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御館の乱と上杉景勝 後

2010.01.09 - 戦国史 其の二
御館の乱の勝利によって、景勝は全ての反対派を討ち滅ぼし、越後を統一したかに見えた。しかし、長く打ち続いた戦乱の為、国内は荒れ果て、それによって、かつて精強を謳われた上杉の軍事力も衰微していた。戦後、景勝は、滅亡した景虎派から多くの土地を得たが、その多くを与党である上田衆に支配させた。これは自らの権力基盤を強化するための方策であったが、乱で活躍した外様の国人らはこの措置に不満を抱いた。


天正9年(1581年)6月、恩賞問題のもつれから、新発田重家が謀反を起こす。重家は、織田信長の援助を受けて頑強に抵抗し、長く苦しい戦いが始まった。翌天正10年(1582年)5月、景勝は強大な織田家とそれに通じる諸勢力によって包囲され、存亡の危機に立った。5月1日、景勝は常陸の戦国武将、佐竹義重宛てに送った手紙の中で、死を覚悟している旨を述べている。景勝は織田家に対し最後まで戦い抜く決意であった。だが、同年6月2日、本能寺の変が起こった事により、景勝は奇跡的に滅亡の危機を脱する。景勝はこの時の混乱に乗じて北信濃に出兵し、川中島4群の平定に成功した。


その後の景勝の 生涯を簡潔にまとめる。

天正15年(1587年)10月25日、7年にも渡る激闘の末、新発田重家の反乱を鎮定し、ようやく越後の完全統一を成し遂げる。しかし、御館の乱から始まる一連の内戦の影響で、越後の民は家屋や田畑を焼かれ、それに加えて絶え間ない戦費、軍役、兵糧の供出によって民力は疲弊していた。だが、全ての反対勢力を倒した事で、景勝の権力は大いに強化され、支配はようやく安定する。この越後の完全な統一は、義父、謙信にも成しえなかった事であった。


天正16年(1588年)5月8日、豊臣秀吉に謁し、秀吉の九州平定を祝し、重家討伐を報じる。5月26日、景勝は従三位、参議に叙任さる。


天正17年(1589年)6月、佐渡の本間高統、高季を討ち、佐渡を領国とする。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原討伐に参陣する。8月1日、秀吉から出羽庄内3群の検地を命ぜられる。10月23日、検地に反対する一揆を討ち、出羽庄内3群を領国に加え、この時点で91万石の領土を得たとされている。しかし、太閤検地の石高で見たなら、越後39万石、信濃川中島4群14~18万石、佐渡3群1万7千石、出羽庄内3群14万石、合わせて70万石余となる。


文禄元年(1592年)3月1日、秀吉による朝鮮出兵に参陣するため、兵5千を率い、春日山を出立。6月17日、釜山に上陸する。


文禄2年(1593年)9月8日、名護屋城に凱旋した。この間1年3ヶ月の期間、朝鮮の地にあった。


慶長3年(1598年)1月10日、伏見城にて、秀吉から会津120万石へ移封を命ぜられる。8月18日、豊臣秀吉死去。


慶長5年(1600年)4月13日、徳川家康より、上洛を申し渡す詰問の使者が訪れるが、景勝、兼続はこれを撥ねつける。5月3日、家康はこれをもって会津討伐の断を下す。景勝は兼続に命じ、2万7千の兵をもって最上領に侵攻させるも10月1日、関ヶ原に於いて西軍敗れるとの報を受け、兼続は撤退する。


慶長6年(1601年)8月8日、景勝、兼続は京の伏見城まで赴き、家康と謁見して、謝罪する。8月16日、会津90万石の削封を言い渡され、米沢30万石となる


慶長19年(1614年)10月、兵5千を率いて、大坂冬の陣に参陣する。11月26日、今福・鴫野に於いて豊臣方1万2千余と戦い、これを撃退する。


元和5年(1619年)12月19日、景勝を側で支え続けてきた名宰相、直江兼続が死去する。享年60。


元和9年(1623年)3月20日、景勝は病床に臥し、自らの葬儀を簡潔に済ませるように遺言すると、69年の波乱の生涯を閉じた。


景勝は養父、謙信を尊敬し、その影響を強く受けていた。景勝は晩年、病床にあった時、かつて謙信が名乗っていた宗心と云う法名を名乗っている。景勝は生涯に渡って、謙信を理想の武将として追い求めていたと云えよう。また、謙信の姉で、自らの母である、仙洞院も深く慕っていた。女性関係は淡白であり、妻は正室菊姫(武田信玄の娘)と側室四辻氏(四辻大納言公遠の娘)の2人のみで、もうけた子供も四辻氏との間で生まれた、定勝1人だけであった。


景勝は、御館の乱、織田家による包囲、新発田重家の謀反、関ヶ原の戦い、など幾多の存亡の危機を乗り越え、最終的には米沢30万石に減封されながらも、上杉の家名を後々まで存続させる事に成功した。幾多の困難にも、逃れる事なく立ち向かっていった景勝、その額には常に青筋が浮き立ち、家臣達の前で決して笑う事は無かったと伝わる。寡黙にして剛毅、果断な人柄であり、上杉謙信の跡目を継ぐに、この人こそふさわしい人物はいなかったであろう。 あの有名な傾奇者、前田利益(慶次)も、この景勝の人柄に惚れ込んだと云われている。


 
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