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賤ヶ岳の戦い

2011.05.05 - 戦国史 其の二

天正10年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長死す。日本最大の権力者が倒れて、国内全てが騒然となった。織田一族は今だ広大な領土を有していたが、大黒柱を失って、指導力も失った。そこで、織田家中の二大実力者である、羽柴秀吉と柴田勝家がにわかに浮上して、家中を主導する運びとなった。しかしながら、秀吉は、明智光秀を討って主君の仇討ちを果たした者として家中から一目置かれており、その権威を持って独断専行するようになる。


同年6月27日、織田家の跡継ぎを決める清洲会議が行われ、織田信忠の嫡男で、まだ三歳の三法師(秀信)が織田家を継ぐ事となった。秀吉はこの会議の主導権を握って、大きな勢力圏と発言力を獲得した。だが、秀吉の野心はこれだけに止まらず、織田家の勢力範囲全てを手中に収めるべく、露骨に動き出す。信長の死からまだ1ヶ月にも満たない、この清洲会議の時点で、秀吉は既に柴田勝家を倒すべき相手と定めていた。だが、勝家の方は、秀吉の勝手な振る舞いに憤りながらも、家中一体となって幼君を盛り立てて行きたいと考えていたようだ。


同年10月6日、勝家は秀吉の側近、堀秀政宛てに長文の書状を送っている。要約すると、「この勝家が筋目正しく行動しているのに対し、秀吉が勝手な振る舞いをしているのは宜しい行為では無い。それに山崎(京都府)に城を築いているのは、誰を敵と見なしているのか。今だ四方は敵に囲まれている。内輪の争いはやめ、一致協力して外敵に当たろうではないか。この勝家と秀吉の間は元々、昵懇だったはずである。我らが相争って果てる事があれば、国のためにならず、私の本意でも無い。そうなれば、残念至極である」。 だが、この手紙が書かれてから10日後の10月15日、秀吉は大徳寺にて信長の葬儀を大々的に執り行い、その後継者たらんとする野心を露わにした。ここに至って勝家も対決を決意する。


勝家側に組した主な者は、織田信孝、滝川一益、佐久間盛政、前田利家、佐々成政、金森長近らで、外部勢力の四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀、根来衆などを味方に組み入れ、毛利氏、上杉氏、徳川氏などにも働きかけていたと見られる。勝家の軍事指揮下にあった地域の石高は130万石余で、織田信孝、滝川一益などの友軍が50万石余りで、総計すると180万石余である。10万石に付き2500人が動員できたと計算すると、勝家方の動員可能数は4万5千人となる。 秀吉側に組した主な者は、織田信雄、丹羽長秀、羽柴秀長、堀秀政、蒲生氏郷、細川忠興、森長可、池田恒興、筒井順慶、宇喜田秀家、中川清秀、高山重友、稲葉一徹らで、外部勢力の上杉氏を味方に組み入れ、毛利氏、徳川氏にも働きかけていたと見られる。


秀吉の軍事指揮下にあった地域の石高は、160万石余で、織田信雄、筒井順慶、池田恒興などの友軍が300万石余で、総計すると460万石余である。10万石に付き、2,500人が動員できたと計算すると、秀吉方の動員可能数は11万5千人となる。 両者の戦力を総合すると、畿内の主要部を制圧し、織田家中の大部分を味方に組み入れた秀吉の方が、大きな優勢を誇っていた。しかしながら、大大名である毛利氏、徳川氏の動向次第で、情勢が大きく変わる可能性もあった。勝家も対決を決意してからは幅広く味方を募ってきたが、秀吉に出遅れた感は否めなかった。これを挽回するには、外部勢力への働きを強めて、秀吉包囲網を築きあげる必要がある。それに季節は冬を迎えて、勝家の本拠地、越前は積雪によって閉ざされようとしていた。勝家には時間が必要であった。


11月2日、勝家は春までの時間稼ぎをせんとして、前田利家、金森長近、不破直光らを山崎の秀吉のもとへ派遣して、和平交渉を行った。秀吉はすぐにその意図を察したが、一応和平を了承する。そして、この時、秀吉は3人の使者に内応を誘ったようである。この見せ掛けの和平は、すぐに終わりを告げた。先に動いたのは秀吉であった。12月5日、勝家が積雪で動けないのを見越して、秀吉は近江北部の勝家方の拠点、長浜城と、織田信孝の拠る岐阜城を同時攻撃したのである。そして、12月15日には、長浜城主の柴田勝豊を降伏せしめた。この長浜城はかつての秀吉の本拠地であり、清洲会議後に勝家の領域に組み入れられたものだった。長浜城は、北陸から畿内に進出するにあたっての重要拠点であり、ここを失った勝家の打撃は計り知れなかった。


12月20日頃には、織田信孝も秀吉に降伏する。勝家方の一応の旗頭である信孝の屈服は、真にあっけないものだった。秀吉は、信孝の元にいた三法師を受け取り、人質も取ると一旦、帰陣した。だが、勝家方の友軍の1人、伊勢長島の滝川一益の方は、一味違っていた。翌天正11年(1583年)正月、一益は機先を制して、秀吉方の亀山城、峯城、国府城、関城を次々に奪取すると、これらの城に将兵を込めて、秀吉に攻撃される前に防衛態勢を整えたのである。


同年2月10日、秀吉は3万~4万人余の大軍を率いて伊勢に侵攻し、滝川方の諸城に猛攻を加えたが、一益は粘り強い抵抗を見せて、容易には屈しなかった。その頃、越前の勝家は、秀吉の各個撃破戦略によって次々に味方が攻撃されるのを見て、焦りを募らせていた。2月末、まだ積雪は残っていたが、勝家軍は雪を掻き分けつつ、無理を押して越前を出立した。勝家は、本陣を越前と近江の国境にある玄蕃尾城に置き、その最有力部将である佐久間盛政は、賤ヶ岳を望む行市山に陣取った。


勝家出陣の報を受けると、秀吉は伊勢方面は織田信雄などに委ね、自らは主力を率いて近江北部に転進した。この時、勝家軍は2万人余、秀吉軍は4万人余であった。両軍は余呉湖北方で向き合ったが、双方に隙は無く、睨み合いの日々が続く。4月13日、秀吉方の部将、山路正国(将監)が勝家軍に投降する。この正国は長浜城主、柴田勝豊の部将であったが、勝豊が降伏してしまったため、不本意ながら秀吉に従っていたのだった。正国は人質の妻子も捨てて勝家方に復帰すると、秀吉軍についての貴重な情報をもたらした。 4月16日、膠着した戦況を見越して、屈服していた信孝が再び挙兵する。これを聞くと秀吉は、翌4月17日、馬廻りの1万人余を率いて岐阜城再攻撃に向かった。


この秀吉転進を知った勝家方の将、佐久間盛政は、手薄になっているであろう秀吉方の陣地攻撃を目論んだ。投降してきた山路正国も、大岩山と岩崎山(共に余呉湖の東隣の山地)の陣地は脆弱であると報告しており、盛政は絶好の機会と見なして、勝家に夜襲を提案した。勝家は攻撃成功後、速やかに兵を元の陣地に戻すという条件付きで、この作戦を了承したとされている。 4月20日午前1時頃、盛政率いる奇襲隊8千人とその弟、柴田勝政率いる援護隊3千人、側面防御に当たる前田利家隊2千人は密かに陣地を出立した。そして、これに合わせて勝家の本隊7千人も玄蕃尾城を出て麓の狐塚まで下り、秀吉方の堀秀政隊3千人余と向き合った。この勝家隊の進出は、秀吉軍の注意を自らに引き付けて、盛政隊の攻撃を助ける意味合いがあった。


奇襲隊の規模が本隊よりも大きい事から、この作戦に賭ける勝家と盛政の意気込みの程が分かる。盛政隊8千は余呉湖を大きく回りこみ、大岩山に接近していった。そして、夜明けと同時に、大岩山を守る中川清秀隊1千人に襲い掛かった。清秀隊は奇襲を受けた上、劣勢であったので、たちまち大苦戦に陥った。だが、清秀は、あくまで砦を守らんとして奮戦する。 一方、敵中深く進撃している盛政隊も必死であり、猛攻を加えて、清秀隊を徐々に討ち減らしていった。20日午前10時頃、清秀は最後に望んで、50人余の槍隊を並べて敵陣に突入し、壮烈な討死を遂げた。この大岩山陥落を受けて、隣接する岩崎山の高山右近は戦わずして砦を捨て、賤ヶ岳を守っていた桑山重晴も砦を捨てて、麓に撤退を図った。


事態は盛政の思う壺に運ぶかに見えたが、折しも麓にいた秀吉方の部将、丹羽長秀はこの情勢を危うんで、桑山隊と合流した上で、賤ヶ岳の砦を取り戻したのだった。大岩山、岩崎山に加えて、この賤ヶ岳まで陥落していれば、秀吉軍は更に危機的な状況に陥っていただろう。信長から最も篤い信頼を受け、その死後には秀吉の片腕として働いている丹羽長秀は、流石に練達の武将であった。 勝家は大岩山奪取の報を受け、盛政にしきりに撤退を促したとされている。しかし、盛政は更なる戦果拡大を狙ったのと、夜通しの行軍に加えて、朝からの激戦の疲労もあったので滞陣を続けた。勝家の作戦は、秀吉軍に一撃を加えた上で高所に陣取り、外部勢力に働きかけつつ、秀吉からの挑戦を待つという持久戦法であったらしい。


だが、盛政は現地の状況を見て作戦を変更し、秀吉本隊が到着するまでに残置部隊を撃滅し、周辺要地を占めた上で、一気に決着を図ろうと試みたようだ。これは間違いではないが、周辺征圧に手間取ってそこに秀吉本隊が取って返したなら、敵中に孤立する恐れを秘めていた。 数度の催促にも関わらず盛政が動かないのを見て、勝家は、「我に腹を切らせるつもりか」と、深い溜め息をついたと云われている。勝家は当初の作戦を貫徹しようとしたが、現地の盛政は臨機応変に作戦を変更しようとしたのか、この辺りの真相は今もって不明である。しかし、どちらせにせよ勝家軍の要は佐久間盛政であり、この将の采配に勝家軍の運命が委ねられていた。


この20日正午、美濃の大垣城にあった秀吉は、大岩山陥落の報を受けると、直ちに近江に取って返す事を決意する。20日午後14時、秀吉と近臣は先行して駆け出し、その後を1万人余が続いた。そして、20日午後21時、秀吉は53キロの道のりを5時間で駆け抜けて、近江北部の木之本に到着する。これは当時としては、驚異的な速度であった。大岩山の盛政は、麓に続々と到着する松明を遠望して秀吉本隊の到着を悟り、その余りにも早い転進に愕然となった。しかし、今、盛政は敵中深くにあって、逡巡する間など無かった。ここでぐずぐずしていれば、夜明けと共に秀吉軍に包囲撃滅される事になる。 盛政は即時撤退を決意し、弟、勝政隊3千に殿軍を委ねると、21日午前1時頃から隊を分散させつつ、麓の余呉湖に下っていった。


21日午前2時頃、秀吉は盛政の撤退を知って、到着しつつある本隊を逐次、追撃に振り向けたが、盛政隊の撤退は素早く、適宜、逆撃も加えてくるので、追激戦は不首尾に終わった。盛政は勇猛なだけの猪武者に見えがちだが、実際には確かな戦術眼を持った優秀な指揮官であった。そこで、秀吉は盛政隊の援護を担っている勝政隊に狙いを変え、賤ヶ岳の山頂からじっと戦機を窺った。 盛政は安全圏に近い権現坂まで撤退に成功すると、今度は殿軍の勝政隊に撤退を指示する。だが、秀吉はこの瞬間を狙っていた。勝政隊が動き出すと同時に、鉄砲の一斉射を浴びせて、総攻撃を下令した。それを合図に、秀吉子飼いの武将達、世に云う賤ヶ岳七本槍が飛び出していって、それぞれ目覚しい働きを見せる事になる。秀吉軍の猛攻を受けて勝政隊は混乱し、次々に討ち取られていった。それを見た盛政は、勝政隊を救わんとして再び戦場に突入する。そして、余呉湖の西岸で、両軍入り乱れての死闘が繰り広げられた。


この最中、盛政隊の剛の者、拝郷家嘉は秀吉の直臣、石川一光を討ち取ったが、次に福島正則と渡り合って、槍で突かれて討死した。山路正国も加藤清正と組み合ったが、若い清正に軍配が上がり、正国は討ち取られた。柴田勝政も乱戦の最中、脇坂安治に討ち取られたと云われている。 盛政は追いすがる秀吉軍と絶え間ない戦闘を交えつつ、勝政隊の残余を収容していった。背後の茂山(しげやま)には前田利家隊2千人があり、後側面は安全である。そこで盛政は、踏み止まりながら兵を再編成し、秀吉軍に逆撃を加えんとした。だが、その時に異変が起こった。前田隊が突如、陣地を放棄して、撤退を開始したのである。盛政には何が起こったのか、理解できなかった。これは、盛政隊から見れば、後ろの味方が崩れだしたかの様に映った。盛政隊の間に急速に動揺が広がり、秀吉はここぞとばかりに全軍を叱咤して、2万人余で総攻めを加えた。


盛政は怖気づいた兵を叱咤しつつ、尚も奮闘するが、前田隊の抜けた茂山から秀吉軍の部隊が回り込み、側面を突かれるに至って、ついに勝敗は決した。盛政隊は壊乱し、将兵達は次々に討ち取られていった。この後、盛政は戦場を切り抜けて、山中に姿をくらませた。 盛政隊が崩れ去るのを望見して、勝家の本隊にも動揺が走る。そして、7千人いた兵も次々に脱走し、3千人ほどに減ってしまった。勝家は無念のほぞを噛み、最後の一戦を交えようとしたが、これを近臣の毛受勝照が押し止めた。毛受は自らが殿軍を受け持つので、撤退するよう強く促したのである。勝家は忠臣の申し出を受けて考え直し、目に涙を浮かべつつ戦場を去った。毛受は兵5百をもって、殺到する秀吉軍相手に奮戦し、勝家が撤退するに十分な時間を稼いだ上で、兄の茂左衛門、心ある将兵数百人らと共に討死した。時に4月21日午後14時頃の事であった。ここに賤ヶ岳の戦いは終結する。


この賤ヶ岳の戦いで、勝家軍は5千人余の討死を出したと云われている(毛利家文書)。そして、4月24日、勝家は北ノ庄で、武士の面目を飾る最後を遂げた。5月2日、織田信孝は切腹に追い込まれ、恨みの時世の句を残して果てた。山中に身を潜めていた佐久間盛政も捕虜となり、その将才を惜しむ秀吉の助命勧告を受けるも、これを撥ね付け、5月12日、華美に着飾って六条河原にて刑死を遂げた。滝川一益は、勝家、信孝が滅亡して大勢が決した後も意地の篭城を続け、7月になってようやく降伏した。賤ヶ岳の戦いから、実に3ヵ月の時が経っていた。以上をもって、秀吉の勝利は確定する。そして、織田家の勢力範囲と権威を継承し、天下人への階段を大きく駆け上るのだった。

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本能寺の変、第二幕、二条御所の戦い

2010.12.11 - 戦国史 其の二

天正10年(1582年)6月2日未明、京都本能寺において、日本史を揺るがす大事件が起こる。天下統一を間近に控えていた織田信長を、家臣の明智光秀が討ったのである。だが、謀反はこれで成功した訳ではない。本能寺の近隣にある妙覚寺には、信長の嫡子である織田信忠がまだ存在していた。信長に次ぐ権力者である信忠も討たねば、謀反が成功したとは言い難かった。この信忠を逃せば、たちまちの内に諸将が糾合されて光秀は攻め滅ぼされてしまう。光秀には信長、信忠を同時に討って、織田家の求心力を消し去る必要があった。そして、その後に生じるであろう権力の空白の合間に畿内を制圧し、天下に号令を掛ける、これが光秀の戦略だった。


さて、光秀は首尾よく本能寺の襲撃には成功したものの、信忠のいる妙覚寺は、まだ手付かずのままだった。本能寺と妙覚寺との距離は、直線距離にして600メートル、道沿いに歩いても1キロメートルである。指呼の距離にあると云っても良く、光秀も当初は、本能寺と妙覚寺を同時に襲撃する予定であった。しかし、妙覚寺を襲撃する予定だった明智次右衛門の別働隊は、行軍に遅れが生じて、同時攻撃はならなかったのである。 その妙覚寺の信忠の元へ、本能寺近辺に居住する村井貞勝から飛報がもたらされた。そして、異変を嗅ぎ付けた馬廻(うままわり・主君の側近・旗本)の者達も急遽、信忠の下へと集まって来た。この時、本能寺はすでに火の手を上げており、その煙と火の粉は妙覚寺からも遠望出来たはずである。


信忠は父を救うべく、すぐさま本能寺に駆け付けんとしたが、これを貞勝が押し止めた。貞勝は、「最早、本能寺は絶望的でありましょう。明智軍がここに来るのも時間の問題です。この妙覚寺より、隣接する二条御所の方が堅固なので、敵を迎え撃つにはこちらの方が宜しいでしょう」と進言した。 この時、家臣の中には、信忠に逃亡を勧める者もいた。しかし、信忠は、「この様な大掛かりな企てならば、自分が逃れられない様、手を打っているはずである。雑兵の手にかかるよりは、ここで腹を切った方がましである」と云い、二条御所へと移った。この時、信長の弟である織田長益(有楽斎)は脱出に成功している。信忠もすぐ様、行動していれば、脱出に成功していた可能性があった。だが、信忠は最早、脱出は困難であると諦め、武士らしく華々しく散らんとしたのだった。


それから間もなく、明智軍が二条御所を取り囲み始め、脱出の機会は失われた。 二条御所は包囲されたものの、すぐに戦いが始まった訳ではない。この二条御所は、天皇の皇太子である、誠仁(さねひと)親王の邸宅であった。光秀も信忠も天皇一家を戦いに巻き込む気はなく、誠仁親王と、供の者達を退出させる手筈となった。このため、束の間の平穏が訪れたが、その間にも二条御所には明智軍が続々と集結し、信忠軍も防備を固めて、戦闘準備を行った。そして、誠仁親王が退出するや否や、明智軍の火縄銃が火を噴いて、戦いの火蓋は切って落とされた。戦闘開始時刻は午前7時頃、明智軍は1万人余り、信忠軍は1千人余であった。 明智軍は大人数で、鎧兜、鉄砲、槍の完全武装で固めていたのに対し、信忠軍は少人数の上、急遽、駆け付けた者達ばかりで、軽装の帷子(かたびら)姿に太刀を手に取って戦う有様であった。


信忠軍に取っての利点は、二条御所が堀を廻らせた堅固な城郭風の建物である点と、馬廻の者達が主君のためなら死をも厭わぬ覚悟である点だけだった。勝敗は最初から目に見えていた。それでも、信忠軍の戦意は旺盛であり、大手門に兵を集結させると、門を開いて幾度も打って出た。信忠も自ら太刀を手に取り、幾人もの敵兵を切り伏せたと云う。 明智軍も大手門に攻撃を集中するが、決死の信忠軍を相手に苦戦する。そのため、他の諸門からも攻め立ててみたが、それでも突破は成らなかった。この攻防の最中、明智軍の前線指揮官、明智次右衛門は鉄砲で重傷を負い、多数の兵卒も討ち死にした。信忠軍の思わぬ奮戦に業を煮やした明智軍は、御所の隣にある近衛前久邸へと乱入し、そこの屋根から見下ろす形で弓、鉄砲を撃ち掛け始めた。


これで、信忠軍には死傷者が続出する事態となる。 信忠軍は徐々に撃ち減らされ、ついには大手門への侵入を許してしまう。信忠軍は御殿に篭って尚も抵抗したが、そこへ明智軍が火を放った。追い詰められ、従う兵も僅かとなった信忠は、最早これまでと見て、御殿の奥に入り、四方に火を掛けた。そして、燃え盛る炎の中、信忠は近習の鎌田新介に介錯を頼むと、腹をかき切って果てた。織田信忠、享年26。時刻は午前9時頃、2時間余りの激闘であった。夕刻になって二条御所を訪れた公家によると、御所内は首や死体で数限りなしの状況であったと云う。その中で信忠の姿は父同様、炎の中に消え、その遺骸を明智軍が見つける事は出来なかった。


この本能寺と二条御所での戦闘で、織田家の中枢に位置していた重要人物や、将来を担うべき若武者が多数、討死にした。本能寺では、織田信長・森乱丸・坊丸・力丸の森三兄弟。二条御所では、織田信忠・織田長利(信長の弟)・織田勝長(信長の五男)・村井貞勝(京都の全般的な行政を司る、京都所司代)・福富秀勝(馬廻の指揮官)・菅屋長頼(信長の側近筆頭格)・毛利良勝(今川義元の首級を挙げた馬廻)・野々村 正成(馬廻)・猪子兵助(馬廻)・団 忠正(信忠麾下の若手部将)・斎藤利治(斉藤道三の末子とされる、美濃の有力部将)・金森長則(金森長近の長男で馬廻)。この他にも、多数の馬廻や小姓(主君に側仕えする少年)が討死した。


この本能寺の変によって織田家の中枢は消え去り、当時の日本の政治的中心地であった京都と安土城も制圧された。これを国家で例えれば、突如、クーデターが発生して元首と閣僚が殺害され、首都も制圧されて国家機能が麻痺した状態に等しい。これで、光秀の目論見通り、畿内には権力の空白状態が生じた。この一大衝撃は畿内のみならず、日本全国に伝わって、人々は大いに動揺し、右に左に揺れ動いた。光秀はこの混乱に乗じて近江・丹波・山城・若狭の国々を掌握し、さらに大阪方面に進出しようとした。 このまま半月余り、勢力拡大の時間があれば、光秀は畿内を固めて、大兵力をその手に有したであろう。だが、ここで光秀は、羽柴秀吉の驚異的な中国大返しに遭って窮地に陥る。光秀最大の誤算は、秀吉の迅速な畿内進出であったが、それに加えて、味方になると思っていた細川藤孝・忠興父子、筒井順慶ら大身の部将が馳せ参じなかった事も大きな誤算となった。突発的な謀反を起こした光秀には大義名分が無く、親しかった部将達も去就を迷っていた。その反面、電撃的な畿内進撃を果たし、さらに主君の仇討ちと云う大義名分を掲げた秀吉には多くの諸将が集まった。


天正10年(1582年)6月13日、山崎において明智軍1万人余と秀吉軍2万人余が激突し、光秀は倍する秀吉軍に敗れて敗死した。光秀が信長を討ってから、僅か13日後の出来事であった。戦後、信長、信忠という支柱を失った織田家は指導力を失い、宿老の羽柴秀吉と柴田勝家が家中を主導する事態となった。だが、秀吉と勝家は主導権を巡って対立を深めてゆき、やがて両者は賤ヶ岳において激突する。この戦いの結果、羽柴秀吉が織田家の勢力範囲を継承して、強大な権限を手にした。さらに秀吉は日本全国の平定を押し進め、豊臣姓を名乗って天下人と成る。この豊臣時代、かつての主家であった織田家は急速に没落していった。だが、豊臣家も秀吉の死と共に没落し、天下は徳川家康の手に移る。徳川時代に入ると、織田家は、信長の次男、信雄や、信長の弟、信包や長益(有楽斎)が小大名として僅かに存続するのみであった。天下を統べらんとした一族が、一夜の出来事で全てを失い、埋没していったのだった。




小谷城の攻防 後

2010.09.05 - 戦国史 其の二
岐阜に在った信長は、山本山城が降ると知るや、なんと報を得た8月8日の夜半の内に出陣する。そして、続々と追い慕って来る軍勢の集結を待って、8月10日には小谷城を囲んだ。このあたりの信長の迅速な決断と用兵は、さすがと言わざるを得ない。この時の織田軍の兵数は不明であるが、主だった部将を総動員している事から、3万人は超えていただろう。信長は今度こそ、決着を付ける決意であった。



「信長公記」によれば、朝倉義景も2万人余を引き連れて救援に駆けつけたとあるが、「朝倉記」によれば、義景に次ぐ実力者であった朝倉景鏡や、重臣の魚住景固らが連年の出兵の負担に耐えかねて参陣を拒否したとあるので、実数は1万人余だったのではないか。朝倉軍は劣勢で、しかも小谷城は既に織田軍の重囲にあって、近寄る事も出来ず、小谷北方にある田部山(田上山)に陣取らざるを得なかった。小谷城には大嶽(おおずく)と呼ばれる、本城よりも高所に築かれた砦がある。この大嶽は小谷城の背面を守る要であり、朝倉家との連絡線でもあった。だが、その大嶽の北面にある焼尾砦の将、浅見対馬守は浅井家を見限って、信長に内通を打診する。これを受けて、信長は焼尾砦からの大嶽攻略を企図した。



8月12日夜半、大雨が降りしきる中、信長は自ら馬廻りの者を率いて焼尾砦に入ると、そこから大嶽に夜襲を仕掛けた。大嶽には5百人余の朝倉軍が守っていたが、不意を突かれて、たちまち降伏に追い込まれる。信長はこの降兵を朝倉本陣に向けて解き放ち、現在、朝倉軍が圧倒的不利な状況に置かれている事を知らしめた。これを受けて義景は戦意を喪失し、撤兵するに違いないと信長は見込んだ。そして、無防備な背後を晒した瞬間、間髪入れずに襲うと決めた。翌8月13日、信長は大獄に続いて、小谷城の麓近くにある丁野、中島といった砦を奪取した。これで、小谷城は外部と遮断され、完全に孤立する。8月13日夜半、朝倉義景はこの情勢を見て、小谷救援の望みは断たれた、または既に小谷城は落城したと判断し、越前に撤退を開始した。だが、信長はこの瞬間を見逃さなかった。



信長は自ら先頭に立って朝倉軍を急追すると、刀根坂において捕捉、朝倉軍数千人余を討ち取って完勝した。信長は、義景の心胆を完全に見抜いていたとしか言えない。信長はそのまま越前に侵攻し、義景に立ち直る隙も与えず、8月20日に自害に追い込んだ。朝倉家の滅亡をもって浅井家の運命は極まり、長政も覚悟を決める。8月26日、越前から舞い戻った信長は、続いて浅井家に止めを刺すべく小谷城前面の虎御前山に着陣した。この頃、小谷城では、その運命を見越して逃れ出る者が絶えなかった。だが、その一方で、少数だが最後まで浅井家に忠実たらんとする者もいた。篭城の最中、長政とその父、久政はそういった忠義の士に報いんとして、感謝の意を込めた感状を与えている。それらの感状の中には土地を与えんとの文言があったが、最早、長政にはそのような土地は無かった。受け取る者も空手形に終わると分かっていたが、主君からの感謝の意と名誉だけを受け取ったのだった。



8月27日夜半、小谷城の京極丸を守備する部将、浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊ら3人がこの期に及んで織田方に通じ、秀吉の部隊を迎え入れた。このため、長政が守る本丸と、久政が守る小丸とが分断される。そして、秀吉は占領した京極丸を基点に、その一段上にある小丸に攻撃を集中した。久政は防戦に努めたものの、衆寡敵せず、最後を悟って郭内に入った。久政は家臣と決別の杯を交わすと、鶴松太夫と云う舞楽をもって仕えていた者に、逃れ出るよう促した。だが、鶴松太夫は武士でないにも関わらず、最後までお供致しますと述べ、その言葉通り久政の介錯を勤めた末、切腹して果てたのだった。後に人々は、鶴松は名を小谷に上げしと称えた。



8月28日、信長は自ら京極丸に上り、長政の篭る本丸攻撃に望んだ。だが、この28日前後、信長は、長政に降伏を促す使者を送ったらしい。信長は裏切られたとは云え、長政の武将としての器量は高く買っており、数度に渡って使者を送ったと云われている。長政も心が揺れ、父、久政が存命ならばこれに応じる事も考えたようだ。しかし、織田方が久政の死を隠していたと知ると、最後まで戦う覚悟に変わった。8月28日夜半、長政は、妻、お市の方と茶々、お初、お江与の3人の娘を城から送り出す。お市と3人の娘は今生の別れを惜しんだが、長政にはこれで思い残すものはなくなった。翌8月29日、織田軍の総攻撃が始まるも、長政とそれに殉ずる覚悟を決めている将兵の奮戦もあって、本丸は尚も持ち堪えた。



この29日、長政は、戦国大名として最後となる感状を家臣の片桐孫右衛門直貞に与えている。この直貞は、豊臣秀頼の傅役(もりやく)として仕えた片桐且元の父に当たる人物である。長政の感状を要約して載せる。

「思いもよらぬ成り行きで、当城も本丸一つを残すのみとなってしまった。不自由な篭城の中にあっても、忠節を全うせんとするそなたの覚悟には、感謝の念しか覚えない。特に、皆が次々に城から抜け出していく中、そなたは変わりなく尽くしてくれている。とても言葉では言い尽くせない」

直貞は、この書を名誉の証として懐に入れ、主君の最期の戦いに臨んだと思われるが、生き延びて、天正19年(1591年)に死去した模様である。 この感状は、現代にまで伝えられている。



9月1日、長政は本丸から打って出て、前面の織田軍と尚も激闘を続けていたが、後方の織田軍が本丸に雪崩れ込んで来て、中に入る事は出来なくなった。長政は最早これまでと定め、敵の手にかかるよりは自刃して果てんと、本丸東下にある赤尾清綱の屋敷に入った。百人余の近臣達が防戦して時間を稼ぐ中、長政は腹をかき切り、29年の生涯を閉じた。そして、多くの近臣も主君の後を追って、切腹して果てていった。小谷城には当初、3千人余が篭っていたと見られるが、その多くは逃れ去った。だが、7百人余りの将兵は、最後まで長政に付き従って戦死した。この長政主従、最後の奮戦によって、織田方も相応の戦死者を出したであろう。



戦後、浅井長政、久政、朝倉義景の首は京に送られ、獄門に晒された。信長は、長政を頼りになる義弟と信じていただけに裏切られた怒りも激しく、捕虜とした長政の母は惨殺し、長政の長男で10歳の万福丸も探し出して、関ヶ原にて磔(はりつけ)とした。そして、長政、久政、義景の首は薄濃(はくだみ)にして、酒肴の見せ物とした。信長は、この浅井家討滅にあたって、木下秀吉の武功が一番であると評し、小谷城を含む12万石の所領を委ねた。また、小谷城落城の切っ掛けを作った、山本山城主の阿閉貞征にも2万5千石の所領が与えられた。それに対し、大嶽を落とす切っ掛けを作った焼尾砦の降将、浅見対馬守は落城寸前の裏切りのため、所領没収の上、追放となった。また、浅井家の重臣でありながら、最後の最後で裏切った浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊らは後世への戒めと称され、斬首となった。



この後、小谷城の主となったのは秀吉であるが、天正4年(1576年)、琵琶湖畔に新たに長浜城を築いたため、小谷城は廃城となり、その短くも激しい歴史に終わりを告げた。だが、浅井家の血脈が途切れる事はなかった。長政の長女、茶々は秀吉の妻となって秀頼を生み、次女、初は名門の家柄である京極高次に嫁ぎ、三女、江は徳川秀忠に嫁いで、後の三代将軍家光を生んだ。長政の娘達はそれぞれ数奇な運命を辿りながらも、浅井家の血筋は後世まで残されてゆく。



小谷城の攻防 前

2010.09.05 - 戦国史 其の二
永禄11年(1568年)、この年、尾張、美濃を領有する有力大名に成長していた織田信長は、天下統一事業を一気に進展させるべく、上洛を目指して動き出す。しかし、岐阜から京に抜けるには、北近江に勢力を張る浅井氏と、南近江に勢力を張る六角氏の領国を通らねばならなかった。同年4月、信長は上洛を確実なものとするため、北近江の雄、浅井長政と盟約を結び、さらに妹のお市の方を嫁がせて絆を深めた。 同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、六角氏は敵対したが、長政は信長に協力して援軍を送った。信長の勢いは凄まじく、瞬く間に畿内の主要部を制圧して、一躍、天下人に最も近い武将となった。この信長の成功は、その通り道に当たる浅井長政の協力なくしては達成し難いものであった。そして、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢攻めを開始すると、長政はこれにも援軍を送っている。両家の協力関係は、このまま続いて行くかに見えた。


しかし、元亀元年(1570年)4月、信長が越前朝倉攻めを開始すると、長政は突如として信長から離反し、その背後を襲った。この離反の理由については、古くからの繋がりがある朝倉家との関係を重視したものと云われているが、確かな事はわかっていない。挟撃の危機から命からがら逃れた信長は激怒して、両家は一転、不倶戴天の間柄となった。だが、この時の浅井家と織田家の実力の差は、余りにも大きかった。浅井家は近江北部30万石余で動員力は8千人余なのに対し、織田家は尾張57万石、美濃54万石、伊勢志摩の大半50万石余、その他、近江南部や畿内各地にも所領があるので、石高は200万石以上、動員力は5万人を超えていた。浅井家は、朝倉家の援助を受けねば戦線の維持は不可能で、必然的に受け身の態勢となる。


元亀元年(1570年)6月、浅井氏の麾下にあった有力国人、堀秀村がその居城、鎌刃城と、美濃との境目にある長比城(たけくらべじょう)や刈安尾城(かりやすおじょう)ごと信長に投降すると云う事態が起こる。これは戦わずして国境線を打ち破られ、直接、小谷城を突かれる事を意味していた。長政は、国境で信長を食い止める算段を立てていたが、それは味方の裏切りで脆くも崩れ去る事となった。信長は勿論この機を逃さず、一挙に長政を討滅せんと動き出す。そして、徳川家康にも援軍を要請して、大軍をもって小谷城へ迫った。これに対し、単独では敵し得ない長政は、朝倉家に援軍を仰いだ。同年6月28日、長政は朝倉軍の来援を待って、姉川にて信長との決戦に望んだ。浅井、朝倉軍は1万5千人余で、織田、徳川軍は2万5千~3万人余だった。


浅井、朝倉軍は前半は優勢であったが、最終的には数に勝る織田、徳川軍の前に敗れ去った。この結果、浅井方の横山城が落ち、その南方の佐和山城は孤立した。浅井家は多くの将兵を失い、領国も分断されるという大打撃を被るが、まだ余力は残っていた。信長は落とした横山城に木下秀吉を篭めると、ここを対浅井の最前線とした。同年9月、浅井、朝倉軍は巻き返しを図り、大阪本願寺、三好家と結んだ上で京へと進軍を開始する。そして、浅井、朝倉軍は比叡山に立て篭もって、信長を大いに苦しませたが、決着には至らず、両軍共に兵を退いた。 これが浅井、朝倉家にとって、最初にして最後の織田勢力圏への攻勢であり、最も信長を追い詰めた瞬間であった。しかし、これ以降は、地力に勝る織田家によって防戦一方に追い込まれていく。


翌元亀2年(1571年)2月、敵中に孤立していた佐和山城は8ヶ月の篭城の末、力尽き、城将、磯野員昌と共に信長に降伏する。だが、同年5月、長政も反撃に出て、浅井井規(いのり)に軍を授けて、先年、信長に寝返った堀秀村の拠る鎌刃城を攻めさせた。浅井勢は一向一揆勢を加えた5千人余の軍勢だったが、急遽駆け付けた木下秀吉率いる数百人余によって側面攻撃を受け、それに合わせて城兵も突出して来たので、脆くも敗れ去った。同年8月、信長は3万余の兵を率いて浅井領国に侵入し、越前との国境に近い余呉、木之本近辺まで進出して村々を放火して回った。これは国の基である領民の生活を破壊して、間接的に浅井家の首を締め上げる作戦であった。信長は尚も攻撃の手を緩めず、同年9月、浅井方の志村城に猛攻を加えて城兵を悉く討ち果たし、首級670を上げて城を落とした。それを見て震え上がった近隣の小川城は、戦わずして降伏した。浅井家は、領国を幾度も蹂躙されて疲弊し、支城も次々に奪われて勢力圏は縮小する一方であった。


元亀3年(1572年)正月、横山城の城将、木下秀吉が岐阜の信長の下に新年の挨拶に出向くと、長政はその隙を突かんと浅井井規らに軍を授けて、横山城を急襲させた。だが、城代の竹中半兵衛は少数ながら城を良く守り、近隣の城からも援軍が駆けつけたので、浅井軍は退けられた。同年3月、信長はまたも北近江に進出し、小谷近辺まで放火して回った。信長は盛んに長政を挑発して、小谷城から誘い出さんとしたが、この時の長政に朝倉の援軍は無く、じっとこれに耐える他無かった。同年7月19日、信長は嫡男、信忠を始め、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉、佐久間信盛といった錚々たる部将も引き連れた3万~5万余の大軍を動員し、総力を挙げて小谷攻めに取り掛かった。この頃、東の武田信玄が不穏な動きを示しており、信長としては信玄との対決が始まる前に、浅井家を滅ぼしたかったのである。


7月21日、織田軍は小谷城に至ると、まず、その麓にある虎御前山(とらごぜんやま)や雲雀山(ひばりやま)を占領し、続いて町口を破って城下を焼き払った。翌22日には木下秀吉に命じて、小谷城の支城、山本山城を攻撃させて50人余を討ち取り、23日には近江北部の余呉、木之本まで兵を出して寺院や家屋を焼き払わせた。そして、7月27日より、小谷城攻略の前線基地とすべく、虎御前山に砦の建設を開始する。目の前でここまでされながらも、戦力で劣る長政には手の出しようが無く、歯軋りするばかりであった。信長公記によれば、このような浅井家存亡の危機にも関わらず、朝倉家の援軍はなかなか現れなかった。そこで長政は、信長が苦境に陥っているとの偽情報を流し、それを信じた義景は、7月29日にようやく小谷にやってきたと云う。しかも義景は、情報とは違って意気盛んな織田軍を見て、小谷後方の大嶽(おおずく)に陣取ったまま動かなくなったとされる。


この信長公記の記述を見れば、義景は怠惰で臆病な大将にしか映らないが、実際には現実的な対応をしている。
信長が岐阜城から出陣したのが7月19日で、その報が一乗谷に届くまで1日~2日、そこから動員をかけて兵が集まるまで2~3日はかかるだろう。そして、義景は7月24日に一乗谷から出陣しているから、それほど遅くはない。ただ、行軍速度は遅く、信長が2日の行程で近江に入ったのに対し、義景は4日の行程で7月28日にようやく近江に入っている。長政はこの行軍の遅さに苛立って、偽情報を流したのかもしれない。それから、義景が大獄に陣取ったまま動かなくなったというのは、臆病と言うより、お互いの兵力に格差があるからで、朝倉、浅井軍は合わせても1万5千から2万、対する織田軍は最低でも3万、最大で5万人であった。これで野戦を挑めというのが無理な話で、例え打って出ても兵力不足で敗れた姉川の戦いの二の舞になるだけである。で、あるから、高所に陣取って織田軍の攻撃を待ち受けるという義景の方策は間違ってはいないだろう。


だが、義景は何時も、信長が出動してから、遅まきに対応するといった感じで、基本的に受身の姿勢であった。これでは敵味方から、戦意に欠けると見られても仕方なかった。兵力の多寡と言い、大将の戦意と言い、どちらに時の勢いがあるかは一目瞭然であった。8月8日には、朝倉家の有力部将である前波吉継が、8月9日には富田長繁が、それぞれ義景を見限って、信長に降る事態が起きた。信長はしきりに挑発して決戦を誘ったものの、義景が乗ってくる気配は無かった。こうなると信長も手の出しようがなく、戦線は膠着状態となった。そのため、信長は今回で浅井家に引導を渡せなかったが、小谷前面に大規模な封鎖陣地を築き上げた事で、浅井家をほぼ封じ込める事には成功した。信長との開戦以来、浅井家は領国を幾度となく蹂躙され、その挙句、小谷城に完全に押し込められてしまった。最早、年貢を満足に得る事すら難しかったであろう。


なので篭城を支えていたのは、朝倉家からの兵糧援助であったと思われる。しかし、それを援助する朝倉家にも、明らかに衰えの色が見えていた。朝倉家にとって、浅井家は組下大名であってそれを保護する道義上の責任があった。それに信長によって小谷城が落とされると、次に狙われるのは越前の一乗谷であるのは明白であって、越前の安全保障上からも、何としても守り抜かねばならなかった。しかし、連年の出兵に伴う出費と、兵糧援助の負担は重かったに違いない。対する信長も連年の様に出兵しているが、浅井、朝倉家と比べると体力が段違いであった。消耗戦となれば、やはり国力の差が物を言ってくる。


元亀3年(1572年)11月、追い込まれる一方であった浅井、朝倉軍が動いた。浅井井規を先鋒として、織田方の宮部城を攻撃したのである。これは、宮部城から虎御前山に連なる織田方の陣地破壊を目論んだものだったが、堅固な陣地はびくともせず、逆に木下秀吉の迎撃を受けて撃退される始末であった。衰えを見せる浅井、朝倉軍の戦力で、この封鎖陣地を突破する事は、最早、不可能であった。この戦勢を挽回するには、他の反織田勢力の助力、特に大規模な野戦兵力を有する武田信玄の力が必要であった。同年12月、その頼みの綱である信玄が西上を開始し、三方ヶ原にて織田、徳川軍を打ち破った。浅井、朝倉家はこの信玄の西上作戦に期待し、愁眉が開く思いであった。


だが、信玄は、翌元亀4年(1573年)4月、志半ばにして病没してしまう。これによって浅井、朝倉家の運命も閉ざされた。そして、天正元年(1573年)8月8日、浅井家にとって決定的な出来事が起こる。小谷城の西方に位置する重要な支城、山本山城の阿閉貞征が離反して、織田方に付いたのである。この山本山城の側面援助があったから、小谷城は全面包囲を免れて篭城を続けられてきた。だが、山本山城を失った事で、小谷城は全周囲からの攻撃に晒される事になるのである。

近世初期の武家の華「衆道」

2010.05.10 - 戦国史 其の二
16世紀から17世紀にかけて、日本の武家では衆道、すなわち男色(少年愛)が流行していた。それは単なる同性愛だけでなく、少年が年長の若者と深く交わる事によって、深い信頼関係を築くと共に、その知識や技術を教えてもらう切っ掛けともなっていた。また、裏切りが横行していた戦国時代、男色は信頼できる兄弟分を得る機会でもあった。しかし、男色は、時に男女の関係以上に燃え上がり、感情のもつれや、少年を巡る恋争いから刃傷沙汰になる事も珍しくなかった。


武田信玄がまだ20代であった頃、源助という小姓と男色関係にあった。しかし、源助は、信玄が弥七朗と云う少年と関係をもったとの噂を聞き、ひどく腹を立てた。それを知った信玄は、源助をなだめようとして自筆の誓文を送った。「弥七朗に対し、これまで何度も言い寄った事はあるが、その度、彼は腹痛を理由に断ってきた。この事について、私は全く嘘はついていない。
弥七朗に夜伽をさせようとした事はなかったし、これまでも無かった。いわんや昼も夜も、そのような事はしていない。ましてや今夜だってしようとは思っていない。お前とは特に親しくしたいと思っているのにこのような疑いをかけられ、はなはだ困り果てている。この言葉にうそ偽りがあれば、当国一二三大明神、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙ろう」


信玄は、この誓文で潔白を主張しているが、誘った事には変わりなく、また、主君の誘いを、弥七朗が無下に断われたものだろうか?甚だ怪しいものである。そして、この書状の面白いところは、後に甲斐の虎とも称される大武将が、年下の小姓の機嫌を損ねないよう、必死に弁解する様子が伝わってくるところである。しかし、この信玄自筆の誓文に関しては、諸説がある。花押がぎごちなく、墨色が異なるところがあるので、後に模写されたものであるとの説と、信玄らしい流麗な書体が見られるので自筆であるとの説もあって、はっきりしない。だが、信玄が男色関係をもっていた事を強く示唆する書状ではある。


永禄2年(1559年)、上杉謙信は上洛の徒につく。京に着くと、謙信は室町将軍、足利義輝の館に招かれ、そこに関白、近衛前嗣(このえ さきつぐ)も加わって、盛大な酒宴が催された。若盛りの義輝、謙信、前嗣は大いに語り合い、飲み明かした。後日、今度は近衛前嗣の館で酒宴が催された。この場では、華奢な若衆がたくさん集められ、酒を飲み夜を明かした。前嗣によれば、謙信は若衆好きである事を公言していた。


天正12年(1586年)10月、東北会津の戦国大名、蘆名盛隆は小姓の大庭三又衛門と男色関係にあった。しかし、盛隆の寵愛が衰えてくると、三又衛門はこれを恨みに思い、主君を斬り付けるという凶行に走った。このため、将来を嘱望されていた蘆名盛隆は、僅か24歳でこの世を去った。三又衛門はすぐに誅されたが、これで蘆名家の屋台骨は大いに揺らぎ、後に伊達政宗の台頭を許す一因ともなった。


江戸時代初期、かつて東北で勇名を馳せた伊達政宗も、老境に差し掛かっていた。政宗は孫もいるような年齢であったが、この時、小姓の只野作十郎と大恋愛をしていた。そういったある日、政宗は酒の席にて、作十郎が他の男と寝ているのではないかと放言してしまう。これを聞いた作十郎は怒って、「浮気など思いもよらぬ事であります。自らの腕を切りつけ、その血判をもって潔白を証明致します」と記した起請文を差し出した。これを受けて政宗は大いに短慮を恥じ、「自分がその場にいたならば、脇差を押さえこんででも、その腕を傷付けはさせなかっただろう」と起請文に記し、更に自らの血判を押して、作十郎に謝罪の意を表した。 


尚、政宗はこの起請文において、「あなたも御存知の通り、私も若い頃は、酒の肴にするように腕や腿(もも)を突き通して衆道にのめりこんだものだが、昨今は世間の物笑いになりかねないので控えている。けれでも、私の腕や腿を見てもらいたい。(傷跡で)隙間もないほど、昔はこうした事をしてきたものである。さすがに今はもう出来ない」と述べている。つまり、政宗の腕と腿には多数の傷があって、しかも、それは衆道の愛の証として、自らが傷付けたものであったのである。それと、戦国の世も終わり、江戸の世を向かえつつあると、衆道もはばかれるようになってきた事が窺える。


衆道の絆は、時に肉親の関係以上のものとなる事もあり、その様な兄弟分が討たれた場合、もう一人の兄弟分は命懸けで仇討ちをした。しかし、兄弟分となった者が他の若衆にうつつを抜かしてしまうと、もう一人の兄弟分は激しく嫉妬し、浮気をした兄弟分を討つと云うことも少なくない。そして、討たれた兄弟分の浮気相手が、またその仇を討つという事もあった。当時の庶民はこのような衆道仇討ちを果たした者を、武士の誉れであると拍手喝采したのだった。このように衆道は、事件の火種になり易い危険な関係でもあった。そのため、幕府や諸大名は次第に衆道に否定的な立場を取るようになり、江戸中期を境にして衰退していった。
 プロフィール 
重家 
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重家
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趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
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