このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
かつて、奥州には黄金と螺鈿(らでん)に彩られた華麗な仏教都市があった。その名を平泉と云う。奥州藤原4代の統治の下、繁栄を極め、最盛期には人口10万人を数えたとされ、当時、京都と並ぶ日本最大の都市であった。文化面においても京都に勝るとも劣らないものがあり、公家ですら、遠いみちのくの都に思いを馳せるほどであった。この平泉繁栄の礎を築いたのが、奥州藤原氏初代、清衡である。清衡は、永保3年(1083年)から始まる奥州の大乱、後三年の役を経て勢力を伸ばし、やがて、津軽の外ヶ浜から白河関に至るまでの地に、広大な独立王国を築き上げた。更に清衡は北方の豊かな産物を朝廷に送り届けて、その地位を認めさせ、名実ともに奥州の統治者であることを内外に知らしめた。清衡は朝廷に協調しつつも、その介入を許さない体制を取った。
清衡は、最北の外ヶ浜から最南の白河に至る、広大な領域を統治するにあたって、その中間に位置する平泉を本拠と定めた。そして、清衡はここに、京にも負けぬ一大都市と、中尊寺を始めとする大寺院を建設する事を構想する。清衡は7歳の時に前九年の役(1062年)が起こって、父の藤原経清を失い、さらに後三年の役(1083~1088年)によって妻子を失い、その後、異父弟と血塗られた戦いを繰り広げた末に奥羽を統一している。中尊寺の建立には、戦乱で死んでいった敵味方、多くの人々が極楽浄土に導かれるようにとの、そして、奥羽と国家全体がいつまでも安寧であってほしいとの、清衡の切なる願いが込められていた。
興和元年(1099年)より平泉の町造りが始まり、大治元年(1126年)には、その中心となる中尊寺や金色堂などの大伽藍が作り上げられていった。建物には漆が厚く塗りこめられ、さらにその上に金箔が押されていた。菩薩像は金粉、銀粉で描かれ、御堂は瑠璃玉と螺鈿(らでん)が散りばめられていた。この螺鈿に用いられる夜光貝は、琉球以南でないと取れない物である。これらは陽光に照らされると、光り輝いて見えたと云う。これを見た人々は平泉の栄華と、藤原氏の力に瞠目したであろう。中尊寺建立の目的は鎮魂だけでなく、京都の文化を取り入れ、それを東北に根付かせる事、そして、奥州の王者としての清衡の実力を見せ付ける為のものでもあった。
この藤原氏の財力の源となっていたのが、当時の奥州で豊富に算出していた砂金と、海外貿易による利益である。藤原氏は、蝦夷地や大陸の沿海州と交易を行っており、それを通じて北方の豊かな産物を手にしていた。また、博多を通じて中国とも交易を行っており、その砂金をもって、白磁や経典などを取り入れていた。奥州の豊かな産金については、中国の史書にも書き残されており、それがやがてマルコ・ポーロの耳にも入って、黄金の国ジパングの伝説を生んだと云われている。奥州産の砂金や駿馬は京都にも運び込まれ、その代価として京都の様々な文物が平泉へと運ばれていった。奥州産の駿馬は、京都の公家と武家の羨望の的であったと云われている。奥州から運ばれる様々な物品が京都の繁栄を支え、また、その京都から取り入れられる文物が平泉繁栄の基礎となっていた。
大治3年(1128年)7月13日、藤原清衡は73歳でこの世を去り、その跡を基衝が継ぐ。基衝の業績で特筆されるのが、中尊寺を越える大寺院、毛越寺を建てた事である。基衝は、毛越寺の本尊とする仏像を迎えるにあたって、京都の仏師、運慶にその制作を依頼し、そのための礼として、金百両、鷲羽百枚、アザラシの皮60枚、駿馬50疋、白布3千端、安達の絹千疋、その他、様々な物品を船三艘に積んで送り届けたされる。その高価な支度品の数々を見て運慶は仰天し、丹精を込めて見事な薬師如来像を作り上げた。その出来栄えは素晴らしく、それを見た後鳥羽上皇が、洛外への持ち出しを禁じようとしたほどであった。基衝は後鳥羽上皇の妨害をなんとかかわして、無事、仏像を毛越寺に迎え入れたが、その落成を待たずに病に倒れた。
保元2年(1157年)頃、基衝は55歳前後で死去し、その跡を秀衝が継いだ。そして、秀衝は未完成だった毛越寺を完成させて、亡き父に捧げた。秀衝はそれだけでなく京の平等院鳳凰堂を模し、それを超えるとされた無量光院と、政庁である平泉館(柳乃御所)を作り上げた。そして、秀衝自身の居館として、香木の伽羅の木を用いて建てられたとされる伽羅御所も建てられ、壮麗極まる平泉の町並みはここに完成を見た。だが、平和を謳歌する平泉にも、ひたひたと戦乱の足音が近づいていた。その頃、中央では源氏と平氏が激しく競い合っており、その余波が奥州にまで及んで来たのである。平治2年(1160年)1月3日、源氏の棟梁、源義朝は平清盛に敗れ、逃れる途上、配下の裏切りによって殺された。そして、時代は平家の世となり、承安4年(1174年)、義朝の子で、16歳になっていた源義経が、平家から逃れるように平泉に流れ着く。
秀衝は義経を快く迎え入れ、すぐに藤原氏との関係が深い佐藤基治の娘を娶らせたと云う。この佐藤基治の子息、継信と忠信は後に義経に付き従って、共に平家追討に加わる事になる。治承4年(1180年)、源頼朝が鎌倉にて平氏打倒の兵を挙げると、22歳の若武者となっていた義経は居ても立ってもたってもいられなくなり、兄のもとへ駆けつけんとした。秀衝は反対したが、義経の決意が変わる事がないと知ると、佐藤継信、忠信の兄弟と手勢数百騎を付けて、奥州から送り出した。その後の義経の活躍は、多くの人々が知る通りである。
平氏と源氏が激闘を続けていた時、秀衝は局外中立の立場を取った。平清盛から、頼朝を討つ様、要請された事もあったが秀衝は動かなかった。しかし、関東には幾度となく、奥州から兵が雪崩れ込むとの噂が流れていた。実際に奥州から兵が進む事はなかったが、関東の頼朝にとって、どう動くか分からない藤原氏の動向は不気味であった。そのため、頼朝は平氏追討には弟の義経、範頼を差し向けつつも、自らは鎌倉に留まり続けたのである。源平合戦の最中、奥州と関東は戦火こそ交えなかったものの、潜在的には敵対関係にあった。養和2年(1182年)4月、頼朝は、江ノ島にて秀衝を調伏(呪詛)する儀まで行っている。奥州出身の佐藤兄弟らを擁する義経はこの儀には参加しておらず、さぞかし複雑な思いであったろう。
文治元年(1185年)3月、義経は壇ノ浦にて平家を討ち滅ぼし、常勝将軍として京都に凱旋する。人々からもてはやされ、義経は有頂天であった。そして、義経は捕虜とした平時忠の娘を娶ったり、策謀家、後白河法皇に接近して、その親衛隊長の様な役職に就いてしまう。これは頼朝から見れば、義経が平氏政権の基盤を受け継いで、政治的自立を目指しているように映った。両者の間に不信の芽が生えるのにさほどの時間は要せず、やがてそれは、修復不可能な対立へと発展してゆく。頼朝は、義経の所領を全て取り上げた上、同年10月、京都に義経暗殺団を送り込んだ事から、ついに両者の関係は破綻した。これを受けて義経も覚悟を決め、後白河法皇に迫って頼朝追討の宣旨を出させると、叔父の源行家と共に挙兵を図った。
しかし、所領を失っていた義経には確固たる基盤がなく、従う者はほとんどいなかった。一方の頼朝は自ら大軍を引き連れて、義経征討に向かわんとしていた。追い詰められた義経は船で九州に渡り、そこで再起を図ろうとする。だが、嵐によってそれも叶わず、仕方なく畿内各地を流浪する身となった。同年12月、頼朝は京都に北条時政を送りこみ、後白河上皇に、頼朝追討の宣旨を出した責任を追及すると、上皇はすぐさま変節して義経追討の宣旨を出した。頼朝は上皇の弱味に乗じて、全国に守護、地頭を設置させる権限まで獲得した。この年、義経は栄光と所領の全てを失ったが、その反面、頼朝は政権基盤を大いに強化する事に成功した。
奥州藤原氏と平泉2に続く・・・