猛なガリア人が数多くの部族に分かれて居住していた。彼らは決して、友好的ではなかった。ハンニバルはある時は金で懐柔し、ある時は武力をもってガリア人の地を踏破して行く。そして、ハンニバルは、アルプスを源流とするローヌ河まで達した。だが、5万もの大軍を渡河させるのは、これまた難事業で、しかも、その時にローマ軍に襲われればひとたまりもない。


ハンニバルはローヌの下流に斥候隊を派遣し、ローマ軍の襲来を警戒しつつ、困難な渡河作業に入る。その間は、無防備と言っても良い。そして、渡河の最中、ハンニバルの出した斥候隊は、下流でローマ軍の斥候部隊と衝突し、その意図を悟られてしまう。ローマ軍は直ちにローヌ上流を目指して急行したが、3日の差で取り逃がした。ここに至って、ローマも敵がアルプス越えを企図していると気付き、尋常ならざる相手であると悟ったのだった。ハンニバルは危地を脱したものの、水量豊富なローヌを渡る際、多くの兵士を失った。このガリア横断とローヌ渡河で、カルタゴ軍は1万3千人を失った。残りは4万6千人である。


紀元前218年9月、カルタゴ軍はアルプスの麓に達する。ハンニバルはアルプス周辺のガリア部族を懐柔し、アルプスの情報を聞き出した。そして、ハンニバルは通過可能な地点を見定めると、ついにアルプス越えを決行する。だが、山岳に住んでいるガリア人達は敵対的であった。山岳民は、カルタゴ軍に度々襲撃を加え、岩を投げ落とし、矢を射かけて来る。そのためハンニバルは、山岳民が初めて見るであろう象を先頭に立てて、威圧しながら坂を登っていった。しかし、その象も慣れない環境で度々、暴れたり、その場から動こうとしなくなる。兵士達はその度に象をなだめすかし、総出で引っ張り上げねばならなかった。


9月のアルプスはすでに冬に入っており、路面には雪が降り積もっていた。しばしば、足を踏み外した兵士、象、馬が悲痛な叫び声と共に谷底に消えていった。また、疲労と寒さで、命を失う者も絶えなかった。山中に満足な宿営地などあるはずも無く、兵士達は陣幕を体に巻き付けて、震えながら夜を明かさねばならなかった。ハンニバルも兵士達と同じく、粗末な食事を取り、寒さに耐えながら夜を明かす。そして、この難航軍を、強靭な意志と指導力によって推進していった。9日後、カルタゴ軍はようやく峠に達したが、兵士達は心身共に疲れ切っていた。ここで、ハンニバルは兵士達を集める。そして、眼下に広がるイタリア半島を指差しながら、「見よ、あそこはもうイタリアだ。我々は、これから全イタリアの主人になるのだ!」と激励した。これを聞いた兵士達は、たちまち奮い立った。


15日後、ついにカルタゴ軍はアルプスを踏破し、北イタリアに達した。スペインを出てから4ヶ月余り、ここまで来るのに3万3千人もの兵士を失っていた。戦力は半減し、歩兵2万、騎兵6千、象20頭余になっていた。それから程なくして、北イタリアに居住する反ローマのガリア人がカルタゴ軍に参集し、合計3万8千人になったものの、ハンニバルはこれだけの戦力で、最大動員力28万人、同盟都市の戦力も合わせれば、合計75万人もの動員力があるローマに挑まねばならないのである。この強大なローマに打ち勝つには、その軍を各個撃破していって威信を失墜させ、同盟諸国の離反を図るしかない。そして最後に、孤立させたローマを落とす。これがハンニバルの基本戦略であった。


この後、ハンニバルはイタリア半島を南下し、その卓越した戦術能力と優勢な騎兵戦力を生かして、ローマ軍を次々に撃ち破っていった。そして、イタリア各地を略奪し、焼き払った。勢力を強めたハンニバルとその軍は最大5万人となり、一時はイタリア南部の大部分を支配下に治めて、ローマを存亡の危機に立たせた。だが、ハンニバルにとって最大の誤算は、ローマから離反する同盟都市が少なかった事である。既にイタリア全土がローマの統治を受け入れて時久しく、都市国家群の多くは、ローマこそイタリアを代表する勢力と見なしていた。そのローマの危機は全イタリアの危機と捉えて、都市国家の多くが利害を乗り越えて一致団結した結果であった。


こうした同盟都市の援助があって、大打撃を被りながらもローマは尚も戦い続ける事が出来たのだった。それだけでなく、頭脳たる、ローマ元老院の戦略指導も優秀だった。強力なハンニバルに対しては主力を差し向けて持久戦に持ち込み、じりじりとイタリアのつま先に追い込んだ。その上で、一軍を割いてハンニバルの策源地であるスペインに攻め入らせたのである。この軍を率いるのは、ローマの新星スキピオであった。ローマ市民の期待を一身に背負ったこの若き将は、期待以上の働きを示し、寡兵をもってスペインを平定すると、更に北アフリカのカルタゴ本国まで攻め入った。


危機に陥ったカルタゴ本国から帰還命令がもたらされ、ハンニバルは16年に渡って転戦してきたイタリアを離れる事になった。この時、ハンニバルは44歳になっていた。片目を失明し、2人の弟も戦死していた。ハンニバルの軍は3万人に減っており、この内、彼がスペインから率いてきた古参兵は8千人であったと云う。一方ローマの方も、この第二次ポエニ戦争中、10万人を越える戦死者と10人を越える司令官の戦死を出しており、青年男子層の人口減少をもたらすほどの被害を受けていた。その死者の大半が、ハンニバルとの戦闘によるものだった。


ここで、ハンニバルの人となりを述べてみる。紀元前247年、ハンニバルは、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカの長子として生まれる。父ハミルカルは、第一次ポエニ戦争でローマ相手に大いに活躍した優秀な指揮官だった。しかし戦争自体はカルタゴの敗北に終わり、その結果、カルタゴには多額の賠償金が課せられると供に、多くの海外領土を失った。戦後も無念の思いが消えないハミルカルは、スペインに新天地を求めた。この時、9歳になっていたハンニバルも同行を願ったが、父は息子に「一生ローマを敵として戦う」と誓わせた上で同行を許したと云う。以後、ハンニバルはスペインの地で成長を重ねつつ、ローマ打倒の機会を窺った。そして、紀元前218年、父以来の念願を果たすべく、ローマへと向かったのである。


ハンニバルは、厳格で誇り高い人物だった。どのような苦境にあっても、無言でそれを耐えた。冷徹な一面があり、戦略のためにイタリア各地を略奪放火し、捕虜としたローマ兵を容赦なく斬る事も辞さなかった。兵士達に気軽に話し掛ける様な人物ではなかったが、彼は一兵士と同様の食事を取り、睡眠も一兵士と同様、マントにくるまって地面に寝た。遠征カルタゴ軍だけでなく、全カルタゴの命運もハンニバル1人の双肩にかかっていると言っても過言では無く、その責任の重さは計り知れなかった。多くの問題は1人で処理せねばならず、ハンニバルが休息するのは、それを終えた後の僅かな時間だった。


兵士達は、ハンニバルが寝ている側を通る時には、武器の音が鳴らないよう気遣った。ハンニバルの軍は、アフリカ、スペイン、ガリア、イタリアからの傭兵で成りたっていて、お互い言葉も満足に通じ合わなかった。だが、彼らに共通していたのは、この孤高の司令官に対する、深い畏敬の念だった。ローマ軍の反撃によって、イタリア半島のつま先に押し込まれ、満足に報酬が得られなくなっても、傭兵達がハンニバルを見捨てる事はなかった。いよいよ、イタリアを離れる時が来た。だが、船舶の不足で、3万の兵士全てを北アフリカに連れて行く事は出来なかった。


ハンニバルはこの内、スペイン以来の古参兵8千人を含む、1万5千人を選抜して帰還に取り掛かった。残される兵士達はローマの報復を恐れ、共に連れて行ってくれるよう懇願して、船に取りすがった。しかし、ハンニバルにこの願いを聞き入れる事は出来ず、船の沈没を防ぐため、取りすがる兵に向けて矢を射させたと云う。ハンニバルは冷徹な命令を発したが、内心は断腸の思いであったろう。紀元前203年、ハンニバルはカルタゴ南方にあるハドゥルメントゥムに上陸した。9歳でカルタゴを出てから、実に35年振りの帰国であった。そして、翌年春のローマとの決戦に向けて、冬営に入る。そのハンニバルの元へ、首都カルタゴから増援が差し向けられた。


紀元前202年春、北アフリカ、ザマの大地で、稀代の名将ハンニバル率いるカルタゴ軍5万と、ローマの新星スキピオ率いるローマ軍4万が、国家の命運を賭けて激突する。カルタゴ軍の方が総数は勝っていたが、騎兵戦力ではカルタゴ軍4千に対し、ローマ軍6千と劣っていた。そして、この決戦は、優勢な騎兵戦力を生かしたスキピオ率いるローマ軍の完勝に終わった。第二次ポエニ戦争はハンニバルの攻撃から始まり、その敗北で幕を閉じた。そして、この戦いで、長年死線を共に乗り越えてきた、戦友とも言える古参兵達も全滅した。ハンニバル自身はこの戦いを生き延びたものの、彼らの死によって、ハンニバルの遠征も終りを告げたのだった。



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↑ハンニバル・バルカ




 

海賊黒髭

2010.07.19 - 歴史秘話 其の一
世間で、「黒髭」と聞いたなら、樽に剣を1本1本刺していくと、突然、人形が飛び出す玩具、「黒髭危機一発」の事が、まず思い浮かぶ事だろう。実はこれにはモデルがあり、黒髭なる海賊は実在していたのである。


黒髭の前半生は定かではなく、1680年頃、イギリスのブリストルに生まれ、姓はエドワード、名はティーチ、タッシュ、サッチなどと伝わっている。1710年頃、黒髭は、国家公然の海賊活動である私掠船の1船員となってジャマイカに渡った。それからほどなくして、ホニーゴールド船長率いる海賊に加わる。黒髭には海賊としての天分があったらしく、類まれな勇猛さと統率力を発揮して、たちまち頭角を現していった。黒髭はホニーゴールドに見込まれて、2隻の船の内、もう1隻の指揮を任されるようになる。


ホニーゴールドの下、黒髭は目覚しい活躍を見せて、次々に獲物を仕留めていった。1717年、セント・ビンセント沖で、ホニーゴールドらはフランスの奴隷船を発見する。それは大きく頑丈で、40門の武装を誇る強力な相手であった。だが、2人は協力して、この大物を捕らえる事に成功する。蓋を開けてみれば、この船は宝の船で、金銀宝石、奴隷が山の様に積まれていた。ホニーゴールドはこれまでの黒髭の功を讃えて、この立派な捕獲船を与えた。黒髭は、この船をクイーン・アンズ・リベンジ号と名付けて、自らの乗船とした。この後、ホニーゴールドはほどなくして引退したため、海賊達の指揮は黒髭が執るようになった。


この後、黒髭は、北米ヴァージニアから、中南米のホンジュラスまで暴れ回って、20隻以上の船を拿捕した。黒髭はその内の何隻かを船団に加えて、更に強大になった。また、30門の大砲を積んだイギリス軍艦を打ち負かして、大いに名を上げた。黒髭のやり口は単純かつ冷酷で、相手が黙って積荷を差し出した場合は、そのまま生かして帰したが、抵抗した場合には容赦無く皆殺しにした。黒髭は恐怖の海賊、悪魔の申し子と呼ばれて、人々の恐怖の的となる。黒髭自身の自己喧伝もあって、カリブ海で彼の名を知らぬ者はいなくなった。引退していたホニーゴールドは、今や大海賊となった黒髭が、かつては自分の部下であったのだと人々に自慢した。


黒髭は長身かつ大柄な体格で、非常に恐ろしげな風貌をしていた。いかつい顔立ちに、たてがみのような黒髪をたなびかせ、そのあだ名の由来ともなった長い顎鬚は、編み込まれてへその辺りまで伸びていた。自慢の髭の両端には火縄が結い付けられ、それが煙を上げてくすぶる様は、見る者をたじろがせた。彼の気質は、その見た目同様、突飛で破天荒なものだった。黒髭は、ラム酒と火薬を混ぜた強烈な酒を愛飲していたと云う。また、黒髭は各地の港に愛人を持ち、その数は14人に達していた。


ある晩、黒髭は部下2人と共に酒盛りをした。黒髭は酒を飲みつつ、テーブルの下でピストルを2挺抜いた。船長の予想の付かない行動を知る部下の1人は、危険を察知して甲板へと逃れたが、もう1人はそのまま飲み続けた。すると、黒髭は突然、ロウソクを吹き消して真っ暗闇にすると、2挺のピストルを発射した。部下は膝を撃ち抜かれ、生涯不具の身となってしまった。他の乗員達から、何故そのような行為をしたのか問われると、黒髭は怒って、「時々、こういう事をしなきゃ、お前らも俺がどういう人間か忘れちまうだろうが!」と喚き散らしたと云う。


黒髭は、北米の大西洋岸から西インド諸島にかけての航路に絶えず出没して、付近を航行する船舶を荒らし回った。北米ヴァージニアの貿易業者達は黒髭に恐れ慄き、その貿易活動に支障を来たすまでになった。それらの人々の懇請を受け、イギリス海軍は討伐隊を送り込む事を決した。討伐隊の構成は、2隻のスループ船(中型の帆走軍艦)で、指揮官はロバート・メイヤード中尉であった。メイヤードは、まずは情報収集に努め、黒髭がノース・キャロライナのオクラコウク湾に潜んでいるらしいと聞き付けると、すぐさま現地に向かった。


1718年11月21日、この日、黒髭は拿捕した船を伴って、オクラコウク湾に停泊していた。イギリス海軍が迫っている事も知らず、黒髭は船上で18人の部下達と盛大な酒盛りを始めた。そして、翌日の朝になっても、まだ酒を飲んでいた時、突如、メイヤード率いる2隻の船団に急襲されたのである。だが、そんな泥酔状態であったにも関わらず、一旦、戦端が開かれると海賊達は手強かった。海賊達は猛反撃に転じて、1隻のスループ船の船長を殺して、乗員の大半を殺傷する。黒髭と海賊達は続いてメイヤードの船に斬り込みをかけ、熾烈な接近戦が始まった。


黒髭は、メイヤードを見かけると至近距離からピストルを発砲した。しかし、弾丸は逸れ、今度はメイヤードが反撃のピストルを撃って、黒髭に命中させた。黒髭は負傷に怯む事なく、今度はカトラス(短刀)を持って斬りかかった。黒髭は喚きながら激しく斬りかかり、メイヤードの剣を叩き折る。そして、黒髭が止めを刺そうと剣を振り上げたその瞬間、海軍兵の1人が剣をもって、その喉を切り裂いた。黒髭は瀕死の重傷を負ったにも関わらず、その闘志はまったく衰えを見せなかった。首から血を吹き出させつつ、尚もピストルを乱射し、海軍兵と渡り合った。だが、海軍の水兵に次々に斬り付けられて、20箇所もの刀傷を負い、弾丸も5発受けると、さすがの巨人もゆっくりと崩れていった。その罪業はともかく、勇猛果敢な海賊らしい死に様であった。


戦後、黒髭の首はメイヤードによって切り落とされ、船の船首に吊り下げられた。その首はヴァージニアへと運ばれ、ハンプトン河の河口に見せしめとして吊るされた。そして、戦いで捕虜となった黒髭の部下15人の内、13人も死刑となった。黒髭が海賊の首領として行動していた期間は、僅か2年余でしかなかったが、その激しい活動と破天荒な人物像は人々の語り草となり、やがて伝説となった。その後、作られた海賊ものの小説、映画などには、黒髭の印象が多分に取り入れられて現在に至っている。



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↑海賊黒髭


奥州藤原氏と平泉 終

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
文治5年(1189年)7月29日、頼朝率いる中央軍は白河関を突破し、奥州に進出した。8月7日、関東勢は阿津賀志山(あつかしやま)に達し、ここで奥州勢と対峙する。そして、翌8月8日より、熾烈な攻防戦が始まった。8月9日夜、関東勢の一部が、奥州方の安藤次なる者を道案内人に山越えをして、奥州勢の背後に回った。翌10日未明、背後に回った関東勢は一斉に鬨の声を挙げて襲い掛かり、不意を突かれた奥州勢は混乱する。これに加えて、正面からも畠山重忠率いる工兵隊が、鍬(すき)鍬(くわ)を用いて防塁を突き崩していった。奥州勢も必死に応戦して、この日は激闘となったが、やはり最初の一撃が利いて、奥州勢の敗色は濃厚となった。


支えきれなくなった奥州勢はとうとう崩れだし、大将の国衝は逃れんとしたが、その途上、畠山重忠配下の者に討たれてしまう。難攻不落と見られた阿津賀志山の堅陣は、3日間の攻防で突破された。奥州方は陸奥、出羽の2ヵ国の寡兵で、全国の兵を相手に戦かわねばならなかったのだが、それでも脆く崩れ去った印象を受ける。それを証明するかのように、奥州方からは内応者が出て関東勢を案内するなど、その軍は結束を欠いていた。もし、義経を大将に奥州勢が1つにまとまっていたなら、堅陣を盾に、逆に奥州方が迂回攻撃を仕掛けるなどして、戦法は変わっていただろう。しかしながら、泰衡が義経や弟、頼衝、忠衝を討った時から、すでに奥州勢の内部崩壊は始まっていた。



8月12日、頼朝率いる中央軍は東海道軍と合流し、多賀国府に進軍する。14日、物見岡(何処かは不明)にて奥州勢と合戦となり、20日には玉造郡、多加波々(たかはば)城に迫った。しかし、奥州勢はすでに多加波々城から後退していたため、関東勢はさらに進軍し、8月21日には津久毛橋に至った。この津久毛橋を越えれば、平泉は目の前であった。奥州方にとっては最後の防衛線であり、ここで関東勢を阻止せねば、最早、後がなかった。頼朝もここが最後の山場と考え、軍の分散を避け、2万余騎の軍勢を集結させる。この日、津久毛橋を巡って両軍、最後の戦いが繰り広げられた。しかし、勢いに乗る関東勢の猛攻は抑えきれず、奥州勢は敗走し、津久毛橋は突破された。戦い敗れた泰衡は、平泉へと逃れた。だが、ここはすでに往生楽土の地ではなかった。関東勢が平泉へと押し寄せて来るのも時間の問題であり、泰衡は平泉館や宝物庫に火を放つと出羽奥地へと逃れていった。


8月22日午後16時頃、はなはだしい雨が降る中、関東勢は平泉に入った。平泉館に着くも、すでに主はおらず、館は焼け落ちていた。町も寂寥として、人影は絶えていた。多くの人々で賑わい、栄えていた平泉の面影は、そこには無かった。だが、ここにはまだ、目も眩む様な財宝が残されていた。関東勢が火災を免れた1つの宝物庫を開けてみると、そこには金造りの鶴、象牙の笛、瑠璃の灯篭、金の沓(くつ)、錦の直垂(ひれたれ)、銀造りの猫などが山のように積まれており、武士達は仰天した。ここで頼朝は、功績を挙げた武士にこれらの宝物を与えている。平泉では、戦後も中尊寺、毛越寺、無量光院などは残されていた事から、泰衡は町全体に火を放った訳ではなく、頼朝も略奪放火を禁じていたと思われる。


頼朝は平泉に滞在し、方々に兵を放って泰衡を捜索させた。そうした折、頼朝の宿館に手紙が投げ込まれた。それは泰衡からのものだった。

「伊予守義経の件につきましては、父秀衝が援助した事であり、私はそのいきさつを存じておりません。父の死去後には鎌倉殿のご命令通り、伊予守を誅したはずです。この事は勲功に当たる行為のはずですが、それにも関わらず罪なくして征伐を受けるのは如何なる所存でありましょうか。そのため、私は先祖の在所を離れ、山林を住居とする始末で不便の極みでございます。奥羽両国がすでに鎌倉殿の支配にある以上、この泰衡には罪を許して頂き、後家人に列せられたいと存じます。これが許されないのなら、死を免ぜられ遠流(おんる)にも処して頂きたい。ご返事を頂けるならば、比内郡辺りに返書をご放置頂きたい」

この書で泰衡は必死に助命を乞うているが、無駄であった。頼朝には最初から泰衡を許すつもりなどなかった。泰衡は最後まで頼朝と云う人物を見抜けず、その手の平で踊らされ続けた、哀れな人形であった。


8月25日、泰衡の祖父、藤原基成が拘束される。基成が京都出身の貴族の身であったからか、ほどなく許されて開放されるが、その後の消息は不明である。奥州藤原氏の繁栄と滅亡の双方を見届けた人物であった。9月3日、泰衡は蝦夷の地を目指して逃亡を続けていたが、その途上、肥内郡、贄柵(にえのさく)にて朗従の河田次郎の裏切りに遭い、そこで無残な死を遂げた。だが、その河田次郎も、泰衡の首を献上した際、頼朝から「その罪、八虐に値する」となじられ、斬首の刑となった。その一方、由利八郎なる奥州方の名のある武士も捕らえられ、頼朝の前に引き出されたが、その尋問に八郎が堂々と受け答えしたため、許されて釈放されている。


頼朝の命によって、泰衡の首は鉄釘で柱に打ち据えられた。それは、祖先の源頼義が
前九年の役の折、討ち取った安部貞任の首を、鉄釘で打ち据えた故事に習ったものである。頼朝は、自分こそが正当な源氏の再興者であり、新たなる政権の樹立者であると天下に知らしめる必要があった。泰衡の首は、そのための重要な政治道具であった。義経を討とうが討たまいと、頼朝が奥州攻めを決めた時から、泰衡は殺される運命にあったのだ。戦後、頼朝は武士団に存分に褒美を与え、その心を大いに満足させる。そして、奥州の統治を葛西清重に委ねると、鎌倉へと戻って行った。これにて鎌倉幕府の権限は、あまねく全国に及ぶ事となった。建久元年(1190年)、頼朝は上洛し、右大将に任ぜられる。藤原氏を滅亡させた事で、頼朝はようやく心置きなく京に上がる事が出来たのだった。そして、建久3年(1192年)8月、頼朝は征夷大将軍の地位に就き、名実共に武家の頂点に立つ。


藤原氏が心血を注いで作り上げた中尊寺、毛越寺、無量光院などは、鎌倉幕府の庇護を受けて存続していたが、その後、火災を生じるなどして、時代を経るごとに廃れていった。奥州の中心ではなくなった平泉も衰退し、かつての繁栄の面影は消え去った。華麗を極めた建物の多くは消失し、現在にまで残された建物は、中尊寺金色堂のみである。
時代は下り、昭和25年(1950年)3月、中尊寺金色堂に安置されていた、藤原氏4代の遺体の学術調査が行われた。そこには、初代清衡、2代基衝、3代秀衝、4代泰衡らのミイラ化した遺骸があった。

●清衡(身長159センチ、保存状態が悪く広範囲で白骨化。体型は痩身。左半身不随の期間をかなり強いられたと見られる。死因は脳溢血か。4代中、最も老齢で、死亡年齢73歳説は妥当)

●基衝(身長165センチ、清衡より保存状態は良いが一部白骨化。具足の使用や武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脳溢血か。死亡年齢は50~60歳)

●秀衝(身長158センチ、全身はほぼミイラ化しているが、鼠害が著しい。基衝と同じく武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脊椎カリエスか。死亡年齢66歳説は妥当)

3代は共通して歯槽膿漏が進行し、カリエス(慢性炎症)があった。

この中で4代、泰衡の首のミイラは関係者に衝撃を与えた。首桶に入っていた首は、第4頚椎で横に切断され、脳と顔面には16箇所もの切り傷と刺し傷があった。右耳は切り落とされ、鼻も削がれ、なおかつ斬首までに7回太刀が加えられた挙句、最後の2回で切断された痕跡があった。これは、泰衡が最後まで生に執着して、激しく抵抗した為に付いたと見られている。眉間には親指大の釘が打ち付けられた孔があり、これは獄門に晒された事を意味していた。死亡年齢は30歳前後と見られている。


泰衡の首が納められていた桶からはハスの種が見つかり、その後、植物学者の尽力によってハスは、平成10年(1998年)に花を咲かせた。それは、泰衡の無念の思いが800年振りに花となって昇華したのかもしれない。現在、ハスは中尊寺の境内にある湿地に植えられている。それらは中尊寺ハスとして親しまれ、毎年7月頃、可憐な花を咲かせている。



平泉と中尊寺に関するHP



奥州藤原氏と平泉 2

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
義経は常勝将軍から一転、罪人として追われる身となった。義経は畿内各地の寺院を転々として身を隠していたが、その間にも、叔父の源行家や、佐藤忠信を始めとする郎党達は次々に討たれてゆき、愛妾、静御前まで捕らわれてしまった。最早、畿内に身の置き所は無く、義経は始まりの地である、奥州に向かう他無かった。文治3年(1187年)春、義経は苦難の逃避行の末、ようやく平泉に辿り着き、7年振りに秀衝との対面を果たした。だが、恩人の秀衝は病に冒され、すでに余命いくばくもなかった。


死の床にあっても聡明な秀衝は、平氏が滅んだ今、頼朝が次に狙うのは奥州であるという事が判っていた。そして、秀衝は死に臨んで嫡子、泰衡を呼び、義経を大将軍として、泰衡、国衝(泰衡の異母兄)らが三身一体となって、頼朝と戦うようにとの遺言を残すと、文治3年(1187年)10月29日、66歳の生涯を閉じた。偉大なる父から、巨大王国を引き継いだ泰衡であったが、彼は貴族ぜんとした線の細い人物であった。彼には国衝と云う異母兄がいたが、泰衡の母の出が高貴であった事から、兄を差し置いてその跡を継いだのだった。だが、秀衝も泰衡の資質に不安を感じていたのか、軍事の権は国衝に委ねている。しかも、この兄弟間は不仲であったとされる。


秀衝亡き後、奥州政権において大きな発言力を持つ人物がいた。それは秀衝の政治顧問役を務めていた、藤原基成である。基成は京都出身の貴族で、奥州藤原氏二代目、基衝の時に奥州に下向しており、京都とは深い繋がりがあった。毛越寺、無量光院、平泉館といった寺院は、基成の京における人脈を生かして建立されている。そして、基成は自身の娘を三代目、秀衝に娶らせており、その間に生まれたのが四代目、泰衡であった。秀衝が死亡した時には、すでに70歳前後の老齢であったが、泰衡の祖父という事も手伝って、その発言には重みがあった。


文治4年(1188年)2月、鎌倉の頼朝は、秀衝死すの報を聞くと、好機到来と見て、朝廷に義経追討の宣旨を出させて、その旨を奥州の基成と泰衡に伝えた。「義経を差し出さねば、朝敵として義経共々、奥州を討つ」との頼朝からの圧力であった。すでに秀衝の晩年の頃から、義経を差し出すようにとの要求はあったが、老獪な秀衝はこれをのらりくらりとかわしていた。泰衡も当初は同じ手を使っていたが、秀衝との役者の違いもあって、頼朝の圧力に抗しきれず、動揺をきたしていた。そこで、
藤原一族は寄り集まって、討議を行った。秀衝の三男忠衝、四男隆衝、五男道衝、末弟頼衝らは義経を奉って戦うべしと唱え、嫡男泰衡と長男国衝は、頼朝との協調路線を取るべしと唱えたと云う。討議は再三に渡って行われたが、意見は分かれたままであった。平泉には頼朝の間者が常駐しており、藤原一族の動向は逐次、鎌倉に伝えられていた。同年10月、頼朝は、動揺する泰衡を見透かすように、再び使者を送って圧力を掛ける。


この一連の不穏な動きは義経にも伝わっており、最早、平泉は安住の地にあらずとして比叡山に連絡を取り始める。文治5年(1189年)2月15日、泰衡は末弟、頼衝を討った。この出来事は、奥州政権内で意見の対立が激化していた事を物語っている。泰衡は征討の恐怖から逃れんと必死であったのか、それとも奥州の自立を守るにはこれが最善の道と見定めたのか、とうとう義経を討つと定めた。この決定には、泰衡だけでなく祖父の基成も深く関わっていただろう。同年4月30日、泰衡は、衣川の館にいる義経に数百騎の兵を差し向ける。不意を突かれた義経は防戦もままならず、持仏堂に入って22歳の妻と4歳の女子を殺害すると、そこで無念の自決となった。源義経、享年31、大きな栄光と悲劇に彩られた人生であった。同年6月26日、泰衡は、義経と同意していたとして弟、忠衝も討った。すでに頼朝の威令は、奥州を除く日本全域に及んでおり、抵抗しても勝ち目はないと思っていたのだろう。泰衡、基成らは、頼朝の鋭鋒を避けんと必死であった。しかし、現実はそれほど甘くなかった。


義経死すの報は、ただちに頼朝の耳へと伝わった。軍事の天才が死に、これで奥州侵攻の最大の懸念は取り除かれた。同年6月13日、奥州より、美酒に漬けられた義経の首が鎌倉に届けられたが、頼朝はそれに構わず、戦争準備を続ける。頼朝の動員令は全国に及び、九州南部の武士まで鎌倉に集まっていた。泰衡は、頼朝の命に従って義経を討ったのに、関東勢が攻め寄せてくると知って驚愕した。確かに泰衡には罪はなく、頼朝には大義名分が無かった。しかし、東国に武家政権を確立せんとする頼朝にとって、藤原氏は何としても打倒せねばならない相手だった。そして、その配下の御家人達も奥州を討って、恩賞と土地を賜わらん事を欲していた。奥州侵攻は関東武士の総意であり、それは誰にも止められるしろものではなかった。泰衡、基成らの現状認識は甘かったのである。


同年7月19日、頼朝は、関東武士を中心に全国各地から集められた28万と号される軍勢(実数は4~5万人余か)を率いて、鎌倉を出立する。頼朝は奥州に攻め入るにあたって軍を三分し、日本海沿いからは北陸道軍、太平洋沿いからは東海道軍、そして、白河関からは頼朝自ら率いる中央軍が、それぞれ平泉を目指して進軍を開始する。奥州方はこれに対して交通の要所である、伊達郡の阿津賀志山(あつかしやま)中腹から、阿武隈川に至るまでの地(約3・5km)に二重の堀と土塁を巡らせて、関東勢を迎え撃たんとした。この防塁は関東勢の襲来を予想して、奥州方が事前に構築していたものだった。藤原氏は、頼朝との和平交渉をしつつも一方では、万一の事態に備えていたのだろう。この地を守る奥州勢は国衝率いる2万人余の軍勢で、泰衡は後方の仙台に本陣を構えた。 
 

奥州藤原氏と平泉 終に続く・・・



 

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重家 
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