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長篠合戦後の武田勝頼

2010.02.28 - 戦国史 其の二

天正3年(1575年)5月21日、遠江国、設楽原(したらがはら)の地で、武田軍1万5千人余と織田・徳川連合軍3万8千人余が激突する(武田軍1万余、織田・徳川軍2万人余であったとも)。史上名高い、この長篠の戦いで武田方は数千人余の討死を出し、さらに武田家を支えてきた名将、多数を失って惨敗した。この戦いの結果、武田家の威信は大いに失墜したが、逆に織田信長は著しく威信を高めて、自らの覇権確立を確信するに至った。更に、織田、徳川軍はこの勝利に乗じて戦果を拡大すべく、美濃岩村城や三河、遠江の武田方諸城を囲んだ。これらの諸城が落とされれば、連鎖的に武田領国が崩壊しかねない状況であった。



この領国の一大危機に対し、勝頼はまず、軍を立て直す事から始めねばならなかった。減少した戦闘員を急遽、補充すべく、戦死した武士の年少の子息や、僧侶、町人まで取り立てて、遮二無二に軍の再建に臨んだ。そして、3ヶ月後には何とか1万3千の軍を編成し、徳川軍に包囲されていた遠江小出城の後詰めへと向かった。 同年9月7日、武田の援軍が小出城に現れると、徳川方はこれほどの短期間で武田軍が立て直されるとは思っていなかったから、驚いて撤退していった。徳川方は勝頼の手腕を手放しで賞賛したが、武田軍の中には多くの百姓人夫が混じって、人数合わせをしているという点は見抜いていた。こうして勝頼は、小出城の後詰めには成功したが、織田の大軍に囲まれている美濃岩村城の方は、如何ともし難く、後回しにした。同年11月、勝頼は甲斐、信濃に再び動員をかけて、岩村城の後詰めに向かった。武田軍は夜討ちを仕掛けて、包囲網を討ち破らんとしたが、織田方の激しい反撃を受けて撃退され、救出は絶望的となった。



天正3年(1575年)11月21日、粘っていた岩村城もついに力尽き、織田軍によって、城兵は1人余さず皆殺しとなった。この凶報は、武田領国を震撼させる。 同年12月16日、勝頼はかつてない危機感を覚えて、領国各地より身分を問わず、15歳以上60歳以下の男子を20日間の期限付きで、総動員するよう布告する。それと平行して、勝頼は武田軍を近代化すべく、軍政改革を行う。まず信玄以来の軍法を改めて新たな軍法を制定し、かつ装備を改善するため、長柄槍を減らし、騎馬武者の増員と鉄砲装備の拡充を目指した。 こうした努力の結果、武田軍は兵力の回復には成功したものの、その反面、軍務に適さない者を大量に動員したため、以前と比べて質的には見劣りする軍となった。 また、連年の出兵による領内の疲弊に加え、武田の財政を支えてきた金山収入の減少もあって、装備の改善もままならなかったと思われる。



長篠の戦いでは、武田家の領国支配を分担し、意思決定にも加わっていた宿老達のほとんどが戦死していた。これら有能な人材を多数、失った事が武田家にとって最も大きな打撃であった。勝頼は、必然的に新たな人材の登用を迫られる。駿河・遠江方面は、山県昌景が駿河江尻城代としてこの地域を統括していたが、戦死後には穴山信君に代わった。この江尻城は、長篠合戦後、攻勢を強める徳川家に対応するための重要拠点だった。 西上野は、内藤昌秀(昌豊)が箕輪城代として統括していたが、戦死後しばらくは、城主は置かれず、天正6年(1578年)以降から、真田昌幸がこの地域を統括するようになる。そして、勝頼の側近として重く用いられるようになったのが、武田信豊、跡部勝資、長坂光堅らだった。特に信豊と勝資は、武田家の意思決定に深く関与する事になる。


天正5年(1577年)1月22日、織田、徳川家による軍事的圧迫は引き続いていた事から、勝頼は背後を固める目的で、関東の北条氏政の妹を娶った。この時、勝頼32歳、北条夫人14歳であった。典型的な政略結婚であったが、そのような事に関係なく、2人は深く愛し合ったようである。この婚姻によって両家の絆は深まったかに見えた。しかし、両家の蜜月は束の間であった。天正6年(1578年)3月、越後の雄、上杉謙信が死去し、その跡目を巡って2人の養嗣子、景勝、景虎による後継争い(御館の乱)が勃発すると、武田家と北条家は思惑が行き違って、溝を深めていく事になるのである。


北条氏政はこの機に乗じて、越後を北条家の影響下に置こうと考え、自身の弟である景虎の支援を開始する。しかし、北条家の主力は関東で佐竹氏らと対陣中で、すぐには動けなかったので、勝頼に軍事支援を仰いだ。勝頼はこの要請を受諾して、越後への進軍を開始し、その過程で信濃飯山城、越後越知城、越後不動山城、越後赤沢城を手に入れる(これらは乱終結後、正式に武田家に割譲される)。勝頼は、春日山城に達すると、軍事圧力を加えながら、景勝と景虎の双方に、和睦するよう呼びかけた。本来なら、ここで景虎を全力支援すべきであったのだが、勝頼は、景虎が勝利して、北条家の勢力が越後にまで伸びる事は避けたかった模様である。


それに、出兵の間にも攻勢を強める徳川家に、早急に対応せねばならない事情もあった。そして、景勝と景虎いずれも支援せず、両者が和睦するよう努力を傾けた。勝頼としては、武田・北条・上杉による三和が望ましかったようだ。 同年8月、勝頼は苦労して、景勝と景虎との和睦を取りまとめたが、徳川軍、駿河侵入の報を受けて、和睦継続を見守る間も無く、撤兵せざるを得なかった。そして、勝頼の撤兵後、和睦は脆くも崩れ去り、戦は再開された。そもそも両者は、越後で唯一の統治者たらんとして争っているのであって、話し合いで収まる訳などなかった。


結局、勝頼は、景虎になんらの支援も与えなかったので、北条氏政は不信感を抱きつつあった。それに、勝頼の部将、真田昌幸が、景虎方の上野沼田城攻撃の姿勢を見せたり(これは昌幸の独断で、北条家の抗議と、勝頼からの叱責を受けて取りやめた)、景勝が、しきりに勝頼の援軍到来を宣伝したので、北条方の不信感は増幅されていった。 天正7年(1579年)1月、武田・北条の関係は軋みながらも、まだ同盟は維持されており、年初の挨拶が交わされた。だが、同年3月24日、北条方の景虎が敗死し、御館の乱が景勝の勝利に終わると、北条家の態度は硬化する。


この御館の乱の間、勝頼が、景勝や景虎に直接的な軍事支援を行った事は一度もなかったが、乱の半ば以降からは、明らかに景勝寄りの姿勢を見せていた。氏政はこれに対して、景虎を支援しなかったのは約定違反であるとして怒り、武田家との亀裂は決定的なものとなる。そして、同年9月、両者は手切れして、戦争状態に入った。敵となった北条家は、織田家と結んで、武田を挟撃せんとした。「信長公記」の天正7年9月の記事によれば、北条家は、織田家に鷹を進上して音信を図ったとある。続いて、年10月の記事によれば、北条家は、織田家と好(よしみ)を通じて、武田攻撃のため、出陣したとある。


武田家にとって最大の味方であった北条家は、いまや直面する最大の脅威となった。天正7年(1579年)10月20日、勝頼は景勝との関係を深める必要に迫られ、妹を嫁がせて、上杉家と軍事同盟を結ぶ。さらに常陸の佐竹義重とも同盟を結んで、北条家を東西から挟撃せんとした。一方の北条家も、織田家、徳川家と同盟を結んで武田家を挟撃せんとした。 そして、同年10月25日には、徳川家と示し合わせて、数万の大軍をもって伊豆三島に陣取り、駿河侵攻を窺った。これに対応するため、勝頼も駿河に出陣して北条軍と対峙する。それから勝頼は徳川軍に向かい、軍事圧力を加えて追い返した。この対陣は、同年12月9日、勝頼が甲斐に帰還するまで続いた。


勝頼は東の北条家に全力を注ぐため、西の大敵、織田家との和解を試みる。織田家と武田家との間は、天正5年(1575年)に岩村城が落城した後からは、大きな戦闘は起こっていなかった。そこで、天正7年末から、佐竹義重の仲介で和解交渉が開始される。条件の隔たりから和解は難航するが、勝頼はこの後も粘り強く交渉を続けた。武田家はただでさえ、織田、徳川家に劣勢であったのに、ここで北条家まで敵に回したのは致命的であった。武田家は、西、南、東を戦国屈指の強豪大名によって囲まれたのである。北に唯一、味方として上杉家が存在しているものの、内乱の影響で弱体化しており、援軍は期待出来そうに無かった。北条家とは全面戦争に入ったため、武田家もこちらに全力を投入せねばならなかったが、その隙に、織田家に攻め入られれば最早、どうしようも無かった。


天正8年(1580年)を迎えた時点で、織田家の軍事力は、武田家の遥か上を行っており、これに自力で対抗するのは最早、不可能となっていた。それにこの頃から、織田家臣や地方大名も、信長の事を上様と尊称しており、戦国大名の枠を超えた、より上位の権力者であると認識していた。なので勝頼は、織田家への服属も視野に入れて交渉していたと思われる。それは、後の江戸幕府と外様大名との関係の様に、信長の覇権を認める一方、甲信の地に地方大名として存続する方向であったろう。しかし、信長は、武田家に激しい敵意を抱いていたので、交渉は難航を極めた。勝頼としては、可能な限り現状を維持しての服属を模索しただろうが、苛烈な性格の持ち主である信長は、せいぜい甲斐一国の安堵しか認めなかったろう。この条件では、さすがに勝頼も承服しかねただろう。



勝頼は、服属を視野に置いた和解交渉を進める一方、北条家を討ち滅ぼし、関東を併呑する事も考えていたと思われる。北条領を編入する事に成功したなら、武田家は250万石を超える一大勢力となって、織田家と言えども容易には手が出せなくなる。そうなれば、和解交渉も有利に運んでいただろう。交渉ごとは、古今東西、力の大きい方の言い分がまかり通る。力無き者が、交渉を有利に進めんとすれば、相手との力の差を埋める他は無い。それに何より、関東を制すれば、徳川家を圧倒し、織田家への自力の対抗も見えて来る。勝頼は、織田家との和解交渉を継続しつつも、上野国への大攻勢を開始する。上野国の内、西部は武田家が領有していたが、東部は上杉家と北条家の領有する所であった。だが、御館の乱後、上杉家は東上野から手を引いたので、武田、北条家はこの地を巡って激しい争奪戦を繰り広げる事となる。


天正8年(1580年)、武田家と佐竹家は、共同して上野へ出兵した。勝頼は軍事圧力を加えて、東上野の諸領主を次々に服属させて行き、上野での戦いは武田家優勢で進んだ。しかし、遠江、駿河方面では、武田家が劣勢に立たされており、同年3月からは徳川軍による遠江、高天神城攻撃が始まる。高天神城の将兵達は、勝頼の来援を期待して篭城戦に入った。だが、勝頼は西は守って、東に攻勢をかける方針で、主力を上野や伊豆に振り向ける事はあっても、高天神城の援軍に駆け付ける事は最後までなかった。徳川家に主力を振り向ければ、必然的に織田家も援軍を出して来るだろう。そうして再び、織田家と武田家が激突する事態になれば、最早、和解交渉など不可能となる。また、衝突を切っ掛けに、織田家の大攻勢が始まるかもしれない。北条家に全力を傾けていた勝頼にとって、それだけは避けねばならない事態だった。勝頼は、織田家との和解が成立するまで、高天神城が持ちこたえてくれる事を望んだ。


尚、同年3月、武田を取り巻く情勢が大きく変わる、2つの出来事が起こっている。1つは、北条家が織田家傘下の大名となった事である。信長公記によれば、北条家は、織田家に進物を送り届けて、関八州を上げて織田の分国となりたいと口上し、縁組も要請したとある。北条氏政は、上野での武田家の攻勢を深刻な脅威と捉えて、弟の氏邦に、「このままでは当方滅亡」とまで打ち明けていた。この危機を乗り切るには、織田家の関係を深めて、支援を仰ぐ必要があった。そして、今回の織田家への申し出をもって、北条家は、その傘下の大名とみなされる形となった。この北条家を攻撃している武田家は、当然、討伐の対象と見なされる。もう一つは、この3月をもって、石山本願寺と織田家との間で講和が成立し、同年8月には、石山の地が明け渡された事である。織田家はこれまで、本願寺包囲に3~4万人余の大軍を貼り付けていたが、任務が解消された事で手隙となった。この軍事力がどこに向かうかは、信長次第であった。 武田を取り巻く情勢は悪化の一途を辿っていたが、北条家と全力で戦っていた勝頼には如何ともし難かった。


それでも、上野での戦いは武田優勢で進んでおり、その原動力となっていたのが、真田昌幸である。昌幸は北条方の城を調略をもって次々に落として行き、天正8年(1580年)秋には、北条方最大の拠点、沼田城をも落としている。そして、同年8月からは、仕上げとして勝頼自らが出陣して、残る北条方の諸城を攻め取った。 これによって上野一国は、由良国繁領を除いて、武田家がほぼ領有する所となった。太閤検地によれば、上野国は49,6万石で12,400人が動員可能な大国である。 勝頼は更なる版図拡大を狙い、佐竹、里見などの反北条勢力を結集させて、武蔵国への一大攻勢を企図した。太閤検地によれば、武蔵国は66,7万石あって北条家の力の源泉となっている。ここを奪えば、北条家の命脈は断ったも同然であるが、武田家に残された時間は少なかった。


関東での武田優勢の一方で、徳川軍によって包囲され、孤立無援状態であった高天神城の篭城は限界に達していた。天正9年(1581年)初旬、城内では餓死者が続出する事態となり、同年1月20日頃、主将の岡部元信は徳川方に開城を申し出る。家康は、信長に使者を送ってその指示を仰いだ。すると信長は、城方の申し出は却下する方が良いと、意見した。信長は天下への見せしめとするため、高天神城を血祭りに上げる事を望んでいた。勝頼が味方の城を見殺しにしたと宣伝して、その権威を失墜させ、臣民の動揺を誘おうと考えていたのである。家康は、この意見に従った。そして、同年3月22日、徳川軍の攻撃により、岡部元信以下700人余が討死して、高天神城は落城した。 信長の思惑通り、世の人々は、勝頼は城を見殺しにして天下の面目を失ったと噂した。こうして、武田の軍事的劣勢は、内外に広く知れ渡る事となった。


この頃、勝頼は武田家の捕虜となっていた信長の子息、信房を返還している。勝頼は信房を返還して、織田家との和平の切っ掛けを掴もうとしていた。しかし、これに対して信長は、使者に会おうともせず、目下宛ての尊大な書式で信房の返還に礼を述べただけであったと云う。 上杉家は、武田家と織田家が和睦したとの風聞を聞き付けて、それを問い質す書状を送っている。 それに対して、勝頼の側近、跡部勝資が弁明しているので、それを略して載せたい。

「織田家との和睦は、佐竹義重に仲介を依頼しているが、まったく進展していない。交渉が進展すれば、報告すると何度も約束しているが、和睦がまとまらないのだから報告する内容が無い。信長の子、信房を返還したのは、佐竹義重の強い要望によるもので、交渉の進展とは無関係である。もし和平が成立したなら、上杉家も含めた三和の形を取りたいと言う約束は、織田家には伝えてある」

これ以降も勝頼は、信長との和解交渉を続けたが、暖簾に腕押しであった。畿内に覇権を確立しつつあった信長にとって、武田家など最早、脅威でもなんでもなく、いつ滅ぼすかの問題でしかなかった。そして、信長は、天正9年(1581年)より、武田攻めの為の兵糧備蓄を開始する。武田家が存続するには、甲斐以外の国を全て差し出して、織田家へ従属を申し出る他、無かったろう。もっとも、信長は武田信玄、勝頼父子を激しく憎んでいたので、この条件すら許さなかったかもしれない。だが、勝頼にしても、石高が5分の1以下になる条件は、受け入れ難かったろう。


この時期、武田家は、北条家とは互角に渡り合っていたが、徳川家には劣勢で、その背後に位置する織田家の強大な圧力に晒されていた。上杉、佐竹と言った味方はいるものの、織田家相手には戦力不足で、総体的に見れば、武田の不利は明らかだった。 天正9年(1581年)の時点で、織田家は生産力豊かな畿内各国を全て支配していたので、石高は600万石余、動員力は15万人余であった。更に、徳川家や北条家の軍事力も、これに加わる。それに対して、武田家は甲斐22,7万石、信濃40,8万石、駿河15万石、上野49,6万石、越後の一部(3万石余?)を支配下に治めて石高は130万石余、動員力は3万2千人といったところであった。戦国の世の人々は、力関係の変化に敏感である。相手の力を見誤れば、自身が滅亡する事になる。なので常日頃から嗅覚を研ぎ澄ませ、力ある者の下に付こうと心掛けていた。世の人々は、武田の劣勢を見抜いていたであろう。そう感じていたのは武田家臣とて同じであり、内心は不安を隠せなかったに違いない。


天正9年(1581年)、勝頼は織田、徳川の攻勢に備えるべく、新たなる居城、新府城の築城を開始する。ただ、この新府城は防御のためだけに作られた城ではない。新府城は広大な武田領国の中心に位置しており、防御も含め、戦略、統治上の広い観点に立っての築城であった。 しかしながら、城の築城には多大な費用、労力が必要であり、それが大名の居城ともなれば尚更である。その負担は当然、家臣や領民に課せられる事になる。これまでも、連年の出兵によって家臣や領民は疲弊していた事から、勝頼に対する不満、不信は増幅されていった。天正9年(1581年)12月、信長は、翌年春に武田家を総攻撃すると家臣に通告する。そして、攻撃準備と平行して、武田家臣に対する調略を開始した。織田家との和解交渉も、あるいは関東を併呑した上で織田、徳川に反抗をとの戦略も、時間切れとなった。12月後半、織田家侵攻が噂される中、勝頼は新府城を突貫工事で完成させて、この城に移る。高天神城の落城から、武田家臣の間に動揺が広がり始め、織田家による侵攻の噂がそれに輪をかけた。武田の滅亡は間近に迫っていた。




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重家 
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