忍者ブログ
選択したカテゴリの記事一覧

[PR]

2020.06.01 - 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

御館の乱と上杉景勝 後

2010.01.09 - 戦国史 其の二
御館の乱の勝利によって、景勝は全ての反対派を討ち滅ぼし、越後を統一したかに見えた。しかし、長く打ち続いた戦乱の為、国内は荒れ果て、それによって、かつて精強を謳われた上杉の軍事力も衰微していた。戦後、景勝は、滅亡した景虎派から多くの土地を得たが、その多くを与党である上田衆に支配させた。これは自らの権力基盤を強化するための方策であったが、乱で活躍した外様の国人らはこの措置に不満を抱いた。


天正9年(1581年)6月、恩賞問題のもつれから、新発田重家が謀反を起こす。重家は、織田信長の援助を受けて頑強に抵抗し、長く苦しい戦いが始まった。翌天正10年(1582年)5月、景勝は強大な織田家とそれに通じる諸勢力によって包囲され、存亡の危機に立った。5月1日、景勝は常陸の戦国武将、佐竹義重宛てに送った手紙の中で、死を覚悟している旨を述べている。景勝は織田家に対し最後まで戦い抜く決意であった。だが、同年6月2日、本能寺の変が起こった事により、景勝は奇跡的に滅亡の危機を脱する。景勝はこの時の混乱に乗じて北信濃に出兵し、川中島4群の平定に成功した。


その後の景勝の 生涯を簡潔にまとめる。

天正15年(1587年)10月25日、7年にも渡る激闘の末、新発田重家の反乱を鎮定し、ようやく越後の完全統一を成し遂げる。しかし、御館の乱から始まる一連の内戦の影響で、越後の民は家屋や田畑を焼かれ、それに加えて絶え間ない戦費、軍役、兵糧の供出によって民力は疲弊していた。だが、全ての反対勢力を倒した事で、景勝の権力は大いに強化され、支配はようやく安定する。この越後の完全な統一は、義父、謙信にも成しえなかった事であった。


天正16年(1588年)5月8日、豊臣秀吉に謁し、秀吉の九州平定を祝し、重家討伐を報じる。5月26日、景勝は従三位、参議に叙任さる。


天正17年(1589年)6月、佐渡の本間高統、高季を討ち、佐渡を領国とする。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原討伐に参陣する。8月1日、秀吉から出羽庄内3群の検地を命ぜられる。10月23日、検地に反対する一揆を討ち、出羽庄内3群を領国に加え、この時点で91万石の領土を得たとされている。しかし、太閤検地の石高で見たなら、越後39万石、信濃川中島4群14~18万石、佐渡3群1万7千石、出羽庄内3群14万石、合わせて70万石余となる。


文禄元年(1592年)3月1日、秀吉による朝鮮出兵に参陣するため、兵5千を率い、春日山を出立。6月17日、釜山に上陸する。


文禄2年(1593年)9月8日、名護屋城に凱旋した。この間1年3ヶ月の期間、朝鮮の地にあった。


慶長3年(1598年)1月10日、伏見城にて、秀吉から会津120万石へ移封を命ぜられる。8月18日、豊臣秀吉死去。


慶長5年(1600年)4月13日、徳川家康より、上洛を申し渡す詰問の使者が訪れるが、景勝、兼続はこれを撥ねつける。5月3日、家康はこれをもって会津討伐の断を下す。景勝は兼続に命じ、2万7千の兵をもって最上領に侵攻させるも10月1日、関ヶ原に於いて西軍敗れるとの報を受け、兼続は撤退する。


慶長6年(1601年)8月8日、景勝、兼続は京の伏見城まで赴き、家康と謁見して、謝罪する。8月16日、会津90万石の削封を言い渡され、米沢30万石となる


慶長19年(1614年)10月、兵5千を率いて、大坂冬の陣に参陣する。11月26日、今福・鴫野に於いて豊臣方1万2千余と戦い、これを撃退する。


元和5年(1619年)12月19日、景勝を側で支え続けてきた名宰相、直江兼続が死去する。享年60。


元和9年(1623年)3月20日、景勝は病床に臥し、自らの葬儀を簡潔に済ませるように遺言すると、69年の波乱の生涯を閉じた。


景勝は養父、謙信を尊敬し、その影響を強く受けていた。景勝は晩年、病床にあった時、かつて謙信が名乗っていた宗心と云う法名を名乗っている。景勝は生涯に渡って、謙信を理想の武将として追い求めていたと云えよう。また、謙信の姉で、自らの母である、仙洞院も深く慕っていた。女性関係は淡白であり、妻は正室菊姫(武田信玄の娘)と側室四辻氏(四辻大納言公遠の娘)の2人のみで、もうけた子供も四辻氏との間で生まれた、定勝1人だけであった。


景勝は、御館の乱、織田家による包囲、新発田重家の謀反、関ヶ原の戦い、など幾多の存亡の危機を乗り越え、最終的には米沢30万石に減封されながらも、上杉の家名を後々まで存続させる事に成功した。幾多の困難にも、逃れる事なく立ち向かっていった景勝、その額には常に青筋が浮き立ち、家臣達の前で決して笑う事は無かったと伝わる。寡黙にして剛毅、果断な人柄であり、上杉謙信の跡目を継ぐに、この人こそふさわしい人物はいなかったであろう。 あの有名な傾奇者、前田利益(慶次)も、この景勝の人柄に惚れ込んだと云われている。


 
PR

御館の乱と上杉景勝 前

2010.01.09 - 戦国史 其の二
上杉景勝(1555~1623)

越後の龍と称せられた名将、上杉謙信、その後継者となったのが上杉景勝である。 弘治元年(1555年)11月27日、景勝は、謙信の縁戚で上田長尾家の当主である、長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の姉、仙洞院である。謙信はこの甥を大変、可愛がり、永禄5年(1562年)、関東在陣中に、8才になった景勝の書の上達を褒めて、習字の手本を送り届けている。また、謙信は自らの手で記した手習い書、「片仮名イロハ・消息手本・伊呂波尽・上杉家中名字尽」なども景勝に与えた。


永禄7年(1564年)7月5日、景勝は父、長尾政景を亡くし、ほどなくして上杉謙信の養子になった。 政景の死は、野尻池遊宴中に関係者全員の死亡と云う異様な死亡事故で、政景の体には刀傷があったとも云われている。政景は謙信に次ぐ実力者で、過去に反旗を翻した事もある油断のならない人物であった為、謙信によって謀殺されたとも云われている。このような経緯はあったものの、謙信は景勝を可愛がり、自らの後継者となるよう大切に養育した。景勝自身もこの養父を深く尊敬し、その行動を模範とした。そして、謙信に対する崇敬の念は終生、変わる事はなかった。


元亀元年(1570年)北条氏康の実子、三郎が上杉家への人質として送られて来る。謙信は美男で聡明な三郎を愛したと云い、景勝の妹(姉とも)華渓院(法名)を娶らせて上杉景虎と名乗らせる。そして、自らの養子として、もう1人の有力な後継候補とした。


天正6年(1578年)3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、意識が戻らないまま、3月13日、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったので、景勝と景虎の2人の養子を後継候補としていたが、結局、正式な後継者を定めずに亡くなった。だが、生前の謙信には、景虎を関東管領に任命し、景勝には越後の当主を任せるという考えがあったと云われている。この説を取れば、謙信は景虎には名誉職を与えて遇するが、実質的な後継者は景勝と見なしていたのだろうか。


3月15日、謙信の突然の死に上杉家中は大いに動揺し、不穏な空気が漂う中、謙信の葬儀が執り行われた。そして、その葬儀が終わるや否や、景勝は自らの後継者としての正当性を宣伝するため、機先を制して春日山城の実城(本丸)を占拠する。そして、実城の倉庫を押さえ、謙信が在世中に蓄えた金3万両(2714枚5両6分)を手中に収めた。この金が、後に景勝を大いに助ける事になる。


景勝は謙信の死後、2週間後に関東の武将、大田資正に宛てて次のような手紙を送った。

「まだ御発信いたした事はありませんが、一筆啓述いたします。去る十三日、謙信が思いがけない病気を得、持ち直すことができずに死去いたしました。その恐怖はいかばかりのものかお察し下されたい。それで謙信の遺言によって、この景勝が春日山の本城に移るべきであるとの事、いろいろと考慮いたしましたが、周囲の者がそれぞれ、当然そうあるべきだと言うので、その意見に従った次第です。けれども、すべての事の処置は、謙信在世中と少しも変わりありませんから、どうか安心していただきたい。さてまた、そちら関東の事も、謙信が申し遺したことでもありますし、そのうえ、鬱憤を晴らすための戦いでもありますから、若輩ながらこの景勝も、なおもって心を入れて取り組む所存ですので、謙信同様に御懇意にして下されば喜ばしい限りです。なおいくえにも、重ねて申し上げることにいたしましょう。

追伸、謙信遺物の細刀一振をお届けします。形見にして下さい。御自愛専一に願います。」


宛名の大田資正と上杉家とは古くから親交があり、謙信の小田原城攻めにも参加している武将である。 この手紙に景勝が書いている恐怖とは、謙信の跡目を継ぐ重責、景虎との跡目争い、対外勢力との戦い、等これから様々な困難が自身の身に押し寄せる事が恐怖だと云っているのではないかとされている。 そして、景勝は謙信の遺言により、自分が上杉家の跡目を継いだのだと、その正統性を強調している。しかし、謙信は倒れた後、意識不明のまま死去したとされ、遺言を残せたかどうかは疑問である。御館の乱の初期、景勝の手際の良さが目立つ。謙信が倒れた時から、既に策を練っていたのかもしれない。この時は、直江信網が重要な参謀役となっていたと思われ、まだ若輩の樋口与六(後の直江兼続)はその助手として暗躍していたのだろう。



この後、春日山城内では景勝、景虎とも2ヶ月間に渡って、自分こそが謙信の正当な後継者なのだと、他国勢力や国内勢力に支持を訴える書状を送り続けた。来るべき激突に備え、1人でも多くの味方を得ようと、両者は必死の宣伝戦を展開する。真偽の程は定かではないが、この間、二ノ郭に立て篭もった景虎方に対し、景勝方は本丸から見下ろす形で、弓・鉄砲を撃ちかけ、城内で両派の戦闘が繰り広げられたとの話もある。5月5日、景勝と景虎の対立は、ついに本格的な武力衝突に発展し、春日山と御館の中間にある大場の地で合戦となった。この戦いは景勝方勝利となって、景虎方の上杉景信が討ち取られた。上杉景信は古志長尾家の当主であり、謙信政権でも重きをなしていた人物であったので、景虎にとっては大きな損失であった。しかし、情勢は、まだ景虎方優勢であった。



5月13日、春日山城内では、景虎が不利な状況に陥ったようで、妻子を引き連れ、春日山城とは目と鼻の先にある御館に移った。御館とは、前関東管領、上杉憲政のための居宅として謙信が府内に築かせた館であり、謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館を中心に景勝と景虎の戦いが繰り広げられた事から、この争乱は、「御館の乱」と呼ばれる事になる。 景虎は御館に入った後、自軍の勢力を糾合して、攻勢に移った。


5月16日、景虎方の部将、東条佐渡守が春日山城下に火を放って3千軒を焼き払った。翌17日、景虎方は一挙に春日山城を攻め落とさんと押し寄せ、6千余の兵をもって春日山城の千貫門辺りまで攻め入ったが、景勝方も必死の防戦を展開し、景虎方の部将、桃井義考以下数百人を討ち取って、これを撃退した。5月21日、景虎方は再び兵を出し、両者は荒川館と愛宕で交戦する。この攻撃も景勝方によって撃退されるが、今だ景虎方優勢の状況であった。戦いはむしろ、これから本格的なものとなって、越後国内のみならず、周辺諸国まで巻き込んだ一大争乱に発展してゆく。


6月、甲斐の武田勝頼が、小田原北条家の要請を受けて、2万余の大軍を率いて越後に進軍する。勝頼は、景虎を援助するよう要請されていたのだが、景勝は武田家と交渉して、黄金1万両の譲渡と東上野の割譲を申し出て、景勝寄りの中立に立たせる事に成功した。9月、景虎からの援軍要請を受けて、北条家が本腰を上げて動き出した。北条軍1万5千余が北上して三国峠を越え、越後国境の城、樺沢城、荒戸城を破って、景勝ら上田衆の本拠、坂戸城を取り囲んだのである。これで勢いを増した景虎方は、大場口に攻め寄せたが、景勝方の新発田重家が奮戦してこれを討ち破った。一方、坂戸城の方も、天険を生かして北条軍の攻撃を凌ぎ切った。


10月、越後に冬が訪れると、北条軍は攻め取った城に守備隊を残して撤退していった。しかし、春になれば、北条軍が再び攻め寄せてくる事は明白である。景勝には、それまでに御館を攻め落とす必要があった。景勝は家臣に宛てた書状で、「雪が消えて、小田原の援軍が来る前に決着をつける」とその決意の程を述べている。10月24日、景勝は自ら御館に攻勢をかけ、迎え打ってきた景虎方を打ち破る。この日、景虎方の有力部将、本庄秀綱は居城、栃尾城に逃げ込んだので、これで景虎が頼れる部将は、北条景広と堀江宗親ぐらいしかいなくなった。景勝はさらに攻勢を強め、琵琶島城を包囲する。この琵琶島城は、海上から御館への兵糧輸送を担う、重要拠点であった。


天正7年(1579年)1月、景勝の攻勢は真冬でも継続され、御館と北条家との連絡線に当たる高津城を攻め落とした。2月初旬、景虎方の勇将、北条景広が討死した。この報を受け、景勝はすかさず御館を攻め立てて、館の外構えを焼き払う。景虎を取り巻く情勢は、急速に悪化していった。景虎は北越の有力部将、本庄繁長に宛てて、「十日も援軍が来なければ、滅亡してしまう」と援軍を哀願したが、繁長はすでに景虎を見限っていたので、何の意味も無かった。景勝の攻勢は続き、樺沢城、荒戸城を奪還し、北条家からの支援の道を完全に断つ事に成功した。


3月、景勝方は御館近辺に陣取って、大きな圧力を加えた。敗色濃い景虎に見切りをつけたのか、御館から堀江宗親が出奔し、鮫ヶ尾城に引き払ってしまう。御館は全ての糧道を断たれ、有力な部将も皆、戦死するか出奔してしまった。景虎は、完全に孤立無縁となる。その様子を見た前関東管領、上杉憲政は和平調停をしようと、景虎の嫡子、9歳になる道満丸を連れて、景勝の下へと向かった。しかし、その途上、景勝方の武士によって2人とも殺害されてしまう。これによって和平の道も閉ざされ、景虎には打つ手がなくなった。


3月17日、御館の落城は避けられないと見た景虎は、関東で再起を図ろうと館を脱出した。しかし、この時、景虎の奥方であり、景勝の妹(姉とも)でもある華渓院は御館に残った。彼女は兄に降る事を良しとせず、夫に殉ずる覚悟を決めていた。そして、夫に関東に落ち延びるよう勧めてから、側仕えの者達と共に自害して果てたと云う。景虎に従う侍衆も自らの家に火を放ち、妻子を焼殺あるいは斬殺して、御館を落ちていったと伝わる。 戦国の哀しい一面であった。


3月24日、景虎は関東に落ち延びて行く途上、鮫ヶ尾城に立ち寄った。しかし、ここで堀江宗親に裏切られ、景虎は無念の自害に追いやられた。享年26であった。しかし、戦いはまだ終わっていなかった。越後にはまだ、景勝の支配を拒否する景虎方の勢力が残っていた。
10月20日、武田勝頼の妹が、景勝に嫁いで来る。これで、景勝と武田家との絆はさらに深まった。天正8年(1580年)4月、本庄秀網の栃尾城を落とし、秀綱を会津に追いやった。7月、神余親網の三条城を落とし、これを討ち取った。翌天正9年(1581年)2月、北条輔広の北条城を攻略する。これにて、謙信の死後、足掛け3年に渡って繰り広げられた戦乱はようやく収束した。


昭和39~40年に御館を発掘調査した際、くし、かんざしの類が混じって出土した。それは、かつてこの館で女性達が優雅に暮らし、そして、悲劇的な結末を迎えたという事を物語っていた。また、種子島の銃弾、銭貨、武具、馬具、刀剣の破片、大陸渡来の白磁、青磁等の破片などが出土した事から、ここで激しい戦闘があった事と、ここに住んでいた前関東管領、上杉憲政の優雅な生活ぶりが伺えたそうである。 また、景虎が自害して果てた鮫ヶ尾城からも、炭化したおにぎりが出土している。三の丸から出土した焼けた米粒の塊は、年代測定の結果、御館の乱が起きた当時のおにぎりであった事が判明する。

長水城と宇野一族

2009.10.19 - 戦国史 其の二
長水城は、分和年間(1352~56年)頃、播磨守護である赤松則裕が険阻な長水山に砦を築いたのが、始まりであるとされている。文明元年(1469年)、赤松氏の支族である、宇野氏が城主として入ると、以後代々、宇野氏は長水城を居城とした。戦国時代に入ると、宇野氏は様々な勢力に属しつつ、または戦いつつ、徐々に力を伸ばしていった。


永正17年(1520年)、赤松氏に従って、浦上氏と戦う。

天文7年(1538年)、山陰の尼子氏が播磨に侵攻してくると、これに属し、赤松氏と戦った。

天文10年(1540年)、但馬の山名氏が宍粟郡に侵攻して来るが、これを撃退する。

永禄9年(1566年)、尼子氏が滅亡すると、代わって台頭してきた毛利氏に属した。


宇野氏の全盛期を築き上げたのが、宇野政頼である。この政頼の時代に宇野氏は、長水城を中心に篠ノ丸城、常屋城、香山城など、幾つかの支城を合わせ持つ、播磨西北の有力国人に成長した。 その勢力は宍粟郡一円に加えて、揖保郡、飾東群、但馬の美方群に及び、石高に表すと12万石余であった。 しかし、天正元年(1573年)を迎えると、宇野氏は西に毛利、東には織田といった大勢力の狭間に置かれ、どちらかの傘下に入らねば存続は危うかった。そこで、同年、政頼は京都に使者を送って、織田家との提携を模索する。


翌天正2年(1574年)、政頼は長水城にて嫡男、満景を殺害する。この事件の詳細は不明であるが、満景とは外交方針の違いを巡って対立したらしい。そして、同年中に政頼は、次男、祐清に家督を譲った。天正5年(1577年)、織田家の部将、羽柴秀吉が播磨に入り、中国攻めを開始すると、一時、宇野氏は織田家に恭順したらしい。あるいは織田、毛利を両天秤にかけて様子見していたのかもしれない。しかし、翌天正6年(1578年)4月、毛利軍が大挙して播磨に押し寄せ、織田方の上月城を落とすに至って、宇野氏は毛利側へ付く姿勢を明確にした。 宇野氏が毛利氏に鞍替えした理由については、この時の毛利氏の勢いが強かったのと、領内に多数存在する一向宗門徒の意向を無視する事が出来なかった事が挙げられる。


播磨はかねてから一向宗の盛んな地であり、加賀、三河、安芸と並んで本願寺の四大勢力地の一つであった。一向宗は概ね反信長であり、これを敵に回せば統治がままならなくなる恐れがあったからである。しかし、天正7年(1579年)3月、備前の戦国大名、宇喜多直家が織田家に寝返ると言う重大事態が発生するに至って、宇野氏や別所氏などの播磨の親毛利勢力は孤立し、強大な織田家相手に独力で戦わねばならなくなった。天正8年(1580年)1月、三木城の別所氏が力尽きて滅亡すると、宇野氏は侵攻してくる織田軍の矢面に立たされる事になる。そして、同年4月、羽柴秀吉は大軍をもって、宇野氏への攻撃を開始した。秀吉軍によって宇野方の支城は次々に落とされてゆき、4月下旬には長水城を囲まれた。城に篭った人数は3千人余と伝えられ、秀吉軍の方は1万人はいただろう。


長水城は堅固な山城と、麓の平城の両構えだった。麓の平城は、五十波(いかば)と清野の二箇所にあった。これらは揖保川近くの小高い丘に築かれており、宇野一族は普段はここを居館として用いていた。 五十波と清野の2つの構えには、政頼と政祐(祐清の伯父)が立て篭もって、秀吉軍を迎え撃った。4月24日から始まった戦闘は3日間続き、4月26日、宇野方は奮戦したものの、数に勝る秀吉軍によって押し切られ、五十波と清野の構えは乗っ取られた。宇野方は250人余が討ち取られたが、政頼と政祐は辛うじて背後の長水城へと逃れた。同時期、長水城の南西にある、篠の丸城も落とされた。


秀吉軍は城下を焼き払い、さらに長水山へ攻め上って多数の小屋を焼き払った。その上で要所に三つの砦を築いて城を徹底的に封鎖する。窮した城の者が逃れ出ても、秀吉は皆、捕らえるか首を切らせた。孤立無援に陥った長水城では結束が乱れ始め、5月9日
には内通者が現れて、それに呼応した秀吉軍の激しい攻撃を受けた。翌5月10日、城は炎上し、最早、落城は必死の情勢となった。同日夜半、祐清は一族郎党数百人を伴って城を抜け出し、縁者がいる美作に逃れんとした。 宇野一族は夜陰に紛れ、尾根伝いの間道を抜けていったが、途中で秀吉軍に見つかってしまう。ここで、幾人もの心ある武士が命を捨てて踏みとどまり、一族の逃亡を助けんとした。


近臣達が防戦に努める中、宇野一族は千種川の畔、大森まで辿り着いたが、川を渡る前に秀吉軍に追いつかれ、ついに政頼、祐清父子も自刃に追い込まれた。播磨西北の一大領主であった宇野一族は、ここに滅亡する。「信長公記」によれば、長水城が落城したのは6月5日であったとされているが、宇野一族の滅亡は5月10日の出来事であったと思われる。 以後、城が用いられる事はなく、廃城となった。その後、宇野一族が落命した大森の地には、子孫が供養塔が建てて、その冥福を祈った。供養塔は今でも、山中に静かに佇んでいる。


長水城の訪問記はこちら

真田家の憂鬱

2009.10.08 - 戦国史 其の二
真田信之は、かの有名な真田信繁(幸村)の兄として知られている。そして、表裏比興の者と称された父、真田昌幸とは違い、温厚で誠実な人柄であったと伝えられている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、真田父子3人は敵味方に分かれた。昌幸、信繁は西軍へ、信之は東軍へ付き、これが3人の永遠の別離となった。


戦後、信之は自身が領する沼田2万7千石に加えて、昌幸の旧領、上田3万8千石と、3万石の加増を受けて合計9万5千石の大名となる。しかし、昌幸と信繁の死罪は濃厚であった。そこで信之は、恩賞と引き換えに、父と弟の命を救ってもらいたいと徳川家康、秀忠父子に懇願する。自らの命に代えてもとの必死の願いは、家康の心をも動かし、父と弟の命は助けられる事となった。この後、昌幸と信繁は九度山に蟄居となった。3人は手紙でお互いの消息を尋ねあったが、父子3人が再び集う事はなかった。慶長16年(1611年)、昌幸は65歳で没し、慶長20年(1615年)、信繁は大坂夏の陣で華々しく散った。享年49。残された信之は独り、大名への道を歩んで行く。


元和8年(1622年)、真田信之は、幕府の命によって上田9万5千石から松代13万5千石に転封される。所領は増やされたものの、馴染み深い上田の地を離れる事に、内心は複雑であった。そして、この時、幕府から分家を建てよとも命令されていた。やがて、この分家が真田家に問題を引き起こす事になる。信之は、父、昌幸や弟、信繁が徳川家に何度も煮え湯を飲ませていた事から、徳川幕府には大変、気を使っていた。おそらく、幕府も内心は真田家を快く思っていなかったであろう。信之はいらぬ嫌疑を受けぬよう、幕府から仰せつかる賦役をそつなくこなし、藩政においては倹約に努めながらも領内の発展に心を砕いた。


明暦3年(1657年)、信之は92歳で隠居するが、長男、信吉は早世していたため、次男の信牧に家督を譲った。ところが、万治元年(1658年)2月、信牧は父に先立って死去する。そのため、信牧の子、幸道が僅か2歳で家督を継いだ。しかし、これに沼田領を治めていた、信利(信澄とも)が異論を唱える。信利は信吉の子であった。そのため自分が真田家の長男筋であり、松代藩を相続する権利があると主張する。


それと、信利の母は、徳川譜代である酒井家の出身であったから、その縁から幕府の実力者、酒井忠清が背後に控えていた。そのため、家中では信利を推す声が優勢であった。一方、幸道に仕える老臣達はこれに反発し、信利が家督を継いだなら合戦も辞さぬと連判状を認める有様であった。この真田家中を二分する騒動に信之は心を痛め、一時は御家の滅亡も覚悟したと云う。


だが、老齢の信之が家中を主導し、最終的に幸道が家督を相続する事で決着した。しかし、この結果、信利は3万石の沼田藩として独立し、幸道は松代10万石となって真田家は分裂した。万治元年(1658年)10月17日、この御家騒動を収めた後、信之は安堵したのか、ほどなくして93歳で息を引き取った。当時としては異例の長寿であったが、信之の頭脳は最後まで明晰であったようだ。だが、この信之の死からほどない万治元年(1658年)12月、信利は、今度はその遺産の分配を求めてきた。


信之は生前、倹約に努め、その死の際、26万5千両もの遺金が残されていた。遺金の内、15万両は松代城に、11万5千両は信之の隠居地であった柴の館に残されていた。信利は老中、酒井忠清に訴え、莫大な遺金と諸道具の相続権を主張した。忠清は大目付を派遣して、真田本家に遺金の配分を迫った。この突然の要求に真田家は再び、大揺れとなった。この万治元年は真田家に取って厄年であった。2月には信牧が死去して御家騒動が勃発し、それを収めたと思えば分家が独立し、10月には信之が死去して、今度は遺産相続争いが勃発したのである。


この事態を受けて、本家の老臣達は結束して事に当たった。道理を説いて大目付を納得させ、遺金の内、松代城の15万両は守られた。そこで信利は、柴の館の遺金、11万5千両の取得を狙った。信利を後援する忠清は、この一件が破談となれば、老中の面目が潰れ、取り返しがつかなくなるであろうと、老臣達に警告した。老臣達は苦慮したが、最終的には柴の遺金、11万5千両を配分する事で話はまとまったようである。この騒動には幕府も介入してきて、まかり間違えば真田家の取り潰しにもなりかねない事態であったが、本家の老臣達は結束してこの危機を乗り切った。信之は良き家臣を残していたと言えよう。


この後も信利は、あくまで松代藩に対抗心を燃やし、検地を断行して、沼田藩は表高3万石であるのに14万5千石であると幕府に申告した。本家と同等の家格にならんとして、沼田城に優美な5層の天守閣を建て、さらに江戸の藩邸も豪奢なものに造り替えた。これらの付けは全て、領民へとまわされた。


天和元年(1681年)、沼田藩の領民は、重税と折からの飢饉によって窮乏し、餓死者が続出する事態となった。堪りかねた領民の中には幕府に直訴する者も現れた。伝承では、茂左衛門と云う百姓であったらしい。幕府はこれを受け、統治の不届きと賦役の遅滞を理由に沼田藩を取り潰しにした。信利は他藩預かりの身となり、貞享5年(1688年)1月、失意の内に没した。茂左衛門は本望を遂げた後、自首して磔の刑に処されたと云う。土地の人々は、茂左衛門を義民として讃えた。


一方の松代藩では、幸道の時代に幕府から集中的に賦役を課せられた事によって、信之が残した莫大な遺金も大半が消えてしまった。賦役の中には一件で藩の年収を上回るものもあって、財政は火の車となり、終いには幕府に借財を申し込む始末であった。幸道の養嗣子、信弘を経て、その子、信安の代になると、松代藩の財政は一段と窮乏し、とうとう大規模な百姓一揆を招くに至った。


魚津城の攻防

2009.07.24 - 戦国史 其の二

富山県魚津市には、市街地に埋もれた城跡がある。現在、痕跡は消えはて、見る者もいないが、かつては、織田家と上杉家による大激闘が繰り広げられた城であった。その名を魚津城と云う。


天正10年(1582年)2月、織田信長は、長年の宿敵、武田勝頼を討滅すべく大軍を催して、甲信に攻め入った。信長はその一方、勝頼の同盟者である、越後の戦国大名、上杉景勝が来援に来れぬよう、北陸でも連動して軍事作戦を開始した。北越の新発田城主、新発田重家に北から景勝を牽制させると共に、柴田勝家率いる北陸方面軍に対し、越中の上杉方拠点、魚津城を攻めるよう命じたのである。上杉家の部将で、越中の主将である須田満親は、北陸の織田軍の攻勢を察知し、景勝に危急を知らせた。


2月16日、報を受けた景勝は直ちに軍を集め、魚津城へ向かわんとしたが、途中で進軍を停止した。南で起こっている武田家と織田家との戦況が気がかりであったし、北からも新発田重家が攻め寄せて来たからである。こうして景勝が八方塞がりになった時点で、北陸の織田軍が動き出した。上杉方の将、黒金景信は、魚津城将の一人、竹俣慶綱宛てに、「佐々成政の動きが慌ただしく、戦の準備をしている。開戦は間近いので魚津城の備えを固められるように」と2月18日付けの書状で伝えている(別本歴代古案)。


2月20日過ぎ、柴田軍(織田北陸方面軍)は魚津城に押し寄せて、攻撃を開始する。景勝のもとに、魚津城からも武田勝頼からも来援を請う使者が来たが、どうする事も出来なかった。そして、3月11日、景勝が動けぬ間に、信長は武田家を討滅してしまう。これで、上杉家は完全に孤立し、全方位に敵を迎える絶望的状況となった。だが、ここで僅かに景勝の助けとなる出来事が起こった。勝頼は最後を迎える直前、「信長父子は勝頼が討ち取った。これを機に越中で一揆を起こし、越中一国を思いのままにせよ」と云う噂を越中に流していたのである。


3月11日、これを聞いて越中の国人、小島職鎮、唐人清房らが蜂起し、富山城を占拠して城主、神保長住を幽閉するという事件が起こった。柴田軍は、背後に起こった異変を先に排除する必要に迫られ、魚津城の囲みを解いて富山城へと向かった。これで、魚津城と景勝は一息入れる事が出来た。余談であるが、柴田軍が富山城を囲んでいる最中、柴田勝家と佐々成政の間で激烈な討論が交わされた挙句、あわやと云う事態になって前田利家がこれを調停するという出来事があった(前田家所蔵文書)。 柴田軍は強力な軍団であったが、諸将間の仲は、必ずしもしっくりとした間柄ではなかった模様である。


この後、柴田軍と、富山城を占拠した小島職鎮らとの間で話し合いがもたれ、職鎮らは城を明け渡す事を決して、五箇山へと走った。幽閉されていた神保長住は助け出されたが、織田家の越中支配には何かと不都合な人物であったため、彼も越中を追われていった。こうして富山城を取り戻した柴田軍は後顧の憂いを無くし、今度こそはと魚津城に迫った。北陸の織田軍は、柴田勝家を長として、佐々成政、佐久間盛政、前田利家といった錚々たる部将達が加わる、数万もの大軍団だった。


対する魚津城の上杉軍は、中条景泰を筆頭として、山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・竹俣慶綱ら12名の将が城を守っていた。兵力は柴田軍が1万~4万人余で、魚津城兵は1,500~3,800人余であったと云われている。数字の開きが大きいが、柴田軍2万5千人余、魚津城兵2千人余というのが妥当なところだろう。


魚津城は、角川の河口にある平城で、海陸交通の要衝であった。そして、この城と越中東部にある山城、松倉城とが、越後本土を守る最終防衛線だった。魚津城兵は最初の内は伏兵や夜討ちをかけて抵抗していたが、富山城占拠事件後は篭城に切り替えた。柴田軍は、土塁・付け城を築いて城を十重二十重に取り取り囲んで、兵糧攻めの構えを取った。魚津城と春日山城との連絡は甚だ困難となり、4月中旬には2日で届くはずの書状が10日余もかかる状態となる。魚津城の十二将はしきりに来援を請うたが、景勝はまだ身動き取れない状況であった。武田家を滅ぼした織田軍が、信濃、上野から侵攻してくる恐れがあったし、北の新発田重家も活発に活動していたからである。


魚津城では糧食・矢玉が欠乏し始めており、十二将は連著して直江兼続宛てに死を覚悟している旨を伝えた。 「当城のこと、以前に申し上げましたように、敵は壁ぎわまで押しよせ、昼夜四十日にわたって攻め続けてきましたが、今日まで、なんとか城を守ってまいりました。このうえは、もはや滅亡と覚悟を決めております。この書を(景勝様に)披露して下さい」


苦悩する景勝のもとへ、信長の本隊が甲斐を発って、安土に向かったとの報がもたらされた。まだ、滝川一益や森長可らの軍は残っているものの、彼らは戦後処理に追われていた。景勝はこの機を生かして、魚津城へ後詰めに向かう事を決した。5月1日付け佐竹義重宛ての書状に、その時の悲壮な覚悟が述べられている。 「景勝は良き時代に生まれました。弓矢を携え、六十余州の敵を越後一国で相支え、一戦を遂げて滅亡できるとは景勝にとって死後の良き思い出となります。もし、勝つことがあれば、日本無双の英雄として天下の誉れとなり、あまたの人々に羨ましがられることでしょう」  


景勝は出陣するにあたって、柴田軍の後方攪乱を狙った。越後に亡命していた能登の国人、長景連らに手勢を授けて、海路から前田利家の所領、能登を襲う事を命じたのである。そうしておいて、景勝は兵3千~5千人余を率いて越中に入り、5月15日、魚津城東方にある天神山に布陣した。この時、魚津城の二の丸は既に陥落しており、落城が近づいていた。危機的な状況にあった魚津城の将兵達は主君の旗印を見て喜び、奮い立った。しかし、景勝に出来る事は、ここまでだった。柴田軍は倍以上の大軍であったし、土塁・柵・堀を何重にも廻らせていたので、景勝は城に近づく事さえ出来なかった。


その頃、景勝が能登に送り込んだ長景連らの後方攪乱部隊は、前田利家の与力、長連竜が急遽、駆けつけた事により、討ち果たされてしまった。景勝には最早、打つ手がなく、焦燥の対陣が続いた。そうした折、信濃の森長可が兵5千を率いて、越後に侵入して来たとの急報がもたらされた。さらに上野の滝川一益も越後を窺っていると伝えられる。本拠地の一大危機である。景勝は落城寸前の魚津城兵を見捨てて、撤兵せざるを得なくなった。5月27日夜半、景勝は断腸の思いであったが、報がもたらされたその日の内に撤兵して越中を去った。


景勝は春日山へ引き返すに当たって、魚津城兵達に宛てて自筆の書状を送ったとされている。 「上方勢が搦め手として、信濃口より越後に攻め入らんとしているので、この地を発って引き返さざるを得ない。魚津城では糧食も尽き、難儀であろうから、寄せ手へ和解を請い、城を開城して越後へ引き取るべし。いささかも武道の落度ではない」(黄講泉達録)


だが、十二将を始めとする城兵達は、最後まで戦い抜く決意を固めていた。


魚津城の最後には、次のような話が伝わっている。


柴田方では、景勝が引き揚げていったので魚津城兵は意気消沈し、降伏に応じるだろうと思っていた。そこで使者を送ったのだが、すでに死を決していた城方に峻拒され、柴田方は当てが外れてしまった。魚津城の落城は目前とはいえ、死を決した相手に正面からぶつかれば、味方の犠牲は計り知れない。それにぐずぐずしていれば、森長可や滝川一益に横から手柄を奪われる恐れがあった。


長年、北陸で苦闘を続けていた柴田勝家らは、自らの手で上杉家に引導を渡したかった。 柴田軍には早急に魚津城を落とす必要があり、そこで謀略を用いる事とした。柴田方は、再び城に使者を遣わすと、「城方の生命は保証する。こちら側から人質も差し出す。城兵達は帰順の意を示すために、城の本丸を明け渡し、三の丸に移ってもらいたい」と提案した。城方は逡巡したが、再度の申し出に信をおいたのか、ついに開城する事を決した。


5月29日、柴田方の城受け取りの責任者、佐々成政は自身の甥、佐々新右衛門と柴田勝家の一族、柴田専斎などの人質を伴って魚津城に向かう。人質達は死ぬ覚悟であり、佐々成政も決死の覚悟をしていた。城方は人質を受け取ると、約束通り本丸を明け渡して三の丸に移った。だが、ここで柴田方は約束を違えた。本丸に入った佐々勢は城方に向かって鉄砲を浴びせかけ、それを合図に城外の柴田軍も一斉に城内に攻め入ったのである。城方は怒り狂って人質を突き殺すと、攻め込んできた柴田軍と必死の形相で斬り合った。城兵達は痩せ衰え、幽鬼さながらであったが力の限りに戦って、柴田軍を三の丸から追い払った。魚津城兵、最後の咆哮であった。


(この柴田方による謀略の話は、本当にあった出来事なのかどうかは分からない。だが、魚津城の兵達が、最後の最後まで戦い抜いたのは事実である)


6月3日、上杉方の兵卒のあらかたは討たれ、城の一角を辛うじて支えるのみであった。最後を悟った十二将は、雑兵の手にかかって討死するよりは武士の面目を保って自害すべしと、短冊形の板に自らの姓名を書き、それを耳に針金で通して結わえ付け、そして、互いに刺し違えて相果てていった。12将の自害によって、3ヶ月に渡って繰り広げられた魚津城の攻防戦は終わった。しかし、この前日、6月2日には戦国の世を激変させる「本能寺の変」が起こっていた。後2日ばかりの猶予があれば、柴田軍は城の囲みを解いて、撤退していったであろう。運命の皮肉であった。


柴田軍は魚津城を落とした後、その勢いを駆って越後へ攻め入る予定だった。信濃から攻め入っている森長可、上野の滝川一益、北越の新発田重家、そして、止めとして越中から数万の柴田軍が攻め入れば、上杉家は成す術なく滅亡を迎える事になったであろう。(米澤雑事記)ではその時の越後の模様をこう伝えている。「御家中の面々は色を失い、越後中は暗闇に包まれた様で、家族の者同士でさえ、不安げに目と目を合わせ、会話を交わす事もなくなった」


織田家の部将、佐々成政も、越前、鞍谷民部に宛てた6月5日付けの書状で、「この機に乗じ、越後を討ち果たす事は、目前にある」と述べている。柴田軍が今まさに、越後へ攻め入らんとしていたところへ、本能寺の変の凶報がもたらされた。それは6月4日もしくは5日の事であったらしい。越中の柴田勝家らや、越後に攻め入った森長可はこれを聞いて愕然となった。織田方諸将はこれに乗じた一揆の蜂起や国人の裏切りに備えるため、急ぎ、それぞれの所領へと引き返さざるを得なかった。


織田軍撤退の報を受け、越後国中の大小士、万民に至る迄、夢見心地のような喜びに浸り、人々は4、5日経っても、なお喜び合っていたと伝えられている(越後治乱記)。それも道理である。越後では、御館の乱、新発田重家の乱、と立て続きに起こった内乱によって国内は荒れ果てており、この上に幾万もの緒田軍が乱入して荒らされれば、越後の民は最早、生きて行く事が出来なかったであろう。悪くすれば、数万人の死者が出ていたかもしれない。 魚津城が1ヶ月やそこらで落城していたなら、柴田軍はすぐさま越後に乱入していたに違いない。そうなれば景勝は、「本能寺の変」が起こる前に滅亡していた可能性もあった。魚津城の将兵達が命で稼いだ3ヶ月の時間は、景勝と越後の民の命を救った。景勝は、上杉家のために奮戦し、死んでいった将兵達の事を、生涯忘れ得なかったであろう。


 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
05 2020/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
▼ 最新CM
[07/24 かめ]
[08/11 重家]
[05/02 通りすがり]
[04/01 芋田治虫]
[06/16 田宮]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ Amazon