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真田家の憂鬱

2009.10.08 - 戦国史 其の二
真田信之は、かの有名な真田信繁(幸村)の兄として知られている。そして、表裏比興の者と称された父、真田昌幸とは違い、温厚で誠実な人柄であったと伝えられている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、真田父子3人は敵味方に分かれた。昌幸、信繁は西軍へ、信之は東軍へ付き、これが3人の永遠の別離となった。


戦後、信之は自身が領する沼田2万7千石に加えて、昌幸の旧領、上田3万8千石と、3万石の加増を受けて合計9万5千石の大名となる。しかし、昌幸と信繁の死罪は濃厚であった。そこで信之は、恩賞と引き換えに、父と弟の命を救ってもらいたいと徳川家康、秀忠父子に懇願する。自らの命に代えてもとの必死の願いは、家康の心をも動かし、父と弟の命は助けられる事となった。この後、昌幸と信繁は九度山に蟄居となった。3人は手紙でお互いの消息を尋ねあったが、父子3人が再び集う事はなかった。慶長16年(1611年)、昌幸は65歳で没し、慶長20年(1615年)、信繁は大坂夏の陣で華々しく散った。享年49。残された信之は独り、大名への道を歩んで行く。


元和8年(1622年)、真田信之は、幕府の命によって上田9万5千石から松代13万5千石に転封される。所領は増やされたものの、馴染み深い上田の地を離れる事に、内心は複雑であった。そして、この時、幕府から分家を建てよとも命令されていた。やがて、この分家が真田家に問題を引き起こす事になる。信之は、父、昌幸や弟、信繁が徳川家に何度も煮え湯を飲ませていた事から、徳川幕府には大変、気を使っていた。おそらく、幕府も内心は真田家を快く思っていなかったであろう。信之はいらぬ嫌疑を受けぬよう、幕府から仰せつかる賦役をそつなくこなし、藩政においては倹約に努めながらも領内の発展に心を砕いた。


明暦3年(1657年)、信之は92歳で隠居するが、長男、信吉は早世していたため、次男の信牧に家督を譲った。ところが、万治元年(1658年)2月、信牧は父に先立って死去する。そのため、信牧の子、幸道が僅か2歳で家督を継いだ。しかし、これに沼田領を治めていた、信利(信澄とも)が異論を唱える。信利は信吉の子であった。そのため自分が真田家の長男筋であり、松代藩を相続する権利があると主張する。


それと、信利の母は、徳川譜代である酒井家の出身であったから、その縁から幕府の実力者、酒井忠清が背後に控えていた。そのため、家中では信利を推す声が優勢であった。一方、幸道に仕える老臣達はこれに反発し、信利が家督を継いだなら合戦も辞さぬと連判状を認める有様であった。この真田家中を二分する騒動に信之は心を痛め、一時は御家の滅亡も覚悟したと云う。


だが、老齢の信之が家中を主導し、最終的に幸道が家督を相続する事で決着した。しかし、この結果、信利は3万石の沼田藩として独立し、幸道は松代10万石となって真田家は分裂した。万治元年(1658年)10月17日、この御家騒動を収めた後、信之は安堵したのか、ほどなくして93歳で息を引き取った。当時としては異例の長寿であったが、信之の頭脳は最後まで明晰であったようだ。だが、この信之の死からほどない万治元年(1658年)12月、信利は、今度はその遺産の分配を求めてきた。


信之は生前、倹約に努め、その死の際、26万5千両もの遺金が残されていた。遺金の内、15万両は松代城に、11万5千両は信之の隠居地であった柴の館に残されていた。信利は老中、酒井忠清に訴え、莫大な遺金と諸道具の相続権を主張した。忠清は大目付を派遣して、真田本家に遺金の配分を迫った。この突然の要求に真田家は再び、大揺れとなった。この万治元年は真田家に取って厄年であった。2月には信牧が死去して御家騒動が勃発し、それを収めたと思えば分家が独立し、10月には信之が死去して、今度は遺産相続争いが勃発したのである。


この事態を受けて、本家の老臣達は結束して事に当たった。道理を説いて大目付を納得させ、遺金の内、松代城の15万両は守られた。そこで信利は、柴の館の遺金、11万5千両の取得を狙った。信利を後援する忠清は、この一件が破談となれば、老中の面目が潰れ、取り返しがつかなくなるであろうと、老臣達に警告した。老臣達は苦慮したが、最終的には柴の遺金、11万5千両を配分する事で話はまとまったようである。この騒動には幕府も介入してきて、まかり間違えば真田家の取り潰しにもなりかねない事態であったが、本家の老臣達は結束してこの危機を乗り切った。信之は良き家臣を残していたと言えよう。


この後も信利は、あくまで松代藩に対抗心を燃やし、検地を断行して、沼田藩は表高3万石であるのに14万5千石であると幕府に申告した。本家と同等の家格にならんとして、沼田城に優美な5層の天守閣を建て、さらに江戸の藩邸も豪奢なものに造り替えた。これらの付けは全て、領民へとまわされた。


天和元年(1681年)、沼田藩の領民は、重税と折からの飢饉によって窮乏し、餓死者が続出する事態となった。堪りかねた領民の中には幕府に直訴する者も現れた。伝承では、茂左衛門と云う百姓であったらしい。幕府はこれを受け、統治の不届きと賦役の遅滞を理由に沼田藩を取り潰しにした。信利は他藩預かりの身となり、貞享5年(1688年)1月、失意の内に没した。茂左衛門は本望を遂げた後、自首して磔の刑に処されたと云う。土地の人々は、茂左衛門を義民として讃えた。


一方の松代藩では、幸道の時代に幕府から集中的に賦役を課せられた事によって、信之が残した莫大な遺金も大半が消えてしまった。賦役の中には一件で藩の年収を上回るものもあって、財政は火の車となり、終いには幕府に借財を申し込む始末であった。幸道の養嗣子、信弘を経て、その子、信安の代になると、松代藩の財政は一段と窮乏し、とうとう大規模な百姓一揆を招くに至った。


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