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本能寺の変、前夜 全国の状況

2009.04.20 - 戦国史 其の二
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こる寸前の、おおよその全国の戦国大名の状況を示す。(石高、兵力は歴史街道参照)


戦国大名は、1万石につき、250人の兵力を動員できたと言われている。しかし、これはおおよその目安であり、実際の動員力は様々な要因で大きく増減する。 戦国大名は、臨時の際には領民に緊急動員をかけたり、浪人を大量に雇い入れる事もあり、一時的に兵力は大きく増強される事があった。例えば、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣の場合、豊臣家は65万石であり、この計算なら1万6千人の動員だが、実際には10万余の兵を集めている。しかし、災害や戦乱を受けて国力が低下している状態、また、敵対勢力に包囲されている様な状況では、動員力は低下したであろう。戦国大名の軍隊は、知行地を与えられた直属の武士に、臨時雇用の庸兵、それに農村から集めた農兵によって成り立っていたと考えられる。


●東北

(伊達輝宗、石高30万石、兵力7,500人 )

天正9年(1581年)5月、相馬家との戦いで嫡男、政宗は15歳で初陣を飾る。 1582年には既に信長と誼を通じており、輝宗は次世代の飛躍に向けて地盤を固めている。 30万石は直轄地であって、その勢力範囲は70~80万石であったとも。いずれにせよ、東北随一の大名であった事は間違いない。


(芦名盛隆、石高30万石、兵力7,500人 )

天正9年(1581年)8月、盛隆は、信長のもとに使者を送り、三浦介に任ぜられている。芦名、伊達家は共に、織田家と誼を通じていた。この奥州を代表する二家が織田家に服属すれば、残りの奥州の中小大名は悉く信長に平伏する形になったと思われる。


●北陸

(上杉景勝、石高58万石、兵力14、500人 )

この時、上杉家は、織田家とそれに通じる勢力に囲まれ、絶望的な状況だった。越中からは柴田勝家を長とする北陸方面軍2万人余が、上杉家の拠点、魚津城を囲み、落城寸前に追い込んでた。信濃からは、森長可が5千人余の兵を率いて越後に侵入し、上野からも、滝川一益が越後侵入を窺っていた。隣国、芦名家も織田家と結んで、越後を窺っていた。

さらに越後国内では、天正9年(1581年)6月に新発田重家が織田家と結んで謀反を起こしていた。この重家の謀反で上杉家の領土は分断され、越後北部の兵は手元に呼べなかった。このような状況であったので、景勝は魚津城救援に向かった際、3千~5千人余しか動員出来なかった。したがって、景勝の手元の兵力は5千人余だったと思われる。もはや景勝になすすべはなく、後は天下の堅城、春日山城に篭り、武門の意地を貫く最後の戦いをするか、信長に降伏して、捨扶持を期待するしかない状況だった。


●関東

(北条氏政、石高152万石、兵力38、000人 )

武田家に対抗するために、以前から織田家と同盟を結んでいた。 織田家を除くと、全国の大名の中で最強の勢力を誇っている。しかし、北条家は、長年苦戦していた武田家を、瞬く間に攻め滅ぼした織田家の実力には瞠目しており、信長に戦勝の使者を送るなどして、従属の姿勢を見せている。 氏政はしきりに進物を届けて、ご機嫌伺いをしているが、北条家のような大勢力が関東に君臨するのを、信長は良しとしなかったのではないか。


●東海道

(徳川家康、石高70万石、兵力17、500人)

家康は、信長の古くからの盟友であったが、実質的には織田家の東海道方面軍、司令官である。この時には、駿河、遠江、三河の3ヶ国を領有する戦国有数の大名に成長しているが、それでも織田家との実力は隔絶しており、家康は信長に臣属していく他なかった。だが、信長の信頼は篤かったので、その後は安定して領国を保障されたと思われる。天正10年(1582年)5月15日、信長から駿河を賜った礼を述べるため安土に赴き、光秀の饗応を受ける。


●四国

(長宗我部元親、石高48万石、兵力12、000人)

信長は、毛利家との対抗上、長宗我部元親と同盟を結んでいた。そして、元親に四国切取り自由のお墨付きを与えていたとされる。元親はこれに基いて四国制覇を押し進め、土佐一国、讃岐西半部、阿波の大部分、伊予の一部を領有するに至った。

しかし、毛利家が脅威で無くなり、織田家の勢威が増すと、信長は四国政策を変更して、お墨付きを反故にする。そして、元親に対し、土佐一国と阿波南半分以外は放棄するよう迫った。元親はこれに反発して、両者は敵対関係となる。天正10年(1582年)6月には、織田信孝を長とする14,000人の兵が、大阪住吉から四国へ渡海せんと準備中であり、両者の激突は避けられない状況にあった。元親は滅亡を避けるため、土佐一国と阿波の2城以外は全て明け渡すとの、降伏条件を差し出しつつあった。


●中国地方

(毛利輝元、石高132万石、兵力33、000人)

毛利軍は、高松城を包囲する羽柴秀吉軍と対峙中であった。 両川と呼ばれる名将、吉川元春、小早川隆景に、当主の毛利輝元が揃って、4万ともいわれる大軍を率いて高松城救援に赴いている。 秀吉軍3万と互角に渡り合える兵力を持ちながら戦意に乏しく、信長の親征を前にして織田家との和平の機会を窺っていた。信長の本隊が高松に到着したなら、秀吉軍と合わせて8万ほどになったであろう。そして、一戦に敗れれば、武田家の様に一挙に崩壊したかもしれない。例え許されたとしても、領土の大半は割譲しなければならなかった。


●九州

(大友宗麟、石高77万石、兵力19、250人)

天正6年(1578年)11月、耳川の戦い(高城川の戦い)で島津家に致命的な敗北を喫し、勢力は大きく後退する。勢力圏から国人離反が相次ぐと供に、侵攻してくる龍造寺、島津家への対処に苦慮する。そこで、中央勢力である織田家と関係を深めて、勢力の挽回を図った。そして、織田家と誼を結んで、毛利家を西から牽制し、やがて来るであろう信長の来援に期待した。


(島津義久、石高66万石、兵力16,500人)

耳川の戦いで大友家を撃破後、威勢は大いに上がる。矛先を日向から肥後に向け、さらなる版図拡大を狙って、九州を北上しつつある状況であった。 織田家とは、不穏な関係であった模様である。 織田家の勢力が九州まで伸びてきたなら、その征伐を受けるか、減封を申し渡されたのではないか。


(龍造寺隆信、石高92万石、兵力23、000人)

島津家と大友家の激突で、最も利益を得たのは龍造寺隆信であった。大友家の衰退に付け込んでその領域に侵攻し、島津家以上の勢力圏獲得に成功する。そして、島津家との緊張が徐々に高まりつつあった。 尚、配下の鍋島直茂は、水面下で、織田家部将、羽柴秀吉と接触していた模様である。 龍造寺家は長年、毛利家と同盟関係にあったので、表立って織田家と交渉する訳にはいかず、裏で交渉していたのだろうか?畿内から遠い九州の大名と言えども、中央の政局、特に織田家の実力からは、決して目を離す訳にはいかなかった。


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