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空母「蒼龍」艦長、柳本柳作 前

昭和17年(1942年)6月4日、この日、日本海軍は、ミッドウェー海戦に望んで、痛恨の大敗北を喫した。海上には、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母が炎上して漂っていた。中でも蒼龍の被害は深刻で、早々に、総員退去が発せられた。炎と煙が渦巻く中、艦長は盛んに、「飛び込め!飛び込め!」と叱咤の声を上げていた。それを受けて、乗員達は次々に海に飛び込んでいく。乗員達は泳ぎながら、艦橋の方を仰ぎ見た。艦長は、大火傷を負っているようで、顔を赤く腫らしていた。だが、それを気にする素振りはなく、泳ぎ去っていく乗員達の姿をじっと見つめていた。それは、乗員達が生き延びてくれるようにと、祈っている様だった。乗員達は深い悲しみと感動を覚えながら、艦を去っていく。この部下思いの艦長の名を、柳本柳作といった。


明治27年(1894年)、柳本柳作は、長崎県平戸市に生まれた。13歳の時、父が事業に失敗して自殺し、貧しい生活を送った。母と兄が働いて家計を助け、柳本も毎日10キロ弱の距離を歩いて中学校に通い、夜遅くまで勉学に励んだ。大正2年(1913年)、19歳の時、海軍兵学校に入学して、軍人の道に進んだ。兵学校時代、抜群の体力を示して、皆から注目された。大正5年(1916年)、少尉候補生として練習艦常盤に乗り込んだ時、夜になっても寝床に姿を見せない日が続いたので、皆から、「柳本候補生は夜も寝ないらしい」と噂を立てられた。候補生仲間が不審に思って捜すと、睡眠を削って読書に勤しんでいる柳本の姿が目撃された。大正13年(1923年)、30歳の時、24歳のアヤ子と結婚した。その後、4男1女が生まれるが、長男と次男は早くに亡くなった。


昭和12年(1937年)、大佐に進級して水上機母艦、能登呂の艦長に任ぜられた。一艦の長となった柳本は、意気込みのあまり、乗員達に厳しい訓練を課し、規律違反者には容赦なく厳罰を下した。その結果、乗員達は艦長を恐れて遠ざかり、艦内の士気は著しく低下してしまう。柳本の謹厳実直過ぎる性格が、悪い方に作用したのだった。柳本と付き合いの深かった草鹿龍之介大佐は、それを見かねて、「謹厳実直もいい加減にせい。それじゃあ部下はついてこんぞ」と厳しく忠告した。柳本はそれを真面目に受け取って、反省したらしい。その後、能登呂の士官室で宴会が開かれた際、柳本はねじり鉢巻姿で酒を飲み、酒樽を叩いて安来節(やすぎぶし・どじょうすくいを含む滑稽な踊り)をやりだしたので、部下達はびっくり仰天した。それ以来、艦内のぎくしゃくした空気は消え、和気あいあいたる雰囲気に変わったと云う。柳本は、艦長として一皮剥けたようだった。


昭和14年(1939年)、柳本は、軍令部第二部の第三課長に任ぜられ、昭和16年度から開始される軍備充実計画(通称⑤計画)に熱心に取り組んだ。その主張するところは、50センチ砲搭載の改大和型戦艦、5万トン級空母、3万トン以上の超大型巡洋艦、潜水型空母、潜特型潜水艦の建造であった。海軍内では、航空機を主兵にすべきとの声が強まっていたが、柳本は砲術科出身であったので、砲戦重視の保守的な軍備充実案を提出したのだった。その一方、誰より早くレーダーの可能性に着目し、「電波をもって標的を検出する装置なくしては、戦争突入は不可能である」と主張して、昭和16年5月にレーダーの研究を開始させ、同年9月には一応、完成にまでもっていった。実戦での装備は、翌昭和17年5月となる。


昭和16年(1941年)10月6日、柳本は、空母「蒼龍」の艦長に任ぜられた。

航空母艦「蒼龍」の性能要目

基準排水量15,900トン 満載排水量19,500トン

全長227・5メートル  全幅21・3メートル

機関出力152,000hp

最大速力34・5ノット 航続距離 18ノットで7680海里

兵装 12・7センチ連装高角砲6基  25ミリ連装機銃14基

搭載機 常用57機 補用16機

乗員1,103人

1934年11月20日に起工し、1937年12月29日に竣工した中型正規空母である。



↑蒼龍 (ウィキより)



↑柳本柳作 (ウィキより)


柳本は、厳格で堅苦しい印象を醸し出しており、しかも、「海軍の乃木さん、融通のきかないコチコチの石頭、軍人精神の権化」と噂されていたので、蒼龍の乗員達は、戦々恐々で新艦長を迎えた。これに対して柳本は、「艦長は兵と共にありたい」という指針を掲げて、艦に乗り組んだ。艦内巡視は欠かさず行い、各科、各居住区、艦底の機関科まで隈なく歩いて、乗員の健康状態、衛生状態を徹底的に調べ上げた。そして、改善すべきところは即座に改善させ、科長や士官が慣例を盾に抵抗を示しても、一切受け付けず、乗員第一主義を貫いた。食事も、下士官兵に出される、麦飯が半分混じった一汁一菜の質素な兵食を3食、取り続けた。艦長には従兵が付いていて、白米の特別食が出されるにも関わらずである。こうした柳本の心がけは全乗員に伝わって、信頼が寄せられるようになった。


真珠湾を目指しての航海以降、柳本は、46時中、片時も艦橋を離れようとはしなかった。艦橋を出るのは、食事と便所、夕食後に艦長室で要務をこなす時だけであった。昼間は艦長用の高椅子に陣取り続け、夜は背後に置かれた安楽椅子に毛布をかぶって寝た。副長の小原中佐が体を心配して、艦長室で休むよう促しても、「いや、いつ敵の空襲を受けるとも限らんから」と首を横に振るのだった。異様とも思えるほどの、精勤振りであった。そんな柳本に、小原中佐は最初は戸惑ったが、やがて、身を挺して艦と乗員を守りたいという、艦長の熱意の表れであると気付くと、心から感銘を受けた。


柳本は、艦長訓示ではいつも、「何か尋ねる事、心配事があったら、遠慮せず艦長室へ来い。ここにおる者は皆、艦長の子供である」と述べていた。真珠湾攻撃を目前に控えて、搭乗員の岡本高志二等飛曹は、思うところがあって艦長室のドアを叩いた。いつもは艦橋に詰めている柳本が、運良く部屋にいた。そして、「何か用か。こっちへ入れ」と手招きした。岡本が緊張しきって、「お尋ねしたい事があって参りました」としぼり出すと、柳本は頬をくずし、自分で椅子をもってきて、岡本の前に置いた。岡本は、「自分は搭乗員になって、いつも生死と隣り合わせに生きております。死についてどう考えてよいのか、考えがまとまりません。自分が精一杯戦って死を迎えた時、自分がはたして微笑んでいる事が出来るのか、そんな従容とした気持ちで死につく事が出来るのか、今だに悟りきれなくて悩んでおります」と言った。


柳本は、岡本の目をじっと見つめながら、率直に語った。

「私も中尉の頃から、武人としての生き方をあれこれ考えてきたが、今に至るも覚悟は出来ていない。今ここに拳銃があって死ぬという事になれば話は簡単だが、艦長として艦と運命を共にする事になれば、艦と自分の体が一体になって沈んでいく訳だからね。従容として死ぬ事が出来るかどうか。自分だけ艦から逃げ出そうとする心があり、それを脱却して、艦と一体になって沈んでいく事が自然でなければならぬと思う。その点では、君達搭乗員の方が幸せかもしれないね。(死ぬまでの)時間が短いから」と答えて、屈託なく笑った。


岡本は、「はあ、その点は艦長よりは幸せといえるでしょうが。でも、自分はそこまでの境地に達していないのが恥ずかしい限りです」と返した。岡本は、艦長がその言葉通りになんでも話してくれると、感激した。艦長が、下士官兵に腹蔵なく話をするのは、厳格な階級制度のある海軍では、異例の出来事である。柳本は、相手が士官であろうと、下士官兵であろうと差別はせず、誰でも対等に扱ってくれた。突然、柳本が、「ビールは好きか」と尋ねて、岡本が、「はい」と答えると、従兵にビールを4本持って来させた。それから気兼ねなく話しながら、岡本は1人で3本を飲み干した。「失礼しました」と言って退出する際、柳本は笑いながら、「また来い」と声をかけた。


3日後、前回の言葉通り、岡本は艦長室へと呼び出された。そして、出撃を前にしての、意気込みの程を聞かれた。岡本は、「皆と同じで緊張しています」と答えた後、思い切って、「艦長はこの戦争は勝てるとお思いですか?」と尋ねてみた。柳本はしばらく考えた後、「日米戦争については、いろいろな面から考えて私は日本に不利だと思う。だからこそ、天佑神助を祈ろう」と答えた。岡本は、この言葉の真意を掴めなかったが、戦後、数十年経ってから、この戦争は勝てないと心情を吐露してくれたのだと気付き、改めて感じ入るのだった。


柳本は、出撃を前にした搭乗員に対して、未来に希望が持てない話をするのは良くないと思いなおしたのか、「人事を尽くして天命を待つ、そんな心構えが必要だね」と元気付けた。この後、またビールが4本、運ばれてきた。岡本1人でほとんど飲みきったが、その間、柳本は、にこにこと笑いながらそれを見ていた。真珠湾攻撃が成功に終わり、岡本が、「艦長、無事帰りました。ありがとうございました」と報告すると、柳本はよしよしといった感じで2,3頷いた。だが、真珠湾攻撃では、蒼龍出撃隊52機の内、零戦3機、九九艦爆2機を失って、戦死者7人を出していた。その報告を受けている時、柳本は、「そうか」と言って、目をうるませていた。


真珠湾攻撃の帰路、空母、飛龍と蒼龍はウェーキ島攻撃を命じられ、攻撃隊を送り込んだ。この時、蒼龍の戦闘機小隊長は、攻撃隊直掩の任務を放りだして、高空に上がり、敵戦闘機の姿を捜し求めた。その頃、攻撃隊は、アメリカ戦闘機の攻撃を受けており、2機が撃墜されてしまう。結局、戦闘機小隊は、護衛の任務を果たせず、会敵も出来ずに帰還した。この報告を聞いた柳本は激怒して、小隊長の頬を音が鳴るほど、拳で殴りつけた。小隊長が功を焦って、任務を果たさなかったと見なしたのだろう。側で見ていた岡本飛曹も震え上がるほど、柳本は怒っていた。柳本は無骨、不器用な人柄であったが、一旦、心を許せば、どこまでも誠実で人情味があった。だが、内には烈々たる闘志を秘めており、いい加減、妥協というものは許さなかった。


昭和17年(1942年)5月初旬、横須賀にある海軍料亭「小松」で、次期作戦の準備を名目に、慰労会が行われた。蒼龍の幹部士官100人余が、二階の大広間に並んだ。まず、柳本が一通りの挨拶文を述べ、「以上終わり、これからは無礼講でやってくれ」と呼びかけた。すると一気に座は活気付き、女将の合図で芸者達も入って来て、場を盛り上げた。柳本は下戸であったが、能登呂の一件以来、無理をして、杯を受けるようにしており、士官達の差し出す杯を次々に飲み干していった。すっかりできあがった柳本は、無骨な軍歌を歌いながら、剣舞とも柔道ともいえない奇妙奇天烈な踊りを披露して、場の大喝采を浴びた。宴会は、盛大に夜更けまで続いた。副長の小原中佐は、この日が海軍生活の中で最良の時であったと述懐している。

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