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御館の乱と上杉景勝 前

2010.01.09 - 戦国史 其の二
上杉景勝(1555~1623)

越後の龍と称せられた名将、上杉謙信、その後継者となったのが上杉景勝である。 弘治元年(1555年)11月27日、景勝は、謙信の縁戚で上田長尾家の当主である、長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の姉、仙洞院である。謙信はこの甥を大変、可愛がり、永禄5年(1562年)、関東在陣中に、8才になった景勝の書の上達を褒めて、習字の手本を送り届けている。また、謙信は自らの手で記した手習い書、「片仮名イロハ・消息手本・伊呂波尽・上杉家中名字尽」なども景勝に与えた。


永禄7年(1564年)7月5日、景勝は父、長尾政景を亡くし、ほどなくして上杉謙信の養子になった。 政景の死は、野尻池遊宴中に関係者全員の死亡と云う異様な死亡事故で、政景の体には刀傷があったとも云われている。政景は謙信に次ぐ実力者で、過去に反旗を翻した事もある油断のならない人物であった為、謙信によって謀殺されたとも云われている。このような経緯はあったものの、謙信は景勝を可愛がり、自らの後継者となるよう大切に養育した。景勝自身もこの養父を深く尊敬し、その行動を模範とした。そして、謙信に対する崇敬の念は終生、変わる事はなかった。


元亀元年(1570年)北条氏康の実子、三郎が上杉家への人質として送られて来る。謙信は美男で聡明な三郎を愛したと云い、景勝の妹(姉とも)華渓院(法名)を娶らせて上杉景虎と名乗らせる。そして、自らの養子として、もう1人の有力な後継候補とした。


天正6年(1578年)3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、意識が戻らないまま、3月13日、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったので、景勝と景虎の2人の養子を後継候補としていたが、結局、正式な後継者を定めずに亡くなった。だが、生前の謙信には、景虎を関東管領に任命し、景勝には越後の当主を任せるという考えがあったと云われている。この説を取れば、謙信は景虎には名誉職を与えて遇するが、実質的な後継者は景勝と見なしていたのだろうか。


3月15日、謙信の突然の死に上杉家中は大いに動揺し、不穏な空気が漂う中、謙信の葬儀が執り行われた。そして、その葬儀が終わるや否や、景勝は自らの後継者としての正当性を宣伝するため、機先を制して春日山城の実城(本丸)を占拠する。そして、実城の倉庫を押さえ、謙信が在世中に蓄えた金3万両(2714枚5両6分)を手中に収めた。この金が、後に景勝を大いに助ける事になる。


景勝は謙信の死後、2週間後に関東の武将、大田資正に宛てて次のような手紙を送った。

「まだ御発信いたした事はありませんが、一筆啓述いたします。去る十三日、謙信が思いがけない病気を得、持ち直すことができずに死去いたしました。その恐怖はいかばかりのものかお察し下されたい。それで謙信の遺言によって、この景勝が春日山の本城に移るべきであるとの事、いろいろと考慮いたしましたが、周囲の者がそれぞれ、当然そうあるべきだと言うので、その意見に従った次第です。けれども、すべての事の処置は、謙信在世中と少しも変わりありませんから、どうか安心していただきたい。さてまた、そちら関東の事も、謙信が申し遺したことでもありますし、そのうえ、鬱憤を晴らすための戦いでもありますから、若輩ながらこの景勝も、なおもって心を入れて取り組む所存ですので、謙信同様に御懇意にして下されば喜ばしい限りです。なおいくえにも、重ねて申し上げることにいたしましょう。

追伸、謙信遺物の細刀一振をお届けします。形見にして下さい。御自愛専一に願います。」


宛名の大田資正と上杉家とは古くから親交があり、謙信の小田原城攻めにも参加している武将である。 この手紙に景勝が書いている恐怖とは、謙信の跡目を継ぐ重責、景虎との跡目争い、対外勢力との戦い、等これから様々な困難が自身の身に押し寄せる事が恐怖だと云っているのではないかとされている。 そして、景勝は謙信の遺言により、自分が上杉家の跡目を継いだのだと、その正統性を強調している。しかし、謙信は倒れた後、意識不明のまま死去したとされ、遺言を残せたかどうかは疑問である。御館の乱の初期、景勝の手際の良さが目立つ。謙信が倒れた時から、既に策を練っていたのかもしれない。この時は、直江信網が重要な参謀役となっていたと思われ、まだ若輩の樋口与六(後の直江兼続)はその助手として暗躍していたのだろう。



この後、春日山城内では景勝、景虎とも2ヶ月間に渡って、自分こそが謙信の正当な後継者なのだと、他国勢力や国内勢力に支持を訴える書状を送り続けた。来るべき激突に備え、1人でも多くの味方を得ようと、両者は必死の宣伝戦を展開する。真偽の程は定かではないが、この間、二ノ郭に立て篭もった景虎方に対し、景勝方は本丸から見下ろす形で、弓・鉄砲を撃ちかけ、城内で両派の戦闘が繰り広げられたとの話もある。5月5日、景勝と景虎の対立は、ついに本格的な武力衝突に発展し、春日山と御館の中間にある大場の地で合戦となった。この戦いは景勝方勝利となって、景虎方の上杉景信が討ち取られた。上杉景信は古志長尾家の当主であり、謙信政権でも重きをなしていた人物であったので、景虎にとっては大きな損失であった。しかし、情勢は、まだ景虎方優勢であった。



5月13日、春日山城内では、景虎が不利な状況に陥ったようで、妻子を引き連れ、春日山城とは目と鼻の先にある御館に移った。御館とは、前関東管領、上杉憲政のための居宅として謙信が府内に築かせた館であり、謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館を中心に景勝と景虎の戦いが繰り広げられた事から、この争乱は、「御館の乱」と呼ばれる事になる。 景虎は御館に入った後、自軍の勢力を糾合して、攻勢に移った。


5月16日、景虎方の部将、東条佐渡守が春日山城下に火を放って3千軒を焼き払った。翌17日、景虎方は一挙に春日山城を攻め落とさんと押し寄せ、6千余の兵をもって春日山城の千貫門辺りまで攻め入ったが、景勝方も必死の防戦を展開し、景虎方の部将、桃井義考以下数百人を討ち取って、これを撃退した。5月21日、景虎方は再び兵を出し、両者は荒川館と愛宕で交戦する。この攻撃も景勝方によって撃退されるが、今だ景虎方優勢の状況であった。戦いはむしろ、これから本格的なものとなって、越後国内のみならず、周辺諸国まで巻き込んだ一大争乱に発展してゆく。


6月、甲斐の武田勝頼が、小田原北条家の要請を受けて、2万余の大軍を率いて越後に進軍する。勝頼は、景虎を援助するよう要請されていたのだが、景勝は武田家と交渉して、黄金1万両の譲渡と東上野の割譲を申し出て、景勝寄りの中立に立たせる事に成功した。9月、景虎からの援軍要請を受けて、北条家が本腰を上げて動き出した。北条軍1万5千余が北上して三国峠を越え、越後国境の城、樺沢城、荒戸城を破って、景勝ら上田衆の本拠、坂戸城を取り囲んだのである。これで勢いを増した景虎方は、大場口に攻め寄せたが、景勝方の新発田重家が奮戦してこれを討ち破った。一方、坂戸城の方も、天険を生かして北条軍の攻撃を凌ぎ切った。


10月、越後に冬が訪れると、北条軍は攻め取った城に守備隊を残して撤退していった。しかし、春になれば、北条軍が再び攻め寄せてくる事は明白である。景勝には、それまでに御館を攻め落とす必要があった。景勝は家臣に宛てた書状で、「雪が消えて、小田原の援軍が来る前に決着をつける」とその決意の程を述べている。10月24日、景勝は自ら御館に攻勢をかけ、迎え打ってきた景虎方を打ち破る。この日、景虎方の有力部将、本庄秀綱は居城、栃尾城に逃げ込んだので、これで景虎が頼れる部将は、北条景広と堀江宗親ぐらいしかいなくなった。景勝はさらに攻勢を強め、琵琶島城を包囲する。この琵琶島城は、海上から御館への兵糧輸送を担う、重要拠点であった。


天正7年(1579年)1月、景勝の攻勢は真冬でも継続され、御館と北条家との連絡線に当たる高津城を攻め落とした。2月初旬、景虎方の勇将、北条景広が討死した。この報を受け、景勝はすかさず御館を攻め立てて、館の外構えを焼き払う。景虎を取り巻く情勢は、急速に悪化していった。景虎は北越の有力部将、本庄繁長に宛てて、「十日も援軍が来なければ、滅亡してしまう」と援軍を哀願したが、繁長はすでに景虎を見限っていたので、何の意味も無かった。景勝の攻勢は続き、樺沢城、荒戸城を奪還し、北条家からの支援の道を完全に断つ事に成功した。


3月、景勝方は御館近辺に陣取って、大きな圧力を加えた。敗色濃い景虎に見切りをつけたのか、御館から堀江宗親が出奔し、鮫ヶ尾城に引き払ってしまう。御館は全ての糧道を断たれ、有力な部将も皆、戦死するか出奔してしまった。景虎は、完全に孤立無縁となる。その様子を見た前関東管領、上杉憲政は和平調停をしようと、景虎の嫡子、9歳になる道満丸を連れて、景勝の下へと向かった。しかし、その途上、景勝方の武士によって2人とも殺害されてしまう。これによって和平の道も閉ざされ、景虎には打つ手がなくなった。


3月17日、御館の落城は避けられないと見た景虎は、関東で再起を図ろうと館を脱出した。しかし、この時、景虎の奥方であり、景勝の妹(姉とも)でもある華渓院は御館に残った。彼女は兄に降る事を良しとせず、夫に殉ずる覚悟を決めていた。そして、夫に関東に落ち延びるよう勧めてから、側仕えの者達と共に自害して果てたと云う。景虎に従う侍衆も自らの家に火を放ち、妻子を焼殺あるいは斬殺して、御館を落ちていったと伝わる。 戦国の哀しい一面であった。


3月24日、景虎は関東に落ち延びて行く途上、鮫ヶ尾城に立ち寄った。しかし、ここで堀江宗親に裏切られ、景虎は無念の自害に追いやられた。享年26であった。しかし、戦いはまだ終わっていなかった。越後にはまだ、景勝の支配を拒否する景虎方の勢力が残っていた。
10月20日、武田勝頼の妹が、景勝に嫁いで来る。これで、景勝と武田家との絆はさらに深まった。天正8年(1580年)4月、本庄秀網の栃尾城を落とし、秀綱を会津に追いやった。7月、神余親網の三条城を落とし、これを討ち取った。翌天正9年(1581年)2月、北条輔広の北条城を攻略する。これにて、謙信の死後、足掛け3年に渡って繰り広げられた戦乱はようやく収束した。


昭和39~40年に御館を発掘調査した際、くし、かんざしの類が混じって出土した。それは、かつてこの館で女性達が優雅に暮らし、そして、悲劇的な結末を迎えたという事を物語っていた。また、種子島の銃弾、銭貨、武具、馬具、刀剣の破片、大陸渡来の白磁、青磁等の破片などが出土した事から、ここで激しい戦闘があった事と、ここに住んでいた前関東管領、上杉憲政の優雅な生活ぶりが伺えたそうである。 また、景虎が自害して果てた鮫ヶ尾城からも、炭化したおにぎりが出土している。三の丸から出土した焼けた米粒の塊は、年代測定の結果、御館の乱が起きた当時のおにぎりであった事が判明する。
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