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靖国神社

靖国神社は、東京都千代田区にある神社である。明治2年(1869年)、明治天皇の御意向、国家の為に尽くし、命を捧げた人々の御霊を慰め、その事績を後世に永く伝えるべく、創建された。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、日中戦争、第二次大戦での戦没者の御霊、246万6千柱が祀られている。





↑第一鳥居





↑大村益次郎銅像


日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力した人物です。




↑第二鳥居




↑神門




↑拝殿




↑神池庭園


拝殿で参拝を済ませて、境内を一通り散策した後、遊就館へと向かいました。この遊就館は日本古来からの武具甲冑に加えて、第二次大戦時の兵器類が多数、陳列されている一大博物館です。また、日本の為に命を捧げた人々の遺品、遺影、遺書の数々が展示されている慰霊の施設でもあります。




↑九九式二十mm一号固定機銃


日本海軍を代表する戦闘機、零戦に搭載されていた機銃です。零戦二十二型に搭載されていたと説明にあります。航空機銃としては破壊力は高いものの、銃身が短い事から弾道直進性と命中率は低く、至近距離から射撃する必要がありました。後期型の長砲身の二号銃は、上記の問題が解決されています。




↑零戦の座席


軽量化のため、丸穴が開けられています。




↑零戦五二型


日本海軍の主力戦闘機である、零戦の後期型です。前期型より航続距離は短くなったものの、速力、火力は向上しています。




↑零戦五二型





↑零戦五二型


零戦の空冷エンジン、栄の構造の一端が窺えます。当時のレシプロ戦闘機のエンジンは空冷式と液冷式の二種類があって、日本では扱いやすい空冷エンジンが主流でした。空冷エンジンは直径が大きく空気抵抗も大きいという欠点がありましたが、構造が簡単で軽量という利点もありました。





↑C56型機関車


この蒸気機関車は、昭和11年(1936年)に製造され、タイに建設された泰緬鉄道の開通式で使用されています。





↑C56型機関車




↑九六式十五cm榴弾砲


本砲は、野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属して沖縄戦にて奮戦したものの、昭和20年(1945年)6月23日、糸満市真壁にて全弾撃ち尽くした後、中隊は全滅しました。




↑九六式十五cm榴弾砲




↑八十九式十五cmカノン


本砲は、独立重砲兵第百大隊に所属して沖縄戦に参戦しましたが、大隊は全滅し、戦後、洞窟内から発掘されました。砲身には無数の弾痕が穿(うが)かれています。




↑八十九式十五cmカノン





↑芝辻砲


慶長十六年(1611年)、徳川家康が堺の職人、芝辻理右衛門に命じて造らせた鍛造の大砲で、大阪冬の陣にて使用されたとあります。




↑仏郎機砲(ふらんきほう)


16世紀、インドのゴアにて鋳造されたと見られ、豊後の戦国大名、大友宗麟がポルトガルより購入して、国崩しと名付けられました。青銅製で後装式の砲です。




↑彗星十一型


日本海軍の艦上爆撃機で、航空母艦用に開発されました。本機の特徴は、液冷エンジンのアツタを搭載した事で、これによって爆撃機らしからぬ高速を発揮しています。このアツタは、ドイツのダイムラーベンツ製の液冷エンジンをライセンス生産したもので、エンジンが細長い事から、これを搭載した航空機は空気抵抗の少ない洗練された形状にする事が出来ます。ただし、液冷エンジンは重く、構造が複雑という欠点もあります。




↑彗星のアツタ発動機


重々しく複雑な構造であるのが、外見からも伝わって来ます。この液冷エンジンは彗星に高性能を与えたものの、生産、整備の点では手に余り、後に空冷エンジンに切り替えられています。




↑彗星十一型




↑彗星十一型




↑回天四型


特攻兵器、回天の内部です。1人乗りの人間魚雷です。




↑50口径三式十四cm砲


戦艦陸奥の副砲です。陸奥は長門型戦艦の2番艦で、大和型に次ぐ主力艦でしたが、昭和18年(1943年)6月8日、広島県柱島付近にて、不慮の大爆発を起こして爆沈しました。この砲は戦後、海底から引き揚げられたものです。




↑青銅製戦艦武蔵


後ろには、戦艦武蔵の46cm主砲弾が展示されています。




↑九十七式中戦車


昭和13年(1938年)から昭和19年(1944年)にかけて2123両生産された、日本陸軍の主力戦車です。登場時は世界標準の性能だったものの、太平洋戦争開戦時には既に旧式となっていました。それでも後継車両の開発が難航した事から、数的には最後まで主力の座を担いました。





↑九十七式中戦車


側面には砲弾が貫通した孔が空いています。




↑九十七式中戦車





↑九十六式二十五mm連装機銃


日本海軍の主力対空機銃です。フランスのホチキス製25mm機関砲をライセンス生産したもので、日本海軍のほとんど全ての艦船に搭載されていました。兵器としての信頼性は高かったものの、重防御のアメリカ軍機には威力不足でした。




↑九六式二十五mm機銃





↑日本軍の遺品


沖縄にて収集された、日本軍の遺品の数々です。銃弾が貫通した鉄兜、往時には当人が付けていたであろう眼鏡や懐中時計の数々が展示されています。生々しさに息を飲んでしまいます。合掌。


遊就館では他にも、古来から伝わる刀や甲冑の数々に加えて、戊辰戦争から太平洋戦争に至る貴重な歴史遺物の数々が展示されています。また、太平洋戦争で散華された英霊達の遺影や遺書の数々も見れます。これらは撮影不可かつ膨大な資料数のため、言葉で説明していくのは無理です。その目でじっくり時間をかけて見て頂きたいです。

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中道子山城

中道子山(ちゅうどうしさん)城は、兵庫県加古川市志方町にある山城である。標高271mの城山の山上にあって、標高は低いものの、周辺の平野は勿論、東に加古川、南は遠く瀬戸内海まで見渡せる見晴らしの良い城である。



中道子山城は、享徳年間(1452~1454年)に、播磨の豪族、赤松氏の支族である、孝橋繁広によって築かれたと見られる。享禄3年(1530年)、中道子山城は浦上氏によって激しく攻め立てられたらしく、この時のものと思われる焼土層が見つかっている。この教訓を受けて、以降、櫓台、土塁、堀切などを廻らせた大規模な改修が施されたと考えられている。天文18年(1549年)、孝橋氏は中道子山城から浅瀬山城(兵庫県佐用郡上月町)に居城を移し、それ以降の城主は不明となる。天正8年(1580年)頃、織田家部将、羽柴秀吉による播磨平定戦の折に落城したと云われるが、詳細は不明で、廃城の時期も定かではない。発掘調査では、15世紀後半から16世紀前半に使われたと見られる陶磁器や鉄製品が見つかっており、文献に残る孝橋氏の活動と一致している(中道子山城跡発掘調査報告書2)






↑麓の駐車場



麓には平時に使う、館があったのかもしれません。この先、舗装道を右折して上がって行きます。






↑登山口


舗装道の途中に登山道があります。





↑大手門






↑櫓台





↑二の丸




↑二の丸から西を望む





↑二の丸から西南を望む





↑天上見晴台前の土塁





↑天上見晴台前の土塁






↑天上見晴台




↑米蔵跡





↑本丸





↑本丸から南を望む





↑本丸から南東を望む





↑空堀





↑三の丸



中道子山城は、土塁、空堀が残る典型的な中世山城です。遺構は良好で、眺めもなかなか良いです。

備前砥石城

備前砥石城は、岡山県瀬戸内市にある山城である。備前の戦国大名にして、梟雄とされる宇喜多直家ゆかりの城として知られている。



砥石城は、文明12年(1480年)頃、備前の守護代、浦上氏によって築かれたとみられる。標高約100mの砥石山の山上部にあって、眼下に広がる千町平野と商都、福岡の町を押さえる要衝であった。砥石山の西南約200mにある尾根上にも、出丸と呼ばれる小城が築かれており、砥石城は本城と出丸とを一体として用いていた。当時は、瓦葺きの建物や板塀が建てられていたようだ。


文明17年(1485年)、浦上則国なる武将が、福岡の地を巡って山名俊豊や松田元成と戦い、砥石城にて討死している。備前記や備陽記によれば、宇喜多直家の祖父に当たる宇喜多能家(うきた よしいえ)が在城したと伝えられる。天文3年(1531年)頃、能家は死去(討死とも病死とも)し、嫡男の興家(おきいえ)が家督を継ぐも、天文5年(1534年)頃に死去(不慮の殺害とも病死とも)し、能家の弟であった国定が家督を継いだ。


直家は興家の子として、砥石城で誕生したと伝えられる。相続の道から外され没落の身となった直家は実力を蓄えつつ、国定打倒の機会を窺った。そして、弘治2年(1556年)、直家は砥石城を攻め立てて、国定を討ち取った。以後、直家の弟、春家が在城したとされるが定かではない。だが、宇喜多家の家督を相続した直家は、ここから下剋上の階段を上り始めるのは確かである。廃城の時期は不明である。







↑登山口



近くにキャンプ場があるので、そこに車を停めてこの登山口まで歩いて行きました。





↑登山道



短くも急な登りです。砥石と名乗るだけの事はあります。





↑本丸を望む





↑本丸






↑石垣


城の石垣ではなく、江戸時代まで存在していた神社の石垣だそうです。





↑本丸から東を望む



麓を流れるのは千町川で、これが天然の堀だったのでしょう。





↑本丸から北を望む



千町平野が広がっています。北方には備前屈指の商都、福岡がありました。しかし、宇喜多直家が岡山城を築城した際、商家は移転させられ、かつての活気は失われたそうです。





↑本丸から西を望む



西方には、西大寺と呼ばれる大寺院と門前町がありました。砥石城は福岡と西大寺、この二つの商都を押さえる位置にある事が分かります。





↑本丸直下の曲輪



ほとんど藪に埋もれて、概要は定かでは無かったです。





↑本丸





↑縄張り図



砥石城は位置的には要所を占めていますが、城の構造は単純かつ小規模で、500人以上の籠城は難しいでしょう。





↑宇喜多直家生誕之地



あくまで伝承で、直家が実際にこの地で生まれたのかどうかは分かりません。直家は中国地方屈指の梟雄とされていて、実際に多くの人物を謀殺していますが、毛利元就ほどでは無いです。元就は標的とした人物のみならず、その一族まで殺害する事がままありますが、直家は標的とした人物だけです。当時は、どの戦国大名も大なり小なり謀殺を行っていて、さほど珍しい事ではありません。

常山城

常山城は、岡山県岡山市と玉野市の境目にある山城である。この城は、毛利氏によって攻め立てられた折、城主の上野隆徳の妻、鶴姫が30人余の侍女を率いて、奮戦の後に最後を遂げた事で知られている。




常山城は、文明年間(1469〜1487)、備中の国衆、上野氏によって築かれたとされるが、詳細は不明である。城は標高307mの常山の山頂に築かれ、北と北東の尾根筋に連続して郭を築いた連郭式となっており、備前の山城としては有数の規模を誇る。城のある児島は現在は半島であるが、戦国時代の折には巨大な島であり、北部は吉備の穴海(きびのあなうみ)と呼ばれる浅海が広がっていた。常山城はその児島の中央部にあって、瀬戸内海航路の要衝を占めていた。



城を築いたとされる上野氏であるが、上野隆徳の代、中国地方の覇者、毛利氏と、備中の戦国大名、三村元親との戦い、備中兵乱に巻き込まれて暗雲が垂れ込み始める。上野隆徳の妻、鶴姫は三村元親の妹であって、その縁もあって上野氏は三村氏に味方するも、三村方は終始、劣勢であり、天正3年(1575年)6月2日には三村元親が自害に追い込まれる。同年6月7日には常山城も攻め立てられ、最後の時を迎える。この時、隆徳の妻、鶴姫は女性ながら侍女30人余を率いて、毛利方に戦いを挑み、奮戦の後に本丸に上がって自害したとされる。



その後、城は毛利輝元が支配する所となるが、天正11年(1583年)以降、宇喜多秀家の手に移り、その重臣であった戸川氏によって瓦葺きの建物や石垣が築かれた。慶長5年(1600年)、宇喜多氏は改易となり、代わって小早川秀秋が支配する所となるが、慶長8年(1603年)、秀秋の病死に伴い、小早川氏も改易となった。同年、代わって池田忠継が入るが、常山城は廃城とされた。








↑栂尾丸



北の尾根にあります。





↑栂尾丸から北を望む






↑青木丸







↑天神丸







↑北二の丸



昭和12年(1937年)、城主一族と女軍の冥福を祈って建てられものです。






↑本丸と腹切岩



城主の上野隆徳は、この岩の上で切腹したと云われています。







↑兵庫丸



本丸南にある小さな曲輪です。






↑本丸から南を望む



遠く四国まで見渡せます。






↑本丸から南を望む



瀬戸大橋が見渡せます。






↑本丸から西を望む






↑底無井戸



常山城の飲水です。






↑底無井戸



数百年経った今でも水を湛えています。






↑矢竹丸



北東の尾根にあります。





↑矢竹丸から北東を望む



戦国時代、目前の平野は全て海でした。



常山城の遺構は良好で、眺めも良いです。歴史の悲話も残されていて、感慨に浸れます。山頂近くまで車で上がれますが、車道は非常に狭く、車一台通るのがやっとです。何回かすれ違いましたが、冷や冷やものでした。

韮山城

韮山城は、静岡県伊豆の国市にある平山城である。戦国時代、関東に覇を唱えた、北条氏の最初の本拠となった城である。



明応2年(1493年)、駿河今川氏の客将であった伊勢宗瑞が伊豆国に進出し、自らの拠点として築いたのが、韮山城の始まりである。伊勢宗瑞は、ここを足掛かりとして更なる版図拡大を目指して行く。この伊勢宗瑞こそ、関東の雄、小田原北条氏の祖であり、韮山城はその興隆の起点となった。伊勢宗瑞の死後、嫡男、氏綱は北条に改姓し、合わせて相模国の小田原城を本城に定めたため、韮山城はその支城となったが、その後も伊豆支配の拠点として重要視された。



韮山城は、標高53mの龍城山と呼ばれる小山に三ノ丸、二ノ丸、権現曲輪、本丸といった城の中枢部が築かれ、尾根伝いにある標高128mの天ヶ岳(てんがだけ)一帯にも砦が築かれ、外郭線として用いられた。龍城山の麓、北西に城主の屋敷が、南西に武士や町人の屋敷群があったと推測され、往時には城の東、西、北側は堀が巡らされていた。韮山城が広く知られる様になるのは、天正10年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐での攻防戦である。時の城主は北条氏規(四代目当主、北条氏政の弟)で、3600人余の兵をもって、豊臣軍4万4千人に立ちはだかった。韮山城攻めの豊臣軍は、織田信雄、細川忠興、蒲生氏郷、福島正則ら錚々たる武将達で、堀を掘って、付城を築いて韮山城の四方を取り囲んだ。



天正10年(1590年)3月29日より韮山城の攻防戦が始まり、同日には重要支城、山中城も攻められ、こちらは激しい戦いの後、僅か1日で落城した。だが、韮山城はここから豊臣軍の攻撃を3カ月に渡って耐え抜く。しかし、他の北条方支城が悉く落城し、本城、小田原城も包囲される事態となっては如何ともし難く、同年6月24日、徳川家康の説得を受けて、北条氏規は城を開城した。同年7月には小田原城も開城し、北条氏は滅亡と相成った。それを受けて、徳川家康が関東を領有し、その家臣の内藤信成が韮山城主として入ったが、慶長6年(1601年)、廃城となった。






↑堀切





↑城池












↑二ノ丸






↑本丸





↑本丸から北西を望む



この辺りは御座敷と呼ばれ、城主の屋敷跡があったと推測されています。







↑本丸から西を望む


対面する山々には豊臣方が陣取っていたでしょう。






↑天ヶ岳


右手の山は天ヶ岳で、韮山城の外郭線を構成していました。






↑城の地図

















↑熊野神社





↑熊野神社





↑城池と韮山城


かつては沼であったようです。



韮山城を訪問したならば、北条家の祖、北条早雲こと伊勢宗瑞がここを本拠として関東経略を図った事や、北条氏規が豊臣の大軍に立ち向かった事に思いを巡らせてみては如何でしょう。


 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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