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備中松山城

備中松山城は、岡山県高梁市にある山城である。この城は、戦国時代、中国地方の覇者、毛利氏と、備中の戦国大名、三村氏との間で繰り広げられた戦い、備中兵乱の舞台となった事で知られている。


延応2年(1240年)、備中有漢郷(高梁市有漢町)の地頭に任じられた、秋庭三郎重信によって築かれたのが、この城の始まりとされる。城は、標高430メートルの臥牛山山頂に築かれ、時代が下るにつれ、改修、強化されていった。戦国時代を迎えると、備中から勃興してきた戦国大名、三村氏の本拠となった。この三村氏の最盛期を作り出したのが、三村家親(1517~1566)である。家親は、中国地方の雄、毛利氏の後援を受けて、備中一国を平定し、更に備前や美作への進出を図ったが、それに立ちはだかってきたのが、備前の実力者、宇喜多直家であった。直家は、備前の戦国大名、浦上宗景の被官の立場であったが、家中随一の勢力を誇っていた。だが、直家は今の段階では、家親には抗し難いとみて、暗殺者を送り込んで家親を亡き者とする。


家親の跡を継いだ次男、元親は、直家に深い遺恨を抱き、永禄10年(1567年)、備前に攻め入って復仇戦を仕掛けた。この戦いは、三村軍は1万人余で、宇喜多軍は5千人余であったと云われており、三村方が優勢であったが、直家は謀略と戦術を駆使して、これを大いに打ち破った(明善寺合戦)。この勝利を受けて直家の勢威は増し、徐々に戦国大名化していく。一方、元親は、これ以降も幾度と無く、直家と干戈を交えたものの、兄、荘元祐(しょう もとすけ)が討死するなど、敗北が相次いだ。天正2年(1574年)、苦境にあった元親に、更なる追い討ちがかけられる。毛利氏が、仇敵、宇喜多直家と盟約を結んだとの報がもたらされたのである。元親はこれまで、毛利氏を盟主と仰いでいたが、この一件だけは許容できず、織田信長や浦上宗景と結んで、反旗を翻した。これを受けて毛利氏も大軍を催し、直家と共同で、備中に攻め入らんとした。


同年11月、毛利輝元、小早川隆景は数万の大軍を率いて、備中に攻め入り、元親も一国を挙げて、これを迎え撃った。この時の毛利軍の兵力は8万人で、三村軍は1万人であったと云われているが、過大だと思われ、3万人対5千人が妥当なところだろう。毛利軍は圧倒的な兵力をもって、支城を次々に落としてゆき、それらを守っていた、元親の兄弟達、三村元範、上田実親も討死していった。大半の支城を落とした毛利軍は、仕上げとして松山城を囲む。だが、この頃の松山城は、臥牛山一帯に「砦二十一丸」と呼ばれる出丸を設けて、全山要塞と化していた。天正3年(1575年)3月、毛利軍は、松山城に力攻めを加えたが、手痛い反撃を受けて撃退される。以降、毛利軍は兵糧攻めに切り替えて、長期包囲に入った。


元親は半年余、篭城を続けてきたものの、孤立無援で援軍の見込みは無く、寝返る者も相次いだ。同年5月22日、元親は自刃を決意するが、家臣の説得を受けて、城から落ち延びんとした。しかし、松連寺まで来たところで、毛利兵に取り囲まれ、最早、これまでと定める。そして、小早川隆景に使者を送って、自刃を申し出た。この時、元親は、「今回の戦は宇喜多を憎んでのもの、決して毛利を裏切ったのではない」と伝えたとされる。同年6月2日、毛利氏の検使が見守る中、三村元親は時世の句、数首を残して、腹をかき切った。享年は不明である。元親の子で8歳になる、勝法師丸も捕らえられていたが、その利発さを恐れた、隆景によって斬られたとされる。これにて、三村氏は滅亡し、備中国と松山城は、毛利氏が領有する所となった。


以降、松山城は、毛利氏の拠点として用いられるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、毛利輝元が、西軍側の主将となって敗れた為、徳川氏に接収された。備中国奉行として小堀正次、政一が城番として置かれた後、城主は、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と目まぐるしく移り変わって、明治の世を迎えた。明治政府の発した廃城令以降、城は朽ち果てるに任され、倒壊寸前となったが、昭和15年(1940年)、大修理が行われて、現在の姿となった。この時、ほぼ全面的に建て替えられたので、昔の原形とは若干、異なっている。天守閣は二層二階で、現存12天守の中では最も小振りだが、最も高い標高に存在する。



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑大手門石垣


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑大手門石垣


この辺の石垣は、見応えあります。


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑三の平櫓東土塀(さんのひらやぐらひがしどべい)


現存する土塀です。


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑本丸



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑天守閣


小振りな天守閣で、内部もこじんまりとしています。


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑天守閣内部


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑天守閣内部



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑二重櫓



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑城下町


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑城下町


備中松山城は、現存12天守の城の1つであって、天守閣目当ての人も多いかと思いますが、過大な期待は抱かない方が良いでしょう。それよりも、大手門の石垣や、本丸からの眺めを楽しむといった感じが、良いかと思います。それと、ここは戦国の争乱の地であったので、歴史の説明を読みながら散策すると、より楽しめるでしょう。

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鬼ノ城

鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市にある古代山城である。


鬼ノ城の築城年代は、はっきりしていないが、出土した遺物のほとんどが7世紀後半から8世紀初頭の物である事から、7世紀後半に築城されたと見られる。この城は、当時の国際関係の緊張を受けて築城された、国家的事業による城郭である。西暦660年、朝鮮半島南西部にあった国家、百済が唐・新羅連合軍の攻撃を受けて滅亡する。百済の遺臣達は、その後も抵抗して復興運動を続け、その援助を日本の王朝、倭国に求めた。百済と倭国は、長らく友好関係にあった事から、大和朝廷はこの求めに応じ、朝鮮半島に数万の兵を送った。しかし、663年、倭国・百済連合軍は、白村江において、唐・新羅連合軍に破れ、百済復興の夢も潰えた。大和朝廷は、唐・新羅による日本侵攻を警戒して、西日本各地に城を築いた。その城の1つが、鬼ノ城である。


鬼ノ城は、吉備高原南縁、標高397メートルの鬼城山を中心に築かれた。頂部は平坦、斜面は急傾斜で、既に天然の要害の地を成していた。そこに、土塁や石垣を鉢巻状に巡らせて山頂部を囲い込み、その全長は2.8キロに達した。大半は土塁であるが、土を強く押し固めた版築工法によるもので、非常に頑丈で、高さは約6メートルあった。山頂部にあるが、水の湧き出る谷が幾つもあるので、飲料水に困る心配は無い。規模壮大な城門が東西南北、四箇所に設けられ、中心部には、食料貯蔵庫と見られる高床倉庫が設けられ、城内には鉄器を製作、修理する鍛冶工房もあった。その規模を見ると、数千人の長期の篭城が可能であったろう。鬼ノ城の名は史書にこそ載っていないが、国家的事業による築城であったのは間違いない。



鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑鬼ノ城の全体図


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑西門


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑西門

ここだけ復元されています。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑南を望む

晴れていれば、瀬戸内海や四国も望めるようです。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑鍛冶工房跡

築城に使う鉄器を、ここで製作していたそうです。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑東門

鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑屏風折れの石垣

ここの石垣が、鬼ノ城の見所の1つです。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑屏風折れの石垣

結構な急斜面に築かれています。かなりの難工事だったでしょう。



鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑土塁跡

年月を経ているので、高さはそれほどありませんでしたが、それでも土塁だとはっきり分かりました。


鬼ノ城
鬼ノ城 posted by (C)重家

↑北門

西門から、一周廻って来ました。遺跡見学も良いですが、周りの景色も良かったです。晴れていれば、素晴らしい眺望が得られるでしょう。

彦根城、再訪

彦根城は、滋賀県彦根市にある平山城です。10年程前に一度訪れているので、再訪となります。


慶長5年(1600年)9月、徳川第一の功臣、井伊直政は関ヶ原合戦の功をもって、旧石田三成領18万石と佐和山城を拝領する。直政は、新城を築く事を計画していたが、実行に移す前に関ヶ原の負傷が元で、慶長7年(1602年)に死去した。嫡男の直継が跡を継ぎ、慶長9年(1604年)7月より、彦根山を中心に築城が始まった。慶長11年(1606年)6月、天守閣が築かれ、慶長19年(1614年)には、内堀とそれより内にある建物群と、城下町が完成を見た。慶長20年(1615年)2月、直継は家臣団統制に苦慮していた事から、次弟の直孝に交代させられる。


元和元年(1615年)7月、普請が再開され、元和8年(1622年)、表御殿、黒鉄門、外堀などが築かれ、城下町の拡張も行われて、ここに彦根城は完成を見た。幕末の大老、井伊直弼(1815~1860年)も、この城で生まれ育っている。明治時代、廃城令によって、全国の城が次々に取り壊されていく中、大隈重信の提言を受けて、彦根城の解体は免れた。昭和27年(1952年)、彦根城の天守閣と、附櫓、多聞櫓は国宝に指定され、昭和31年(1956年)には、彦根城は国特別史跡に指定された。


彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑彦根駅前にある井伊直政像


彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑玄宮園からの眺め


彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑玄宮園からの眺め


彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑本丸からの眺め 右手の山は、かつての石田三成の居城、佐和山城で、左手の奥に伊吹山が見渡せます。



彦根城
彦根城 posted by (C)重家

↑本丸からの眺め 竹生島が見渡せました。


彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城
彦根城 posted by (C)重家



彦根城の紅葉はなかなか見応えありましたが、現在の彦根城主である、ひこにゃんに出会えなかったのは残念でした。どうも、訪問時間が早過ぎたようです。まあでも、早朝は人が少なくて、ゆったり散策出来ましたし、天守閣にもすんなり入れたので良しとしておきます。




八上城

八上城は、兵庫県篠山市にある山城で、黒井城、八木城と並んで、丹波の三大山城と称されています。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑麓にある春日神社

鳥居をくぐった先に、車が1、2台停めれるスペースがあります。この神社から登り始めます。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑主膳屋敷跡

歴代の当主が住まっていた所です。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑二の丸跡

この先にある土塁が、本丸跡です。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸から西を望む

左下にある山には、法光寺城が築かれていて、八上城の側面防御を担っていました。明智光秀との攻防の折には、ここは占領され、付城とされた模様です。この両城の谷間に城下町があり、その奥にかつての波多野氏の本拠、奥谷城がありました、



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸跡



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸跡の石垣

この石垣は、明智光秀か豊臣秀吉の統治下にあった時に、築かれたものでしょう。




八上城
八上城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

眼下にある小島の様な丘陵にも、織田軍の陣所が設けられていました。このどれかが、ロウ山で、光秀の家臣、小畠越前守が守っていましたが、波多野軍に攻め懸けられ討死しました。丹波は霧が深い事で知られており、その霧に乗じて、波多野軍は忍び寄ったのでしょう。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑大堅堀跡

実際、大きな堀切りでした。



八上城
八上城 posted by (C)重家

↑朝路池跡

底が見えていたので、入水自殺をするには無理があると思いました。しかし、この付近は、なにやら重々しい雰囲気が漂っているように感じました。山中では誰一人出会わず、不気味なほど静寂だったので、余計にそう感じました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑八上城遠景

これは、篠山城の本丸からの眺めです。八上城のある高城山は、整った山容をしており、丹波富士とも称されています。    

金沢城

金沢城は、石川県金沢市にある平山城である。


天文15年(1546年)、加賀国を支配していた一向一揆は、統治拠点を設けるべく、犀川と浅野川に挟まれた台地上に、城郭風の寺院、尾山御坊(金沢御堂)を築いた。以降、尾山御坊は本願寺の北陸における一大拠点として用いられ、ここを発した一向一揆軍は、有力戦国大名の朝倉義景や上杉謙信とも戦った。しかし、畿内の覇者、織田信長の攻勢には抗しかね、天正8年(1580年)、織田家部将、佐久間盛政の攻撃を受けて、尾山御坊は落とされた。 戦後、佐久間盛政は功績として加賀半国の統治を委ねられ、尾山御坊を金沢城と改称して本拠に定めた。 天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで敗れた盛政は5月に刑死し、代わって、能登一国の領主であった前田利家が、金沢城と加賀半国を受け取った。


利家は金沢城を本拠と定めると、新たに堀を穿ち、櫓や郭(くるわ)を増設し、天守閣を築くなどの大改修を加えた。工事はその後も続けられ、前田家の領国拡大と合わせて、城は拡張されていった。慶長4年(1599年)、利家は死去し、長男の利長が跡を継いだ。この利長の時代、前田家は能登、加賀、越中の3カ国、122万5千石を支配する、日本最大の外様大名となった。その後、加賀大聖寺藩10万石、越中富山藩10万石が成立、分与されたので102万石となるが、それでも徳川家に次ぐ実力者である事に変わりはなく、家格も徳川家に次ぐものがあった。そして、金沢城とその城下町は、いわゆる加賀百万石のお膝元として栄え、北陸最大級の都市へと発展する。


しかし、金沢城は火の運が悪いようで、度々、焼失を受けている。

慶長7年(1602年)、落雷を受けて、天守閣と本丸の建物が焼失する。これ以降、天守閣が再建される事は無かった。

元和6年(1620年)、火災を受けて、本丸御殿が焼失する。

寛永8年(1631年)、城下の大火を受けて、再建された本丸御殿が焼失する。これ以降、本丸の機能は二ノ丸に移されていった。

宝暦9年(1759年)、城下の大火を受けて、城内ほぼ全域が焼失する。この火災は城のみならず、城下の90パーセント、10,500戸以上を焼き尽くす大惨事となった。おそらく、千人余の死者と万を超える被災者が出ただろう。このため、加賀藩は幕府より5万両を借用して復興に努めた。

文化5年(1808年)、二ノ丸御殿が出火して、全焼する。

明治4年(1571年)、金沢城は陸軍省の管轄下に入り、師団の司令部が置かれるも、明治14年(1881年)、営所より出火して、再建された二ノ丸御殿、五十軒長屋、橋爪門などが焼失する。


現在、金沢城は、石川県が用地を取得して、史実を尊重しつつ、伝統工法と現在工法を織り交ぜて建物を再建しつつある。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑石川門

金沢城の特徴の一つが、この独特な外観の海鼠塀(なまこべい)です。


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑手前が河北門で、奥が五十軒長屋



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑河北門から見た五十軒長屋



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋から見た、三の丸広場


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑五十軒長屋内部

伝統工法と現代工法の双方が、用いられています。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑三十軒長屋

安政5年(1858年)に再建された長屋で、重要文化財に指定されています。



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑極楽橋付近の石垣



金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑玉泉院庭園

寛永11年(1634年)、三代藩主、前田利常によって作庭された庭園で、その後、歴代藩主によって手が加えられていきました。明治時代に廃絶され、大正時代に池は埋め立てられましたが、平成27年(2015年)、絵図、文献等を参考にして復元されました。


金沢城
金沢城 posted by (C)重家

↑玉泉院庭園と奥に本丸石垣

金沢城を散策するなら、合わせて兼六園や東茶屋街を散策するのをお勧めします。そして、食事は近江市場で取っては如何でしょうか。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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