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ドイツ本土航空戦 2

●第二次シュバインフルト爆撃


1943年10月14日早朝、イギリス東部の基地から、アメリカのB17爆撃機291機と搭乗員3、000人が次々に飛び立っていった。機内通信機からは、搭乗員達の祈りの声が響く。爆撃目標は前回と同じく、シュバインフルト及び、レーゲンスブルクである。乗員達が頼れるのは、自らの防護機銃と、僚機の援護であった。第8航空軍では爆撃隊の損害を少しでも減らすべく、戦闘隊形に工夫を凝らしていた。それが、コンバットボックス(箱型編隊)である。



↑コンバットボックス


上下左右に広がる立体的な密集編隊を組んで、防護機銃の死角を無くすと共に、突入してくる敵機に対して、多数の爆撃機による集中射撃が出来るようにしていた。コンバットボックスは15~18機で1編隊が構成され、更にこれを3つに集合させたのがコンバットウイングで、45機~54機で構成された。コンバットボックスの防御火力は確かに強力で、ドイツ戦闘機といえども迂闊に近寄る事は出来なかった。しかし、損傷を受けたり、攻撃を避けようとして、編隊から落伍した機体があれば、たちまちドイツ戦闘機によってなぶり殺しとなった。



爆撃隊が、ドイツの都市アーヘン(ベルギー、オランダと国境を接する)に差し掛かると、護衛のP47戦闘機は、航続距離の限界に達して、翼を振りつつ帰投していった。ここからは爆撃機の単独行になる。すると、その時を待っていたドイツ戦闘機隊が、すかさず波状攻撃を開始仕掛けてきた。まず、Fw190とBf109の単発戦闘機の第1陣が、編隊の正面から機関砲を撃ちかけながら襲来する。単発戦闘機のすぐ後ろには、第2陣のBf110などの双発戦闘機が控えており、主翼下の空対空ロケット弾を編隊に向けて発射した。このロケット弾は強力だが、無誘導で命中率は低かった。だが、時限信管が取り付けられており、上手く編隊の中で爆発させる事が出来れば、損傷を与えて、編隊を崩す効果があった。また、Ju87急降下爆撃機も、上空から時限爆弾を投下して、編隊を攻撃した。第2陣はロケット弾を撃ち放つと、続いて機関砲で爆撃機を攻撃した。



第2陣が攻撃中、先陣の単発戦闘機は着陸して、燃料弾薬を補給し、再び迎撃に舞い上がってゆく。そして、隊伍を整えた双発戦闘機も合わせて攻撃を開始する。ドイツ戦闘機隊は、爆撃機の1編隊に狙いを定めると、ロケット弾で編隊を崩し、損傷したり、落伍した爆撃機に銃撃を加えて、止めを刺していった。ドイツ軍は300機を超える各種迎撃機を差し向け、また、あらゆる戦法を用いて爆撃機の撃墜を図った。アメリカ爆撃隊の損害は記録的なものとなり、291機の出撃機の内、65機が撃墜された。その損失率は25%に達しており、搭乗員も1,000人以上が失われた。ドイツ軍は合計312機で迎撃し、その内、35機を失った。今回の犠牲をもって得た戦果は、ボールベアリングの一時的な減産であった。



当初、アメリカ空軍首脳は、自軍の爆撃機の性能を過信して、迎撃にやってくるドイツ戦闘機を逆に屠る事も出来ると見なしていた。実際、B17、B24の防御火力は強力で、優れた貫通力を誇る12・7mm機銃を10挺丁以上装備して、それらを機体の上下左右に配置して、死角を無くすようにしていた。機体構造も頑丈で少々の被弾はものともせず、アキレス腱となる燃料タンクも自動防漏式(被弾しても、ゴムの膨張によって燃料漏出を抑える)となっていた。特にB17の機体の頑丈さには定評があって、「空の要塞」の名に相応しい性能を誇っていた。アメリカ空軍首脳は、これら強力な爆撃機をもってすれば、味方戦闘機の護衛無しでも、ドイツ戦闘機を撃退し、戦略目標を爆撃可能だと見なしていた。しかし、実情は遥かに過酷であった。



アメリカ空軍の公式記録 、「1943年10月中旬、昼間爆撃作戦は危機に瀕していた。代償は危険なまでに高くなる一方で、戦果には疑問が付きまとっていた。従って、この作戦の前提となっていた事柄は再考すべきだった。第8航空軍はこの時期、ドイツ上空の制空権を失っていたのが事実だった。そして、確実な長距離援護を受けられなければ、制空権を取り戻す事は出来ない。明確に、戦闘機の航続距離を延ばす必要がある」



アメリカ空軍首脳にとって、一連の爆撃作戦の損失率は、許容できる範囲を超えていた。そして、ドイツ深部への爆撃攻勢は一時、控えられ、味方戦闘機の護衛の範囲内、ドイツ北部やフランス占領地などの短距離目標に切り替えられた。アメリカ航空軍司令官アーノルドも、「爆撃機と共に出撃して、共に帰投できる戦闘機を製造する事が、絶対的に必要である」と確信するに到り、爆撃機搭乗員も、全行程を援護してくれる戦闘機の登場を心底、願っていた。



これらの期待に応えられる唯一無二の存在が、新鋭の長距離戦闘機P51マスタングであった。P51は空力特性に優れた機体で、運動性に優れるばかりか、燃費も素晴らしく、戦闘機としては異例の大航続距離を誇った。機体タンクに693ℓ、機体後部タンクに1,018ℓ、更に409ℓの増槽を2つ装備すれば、戦闘半径は1,200kmを超えた。イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmであったので、優にドイツ深部まで進撃可能であった。また、増槽を大量生産する事によって、P47など、既存の戦闘機も航続距離を伸ばす処置が取られた。



1943末、待望のP51戦闘機隊がヨーロッパ戦線に到着し、同年12月13日のキール爆撃から護衛に付くようになった。当初は機数不足から目立った働きは無かったが、週ごとに数百機単位でアメリカから機材が送られてくると、急速に戦力を増していった。P51だけでなく、B17爆撃機の機体数増加にも、目を見張るものがあった。アメリカの工業力が、底力を発揮し出していた。だが、一方のドイツ軍も戦力増強に余念がなく、1944年1月、ドイツ防空戦闘機隊は、機材の量産と戦力の集中によって、これまでにない最大の規模に達していた。



ドイツ本土、オランダ、ベルギー、フランスなど西部戦線全体で、単発戦闘機870機、双発戦闘機780機、合計1,650機を配備したのである。搭乗員も選りすぐりの精鋭が揃っていた。それだけでなく、レーダー、高射砲、探照灯の増強も進められ、1944年には高射砲11,950門、探照灯7,520基が配備された。これらのレーダー、高射砲、探照灯、戦闘機隊を組み合わせた防空線(カムフーバーライン)をデンマークからフランスにまで巡らせて、連合軍機を待ち受けた。こうして、ヨーロッパ上空にて、史上最大規模の航空決戦が始まろうとしていた。



1944年初頭、満を持して、アメリカ第8航空軍によるドイツ本土爆撃が再開された。爆撃機の出撃機数は平均600~700機に達しており、これを、ほぼ同数の戦闘機が往復護衛した。ドイツ戦闘機隊はこれまで、護衛戦闘機が帰投するところを見計らって爆撃機を攻撃し、大きな戦果を挙げていた。しかし、アメリカ軍の新型長距離戦闘機の登場によって、この戦法は通用しなくなる。しかも、P51戦闘機隊は、敵戦闘機を積極的に攻撃するよう命じられており、敵機を見つければ近接支援を外れ、必要に応じて低空まで追撃を行った。これを受けて、ドイツ戦闘機隊が爆撃機を攻撃するには、まずP51戦闘機隊の護衛網を突破せねばならなくなり、これまでに無い苦しい戦いを強いられる事となった。



1944年3月6日、戦力を増した第8航空軍は、ついにドイツの首都、ベルリンに対する、大規模爆撃を敢行する。B17及びB24爆撃機の編隊672機と護衛戦闘機800機余の一大戦力が、ベルリン市と周辺の工業施設に爆弾の雨を降らせた。しかし、この日はさすがにドイツ空軍の迎撃も激しく、地上からの対空砲火も凄まじいものがあった。第8航空軍は大損害を被って、672機の爆撃機の内、69機が撃墜され、護衛戦闘機も11機が失われた。一方、ドイツ空軍も無傷では済まず、戦闘機106機を失った。その2日後にもベルリン爆撃は決行され、539機の爆撃機を891機もの戦闘機で護衛したため、ドイツ戦闘機隊が大きな損害を出した。その後も第8航空軍による、ドイツ本土爆撃は引き続いた。



1944年春、ドイツ上空にて、P51戦闘機隊とドイツ戦闘機隊による、血みどろの航空戦が繰り広げられた。この過程で両軍とも、多数の機材と搭乗員を失う。だが、アメリカ戦闘機隊は機材、搭乗員を滞る事なく補充して、戦力を維持したのに対し、ドイツ戦闘機隊は損失に補充が追いつかず、その戦力は減少する一方だった。ドイツ空軍はこの危機を凌ぐため、東部戦線や地中海戦線から次々に戦闘機隊を引き抜いて、本土防空に当てたが、それすら次々に失われていった。また、この措置の代償として、東部戦線及び地中海戦線では、連合軍が圧倒的な航空優勢に立って、ドイツ空軍は偵察飛行さえ、ままならなくなった。



1944年4月、東部戦線のドイツ空軍は、戦闘機、爆撃機など、各種航空機を合わせて500機のみであったが、対するソ連空軍は13,000機に達しており、制空権を完全に掌握していた。しかも、ドイツ空軍に所属する、対空砲1万門とその要員50万人もドイツ本国に回送された。対空砲は対戦車砲としても有効であったので、東部戦線のドイツ軍は、空陸共に戦力を大きく減少させる結果となった。これを受けて、1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ軍に壊滅的打撃を与えるのである。この様にドイツ本土航空戦は、多方面の戦線にも重大な影響を与えていた。



1944年1月から5月にかけて、ドイツ防空戦闘機隊は、月平均450人の搭乗員を失っていった。5月24日には、稼動可能な戦闘機数は240機に過ぎず、5月下旬までに2,262人の搭乗員が戦死していた。中でも、経験を積んだ熟練搭乗員を多数失ったのは致命的であった。


エゴン・マイヤー  102機撃墜 3月2日戦死

アントン・ハックル  192機撃墜 3月3日戦死

ゲルハルト・ロース 92機撃墜 3月6日戦死

エミール・ビッチェ  108機撃墜 3月15日戦死

ヴォルフ・ディートリヒ・ヴィルケ 162機撃墜 3月23日戦死

ヨーゼフ・ツヴェルネマン 126機撃墜 4月8日戦死

オットー・ヴェスリンク 83機撃墜 4月19日戦死

クルト・ウッベン 110機撃墜 4月27日戦死

レオポルト・メンステル 95機撃墜 5月8日戦死

ヴァルター・エーサウ 123機撃墜 5月11日戦死

フリードリヒ・カール・ミューラー 140機撃墜 5月29日戦死


1944年2月から5月にかけての空の消耗戦は、戦史においては目立たないが、戦争の行方を左右する重大な出来事であった。ドイツ空軍は打倒され、ドイツ上空ですら、連合軍の支配するところとなった。この圧倒的な制空権確保を受けて、1944年6月6日、アメリカ、イギリス連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させるのである。この時、連合軍総司令官アイゼンハワーは、兵士達にこう訓示している。「空に飛行機が見えたら、それは味方の飛行機だ」と。だが、ドイツ空軍は余力を振り絞って、反撃に出る。ためにノルマンディー戦線においても、果てしない空の消耗戦が続けられた。劣勢ながらドイツ空軍は善戦して、ほぼ同等の損害を与えていたが、連合軍の制空権を覆すまでには到らなかった。



このノルマンディー上陸作戦の前後、連合軍爆撃機は主にフランスで、地上軍の支援に回されたので、その間はドイツ本土爆撃が低調になった。だが、フランスにおける連合軍優位が確立されると、連合軍爆撃機は、圧倒的な戦力でドイツ本土爆撃を再開する。爆撃機の1回の出撃機数は、1,000機単位となっていて、これに、ほぼ同数の護衛戦闘機が付いた。 ドイツ本土とフランスにおける航空消耗戦で、疲弊仕切っていたドイツ空軍にこの爆撃を阻止する術は無かった。



1944年6月以降、連合軍爆撃機はとりわけ、石油精製工場、鉄道操車場、送電網に効果的な爆撃を加えた。ドイツの心臓たる重工業は、石炭を養分として動いていた。その養分を届ける血管の役割をしていたのが、ドイツの鉄道網である。連合軍はこれに目を付けて、鉄道網を中心とする、ドイツの輸送網全体の破壊を試みた。そして、連合軍爆撃機は、操車場、機関車庫、駅、橋梁、運河などに、大量の爆弾の雨を降らせた。その結果は如実に現れ、ドイツの石炭生産量は1944年9月以降、急速に低下する。そして、1945年2月には、ドイツの主要石炭生産地である、ルール地方からの石炭輸送量は10分の1に低下していた。ドイツ工業は養分の石炭を断たれて、次々に停止していった。輸送網が破壊された結果、兵士、武器弾薬、食糧の輸送にも困難を来たし、ドイツ国内ですら孤立地帯が生じつつあった。



ドイツの航空燃料生産は1944年3月には18万1千tあったが、5月下旬からの爆撃以降、生産量は激減する。6月は5万6千t、9月は1万7千t、1945年2月に到っては僅か1千tとなった。ドイツの航空機生産量は、1944年に最高潮に達し、3万9,800機もの機体を生み出したが、大戦末期になると、機体はあっても燃料が無いという状況になった。そして、燃料不足は搭乗員育成にも深刻な影響をもたらした。ドイツの新米搭乗員は、連合軍より遥かに短い訓練期間を経て、離着陸がやっという状態で戦闘機に乗り組み、圧倒的な数の連合軍戦闘機に挑まねばならなかった。1944年6月から10月までに、ドイツの搭乗員は1万3千人が戦死したとされる。これらのほとんどは未熟な搭乗員であって、子供殺しとまで呼ばれた。アメリカ軍搭乗員は、地表近くまで追い詰めたドイツ戦闘機が、鉄塔、木、建物を避けられずに激突するのを多数、目撃したと証言している。 

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