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知られざる北越の剛将

2009.05.07 - 戦国史 其の二
新発田因幡守重家(1546?~1587)


天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて織田信長が死す、京都で起こったこの大事件は、瞬く間に日本全国を駆け巡った。これを機に、歴史の流れも、人々の運命も激変する。ある者は栄転の道が開き、また、ある者は転落の道を辿っていった。そして、この新発田重家も、運命に翻弄された人間の1人である。もし、本能寺の変がなければ、越後には名門上杉氏に代わって、新発田重家が織田家の有力部将として君臨していた事だろう。


戦国時代の新発田氏は、阿賀野川以北に割拠する揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人領主達の1人で、上杉家を盟主として仰いだが、半独立的な存在でもあった。天文15年(1546年)頃、重家は、新発田綱貞の次男として生まれたが、家督は長男の長敦が継いだので、重家は同族の五十公野(いみじの)家の養子となり、そこで五十公野治長(いみじの はるなが)と名乗った。治長は上杉謙信に付き従って、関東出兵や川中島の戦いにも参陣し、若くして武名を上げた。天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信の死去に伴って、景虎と景勝の2人の養子による、後継争い(御館の乱)が勃発すると、治長は、安田顕元の手引きで景勝側に付いた。


天正6年(1578年)9日26日、大場口(上越市)の戦いでは、治長は騎乗して自ら先陣に立ち、300人余を討ち取る功を挙げ、景勝から感状を貰うほどの抜群の働きを示す。この御館の乱時、治長の兄であり、新発田家当主の新発田長敦も、武田勝頼との和議に奔走するなど外交面で活躍している。このように新発田家は、政戦両面に渡って大いに働いて、景勝を助けている。そして、天正8年(1580年)、御館の乱は、景勝の勝利に終わった。だが、その立役者の1人、長敦はほどなく病没してしまう。それを受けて、五十公野家を継いでいた治長が新発田家を相続し、ここで重家を名乗った。そして、自らの後押しで越後の国主となった景勝に対し、功績に見合った恩賞を期待する。


しかし、景勝は自らの直臣である上田衆の所領は増やしたものの、外様の国人である重家に対しては、新発田家相続を認めただけで、なんの恩賞も与えず、しかも忠誠を強要してきたと云う。この措置を受けて、重家は大いに憤激する。重家とて一族郎党の長であり、御館の乱で働いた郎党に対し、恩賞を施さねば、面目と信頼を損ないかねないからだ。重家を景勝側に引き入れた安田顕元は、重家に恩賞が賜るようにと奔走したが、景勝に聞き遂げられる事はなかった。面目を失った顕元は、重家に詫びる様に自刃して果てた。顕元の死を伝え聞いた重家は益々憤激し、「景勝、もはや頼むに足らず!」とついに謀反の決意を固めた。


この時、景勝の方にも、容易には恩賞を出せない事情があった。当時、織田家は越中、能登といった上杉家の支配地に侵攻中であり、早急にこれに対応せねばならなかった。また、内乱の影響で国内が疲弊しており、重家に対し、十分な恩賞を与える余裕がなかったように見える。しかし、景勝は戦国大名としての自らの基盤を固めるために、直臣の所領だけは増やしている。武士は論功公賞をもらうために、命懸けの働きを示すものである。武功を上げておきながら、論功公賞がないというのは、裏切りに等しい行為であった。景勝は苦しい台所事情であったにせよ、重家に対し、誠意ある対応を取るべきであった。この後に見せる重家の凄まじいまでの意地と覚悟を見れば、礼を失していたとしか考えられない。


この重家の不満に、目聡く目を付けたのが織田信長であった。信長は上杉家の討滅を目論んでおり、重家をそそのかして、その背後を突かせようと考えたのである。この申し出は、重家にとっても渡りに船であった。これに加えて隣国、会津の戦国大名、蘆名盛隆も重家を支援する運びとなった。こうして、挙兵のお膳立ては整った。そして、天正9年(1581年)重家は、「たとえ死しても、決して景勝には屈さぬ」と叫んで、上杉家に反旗を翻す。挙兵した重家が直ちに取った行動は、水運の要衝、新潟津の奪取であった。この新潟は越後を流れる2つの大河、阿賀野川、信濃川の河口にあたり、河川と日本海の流通を一手に押さえる事が出来る戦略拠点だった。そして、重家は、この地に新潟城を築き、海上を通じて織田家から武器弾薬、兵糧の援助を受けた。これと並行して、阿賀野川経由で蘆名家からも武器弾薬、兵糧の援助を受けた。


重家は織田、蘆名の支援を受け、滅んだ景虎の残党も糾合して侮れない戦力となった。それでも新発田家は越後の一国人に過ぎず、その兵力が3千を越える事は無かったであろう。対する上杉景勝は、重家の反乱を抱えていたとは言え、越後の大部分と越中の三分の一ほどは支配していたので、8千人余の動員力はあったであろう。ただし、越中は今まさに織田家の侵攻を受けており、ここをまず支えねば、本拠の春日山城が危なかった。こうした景勝の苦境に付け入る形で、重家は着実に支配権を拡大していった。



天正10年(1582年)重家は、越後に迫る織田家部将達と同調し、景勝に対する攻勢を強めつつあった。進退窮まった景勝は、死を覚悟するに至る。しかし、そのような折に、「本能寺の変」が勃発したのである。これを受けて織田軍は、潮が引くように上杉領から撤退して行った。元々、上杉家の半分以下の戦力しか持たない重家は、息を吹き返した景勝によって、逆に包囲される立場に陥った。しかし、重家は決して膝を屈する事はなく、この後も景勝と、数年に渡って干戈を交え続ける事となる。重家は劣勢ながら、地の利を生かして幾度となく上杉方を撃退し、一時は景勝の首級を得るまで、後、僅かという所まで追い詰める事もあった。しかし、天下の情勢、越後の情勢は徐々に上杉方有利へと傾いていった。


天正14年(1586年)、新発田方の有力な支城、新潟城が陥落する。これによって海上補給路が断たれ、その衰勢は明らかとなってくる。その様子を見た、時の天下人、豊臣秀吉は、「重家が新発田城を明け渡して出頭し、再び景勝の配下に戻れば、本領相当の地を別に与える」と呼び掛けたが、重家はこの勧告に耳を貸さなかった。重家にとって、景勝に屈する事だけは何としても出来ない事であった。天正15年(1587年)8月、秀吉は再び降伏勧告を呼び掛けたが、重家は聞く耳を持たず、かえって上杉領へと乱入した。重家はすでに死を決しており、例え天下人の威令であっても、自らの誇りと意地を曲げるつもりはなかった。秀吉もここに到って重家討滅を決し、翌年春までには決着を付ける様、景勝に申し渡した。


天正15年(1587年)9月、景勝は天下人からの厳命を果たすべく、そして、越後の完全な統一を果たすべく、軍を発した。まず上杉軍は、蘆名家との連携を断ち切らんとして、会津に近い加治城と赤谷城を攻め落とした。これによって重家は孤立無援となった。同年10月24日には五十公野(いみじの)城も落城し、残るは重家の本拠、新発田城のみとなる。10月25日上杉軍1万人余が新発田城を取り囲み、7年もの長きにわたって繰り広げられた景勝、重家の因縁の対決にも終焉の時が訪れる。上杉軍は新発田城に総攻めをかけ、城内へと突入していった。覚悟を決めた重家は染月毛の名馬に跨り、700騎の手勢を率いて最後の突撃を敢行する。重家は大太刀を振って、散々に上杉方を切りまくった挙句、壮絶な討死を遂げた。その最後の奮戦振りは、敵であった上杉方も褒め称えるほどの働きであったと云う。 己の意地を貫き通した男の、見事な最後であった。


知られざる北越の剛将、新発田重家の事をもっと詳しく知りたい方は、下記のHP「埋もれた古城」を御覧になると良いでしょう。




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