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三国志 「淮南の三叛」 前

2010.03.20 - 三国志・中国史

三国時代後半、240年代、魏王朝では、稀代の策士、司馬懿が皇族である曹一族に代わって、国家の実権を握りつつあった。司馬懿は東西奔走して蜀や呉の北伐を防いできた、魏の大功臣である。しかし、司馬懿は忠臣を装いながらも、内心には大いなる野心を秘めていた。司馬懿は功績を打ち立てる度に昇進を重ね、ついには曹一族と並び立つ位置にまで立った。249年、司馬懿は、最大の政敵であった曹爽を葬り去って、魏の軍権と政権の二つを握った。これによって、魏王朝内で司馬懿に対抗できる者は存在しなくなり、魏の群臣は皆、司馬一族の権勢に慄き、跪いた。だが、司馬一族の専横を快く思わない気骨ある人物も、幾人かいた。都督揚州諸軍事(呉との最前線、淮南の司令官)であった王凌(おうりょう)もその一人で、司馬一族を取り除く決意を固める。


251年、王凌は、若年の魏帝、曹芳に代わって、年長の曹彪(そうひょう)を立てて司馬懿を討とうと考えた。しかし、同士を募っている過程で、計画は司馬懿に漏れ伝わってしまう。これに対する司馬懿の対処は素早く、王凌に手紙を送って罪を許すと油断させておいてから、自ら討伐軍を率いて、電光石火の速さで淮南に向かった。王凌は突如として現れた司馬懿の大軍に驚愕し、敗北を悟った。王凌は降伏し、司馬懿の陣を訪れたが、自らを助ける気がないと知ると、毒を煽って自害した。王凌の一族は皆殺しとなり、計画に加わった曹彪も自害を強要された。同251年、司馬懿は70代の老齢とは思えぬ頭の冴えと、迅速な行動力をもって王凌を滅ぼしたが、さすがに無理が祟ったのか、その年の内に病没してしまう。司馬懿仲達、73歳。


司馬懿が死去しても、司馬一族の権勢は衰えを知らず、その跡を継いだ司馬師の代になると、その基盤は益々、強固なものとなっていった。254年、魏王朝内で名声を博していた、夏候玄(曹操と共にその覇業を支えてきた、夏候惇、夏候淵ら夏候一族の一人)は現状を憂いていた。この夏候玄を高く買っていた魏の官吏、李豊は、彼を大将軍に任じて司馬師を取り除こうと考えた。この計画には魏帝、曹芳も賛同して、同士が募られた。しかし、この企てもほどなくして司馬師の耳に入り、夏候玄、李豊ら一味の者は皆殺しとなった。同年、司馬師は、計画に加わっていた曹芳を廃し、代わって曹髦(そうぼう)を擁立する。司馬一族にとって、皇族である曹一族など最早、飾り物の人形に過ぎず、首のすげ替えも意のままであった。


255年、この皇帝廃立に憤慨した、鎮東将軍、都督揚州諸軍事(呉との最前線、淮南の司令官)毌丘倹(かんきゅうけん)と揚州刺史、文欽(ぶんきん)は淮南で共に兵を挙げた。この時、毌丘倹、文欽らは、隣接する都督豫州諸軍事の諸葛誕にも誘いをかけたが、諸葛誕は文欽を嫌っていたので、この申し出を峻拒した。反乱の報を受け、司馬師は自ら討伐に向かう事を決意する。この時、司馬師は目に出来た悪性の腫瘍を取り除いたばかりであったが、それを押しての出兵であった。司馬師は10数万の兵を率いて淮南に向かい、それに対して毌丘倹らは寿春城を拠点とし、5、6万余の兵力で立ち向かった。毌丘倹は出城に篭り、文欽は遊軍となって城外に出た。 楽嘉(らくか)の地で、司馬師率いる討伐軍と、文欽率いる遊撃軍は激突した。文欽の子、文鴦(ぶんおう)は18歳の若者ながら、その武勇は全軍一であり、突撃して司馬師の本営にまで迫った。司馬師はこれに驚き、切開した傷跡から片目が飛び出してしまったと云う。司馬師は激痛に耐えながらも指揮を執り、何とか文欽を撃ち破る。


この敗報を受け、毌丘倹は逃れようとしたが途中で討ち取られ、その一族も皆殺しとなった。文欽の方は追っ手を振り切り、息子2人と共に呉へと逃れた。こうして淮南の役は司馬師の勝利に終わり、司馬一族の基盤は一段と強化された。ほどなく、司馬師は49歳で病没してしまうが、その絶大な権勢は、そのまま弟の司馬昭へと引き継がれた。尚、 今回の戦いで大きな役割を果たしたのが、諸葛誕であった。彼は、諸葛亮孔明の族弟にあたり、若い頃は魏帝、曹叡に疎まれて不遇であったが、曹叡死後は、友人である夏候玄によって引き立てられ、要職を歴任していた。毌丘倹、文欽らが挙兵した際には、加担を要請されるも、これをきっぱりと断っている。そして、反乱軍が敗走するや、司馬師の命を受けて直ちに寿春城を制圧した。


その直後、呉はこの機に乗じて寿春城を制圧せんと、孫峻、留賛らを派遣したが、既に寿春城は諸葛誕によって固く守られていた。呉軍は、利なしと見て撤退に取り掛かったところ、諸葛誕はこれを追撃して打ち破り、敵将、留賛の首を取った。これらの功績により、諸葛誕は征東大将軍を拝命し、都督揚州諸軍事となって、この方面の総司令官となった。 諸葛誕は反乱軍鎮定に功を挙げ、新しい実力者、司馬昭の信頼を勝ち取ったかに見えた。しかしながら、諸葛誕は司馬一族に対する、不安や不信を拭い去る事が出来ず、内心は揺れ動いていた。親しい間柄であった夏候玄は司馬師によって殺されており、同じく都督揚州諸軍事となっていた王凌、毌丘倹らも司馬一族によって皆殺しとなっている。次は自分ではないか、そう思い定めた諸葛誕は、自らの基盤を固めるべく動き始める。


諸葛誕は私財を傾けて人心の把握に努め、近親者や揚州の侠客数千人を手厚くもてなして、命知らずの部下とした。256年冬、呉が寿春城に対する攻撃の動きを見せると、諸葛誕は上奏して10万人の増援と、淮水を望む地に築城する許可を求めた。だが、司馬昭はこの上奏を退ける。司馬昭は、諸葛誕の軍だけで呉軍に十分、対処可能であると見ていたし、諸葛誕が反心を抱き、淮南の地を固めるために上奏文を送ってきた事も見抜いていた。257年春、司馬昭は諸葛誕を司空(三公と呼ばれる高位)に任命し、朝廷への召還を命じる。諸葛誕はこの措置を、自分から兵権を取り上げた上で謀殺するものと察した。恐怖に駆られた諸葛誕は、ついに兵を挙げる事を決する。

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