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三木合戦 其の二

2009.06.06 - 戦国史 其の二
天正6年(1578年)10月15日、秀吉は忙しい軍務の合間を縫って、平井山の陣中にて茶会を催す。秀吉は前年末に信長から茶器を授けられており、これは織田家臣として比類のない名誉であった。だが、それから間もなく、10月21日、秀吉を含め、織田家中に激震が走った。織田家の重臣であり、かつ摂津の一職支配者でもある、荒木村重謀反の報が伝わってきたのである。攝津35万6千石の内、5万石は本願寺領であったとされるが、それでも村重には30万石、7,500~9,000人もの動員力と、天下に名高い巨城、有岡城があった。これだけの戦力が敵に回れば、織田家に取って非常事態となる。


信長も驚いて、すぐさま詰問使を送ったが、それに対して村重は、「反意など、ありはしませぬ」との返事を返したので、信長もひとまず安堵した。村重謀反の噂はおそらく秀吉の耳にも届いており、気が気でなかったであろう。村重が謀反を起こしたとなれば、秀吉はまたもや腹背に敵を受け、今度こそ播磨に孤立する形となるからである。そのような折、別所方が動いた。


天正6年(1578年)10月22日早朝、村重謀反の動きに呼応してか、別所方が城を出て、平井山の秀吉本陣へ攻めかかってきたのである。長治の弟、治定と、叔父、吉親を主将とする2,500人余の別所軍は、秀吉の首を狙って斜面を駆け上がって行った。しかし、別所軍の動きは秀吉に読まれており、十分に引きつけられた上、秀吉軍の逆落としの反撃を受けて、突き崩された。別所軍は死傷者が続出し、退こうとするところ、更に追撃を受けて大敗を喫した。この戦いで治定と、数百人余の兵が討死した(平井山合戦)。


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↑平井山、秀吉本陣跡
(実際の本陣は、ここから南に400メートルの所であるらしい)


11月、三木での戦況は秀吉有利に進んでいたが、ここで村重の謀反は確実なものとなる。秀吉も薄々は感ずいていたであろうが、いざ実際に事を起こされるとなると、事態は予想以上に深刻であった。これに連動して毛利軍が播磨に侵攻すれば、孤立した秀吉軍は殲滅され、織田家の西部戦線が崩壊しかねない状況であった。危機的な状況を打開すべく、黒田孝高(官兵衛)が有岡城へ派遣された。そして、必死に村重の説得に当たったが、その決意を覆すには至らず、逆に捕われて幽閉されてしまう。


この時、一つの逸話が伝えられている。信長は、捕虜となった孝高が荒木方に寝返ったと見なして、その一子である松寿丸(後の長政)を殺害するよう、秀吉に命じたと云われている。ここで、
竹中重治がその役目は自らが引き受けると称して、松寿丸を引き取り、信長には処刑した旨を伝えたが、実際には匿って保護していたとされる。重治の人となりを伝える有名な逸話であるが、史実では確認されていない。孝高が捕われて行方知らずとなっても、父の職隆を始めとする黒田一族は織田陣営に止まって、忠節を表明している。松寿丸を殺害すれば、そんな健気な黒田一族を敵に回し、世間の評判も落とす事になる。なので、信長がその様な命を下したとは考え難いところである。


孝高は、播磨の国人領主、小寺政職の家臣であったが、織田家にも属し、秀吉の有力な与力となっていた。誰よりも播磨の事情に精通し、顔も広い事から、播磨平定戦において欠かせない存在となっていた。この村重の謀反と孝高の幽閉は、秀吉にとって大きな打撃となる。11月9日、事態を重視した信長は自ら出馬し、大軍を率いて摂津に入った。信長は強大な圧力を加えて、支城の高槻城と茨木城を帰服させ、12月初旬には、村重が篭る有岡城を包囲する。こうして織田本隊が村重を封じ込めた事によって、播磨と織田本国との補給、連絡線は再開通し、秀吉は一息付く事が出来た。


天正7年(1579年)3月、中国戦線の行方を左右する異変が起こる。織田家と毛利家の狭間に位置する、備前の戦国大名、宇喜多直家が毛利家を裏切って、織田家に鞍替えしたのである。これによって毛利家は陸路から直接、三木城を支援する事は、ほぼ不可能となり、海上からの支援も障害を受ける形となった。一方、秀吉は毛利家の圧力が大幅に減殺されて、三木城攻略に専念、出来るようになった。別所家にとって直家は疫病神以外の何者でもなかったが、秀吉にとっては救いの神となった。


同年5月、村重の謀反によって、三木城への新たな兵糧搬入口が出来ていた事を秀吉は知る。村重の勢力下にある花隈城から再度山(ふたたびさん)、丹生山を経て三木城に至るという輸送路が開かれていたのである。この丹生山には明要寺と云う寺があって、別所氏から寺領500石を与えられて保護されてきた。そのため、寺僧や付近の村人達は別所氏を助けるべく、献身的に三木城への兵糧輸送に協力していた。秀吉はそれを断たんとして、弟、秀長に軍を授けて明要寺へと向かわせた。


5月25日、風雨の激しい夜、密かに忍び寄った秀長軍は、明要寺に一斉に夜襲を仕掛け、城砦、寺院に火を放ち、僧侶を皆殺しにしていった。百坊を持つ大寺であった明要寺は、ここに全山灰燼と化した。寺内にいた稚児達は難を逃れようと、山を伝って逃げて行く途中、秀長軍に見つかって皆殺しにされたと伝わっている。この丹生山近辺には、稚児達を弔ったとされる稚児墓山(ちごがはかやま)と呼ばれる山と、さらにその稚児達に手向けるために村人達が花を折ったとされる、花折山と呼ばれる山がある。


明要寺焼打ちの翌日、近隣の淡河城主、淡河定範は、勢いに乗って攻め寄せてきた秀長軍を一度は撃退したが、もはや支えきれないと見て、城を焼いて三木城に合流した。これによって三木城は兵糧輸送の道のほとんどを失った。6月、波多野氏の居城、丹波八上城が落城する。宇喜多家の裏切りと、波多野家の滅亡によって、別所家を巡る戦況は急速に悪化してくる。


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↑明要寺跡


6月22日、秀吉の与力であった竹中半兵衛重治が、三木城攻囲中に病死する。享年36。重治は、元は美濃斉藤家の家臣であったが、それが滅亡すると、信長に仕えて直臣となり、元亀元年(1570年)より秀吉の与力として付属されていた。重治は知略に優れた軍師とされているが、実際には一軍を率いる指揮官であり、秀吉を補佐する有能な副将格であったようだ。秀吉が播磨に入ると、黒田孝高と共に経略に貢献し、2人の間にも並々ならぬ交誼が生じたようだ。先に上げた美談は、ここから生まれたのだろう。


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↑竹中半兵衛重治の墓


9月初め、毛利軍は海路を通じて、播磨の海岸、魚住まで兵糧を運んできた。毛利軍に加え、御着城や雑賀衆の援兵、人夫なども加わった1万人余(大半は人夫)が、ここ魚住に集結した。そして、困窮する三木城に兵糧を届けるべく、間道を伝って急速に北上を開始した。9月10日夜、毛利軍は警備が比較的手薄な北西から侵入し、平田まで来たが、ここには秀吉の部将、谷衛好(たに もりよし)が守る砦があった。生石中務大輔(おいし なかつかさのたいふ)率いる護衛の毛利軍2千人余は、輸送路を切り開くべく、月が照らす夜、砦に夜襲を仕掛けた。毛利軍はこの砦を攻撃して、秀吉軍全体の注意を引き付けんとした。そして、その隙に兵糧を担いだ人夫を三木城に向かわせ、それを別所軍が収容する手はずであった。


不意を突かれた平田砦は、たちまち苦戦に陥った。だが、主将の谷は名の知られた猛者であり、混乱を建て直しつつ、必死に砦を守って乱戦状態となった。そして、この毛利軍の動きに呼応する形で、吉親率いる別所軍3千も城を出て、兵糧受け取りに向かう。秀吉の下に、平田砦から危機を伝える注進が入ってくるが、秀吉はおとり攻撃の可能性があると見て、救援の派遣を引き延ばした。砦が一つ落ちようとも、何より優先すべきは、兵糧搬入の阻止であった。そして、秀吉は、毛利軍が砦の攻撃に集中し、別所軍がその隙に兵糧受け取りに向かっていると見極めると、主力を毛利軍に振り向け、自らも一軍を率いて別所軍の後を追った。


そして、秀吉直率の1千人は、別所軍を側面から急襲した。別所軍は多勢であったが、不意を突かれたのと、兵糧攻めの影響もあって崩れたち、名のある侍数多が討ち取られて大敗を喫した。この後、秀吉軍は兵糧担ぎの人夫多数を殺害して、兵糧搬入を防いだ。戦いの合間に、僅かに兵糧が運び込まれたものの、焼け石に水でしかなかった。一方、平田砦は陥落寸前であったが、救援部隊の到着で戦況は一変する。救援部隊は毛利軍を猛攻し、こちらも数多を討ち取って撃退した。


こうして平田砦の危機は救われたが、この攻防で砦の守備隊、数百人が討死しており、主将の谷も全身50余の傷を負って討死していた。石山合戦で名を上げ、秀吉の信頼も篤かった武功の士、谷大膳亮衛好、享年50。この戦いで秀吉軍が受けた損害は、決して小さなものでは無い。だが、この犠牲は無駄では無かった。毛利、別所軍は800人以上が討死して、これ以降、兵糧輸送と大反撃を行う余力を全て失ったからである(平田大村合戦)。これにて三木城の運命は極まり、秀吉の勝利は確定した。もし、この兵糧搬入が成功したなら、三木城の抵抗は更に半年は延びていただろう。


敗戦後、別所方は和睦を申し出るが、秀吉は聞く耳を持たず、かえって包囲陣を城近くへと押し進めた。更に封鎖を徹底すべく、付城と付城の間に複数の柵を築いて警戒を厳重化し、川底に網を張り、杭を打ち込んで船の往来も封じた。11月19日、荒木村重の居城、摂津有岡城が落ちる。毛利軍の兵糧輸送も途絶し、こうして三木城は完全に孤立した。城内の困窮は進み、草を噛み人馬を食する飢餓地獄に陥った。


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↑平田砦跡にある谷大膳亮 衛好の墓


天正8年(1580年)1月6日、長年の兵糧攻めの結果、三木城の兵達は痩せ衰え、抵抗力は大きく落ちていた。秀吉は頃合は良しと見て、三木城に強襲をかけ、三木城で最も高所にある宮ノ上砦を奪取した。秀吉は砦に上がって三木城を見下ろすと、城内に生気はなく、死者は所々に放置され、城兵は幽鬼のような様相で、じっと体を横たえるのみであった。秀吉は城方が十分弱っていると見定めると、宮ノ上砦を拠点として兵を三木城内に突入させた。


これに対して、城兵達は立つのがやっとという有様であり、ただただ討たれるばかりであった。この攻撃の結果、三木城は本丸一つを残すばかりとなる。最早これまでと見た長治は、自身と一族の自害を条件に将兵達の助命を申し出た。秀吉はこの申し出を了承し、直ちに開城の運びとなった。秀吉は、長治の潔い態度に感嘆して、樽酒2,3を城へ送り届けた。


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↑三木城本丸跡


長治は17日に腹を切る旨を妻子に伝え、今生の別れの杯を交わす。長治は吉親にもこの旨を伝えたが、吉親はこの切腹に異論を唱える。吉親は、「我らの首が安土の城下に晒されるのは無念千犯である。焼け死んで遺骸を消してくれる!」と叫んで、城に火を放ち始めた。しかし、諸士にその行為を見咎められ、吉親は殺害された。別所家では籠城以来、長治が前線に姿を見せる事はなく、吉親が先頭に立って戦ってきた。良くも悪くも篭城を主導していたのは、この吉親であった。1月17日、切腹の日、長治とその弟、友之は涙を呑んで妻子を刺し殺した。兄弟は広間に出ると諸士を呼び出し、これまでの戦い振りに、労いの言葉と深い感謝の念を述べる。そして、兄弟は静かに切腹して果てた。長治の介錯をつとめた三宅治忠も、主に殉じた。


自害した別所一族は、長治(23~26歳)、妻照子(22歳?)、夫妻の幼い子供4人。長治の弟、友之(21~25歳)、妻(17歳?)。叔父の吉親(41歳?)、妻波(28歳?)、夫妻の子供3人。三宅治忠(43歳)。この日、主だった別所一族の自害をもって、城に篭っていた人々は解放された。

長治の時世の句、「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我が身とおもへば」

この時世の句は、広く知れ渡っている。世の人々は、別所一族の悲しい末路に涙すると供に、長治の潔い最期に深い感銘を受けたのだった。 三木落城は美談をもって幕を閉じたかに見えたが、ここに無視できない史実が存在する。それは、当事者の秀吉が書状で、長治、吉親、友之の三人は切腹せしめたが、残りの生存者は一箇所に追い込んで悉く殺したと述べているのである。凄惨な三木城攻防戦は、美談の内に幕を閉じたのか、それとも最後まで凄惨なままだったのか、真実はどちらであろうか。


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↑別所長治とその妻照子の首塚


戦後、三木城には秀吉の家臣が城代として在城し、その後、豊臣家の持ち城とされていたが、慶長6年(1600年)、関ヶ原の合戦後には、播磨に入封してきた池田輝政の支城となった。しかし、元和3年(1617年)、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって廃城となる。三木城が廃城となっても、土地の人々は別所氏を偲んで様々な催しものを起こし、その記憶を長く留めようとした。 


 
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Comment

重家さん、初めまして - ヒヨ

2009.07.01 Wed 12:11 URL [ EDIT ]

重家さん、こんにちは♪ ブログ村より参りました
ヒヨと申します。

ブログ村の記事検索「竹中半兵衛」で検索すると
重家さんのブログにヒットしたので
お邪魔させていただきました( *'∀'人)

ヒヨも日曜日に三木市で史跡めぐりをしてきたので
「おっ同じ所を巡られてる(*`艸´)」って
ちと嬉しかったです♪
三木城跡にいざ足を踏み入れてみると
色々と考え込んでしまぃ気がつけば夕陽の時間に
なってしまっておりました・・・

戦国時代が好きで主に関西圏をデジカメ片手に
走りまわっているブログなのですが
よければ遊びに来てやってくださぃね(*-`ω´-*)ゞ

ヒヨさん初めまして - 重家

2009.07.01 Wed 18:20  [ EDIT ]

ようこそおいでくださいました。

ヒヨさんも三木城を散策されていたのですね。三木城は大きな歴史の舞台となった城であり、私もここを訪れた際、感慨に浸ったものです。

私も関西周辺の城跡巡りをしております。私は戦国の大きな荒波に揉まれた城跡が好きです。

ヒヨさんのブログの方へも遊びに行かせてもらいますね。

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自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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