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近世初期の武家の華「衆道」

2010.05.10 - 戦国史 其の二
16世紀から17世紀にかけて、日本の武家では衆道、すなわち男色(少年愛)が流行していた。それは単なる同性愛だけでなく、少年が年長の若者と深く交わる事によって、深い信頼関係を築くと共に、その知識や技術を教えてもらう切っ掛けともなっていた。また、裏切りが横行していた戦国時代、男色は信頼できる兄弟分を得る機会でもあった。しかし、男色は、時に男女の関係以上に燃え上がり、感情のもつれや、少年を巡る恋争いから刃傷沙汰になる事も珍しくなかった。


武田信玄がまだ20代であった頃、源助という小姓と男色関係にあった。しかし、源助は、信玄が弥七朗と云う少年と関係をもったとの噂を聞き、ひどく腹を立てた。それを知った信玄は、源助をなだめようとして自筆の誓文を送った。「弥七朗に対し、これまで何度も言い寄った事はあるが、その度、彼は腹痛を理由に断ってきた。この事について、私は全く嘘はついていない。
弥七朗に夜伽をさせようとした事はなかったし、これまでも無かった。いわんや昼も夜も、そのような事はしていない。ましてや今夜だってしようとは思っていない。お前とは特に親しくしたいと思っているのにこのような疑いをかけられ、はなはだ困り果てている。この言葉にうそ偽りがあれば、当国一二三大明神、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙ろう」


信玄は、この誓文で潔白を主張しているが、誘った事には変わりなく、また、主君の誘いを、弥七朗が無下に断われたものだろうか?甚だ怪しいものである。そして、この書状の面白いところは、後に甲斐の虎とも称される大武将が、年下の小姓の機嫌を損ねないよう、必死に弁解する様子が伝わってくるところである。しかし、この信玄自筆の誓文に関しては、諸説がある。花押がぎごちなく、墨色が異なるところがあるので、後に模写されたものであるとの説と、信玄らしい流麗な書体が見られるので自筆であるとの説もあって、はっきりしない。だが、信玄が男色関係をもっていた事を強く示唆する書状ではある。


永禄2年(1559年)、上杉謙信は上洛の徒につく。京に着くと、謙信は室町将軍、足利義輝の館に招かれ、そこに関白、近衛前嗣(このえ さきつぐ)も加わって、盛大な酒宴が催された。若盛りの義輝、謙信、前嗣は大いに語り合い、飲み明かした。後日、今度は近衛前嗣の館で酒宴が催された。この場では、華奢な若衆がたくさん集められ、酒を飲み夜を明かした。前嗣によれば、謙信は若衆好きである事を公言していた。


天正12年(1586年)10月、東北会津の戦国大名、蘆名盛隆は小姓の大庭三又衛門と男色関係にあった。しかし、盛隆の寵愛が衰えてくると、三又衛門はこれを恨みに思い、主君を斬り付けるという凶行に走った。このため、将来を嘱望されていた蘆名盛隆は、僅か24歳でこの世を去った。三又衛門はすぐに誅されたが、これで蘆名家の屋台骨は大いに揺らぎ、後に伊達政宗の台頭を許す一因ともなった。


江戸時代初期、かつて東北で勇名を馳せた伊達政宗も、老境に差し掛かっていた。政宗は孫もいるような年齢であったが、この時、小姓の只野作十郎と大恋愛をしていた。そういったある日、政宗は酒の席にて、作十郎が他の男と寝ているのではないかと放言してしまう。これを聞いた作十郎は怒って、「浮気など思いもよらぬ事であります。自らの腕を切りつけ、その血判をもって潔白を証明致します」と記した起請文を差し出した。これを受けて政宗は大いに短慮を恥じ、「自分がその場にいたならば、脇差を押さえこんででも、その腕を傷付けはさせなかっただろう」と起請文に記し、更に自らの血判を押して、作十郎に謝罪の意を表した。 


尚、政宗はこの起請文において、「あなたも御存知の通り、私も若い頃は、酒の肴にするように腕や腿(もも)を突き通して衆道にのめりこんだものだが、昨今は世間の物笑いになりかねないので控えている。けれでも、私の腕や腿を見てもらいたい。(傷跡で)隙間もないほど、昔はこうした事をしてきたものである。さすがに今はもう出来ない」と述べている。つまり、政宗の腕と腿には多数の傷があって、しかも、それは衆道の愛の証として、自らが傷付けたものであったのである。それと、戦国の世も終わり、江戸の世を向かえつつあると、衆道もはばかれるようになってきた事が窺える。


衆道の絆は、時に肉親の関係以上のものとなる事もあり、その様な兄弟分が討たれた場合、もう一人の兄弟分は命懸けで仇討ちをした。しかし、兄弟分となった者が他の若衆にうつつを抜かしてしまうと、もう一人の兄弟分は激しく嫉妬し、浮気をした兄弟分を討つと云うことも少なくない。そして、討たれた兄弟分の浮気相手が、またその仇を討つという事もあった。当時の庶民はこのような衆道仇討ちを果たした者を、武士の誉れであると拍手喝采したのだった。このように衆道は、事件の火種になり易い危険な関係でもあった。そのため、幕府や諸大名は次第に衆道に否定的な立場を取るようになり、江戸中期を境にして衰退していった。
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