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本能寺の変、前夜 近畿の状況

2009.04.20 - 戦国史 其の二
●近畿

(織田信長、石高806万石、兵力200、000人)

織田家の領土は面積にするとまだ本州の半分程だが、その経済力と軍事力は他を圧倒しており、これに対抗できる勢力は存在しない。実質的には既に天下人である。上杉、毛利、長宗我部といった敵対勢力を除くほとんどの大名が既に信長と誼を通じており、この三家を滅ぼせば、残りの勢力は悉く信長の下にひれ伏したと思われる。


天正10年(1582年)5月29日、織田信長は安土を発って上洛、2、30人の小姓衆を連れて本能寺に滞在する。 この信長の上洛は中国地方へ自ら出馬するためであった。 この信長の出馬は四国、中国地方を切り従えて、一気に九州まで平定する壮大な構想であったといわれており、この遠征が成功した暁には、信長の天下統一はほぼ成ったと思われる。


遠征後、信長は北条・島津など、まだ残った大大名を取り潰すか、所領を削封したであろう。そして、日本の要所要所に一族を配し、織田家の支配を磐石のものとする。更に家臣団の再編成と再配置を済ませた後、海外へ乗り出して行ったのではないかと・・・


(明智光秀、石高42万石(近江坂本5万石・丹波26万石・山城北半分11万石?) 兵力10,500人)

天正10年(1582年)5月14日、信長から坂本への帰国を命じられる。光秀はそれまで翌15日に安土に到着する徳川家康を饗応するための準備に追われていた。

5月15日
、光秀は大宝寺で徳川家康を饗応し、3日間、落ち度なく勤め上げる。

5月17日、信長から中国出陣を命じられ、坂本城に入り出陣準備を整える。

5月26日
、坂本を発ち、丹波亀山城に入る。

5月27日
、亀山城から愛宕山へ参詣する。

5月28日
、愛宕五坊の一つである西坊威徳院で、里村紹巴らと連歌会を催し、光秀は「ときは今 あめが下しる 五月哉」と発句、そして戦勝祈願をする。

6月1日夜、亀山城内にて光秀は重臣5人を集め、信長を討ち、天下を我が手に治めるとの決意を打ち上げその同意を得る。織田家の有力部将達は遠方にあって敵対勢力と対峙中であり、信長を倒し、天下を手中にするには、この敵対勢力が存在する間に成さねばならなかった。


この時、信長とその嫡子、信忠は共に京都に滞在中で、天下人2人を同時に倒しうる状況だった。しかも信長、信忠には2千人余りの馬廻り集しか護衛に付いておらず、夜の明けきらない未明の内に襲えば、この2人を倒す成算は十分にあった。光秀は配下に「信長様に閲兵するため入京する」と宣言して、亀山から出陣する。そして、光秀軍は老いの坂を越え、山城に入る。


天正10年(1582年)6月2日、信長と諸将の動向。


信長は本能寺で150前後の人数で宿泊しており、門も開いていたという。6月4日には京を出て淡路に渡り、信孝の四国遠征を見届けてから中国地方へと向かう予定だった。 嫡男、信忠は5月21日から妙覚寺に滞在していた。

徳川家康は5月29日に堺に赴き町衆の饗応を受けていた。
この日、少人数で堺から京都へと向かう予定だった。

北陸方面軍、柴田勝家は越中にあって、上杉家の拠点、魚津城を包囲していた。

関東方面軍、滝川一益は上野、厩橋城にあって、関東と奥羽の大名の取次ぎを行っていた。

四国方面軍、織田信孝はこの日に、大阪住吉から四国へ渡海する予定だった。

中国方面軍、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにして、毛利軍と対峙中だった。


この時、近畿では大阪の地に織田信孝軍14,000人が存在しているが、この軍は各地から集められた混成軍で、まだ準備中であり、統一された軍ではなかった。光秀の13、000の軍は統一された軍事行動が可能であり、当時、畿内に於いて光秀に対抗できる軍事力を持つ者は、主君、信長を含めて存在しなかった。


6月2日早朝、明智軍13,000人は桂川を渡った。全軍が渡河後、光秀は士卒に触れを出し、敵は信長、信忠であり、これを倒し、自らが天下人と成ると宣言する。本隊は本能寺へ向かい、明智次右門の率いる別働隊は信忠が宿泊する妙覚寺を目指す。

この日、歴史が大きく変わり、日本中の人々の運命が激変しようとしていた。


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本能寺の変、前夜 全国の状況

2009.04.20 - 戦国史 其の二
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こる寸前の、おおよその全国の戦国大名の状況を示す。(石高、兵力は歴史街道参照)


戦国大名は、1万石につき、250人の兵力を動員できたと言われている。しかし、これはおおよその目安であり、実際の動員力は様々な要因で大きく増減する。 戦国大名は、臨時の際には領民に緊急動員をかけたり、浪人を大量に雇い入れる事もあり、一時的に兵力は大きく増強される事があった。例えば、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣の場合、豊臣家は65万石であり、この計算なら1万6千人の動員だが、実際には10万余の兵を集めている。しかし、災害や戦乱を受けて国力が低下している状態、また、敵対勢力に包囲されている様な状況では、動員力は低下したであろう。戦国大名の軍隊は、知行地を与えられた直属の武士に、臨時雇用の庸兵、それに農村から集めた農兵によって成り立っていたと考えられる。


●東北

(伊達輝宗、石高30万石、兵力7,500人 )

天正9年(1581年)5月、相馬家との戦いで嫡男、政宗は15歳で初陣を飾る。 1582年には既に信長と誼を通じており、輝宗は次世代の飛躍に向けて地盤を固めている。 30万石は直轄地であって、その勢力範囲は70~80万石であったとも。いずれにせよ、東北随一の大名であった事は間違いない。


(芦名盛隆、石高30万石、兵力7,500人 )

天正9年(1581年)8月、盛隆は、信長のもとに使者を送り、三浦介に任ぜられている。芦名、伊達家は共に、織田家と誼を通じていた。この奥州を代表する二家が織田家に服属すれば、残りの奥州の中小大名は悉く信長に平伏する形になったと思われる。


●北陸

(上杉景勝、石高58万石、兵力14、500人 )

この時、上杉家は、織田家とそれに通じる勢力に囲まれ、絶望的な状況だった。越中からは柴田勝家を長とする北陸方面軍2万人余が、上杉家の拠点、魚津城を囲み、落城寸前に追い込んでた。信濃からは、森長可が5千人余の兵を率いて越後に侵入し、上野からも、滝川一益が越後侵入を窺っていた。隣国、芦名家も織田家と結んで、越後を窺っていた。

さらに越後国内では、天正9年(1581年)6月に新発田重家が織田家と結んで謀反を起こしていた。この重家の謀反で上杉家の領土は分断され、越後北部の兵は手元に呼べなかった。このような状況であったので、景勝は魚津城救援に向かった際、3千~5千人余しか動員出来なかった。したがって、景勝の手元の兵力は5千人余だったと思われる。もはや景勝になすすべはなく、後は天下の堅城、春日山城に篭り、武門の意地を貫く最後の戦いをするか、信長に降伏して、捨扶持を期待するしかない状況だった。


●関東

(北条氏政、石高152万石、兵力38、000人 )

武田家に対抗するために、以前から織田家と同盟を結んでいた。 織田家を除くと、全国の大名の中で最強の勢力を誇っている。しかし、北条家は、長年苦戦していた武田家を、瞬く間に攻め滅ぼした織田家の実力には瞠目しており、信長に戦勝の使者を送るなどして、従属の姿勢を見せている。 氏政はしきりに進物を届けて、ご機嫌伺いをしているが、北条家のような大勢力が関東に君臨するのを、信長は良しとしなかったのではないか。


●東海道

(徳川家康、石高70万石、兵力17、500人)

家康は、信長の古くからの盟友であったが、実質的には織田家の東海道方面軍、司令官である。この時には、駿河、遠江、三河の3ヶ国を領有する戦国有数の大名に成長しているが、それでも織田家との実力は隔絶しており、家康は信長に臣属していく他なかった。だが、信長の信頼は篤かったので、その後は安定して領国を保障されたと思われる。天正10年(1582年)5月15日、信長から駿河を賜った礼を述べるため安土に赴き、光秀の饗応を受ける。


●四国

(長宗我部元親、石高48万石、兵力12、000人)

信長は、毛利家との対抗上、長宗我部元親と同盟を結んでいた。そして、元親に四国切取り自由のお墨付きを与えていたとされる。元親はこれに基いて四国制覇を押し進め、土佐一国、讃岐西半部、阿波の大部分、伊予の一部を領有するに至った。

しかし、毛利家が脅威で無くなり、織田家の勢威が増すと、信長は四国政策を変更して、お墨付きを反故にする。そして、元親に対し、土佐一国と阿波南半分以外は放棄するよう迫った。元親はこれに反発して、両者は敵対関係となる。天正10年(1582年)6月には、織田信孝を長とする14,000人の兵が、大阪住吉から四国へ渡海せんと準備中であり、両者の激突は避けられない状況にあった。元親は滅亡を避けるため、土佐一国と阿波の2城以外は全て明け渡すとの、降伏条件を差し出しつつあった。


●中国地方

(毛利輝元、石高132万石、兵力33、000人)

毛利軍は、高松城を包囲する羽柴秀吉軍と対峙中であった。 両川と呼ばれる名将、吉川元春、小早川隆景に、当主の毛利輝元が揃って、4万ともいわれる大軍を率いて高松城救援に赴いている。 秀吉軍3万と互角に渡り合える兵力を持ちながら戦意に乏しく、信長の親征を前にして織田家との和平の機会を窺っていた。信長の本隊が高松に到着したなら、秀吉軍と合わせて8万ほどになったであろう。そして、一戦に敗れれば、武田家の様に一挙に崩壊したかもしれない。例え許されたとしても、領土の大半は割譲しなければならなかった。


●九州

(大友宗麟、石高77万石、兵力19、250人)

天正6年(1578年)11月、耳川の戦い(高城川の戦い)で島津家に致命的な敗北を喫し、勢力は大きく後退する。勢力圏から国人離反が相次ぐと供に、侵攻してくる龍造寺、島津家への対処に苦慮する。そこで、中央勢力である織田家と関係を深めて、勢力の挽回を図った。そして、織田家と誼を結んで、毛利家を西から牽制し、やがて来るであろう信長の来援に期待した。


(島津義久、石高66万石、兵力16,500人)

耳川の戦いで大友家を撃破後、威勢は大いに上がる。矛先を日向から肥後に向け、さらなる版図拡大を狙って、九州を北上しつつある状況であった。 織田家とは、不穏な関係であった模様である。 織田家の勢力が九州まで伸びてきたなら、その征伐を受けるか、減封を申し渡されたのではないか。


(龍造寺隆信、石高92万石、兵力23、000人)

島津家と大友家の激突で、最も利益を得たのは龍造寺隆信であった。大友家の衰退に付け込んでその領域に侵攻し、島津家以上の勢力圏獲得に成功する。そして、島津家との緊張が徐々に高まりつつあった。 尚、配下の鍋島直茂は、水面下で、織田家部将、羽柴秀吉と接触していた模様である。 龍造寺家は長年、毛利家と同盟関係にあったので、表立って織田家と交渉する訳にはいかず、裏で交渉していたのだろうか?畿内から遠い九州の大名と言えども、中央の政局、特に織田家の実力からは、決して目を離す訳にはいかなかった。


明智光秀の両腕

2009.04.19 - 戦国史 其の二
戦国一の出世人である豊臣秀吉には、黒田孝高、豊臣秀長という、天下取りの覇業を支えた両腕とも言える家臣がいた。その秀吉と激しく競い合い、運悪く天下を逃した明智光秀にも、両腕とも言える家臣が存在していた。それが斎藤利三、明智秀満の2人である。


斎藤内蔵助利三 (1534?~1582)


斉藤利三は美濃国に生まれ、長ずると斉藤義龍に仕えた。その後、稲葉一徹に仕えるが、明智光秀に見込まれて高禄で誘われ、家老格として仕える事になる。(余談だが、この時、光秀は稲葉家臣の中からもう一人、一鉄が頼みとしていた那波直治も引き抜こうして、訴訟沙汰を起こされている)。利三が光秀に仕えていた期間はそれほど長くないにも関わらず、片腕として重用されている。これは利三が、光秀と縁者関係にあった事と、武将としての力量に優れていたからであろう。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変においては、本能寺襲撃の現地の指揮を執り、的確な指示を出した。その後の山崎の戦いにおいても明智軍の主力として戦い、奮戦している。山崎の戦いの後、近江の地に潜伏していた所を捕縛され、六条河原にて斬首された。 娘に、後の春日局ことお福がいる。


利三には、石谷頼辰(いしがい・よりとき)と云う兄がいた。頼辰は、室町幕府奉行集を勤めていた石谷光政の女婿として迎えられ、石谷姓を名乗った。永禄6年(1563年)、土佐の戦国大名、長宗我部元親は、石谷光政の息女と婚姻する事となり、これを受けて、頼辰、利三兄弟は、義妹を通じて長宗我部元親と縁戚関係となった。天正3年(1575年)頃、光秀は四国の取次ぎ役を任され、元親と信長との間を取り持つようになる。そして、元親と光秀の仲介役を担ったのが、頼辰であった。頼辰は義父と同じく、室町幕府奉行を勤めていたが、幕府滅亡後からは、光秀に仕えていた。明智、斉藤、長宗我部家の三家は、この様に石谷家を通じて結び付いていた。


信長は、元親に四国の切り取り次第を許可していたが、天正10年(1582年)を迎えると天下統一も視野に入った事から、元親に制限を加え、土佐一国に留めようとした。しかし、元親はこの違約に激怒して反抗の姿勢を見せた事から、信長は長宗我部討伐に乗り出さんとした。これを受けて、取次ぎ役であった光秀は面目を失い、頼辰と利三も苦悩したであろう。この政策変更は、光秀の反逆の芽を生むと同時に、頼辰と利三もその決断の後押しをしたのではないか。本能寺の変は、長宗我部家を救う一面もあった。そして、光秀は信長を倒すも、ほどなく羽柴秀吉に敗れ去った。これを受けて、石谷頼辰と利三の子、三存は土佐の元親のもとへ逃れ、家臣として仕える事になる。その後、頼辰の娘は元親の嫡男、信親に嫁いでいる事からも、斉藤、石谷、長宗我部家の強い結び付きが窺える。




明智弥平次(左馬助)秀満 (?~1582)


旧姓は三宅弥平次。秀満の出自や前半生は不明瞭であるが、早くから光秀に仕えて篤い信頼を得ていたようだ。光秀に見込まれて明智の性を賜り、その娘も娶って一門となった。光秀の筆頭家老格で、各地の戦いに従軍して、丹波福知山城主となった。本能寺の変においては、斎藤利三と共に本能寺襲撃の指揮を執ったとされている。変後、秀満は安土城の守備を任されていた事から、山崎の戦いには参戦出来なかった。
山崎の敗報が伝わると、秀満は近江坂本に引き揚げんとするが、この時、安土城を焼いた疑いがもたれている。


秀満は坂本城に入ると、外を囲んだ秀吉方の部将、堀秀政に明智家伝来の家宝を譲り渡してから、城に火を放ったと云う。そして、燃え盛る炎の中で、妻および光秀の妻子を刺し殺し、自刃して果てた。 また、坂本城に落ち延びて行く際、湖水渡りの伝説を残し、自分の娘に家来を付けて、落ち延びさせてやったという逸話もある。こうした逸話が伝えられているのと、潔い最期を迎えている事から、高潔な人物であったのではなかろうか。それに光秀から、最大級の信頼と待遇を受けている事から、極めて有能な人物であった事が窺える。尚、明智秀満は天海と同一人物であるという説もある。



戦国の暗殺者 遠藤兄弟

2009.04.01 - 戦国史 其の二
永禄9年(1566年)、 備前の戦国武将、宇喜多直家は、浦上宗景を主君として仰いでいたが、内心には取って代わる野心を秘め、勢力拡張に努めていた。直家は美作の地に目を付け、手を伸ばさんとしたが、そこに立ちはだかって来たのが三村家親であった。備中一国を領有し、武勇の誉れ高い三村家親は、版図拡大を狙って美作に侵攻してきたのである。この美作には宇喜多家の勢力下にある諸城があって、直家は深刻な脅威を覚えた。


直家は、この強敵に正面から立ち向かうのは困難と考え、かねてから策を練っていた。戦国の戦は、大抵、相手の主将を討ち取れば、勝敗は決する。だが、軍勢をもって討ち取るのは、多大な費用と犠牲、それに幸運を必要とした。もし、暗殺で始末する事が出来るなら、これ以上、効率的なものは無い。直家は、その暗殺という任務に最適の人物を2人雇い入れていた。それは、遠藤又三郎・喜三郎の兄弟で、どちらも鉄砲の名手として知られており、更に美作の地理に詳しく、三村家親の顔まで見知っていたのである。この兄弟は浪人であったが、直家は、多額の報酬と重臣への取立てを約束して、家親の暗殺を依頼した。遠藤兄弟は了承し、計画を立て準備を整えると、三村家親が在陣している美作の地へと向かった。


遠藤兄弟は美作の地に入ると、方々を探索して、家親が興禅寺に在陣していることを突き止めた。 永禄9年(1566年)2月5日、遠藤兄弟は目立たぬ格好をし、短筒(片手で扱える火縄銃)と玉薬を携えると、夜を待って輿善寺の背後の竹薮に忍び込んだ。遠藤兄弟は隙を見て堂内に侵入し、内部の話し声がする方へと忍び寄った。唾で指を湿らせ、障子にそっと穴を開け部屋を覗うと、家親は丁度、軍議の真っ最中であった。又三郎は早速、短筒を撃とうとしたが、なんとここで火縄が立ち消えとなってしまった。


そこで、弟の喜三郎は警固の兵を装い、大胆にも番兵に気安く話し掛けたりしながら、かがり火から短筒用の火を拝借し、再び堂内に侵入する。そして、兄、又三郎は軍議に余念のない家親を、障子の破れから狙いを定め引き金を引いた。堂内はたちまち騒然となった。遠藤兄弟はその混乱に乗じて竹藪に隠れ、そのまま輿善寺から脱出する事に成功した。 遠藤兄弟による家親暗殺は実際にあった出来事であるが、この話は出来過ぎている様にも感じる。おそらく、遠藤兄弟は普通の火縄銃を用意して輿善寺近くに身を潜め、大将格の武将に狙いを定めて遠くから狙撃したのではないか。命中率を上げるため、2人同時に発射したかもしれない


いずれにせよ、遠藤兄弟は無事使命を果たし、銃弾の命中を直家に報告する。しかし、その後も三村勢が動揺することなく整然としていた為、当初、直家はこの報告を信用しなかった。それから、ほどなくして三村勢は備中松山城へと引き揚げて行き、家親の死を発表した事により直家は暗殺の成功を確信した。


遠藤兄弟は、宇喜多直家から決死の働きの褒美として、浮田の姓と1,000石の知行を与えられ、又次郎は浮田河内、喜三郎は遠藤修理亮と名乗った。後に浮田河内は4,500石、遠藤修理亮は3,500石を加増され、名実共に家中の有力部将となる。この遠藤兄弟による三村家親暗殺は、日本で始めての銃による暗殺だと云われている。


一方、この三村家親、暗殺後の三村家の運命は悲惨であった。家親の子、元親は宇喜多直家に復仇戦を挑むが、明禅寺合戦で大敗北を喫し、徐々に勢力を失ってしまう。そして、天正3年(1575年)には、毛利家と宇喜多家に挟撃を受けて、元親は切腹、元親の子で僅か8歳であった勝法師丸も斬られて三村家は滅亡に到る。三村家滅亡後、天正5年(1577年)、宇喜多直家は主君、浦上宗景を追放して戦国大名として自立した。


遠藤兄弟は大名暗殺という非常に危険な任務を完遂して、よく生還できたものである。当時の戦国日本では、名も知れぬ暗殺者の多くは任務に失敗し、成功しても命を落としていったであろう。


三村家親、暗殺後の三村家の説明。
http://www.ibara.ne.jp/~my-way/newpage21.htm



戦国の暗殺者 杉谷善住坊

2009.04.01 - 戦国史 其の二
 元亀元年(1570年)4月、織田信長は、朝倉義景を討つため越前に攻め入った。織田軍は怒涛の進撃を見せ、一挙に一乗谷に攻め入る勢いであったが、ここで信長は妹婿の浅井長政の離反に遭ってしまう。信長はこの危うい局面を何とか切り抜け、ようやく京都に帰還した。 信長は陣容を建て直すため、一旦、本拠である岐阜に戻る必要に迫られた。しかし、近江から岐阜への通路は、浅井長政に閉ざされて通ることは叶わない。そこで信長は日野から千草越えで伊勢に抜け、そこから岐阜に帰還する道を選んだ。この道は人の往来が滅多に無い、山中の険峻な道であった。


だが、この道には、六角承禎から信長暗殺の密命を受けていた杉谷善住坊が、信長一行の行く先をあらかじめ察知して、千草峠の岩陰で待ち伏せをしていた。杉谷善住坊は甲賀の住人で、火縄銃の名手として名高く、飛ぶ鳥をも射落とすとの評判であった。行く先に暗殺者が待ち構えていることも知らず、信長は険しい山道を急いでいた。 信長が馬上で大きく揺られながら近づいて来ると、善住坊は狙いを定め、十二、三間の距離(約23メートル)から火縄銃の引き金を引いた。大きな銃声が響き、弾丸は信長をかすめて小袖を撃ち抜いた。 驚いた供の者達はただちに追いかけるが、善住坊は山中を野猿の如く逃れ、姿をくらましてしまう。 危うく命を落とすところであった信長はこれに激怒する。


5月21日、信長は無事、岐阜に帰還したが、自分の命を狙った善住坊 を必ず捜しだすように命じ、多額の懸賞金をかけて徹底した捜索をさせる。その結果、天正元年(1573年)、善住坊は、近江高島群に身を潜めていたところを信長の家臣で高島郡の領主である、磯野員昌によって捕縛された。9月10日、善住坊は岐阜に護送され、信長の側近、菅谷長頼が厳しい詮索をして、千草峠でのあらましを語らせた。善住坊は信長の激しい怒りに触れており、散々拷問を受けた挙句、路傍に生きたまま首から下まで土中に埋められた。そして、道行く通行人に竹製のノコギリで引かせ、時間をかけて首を切断するという鋸挽きの刑に処された。 善住坊の無残な最後を知って、信長は大いに満足したのだった。


滋賀県、東近江市にある雨乞岳という山の麓には、杉谷善住坊の隠れ岩という場所が、今でもあると云う。


 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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