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奥州藤原氏と平泉 終

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
文治5年(1189年)7月29日、頼朝率いる中央軍は白河関を突破し、奥州に進出した。8月7日、関東勢は阿津賀志山(あつかしやま)に達し、ここで奥州勢と対峙する。そして、翌8月8日より、熾烈な攻防戦が始まった。8月9日夜、関東勢の一部が、奥州方の安藤次なる者を道案内人に山越えをして、奥州勢の背後に回った。翌10日未明、背後に回った関東勢は一斉に鬨の声を挙げて襲い掛かり、不意を突かれた奥州勢は混乱する。これに加えて、正面からも畠山重忠率いる工兵隊が、鍬(すき)鍬(くわ)を用いて防塁を突き崩していった。奥州勢も必死に応戦して、この日は激闘となったが、やはり最初の一撃が利いて、奥州勢の敗色は濃厚となった。


支えきれなくなった奥州勢はとうとう崩れだし、大将の国衝は逃れんとしたが、その途上、畠山重忠配下の者に討たれてしまう。難攻不落と見られた阿津賀志山の堅陣は、3日間の攻防で突破された。奥州方は陸奥、出羽の2ヵ国の寡兵で、全国の兵を相手に戦かわねばならなかったのだが、それでも脆く崩れ去った印象を受ける。それを証明するかのように、奥州方からは内応者が出て関東勢を案内するなど、その軍は結束を欠いていた。もし、義経を大将に奥州勢が1つにまとまっていたなら、堅陣を盾に、逆に奥州方が迂回攻撃を仕掛けるなどして、戦法は変わっていただろう。しかしながら、泰衡が義経や弟、頼衝、忠衝を討った時から、すでに奥州勢の内部崩壊は始まっていた。



8月12日、頼朝率いる中央軍は東海道軍と合流し、多賀国府に進軍する。14日、物見岡(何処かは不明)にて奥州勢と合戦となり、20日には玉造郡、多加波々(たかはば)城に迫った。しかし、奥州勢はすでに多加波々城から後退していたため、関東勢はさらに進軍し、8月21日には津久毛橋に至った。この津久毛橋を越えれば、平泉は目の前であった。奥州方にとっては最後の防衛線であり、ここで関東勢を阻止せねば、最早、後がなかった。頼朝もここが最後の山場と考え、軍の分散を避け、2万余騎の軍勢を集結させる。この日、津久毛橋を巡って両軍、最後の戦いが繰り広げられた。しかし、勢いに乗る関東勢の猛攻は抑えきれず、奥州勢は敗走し、津久毛橋は突破された。戦い敗れた泰衡は、平泉へと逃れた。だが、ここはすでに往生楽土の地ではなかった。関東勢が平泉へと押し寄せて来るのも時間の問題であり、泰衡は平泉館や宝物庫に火を放つと出羽奥地へと逃れていった。


8月22日午後16時頃、はなはだしい雨が降る中、関東勢は平泉に入った。平泉館に着くも、すでに主はおらず、館は焼け落ちていた。町も寂寥として、人影は絶えていた。多くの人々で賑わい、栄えていた平泉の面影は、そこには無かった。だが、ここにはまだ、目も眩む様な財宝が残されていた。関東勢が火災を免れた1つの宝物庫を開けてみると、そこには金造りの鶴、象牙の笛、瑠璃の灯篭、金の沓(くつ)、錦の直垂(ひれたれ)、銀造りの猫などが山のように積まれており、武士達は仰天した。ここで頼朝は、功績を挙げた武士にこれらの宝物を与えている。平泉では、戦後も中尊寺、毛越寺、無量光院などは残されていた事から、泰衡は町全体に火を放った訳ではなく、頼朝も略奪放火を禁じていたと思われる。


頼朝は平泉に滞在し、方々に兵を放って泰衡を捜索させた。そうした折、頼朝の宿館に手紙が投げ込まれた。それは泰衡からのものだった。

「伊予守義経の件につきましては、父秀衝が援助した事であり、私はそのいきさつを存じておりません。父の死去後には鎌倉殿のご命令通り、伊予守を誅したはずです。この事は勲功に当たる行為のはずですが、それにも関わらず罪なくして征伐を受けるのは如何なる所存でありましょうか。そのため、私は先祖の在所を離れ、山林を住居とする始末で不便の極みでございます。奥羽両国がすでに鎌倉殿の支配にある以上、この泰衡には罪を許して頂き、後家人に列せられたいと存じます。これが許されないのなら、死を免ぜられ遠流(おんる)にも処して頂きたい。ご返事を頂けるならば、比内郡辺りに返書をご放置頂きたい」

この書で泰衡は必死に助命を乞うているが、無駄であった。頼朝には最初から泰衡を許すつもりなどなかった。泰衡は最後まで頼朝と云う人物を見抜けず、その手の平で踊らされ続けた、哀れな人形であった。


8月25日、泰衡の祖父、藤原基成が拘束される。基成が京都出身の貴族の身であったからか、ほどなく許されて開放されるが、その後の消息は不明である。奥州藤原氏の繁栄と滅亡の双方を見届けた人物であった。9月3日、泰衡は蝦夷の地を目指して逃亡を続けていたが、その途上、肥内郡、贄柵(にえのさく)にて朗従の河田次郎の裏切りに遭い、そこで無残な死を遂げた。だが、その河田次郎も、泰衡の首を献上した際、頼朝から「その罪、八虐に値する」となじられ、斬首の刑となった。その一方、由利八郎なる奥州方の名のある武士も捕らえられ、頼朝の前に引き出されたが、その尋問に八郎が堂々と受け答えしたため、許されて釈放されている。


頼朝の命によって、泰衡の首は鉄釘で柱に打ち据えられた。それは、祖先の源頼義が
前九年の役の折、討ち取った安部貞任の首を、鉄釘で打ち据えた故事に習ったものである。頼朝は、自分こそが正当な源氏の再興者であり、新たなる政権の樹立者であると天下に知らしめる必要があった。泰衡の首は、そのための重要な政治道具であった。義経を討とうが討たまいと、頼朝が奥州攻めを決めた時から、泰衡は殺される運命にあったのだ。戦後、頼朝は武士団に存分に褒美を与え、その心を大いに満足させる。そして、奥州の統治を葛西清重に委ねると、鎌倉へと戻って行った。これにて鎌倉幕府の権限は、あまねく全国に及ぶ事となった。建久元年(1190年)、頼朝は上洛し、右大将に任ぜられる。藤原氏を滅亡させた事で、頼朝はようやく心置きなく京に上がる事が出来たのだった。そして、建久3年(1192年)8月、頼朝は征夷大将軍の地位に就き、名実共に武家の頂点に立つ。


藤原氏が心血を注いで作り上げた中尊寺、毛越寺、無量光院などは、鎌倉幕府の庇護を受けて存続していたが、その後、火災を生じるなどして、時代を経るごとに廃れていった。奥州の中心ではなくなった平泉も衰退し、かつての繁栄の面影は消え去った。華麗を極めた建物の多くは消失し、現在にまで残された建物は、中尊寺金色堂のみである。
時代は下り、昭和25年(1950年)3月、中尊寺金色堂に安置されていた、藤原氏4代の遺体の学術調査が行われた。そこには、初代清衡、2代基衝、3代秀衝、4代泰衡らのミイラ化した遺骸があった。

●清衡(身長159センチ、保存状態が悪く広範囲で白骨化。体型は痩身。左半身不随の期間をかなり強いられたと見られる。死因は脳溢血か。4代中、最も老齢で、死亡年齢73歳説は妥当)

●基衝(身長165センチ、清衡より保存状態は良いが一部白骨化。具足の使用や武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脳溢血か。死亡年齢は50~60歳)

●秀衝(身長158センチ、全身はほぼミイラ化しているが、鼠害が著しい。基衝と同じく武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脊椎カリエスか。死亡年齢66歳説は妥当)

3代は共通して歯槽膿漏が進行し、カリエス(慢性炎症)があった。

この中で4代、泰衡の首のミイラは関係者に衝撃を与えた。首桶に入っていた首は、第4頚椎で横に切断され、脳と顔面には16箇所もの切り傷と刺し傷があった。右耳は切り落とされ、鼻も削がれ、なおかつ斬首までに7回太刀が加えられた挙句、最後の2回で切断された痕跡があった。これは、泰衡が最後まで生に執着して、激しく抵抗した為に付いたと見られている。眉間には親指大の釘が打ち付けられた孔があり、これは獄門に晒された事を意味していた。死亡年齢は30歳前後と見られている。


泰衡の首が納められていた桶からはハスの種が見つかり、その後、植物学者の尽力によってハスは、平成10年(1998年)に花を咲かせた。それは、泰衡の無念の思いが800年振りに花となって昇華したのかもしれない。現在、ハスは中尊寺の境内にある湿地に植えられている。それらは中尊寺ハスとして親しまれ、毎年7月頃、可憐な花を咲かせている。



平泉と中尊寺に関するHP



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