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2020.06.01 - 
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北ノ庄城

北ノ庄城は、福井県福井市にある城跡です。天正3年(1575年)から柴田勝家が築き始めた城で、織田信長の築いた安土城にも引けをとらない壮大な城であったと伝わります。しかし、天正11年(1583年)4月賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた事からこの城も攻め立てられ、焼失してしまいました。慶長6年(1601年)、福井城の築城にあたって、この北ノ庄城の石材が用いられた事から、現在、その遺構はほとんど残されておりません。


北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城跡、

この付近に本丸があったと推測されています。



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城の石垣跡



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城の堀跡



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑北ノ庄城の想像図



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑舟橋の鎖

この鎖は、北ノ庄城跡のすぐ脇にある資料館内に展示されています。舟橋とは、川に舟を何艘も並べてその上に板と鎖を通して、橋としたものです。この鎖は、柴田勝家が北陸道と九頭竜川が交わる地点に橋を渡した際に作られたものであると伝えられています。



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑左からお市の方、茶々、江、初



北ノ庄城
北ノ庄城 posted by (C)重家

↑柴田勝家の銅像

この石垣は、笏谷石(しゃくだにいし)と呼ばれる石を使用しており、独特の青みがかった色をしています。北ノ庄城もこの笏谷石を大々的に取り入れていて、城の美観に一層の磨きがかかっていたと伝わります。現在、北ノ庄城は幻の城となっていますが、かつては確かに存在しており、壮大な天守閣もそびえ立っていました。
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玄蕃尾城

玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市刀根にある山城です。内中尾山(標高460メートル)の山上に築かれている事から、内中尾城とも呼ばれます。ここは近江と越前の国境沿いにあり、二つの街道を押さえる事も可能な要所にあります。この地に最初に砦を作ったのは朝倉氏であったようですが、ここを大規模な城郭に作り変えたのは柴田勝家です。


天正10年(1582年)6月27日の清洲会議後、勝家は近江長浜城を版図に加えます。その長浜城と、自らの本拠地、越前北ノ庄城とを結び付けるために、この城を修築しました。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが起こると、勝家はこの玄蕃尾城を本陣として使用しています。しかし、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、その存在意義も無くなり、人知れず草木に埋もれていきました。現在、玄蕃尾城は織豊系の貴重な城郭遺構として見直され、国指定の史跡となっています


刀根坂
刀根坂 posted by (C)重家

↑近江と越前の国境、刀根坂

この峠の上に玄蕃尾城があります。熊が出没するとの事で、熊鈴を鳴らしつつ恐る恐るの登城でした。



刀根坂
刀根坂 posted by (C)重家

↑刀根坂からの眺め

この刀根坂は、古戦場でもあります。天正元年(1573年)8月、朝倉義景は、織田信長に攻められていた小谷城の浅井長政を救援に向かいます。しかし、戦況は悪化する一方で、義景は利あらずとして撤退に取り掛かりますが、その最中に織田軍の猛追撃を受けて、朝倉軍は壊滅します。朝倉軍は名のある将多数を含む3千人余が討ち取られ、この刀根坂から敦賀に至るまで屍を晒したと伝わります。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑説明版



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑南虎口



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑東虎口



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑主郭(本丸)

賤ヶ岳の戦いの時、勝家はここで全軍の指揮を執っていました。当時は、勝家を中心とする、屈強な武士達で満ち溢れていた事でしょう。そして、佐久間盛政が奇襲攻撃を行うに当たって、勝家もこの本陣から出撃して行きました。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑張出郭(見張り台)

麓には当時の幹線道路である、北国街道が走っています。



玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家

↑搦手郭(兵糧庫)

結構、広い平坦地でした。


玄蕃尾城
玄蕃尾城 posted by (C)重家


↑古城の一輪花

賤ヶ岳

賤ヶ岳は、滋賀県長浜市にある標高421メートルの山です。この賤ヶ岳は、天正11年(1583年)4月、柴田勝家と羽柴秀吉が天下分け目の決戦をした地として余りにも有名です。


賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑戦死者の慰霊地



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑琵琶湖の北岸



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳山頂の石碑



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳の武士像

傷つき、疲れ切っている様に見えます。良く、表現されていると思います。



賤ヶ岳 遠くに山本山城
賤ヶ岳 遠くに山本山城 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳からの眺め

山本山城が、かすかに見えます。



賤ヶ岳 遠くに小谷城
賤ヶ岳 遠くに小谷城 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳からの眺め

白く霞んでいますが、中央に小谷城が見えます。



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳から大岩山へと続く道

中川清秀が討死した大岩山まで行こうとしたのですが、途中で道が分岐しており、どちらに進んで良いか分からなかったので、引き返しました。


賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑賤ヶ岳合戦図



賤ヶ岳
賤ヶ岳 posted by (C)重家

↑余呉湖

余呉湖の右手の山地に大岩山があり、左手の山地に権現坂があります。この余呉湖周辺で、佐久間盛政隊と秀吉軍とが激戦を繰り広げました。

山本山城 後

山本山城は、滋賀県長浜市湖北町にある山城です。麓にある宇賀神社の近辺に駐車スペースがあり、そこから歩いて30~40分ばかり歩くと山頂まで行けます。


山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑宇賀神社

この社の脇から登って行きます。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑傾斜の強い斜面

山本山の見た目は、低い穏やかな山なのですが、中腹から傾斜が強くなっており、頂上に向かうにつれ非常に息が切れてきます。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑二の丸跡

奥に本丸があります。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑山本山からの眺め。

黄砂が酷くて見え難いですが、琵琶湖の北岸が見渡せ、左手には竹生島もあります。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

ここで阿閉氏が君臨し、そして、最後を迎えたのでしょうか。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑本丸から一番馬場の方を望む。



山本山城
山本山城 posted by (C)重家

↑北面にある一番馬場

ここから北に7、8キロばかり進むと、賤ヶ岳まで通じます。

山本山城 前

山本山城は琵琶湖北東の岸辺にある、山本山(標高324メートル)の頂部に築かれた険阻な山城である。山本山城の歴史は古く、治承4年(1180年)、源氏に属する地元の豪族、山本義経がこの山本山に拠って、平氏に対して蜂起したのが、歴史における初見である。しかし、山本山城と義経は、平知盛・資盛率いる平家の大軍によって攻め滅ぼされたとある。室町時代になると、近江は京極氏の支配化となり、在地勢力の阿閉氏がその被官として山本山城に入った。戦国時代中期、浅井氏が近江北部で勢力を強めてくると、当時の阿閉氏当主である貞征(さだゆき・1528~1582)は、浅井氏の旗下に属するようになった。


元亀元年(1570年)、浅井長政が織田信長に戦いを挑むと、阿閉貞征、貞大(さだひろ・?~1582)父子もそれに従って篭城戦に参加する。阿閉氏は浅井氏の重鎮であり、姉川の戦いでは1千の兵を率いて参陣したとされており、その後も、山本山城に拠って度々の織田軍の攻撃にも耐え抜いた。山本山城は琵琶湖北東の湖上水運を制する位置にあり、また、その存在自体が小谷城を側面援助していた。このように、山本山城と阿閉氏の存在は、浅井氏にとって掛け替えの無いものだった。だが、天正元年(1573年)頃から、浅井氏の劣勢は明らかとなり、それを見越して阿閉父子は信長に降る。これが、浅井氏にとって決定的な打撃となり、同年9月1日、小谷城は落城し、浅井長政も自刃して果てた。


戦後、阿閉氏は本領である伊香郡(いかぐん)を安堵され、浅井氏に代わって近江北部の領主となった羽柴秀吉の与力となる。しかし、秀吉が、阿閉氏の収入源であった竹生島の扶持を差し押さえてくるなど、圧迫を強めてくると、阿閉貞大はこれに反発して信長に訴え出た。その後も、阿閉氏と秀吉の対立は解消される事なく、貞大は信長の直接指揮下に転属する。ちなみに貞大は大力無双の武者で、天正6年(1578年)8月15日には、信長の面前で相撲を披露している一面もある。天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発すると、阿閉父子は明智光秀に組して、秀吉の本拠地であった長浜城を襲った。これには、かねてから遺恨ある秀吉への報復の意味合いも含まれており、秀吉の一族(生母のなか、妻おねなど)は命からがらで城から逃れた。


6月13日、阿閉父子は光秀方として山崎の戦いにも参加したが、この戦いで光秀は敗死し、阿閉父子も山本山城へと逃れた。だが、阿閉父子は、本拠地と家族の命を脅かされ激しい怒りを含んだ秀吉の報復攻撃を受ける事となる。勢いに乗った万余の秀吉軍を前に、いくら山本山城が堅城とは云え、孤立無援の阿閉父子に勝ち目は無かった。山本山城は秀吉軍によって攻め立てられ、阿閉父子は一族郎党共々、族滅されたのだった。この後、山本山城は廃城となり、阿閉氏と共に歴史の片隅に消えていった。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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