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魚津城の攻防

2009.07.24 - 戦国史 其の二

天正10年(1582年)2月、織田信長は、長年の宿敵、武田勝頼を討滅すべく大軍を催して、甲信に攻め入った。信長はその一方、勝頼の同盟者である、越後の戦国大名、上杉景勝が来援に来れぬよう、北陸でも連動して軍事作戦を開始した。北越の新発田城主、新発田重家に北から景勝を牽制させると共に、柴田勝家率いる北陸方面軍に対し、越中の上杉方拠点、魚津城を攻めるよう命じたのである。上杉家の部将で、越中の主将である須田満親は、北陸の織田軍の攻勢を察知し、景勝に危急を知らせた。


2月16日、報を受けた景勝は直ちに軍を集め、魚津城へ向かわんとしたが、途中で進軍を停止した。南で起こっている武田家と織田家との戦況が気がかりであったし、北からも新発田重家が攻め寄せて来たからである。こうして景勝が八方塞がりになった時点で、北陸の織田軍が動き出した。上杉方の将、黒金景信は、魚津城将の一人、竹俣慶綱宛てに、「佐々成政の動きが慌ただしく、戦の準備をしている。開戦は間近いので魚津城の備えを固められるように」と2月18日付けの書状で伝えている(別本歴代古案)。


2月20日過ぎ、柴田軍(織田北陸方面軍)は魚津城に押し寄せて、攻撃を開始する。景勝のもとに、魚津城からも武田勝頼からも来援を請う使者が来たが、どうする事も出来なかった。そして、3月11日、景勝が動けぬ間に、信長は武田家を討滅してしまう。これで、上杉家は完全に孤立し、全方位に敵を迎える絶望的状況となった。だが、ここで僅かに景勝の助けとなる出来事が起こった。勝頼は最後を迎える直前、「信長父子は勝頼が討ち取った。これを機に越中で一揆を起こし、越中一国を思いのままにせよ」と云う噂を越中に流していたのである。


3月11日、これを聞いて越中の国人、小島職鎮、唐人清房らが蜂起し、富山城を占拠して城主、神保長住を幽閉するという事件が起こった。柴田軍は、背後に起こった異変を先に排除する必要に迫られ、魚津城の囲みを解いて富山城へと向かった。これで、魚津城と景勝は一息入れる事が出来た。余談であるが、柴田軍が富山城を囲んでいる最中、柴田勝家と佐々成政の間で激烈な討論が交わされた挙句、あわやと云う事態になって前田利家がこれを調停するという出来事があった(前田家所蔵文書)。 柴田軍は強力な軍団であったが、諸将間の仲は、必ずしもしっくりとした間柄ではなかった模様である。


この後、柴田軍と、富山城を占拠した小島職鎮らとの間で話し合いがもたれ、職鎮らは城を明け渡す事を決して、五箇山へと走った。幽閉されていた神保長住は助け出されたが、織田家の越中支配には何かと不都合な人物であったため、彼も越中を追われていった。こうして富山城を取り戻した柴田軍は後顧の憂いを無くし、今度こそはと魚津城に迫った。北陸の織田軍は、柴田勝家を長として、佐々成政、佐久間盛政、前田利家といった錚々たる部将達が加わる、数万もの大軍団だった。


対する魚津城の上杉軍は、中条景泰を筆頭として、山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・竹俣慶綱ら12名の将が城を守っていた。兵力は柴田軍が1万~4万人余で、魚津城兵は1,500~3,800人余であったと云われている。数字の開きが大きいが、柴田軍2万5千人余、魚津城兵2千人余というのが妥当なところだろう。


魚津城は、角川の河口にある平城で、海陸交通の要衝であった。そして、この城と越中東部にある山城、松倉城とが、越後本土を守る最終防衛線だった。魚津城兵は最初の内は伏兵や夜討ちをかけて抵抗していたが、富山城占拠事件後は篭城に切り替えた。柴田軍は、土塁・付け城を築いて城を十重二十重に取り取り囲んで、兵糧攻めの構えを取った。魚津城と春日山城との連絡は甚だ困難となり、4月中旬には2日で届くはずの書状が10日余もかかる状態となる。魚津城の十二将はしきりに来援を請うたが、景勝はまだ身動き取れない状況であった。武田家を滅ぼした織田軍が、信濃、上野から侵攻してくる恐れがあったし、北の新発田重家も活発に活動していたからである。


魚津城では糧食・矢玉が欠乏し始めており、十二将は連著して直江兼続宛てに死を覚悟している旨を伝えた。 「当城のこと、以前に申し上げましたように、敵は壁ぎわまで押しよせ、昼夜四十日にわたって攻め続けてきましたが、今日まで、なんとか城を守ってまいりました。このうえは、もはや滅亡と覚悟を決めております。この書を(景勝様に)披露して下さい」


苦悩する景勝のもとへ、信長の本隊が甲斐を発って、安土に向かったとの報がもたらされた。まだ、滝川一益や森長可らの軍は残っているものの、彼らは戦後処理に追われていた。景勝はこの機を生かして、魚津城へ後詰めに向かう事を決した。5月1日付け佐竹義重宛ての書状に、その時の悲壮な覚悟が述べられている。 「景勝は良き時代に生まれました。弓矢を携え、六十余州の敵を越後一国で相支え、一戦を遂げて滅亡できるとは景勝にとって死後の良き思い出となります。もし、勝つことがあれば、日本無双の英雄として天下の誉れとなり、あまたの人々に羨ましがられることでしょう」  


景勝は出陣するにあたって、柴田軍の後方攪乱を狙った。越後に亡命していた能登の国人、長景連らに手勢を授けて、海路から前田利家の所領、能登を襲う事を命じたのである。そうしておいて、景勝は兵3千~5千人余を率いて越中に入り、5月15日、魚津城東方にある天神山に布陣した。この時、魚津城の二の丸は既に陥落しており、落城が近づいていた。危機的な状況にあった魚津城の将兵達は主君の旗印を見て喜び、奮い立った。しかし、景勝に出来る事は、ここまでだった。柴田軍は倍以上の大軍であったし、土塁・柵・堀を何重にも廻らせていたので、景勝は城に近づく事さえ出来なかった。


その頃、景勝が能登に送り込んだ長景連らの後方攪乱部隊は、前田利家の与力、長連竜が急遽、駆けつけた事により、討ち果たされてしまった。景勝には最早、打つ手がなく、焦燥の対陣が続いた。そうした折、信濃の森長可が兵5千を率いて、越後に侵入して来たとの急報がもたらされた。さらに上野の滝川一益も越後を窺っていると伝えられる。本拠地の一大危機である。景勝は落城寸前の魚津城兵を見捨てて、撤兵せざるを得なくなった。5月27日夜半、景勝は断腸の思いであったが、報がもたらされたその日の内に撤兵して越中を去った。


景勝は春日山へ引き返すに当たって、魚津城兵達に宛てて自筆の書状を送ったとされている。 「上方勢が搦め手として、信濃口より越後に攻め入らんとしているので、この地を発って引き返さざるを得ない。魚津城では糧食も尽き、難儀であろうから、寄せ手へ和解を請い、城を開城して越後へ引き取るべし。いささかも武道の落度ではない」(黄講泉達録)

だが、十二将を始めとする城兵達は、最後まで戦い抜く決意を固めていた。


魚津城の最後には、次のような話が伝わっている。

柴田方では、景勝が引き揚げていったので魚津城兵は意気消沈し、降伏に応じるだろうと思っていた。そこで使者を送ったのだが、すでに死を決していた城方に峻拒され、柴田方は当てが外れてしまった。魚津城の落城は目前とはいえ、死を決した相手に正面からぶつかれば、味方の犠牲は計り知れない。それにぐずぐずしていれば、森長可や滝川一益に横から手柄を奪われる恐れがあった。


長年、北陸で苦闘を続けていた柴田勝家らは、自らの手で上杉家に引導を渡したかった。 柴田軍には早急に魚津城を落とす必要があり、そこで謀略を用いる事とした。柴田方は、再び城に使者を遣わすと、「城方の生命は保証する。こちら側から人質も差し出す。城兵達は帰順の意を示すために、城の本丸を明け渡し、三の丸に移ってもらいたい」と提案した。城方は逡巡したが、再度の申し出に信をおいたのか、ついに開城する事を決した。


5月29日、柴田方の城受け取りの責任者、佐々成政は自身の甥、佐々新右衛門と柴田勝家の一族、柴田専斎などの人質を伴って魚津城に向かう。人質達は死ぬ覚悟であり、佐々成政も決死の覚悟をしていた。城方は人質を受け取ると、約束通り本丸を明け渡して三の丸に移った。だが、ここで柴田方は約束を違えた。本丸に入った佐々勢は城方に向かって鉄砲を浴びせかけ、それを合図に城外の柴田軍も一斉に城内に攻め入ったのである。城方は怒り狂って人質を突き殺すと、攻め込んできた柴田軍と必死の形相で斬り合った。城兵達は痩せ衰え、幽鬼さながらであったが力の限りに戦って、柴田軍を三の丸から追い払った。魚津城兵、最後の咆哮であった。


(この柴田方による謀略の話は、本当にあった出来事なのかどうかは分からない。だが、魚津城の兵達が、最後の最後まで戦い抜いたのは事実である)


6月3日、上杉方の兵卒のあらかたは討たれ、城の一角を辛うじて支えるのみであった。最後を悟った十二将は、雑兵の手にかかって討死するよりは武士の面目を保って自害すべしと、短冊形の板に自らの姓名を書き、それを耳に針金で通して結わえ付け、そして、互いに刺し違えて相果てていった。12将の自害によって、3ヶ月に渡って繰り広げられた魚津城の攻防戦は終わった。しかし、この前日、6月2日には戦国の世を激変させる「本能寺の変」が起こっていた。後2日ばかりの猶予があれば、柴田軍は城の囲みを解いて、撤退していったであろう。運命の皮肉であった。


柴田軍は魚津城を落とした後、その勢いを駆って越後へ攻め入る予定だった。信濃から攻め入っている森長可、上野の滝川一益、北越の新発田重家、そして、止めとして越中から数万の柴田軍が攻め入れば、上杉家は成す術なく滅亡を迎える事になったであろう。(米澤雑事記)ではその時の越後の模様をこう伝えている。「御家中の面々は色を失い、越後中は暗闇に包まれた様で、家族の者同士でさえ、不安げに目と目を合わせ、会話を交わす事もなくなった」


織田家の部将、佐々成政も、越前、鞍谷民部に宛てた6月5日付けの書状で、「この機に乗じ、越後を討ち果たす事は、目前にある」と述べている。柴田軍が今まさに、越後へ攻め入らんとしていたところへ、本能寺の変の凶報がもたらされた。それは6月4日もしくは5日の事であったらしい。越中の柴田勝家らや、越後に攻め入った森長可はこれを聞いて愕然となった。織田方諸将はこれに乗じた一揆の蜂起や国人の裏切りに備えるため、急ぎ、それぞれの所領へと引き返さざるを得なかった。


織田軍撤退の報を受け、越後国中の大小士、万民に至る迄、夢見心地のような喜びに浸り、人々は4、5日経っても、なお喜び合っていたと伝えられている(越後治乱記)。それも道理である。越後では、御館の乱、新発田重家の乱、と立て続きに起こった内乱によって国内は荒れ果てており、この上に幾万もの緒田軍が乱入して荒らされれば、越後の民は最早、生きて行く事が出来なかったであろう。悪くすれば、数万人の死者が出ていたかもしれない。 魚津城が1ヶ月やそこらで落城していたなら、柴田軍はすぐさま越後に乱入していたに違いない。そうなれば景勝は、「本能寺の変」が起こる前に滅亡していた可能性もあった。魚津城の将兵達が命で稼いだ3ヶ月の時間は、景勝と越後の民の命を救った。景勝は、上杉家のために奮戦し、死んでいった将兵達の事を、生涯忘れ得なかったであろう。

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Comment

魚津在城衆12名連署状 - 長資

2009.11.01 Sun 09:15  [ EDIT ]

魚津在城衆12名連署状の4番目に有る、長資の末裔である。子供の頃親から先祖の事で、耳に名札を付け自刃したと聞かされていた。本能寺の変が現代の様に素早く伝達されれば、親子3人(吉江宗信、長資、景泰)の自刃は防げた。そうすると、自分の存在が無いのかもしれない。

Re:魚津在城衆12名連署状 - 管理者からの返答

2009.11.01 Sun 11:51

長資さん、初めまして。

魚津在城衆12名の1人、吉江長資の末裔の方からコメントを頂くとは、嬉しい驚きです。魚津城の将兵達は力の限りに戦い、そして散っていきました。彼らの奮戦がなければ、上杉景勝や直江兼続は存在しなかったかもしれません。そうなれば、2009年の大河ドラマ「天地人」も制作出来なかったでしょう。景勝からの上杉家の歴史は、12将を始めとする魚津城兵達の犠牲の上に成り立っています。

今に生きる私達は、先人によって生かされていると改めて思い起こしました。

長資の義父 - 長資

2009.11.21 Sat 05:47  [ EDIT ]

返信有難う御座います。
吉江宗信(祖父との説も有り)の長男は長資・次男は景泰で、何れも寺嶋家と中条家に入嗣。長資の義父長房は、山上の姓であった。長尾景虎公より名号寺嶋氏とあり、寺嶋和泉守長房と改名したと伝わっている。

Re:長資の義父 - 管理者からの返答

2009.11.21 Sat 18:11

吉江一族の姓の解説をして頂きまして、どうもありがとうございます。
さすがにお詳しいですね。そこまでは知りませんでした。魚津城の攻防では、吉江一族が中心となって城を守っていたのですね。この戦いで吉江一族は大きな犠牲を払っておりますが、それは、頼りとされていた証とも云えるでしょうか。

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