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戦国の暗殺者 杉谷善住坊

2009.04.01 - 戦国史 其の二
 元亀元年(1570年)4月、織田信長は、朝倉義景を討つため越前に攻め入った。織田軍は怒涛の進撃を見せ、一挙に一乗谷に攻め入る勢いであったが、ここで信長は妹婿の浅井長政の離反に遭ってしまう。信長はこの危うい局面を何とか切り抜け、ようやく京都に帰還した。 信長は陣容を建て直すため、一旦、本拠である岐阜に戻る必要に迫られた。しかし、近江から岐阜への通路は、浅井長政に閉ざされて通ることは叶わない。そこで信長は日野から千草越えで伊勢に抜け、そこから岐阜に帰還する道を選んだ。この道は人の往来が滅多に無い、山中の険峻な道であった。


だが、この道には、六角承禎から信長暗殺の密命を受けていた杉谷善住坊が、信長一行の行く先をあらかじめ察知して、千草峠の岩陰で待ち伏せをしていた。杉谷善住坊は甲賀の住人で、火縄銃の名手として名高く、飛ぶ鳥をも射落とすとの評判であった。行く先に暗殺者が待ち構えていることも知らず、信長は険しい山道を急いでいた。 信長が馬上で大きく揺られながら近づいて来ると、善住坊は狙いを定め、十二、三間の距離(約23メートル)から火縄銃の引き金を引いた。大きな銃声が響き、弾丸は信長をかすめて小袖を撃ち抜いた。 驚いた供の者達はただちに追いかけるが、善住坊は山中を野猿の如く逃れ、姿をくらましてしまう。 危うく命を落とすところであった信長はこれに激怒する。


5月21日、信長は無事、岐阜に帰還したが、自分の命を狙った善住坊 を必ず捜しだすように命じ、多額の懸賞金をかけて徹底した捜索をさせる。その結果、天正元年(1573年)、善住坊は、近江高島群に身を潜めていたところを信長の家臣で高島郡の領主である、磯野員昌によって捕縛された。9月10日、善住坊は岐阜に護送され、信長の側近、菅谷長頼が厳しい詮索をして、千草峠でのあらましを語らせた。善住坊は信長の激しい怒りに触れており、散々拷問を受けた挙句、路傍に生きたまま首から下まで土中に埋められた。そして、道行く通行人に竹製のノコギリで引かせ、時間をかけて首を切断するという鋸挽きの刑に処された。 善住坊の無残な最後を知って、信長は大いに満足したのだった。


滋賀県、東近江市にある雨乞岳という山の麓には、杉谷善住坊の隠れ岩という場所が、今でもあると云う。


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