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魚津城の攻防

2009.07.24 - 戦国史 其の二

富山県魚津市には、市街地に埋もれた城跡がある。現在、痕跡は消えはて、見る者もいないが、かつては、織田家と上杉家による大激闘が繰り広げられた城であった。その名を魚津城と云う。


天正10年(1582年)2月、織田信長は、長年の宿敵、武田勝頼を討滅すべく大軍を催して、甲信に攻め入った。信長はその一方、勝頼の同盟者である、越後の戦国大名、上杉景勝が来援に来れぬよう、北陸でも連動して軍事作戦を開始した。北越の新発田城主、新発田重家に北から景勝を牽制させると共に、柴田勝家率いる北陸方面軍に対し、越中の上杉方拠点、魚津城を攻めるよう命じたのである。上杉家の部将で、越中の主将である須田満親は、北陸の織田軍の攻勢を察知し、景勝に危急を知らせた。


2月16日、報を受けた景勝は直ちに軍を集め、魚津城へ向かわんとしたが、途中で進軍を停止した。南で起こっている武田家と織田家との戦況が気がかりであったし、北からも新発田重家が攻め寄せて来たからである。こうして景勝が八方塞がりになった時点で、北陸の織田軍が動き出した。上杉方の将、黒金景信は、魚津城将の一人、竹俣慶綱宛てに、「佐々成政の動きが慌ただしく、戦の準備をしている。開戦は間近いので魚津城の備えを固められるように」と2月18日付けの書状で伝えている(別本歴代古案)。


2月20日過ぎ、柴田軍(織田北陸方面軍)は魚津城に押し寄せて、攻撃を開始する。景勝のもとに、魚津城からも武田勝頼からも来援を請う使者が来たが、どうする事も出来なかった。そして、3月11日、景勝が動けぬ間に、信長は武田家を討滅してしまう。これで、上杉家は完全に孤立し、全方位に敵を迎える絶望的状況となった。だが、ここで僅かに景勝の助けとなる出来事が起こった。勝頼は最後を迎える直前、「信長父子は勝頼が討ち取った。これを機に越中で一揆を起こし、越中一国を思いのままにせよ」と云う噂を越中に流していたのである。


3月11日、これを聞いて越中の国人、小島職鎮、唐人清房らが蜂起し、富山城を占拠して城主、神保長住を幽閉するという事件が起こった。柴田軍は、背後に起こった異変を先に排除する必要に迫られ、魚津城の囲みを解いて富山城へと向かった。これで、魚津城と景勝は一息入れる事が出来た。余談であるが、柴田軍が富山城を囲んでいる最中、柴田勝家と佐々成政の間で激烈な討論が交わされた挙句、あわやと云う事態になって前田利家がこれを調停するという出来事があった(前田家所蔵文書)。 柴田軍は強力な軍団であったが、諸将間の仲は、必ずしもしっくりとした間柄ではなかった模様である。


この後、柴田軍と、富山城を占拠した小島職鎮らとの間で話し合いがもたれ、職鎮らは城を明け渡す事を決して、五箇山へと走った。幽閉されていた神保長住は助け出されたが、織田家の越中支配には何かと不都合な人物であったため、彼も越中を追われていった。こうして富山城を取り戻した柴田軍は後顧の憂いを無くし、今度こそはと魚津城に迫った。北陸の織田軍は、柴田勝家を長として、佐々成政、佐久間盛政、前田利家といった錚々たる部将達が加わる、数万もの大軍団だった。


対する魚津城の上杉軍は、中条景泰を筆頭として、山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・竹俣慶綱ら12名の将が城を守っていた。兵力は柴田軍が1万~4万人余で、魚津城兵は1,500~3,800人余であったと云われている。数字の開きが大きいが、柴田軍2万5千人余、魚津城兵2千人余というのが妥当なところだろう。


魚津城は、角川の河口にある平城で、海陸交通の要衝であった。そして、この城と越中東部にある山城、松倉城とが、越後本土を守る最終防衛線だった。魚津城兵は最初の内は伏兵や夜討ちをかけて抵抗していたが、富山城占拠事件後は篭城に切り替えた。柴田軍は、土塁・付け城を築いて城を十重二十重に取り取り囲んで、兵糧攻めの構えを取った。魚津城と春日山城との連絡は甚だ困難となり、4月中旬には2日で届くはずの書状が10日余もかかる状態となる。魚津城の十二将はしきりに来援を請うたが、景勝はまだ身動き取れない状況であった。武田家を滅ぼした織田軍が、信濃、上野から侵攻してくる恐れがあったし、北の新発田重家も活発に活動していたからである。


魚津城では糧食・矢玉が欠乏し始めており、十二将は連著して直江兼続宛てに死を覚悟している旨を伝えた。 「当城のこと、以前に申し上げましたように、敵は壁ぎわまで押しよせ、昼夜四十日にわたって攻め続けてきましたが、今日まで、なんとか城を守ってまいりました。このうえは、もはや滅亡と覚悟を決めております。この書を(景勝様に)披露して下さい」


苦悩する景勝のもとへ、信長の本隊が甲斐を発って、安土に向かったとの報がもたらされた。まだ、滝川一益や森長可らの軍は残っているものの、彼らは戦後処理に追われていた。景勝はこの機を生かして、魚津城へ後詰めに向かう事を決した。5月1日付け佐竹義重宛ての書状に、その時の悲壮な覚悟が述べられている。 「景勝は良き時代に生まれました。弓矢を携え、六十余州の敵を越後一国で相支え、一戦を遂げて滅亡できるとは景勝にとって死後の良き思い出となります。もし、勝つことがあれば、日本無双の英雄として天下の誉れとなり、あまたの人々に羨ましがられることでしょう」  


景勝は出陣するにあたって、柴田軍の後方攪乱を狙った。越後に亡命していた能登の国人、長景連らに手勢を授けて、海路から前田利家の所領、能登を襲う事を命じたのである。そうしておいて、景勝は兵3千~5千人余を率いて越中に入り、5月15日、魚津城東方にある天神山に布陣した。この時、魚津城の二の丸は既に陥落しており、落城が近づいていた。危機的な状況にあった魚津城の将兵達は主君の旗印を見て喜び、奮い立った。しかし、景勝に出来る事は、ここまでだった。柴田軍は倍以上の大軍であったし、土塁・柵・堀を何重にも廻らせていたので、景勝は城に近づく事さえ出来なかった。


その頃、景勝が能登に送り込んだ長景連らの後方攪乱部隊は、前田利家の与力、長連竜が急遽、駆けつけた事により、討ち果たされてしまった。景勝には最早、打つ手がなく、焦燥の対陣が続いた。そうした折、信濃の森長可が兵5千を率いて、越後に侵入して来たとの急報がもたらされた。さらに上野の滝川一益も越後を窺っていると伝えられる。本拠地の一大危機である。景勝は落城寸前の魚津城兵を見捨てて、撤兵せざるを得なくなった。5月27日夜半、景勝は断腸の思いであったが、報がもたらされたその日の内に撤兵して越中を去った。


景勝は春日山へ引き返すに当たって、魚津城兵達に宛てて自筆の書状を送ったとされている。 「上方勢が搦め手として、信濃口より越後に攻め入らんとしているので、この地を発って引き返さざるを得ない。魚津城では糧食も尽き、難儀であろうから、寄せ手へ和解を請い、城を開城して越後へ引き取るべし。いささかも武道の落度ではない」(黄講泉達録)


だが、十二将を始めとする城兵達は、最後まで戦い抜く決意を固めていた。


魚津城の最後には、次のような話が伝わっている。


柴田方では、景勝が引き揚げていったので魚津城兵は意気消沈し、降伏に応じるだろうと思っていた。そこで使者を送ったのだが、すでに死を決していた城方に峻拒され、柴田方は当てが外れてしまった。魚津城の落城は目前とはいえ、死を決した相手に正面からぶつかれば、味方の犠牲は計り知れない。それにぐずぐずしていれば、森長可や滝川一益に横から手柄を奪われる恐れがあった。


長年、北陸で苦闘を続けていた柴田勝家らは、自らの手で上杉家に引導を渡したかった。 柴田軍には早急に魚津城を落とす必要があり、そこで謀略を用いる事とした。柴田方は、再び城に使者を遣わすと、「城方の生命は保証する。こちら側から人質も差し出す。城兵達は帰順の意を示すために、城の本丸を明け渡し、三の丸に移ってもらいたい」と提案した。城方は逡巡したが、再度の申し出に信をおいたのか、ついに開城する事を決した。


5月29日、柴田方の城受け取りの責任者、佐々成政は自身の甥、佐々新右衛門と柴田勝家の一族、柴田専斎などの人質を伴って魚津城に向かう。人質達は死ぬ覚悟であり、佐々成政も決死の覚悟をしていた。城方は人質を受け取ると、約束通り本丸を明け渡して三の丸に移った。だが、ここで柴田方は約束を違えた。本丸に入った佐々勢は城方に向かって鉄砲を浴びせかけ、それを合図に城外の柴田軍も一斉に城内に攻め入ったのである。城方は怒り狂って人質を突き殺すと、攻め込んできた柴田軍と必死の形相で斬り合った。城兵達は痩せ衰え、幽鬼さながらであったが力の限りに戦って、柴田軍を三の丸から追い払った。魚津城兵、最後の咆哮であった。


(この柴田方による謀略の話は、本当にあった出来事なのかどうかは分からない。だが、魚津城の兵達が、最後の最後まで戦い抜いたのは事実である)


6月3日、上杉方の兵卒のあらかたは討たれ、城の一角を辛うじて支えるのみであった。最後を悟った十二将は、雑兵の手にかかって討死するよりは武士の面目を保って自害すべしと、短冊形の板に自らの姓名を書き、それを耳に針金で通して結わえ付け、そして、互いに刺し違えて相果てていった。12将の自害によって、3ヶ月に渡って繰り広げられた魚津城の攻防戦は終わった。しかし、この前日、6月2日には戦国の世を激変させる「本能寺の変」が起こっていた。後2日ばかりの猶予があれば、柴田軍は城の囲みを解いて、撤退していったであろう。運命の皮肉であった。


柴田軍は魚津城を落とした後、その勢いを駆って越後へ攻め入る予定だった。信濃から攻め入っている森長可、上野の滝川一益、北越の新発田重家、そして、止めとして越中から数万の柴田軍が攻め入れば、上杉家は成す術なく滅亡を迎える事になったであろう。(米澤雑事記)ではその時の越後の模様をこう伝えている。「御家中の面々は色を失い、越後中は暗闇に包まれた様で、家族の者同士でさえ、不安げに目と目を合わせ、会話を交わす事もなくなった」


織田家の部将、佐々成政も、越前、鞍谷民部に宛てた6月5日付けの書状で、「この機に乗じ、越後を討ち果たす事は、目前にある」と述べている。柴田軍が今まさに、越後へ攻め入らんとしていたところへ、本能寺の変の凶報がもたらされた。それは6月4日もしくは5日の事であったらしい。越中の柴田勝家らや、越後に攻め入った森長可はこれを聞いて愕然となった。織田方諸将はこれに乗じた一揆の蜂起や国人の裏切りに備えるため、急ぎ、それぞれの所領へと引き返さざるを得なかった。


織田軍撤退の報を受け、越後国中の大小士、万民に至る迄、夢見心地のような喜びに浸り、人々は4、5日経っても、なお喜び合っていたと伝えられている(越後治乱記)。それも道理である。越後では、御館の乱、新発田重家の乱、と立て続きに起こった内乱によって国内は荒れ果てており、この上に幾万もの緒田軍が乱入して荒らされれば、越後の民は最早、生きて行く事が出来なかったであろう。悪くすれば、数万人の死者が出ていたかもしれない。 魚津城が1ヶ月やそこらで落城していたなら、柴田軍はすぐさま越後に乱入していたに違いない。そうなれば景勝は、「本能寺の変」が起こる前に滅亡していた可能性もあった。魚津城の将兵達が命で稼いだ3ヶ月の時間は、景勝と越後の民の命を救った。景勝は、上杉家のために奮戦し、死んでいった将兵達の事を、生涯忘れ得なかったであろう。


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三木合戦 其の二

2009.06.06 - 戦国史 其の二
天正6年(1578年)10月15日、秀吉は忙しい軍務の合間を縫って、平井山の陣中にて茶会を催す。秀吉は前年末に信長から茶器を授けられており、これは織田家臣として比類のない名誉であった。だが、それから間もなく、10月21日、秀吉を含め、織田家中に激震が走った。織田家の重臣であり、かつ摂津の一職支配者でもある、荒木村重謀反の報が伝わってきたのである。攝津35万6千石の内、5万石は本願寺領であったとされるが、それでも村重には30万石、7,500~9,000人もの動員力と、天下に名高い巨城、有岡城があった。これだけの戦力が敵に回れば、織田家に取って非常事態となる。


信長も驚いて、すぐさま詰問使を送ったが、それに対して村重は、「反意など、ありはしませぬ」との返事を返したので、信長もひとまず安堵した。村重謀反の噂はおそらく秀吉の耳にも届いており、気が気でなかったであろう。村重が謀反を起こしたとなれば、秀吉はまたもや腹背に敵を受け、今度こそ播磨に孤立する形となるからである。そのような折、別所方が動いた。


天正6年(1578年)10月22日早朝、村重謀反の動きに呼応してか、別所方が城を出て、平井山の秀吉本陣へ攻めかかってきたのである。長治の弟、治定と、叔父、吉親を主将とする2,500人余の別所軍は、秀吉の首を狙って斜面を駆け上がって行った。しかし、別所軍の動きは秀吉に読まれており、十分に引きつけられた上、秀吉軍の逆落としの反撃を受けて、突き崩された。別所軍は死傷者が続出し、退こうとするところ、更に追撃を受けて大敗を喫した。この戦いで治定と、数百人余の兵が討死した(平井山合戦)。


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↑平井山、秀吉本陣跡
(実際の本陣は、ここから南に400メートルの所であるらしい)


11月、三木での戦況は秀吉有利に進んでいたが、ここで村重の謀反は確実なものとなる。秀吉も薄々は感ずいていたであろうが、いざ実際に事を起こされるとなると、事態は予想以上に深刻であった。これに連動して毛利軍が播磨に侵攻すれば、孤立した秀吉軍は殲滅され、織田家の西部戦線が崩壊しかねない状況であった。危機的な状況を打開すべく、黒田孝高(官兵衛)が有岡城へ派遣された。そして、必死に村重の説得に当たったが、その決意を覆すには至らず、逆に捕われて幽閉されてしまう。


この時、一つの逸話が伝えられている。信長は、捕虜となった孝高が荒木方に寝返ったと見なして、その一子である松寿丸(後の長政)を殺害するよう、秀吉に命じたと云われている。ここで、
竹中重治がその役目は自らが引き受けると称して、松寿丸を引き取り、信長には処刑した旨を伝えたが、実際には匿って保護していたとされる。重治の人となりを伝える有名な逸話であるが、史実では確認されていない。孝高が捕われて行方知らずとなっても、父の職隆を始めとする黒田一族は織田陣営に止まって、忠節を表明している。松寿丸を殺害すれば、そんな健気な黒田一族を敵に回し、世間の評判も落とす事になる。なので、信長がその様な命を下したとは考え難いところである。


孝高は、播磨の国人領主、小寺政職の家臣であったが、織田家にも属し、秀吉の有力な与力となっていた。誰よりも播磨の事情に精通し、顔も広い事から、播磨平定戦において欠かせない存在となっていた。この村重の謀反と孝高の幽閉は、秀吉にとって大きな打撃となる。11月9日、事態を重視した信長は自ら出馬し、大軍を率いて摂津に入った。信長は強大な圧力を加えて、支城の高槻城と茨木城を帰服させ、12月初旬には、村重が篭る有岡城を包囲する。こうして織田本隊が村重を封じ込めた事によって、播磨と織田本国との補給、連絡線は再開通し、秀吉は一息付く事が出来た。


天正7年(1579年)3月、中国戦線の行方を左右する異変が起こる。織田家と毛利家の狭間に位置する、備前の戦国大名、宇喜多直家が毛利家を裏切って、織田家に鞍替えしたのである。これによって毛利家は陸路から直接、三木城を支援する事は、ほぼ不可能となり、海上からの支援も障害を受ける形となった。一方、秀吉は毛利家の圧力が大幅に減殺されて、三木城攻略に専念、出来るようになった。別所家にとって直家は疫病神以外の何者でもなかったが、秀吉にとっては救いの神となった。


同年5月、村重の謀反によって、三木城への新たな兵糧搬入口が出来ていた事を秀吉は知る。村重の勢力下にある花隈城から再度山(ふたたびさん)、丹生山を経て三木城に至るという輸送路が開かれていたのである。この丹生山には明要寺と云う寺があって、別所氏から寺領500石を与えられて保護されてきた。そのため、寺僧や付近の村人達は別所氏を助けるべく、献身的に三木城への兵糧輸送に協力していた。秀吉はそれを断たんとして、弟、秀長に軍を授けて明要寺へと向かわせた。


5月25日、風雨の激しい夜、密かに忍び寄った秀長軍は、明要寺に一斉に夜襲を仕掛け、城砦、寺院に火を放ち、僧侶を皆殺しにしていった。百坊を持つ大寺であった明要寺は、ここに全山灰燼と化した。寺内にいた稚児達は難を逃れようと、山を伝って逃げて行く途中、秀長軍に見つかって皆殺しにされたと伝わっている。この丹生山近辺には、稚児達を弔ったとされる稚児墓山(ちごがはかやま)と呼ばれる山と、さらにその稚児達に手向けるために村人達が花を折ったとされる、花折山と呼ばれる山がある。


明要寺焼打ちの翌日、近隣の淡河城主、淡河定範は、勢いに乗って攻め寄せてきた秀長軍を一度は撃退したが、もはや支えきれないと見て、城を焼いて三木城に合流した。これによって三木城は兵糧輸送の道のほとんどを失った。6月、波多野氏の居城、丹波八上城が落城する。宇喜多家の裏切りと、波多野家の滅亡によって、別所家を巡る戦況は急速に悪化してくる。


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↑明要寺跡


6月22日、秀吉の与力であった竹中半兵衛重治が、三木城攻囲中に病死する。享年36。重治は、元は美濃斉藤家の家臣であったが、それが滅亡すると、信長に仕えて直臣となり、元亀元年(1570年)より秀吉の与力として付属されていた。重治は知略に優れた軍師とされているが、実際には一軍を率いる指揮官であり、秀吉を補佐する有能な副将格であったようだ。秀吉が播磨に入ると、黒田孝高と共に経略に貢献し、2人の間にも並々ならぬ交誼が生じたようだ。先に上げた美談は、ここから生まれたのだろう。


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↑竹中半兵衛重治の墓


9月初め、毛利軍は海路を通じて、播磨の海岸、魚住まで兵糧を運んできた。毛利軍に加え、御着城や雑賀衆の援兵、人夫なども加わった1万人余(大半は人夫)が、ここ魚住に集結した。そして、困窮する三木城に兵糧を届けるべく、間道を伝って急速に北上を開始した。9月10日夜、毛利軍は警備が比較的手薄な北西から侵入し、平田まで来たが、ここには秀吉の部将、谷衛好(たに もりよし)が守る砦があった。生石中務大輔(おいし なかつかさのたいふ)率いる護衛の毛利軍2千人余は、輸送路を切り開くべく、月が照らす夜、砦に夜襲を仕掛けた。毛利軍はこの砦を攻撃して、秀吉軍全体の注意を引き付けんとした。そして、その隙に兵糧を担いだ人夫を三木城に向かわせ、それを別所軍が収容する手はずであった。


不意を突かれた平田砦は、たちまち苦戦に陥った。だが、主将の谷は名の知られた猛者であり、混乱を建て直しつつ、必死に砦を守って乱戦状態となった。そして、この毛利軍の動きに呼応する形で、吉親率いる別所軍3千も城を出て、兵糧受け取りに向かう。秀吉の下に、平田砦から危機を伝える注進が入ってくるが、秀吉はおとり攻撃の可能性があると見て、救援の派遣を引き延ばした。砦が一つ落ちようとも、何より優先すべきは、兵糧搬入の阻止であった。そして、秀吉は、毛利軍が砦の攻撃に集中し、別所軍がその隙に兵糧受け取りに向かっていると見極めると、主力を毛利軍に振り向け、自らも一軍を率いて別所軍の後を追った。


そして、秀吉直率の1千人は、別所軍を側面から急襲した。別所軍は多勢であったが、不意を突かれたのと、兵糧攻めの影響もあって崩れたち、名のある侍数多が討ち取られて大敗を喫した。この後、秀吉軍は兵糧担ぎの人夫多数を殺害して、兵糧搬入を防いだ。戦いの合間に、僅かに兵糧が運び込まれたものの、焼け石に水でしかなかった。一方、平田砦は陥落寸前であったが、救援部隊の到着で戦況は一変する。救援部隊は毛利軍を猛攻し、こちらも数多を討ち取って撃退した。


こうして平田砦の危機は救われたが、この攻防で砦の守備隊、数百人が討死しており、主将の谷も全身50余の傷を負って討死していた。石山合戦で名を上げ、秀吉の信頼も篤かった武功の士、谷大膳亮衛好、享年50。この戦いで秀吉軍が受けた損害は、決して小さなものでは無い。だが、この犠牲は無駄では無かった。毛利、別所軍は800人以上が討死して、これ以降、兵糧輸送と大反撃を行う余力を全て失ったからである(平田大村合戦)。これにて三木城の運命は極まり、秀吉の勝利は確定した。もし、この兵糧搬入が成功したなら、三木城の抵抗は更に半年は延びていただろう。


敗戦後、別所方は和睦を申し出るが、秀吉は聞く耳を持たず、かえって包囲陣を城近くへと押し進めた。更に封鎖を徹底すべく、付城と付城の間に複数の柵を築いて警戒を厳重化し、川底に網を張り、杭を打ち込んで船の往来も封じた。11月19日、荒木村重の居城、摂津有岡城が落ちる。毛利軍の兵糧輸送も途絶し、こうして三木城は完全に孤立した。城内の困窮は進み、草を噛み人馬を食する飢餓地獄に陥った。


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↑平田砦跡にある谷大膳亮 衛好の墓


天正8年(1580年)1月6日、長年の兵糧攻めの結果、三木城の兵達は痩せ衰え、抵抗力は大きく落ちていた。秀吉は頃合は良しと見て、三木城に強襲をかけ、三木城で最も高所にある宮ノ上砦を奪取した。秀吉は砦に上がって三木城を見下ろすと、城内に生気はなく、死者は所々に放置され、城兵は幽鬼のような様相で、じっと体を横たえるのみであった。秀吉は城方が十分弱っていると見定めると、宮ノ上砦を拠点として兵を三木城内に突入させた。


これに対して、城兵達は立つのがやっとという有様であり、ただただ討たれるばかりであった。この攻撃の結果、三木城は本丸一つを残すばかりとなる。最早これまでと見た長治は、自身と一族の自害を条件に将兵達の助命を申し出た。秀吉はこの申し出を了承し、直ちに開城の運びとなった。秀吉は、長治の潔い態度に感嘆して、樽酒2,3を城へ送り届けた。


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↑三木城本丸跡


長治は17日に腹を切る旨を妻子に伝え、今生の別れの杯を交わす。長治は吉親にもこの旨を伝えたが、吉親はこの切腹に異論を唱える。吉親は、「我らの首が安土の城下に晒されるのは無念千犯である。焼け死んで遺骸を消してくれる!」と叫んで、城に火を放ち始めた。しかし、諸士にその行為を見咎められ、吉親は殺害された。別所家では籠城以来、長治が前線に姿を見せる事はなく、吉親が先頭に立って戦ってきた。良くも悪くも篭城を主導していたのは、この吉親であった。1月17日、切腹の日、長治とその弟、友之は涙を呑んで妻子を刺し殺した。兄弟は広間に出ると諸士を呼び出し、これまでの戦い振りに、労いの言葉と深い感謝の念を述べる。そして、兄弟は静かに切腹して果てた。長治の介錯をつとめた三宅治忠も、主に殉じた。


自害した別所一族は、長治(23~26歳)、妻照子(22歳?)、夫妻の幼い子供4人。長治の弟、友之(21~25歳)、妻(17歳?)。叔父の吉親(41歳?)、妻波(28歳?)、夫妻の子供3人。三宅治忠(43歳)。この日、主だった別所一族の自害をもって、城に篭っていた人々は解放された。

長治の時世の句、「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我が身とおもへば」

この時世の句は、広く知れ渡っている。世の人々は、別所一族の悲しい末路に涙すると供に、長治の潔い最期に深い感銘を受けたのだった。 三木落城は美談をもって幕を閉じたかに見えたが、ここに無視できない史実が存在する。それは、当事者の秀吉が書状で、長治、吉親、友之の三人は切腹せしめたが、残りの生存者は一箇所に追い込んで悉く殺したと述べているのである。凄惨な三木城攻防戦は、美談の内に幕を閉じたのか、それとも最後まで凄惨なままだったのか、真実はどちらであろうか。


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↑別所長治とその妻照子の首塚


戦後、三木城には秀吉の家臣が城代として在城し、その後、豊臣家の持ち城とされていたが、慶長6年(1600年)、関ヶ原の合戦後には、播磨に入封してきた池田輝政の支城となった。しかし、元和3年(1617年)、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって廃城となる。三木城が廃城となっても、土地の人々は別所氏を偲んで様々な催しものを起こし、その記憶を長く留めようとした。 


 

三木合戦 其の一

2009.06.06 - 戦国史 其の二
兵庫県三木市には、宅地に埋もれ、見る影もない城跡、三木城がある。しかし、かつての三木城は、御着城、英賀城と並んで播磨の三大城郭に数えられるほどの大城郭であった。そして、この三木城は、播磨の戦国武将、別所長治と織田家の部将、羽柴秀吉との間で激しい攻防戦が繰り広げられた城でもある。


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↑三木城遠景


別所氏は播磨守護職であった赤松氏の庶流で、別所則治の時代に勢力を大きく伸ばし、東播磨八群の守護と呼ばれるまでになった。明応年間(1492年~1501年)、則治は、播磨国、美嚢群(みのうぐん)三木の地に三木城を築き上げ、以降、別所氏は、この三木城を本拠として勢力を伸ばしていった。


元亀元年(1570年)、別所家第四代当主、安治が39歳の若さで死去すると、その嫡男、長治が12歳で家督を相続する。しかし、長治はまだ若年であったので、安治の次弟、吉親と三弟の重棟が執政となって家中を主導した。ところが、この2人は兄弟でありながら仲が悪く、常に権勢を競っていたと云う。天正3年(1575年)10月20日、長治は上洛して、織田信長に服属した。そして、天正5年(1577年)10月、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨国に入ると、これに協力する事を約した。


しかし、別所家中ではこのまま織田家に協力するか、はたまた毛利家に付くかで揺れ動いていた。別所家を主導する長治の2人の叔父の内、吉親は親毛利派であったのに対し、重棟は親織田派であった。重棟はいち早く秀吉に取り入って、その信頼を受けていたが、吉親は織田家や秀吉に対する不信が拭えなかった。おりしも、足利義昭から決起を促す御内書が、別所氏に届けられており、吉親は毛利家と結んで、織田家とは手切れするよう長治に強く促した。


当時、織田家は播磨の隣国、丹波に攻め入って波多野氏とも交戦していた。この波多野氏と別所氏は、婚戚関係にあった。長治の妻は丹波八上城の波多野秀治の妹であるとされており、長治の弟、治定も丹波氷上城の波多野宗長の娘を娶っていたとされている。両家には深い繋がりがあり、この事も織田家離反の決断を促す一因となった。


天正6年(1578年)3月、長治は、織田家に反旗を翻す事を決した。別所氏は、東播磨20万石余の所領を有する大勢力であり、その影響力は大きかった。これを受けて東播磨の諸領主、淡河城(淡河定範)・神吉城(神吉頼定)・高砂城(梶原景行)・野口城(長井政重)・魚住城(魚住頼治)らも呼応し、別所氏を盟主として仰いだ。


別所氏は、丹波の波多野氏や播磨各地の支城との連携を密にして、籠城戦を取る事を決した。別所氏の作戦としては、織田軍を播磨に拘束した上で毛利軍の来援を請い、その来着をもって一挙に織田軍を粉砕せんとの考えだった。三木城には別所一族の郎党に加えて、西播磨の門徒や付近の農民達も籠城に加わった。三木城には7千5百人余が立て篭もったと云われているが、これは過大だと思われる。この人数は、各地の支城の人員も合わせたものだろう。


秀吉は別所氏を始めとする播磨勢を率いて、今まさに中国地方に攻め入らんとしていたところであった。ところが、その頼りとしていた別所氏離反の報を聞いて、さすがの秀吉も愕然となる。秀吉は長治の叔父、別所重棟を呼び出して問い質したものの、重棟自体も驚くばかりであったと云う。別所氏が離反を決めた謀議では、重棟は蚊帳の外に置かれていた。秀吉の意を汲んで重棟は再三に渡って長治に書を送り、必死に翻意を促したが効果はなかった。そこで、重棟は袂を分かって、織田側に身を寄せた。これ以降、重棟は自らの身の潔白と忠誠を証明するため、自身が負傷するほど、同族に向かって激しく戦いを挑む事となる。こうして、播磨勢の過半が毛利方に変身し、秀吉は敵中に孤立する形となった。


天正6年(1578年)3月29日、秀吉は三木城に対し、最初の攻撃を加えたと云われている。しかし、天険の要害である三木城はびくともせず、逆に手痛い反撃を受けて秀吉軍は撃退されたらしい。三木城は、丘陵の上に本丸、二の丸、西の丸、新城、東の丸、三の丸があった。更に今回の挙兵の際、城を強化すべく、新たに西南にある高台、鷹の尾、宮ノ上に砦が築かれた。三木城の北と西には美嚢川(みのうがわ)が、東には志染川が流れており、天然の堀となっていた。このような要害の地に大兵力が篭っていてる現状では、大軍をもってしても早期攻略は極めて難しい。その上、この時の秀吉が率いている兵力は8千人程度でしかなく、城を包囲する事さえ、ままならなかった。


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↑三木城天守台跡


そこで、秀吉は長期戦を覚悟し、三木城への兵糧輸送と兵員提供を担っている支城を、一つ一つ落としていく地道な作戦を取る事にした。4月3日、秀吉軍はまず、三木城の近隣にある野口城へと向かった。秀吉軍は野口城を力攻めにしたが、城主長井政重と4百人余の城兵の抵抗は激しいものがあった。しかし、緒戦で敗退する訳にはいかない秀吉は、休まず3日間猛攻を加え続け、ようやく政重を降伏に追い込んだ。ひとまず序盤の山場を越えた秀吉であったが、またもや憂慮すべき事態が起こる。


秀吉は三木城攻めに取り掛かったばかりであったのに、今度は西に大敵が現れたのである。4月下旬、毛利、宇喜多の連合軍3万人余が、備前、播磨、美作の国境沿いに位置する上月城を囲んだのである。これこそ、別所氏が待ち望んでいたものであった。上月城には、尼子勝久、山中幸盛(鹿助)を始めとする尼子の残党7、8百人余が立て篭もっていた。尼子の残党は御家再興を願って、織田家の指揮下に入っており、秀吉の中国攻めにも協力していた。上月城からの急報を受け、秀吉は三木城に抑えの兵を残すと、救援に向かった。


5月4日、秀吉からの増援要請を受けて、荒木村重の軍も上月城に到着した。しかし、両将の兵を合わせても1万人余でしかなく、これに対して毛利、宇喜多軍は3万人もの兵力で、しかも要地を占めて城を取り囲んでいた。劣勢の秀吉、村重軍は近づく事も出来ず、城と連絡を取り合う事すら困難であった。上月城が困窮する様子は秀吉にも伝わってくるが、手の打ちようが無く、ただただ日数だけが過ぎていった。6月16日、万策尽きた秀吉は上洛し、信長の指図を仰いだ。


秀吉は、信長の直接出馬をもって、上月城を救ってもらいたかった様だが、信長の下した決断は非情かつ、現実的なものだった。秀吉に対し、上月城は見放し、三木城の攻略に専念するよう命じたのである。6月26日、現地に舞い戻った秀吉は、後ろ髪を引かれる思いで姫路、書写山へと引き揚げていった。味方に見捨てられた上月城が落ちたのは、7月3日の事であった。籠城以来、70日余が過ぎていた。この日、尼子勝久は自刃して果て、山中幸盛も後に殺害された。かつて山陰に大勢力を築いた尼子氏は、ここに滅亡した。


6月27日、上月城から秀吉が退き始めた頃、織田信忠率いる3~4万人余の大軍が播磨に来援した。そして、織田軍は三木城の支城の一つ、2千人余の将兵が守る神吉城に対する攻撃を開始する。織田軍は大軍にものを言わせて強襲を加えたが、城方の抵抗は激しく、おびただしい戦死者を出した。この攻防戦の最中、信長の三男、信孝も負傷している。だが、織田軍は攻撃の手を緩める事無く、井楼(せいろう)、築山(つきやま)を築き、そこから大鉄砲を城内に撃ち込んでは、塀(へい)、櫓を突き崩していった。織田軍が本丸に迫ってくると、城方は降伏を申し出て来たが、信長はこれを撥ねつけさせた。


7月20日、激しい攻防戦の末、城主、神吉頼定は戦死し、神吉城は落城した。他の城への見せしめとするため、城内の生存者のほとんどが殺害された。織田軍は引き続き志方城へと押し寄せたが、城方は神吉城の凄惨な最後を見て萎縮しており、戦わずして降伏した。恐怖を与えて早期降伏に追い込む、これこそ信長の狙いであった。そして、こちらは人質供出と、城の明け渡しだけで許された。この神吉、志方城の攻略と前後して、織田軍は加古川河口にある高砂城へも兵を差し向けている。こちらの攻防は定かではないが、城主の梶原景秀は後に秀吉に服属しているので、降伏した模様である。次に織田軍は、本元である三木城を囲んだ。しかし、信長の敵は、毛利や別所だけでは無い。数万もの大軍がいつまでも播磨だけに留まっている訳にはいかず、幾つかの付城を築くと本国へと引き揚げていった。三木城の主だった支城は落としたので、後は秀吉の仕事とされたのである。


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↑三木城からの眺め

知られざる北越の剛将

2009.05.07 - 戦国史 其の二
新発田因幡守重家(1546?~1587)


天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて織田信長が死す、京都で起こったこの大事件は、瞬く間に日本全国を駆け巡った。これを機に、歴史の流れも、人々の運命も激変する。ある者は栄転の道が開き、また、ある者は転落の道を辿っていった。そして、この新発田重家も、運命に翻弄された人間の1人である。もし、本能寺の変がなければ、越後には名門上杉氏に代わって、新発田重家が織田家の有力部将として君臨していた事だろう。


戦国時代の新発田氏は、阿賀野川以北に割拠する揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人領主達の1人で、上杉家を盟主として仰いだが、半独立的な存在でもあった。天文15年(1546年)頃、重家は、新発田綱貞の次男として生まれたが、家督は長男の長敦が継いだので、重家は同族の五十公野(いみじの)家の養子となり、そこで五十公野治長(いみじの はるなが)と名乗った。治長は上杉謙信に付き従って、関東出兵や川中島の戦いにも参陣し、若くして武名を上げた。天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信の死去に伴って、景虎と景勝の2人の養子による、後継争い(御館の乱)が勃発すると、治長は、安田顕元の手引きで景勝側に付いた。


天正6年(1578年)9日26日、大場口(上越市)の戦いでは、治長は騎乗して自ら先陣に立ち、300人余を討ち取る功を挙げ、景勝から感状を貰うほどの抜群の働きを示す。この御館の乱時、治長の兄であり、新発田家当主の新発田長敦も、武田勝頼との和議に奔走するなど外交面で活躍している。このように新発田家は、政戦両面に渡って大いに働いて、景勝を助けている。そして、天正8年(1580年)、御館の乱は、景勝の勝利に終わった。だが、その立役者の1人、長敦はほどなく病没してしまう。それを受けて、五十公野家を継いでいた治長が新発田家を相続し、ここで重家を名乗った。そして、自らの後押しで越後の国主となった景勝に対し、功績に見合った恩賞を期待する。


しかし、景勝は自らの直臣である上田衆の所領は増やしたものの、外様の国人である重家に対しては、新発田家相続を認めただけで、なんの恩賞も与えず、しかも忠誠を強要してきたと云う。この措置を受けて、重家は大いに憤激する。重家とて一族郎党の長であり、御館の乱で働いた郎党に対し、恩賞を施さねば、面目と信頼を損ないかねないからだ。重家を景勝側に引き入れた安田顕元は、重家に恩賞が賜るようにと奔走したが、景勝に聞き遂げられる事はなかった。面目を失った顕元は、重家に詫びる様に自刃して果てた。顕元の死を伝え聞いた重家は益々憤激し、「景勝、もはや頼むに足らず!」とついに謀反の決意を固めた。


この時、景勝の方にも、容易には恩賞を出せない事情があった。当時、織田家は越中、能登といった上杉家の支配地に侵攻中であり、早急にこれに対応せねばならなかった。また、内乱の影響で国内が疲弊しており、重家に対し、十分な恩賞を与える余裕がなかったように見える。しかし、景勝は戦国大名としての自らの基盤を固めるために、直臣の所領だけは増やしている。武士は論功公賞をもらうために、命懸けの働きを示すものである。武功を上げておきながら、論功公賞がないというのは、裏切りに等しい行為であった。景勝は苦しい台所事情であったにせよ、重家に対し、誠意ある対応を取るべきであった。この後に見せる重家の凄まじいまでの意地と覚悟を見れば、礼を失していたとしか考えられない。


この重家の不満に、目聡く目を付けたのが織田信長であった。信長は上杉家の討滅を目論んでおり、重家をそそのかして、その背後を突かせようと考えたのである。この申し出は、重家にとっても渡りに船であった。これに加えて隣国、会津の戦国大名、蘆名盛隆も重家を支援する運びとなった。こうして、挙兵のお膳立ては整った。そして、天正9年(1581年)重家は、「たとえ死しても、決して景勝には屈さぬ」と叫んで、上杉家に反旗を翻す。挙兵した重家が直ちに取った行動は、水運の要衝、新潟津の奪取であった。この新潟は越後を流れる2つの大河、阿賀野川、信濃川の河口にあたり、河川と日本海の流通を一手に押さえる事が出来る戦略拠点だった。そして、重家は、この地に新潟城を築き、海上を通じて織田家から武器弾薬、兵糧の援助を受けた。これと並行して、阿賀野川経由で蘆名家からも武器弾薬、兵糧の援助を受けた。


重家は織田、蘆名の支援を受け、滅んだ景虎の残党も糾合して侮れない戦力となった。それでも新発田家は越後の一国人に過ぎず、その兵力が3千を越える事は無かったであろう。対する上杉景勝は、重家の反乱を抱えていたとは言え、越後の大部分と越中の三分の一ほどは支配していたので、8千人余の動員力はあったであろう。ただし、越中は今まさに織田家の侵攻を受けており、ここをまず支えねば、本拠の春日山城が危なかった。こうした景勝の苦境に付け入る形で、重家は着実に支配権を拡大していった。



天正10年(1582年)重家は、越後に迫る織田家部将達と同調し、景勝に対する攻勢を強めつつあった。進退窮まった景勝は、死を覚悟するに至る。しかし、そのような折に、「本能寺の変」が勃発したのである。これを受けて織田軍は、潮が引くように上杉領から撤退して行った。元々、上杉家の半分以下の戦力しか持たない重家は、息を吹き返した景勝によって、逆に包囲される立場に陥った。しかし、重家は決して膝を屈する事はなく、この後も景勝と、数年に渡って干戈を交え続ける事となる。重家は劣勢ながら、地の利を生かして幾度となく上杉方を撃退し、一時は景勝の首級を得るまで、後、僅かという所まで追い詰める事もあった。しかし、天下の情勢、越後の情勢は徐々に上杉方有利へと傾いていった。


天正14年(1586年)、新発田方の有力な支城、新潟城が陥落する。これによって海上補給路が断たれ、その衰勢は明らかとなってくる。その様子を見た、時の天下人、豊臣秀吉は、「重家が新発田城を明け渡して出頭し、再び景勝の配下に戻れば、本領相当の地を別に与える」と呼び掛けたが、重家はこの勧告に耳を貸さなかった。重家にとって、景勝に屈する事だけは何としても出来ない事であった。天正15年(1587年)8月、秀吉は再び降伏勧告を呼び掛けたが、重家は聞く耳を持たず、かえって上杉領へと乱入した。重家はすでに死を決しており、例え天下人の威令であっても、自らの誇りと意地を曲げるつもりはなかった。秀吉もここに到って重家討滅を決し、翌年春までには決着を付ける様、景勝に申し渡した。


天正15年(1587年)9月、景勝は天下人からの厳命を果たすべく、そして、越後の完全な統一を果たすべく、軍を発した。まず上杉軍は、蘆名家との連携を断ち切らんとして、会津に近い加治城と赤谷城を攻め落とした。これによって重家は孤立無援となった。同年10月24日には五十公野(いみじの)城も落城し、残るは重家の本拠、新発田城のみとなる。10月25日上杉軍1万人余が新発田城を取り囲み、7年もの長きにわたって繰り広げられた景勝、重家の因縁の対決にも終焉の時が訪れる。上杉軍は新発田城に総攻めをかけ、城内へと突入していった。覚悟を決めた重家は染月毛の名馬に跨り、700騎の手勢を率いて最後の突撃を敢行する。重家は大太刀を振って、散々に上杉方を切りまくった挙句、壮絶な討死を遂げた。その最後の奮戦振りは、敵であった上杉方も褒め称えるほどの働きであったと云う。 己の意地を貫き通した男の、見事な最後であった。


知られざる北越の剛将、新発田重家の事をもっと詳しく知りたい方は、下記のHP「埋もれた古城」を御覧になると良いでしょう。




近江の地、天下を制する地

2009.05.02 - 戦国史 其の二
戦国時代、天下統一を目指す者にとって、近江国(滋賀県)は最重要地であったと思われる。


天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は本能寺の変を起こした後、真っ先に近江の攻略に着手する。当時、近江にはまとまった軍勢はおらず、軍事的空白地となっていたのもあるが、なにより、この地の持つ重要性を分かっていたからだろう。


近江の地が持つ重要性とは何か・・・

太閤検地による石高と石高1万石につき250人の兵力を得られたして、近江の地を挙げてみると。

近江 77万5千石  兵力19,375人

戦国時代を代表する戦国武将、武田信玄の主な領国、甲斐、信濃、駿河を挙げてみると。

甲斐 22万7千石  兵力5,675人
信濃 40万8千石  兵力10,200人
駿河 15万石    兵力3,750人
合計 78万5千石  兵力19,625人

次に上杉謙信の主な領国、越後、越中を挙げてみると 。

越後 39万石  兵力9,750人
越中 38万石  兵力9,500人
合計 77万石  兵力19,250人


この太閤検地で弾き出された石高は、完全には信用出来ないが、おおよその国力の目安にはなる。そして、これを参考にすれば、近江1国を領有するだけで武田、上杉といった有力戦国大名に匹敵する動員力を得られる事になる。近江国が持つ強みは、それだけではない。琵琶湖の水運があって、日本海と瀬戸内海の産物が往来しており、物流が盛んで、畿内有数の商業先進地であった。また、鉄砲の産地、国友村を擁しているので、当時の最新兵器も入手可能であった。


全国地図を見てもらえば分かるが、近江国こと滋賀県は、日本本州のほぼ中心に位置している。戦国時代、ここは中山道、北国街道、東海道と言った重要街道が走る交通の要衝であった。現在でも滋賀県には、名神高速や北陸自動車道といった重要道路や、東海道新幹線が走っており、もし、この地が閉ざされたなら、国内の移動すらままならなくなる。また、戦国時代有数の大都市にして政治都市でもある、京都に隣接するという点も見逃せない。近江を制圧すれば、朝廷を動かす事も容易となるのだ。織田信長がこの地に安土城を築いたのも、こういった地理的重要性と琵琶湖の水運を考慮してのものだろう。安土城から船を出して坂本に入り、そこから比叡山を馬で超えれば、その日の内に京に入る事も出来た。


そういった重要な地であったからこそ、天下人となった者は、近江の国を力量があって誰よりも信用の置ける部将に任せている。豊臣秀吉は石田三成を、徳川家康は井伊直政をこの地に配しているのが、その証明である。


 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
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