●近畿
(織田信長、石高806万石、兵力200、000人)
織田家の領土は面積にするとまだ本州の半分程だが、その経済力と軍事力は他を圧倒しており、これに対抗できる勢力は存在しない。実質的には既に天下人である。上杉、毛利、長宗我部といった敵対勢力を除くほとんどの大名が既に信長と誼を通じており、この三家を滅ぼせば、残りの勢力は悉く信長の下にひれ伏したと思われる。
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は安土を発って上洛、2、30人の小姓衆を連れて本能寺に滞在する。 この信長の上洛は中国地方へ自ら出馬するためであった。 この信長の出馬は四国、中国地方を切り従えて、一気に九州まで平定する壮大な構想であったといわれており、この遠征が成功した暁には、信長の天下統一はほぼ成ったと思われる。
遠征後、信長は北条・島津など、まだ残った大大名を取り潰すか、所領を削封したであろう。そして、日本の要所要所に一族を配し、織田家の支配を磐石のものとする。更に家臣団の再編成と再配置を済ませた後、海外へ乗り出して行ったのではないかと・・・
(明智光秀、石高42万石(近江坂本5万石・丹波26万石・山城北半分11万石?) 兵力10,500人)
天正10年(1582年)5月14日、信長から坂本への帰国を命じられる。光秀はそれまで翌15日に安土に到着する徳川家康を饗応するための準備に追われていた。
5月15日、光秀は大宝寺で徳川家康を饗応し、3日間、落ち度なく勤め上げる。
5月17日、信長から中国出陣を命じられ、坂本城に入り出陣準備を整える。
5月26日、坂本を発ち、丹波亀山城に入る。
5月27日、亀山城から愛宕山へ参詣する。
5月28日、愛宕五坊の一つである西坊威徳院で、里村紹巴らと連歌会を催し、光秀は「ときは今 あめが下しる 五月哉」と発句、そして戦勝祈願をする。
6月1日夜、亀山城内にて光秀は重臣5人を集め、信長を討ち、天下を我が手に治めるとの決意を打ち上げその同意を得る。織田家の有力部将達は遠方にあって敵対勢力と対峙中であり、信長を倒し、天下を手中にするには、この敵対勢力が存在する間に成さねばならなかった。
この時、信長とその嫡子、信忠は共に京都に滞在中で、天下人2人を同時に倒しうる状況だった。しかも信長、信忠には2千人余りの馬廻り集しか護衛に付いておらず、夜の明けきらない未明の内に襲えば、この2人を倒す成算は十分にあった。光秀は配下に「信長様に閲兵するため入京する」と宣言して、亀山から出陣する。そして、光秀軍は老いの坂を越え、山城に入る。
●天正10年(1582年)6月2日、信長と諸将の動向。
信長は本能寺で150前後の人数で宿泊しており、門も開いていたという。6月4日には京を出て淡路に渡り、信孝の四国遠征を見届けてから中国地方へと向かう予定だった。 嫡男、信忠は5月21日から妙覚寺に滞在していた。
徳川家康は5月29日に堺に赴き町衆の饗応を受けていた。
この日、少人数で堺から京都へと向かう予定だった。
北陸方面軍、柴田勝家は越中にあって、上杉家の拠点、魚津城を包囲していた。
関東方面軍、滝川一益は上野、厩橋城にあって、関東と奥羽の大名の取次ぎを行っていた。
四国方面軍、織田信孝はこの日に、大阪住吉から四国へ渡海する予定だった。
中国方面軍、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにして、毛利軍と対峙中だった。
この時、近畿では大阪の地に織田信孝軍14,000人が存在しているが、この軍は各地から集められた混成軍で、まだ準備中であり、統一された軍ではなかった。光秀の13、000の軍は統一された軍事行動が可能であり、当時、畿内に於いて光秀に対抗できる軍事力を持つ者は、主君、信長を含めて存在しなかった。
6月2日早朝、明智軍13,000人は桂川を渡った。全軍が渡河後、光秀は士卒に触れを出し、敵は信長、信忠であり、これを倒し、自らが天下人と成ると宣言する。本隊は本能寺へ向かい、明智次右門の率いる別働隊は信忠が宿泊する妙覚寺を目指す。
この日、歴史が大きく変わり、日本中の人々の運命が激変しようとしていた。
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