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奥州藤原氏と平泉 2

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
義経は常勝将軍から一転、罪人として追われる身となった。義経は畿内各地の寺院を転々として身を隠していたが、その間にも、叔父の源行家や、佐藤忠信を始めとする郎党達は次々に討たれてゆき、愛妾、静御前まで捕らわれてしまった。最早、畿内に身の置き所は無く、義経は始まりの地である、奥州に向かう他無かった。文治3年(1187年)春、義経は苦難の逃避行の末、ようやく平泉に辿り着き、7年振りに秀衝との対面を果たした。だが、恩人の秀衝は病に冒され、すでに余命いくばくもなかった。


死の床にあっても聡明な秀衝は、平氏が滅んだ今、頼朝が次に狙うのは奥州であるという事が判っていた。そして、秀衝は死に臨んで嫡子、泰衡を呼び、義経を大将軍として、泰衡、国衝(泰衡の異母兄)らが三身一体となって、頼朝と戦うようにとの遺言を残すと、文治3年(1187年)10月29日、66歳の生涯を閉じた。偉大なる父から、巨大王国を引き継いだ泰衡であったが、彼は貴族ぜんとした線の細い人物であった。彼には国衝と云う異母兄がいたが、泰衡の母の出が高貴であった事から、兄を差し置いてその跡を継いだのだった。だが、秀衝も泰衡の資質に不安を感じていたのか、軍事の権は国衝に委ねている。しかも、この兄弟間は不仲であったとされる。


秀衝亡き後、奥州政権において大きな発言力を持つ人物がいた。それは秀衝の政治顧問役を務めていた、藤原基成である。基成は京都出身の貴族で、奥州藤原氏二代目、基衝の時に奥州に下向しており、京都とは深い繋がりがあった。毛越寺、無量光院、平泉館といった寺院は、基成の京における人脈を生かして建立されている。そして、基成は自身の娘を三代目、秀衝に娶らせており、その間に生まれたのが四代目、泰衡であった。秀衝が死亡した時には、すでに70歳前後の老齢であったが、泰衡の祖父という事も手伝って、その発言には重みがあった。


文治4年(1188年)2月、鎌倉の頼朝は、秀衝死すの報を聞くと、好機到来と見て、朝廷に義経追討の宣旨を出させて、その旨を奥州の基成と泰衡に伝えた。「義経を差し出さねば、朝敵として義経共々、奥州を討つ」との頼朝からの圧力であった。すでに秀衝の晩年の頃から、義経を差し出すようにとの要求はあったが、老獪な秀衝はこれをのらりくらりとかわしていた。泰衡も当初は同じ手を使っていたが、秀衝との役者の違いもあって、頼朝の圧力に抗しきれず、動揺をきたしていた。そこで、
藤原一族は寄り集まって、討議を行った。秀衝の三男忠衝、四男隆衝、五男道衝、末弟頼衝らは義経を奉って戦うべしと唱え、嫡男泰衡と長男国衝は、頼朝との協調路線を取るべしと唱えたと云う。討議は再三に渡って行われたが、意見は分かれたままであった。平泉には頼朝の間者が常駐しており、藤原一族の動向は逐次、鎌倉に伝えられていた。同年10月、頼朝は、動揺する泰衡を見透かすように、再び使者を送って圧力を掛ける。


この一連の不穏な動きは義経にも伝わっており、最早、平泉は安住の地にあらずとして比叡山に連絡を取り始める。文治5年(1189年)2月15日、泰衡は末弟、頼衝を討った。この出来事は、奥州政権内で意見の対立が激化していた事を物語っている。泰衡は征討の恐怖から逃れんと必死であったのか、それとも奥州の自立を守るにはこれが最善の道と見定めたのか、とうとう義経を討つと定めた。この決定には、泰衡だけでなく祖父の基成も深く関わっていただろう。同年4月30日、泰衡は、衣川の館にいる義経に数百騎の兵を差し向ける。不意を突かれた義経は防戦もままならず、持仏堂に入って22歳の妻と4歳の女子を殺害すると、そこで無念の自決となった。源義経、享年31、大きな栄光と悲劇に彩られた人生であった。同年6月26日、泰衡は、義経と同意していたとして弟、忠衝も討った。すでに頼朝の威令は、奥州を除く日本全域に及んでおり、抵抗しても勝ち目はないと思っていたのだろう。泰衡、基成らは、頼朝の鋭鋒を避けんと必死であった。しかし、現実はそれほど甘くなかった。


義経死すの報は、ただちに頼朝の耳へと伝わった。軍事の天才が死に、これで奥州侵攻の最大の懸念は取り除かれた。同年6月13日、奥州より、美酒に漬けられた義経の首が鎌倉に届けられたが、頼朝はそれに構わず、戦争準備を続ける。頼朝の動員令は全国に及び、九州南部の武士まで鎌倉に集まっていた。泰衡は、頼朝の命に従って義経を討ったのに、関東勢が攻め寄せてくると知って驚愕した。確かに泰衡には罪はなく、頼朝には大義名分が無かった。しかし、東国に武家政権を確立せんとする頼朝にとって、藤原氏は何としても打倒せねばならない相手だった。そして、その配下の御家人達も奥州を討って、恩賞と土地を賜わらん事を欲していた。奥州侵攻は関東武士の総意であり、それは誰にも止められるしろものではなかった。泰衡、基成らの現状認識は甘かったのである。


同年7月19日、頼朝は、関東武士を中心に全国各地から集められた28万と号される軍勢(実数は4~5万人余か)を率いて、鎌倉を出立する。頼朝は奥州に攻め入るにあたって軍を三分し、日本海沿いからは北陸道軍、太平洋沿いからは東海道軍、そして、白河関からは頼朝自ら率いる中央軍が、それぞれ平泉を目指して進軍を開始する。奥州方はこれに対して交通の要所である、伊達郡の阿津賀志山(あつかしやま)中腹から、阿武隈川に至るまでの地(約3・5km)に二重の堀と土塁を巡らせて、関東勢を迎え撃たんとした。この防塁は関東勢の襲来を予想して、奥州方が事前に構築していたものだった。藤原氏は、頼朝との和平交渉をしつつも一方では、万一の事態に備えていたのだろう。この地を守る奥州勢は国衝率いる2万人余の軍勢で、泰衡は後方の仙台に本陣を構えた。 
 

奥州藤原氏と平泉 終に続く・・・



 

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