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小谷城の攻防 前

2010.09.05 - 戦国史 其の二
永禄11年(1568年)、この年、尾張、美濃を領有する有力大名に成長していた織田信長は、天下統一事業を一気に進展させるべく、上洛を目指して動き出す。しかし、岐阜から京に抜けるには、北近江に勢力を張る浅井氏と、南近江に勢力を張る六角氏の領国を通らねばならなかった。同年4月、信長は上洛を確実なものとするため、北近江の雄、浅井長政と盟約を結び、さらに妹のお市の方を嫁がせて絆を深めた。 同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、六角氏は敵対したが、長政は信長に協力して援軍を送った。信長の勢いは凄まじく、瞬く間に畿内の主要部を制圧して、一躍、天下人に最も近い武将となった。この信長の成功は、その通り道に当たる浅井長政の協力なくしては達成し難いものであった。そして、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢攻めを開始すると、長政はこれにも援軍を送っている。両家の協力関係は、このまま続いて行くかに見えた。


しかし、元亀元年(1570年)4月、信長が越前朝倉攻めを開始すると、長政は突如として信長から離反し、その背後を襲った。この離反の理由については、古くからの繋がりがある朝倉家との関係を重視したものと云われているが、確かな事はわかっていない。挟撃の危機から命からがら逃れた信長は激怒して、両家は一転、不倶戴天の間柄となった。だが、この時の浅井家と織田家の実力の差は、余りにも大きかった。浅井家は近江北部30万石余で動員力は8千人余なのに対し、織田家は尾張57万石、美濃54万石、伊勢志摩の大半50万石余、その他、近江南部や畿内各地にも所領があるので、石高は200万石以上、動員力は5万人を超えていた。浅井家は、朝倉家の援助を受けねば戦線の維持は不可能で、必然的に受け身の態勢となる。


元亀元年(1570年)6月、浅井氏の麾下にあった有力国人、堀秀村がその居城、鎌刃城と、美濃との境目にある長比城(たけくらべじょう)や刈安尾城(かりやすおじょう)ごと信長に投降すると云う事態が起こる。これは戦わずして国境線を打ち破られ、直接、小谷城を突かれる事を意味していた。長政は、国境で信長を食い止める算段を立てていたが、それは味方の裏切りで脆くも崩れ去る事となった。信長は勿論この機を逃さず、一挙に長政を討滅せんと動き出す。そして、徳川家康にも援軍を要請して、大軍をもって小谷城へ迫った。これに対し、単独では敵し得ない長政は、朝倉家に援軍を仰いだ。同年6月28日、長政は朝倉軍の来援を待って、姉川にて信長との決戦に望んだ。浅井、朝倉軍は1万5千人余で、織田、徳川軍は2万5千~3万人余だった。


浅井、朝倉軍は前半は優勢であったが、最終的には数に勝る織田、徳川軍の前に敗れ去った。この結果、浅井方の横山城が落ち、その南方の佐和山城は孤立した。浅井家は多くの将兵を失い、領国も分断されるという大打撃を被るが、まだ余力は残っていた。信長は落とした横山城に木下秀吉を篭めると、ここを対浅井の最前線とした。同年9月、浅井、朝倉軍は巻き返しを図り、大阪本願寺、三好家と結んだ上で京へと進軍を開始する。そして、浅井、朝倉軍は比叡山に立て篭もって、信長を大いに苦しませたが、決着には至らず、両軍共に兵を退いた。 これが浅井、朝倉家にとって、最初にして最後の織田勢力圏への攻勢であり、最も信長を追い詰めた瞬間であった。しかし、これ以降は、地力に勝る織田家によって防戦一方に追い込まれていく。


翌元亀2年(1571年)2月、敵中に孤立していた佐和山城は8ヶ月の篭城の末、力尽き、城将、磯野員昌と共に信長に降伏する。だが、同年5月、長政も反撃に出て、浅井井規(いのり)に軍を授けて、先年、信長に寝返った堀秀村の拠る鎌刃城を攻めさせた。浅井勢は一向一揆勢を加えた5千人余の軍勢だったが、急遽駆け付けた木下秀吉率いる数百人余によって側面攻撃を受け、それに合わせて城兵も突出して来たので、脆くも敗れ去った。同年8月、信長は3万余の兵を率いて浅井領国に侵入し、越前との国境に近い余呉、木之本近辺まで進出して村々を放火して回った。これは国の基である領民の生活を破壊して、間接的に浅井家の首を締め上げる作戦であった。信長は尚も攻撃の手を緩めず、同年9月、浅井方の志村城に猛攻を加えて城兵を悉く討ち果たし、首級670を上げて城を落とした。それを見て震え上がった近隣の小川城は、戦わずして降伏した。浅井家は、領国を幾度も蹂躙されて疲弊し、支城も次々に奪われて勢力圏は縮小する一方であった。


元亀3年(1572年)正月、横山城の城将、木下秀吉が岐阜の信長の下に新年の挨拶に出向くと、長政はその隙を突かんと浅井井規らに軍を授けて、横山城を急襲させた。だが、城代の竹中半兵衛は少数ながら城を良く守り、近隣の城からも援軍が駆けつけたので、浅井軍は退けられた。同年3月、信長はまたも北近江に進出し、小谷近辺まで放火して回った。信長は盛んに長政を挑発して、小谷城から誘い出さんとしたが、この時の長政に朝倉の援軍は無く、じっとこれに耐える他無かった。同年7月19日、信長は嫡男、信忠を始め、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉、佐久間信盛といった錚々たる部将も引き連れた3万~5万余の大軍を動員し、総力を挙げて小谷攻めに取り掛かった。この頃、東の武田信玄が不穏な動きを示しており、信長としては信玄との対決が始まる前に、浅井家を滅ぼしたかったのである。


7月21日、織田軍は小谷城に至ると、まず、その麓にある虎御前山(とらごぜんやま)や雲雀山(ひばりやま)を占領し、続いて町口を破って城下を焼き払った。翌22日には木下秀吉に命じて、小谷城の支城、山本山城を攻撃させて50人余を討ち取り、23日には近江北部の余呉、木之本まで兵を出して寺院や家屋を焼き払わせた。そして、7月27日より、小谷城攻略の前線基地とすべく、虎御前山に砦の建設を開始する。目の前でここまでされながらも、戦力で劣る長政には手の出しようが無く、歯軋りするばかりであった。信長公記によれば、このような浅井家存亡の危機にも関わらず、朝倉家の援軍はなかなか現れなかった。そこで長政は、信長が苦境に陥っているとの偽情報を流し、それを信じた義景は、7月29日にようやく小谷にやってきたと云う。しかも義景は、情報とは違って意気盛んな織田軍を見て、小谷後方の大嶽(おおずく)に陣取ったまま動かなくなったとされる。


この信長公記の記述を見れば、義景は怠惰で臆病な大将にしか映らないが、実際には現実的な対応をしている。
信長が岐阜城から出陣したのが7月19日で、その報が一乗谷に届くまで1日~2日、そこから動員をかけて兵が集まるまで2~3日はかかるだろう。そして、義景は7月24日に一乗谷から出陣しているから、それほど遅くはない。ただ、行軍速度は遅く、信長が2日の行程で近江に入ったのに対し、義景は4日の行程で7月28日にようやく近江に入っている。長政はこの行軍の遅さに苛立って、偽情報を流したのかもしれない。それから、義景が大獄に陣取ったまま動かなくなったというのは、臆病と言うより、お互いの兵力に格差があるからで、朝倉、浅井軍は合わせても1万5千から2万、対する織田軍は最低でも3万、最大で5万人であった。これで野戦を挑めというのが無理な話で、例え打って出ても兵力不足で敗れた姉川の戦いの二の舞になるだけである。で、あるから、高所に陣取って織田軍の攻撃を待ち受けるという義景の方策は間違ってはいないだろう。


だが、義景は何時も、信長が出動してから、遅まきに対応するといった感じで、基本的に受身の姿勢であった。これでは敵味方から、戦意に欠けると見られても仕方なかった。兵力の多寡と言い、大将の戦意と言い、どちらに時の勢いがあるかは一目瞭然であった。8月8日には、朝倉家の有力部将である前波吉継が、8月9日には富田長繁が、それぞれ義景を見限って、信長に降る事態が起きた。信長はしきりに挑発して決戦を誘ったものの、義景が乗ってくる気配は無かった。こうなると信長も手の出しようがなく、戦線は膠着状態となった。そのため、信長は今回で浅井家に引導を渡せなかったが、小谷前面に大規模な封鎖陣地を築き上げた事で、浅井家をほぼ封じ込める事には成功した。信長との開戦以来、浅井家は領国を幾度となく蹂躙され、その挙句、小谷城に完全に押し込められてしまった。最早、年貢を満足に得る事すら難しかったであろう。


なので篭城を支えていたのは、朝倉家からの兵糧援助であったと思われる。しかし、それを援助する朝倉家にも、明らかに衰えの色が見えていた。朝倉家にとって、浅井家は組下大名であってそれを保護する道義上の責任があった。それに信長によって小谷城が落とされると、次に狙われるのは越前の一乗谷であるのは明白であって、越前の安全保障上からも、何としても守り抜かねばならなかった。しかし、連年の出兵に伴う出費と、兵糧援助の負担は重かったに違いない。対する信長も連年の様に出兵しているが、浅井、朝倉家と比べると体力が段違いであった。消耗戦となれば、やはり国力の差が物を言ってくる。


元亀3年(1572年)11月、追い込まれる一方であった浅井、朝倉軍が動いた。浅井井規を先鋒として、織田方の宮部城を攻撃したのである。これは、宮部城から虎御前山に連なる織田方の陣地破壊を目論んだものだったが、堅固な陣地はびくともせず、逆に木下秀吉の迎撃を受けて撃退される始末であった。衰えを見せる浅井、朝倉軍の戦力で、この封鎖陣地を突破する事は、最早、不可能であった。この戦勢を挽回するには、他の反織田勢力の助力、特に大規模な野戦兵力を有する武田信玄の力が必要であった。同年12月、その頼みの綱である信玄が西上を開始し、三方ヶ原にて織田、徳川軍を打ち破った。浅井、朝倉家はこの信玄の西上作戦に期待し、愁眉が開く思いであった。


だが、信玄は、翌元亀4年(1573年)4月、志半ばにして病没してしまう。これによって浅井、朝倉家の運命も閉ざされた。そして、天正元年(1573年)8月8日、浅井家にとって決定的な出来事が起こる。小谷城の西方に位置する重要な支城、山本山城の阿閉貞征が離反して、織田方に付いたのである。この山本山城の側面援助があったから、小谷城は全面包囲を免れて篭城を続けられてきた。だが、山本山城を失った事で、小谷城は全周囲からの攻撃に晒される事になるのである。
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